女子・菓子・姦しい(5)
「命の恩人、ですか?」
意外な言葉に驚いた様子のさくらが口を開く。他の二人も同じような表情を浮かべていた。そうなるのも無理はないかもしれない、と小雪は苦笑いしながら「ええそうよ」と頷く。それから、さくらが困惑し首を傾げながら尋ねる。
「それは……例えばつまらない人生に辟易して自ら死のうとしていたところを助けてくれたとか、ですか?」
「いいえ、そうではないの。確かに当時は生への執着もなかったけれど……ああ、でも、そうね、間違っていないかもしれない。自殺と呼べるかもね、あれだって。……待ち受けるものは死しかないと分かっていながら、あの化け物の手をとろうとしていたのだから」
妖でさえおぞましいと思う程、禍々しく汚らわしい化け物。魔に憑かれ、堕ち、自らも人に憑き惑わし堕とす者――すなわち魔そのものになった化け物。元の形さえ最早失いかけていた。その姿も、纏う気も思い出しただけで身の毛がよだつものであった。嫌な冷たさに襲われた体を、まだ温もりのある紅茶で温めてから、小雪は順を追って語る。
「あの化け物の話よりも先に、弥助の話をしないとね。あいつは風花京に観光目的で来たの。丁度京で祭りが催される頃で、弥助以外にも沢山の妖が訪れていたわ。皆は京が賑やかになったことを喜んでいたけれど、私は騒がしいのが嫌いだったから、嫌で嫌で仕方なかった。好きも嫌いも自分の中にはないなんて言っていたけれど、何もないわけではなかったのよ。疎ましいと思うものは結構あったのよね。どうでもいい、と思うものの方がずっと多かったけれど」
殆どのものに無感動で無関心だった自分。何だってくだらなくて、どうでもいいものだった。何にだって価値も意味も見いだせず、生きていた。その生き方に疑問を持つことも、その生き方を変えようと思ったことも一度もなかった。
「ごちゃごちゃと色々言ってくる人、おせっかい焼きの人は一番嫌いだった。一番ありがたいと思ったのは、私に無関心な人、何も言わない人。だから、初めの頃は弥助のこともうざったくて仕方無かったわ。あいつとは、祖母が営んでいる宿で会ったの。……あいつはこの世界の何もかもに価値が無いと思ってい私のことが気になったらしくて、まあよく話しかけてきたわ……本当、うっとおしい位」
どれだけ冷たくあしらっても、無視しても、弥助は話しかけてきた。当時の小雪にとって、彼という存在は邪魔そのもの。無関心ゆえに人の名前は殆ど覚えない小雪だったが、彼の名前はすぐ覚えた。小雪が自分の名前を覚えたことに気づくと、弥助は「やっと覚えてくれたか」と大変嬉しそうに笑ったことを覚えている。それを見た時小雪は複雑な思いを抱いた。腹立たしくて、気恥ずかしくて、気持ち悪くて。それ程までに複雑な感情を抱いたことは今までなかったから困惑した。
「当時の私は、あいつのことが嫌いで仕方無かった。あれ程までに誰かを嫌いだと、疎ましいと思ったことは初めてだった。本当、しつこいんだもの。……昔も今も、そう。基本的にはむやみやたらにずかずかと相手の領域に足を踏み入れることはないけれど、一度踏み入れるととことん奥へ奥へ進もうとする。それが嫌でたまらなくて、あの頃何度いい加減にしてと怒鳴ったことか」
「まあ、そりゃあうざったいよな……あたしだったらぶん殴っているかも」
小雪も同じように、殴ってやりたい、氷漬けにして崖から突き落としてやりたいと思った。しかし弥助はそれでも関わることを止めようとはしなかった。
「あんたは何も感じない心なき人形とは違う、見方を少し変えるだけであんたの世界はうんと広がる。この世界は楽しいことばかりじゃない、醜いものも人を苦しめ悩ませるものも沢山ある、それでもこの世界は素晴らしい……どうせ生きるなら、この広い世界を思いっきり楽しもうじゃないかって。どうでもいい、この世界の全てに私は興味が無いと言ったら、本当に全てに興味が無いのなら自分を疎ましいと思ったり、自分に対して怒りの感情を抱いたり、喧噪を嫌がったりすることはないって……本当に何も無いなら、そんな感情さえ抱かないって」
だからどうしたというのだ、とむきになって怒鳴った。そんな風に怒鳴ったことなど、今まで一度もなかったのに。それだけ自分は弥助の言葉、彼の存在に心を揺れ動かされていたのだ。何も感じないなら、相手にぶつけるものだって何も無い。
「そんな風にあいつは色々と私に言ってきた。冷たくて、重みのない私の心がその度激しく揺れ動くのを感じた。心があれ程までに動くことを、それまでの私は知らなかった。誰も私にあれ程強く心をぶつけてきた奴はいなかったから。……初めてのことに私は戸惑ったわ。そして私は段々と自分が自分で無くなっていく感覚に恐怖を感じるようになっていった。怖くて、仕方なくて初めて泣きそうになった。でも、怖いだけじゃなかった。もっと他の気持ちが私の中に生まれていた……それが何だったのか、まだその時は分からなかったけれど」
それは「あの男の手をとれば、もっと色々な世界を知ることが出来るだろうか」という気持ち。世界を知ろうという気持ちが芽生え始めていたのだ。さくら達はお菓子を食べ、お茶をすすりながらも熱心に小雪の話を聞いている。
「もしかしたら、もうあの時点であいつに惹かれていたのかもしれない。恋心を自覚したのはずっと後になってからだったけれど。さっきは否定したけれど、実は一目惚れだったということもあるかもしれないわね。ただ心揺れたことに自分が気づかなかっただけで。それはやっぱり分からないのだけれど。けれどその『世界を知りたい、もっと違う生き方もしてみたい』って気持ちは、嫌だとか腹立たしいとか怖いとか、そういう感情で包まれていた。私は弥助と顔を合わせたくなくて、あいつから逃げ回るようになった。……大抵私は京の近くにある森へ行き……そしてあの化け物に会った」
魔に憑かれ、堕ち、形を失いかけていた化け物に。化け物は小雪をえらく気に入り、ここで乱された心を落ち着けるが良い、その代わり自分の女になってくれと言ってきた。小雪は逃げられるなら、もう何でも良いやと自暴自棄になり、化け物のものとなった。
「それから毎日のように、弥助から逃げる為森に行っては化け物と会ったわ。化け物のいる所は静かで、心地良かった。……化け物は私に何も考えなくて良いと言ってくれた。変わる必要などない、うるさい男の言葉になど耳を傾けてはいけないってね。まあ、詳しいことは省くわ……正直思い出したくもないようなことだって色々あったから。私は化け物に憑かれ、蝕まれ、堕ちていったわ」
「それじゃあ小雪さんを救ったのも弥助さんなら、追い詰めていったのも弥助さんなのね」
柚季の言葉にそうね、と小雪は頷く。荒療治でもしなければ変わることはないと判断してのことだろうが。進みたくないという気持ちと、進みたいという気持ちで板挟みになって、あの時は本当に苦しくて、弥助を恨んだものだ。その心に化け物はつけこみ、彼女を堕としていった。やがて完全に自分のものにする為に。
「化け物は私の伴侶となれと言ったわ。身も心も私に捧げてくれ、そうすればもう何も考えなくて済むよと。つまり、私に全てを喰われて死ねってこと。流石にその言葉をすぐ受け入れることは出来なかった。でも、魔に蝕まれていく内気持ちは化け物の方へと傾いていって、しまいにもう何もかもどうでも良くなって、化け物の手をとろうとした……その時、弥助が現れたの。多分私の後をつけていたのね。あいつは私に手を差し出した。もしお前に生きたいと、自分の知らない世界を沢山知りたいという思いがあるのなら自分の手をとれ、もし本当に死んでもいい、もうどうだっていいと思うなら、もう自分は何も言わない、大人しく帰ると。自分が手を差し出すのは、これで最後だって」
「小雪さんはその手をとったんですね……弥助さんの手を」
「その手をとっていなければ、今頃死んでいたってわけか。危ないところだったんだな。下手したらあいつ、小雪姉ちゃんを殺していたかもしれないってことだ。おせっかいもやりすぎると酷いことになるってことか。気をつけないとな」
まあ、おせっかいなんてあんまやかないけれどと紗久羅は肩をすくめる。そう、確かに危うく死にかけるところだった。しかしそういう風になったのは結局の所、弱い自分の心が原因だったのだ。
「弥助がこちらに手を差し伸べてきた時、あれほど生きようが死のうがどうでもいいと思っていたのに……急に、死にたくないって気持ちが湧いてきたの。化け物の甘言よりももっと強く、激しく、私の心にあいつの言葉はぶつかってきた。心が動いて、体中熱くなって、そしたら自然と死にたくないって言葉が出てきて……私はあいつの手をとったの」
「ちなみに、その後その化け物は?」
「……魔そのものになったような者に、言葉は通じない。当然弥助に襲いかかってきたわけだけれど……往生際の悪い奴だ、男なら引く時は潔くさっさと引けって言いながらぼこぼこに……自分もいつになっても引こうとしなかったくせにね。ただ堕ちるところまで堕ちて形を殆ど失っていた化け物に、単純な物理攻撃を加えても完全に倒すことは出来ない。その時は二人して必死になって逃げて、後日魔を祓うことを専門にやっている者を呼んで退治してもらったわ。まあ、ちょっと可哀想だとは思ったけれど、魔は妖にとっても良いものじゃないから、放っておくわけにもいかないし……あの地を離れて悪さしだしたら大変だしね」
化け物の手ではなく、弥助の手をとりこの世界で生きることを決めた小雪は、それから弥助に連れられて色々な所へと行き、色々なことを教えられた。あんなにかちこちだった心はちょっとしたことでも動くようになり、少しずつ世界の様々な顔を知っていった。知れば知るほど心が豊かになるのを感じていき、彩られ、重みを増していく。
もう、世界は無価値で無意味なものなどではない。
「あいつには私、とても感謝しているの。だって何かを食べて美味しいと思う気持ちも、風景を見て綺麗だと思う気持ちも、胸をしめつけられるような気持ちも、みんなあいつと知り合わなかったら知ることがなかったのだもの。私はそういうもの全てを愛しいものだと思う。私の中は今、沢山の愛しいものでいっぱいなの」
「で、今は感謝の気持ちだけじゃなく恋愛感情も抱いていると」
「ま、まあそうなるわね……進展は全然ないけれど」
にやにや顔の紗久羅の言葉に照れつつ、頷く。言っていて悲しくなる言葉、悲しい通り越して泣けてきそうだ。柚季がくれたミントチョコを口に放り込み、ため息。
「あいつの中で、今も昔も私は『友人』もしくは『妹』なのよ。しかもあのにぶちん馬鹿、私がこうして何度もこっちの世界に来ているのは、こっちで暮らしている人間に恋しているからだと思っているし! 人と妖の恋は大変かもしれんが、応援するぞ、あんまり力にはなれんが相談位にはのれるとかなんとか言われた時には本当、腹を思いっきり殴ってやろうかと思ったわ。こっちの想いには気づいていないから、平気で私の前で満月といちゃいちゃしているし……!」
「やっぱり小雪さんは弥助さんと恋人同士になりたいんですか? 今とは違う、男女の関係になりたいって」
柚季のストレートな言葉に小雪はどきりとし、再び体温が上昇するのを感じる。
「え、え、ええと、まあ……うん、そうね、うん……私のこと、一人の女性として見てほしいなって、お、思うわ。満月じゃなくて、私を見て欲しい……満月に向けているのと同じ目を、私に、私だけに向けて欲しいって」
と口ごもりながら言った言葉に柚季と紗久羅のテンションは最高にハイになり、きゃああ、とか素敵とか、恋する乙女ってリアルにいるんだなとか、そんな言葉を次々と吐いては小雪を赤面させる。さくらはのほほんとした表情を浮かべながらお茶を飲み、小雪さんと弥助さんの関係って〇〇(どうやら小説の名前であるらしい)に出てくる〇〇と〇〇みたいだわ、とか言っている。そして一人、その二人のことについてぶつぶつ言い始め。勿論誰も聞いちゃいないが。
「早くしないと手遅れになってしまうかもしれないと思ってはいるのだけれど、なかなか一歩前に踏み出す勇気が……」
長く続いた関係を、ぬるま湯のような関係を想いを告げることで壊したくない、終わらせたくないという思いに足を引っ張られ、好きな人に好きと言える勇気がなかなか出ず、ちんたらしている間に相手に想い人が。昔の小雪だったら恥ずかしげもなく「好き」という言葉を口にすることが出来ただろう。もっともその言葉に込めるだけの想いを抱くことは決してなかったから、「す」と「き」という文字を合わせただけの全く意味のないものになるけれど。
「弥助と満月姉ちゃんも、全然進展ないよなあ。満月姉ちゃんは弥助と同じでちゃんと言わなきゃ絶対気づいてくれないタイプなのに、弥助はただ朝比奈さん朝比奈さんって言ってでれでれしているだけで何にもしないもんなあ。あいつも小雪姉ちゃんと同じなのかな」
「告白したら、成功するにしても失敗するにしても今までと同じではいられなくなるもんねえ……私も誰かを好きになったら、そういう気持ちになるのかなあ」
「それもあるだろうけれど、種族の問題もあるんじゃないかしら。弥助さんは人間が好きで、人間の世界で人間として生きているけれど……でも、それでもやっぱり弥助さんは妖だもの。人間の姿をしていたって、あの人は妖でそれ以外のものにはなれない。でも、朝比奈さんは妖ではなくて人間で……その違いはきっと思っている以上に大きなものなんだと思う。その違いが朝比奈さんを不幸にするかもしれないって考えたら一歩前に進めないのかも」
いつの間にか自分の世界から抜け出していたさくらの言葉に、そうかもしれないと小雪と柚季は頷いた。
「確かに愛さえあればそんなこと問題ないよねって簡単に言えるようなことじゃないですよね……黙っていれば、気づかれなければいいって問題でもないでしょうし。弥助さんっていかにもお人よしって感じですし、自分の想いを遂げる為なら相手のことなんて知ったことじゃないって考えには至りそうにないですよね」
「そうね、あいつは優しいものね。自分のことより他人のことばかり考えている奴だものね」
「小雪さんは『自分にだけ優しくして欲しい』って思っているんですか?」
「え、いえ、その……!」
そう思うこともある、という言葉を言うことが出来ず近くにあったジャンボどら焼きで真っ赤になった顔を隠し、あうあう呻けばそうさせた張本人であるさくらは「図星なんですね」と一言、それだけ。紗久羅と柚季は可愛いとかきゅんきゅんしちゃうとか、そんな言葉を連呼し小雪をますます赤面させるのだった。散々からかってから、紗久羅は話を元に戻した。戻しつつの、方向転換。
「まあ、ただ好きって言う勇気がないチキン野郎ってだけの気もするけれどな。あいつ見るからにヘタレって感じだし。でもさあ、弥助も朝比奈さんも気をつけた方がいいんじゃない?」
「気をつける? 何に?」
意味が分からずお菓子を齧りながら三人仲良く首を傾げる。
「出雲にだよ。あいつ性格悪いからさ、嫌いな男が好きな女を自分のものにして思いっきり苦しめるとか、そういうこと平気でしそうじゃん?」
「いやあ、幾ら出雲さんでもそんな……ああ」
「そうよ、出雲さんだって……うん……」
「確かに、出雲はやるかも。実際やったことあるみたいだし」
「えっ」
こめかみの辺りを押さえつつ気になる発言をした小雪に集まる視線。
「弥助と満月は関係ないのだけれどね。何十年か前、嫌いだった男の婚約者を誘惑して自分のものにしたことがあるって聞いたことがあるわ。男は姿を消して行方知れず、婚約者もその後出雲にこっ酷く振られたそうよ。偽りの愛にほだされて本物の愛を捨てるなんて馬鹿な女とか、あの男が可哀想だ、お前は酷い女だと精神攻撃で思いっきり心を抉って……。女の人はその後狂ってしまったそうよ。嫌いな人が好きな人も、嫌いな人を好きな人もあの人は気に喰わないみたい。だから婚約者の方も容赦なく……」
「あいつ想像以上に酷い奴だな!? 冗談半分で言ったのに!」
「うわあ……」
「そういえば桜村奇譚集にもそういう感じの話が色々載っていたわね……あの人一体今まで何組のカップルを破局に導いたのかしら」
「逆キューピッドで死神で俺様で疫病神で出雲という名の災厄、最悪!」
満月が出雲に酷い目に遭わされないことを四人仲良く祈るより他無い。出雲という『魔』を祓う力など、ありはしないから。小雪さんも出雲さんには気をつけた方が良いかもしれませんね、と柚季。
それからも話は大いに盛り上がった。盛り上がれば盛り上がる程、お菓子の減るスピードは増すばかり。もう家の中は甘い匂いと、笑い声と、喋り声と熱気でいっぱいだ。これ以上いっぱいになったら爆発してしまうのではないかという位、もうぱんぱん。しかし家の中がぱんぱんになって爆発するより先に、皆のお腹がぱんぱん、爆発(小雪はまだ大丈夫だったから、正確にいうと三人だが)。
お腹がいっぱいになったところで、楽しいお茶会は終わった。今日買った分も、柚季の家に元々あった分も、もう殆ど残っていない。際限なく菓子を入れ続けた腹はぱんぱんで、風呂に入っても決して下腹部には目を向けまいと決意したくなるような状態。捨てたお菓子の袋や箱の数は知れず、とても女子四人が食べた量とは思えない。小雪は他の三人の二倍の量を食べたが、その分を差っ引いても、酷い。
「絶対太った……ああ、今日はのらない! 体重計には絶対のらない! のったら死ぬ! 私今日どれ位食べたんだろう……駄目、考えちゃ駄目!」
「今お腹を針でつついたら破裂するかもしれない……それにしてもよくこれだけの量を食べられたわね。一体どうやったのかしら……」
「調子に乗って食いすぎた! でも後悔はしていない!」
「まあ、でも楽しかったからよしとしましょう」
そんな小雪の言葉に皆涙目になりながら頷くのだった。テーブルの上を片付け、チョコのラッピングに取りかかる。お腹苦しい、という言葉を連呼しながら。柚季はまだクッキーを焼いていないので、皆の作業を見守るのに徹した。
自分の手で作ったお菓子、自分でやったラッピング――その完成品は温もりに溢れていた。うんと心を込めて作ったそれは温もりも重みも、何もかもが市販品とは違うように思える。市販品が手作りに劣っているということはないだろうが、それでも矢張り何かが違うような気がするのだった。
(あの男に伝わるかしら。私がこれに込めた想い……多分、駄目ね。どうせ想いには気づいてくれない。だって本当に鈍いものあの男は! チョコを渡しただけで気づいてくれるなら、こんなに苦労していないもの! でも、でもせめて、せめてうんと心を込めて作ったことだけには気づいてもらいたい。適当に作ったわけじゃないって。温もりと思いの重さは感じ取って欲しい。それさえ感じ取れないようなら、あいつはただの馬鹿よ! 氷漬けにしてどこかに沈めてやる!)
ラッピングを終えた頃には風呂の準備が完了し、一人ずつ順番に入っていく。いっそ皆で入ろうぜ、なんて紗久羅は冗談を言ったけれど(それにさくらが真面目に返したものだから、おかしいやら呆れるやら)。最初が紗久羅、次にさくら、柚季、最後に小雪。小雪は熱い湯船ではなく、シャワー(水)を浴びることを選んだ。冬に水を浴びるなんて、と皆信じられないという風な顔。しかし小雪にとっては別段珍しくもないことで。
皆順に入ってはパジャマに身を包む。パジャマパーティだ、と紗久羅は随分楽しそうだったが、パジャマになった位で何をそんなにはしゃいでいるのだろうと正直小雪は思う。さくらも紗久羅と柚季が妙にうきうきしている意味が分からないようで、困惑気味。そんな彼女のパジャマは私服とさほど変わらない。紗久羅は友人にプレゼントで貰ったという、可愛くデフォルメされた竜の着ぐるみパジャマを着ている。そんなものもあるのかと、初めて知った小雪だった。なかなか可愛らしくて良いかもしれないと思いつつ、自分で着るのは恥ずかしいと思う。柚季は白のネグリジェ、小雪は同じく白の、袖や裾にレースのついた女の子らしいパジャマだ。
小雪がパジャマを着て風呂場から出ると、カーペットの上やソファに腰かけて飽きもせずお喋りをしていた三人揃って意外そうな顔をして。どうしたのか、と首を傾げれば成程。どうやら皆小雪がパジャマを持っているとは思ってもいなかったようで。この日の為に買ったのかと柚季に聞かれ、違うと言って首を振り。その頬は仄かに赤く。
「その、や、弥助から貰ったのよ……今まで着たことがなかったけれど。いつかこういうのを着て、思いっきりはしゃいで、語らって、楽しい時間を過ごす……そんな友達がこっちの世界にも出来れば良いなって」
「へええ。で、小雪姉ちゃんはその優しさに触れてますます弥助に惚れた、と」
う……と俯く小雪を見て、にししと笑う声。確かにそういう優しさに触れる度惚れ直してしまうことは確かだが、一方でそういう発言を聞くと「やっぱり手のかかる妹って風にしか見ていないんだなあ」と改めて思い、胸は熱くなるやら苦しくなるやら。
「そういえば小雪さんって弥助さんやおじいちゃんから洋服をよく貰っているんですよね。元々目立つ髪の色をしていておまけに着物を着て歩いていたらかなり目立っちゃうからって」
「ええ、そうね。最近は自分で買うけれど、初めの内は殆ど二人から貰っていたわね……一緒に行って私が選ぶこともあったし、私が好きそうなものを選んで渡してくれたり」
「ってことはあいつ、一人で女性服売り場に行って小雪姉ちゃんにあげる服を選ぶこともあるんだ。勇気あるなあ。つうかものすごく異様な光景だよな……図体のでかい筋肉マッチョの兄ちゃんというかおっさんというか……そんな男が真面目な顔して女物の服を吟味しているのって。あ、やばい想像したらなんかおかしくなってきた。まああれだけ大きけりゃあ自分に合うサイズもないだろうから、女装用の服でも調達しに来たのかなと思われることはないだろう。出雲辺りじゃ場合によっては誤解されたかもしれないけれどな!」
「出雲さん、女の人の格好とか似合いそうね!」
「出雲の場合別にそんなことをしなくても、化けて簡単に女性になれるけれどね……結構女性に化けて人間の男性を誘惑したこともあるみたいだし」
「あいつ人を堕とす為なら何だってするな。ていうかあいつ、まさか女の姿で誘惑した奴と男女の仲に……」
「ああ、それはないみたいよ。上手いこと逃げたり、術でごまかしたりしたって。幾ら女の体になったからって野郎なんかとあんなことこんなことが出来るものか、気持ち悪いって言っていたもの。相手がその気になって、さあこれからって時に元の姿に戻って『やあいやあい、馬鹿、馬鹿、やあい、やい!』って笑い飛ばして逃げる……というのもお約束だったみたい。女を騙す時はその限りではなかったようだけれど……」
出雲が美女に化けて男を誘惑する(その逆も勿論多かった)という悪さをすることは、村人達も当然知っているはずなのに、それでも皆出雲に誘惑され、最終的に酷い目に遭わされる。さくら曰く、桜村奇譚集には『見知らぬ美女や美男を見たら出雲だと思え』という言葉が残っているとか。本人や他の妖から彼の悪事の数々を聞く度、小雪は頭が痛くなった。彼に比べれば、かつて自分を喰らおうとした化け物など可愛く見えてしまう。
「というか何かさっきからどんな話をしていても、最終的に話題が出雲さんのことになっているような気がするんだけれど、紗久羅さん?」
「そういえばそうね、何だか今日は出雲さんのことについて沢山お話ししたような気がするわ。ねえ、紗久羅ちゃん」
「出雲って名前を頭にこびりつく位聞いた気がするわ、紗久羅?」
「何で皆してあたしを見る!?」
ソファにあったクッションをむんずと掴み、それで紗久羅は顔を隠す。だって、と柚季。
「そうなっている原因は全部紗久羅にあるのだもの。本当紗久羅ってば出雲さんのこと大好きねえ! 向こうも紗久羅のことは好きみたいだし、もういっそのこと結婚しちゃいなさいよ!」
「好きなもんかい! あんな奴と結婚するなら弥助と結婚した方がまだましだ!」
「まあ、紗久羅ったら! ましとかましじゃないってことで弥助の名前を出さないでちょうだい!」
と紗久羅に拳を振り上げる真似をすれば、紗久羅はクッションで頭をかばい、いやあん許して小雪様と許しを請うフリ。駄目、許してあげませんわとそんな彼女に襲いかかってみせる。そんな風にしてじゃれたことなんて生まれてこの方一度もなかったような気がした。普段の自分なら考えられないことだが、このお泊り会が生んだ空気にあてられたようで。
とりあえずそれで紗久羅への追及は終わり、今度は皆で柚季が借りてきたDVDを見た。一本目はベッタベタの王道恋愛映画で、このヒーローはありかなしかとか、何でライバルってこう性格悪い女ばっかりなんだろうとか、デートへ行くならどこがいいかとか話しながら見ていた。紗久羅は遊園地などうんとはしゃいで楽しめる賑やかな場所や、いつも行っている店やゲーセンを適当に歩き回る方が良いと言い、柚季と小雪は静かで落ち着く場所の方が良いと言う。さくらはといえば「図書館でずっと本を読んでいたい」と言い、全員に「それは果たしてデートと呼べるのだろうか」とつっこまれ。小雪は主人公とヒーローが手を繋いだりデートをしたりしているシーンなどを見る度弥助とこんな風になれたら、とつい想像してしまいその都度私は何を考えているのだろうと悶絶する。ヒーローが主人公をライバルから守るシーン
を見た時は、つい化け物から自分を守ってくれた弥助の姿を思い出したりなんかして。
映画を見ながら、お菓子をつまむ。あれ程お腹いっぱい、死ぬ、もう駄目と言っていたくせに今はけろりとしている。本当にあの時皆苦しいと思っていたのかしら、と小雪が疑問に思う位に。
物語が終盤に差しかかると、紗久羅がヒートアップする。これぞ恋愛! という展開に興奮している……というよりはうじうじうだうだしている主人公とヒーローにイライラしているようで。
「何いつまでもうじうじしていやがるんだ! さっさと行けっての! おうおう、行ったな、ようし、そこだ、そのまま想いのたけをぶつけろ、やれ、やれえ、やっちまえ!」
「私達が見ているのってプロレスだっけ……?」
拳を振り上げエキサイトしている紗久羅を見て呟くのは柚季。最後、本当に本当の恋人同士になり二人がキスしたところで「いよっしゃあ!」と叫んで(まるで応援していた方の選手が勝ったのを喜んでいるような様子であった)、柚季に「うるさい!」とクッションを頭に投げつけられ。映画公開当時はまだ殆ど無名だった歌手によるEDを聞きながら、好きな音楽について話す。小雪は流石にこちらの世界のアーティストなど殆ど知らないから、紗久羅と柚季があげた歌手の名前を聞いても全くピンとこない。さくらも似たようなもので、その人誰と聞いては二人に驚かれていた。彼女はむしろ、小雪の話す向こうの世界の『歌』の話の方に食いつき、柚季達の話を聞いていた時は能面のようだった顔が、眩しい位輝いていた。更に歌の上手い下手の話になり、またもや紗久羅が出雲とかはこっちの世界の歌とか歌わせたらどんな感じになるんだろうと言いだし、柚季がそれをからかったところで二本目の映画へ。
二本目はアニメの長編映画で、子供から大人まで幅広い年代に愛されているもの。細かいことは気にせず楽しむ……ものなのだろうが、その細かい部分を気にして紗久羅が逐一ツッコミを入れる。またそのツッコミが秀逸で、気づけば皆で仲良くあら探し。見つけてはツッコミ入れて、けらけら笑い。まあ、これもまた一つの楽しみ方ということで。しかし段々と話がシリアスになるにつれ、口数は少なくなり、そして最後の感動シーンでは皆思わず、ほろり。締めつけられた胸から溢れ出た悲しみと苦しみが涙となってぽとり、ぽとり。
「こんな良い話だったのか! もっと真面目に見りゃあ良かった!」
と、紗久羅は悔しい様子。映画を見終わった後は皆で鼻水すすりながらトランプやボードゲームで遊び、近所迷惑にならない程度に騒いで。もう最後の方は小雪以外の三人は完全におねむの状態で、珍プレーと迷言の嵐が及川家に吹き荒れる。柚季などいつの間にか現れた速水のからかいの言葉さえまともに認識せず、真面目に返したり、とんちんかんなことを言ったりで。
これはもう限界と皆寝ることにした。騒ぎすぎて声がらがら、お腹はぱんぱん、と嘆きながら寝る準備をして、灯りを消した。これで、楽しかったお泊り会も、もう終わり。
小雪はすっかり暗くなった世界をぼうっと見ながら一日を振り返る。
(何だかもうへとへと。でも、とても楽しかったわ……女の子らしい時間を過ごした、という感じもしたし。これ程買い物や料理を楽しんだのは初めてだったかもしれない。映画も、げえむも楽しかったし……本当今日は来て良かった!)
そんな風に今日という日を目一杯楽しめたのは紗久羅達のお陰であり、そして。小雪は自分が作ったチョコのことを思い浮かべる。そのチョコを渡す相手――弥助と出会っていなければ、こうして買い物や料理を楽しむことも、映画を見て泣いたり笑ったりすることだってなかった。小雪が今日までに得た幸せ、苦しみ、悲しみそれら全ての原点があの日にある。弥助が小雪の世界を広げる手助けをし、そして今では彼の助けなどなくても世界を広げることが出来る。広がった世界の先に、今日のお泊り会があった。井戸の中にいたらそれは絶対に知りえないものであった。
チョコには、弥助への想いをうんと込めた。好きだ、愛している、私は貴方と共にいたいという、意気地が無いゆえ決して口に出せない想い。弥助と出会ったことで抱くようになった想い、出会ったからこそ生まれた躊躇いや迷いという思い。良いことも、良くないことも全て知ったからこそ今の人を愛しながらその想いを伝えられない意地っ張りで臆病な自分がいるのだ。
ありがとう、ありがとう、私に手を差し伸べてくれて。ありがとう、私に世界を教えてくれて。そんな感謝の気持ちもあのチョコには込められている。それもまた照れくさくてなかなか口に出来ない気持ちであった。紗久羅達にはちゃんと「今日はありがとう、とても楽しかった」と素直に自分の気持ちを伝えられるけれど、弥助相手だとそうはいかない。
(明日ちゃんと渡そう、あのチョコを。きっと本命だと言うことは出来ないし、ありがとうの一言も言えないだろうけれど、それでも渡そう。自分の気持ちを、渡すんだ。そして一歩でもいいから、進もう……そしていつか、口にするの……ちゃんと、口に出して、伝えるの)
静かに決意し、それからまたいつかこんな風に紗久羅達と遊びたいな、そしてもっともっと色々な世界を知りたいわとか、本当に今日は楽しかったわ、とかそんなことを考えながら小雪はゆっくりと目を瞑った。
姦し菓子会、これにておしまい。




