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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
遷都バレンタインデー
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遷都バレンタインデー(2)

 

 紗久羅の部屋は今、お座敷と化している。いや、紗久羅の部屋に半透明のお座敷が重なっているといった方が正しいか。

 フローリングの床からまるで茸のように生えているのは、漆塗りの御膳。幻の床――畳が見えないのは、恐らく建物の高さが微妙に違う為のことだろう。床を傷つけることなく生える幻の御膳にはそれぞれ、金目の煮つけや刺身、きんぴらごぼう、牛すじの煮込みなどが並ぶ。見るからに美味そうだがその食べ物も、どの御膳にもあるお酒の匂いもしない。それを美味そうに飲み食いしているのは異形の者達で、げらげら笑いながらくっちゃべっている。艶っぽい女に酒を注がれにたにたしている一つ目の男、着物を脱ぎ上半身裸になって馬鹿踊りを始める緑色の肌と二本の角を持つ間抜け面の男、手拍子してそれを盛り上げる本来耳がある部分から手が生えている男は壁に半分体を埋めている。その真向いにいる者の体も半分が壁に刺さっていた。呆然としつつもよく見てみれば、紗久羅が座っているベッドに体の大部分が重なっている妖もおり、汁か何かをずずずっとすすっていた。皆、お膳と同じように床からにゅっと生えてきたように見える。こちらの部屋のそれと重なっている天井、等間隔で吊り下がっているのは橙色の火を孕む球体の灯り。

 現の世界に重なる幻は、儚くも鮮やか。遠くて近い、近くて遠い、不思議な響きの声にも、その景色にも『生』と『現』を感じる。紗久羅の目に映る謎のお座敷は単純に幻ではなく、確かにどこかに存在する現実の世界なのかもしれない。……などということは、今の紗久羅にとってはどうでもいいものだった。


「何なんだよ、これ! どうしてこんなことに、本当にこれは夢じゃねえのか!?」

 突如出現した世界を前に抱える頭の中は、ぐちゃぐちゃの滅茶苦茶だ。眠気は吹き飛び、同時に平和な日常も吹っ飛んだ。部屋の外はどうなっているのだ、と意を決し妖達やお膳にぶつからないように(特別そうする意味はないだろうが)気をつけながらもばっと駆け、乱暴にドアを開ければ想像通り座敷は続くよどこまでも、廊下さえお祭り騒ぎ馬鹿騒ぎ。真向いにある一夜の部屋、ドアを開ければ矢張りそこにも同じ光景が広がっておりどんちゃんちゃん。ここで働いているらしい女性達が料理を運んで来たり、片づけをしたりしている様も見え、休む間もなく忙しなく動いている。どこを見てもお膳、妖、料理……どこへあるやら世界の果て、少なくともこの家の中にはそれを示すものは無い。重なっている建物は井上家よりもずっと広いようだ。

 リビングには父がおり、テーブルに座り数時間前に紗久羅から貰ったチョコブラウニーを食べながらぼうっとTVを眺めていた。テーブルの真下にもお膳はあり、妖もいる。やたら図体のでかい男女で、座っていながら頭がテーブルを突き破っていて、晒し首の体。女は自分のお膳にあるえらく大きな魚のカマの煮つけを素手で掴むと、隣にいた男の口の前にやり艶やかな声で「はい、あ~ん」と言う。男は大きな口を開けるとそれをぱくり、一口で終了。


(あ~ん、の規模が違う!)

 そして今度は男の方が自身のお膳にのっている大根みたいな太さの煮豚を女にあ~ん、それを彼女は一口でぱくり、ああん美味しいとくねくねご機嫌笑顔。そして、いきなり愛しているようとお互い言って接吻。晒し首の接吻に重なるようにして置いてあるチョコブラウニーを父が手に取り、ぱくりと食べる。その手は案の定首をすり抜けていた。その光景の異様さといったらない。

 父にはこのお座敷が見えていないようだ。見えていたら呑気にTVを見ながらチョコブラウニーをもぐもぐ食べていることなどないだろう。彼はこの家の中で最も『向こう側の世界』との関わりが薄く、耐性もないのだ。菊野ならともかく、彼にこの光景を見て見ぬふりをするだけの異界スルースキルはなかろう。


「おお紗久羅、おはよう。チョコブラウニーありがとうな。とても美味しいよ」


「おう、どういたしまして」

 と答えるものの、正直父の褒め言葉なんて耳に入っていない。それよりも珍妙な光景の方が気になって仕方ない。あんまり沢山お酒を飲んだ為か、あられもない姿で大の字になって寝ている者、嗚呼食べ物を運んでいる女の尻を撫でる不届き者が、哀れ娘はそれにびっくりしてバランス崩してどんがらがっしゃん。焼いた茸の盛り合わせをもぐもぐ食っているのは茸お化けで、共食いかよと隣にいる鯛頭の男が呟くが、そんな彼が食っているのは鯛の刺身。一つ一つの声は大して大きくないが、沢山集まればやかましい、うっとおしい。また一つの世界に、別の半透明世界が重なっている映像はずっと見ていると頭がおかしくなりそうだし、目も疲れる。そんな中、まったりくつろいでいる父。それがまた、シュールさを助長しているような気さえした。今テーブルの上にバカップルの生首が二つあるんだぜ、と父に言ったら一体どんな反応を示すだろうか、と思いつつ一旦自室に戻ると、枕元に置いていた携帯が光っていることに気づいた。どうやら奈都貴と柚季が紗久羅が寝ている最中にメールを送って来たらしい。内容はどちらも同じ――つまり今起きている謎の現象についてのもの。変てこになっているのは桜町だけではないようだ。

 まず柚季に電話をする。彼女はすぐに出、開口一番涙声で紗久羅の名を呼ぶ。


『紗久羅! ああ、もう一体全体どうなっているのよ!? 私の家に牛鍋屋と飴屋が! もう何なの、本当になんなのよこれ! しかも妖がうじゃうじゃいるし!』


「あたしだって分かんねえよ! 今起きたら家がなんか座敷になっていて、妖怪達がそこで飲み食いしていて……あたしの部屋の中も馬鹿騒ぎ状態だよ!」


『うええ……本当嫌になるわ……ああ、昨日は平和だったのに……! 家の外も酷いことになっているわ。建物がずらりと並んで、妖が通りを歩いていて……まるで半透明の街が丸々一個落ちてきたって感じ。しかもその街の住人は全員妖! 何なのよもう、もう、もう!』


「とりあえず落ち着けよ、いや、落ち着いていられないような事態ではあるけれどさ。あたしさっきまで眠っていたから知らないんだけれど、一体いつ頃からこんなことに?」


『……お昼頃よ。クッキーを焼いてラッピングも済ませてからしばらく経った後ね。何か外から歌と和楽器の演奏が聞こえて……それからしばらくしてから突然家中が眩い光に包まれて、目を開けたらこのザマよ。もう訳分からない!』


「九段坂のおっさんに聞いたら何か分かるんじゃないか?」


『九段坂さん、今妖絡みの仕事で遠くに行っているの。連絡もとれない状態みたい。速水の方は何か知っているみたいだけれど、教えてくれないのよ……まあ、ああいう態度をとっているところを見ると命に関わるようなことはしてこないと思うけれど、でもこの光景をずうっと見ていなくちゃいけないのかと思うと……嗚呼、もし消えなかったらどうしよう……やかましいし、気味悪いし、牛鍋とお酒と飴の匂いでいっぱいだし、二階は店の人の家になっているし、最悪!』


「分かる分かる、こっちもやかましくて大変だ……って、ん? 匂い?」

 その様子だと紗久羅は見える、聞こえるだけなのねと柚季はため息。


『多分、人によって感じ取る度合いが違うのね。今家に父さんと母さんがいるんだけれど、何も見えていないし聞こえていないみたいなの。深沢君は紗久羅と殆ど同じみたいだけれど、声や音は私ほどはっきり聞こえていないみたいで、時々聞こえなくなるらしいわ。双子の妹の……ええと、陽菜ちゃんだっけ? 彼女も見えるし聞こえるんだって。深沢君と違って、向こう側の世界のこととか何も知らないけれどのんびり屋だから『この町ならこういうことが起こっても不思議じゃないのかも』って言って、大して驚いている様子もないみたいだけれど』


「ああ、あの子なら言いそうだな……呑気って言葉をそのまま具現化したような奴だし。うちはちょっとまだ分からないな。父さんは全然気づいていないみたいだけれど。陽菜が見たり聞いたり出来ているってことは、向こう側の世界に深い関わりがある人間にしか見えない……ってわけでもないのか。しかし、一体何なんだ、これ……仕方ない。出雲に聞いてみるか。あいつなら知っているかもしれない。で、ついでにチョコをやろう」


『あ、チョコの方がついでなんだ……それじゃあ悪いけれど紗久羅、出雲さんに聞いてみてくれない? 何が何だか分からないままじゃ気持ち悪いもの。分かっても気持ち悪いけれど!』

 分かった、聞いてみるよと言って電話を切ると紗久羅はチョコブラウニー入りの袋や通しの鬼灯などをバッグに詰め、出かける準備をする。その様子を一人の客がちらちらと見ていることに気づき、向こうにもこっちの姿が見えているらしいことを悟った。向こうは目が合った瞬間、慌ててお膳の方に視線を移し、大根の鶏そぼろあんかけをかきこんだが熱かったのかげほごほむせている。何をそんなに慌てているんだ、と呆れつつも家を出た。一階にも食事をするスペースがあり、こちらもまた大層賑やかだ。恐らくどこかに厨房もあるのだろう。店番をしている紅葉の体を従業員の女がすり抜け、菊野のいる調理場では男衆があの従業員は可愛い、あいつはブスだと大声で言いあっている。二人はいつも通り仕事をしていたが、だからといって見えていない、聞こえていないとは限らない。気のせいか、紅葉を指差し「あの女、もうちょっと若ければいけたのになあ」と言っている、もやしのように白くひょろひょろした体の男を菊野がぎろっと睨んでいるような。

 店の面積は弁当屋『やました』の比ではない。右隣も左隣も真向いもこの店が重なっている。歩きながら確認すると相当大きな店であることが分かった。紗久羅は呉服屋、扇子屋、丼屋、得体の知れぬものを売る店の中を突っ切りながら痛む頭を押さえながら進み、しばらくしてまだ奈都貴と連絡をとっていないことに気づいた。この滅茶苦茶な景色から意識を逸らしたくて、即彼に電話をかけた。


「やっほう、なっちゃん。元気?」


『俺は訳の分からん事態にげっそりだよ。家の中走り回っているチビガキ共は腹が立つ位元気だけれどさ』

 と随分うんざりしている様子。聞けば奈都貴の家に重なっている建物には子供がうじゃうじゃいるという。中には遊び道具が多くあり、ちょっとした遊具がある庭もあるという。託児所、というわけではなく恐らくは子供達が集まってわいわい遊ぶ為の建物なのだろうと彼は言う。近くにいる子供達が相当うるさいのか、嗚呼やかましいと嘆く声が聞こえるが、彼を悩ませているチビガキ達の声は聞こえてこない。柚季と電話している時も彼女の声しかしなかった。恐らく今この世界に重なっている世界の住人達の声は電話には入らないのだろう。きっと写真に写ることもないだろうし、録音も不可能だろう。


「あたしも頭が痛いよ。目も何か痛い。そういえば柚季から聞いたけれど、陽菜も見たり聞いたり出来ているんだって?」


『ああ、及川とはもう電話したのか。及川、少しは落ち着いたか?』


「落ち着いたって?」


『俺に電話かけてきた時、滅茶苦茶パニクっていてさ、何言っているんだかさっぱり分からない状態だったんだ。すごい勢いと、信じられない位大きな声で携帯電話と俺の耳が壊れるかと思った。なだめるの、大変だったんだ』

 そう語る彼の声を聞く限り、余程大変だったとみえる。とりあえず今は大分落ち着いて、あたしともまともに会話していたよ、と言ったらほっと安堵のため息。そして話は陽菜のことに戻る。


『そう、陽菜も見聞きが出来るらしい。俺とは逆に、声は割とはっきり聞こえているが映像は大分うっすららしいが。……まあ、あいつが呑気なほわわん娘で助かったよ。混乱のこの字もしていないから、扱いやすい。かえってこういうことに慣れているはずの及川の方が酷い有様だった。とりあえず陽菜には、父さんと母さんは気づいていないみたいだから黙っていようと言っておいた。向こう側の世界とかの話は一切していない。本人が『こういうことがあっても、不思議じゃないかも』って態度だし、わざわざ言う必要もないしな。……まあ、もう一つ助かったところといえば風呂とトイレだけは無事ってことだ。明らかにそこにも部屋があるはずなのに、風呂とトイレがある所には何も見えないし音や声も聞こえない。及川の家もそうらしい。向こうの風呂とトイレも俺達の目には映らないようになっているようだし』

 まじで、と聞くとまじだと返答。奈都貴と柚季の家がそうなのだから、井上家も同じだろう。確かにそれはかなり助かる、と紗久羅は安堵する。そこまで丸見えだったら絶望のあまり血が体からさああっと抜けていって、屍になったに違いない。


「あ、でも部屋は丸見えなんだよな。ってことはあたしの生着替えをあいつらに晒すことに!? 嫌だ、それは絶対に嫌だ! なっちゃんに見せるならともかく!」


『お前の生着替えなんてこっちの方から願い下げだ、阿呆! まあ……我慢するか、風呂場で着替えるか……兎に角、工夫するしかないなその辺は。九段坂さんにも仕事中だから話が聞けないし、どうしたもんかなあ』

 紗久羅は今から出雲の所へ行って彼に話を聞くこと、聞いたらメールを送ることを話した。奈都貴は頼む、と言って電話を切った。正直もう少しだけ話していたかったから紗久羅はがくっと肩を落とす。そして電話が終わった途端、嫌でも変てこな光景が次から次へとうんざりしている紗久羅の目に飛び込んでくるのだ。


 ちょこんと愛らしい足が生えている、花びらのようにひらひらした美しいひれを翼のようにぱたぱたはためかせて飛ぶ金魚、木造の建物に囲まれた大通り、鞠をついて遊ぶろくろ首の幼女、威勢の良い声をあげる棒手売はかかしで、上空では大きな雄らしい鯉のぼり同士が、雌の鯉のぼりを巡って喧嘩をしており、雌の鯉のぼりがやめてえやめてえと叫びながらぽろぽろと零したのはとんぼ玉の涙。それを近くにいた子供の妖三人が拾い、はしゃいでいる。美しい着物姿の、一つ目の女が踊る演舞場のど真ん中を突っ切り、空をちりんちりんという音を鳴らしながらふわふわ飛んでいる風鈴の群れと遭遇し、飲食店になっている巨大ナマズの体内に仕方なくお邪魔し、手毬を転がす巨大フンコロガシを見て綺麗なようなキモいようなと思い、林檎などの果物をガラスでコーティングした置物を販売している店や傘屋を突っ切り……そうしてようやく桜山までやって来た。

 こちら側の世界においては、この辺りは閑散としているが重なっている半透明の謎の世界はこちらまで来ても大変賑やかで、長屋やお店がずらりと並んでいる。


(弥助や秋太郎じいちゃんはこの状況に気づいているのかな。後でチョコ渡すついでに聞いてみよう。あ、そうだ……小雪姉ちゃん、ちゃんとチョコ渡せたかなあ……姉ちゃんかなりの意地っ張りだし恥ずかしがり屋だし、何だか心配だなあ)

 通しの鬼灯を持ち、喧噪から隔絶された幻想世界にある石段を上り、満月館へと辿り着いた。出雲は紗久羅の顔を見るなり、その赤い瞳をきらきらと輝かせ。


「やあやあ、紗久羅じゃあないか! チョコを持ってお出ましかい? 紗久羅がチョコを持ってきた! 鴨が葱を背負って来たのと同じ位美味しい展開!」


「おらよ、チョコだ喰らえ!」


「情緒!」

 何でこいつにチョコなんぞやらなければならんのだ、という腹立たしさと柚季に散々からかわれたことを思い出したことによる気恥ずかしさが爆発し、思わず投げつけてしまった。食べ物を投げつけるなどということは普段なら絶対にやらないことなのだが。出雲は投げつけられた袋をキャッチすると、やったやったと頬ずり。きもいんだよ阿呆、と言いつつ紗久羅はもう一つ(こちらはきちんと手渡し)袋を渡した。鈴の分も用意していたのだった。出雲はそれを受け取るとにこりと微笑んだ。珍しく穏やかで温かなその笑みを見て紗久羅はドキっとし、それからはっとして首をふりふり。


(馬鹿、何ドキッとしているんだあたしは! くっ、これはただ予想外のものを見たからびっくりしたってだけで! くっそ、こういう時に限って柚季の『紗久羅って出雲さんのこと好きなんでしょう?』って言葉が脳内で再生されやがる! 兎に角、違うから、絶対に! ってそんなことはどうでもいいんだ、いや、良くないけれど)


「おい、出雲! 今桜町とか三つ葉市が変てこなことになっているんだけれど!」

 出雲は目をぱちくり、それから首を傾げ。相変わらず計算された美しい所作だ。


「どういたしまして、とか本命じゃないからなって言葉が飛び出すかと思ったら……なんだい、変てこなことって。あの辺りはいつだって変てこじゃあないか」


「たっ、確かに変てこなことが当たり前のような気がしないでもないけれど、でもいつもより変てこで、変てこすぎて変というか、もう変で……兎に角変てこなんだよ!」


「君の言葉の方が余程変てこだよ……まあ良い、とりあえず話を聞こうじゃないか。橘香京に最近出来たケーキ屋のケーキ、ご馳走するよ。私も君の愛のチョコをいただくとしよう」

 愛なんてこれっぽっちも入っていないっての、とあかんべえしながら部屋の中央にあるソファにどかっと座る。畳敷き、障子と部屋自体は和風だが家具は洋風のもの。しかしちぐはぐ感はあまり感じられない。間もなく鈴がお菓子とお茶を運んでやって来た。出雲はそんな鈴にチョコを渡した。


「はい、鈴。大丈夫、私が作ったものじゃあないから。私が作ったら、泥を食った方がまだましだと思えるようなものになってしまうものね。紗久羅が作ってくれたんだよ、バレンタインデーだから。チョコブラウニーだってさ。本当のバレンタインデーは昨日らしいけれど」


「あたしが作ったものじゃあ嫌か?」


「……ううん。出雲から貰えば、紗久羅が作ったものでも嬉しい」

 相変わらず可愛くねえ奴、と舌打ちするが鈴が部屋を出る間際かすかな声で「ありがとう」と言ったのを聞き逃しはしなかった。素直じゃねえなあ、と思いつつ慣れないお礼に照れくさくなる。

 出雲は早速袋を開け、チョコブラウニーを取り出す。


「おやおや、ハート型ではないのかい」


「友達の女の子相手ならともかく、好きでもない男なんかに誰がハート型のものをやるかい。それより話を聞いてくれよ、桜町や三つ葉市が変なんだよ!」

 だから変なのは聞いたって、と嘆息しつつ出雲は紗久羅の話を聞く。紗久羅もフルーツケーキとレモンチーズケーキ、紅茶をいただく。昨日散々甘いものを食べたのにも関わらず、うんざりすることもなく大変美味しく食べた。出雲もケーキと、チョコブラウニーをつまみ「紗久羅の愛がほろ苦くて美味しい」などと訳の分からないことを言っている。

 全く別の話をしたり、ケーキの味について話したり散々遠回りしつつもようやく話を終える。出雲は紅茶を一口飲みカップを置くと口を開いた。


「成程ねえ……また来たのか」


「また来た?」


「君達の町にやって来たのは恐らく移動式の京『渡遷京(とせんきょう)』の一つだろう。桜町には何度か来ているよ。渡遷京はこちらの世界とも、君達の住む世界とも違う層に存在していると云われている。まあ我々にかなり近い存在ではあるようだけれど。幾つかあるらしい渡遷京は他の京と違い、あらゆる土地に遷都を繰り返す。それはこちらの世界のこともあるし、向こうの世界のこともある。恐らくは全く別の世界へ行くこともあるだろう」

 渡遷京はここ、と決めた土地に降り立ち幾らかの時を過ごす。そしてしばらくしてから離れ、また別の土地を求めて移動し、遷都し……を繰り返すのだという。彼等はどこかの土地に根を下ろさねば消えてしまう、弱く儚い存在であるらしい。しかしある一つの土地にずっと居続けることはない。必ずいつかは離れ、移動するのだ。


「居座る期間は一日二日程度のこともあれば、十年以上にもなることがある」


「え、じゃああいつら下手したら一週間どころか一年以上居座るかもしれないってこと!? その間、ずっとあのいかれた景色を見続けていなければいけないのか!?」


「そうなるねえ。彼等をどうにかすることなんて、誰にだって出来やしない。全ては彼等の意のままに。君の知り合いの化け物使いにも、その知り合いの術師共にも無理だろう」

 そんなあ、と英彦や出雲のことを頼りにしていた紗久羅はがっくりと来る。それでもケーキはしっかり美味しい。柚季がこのことを聞いたら発狂するに違いなかった。紗久羅だって同じだ、一日二日で消えるならともかく、もし何年経っても消えなかったらと思うと頭が痛い。しかもその頭痛の原因を取り除けるものがどこにもいないなんて、絶望するな、発狂するなという方がおかしな話。


「大抵の人間には彼の京は見えないし、そこで出た音や声を聞くことも出来ない。だから大抵の人間にとっては無害なんだよねえ。そんな京が自分の住んでいる土地に遷都していることにも気づかない。渡遷京の住人が我々に危害を加えることはない。我々に触れることは出来ないからね。だから彼等は無害だ……そう、普通の人にとっては。けれど君達のような見える聞こえる人間は別だ。精神的にきっついよねえ」


「……柚季は匂いもするって。渡遷京ってのは異界に深い関わりがなければ見えない……ってことはないんだよな。こっちのことは何にも知らないなっちゃんの双子の妹も見聞き出来るみたいだし」


「そう。どうも渡遷京と波長のようなものが合ってしまうと見えたり聞こえたりするようだね。ある渡遷京は見えても、別の渡遷京は見えないってこともあるらしいし。異界と深く関わっているからといって見聞き出来るとも限らないもの……まあ見える確率は格段に上がるようだけれど。こちらの世界に遷都することもあるが、そのことに全く気づかない者は決して少なくない。感じる程度も人それぞれだし」


「渡遷京に住む奴等は? 全員こっちのことが見えるの?」


「大抵の者は見えるようだけれど、やっぱり見えない聞こえないってことがあるらしいよ。移った先の土地によって程度が変わることもあるらしい。ただ彼等は見たり聞いたりしても基本的には無視する。こちらの世界などないように振る舞うようだ。全員が全員そうではないだろうが。向こうは慣れっこだから辛くもなんともないだろうねえ……我々にも比較的耐性がある。けれど君達人間は弱いし無知だから、見える景色、聞こえるものに精神を侵されて発狂する場合だってある。君達は普通の人よりはまだこういうことに耐性があるし、苦しみを共有出来る仲間がいるから良いけれど、そうでない人にとってはまあ、きついだろうね」

 妙なものが見える、聞こえる……だがそれが見聞き出来るのは自分だけ。誰も信じてくれない、分かってくれない、皆は正常で自分は異常、自分は狂っている、幻覚を見ている、頭がどうかしてしまった……そして、身も心もいかれた幻に喰われて壊れていく。そうして駄目になった人間は幾らでもいるという。

 渡遷京の存在を知っている者にだって、頭がおかしくなってしまった者はいるという。そして、それとは別の破滅の道を歩む者もいるそうだ。 


「渡遷京に住んでいる者に恋をした、彼等と仲良くなった人や妖の話もよく聞く。けれどどれだけ仲良くなっても、強く想っても触れることも同じ世界に住むことも出来ないし、遷都を繰り返す京である以上ずっと一緒にいられるわけじゃあない。それを苦に自ら命を絶つ者、別れるのが嫌で移動する京を追いかける者なんかもいるらしいよ。そういうことがあるから、向こうも積極的にこちらと関わろうとはしないし、こちらも向こうの者となるべく関わらない方が良い」

 それで渡遷京に関わる話は終わった。色々分かったのは良いが、同時に向こうがまた別の場所へ遷都する日が来るのをひたすら待っていなければいけないという事実は知りたくもないものであった。お前にも出来ないのか、と聞いたが答えは大変面白くないもので。骨桜の内部に侵入した時に使った万華鏡を使ったらどうか、と言ってみたが「例え入れたとしても、遷都を決めるだろう宮の者と接触することは難しいだろう」という答えしか返ってこず。

 その後はどうでもいい話をし、紗久羅はがっくりしながら『こちら側の世界』へと帰ってきた。渡遷京がもうどこかへ行っていたらいいのに、という淡い期待も北風に吹き飛ばされて消えた。喫茶店『桜~SAKURA~』に寄り、弥助にチョコを渡す。満月は渡遷京の存在には気づいておらず、秋太郎は時々見えたり聞こえたりする程度だという。一応見聞き出来るらしい弥助は、小雪からチョコを貰ったことを話し、あいつと遊んでくれてありがとうと礼を言われた。


 家へ帰る途中、さくらと会った。彼女はノートとペンを手に随分興奮しはしゃいでいる様子で、それを見れば彼女の目に何が映っているかは一目瞭然で。聞けば案の定彼女は見ることも聞くことも出来ると答え、そして今はそこら中を歩き回って地図のようなものを作ろうとしている最中なのだと弾んだ声で言うのだった。


「桜村奇譚集にも恐らくこのことを示しているだろう話があるの。最終的に村人と、ええと渡遷京? その京に住む人があの世で一緒になる為に死んでしまうという悲しいお話なのだけれど。梓さんも今、町中歩き回ってどこにどんなものがあるか書き留めているらしいわ。やっぱりこういうものを見たらそうしたくなってしまうわよね? え、ならない? まあまあ……こういうことは楽しまなくちゃ、損よ。ああでも残念! 明日からはまた学校だからじっくり歩き回ることが出来ないわね! 来週まで残っているといいのだけれど、まあどうしたの紗久羅ちゃん、そんな顔をして? ああ、昨日お泊り会でおおはしゃぎしたからまだ疲れているのね。ゆっくり休んでちょうだい。それじゃあね!」

 と言うとまた渡遷京MAP作りを再開する。自分もああだったら楽だったろうに、とため息をつきいつ消えるとも知れぬ珍妙な景色に頭を悩ませつつ、家まで辿り着いた。

 奈都貴と柚季に出雲から聞いたことを話し(柚季からはしばらく返信がなかった。もしかしたらいついなくなるのか分からない、という事実に気を失ってしまったのかもしれない)、部活から帰ってきた一夜に変なものを見たり聞いたりしていないかと尋ねた。羨ましいことに彼は全くこの京の存在を感知していないらしい。部屋に戻れば相変わらず妖達の声で騒がしく、この現実から逃れる為に寝ようとしても、なかなか寝つけず。


 こうして小雪にとっては史上最高、紗久羅達にとっては史上最悪の一日遅れのバレンタインデーとなった。

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