番外編3:夏は暑い。恋は熱い。
『夏は暑い。恋は熱い』
「夏は嫌いです」
桜町の外れにある喫茶店『桜~SAKURA~』の中でも、一番日が当たらない、暗くて涼しい場所にあるテーブルに、女が座っている。
髪は白に近い銀色で、触れれば凍りついてしまいそうな冷たい色をしていた。瞳は青玉の様な鮮やかな青。肌は白く、唇はやや青い。着ているのは、飾り気の無い白のワンピース。20代半ば程に見える。少し病弱な、外国に住む清楚なお嬢さんといった感じの雰囲気の娘だ。
女は、アイスコーヒーを一口飲むなりそう呟き、ため息をついた。
そんな彼女の真向かいに座っているのは、この喫茶店で働いている弥助だ。ちなみに休憩中。清楚とか、冷たいとかそういう言葉とは一切無縁そうな、暑苦しくてむさ苦しい男である。弥助は、ソーダを一口飲みながら苦笑する。
「まあ、小雪にとっては天敵だろうなあ、この暑さは」
「ついでに弥助。あんたも暑苦しいから、嫌いです」
「ああ? 何だと!? 何さり気なく酷いこと言っているっすか」
小雪と呼ばれた女は、ぷいっとそっぽを向く。そして、窓から差し込む眩しい太陽の光を見て顔をしかめた。
「全く、この世界は地獄です。なんだってこんなに暑いんですか。あちらの世界は、こちらに比べたらずっと涼しいです。特に私の住む所は、とても涼しくて住み心地がいい。はあ、こんな所に住んでいるから、人間共は常にぴりぴりしてやがるんですよ。全く、弥助はよくこんな所に住んでいられますね。馬鹿ですね、阿呆ですね」
アイスコーヒーは、あっという間に小雪の体の中に消え、氷で作られたかのような冷たく透明なグラスだけが残った。小雪は、さっと手をあげて店員を呼ぶ。
程なくして現れたのは、ここで弥助と一緒に働いている朝比奈満月だ。腰まで伸びている髪を上で束ねている彼女は、温かな笑みを浮かべる。愛らしいその笑顔に、弥助の顔が一気に情けないものになる。鼻の下は伸び、元々垂れている目が更に垂れて、頬が赤くなる。それもそのはずだ。弥助は彼女のことが好きなのだから。
満月は、小雪に心からの笑顔を向ける。彼女の来店を歓迎しているのだ。
「いらっしゃいませ」
「注文の追加、お願いできるかしら」
「はい。ご注文をお願いいたします」
「宇治金時パフェ一つ、お願いするわ」
「宇治金時パフェですね、かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
伝票を書き終えると満月はお辞儀して、厨房へ向う。弥助と目が合った彼女は、にこりと笑った。弥助は長時間放置したアイスクリームの様にすっかり溶けてしまった。その様子を小雪が顔をしかめながら見つめている。
「本当、暑苦しい。……恋する男ってやつですね……本当、暑苦しい。ああ、暑い暑い。嫌になるわ、本当」
手をぱたぱたさせながら小雪が冷たく言い放つも、弥助は全く気にする素振りを見せず、満月の笑顔を思い出してとろとろに溶けている。そのまま蒸発して消えそうな勢い。これが「恋する乙女」であれば可愛いのだが、生憎今溶けているのはむさ苦しい男。しかもお兄さん、というよりかはおっさんに近い(実年齢で考えれば、おじいさんを遥かに超えるレベルなのだが)のだから、余計にむさ苦しく、見苦しい。
「いいじゃないっすか、別に。人を想う気持ちっていうのはそれ位人を熱くさせちまうもんなんだよ。まあいつも冷たい雪女のあんたには分からないかもしれないっすが」
そう、小雪もまた弥助と同じ「人ならざる者」なのだ。周囲を雪山や真白の森に囲まれた、雪女や雪男等寒い所を好む妖等が集まる、雪の里に住んでいる。暑い所にいると溶けて消えてしまうという訳では無いが、長時間いれば命を縮め、最悪死に至る。そんな彼女にとって人間界の夏の暑さは天敵なのだ。
そんな彼女は、弥助の言葉を聞いて顔をしかめる。
「いつも冷たい、とは聞き捨てなりませんね。私だって熱くなる時はあります」
「へえ、あんたが? それは初耳っすねえ。……全く、そんなに嫌だったらこっちに来なければいいじゃないっすか。何で暑くて死にそうになることが分かっていて、来るっすか?」
何気なく弥助がそう聞くと、小雪の体が急に固まった。見れば、そのぞっとする位冷たく白い頬が赤く染まっている。
もう空になっているコップを両手で包み込み、視線をテーブルにやり、あーとかうーとか訳の分からぬ声をあげる。
「べ、別に。弥助には関係の無いことです。ええ、全然関係の無いことなのです」
そう言ってごまかそうとするが、何かあることは見え見えである。先程まで殆ど顔色も変えず淡々と喋っていた彼女とは大違い。顔を真っ赤にして慌てふためく。
弥助は、コップをぎゅっと持ち彼から視線を逸らす小雪の様子を見て、にやりと笑った。
「ははん、成る程ねえ。あんた、こっちの世界に好きな人がいるんですね。……こっちの世界に来ないと会えない……すなわち、相手は人間。ずばり、そうだろう?」
小雪の顔は、林檎飴の様に真っ赤になった。あからさまに動揺し、口をぱくぱくさせながら、弥助を力なく睨んでいる。
「図星のようっすねえ。いやあ、驚いた。あっしには暑苦しいとかなんとか言っておきながら、自分も恋をしていたとは。冷たい氷の塊よりなお冷たいあんたが、人を、好きに」
小雪が恋をしているという事実が、弥助にとっては余程おかしいことに思えたらしく、テーブルを叩いて笑い始めた。無神経もいいところだ。
「う、う、うるさい! やっぱり弥助は嫌いです! あの満月って女も可哀想です、お前みたいな男に好かれるなんて。不幸としか言いようがありません、心の底から同情します!」
立ち上がり、身を乗り出し、弥助に怒鳴る。しかし、その必死な姿が余程おかしかったのか、ますますその笑い声は大きくなっていく。もしここが人の世界で無ければ、今頃彼女は口から冷気を発して弥助を凍りつかせていただろう。しかし今此処でそんなことをしたら、大変なことになる。小雪は口に乗せて吐き出したい怒りを何とか抑える。
「わ、笑うのをやめなさい! でないと後で恐ろしい目に合わせてやります! 夜道には気をつけなさい、私が背後からお前を襲って凍らせて、カキ氷にして喰ってやりますから!」
「あっしをカキ氷にしたって美味しくはないっすよ。多分どう調理しても不味いだろうな、うん。それにしても小雪、あんたが恋をしているなんてねえ。いやあ、妖怪に好かれちまうなんて、その人間の男も可哀想だ」
「黙れ、馬鹿狸。その言葉、そっくり返してやります。汚い面で、馬鹿力位しか取り柄の無いお前に好かれる、あの娘が可哀想です、本当に。あ、あの娘は人間にしてはなかなか可愛い娘です。しかも、心優しくて料理も上手。それなのに、よりにもよってそんな可愛い娘の顔を見てデレデレしているのが、お前みたいな汚い筋肉達磨だなんて! 私があの娘と同じ立場だったら……っ」
「汚い面で悪かったなあ。でもそんなことあんたには関係ないだろう」
小雪が、大声で何かを叫ぼうとして、やめて深呼吸し、そして恐らく最初に言おうとしたこととは別のことを言う。
「その言葉もそっくり返してやります。私が恋をしているとか、いないとか、誰にしているとか……そ、そんなの……お、お前には関係の無いことです!」
関係無い、その一言には切ない想いが隠されているのだが、弥助にそんな想いを汲み取れるはずがない。汲み取れていれば、今頃こんなことにはなっていなかったはずだ。
「まあ、確かに関係無いんだが……」
「不潔、筋肉馬鹿、鈍感男! 大嫌いです!」
「鈍感? それは今の会話とどう関係しているんですか? 女心の分からない男ね、この馬鹿ってことっすか?」
「べべべべ、別に、深い、意味は、あ、ありません!」
だん!とテーブルを叩く。弥助が笑いながらも、意味が分からないと首を傾げた。
一方、厨房。パフェのトッピングをしている満月の下に、この店のマスターである秋太郎がやって来た。
「またやっているよ、あの二人は」
「そうみたいですね。声は殆ど聞こえてこないですけれど、いつもの様に言い合っているのが聞こえます」
「あの二人は、ここで会う度に喧嘩しているもんなあ。いつもはまあ、小雪さんの方が優勢なんだけれど。今回は珍しく弥助の方が、ね」
秋太郎が、くすくす笑う。
「私思うんですけれど、小雪さんって弥助さんこと……好きですよね」
「だと思うよ。今丁度、小雪さんの好きな人についての話になっているようだけれど。弥助は鈍いから気づいていないけれど……小雪さんが、遠くから来てまで会いたいのは、弥助だろうねえ」
「向こう側の世界」からやって来てまで、とは言わなかった。秋太郎は弥助も小雪も妖であることは知っているが、満月は知らないのだ。だから、その辺りは上手くぼかした。別に嘘はついていない。あちらの世界は近くて遠い、そんな世界なのだから。
「暑いのが苦手で、文句を言いながらもこっちまで来て、それであいつに会いに来て。けれど、いつも喧嘩になってしまう。……あの馬鹿がもう少し鋭ければこうもならないだろうにねえ。鈍感な弥助と、なかなか正直になれない小雪さん。このままじゃあ、弥助が彼女の想いに気づくこともなく、小雪さんが想いを伝えられることもなく……同じことの繰り返しだろうねえ」
「でも、弥助さんは弥助さんで、好きな人がいるみたいなんですよね。小雪さん……ではないと思うんですけれど、誰なのかさっぱり分からないです」
クリームをしぼって抹茶のアイスの上に落とす満月が、首を傾げる。秋太郎は、心の中で苦笑した。弥助が好きなのは、満月である。しかし、彼女はそのことを知らない。彼の熱すぎる視線にも彼女は全く気がつかないのだ。他人に向ける想いには敏感でも、自分に向けられる想いにはとことん鈍い。その点は、弥助によく似ているのかもしれない。
「ま、まあいずれ君にも話してくれるんじゃないかな」
……果たして話す日が来るのかどうか。
「小雪さんの恋も応援したいです。けれど、弥助さんの想いも成就すればいいなと思ってしまって。難しいです……」
と本気で頭を悩ませる彼女は、どこまでも優しい娘だ。けれど彼女知らないのだ。自分が彼らの恋のトライアングルの一点(或いは一辺)となっていることに。優しくも愚かな彼女は。きっと永遠にそのことに気づくまい。
傍観者として、三人の恋路を見守っている秋太郎は、もどかしいやら切ないやら楽しいやら。
パフェのトッピングも終わり、満月はそれをお盆に乗せてテーブルへと向う。
「お待たせいたしました、宇治金時パフェです」
ひやりと冷たく、高貴な茶の香り漂うパフェ。それが目の前に置かれると、先程まで大声で叫んでいた小雪も、少しだけ大人しくなる。まあ、言い争いをしていた相手が、満月に見惚れて大人しくなったからというのもあるのだが。
「有難う」
小雪が俯きながら礼を言う。その後、ぶつぶつと何かを呟いていたが、聞き取ることは出来ない。満月はまたにこりと微笑んで、厨房へ向う。秋太郎は、カウンターに戻っていて、新聞を読みながらちらちらと彼らの様子を眺めている。
小雪は、満月に複雑な視線を向ける。彼女のことは嫌いではない。むしろ、好きな部類に入る。けれど、そんな彼女は恋敵。彼女はそんなこと少しも知らないだろうけれど。
そして目の前にいる弥助を見る。何だって、こんなものに惚れてしまったのか。心の中で問うも、答えは出ない。具体的にどこが好きかと聞かれたら、頭を抱えて悩んでしまうかもしれない。
彼の優しさに触れたことがキッカケだったことは確かだ。けれど、弥助は誰にだって優しい男。それが彼の良い所なのか、悪い所なのか。そこに惚れたのか、違うのか。未だに分からない。
彼は。自分から想いを伝えない限り、自分の想いに気づくことはあるまい。それがどうしようもなく悲しく、切なく、もどかしく、腹立たしい。小雪は、パフェを一口食べる。抹茶のアイスは甘すぎず、クリームと食べると丁度良い甘さになる。そのクリームもくどくない。大人の味、という感じがするのだ。小雪は、人間の事など好きではないが、人間の作る料理は美味しいからそれなりに好きだった。
「暑いのは、嫌い。大嫌い……嫌いです……本当に、大嫌い……」
自分の心をごまかすように、ぶつぶつ呟きながら小雪はパフェを食べる。そんな思いにさせる男は、自分の方など見もせずにぼけっとしている。そうされると、ますます意地を張ってしまう自分が情けない。
秋太郎は、ため息をつきながらそんな二人の様子を見ている。
「夏は暑い。恋する人は、熱い。夏の暑さにはほとほと参るけれど、こういう熱さは……嫌いじゃないねえ、むしろ楽しいし、心地よい位だ。人を思う時、心は熱くなる……昔を思い出すなあ」
昔の恋の思い出を懐かしみつつ、彼は思わず声を出して笑った。
果たして、小雪の熱い思いは弥助に届くのだろうか。仮に届いたとして、その熱い思いは、寒い冬を迎えることなく、永遠に夏のままでいられるのだろうか。
この先どうなるのか、楽しみだ。
季節は、夏。今日も……あつい。