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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
遷都バレンタインデー
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第五十七夜:遷都バレンタインデー(1)

『遷都バレンタインデー』


 小雪は綺麗にラッピングされたチョコレートケーキを手に、喫茶店『桜~SAKURA~』の前に立っていた。

 柚季の家で生卵を落として焼いた食パンとフルーツヨーグルトを食べ、少しお喋りしてから家を出、紗久羅達と別れてここまでやって来た。日曜日に弥助が休むことはまずないから、恐らく目の前にある店の中に彼はいることだろう。

 視線を、地面へと移す。緊張のあまり口から飛び出した心臓がそこらに転がっていやしないか、いや、いない。胸がどうしようもなく苦しいのは心臓を失ったからではなく、心臓があるからこそのもの。鼓動打つ度視界がぶれ、ぼやけ、店がその輪郭を失う。体は異常なまでの熱を発し、地面を焼くかと思われる位だ。毎年市販のチョコを渡すだけでもそれなりに緊張するというのに、況や手作りなど。


(しっかりするのよ、小雪。い、いつも通り……いつも通り店に入って、そして、さっさと渡して帰れば良いのよ。そう、さっさと。私のことだもの、長引けば長引く程渡すことが難しくなるに決まっているわ。別に本命と言う必要はない。チョコを渡すだけ、そう、渡すだけ。何かをあの男に渡すことなんて今までだって何度もしている、いつも通りやればいいだけなのよ……)

 と思っていても、なかなか一歩を踏み出せないでいた。ここで逃げれば苦しみや異常なまでの熱からは逃れられよう。しかしここで逃げては何も変わらないし、後でうんと悔やむことになるだろう。ごくりと唾を呑みこみ、足よ動け動けと強く念じればようやく一歩、また一歩、錆びたブリキの玩具よりも酷い動きで店へと近づく。ようやくドアに手をかけ、それからまた時間をかけ、やっとの思いでドアを開け、店の中へ。ドアにつけられている、幾度聞いたか知れぬベルの音にびくつき、今度こそ心臓が口から零れ落ちたと半ば本気で思った。


 店の中へ入った小雪はすうっと深呼吸しようとした。そうすることで落ち着きを少しでも取り戻し、そして心の準備をしようとしたのだ。ところが。


「お、小雪じゃないっすか。開店早々来るなんて珍しいな」

 

「!?」

 まさに吸い込んだものを吐きだし、心の乱れをどうにかしようとしたところで、弥助がひょっこりと姿を現したのだ。小雪の心を最も激しくかき乱す存在である弥助が、心の準備をする前に現れたものだから小雪の心臓は爆発し、吸い込んだ空気が体内で暴れだし、げほんごほんとむせてしまう。頭の中は真っ白で、そのくせチョコケーキ入りの袋をさっと背中に隠すという余計な行動だけは上手いこと出来た。咄嗟にとった行動だったが、間もなく小雪は後悔した。隠した途端、さっさと渡して帰るという行動をとる勇気がすっかり消えて無くなってしまったのだ。一度こうなるとなかなか元には戻らない。これは絶対に長引く、最悪渡せないかもしれないと小雪はあせった。

 小雪が何を隠したのか、そもそも何かを隠したことにさえ気づいていない様子の弥助はえらくご機嫌だ。でれでれにたにた、これ程だらしなくてみっともなく気色悪い笑顔などそうそう拝めるものではない。小雪はあまりに酷い顔に、本当にどうして私はこんな男に惚れてしまったのかと頭を抱えたい思いだった。小雪をテーブルに案内する弥助の足取りの軽やかなこと。とんてんとん、翼を授けられた大狸のステップ。そこまで彼が上機嫌なのは、決して自分が来店したからではないこと位小雪も分かっている。チョコを昨日買った服の入っている紙袋に隠し、ため息をつきながら案内されたテーブルについた。


「……満月から貰ったんですね、チョコ」


「いやあ、ばれた? 実はそうなんすよ、うっひっひ」

 右手を後頭部にやりながらにたにた笑う。本当にどうしてこんな馬鹿を好きになったんだろう、と小雪でさえどん引きしてしまう位の顔の崩しよう。満月からチョコを貰っただけでこの有様、告白されようものなら目鼻口全てが顔からぽろぽろ零れ落ち、肉は溶け、骨は抜かれ、奇天烈な生物になること請け合いだ。そんな彼はまだ暇だから、と向かい側の席にどかっと座り。満月からチョコを貰った喜びを誰かに話したくて仕方無いという様子。


「店に来てすぐな、いつもありがとうございますって言ってくれたんだ。くれることが分かっていても、やっぱり嬉しいもんっすねえ! しかも手作りっすよ、手作り、朝比奈さんの! もう、本当、毎年貰っているけれど、それでもいつも初めて貰った時のように嬉しくて仕方がないんだ。ガトーショコラだそうだ。いや、もう朝比奈さんから貰うものならガトーショコラでも納豆オクラでもなんでも歓迎っすよ、ああ嬉しい! 義理だってなんだって良い、朝比奈さんが心を込めて作ってくれたものってことに変わりはねえんだからな」

 朝からすさまじいテンションで語る弥助をはっ倒してやりたい気持ちと、チョコを渡すタイミングを逃したことに対する焦燥感と、心底嬉しそうなその顔に突き刺された胸の苦しみで小雪はどうにかなりそうだった。本当に弥助は嬉しそうで、満月からチョコを貰うことが彼にとってどれだけ幸せなことなのか、どれだけ満月のことを想っているか改めて思い知る。そして、その顔を見れば見る程隠してしまったチョコを渡し辛くなった。


「家に帰ってから、じっくり食うんだ。食う前に写真に収めておくか、いや、心のカメラで撮った写真をずっと胸の内に秘めていりゃあいいか。今日はそれを楽しみに仕事を頑張るっすよ。いやあ、本当あっしは幸せ者だなあ!」


「何が心のカメラよ、気持ち悪い!」


「何だとう!?」


「ふん、本当のことを言ったまでです。しかもその顔、何ですか、でれでれしちゃってまあ! 今すぐ鏡を見やがれってんですよ、いつも以上に酷い顔になっているから!」


「酷い顔とは何だ、酷い顔とは! 広い心を持っているあっしでも、怒る時は怒るぞ!」


「ふん、お前みたいなぽんこつ狸に怒られたってちっとも怖くないですわ! 嗚呼、嫌になりますわ、むさ苦しい暑苦しい見苦しいの苦しい三拍子野郎の顔が目の前にあるなんて! 私、苦しくて死にそうですわ」


「そこに『息苦しい』を追加してやろうか、こら!」


「きゃあ! か弱い女の子を襲うなんて、最低ですわ! 暴力反対!」

 首を絞めるジェスチャーを弥助がすれば、小雪はか弱い女の子をアピールするようなポーズをとる。何がか弱い女だ、熊一匹をかちこちに凍らせて倒すこと位訳ないような女が、とあかんべえするもすぐ弥助は元の上機嫌な顔に。


「まあ、仕方ない許してやるか。へへん、今のあっしはとっても機嫌が良いんだ」

 そんなこと、わざわざ口にしなくたって誰にだって分かることだ。義理チョコ貰った位ででれでれしちゃって、馬鹿みたいと悪態を吐く小雪はしかめ面。弥助の浮かべる満面の笑みに、ずきずきと胸が痛むのだ。


(この男をこんな風にすることが出来るのは、満月だけだ……)

 弥助は秋太郎から抹茶クッキーを貰ったことを話している。甘ったるくなく、素朴でほっとする味がする秋太郎手製の料理も好きだと、貰って嬉しいと彼は笑う。しかしその時の彼は満月からガトーショコラを貰った話をしている時よりも落ち着いた表情を浮かべていた。声の弾み具合だって僅かながら違う。

 弥助の最愛は満月で、だからこそ彼女からの贈り物にあれだけはしゃいでいた。小雪が渡したとしても、あそこまで上機嫌になることはまずないだろう。


(私はきっと比べてしまう。私からチョコケーキを貰った時の顔と、満月から貰ったことを喜ぶ顔を……そしたら私絶対に喜べない。弥助からありがとうって言われても)

 自分と満月の差を、違いを思い知らされ苦しむ位ならいっそのこと渡さない方が良いかもしれないなどと思う。自分の想い全てを込めて作ったものだけに、受けるダメージも大きいだろう。どれだけ頑張っても、どれだけ心を込めても満月には敵わない、弥助の最愛にはなりえないのだと。そうして傷ついて、ますます先へ進むことを怖がり、現状維持を望んでしまう。


 いけない、駄目だと心の中で首を横に振る。それでは結局一歩も前に進むことなく終わってしまう。何より、丁寧に作り方を教え、色々と手伝ってくれた紗久羅や柚季に申し訳ない。渡さない、ということは彼女達の誠意を踏みにじる行為である。とはいえ、なかなか決心がつかない。頭の中で幾度となくシミュレーションをしても、それを実行に移す勇気がない。だから店に入ってすぐ、勢いに身を任せてさっさと渡してしまえば良かったのだ。絶対に長引く、という予感は残念ながら的中してしまいそうである。

 そうこうしている内に弥助は小雪から注文を聞くと厨房へと行ってしまった。それからしばらくしてやって来たのは弥助ではなく満月の方。弥助は後から来た人の接客に回っている。嗚呼、チョコはまだ渡せそうにない、とがっくり。そんな彼女の苦悩など知る由もない満月は、いつも通りの温かな笑顔をこちらに向けながら注文したパンケーキと紅茶をおいた。


「こんにちは、小雪さん」


「え、ええ……こんにちは」


「小雪さん、作ったんですか、チョコは」

 弥助が接客中の人とお喋りしている姿をちらっと見てから、満月は小雪の耳元まで顔を近づけ小声で尋ねる。作ったには作ったが私のチョコを貰っても、貴方から貰った時より喜ぶことはないと思ったら辛くて渡せないんだ……など到底言えるはずもなく、複雑な思いをごくりと飲みこんでからこくりと頷く。


「ええ、まあ……井上の方の紗久羅と、その友達と、臼井の方のさくらと一緒に」


「まあ、さくらちゃん達と? 何を作ったんですか?」


「き、木の実ののったチョコケーキを」


「弥助さん木の実入りのチョコが好きだっておっしゃっていましたわ。小雪さん、弥助さんの好みはちゃんと把握しているのですね」

 ええ、まあと言いながら浮かべる笑みの引きつりようといったらない。貴方達の会話を盗み聞きして、初めて知ったんですとはとても言えず。


「それで小雪さん、もう渡せたんですか、チョコ」


「えっ? いえ……その、まだ……な、なかなか踏ん切りが」

 恋敵相手に何を言っているのだと情けない思いだ。その情けなさが声の小ささに現れている。満月はきっと少しもためらうことなく渡しただろう。そういう所でも(幾ら向こうは義理チョコでも)負けている、というような気がしてますます情けなくなる。そんな気持ちなど露知らず、満月は「恋する乙女ですね、きゅんとしちゃいます」といった風な顔。自分が小雪の恋の障害の一つであることなど気づいちゃいない。そんな彼女は再び弥助をちらりと見る。


「私がそれとなく小雪さんがチョコを渡せる流れに持っていきましょうか? お手伝いさせてください」


「い、いえ、結構ですわ。が、頑張ってみます」

 お膳立てされたって上手く出来ないのが小雪だ。そもそも仮にも恋敵である彼女に手伝ってもらうなんて、プライドが許さない。満月は分かりました、と頷きそれから「頑張ってください」とにっこり笑ってからその場から立ち去った。嫌味の無い笑顔なだけに余計胸が痛い。本当にいっそ彼女が「せいぜい頑張りなさい。ま、どうせ無理だろうし渡せたとしても何も変わらないだろうけれど、きゃはは」と言うような女だったら悔しさと、こんな女にとられてたまるかという気持ちをばねに頑張れるのにと思う。しかしそんな満月を見たいかと聞かれれば、絶対に見たくはない。


(ああ、どうやって渡そう……)

 弥助に声をかける勇気もなく、どうしたらいいか考えあぐねつつ紙袋に目をやる。そしてその中に突っ込んだチョコに触れ、持ち上げようとしたところで。


「そういや、小雪」


「は、はい!?」

 いつの間にか小雪の真横に立っていた弥助に声をかけられ、悲鳴のような声が口から洩れる。ばくばくという音をたて、滅茶苦茶に動く胸。心臓は口から零れ落ちてはいないようだが、痛みを覚える位暴れ回り、体内のあちこちにぶつかっている。弥助は何をそんなに驚いているんだ、と怪訝そうな表情を浮かべながら小雪が手を突っ込んでいる紙袋を指差している。


「それ……」


「それ!? そうれ、そうめん!? え、何かしらほほ、何のことかしらこの中には何も入っていないですわよ、ただの紙袋ですわおほほほほほ」


「何でてんぱってんだ……? 紙袋に、いつもより大きいバッグ……どこか行って来たのかって聞こうと思っただけなんすが」


「え? あ、ああ、ええ……ま、まあ……昨日、ね」

 どうやら紙袋の中に入っているものには気づかなかったらしい。良かった、いや良くはない。ぱっとラッピング袋から手を離し、口元をおさえほほほと笑う。その笑いといったら、まるで壊れかけのラジオから聞こえるそれのように歪で変てこで。また暇になったのか、弥助はまた向かい側に座り、小雪に話の続きを促す。

 小雪は紗久羅、柚季、さくらと共に三つ葉市にあるショッピングモールで買い物をしたことや、柚季の家でお茶会をしたり、DVDを見たりしたことなどを話した。初めはチョコを危うく見つけられそうになったことに対するドキドキ、弥助と話をすることに対する緊張感で上手く話せなかったが、昨日の楽しかった時間について話す内段々と緊張も薄れ、自分がどれだけ楽しんだか話すことにただただ夢中になった。彼女自身は知る由もないが、その時の彼女は子供のように無邪気な笑みを浮かべていて、弥助の小雪に対する『可愛い妹』という感情を煽った。ただ、そんな状態になっても弥助の為にチョコケーキを作ったことだけは話すことが出来なかったが。

 しばらくしてはっと我に帰り、気恥ずかしくなって俯いた。そしてその時になってようやく今がチョコケーキを渡す絶好の機会であることに気づく。


(今、とても丁度良い流れじゃないの。このまま紗久羅達とチョコケーキを作ったことも話して、そして渡せば……ここで話を切って終わりにしてしまったら、ますます言いづらくなってしまう。でも、渡したって満月から貰った時と違う態度をとられて傷つくだけで……嗚呼、もう本当にどうすればいいんですの!)

 顔を上げ、話を聞いていた弥助の方を見る。それからまたすぐに目を逸らし、テーブルとにらめっこする……はずだった。だがそうはならなかった。小雪の目は弥助の表情に釘付けになっていた。彼はとても幸せそうな笑顔をこちらに向けていたのだ。まるで小雪が幸せな気持ちでいることを嬉しがっているみたいに。


「とても、楽しかったんだな。サク達と遊んだことが」


「え、あ、ええ……」


「もしかしてあっしがあげた寝間着、着た?」


「ええ、あ、あれ位しかありませんでしたし……ま、まあ嫌いじゃありませんでしたから、着、着て差し上げましたわ」


「そっか、楽しかったか。良かったなあ」

 そう言って弥助はとびきり眩い笑顔を浮かべる。その笑みに、どきりとする。相変わらず自分のことを手のかかる妹としてしか認識していないことが分かる笑みだったけれど、それでも、そんな笑みでも小雪の中を激しい感情が駆け回る。そしてそんな思いが、迷いや躊躇いを外へ弾き飛ばす。


(そうだ、やっぱり私は諦めてはいけない。他の誰にだって、取られたくない。そうだ、そう……私はこの男が好きで……この想いを伝えたい)

 今はまだ口に出して言うことは出来ないけれど、想いを込めたものを手渡すことなら出来る。満月に勝手いる、負けているなんてそんなことは関係ないのだ。劣っていようがいまいが、弥助の笑顔が小雪は欲しい。自分に、自分だけに向けてくれる笑顔を望む。自分だけの為に言ってくれる「ありがとう」という言葉が欲しい。自分にくれた、ただそれだけで何だって他の誰にも理解出来ない程の価値がある。

 拳をぎゅっと握りしめ、深呼吸し話を切りだそうとする。今なら出来る、そう思った。

 ところが小雪が口を開こうとしたまさにその時、弥助がそれを遮るかのように小雪に問うた。


「ところで小雪。お前渡すのか、チョコ」


「え、は!?」


「バレンタインチョコ。お前も作っているんじゃないか?」


「あ、えと……あの、その……」

 まさか向こうの方からその話をしてくるとは思わず、小雪の頭は真っ白。そんな彼女を見て弥助がにかっと笑う。


「お前の愛しい殿方に用意してねえのか? ほら、こっちの世界にいる人間の殿方だよ」


「……は?」


「お前がどこの誰に惚れたのか知らないっすが、やっぱりアタックは出来る時にやらんとな! お前の場合は好きな奴にはなかなか素直になれなくて、おまけに照れ屋で小心者だから普段からびしばしアプローチしますってタイプじゃねえしな。こういう時こそ最大のチャンス! 紗久羅っ子や柚季は料理が得意なはずだから、色々教えてもらえばお前にだってチョコ菓子位……ん? 小雪?」

 小雪の真っ白になっていた頭は今、真っ赤に燃えている。椿、赤鬼、柊、紅蓮の炎。体中に熱がたまり、体が膨れ上がり、今にも破裂しそうだ。勇気を得、気合を入れる為に握りしめていた拳は今、怒りと熱で満ち、痛い位だ。

 この馬鹿は、この馬鹿は、この馬鹿は……!

 怒りが爆発した瞬間小雪はテーブルを両手で叩きながら立ち上がった。拳に込められていた怒りと熱がばん、というすさまじい音となり店内中に響き渡る。そんなこともお構いなしに、小雪はぽかんとしている弥助を睨んだ。


「この馬鹿弥助! 私には好いている人間の男なんていないって何度言ったら分かりやがるんですか、あほんだら! 見当違いのことばっかり、いっつもいっつも……もう! 確かに私はチョコを作りましたわ、でもそれはいもしない人間にではありません! お前の為に一生懸命作って、それで持ってきて……もう馬鹿!」

 大声、後、沈黙。弥助が目を瞬かせる。


「……え? あっしに? チョコ?」


「え……あ」

 自分が何を言ってしまったのか、そのことに気づいた小雪の頭は再び真っ白になる。頭を染めていた赤は熱となり、小雪の体中を駆け巡る。怒りに身を任せ、つい言ってしまった。情緒もくそもなく。しかも大声で言ったが為に、他のお客さんにまで聞かれる始末。

 しゅるしゅると体から力が抜け、ソファにどかっと座り、しばらく机に顔を突っ伏して馬鹿馬鹿馬鹿、と散々弥助を罵ってから腹をくくって紙袋に手を突っ込んだ。もうこうなったら渡すしかあるまい。


「ひっ、日頃の感謝をこめて作ってやったんです、ありがたく受け取りやがれってんですよ!」

 

「あっしにくれるんすか?」


「い、いらないんですか? い、いいい、いらないならそれはそれで」


「いらねえわけないだろうが。……あっしの為に作ってくれたんだろう。一生懸命作ってくれたものを貰わないなんて馬鹿な真似するわけないじゃないか」

 そう言って弥助が手を差し伸べる。小雪は顔を赤くしながらおずおずとあの雪の結晶の描かれたラッピング袋を差し出す。弥助はそれを静かに受け取った。浮かべているのは穏やかな、優しい笑み。


「何を作ってくれたんすか?」


「チョ、チョコケーキ……色々な木の実をのせて」


「おお、いいっすねえ。あっし好きなんすよそういうの! チョコの甘さと木の実の香ばしさ!」


「さ、紗久羅達に教えてもらったから多分……ま、不味くはないと思います」


「だろうな。へへ、でも嬉しいっすね。お前が手作りの菓子をくれるなんて、あんまりないことだったから。家に帰ったら早速食わせてもらうよ。ありがとうな、小雪」

 そう言って、弥助は本当に嬉しそうに、幸せそうに笑ってくれた。ただそれだけで小雪の心は満たされる。渡せて良かった、と心から思う。満月から貰ったことの方がきっと弥助にとっては嬉しいのだろうけれど、それでも良い。小雪の手作りチョコケーキを貰って、彼は喜んでくれた。ありがとうと言ってくれた。それで十分だ。今向けている笑顔だけは、自分のものだ。満月にだって渡すものか。

 ああやっぱり私はこいつのことが好きだ、好きで好きで仕方ないのだ。そのことを改めて感じながら、小雪は微笑んだ。その後満月と秋太郎にもチョコをやった。そちらは手作りではなく市販のものを買っただけなのだけれど、感謝の気持ちはちゃんとこもっている。


 良かった、ちゃんと渡せて良かった。何度も何度もその言葉と、弥助の笑顔と感謝の言葉を繰り返しながら小雪はパンケーキを食べ、それから帰路へとついた。

 この後、桜町や三つ葉市がとんでもないことになることも知らずに。



「なんなんだよ、これ……」

 自室のベッドの上に座り、眉をぴくぴくさせているのは紗久羅だった。


「夢だよな? いや、夢じゃない……嘘だろう」

 つねった頬の痛みに頭を抱える。自宅に帰ってくるなり紗久羅は自分の部屋にあるベッドへとダイブした。昨日は、いや今日は随分遅くまで起きていたから眠くて仕方ないのだ。もう少しだけ眠ってそれから弥助と(仕方が無いから)出雲にチョコブラウニーを渡しに行こうと決め、ぐうぐう眠ってはや数時間目覚めれば時刻はおやつの時間近く。寝ぼけ眼をこすりながらむくりと起き上がった紗久羅の耳に、話し声やら笑い声が聞こえる。それだけではなく、かんかんという金属や陶器に固いものが当たる音、何かをすすったり咀嚼したりしている音も聞こえてきた。何か液体を注ぐ音らしい音が聞こえたかと思ったら、ごくごくという音が聞こえ。居酒屋や料理を扱う店で聞くような音ばかりが響き渡る。やや離れた場所から聞こえてきているようにも、この部屋で発せられているようにも聞こえる、遠くて近い、不思議な音、声。

 一体何だろう、と重い目蓋をこじ開けて見れば驚愕の。……眉と口元、ぴくぴくと。


「何なんだよ、訳分かんないよ……何なの……」

 両手で抱える頭がずきずきと痛んだ。その痛みが頂点に達した時、紗久羅は叫んだ。


「何であたしの部屋がお座敷になってんだよ!?」

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