第五十三夜:宮の花々(1)
『宮の花々』
「いつ来てもここは賑やかだなあ!」
額に右手をあてながら辺りの景色を眺めている紗久羅がいるのは、翡翠京。江戸の城下町を思わせる町並みで、もう幾度目かの訪問となる。一番この京に足を運んでいるのは紗久羅で、休日出雲に誘われ茶店で団子や汁粉を食べたり、うどん屋にて美味しいうどんを食べたりすることが度々あった。紗久羅の真横に立っているさくらは「ここへ来るのも久しぶりだわ!」と頬を紅潮させ、目をきらきらと輝かせている。その輝きはどことなく危ないものを秘めていた。自ら進んでこちらの世界に足を踏み入れることのない奈都貴は、顔見知りになった妖と短い会話をしている紗久羅を見ながら「お前、相当ここに来ているんだな」とため息。
京、というのは一定以上の規模がある集落のことで世界各地に存在するという。小規模の集落は村とか、里などと呼ばれているようだ。特にそういった呼び名の無い集落も多くあるそうな。
四人で団子を食い、腹ごしらえしてから向かったのは京の中心。そこには大きな堀、そして木で出来た高塀で囲まれた『宮』がある。いつもこの辺りを通る度、紗久羅やさくらは外界から隔絶されているような雰囲気を醸しだしている、異界の中の更なる異界を思わせるその場所のことが気になっていた。
今日の目的地はその『宮』である。
「京には必ず『宮』がある。宮の名前は京と同じ場合もあれば、違う場合もある。ここの場合は京と同じ名前で『翡翠宮』と呼ばれているんだ」
宮へと至る門へと続く橋は板を繋ぎ合わせただけの簡素なもので、欄干さえない。バランス崩せばそのまま鯉などが悠々と泳ぐ堀へたちまちどぼんだ。とはいえ、幅は広いから中央を歩いていけばまずそのような事態にはならないだろうと思われた。先頭を歩く出雲に三人が一列になってついていく様子は、親鴨の後を追ってよちよち歩く小鴨の如し。
立派な門の前には長い棒を手に仁王立ちしている二人の番人。向かって右にいる男の肌は赤く、左にいる男は青で、額に締めた鉢巻の白がよく映えている。あまりのおっかなさに三人の体は自然とかちこち固まり、思わず唾をごくり。まだまだ厳しい寒さなのに、つつつうっと流れる汗の冷たいこと、冷たいこと。対して出雲はいつもと変わらず涼しげな顔、恐れず怯まず「やあ」と二人に声をかけ、いつも持ち歩いている巾着袋から何かを取り出し、それを彼等へと見せる。二人は「またお前か」という風な顔でそれを見、それからまだ固まっている紗久羅達を無言で睨んでから、こくりと頷き門を開いた。
「タマミタマ」
赤い肌の男が懐から赤い勾玉がついた首飾りを取り出し、手の平においたそれにふっと息を吹きかける。すると首飾りは宙を舞い、門をくぐると一人の少年に姿を変えた。十二歳位で肌は白く、角髪といい服装といい、神話の時代の人間に見え、近世という言葉がふさわしいようなこの京ではその姿はかなり浮いて見える。ふっくらした頬、細い目、唇そのどこにも感情らしいものがまるでなく、人形のようで気味が悪い。
「鬼灯姫のもとへ行き、客人が来たことを伝えるが良い」
「あい」
それだけ言った少年の体はふわりと宙に浮かび、そして空を切る白い光の線となるとあっという間に見えなくなった。それから彼が帰ってくるまで、四人は門をくぐった所でじっと待っていた。門をくぐる時、紗久羅達は突き刺すような視線を感じて息が詰まった。門番達のそのちくちく痛む視線を感じれば、彼等が四人の来訪を歓迎していないことは嫌でも分かる。嗚呼、妖怪や人間風情が立ち入る場所ではないのだぞという言葉が視線の中に混ざっている。門がばたん(その閉め方も心なしか乱暴な気がした)と閉まり、門番の視線が遮断されたのを感じた時三人はほっと息をついた。緊張状態から解放された三人を見て、出雲が「ふん」と笑う。
「なんだい、あれしきのことで。君達の心は豆腐か何かかい? 脆いふよふよ豆腐、恐怖に震えてぶるぶるぼろりってね。別に堂々としていればいいじゃないか、我々は友人に会いに来ただけ、やましいところなんて何にもないんだからさあ」
「今から訪ねる鬼灯姫という方が『通しの鬼灯』を作ったんですよね?」
そう、とさくらの問いに出雲が頷く。
「彼女には様々な力を持つ鬼灯を生み出す能力がある。私は彼女とは古い付き合いだから比較的容易に手に入れることが出来るけれど、本来彼女の作る鬼灯はかなり手に入れにくい代物なんだよ。『道』をはっきりと見せるだけの力を持つものは特にね。一個作るのにもそれなりの時間と労力がいるようだ。だから君達、通しの鬼灯は丁重に扱っておくれよ」
「井上辺りはプリントとかもう使っていない筆記用具なんかでぐちゃぐちゃの引き出し辺りに突っ込んでいそうだな」
「失礼な! 確かに引き出しの中に入れているけれど、そこまで……ぐちゃぐちゃで汚くはないよ!」
「今妙な間があったわね……。私は今紙製の小物入れの中に入れているの。美吉先輩が作ってくれたものでね、千代紙が貼られた八角形の箱でとてもおしゃれなのよ。千代紙の模様は」
「ああ、別にそこまで説明しなくてもいいよ、さくら姉! ええとそれで、あたし達が使っている通しの鬼灯を作ってくれた鬼灯姫は今この翡翠宮に住んでいると。ここに住んでいるのってやっぱり皆精霊とかなのか? 何か他の場所と全然空気とかも違うんだけれど。魔珠羅の森みたいな、ものすごく清らかな感じ」
言われてみればそうだな、と奈都貴。さくらも空気の違いをその肌で感じ取っているらしい。吸い込んだだけで体の内にある悪いもの全てを消し去ってくれそうな、清く澄んだもの。金銀に輝く透き通った水に体も魂も預け、目を瞑りながら水面をたゆたっているような心地良さに思わずほうとため息をついてしまいたくなる。ここが異質で歪な空気を孕む妖達が多く住む京の中であることなど到底信じられず、自分達は本当に異界の中の更なる異界に迷い込んでしまったのではないだろうかと思える程だ。
そうだねえ、と出雲。
「この宮には妖などいない。式神とか生き人形みたいな、精霊とは程遠い存在の者はいるけれどね。基本的には精霊とか、神と呼ばれるような者が住む場所だ。そしてこの宮に許可なく立ち入ることは許されない。いつのことだったかな、ある一人の妖が鬼灯夜行で出会った一人の精霊に恋をした。その精霊はとある宮で暮らす姫君だった。妖は彼女にまたどうしても会いたくて、想いを遂げたくて、宮に入る許可を申請した。ところが許可は下りなかった。それでも諦めきれなかった妖は上空から宮に侵入しようとしたが……宮の周りに張られている結界によって跡形もなく消滅してしまった……なんてことがあった」
「うわあ……。でも、許可さえ貰えば出雲のような妖も、俺達人間もこの宮に入ることが出来るんだ」
「うん。まあ見ての通り来訪を歓迎されることはないけれどね。喜んでくれるのは鬼灯姫位のものさ。精霊とかって多いんだよねえ、妖や人間を汚らわしい生き物と蔑む奴がさ。特にこういう宮にいる精霊や神は自分が選ばれた者、特別優れた者だと考えているような者が多いから尚更さ。許可だって、他の宮じゃあここまで簡単に下りないだろうよ。ここの一の姫は寛容というか物好きな性格のようでね、それゆえか比較的容易に許可も下りる。君達がこの宮に入ることだってすぐ許してくれたし」
「一の姫?」
さくらが首を傾げる。それに出雲が答えようとしたところでタマミタマが戻ってきた。彼は四人を無視し、塀を飛び越え門番のもとへと帰る。門の向こうから男の(恐らく青い肌の門番)「クシミタマ!」という声が聞こえた。直後、ひらひらと塀を越え四人の頭上を飛ぶ何かの姿が目に映った。それはまだ来ぬ春に舞う蝶の幻か、否、それは櫛であった。生き物と見紛うような動きを見せる青い花咲く櫛は四人の前まで飛び、それからぽとりと地へ落ちる。はらはらひらり、散る花びら、否これも櫛かな。
地上に触れるか触れないかという位でその櫛は少女の姿に変化した。タマミタマと似たような衣装を身にまとったその少女の頭にはあの櫛が刺さっている。彼女もまた感情というものを持たない者に見え、かえって櫛だけの状態でひらひら空を舞っていた時の方が余程生き物らしく見えた位だ。
「案内いたします」
抑揚のない声でそれだけ言うと彼女は四人に背を向け、さっさと歩きだす。馬鹿にしたような態度をとられるのも嫌だけれど、無表情無感情で接されるのも嫌なもんだよねえなどと言いながらも出雲が彼女の後を追うように歩きだしたので、紗久羅達も慌ててついていった。
白雪と月光を混ぜて固め、薄布の如き花びらで丁寧に磨いたような小石が敷き詰められた敷地は、途方もなく広い。うっかり紗久羅は前を行くクシミタマに「東京ドーム何個分?」などと聞いてしまったが、彼女には華麗にスルーをされた。出雲は当然東京ドームなど分からないから答えられないし、さくらや奈都貴にとっても縁のない場所だから想像もつかない。それにこのような美しい場所の面積をドーム何個分と例えるのは何となく嫌なことであった。広々とした敷地には、幾つもの建物がある。翡翠京に立ち並ぶ他の建物よりも、古い様式のものに感じられる。出雲曰く祭事を執り行う場、占を行う場等様々な目的に応じた建物があるそうだが、足を踏み入れたことがあるのはこれから向かう屋敷だけであるという。
空の青を吸い込む木々は藍柱石の輝きを見せ、翡翠の美をより引き立てる。そんな美しい葉茂る木の下で眠りについたらどれだけ気持ち良いだろうとさくらは思ったが、そのような行為が許されるはずもなく、口惜しいと心の中で残念がるのだった。
「そういえばさっき言っていた一の姫ってのは?」
話がまだ途中だったことを思い出した紗久羅が前を歩く出雲に問う。
「ああ、そういえば話の続きだったか。この宮には多くの精霊達が住まう。天に選ばれた者達がね。選ばれるのは皆女性で、雑用係や門番といった限られた者しか男はいない。ここに集う姫君達の殆どは無位だけれど、ごく一部の限られた者だけは位を持つ。それが一の姫、二の姫、三の姫、四の姫、五の姫さ。数字が小さくなればなる程高位で、人数も少なくなる」
「それじゃあ一の姫というのは宮のトップ、ということですか?」
「そういうこと。一つの宮に一の姫は一人だけ。それ以下の位の人数は宮によってまちまちだったかな。確か翡翠宮は二の姫が二人、三の姫が五人、四の姫が八人、五の姫が十人だったかな? ちなみに鬼灯姫は翡翠宮三の姫だ」
「ってことはかなり偉い方なんだ、あの人」
「うん。元人間が宮の姫君に選ばれることなんてなかなか無いことだ。ましてや三の姫などという高い位を与えられることなどまずない話さ。しかも鬼灯姫は精霊――鬼灯の精――になって間もない頃に選ばれた。私も驚いたよ、宮へ行くことが決まったという話を聞いた時は」
「へえ、すごいじゃん。でも海の底にある宮とかはまた色々違うんだな。九段坂のおっさんの元同級生の姉ちゃんが嫁いだ先は青海っていう男がトップだったよな」
「瑠璃宮、だったっけ。話を聞いた限りだと、一の姫とか二の姫とかそういう位も無さそうだったよな」
「ふうん、海の宮のことを君達は知っているんだ。うん、そう。大抵の『宮』は同じような仕組みだけれど、海や空にある宮はまた色々と違うようだ。地上にある宮にも他とは違う所はあるという。以前連れて行った麗月京も多分そうだ」
麗月京。その名を聞いた時、どういうわけか紗久羅とさくらは胸がちくりと痛むのを感じた。特にさくらの方の痛みは強かった。あそこでそのような痛みを貰うような出来事は起きなかったはずだが。頭もずきずきし、その痛みが頭の奥底に沈んでいる何かを浮き上がらせかける。
「どうしたの、二人共?」
浮かび上がりかかったものを沈めたのは、出雲の冷たい声。二人ははっとし、何でもないと首を横に振る。出雲はふっと微笑むと再び前を向き、何事もなかったかのようにすたすた歩く。麗しの姫君達が住まう屋敷へ着くまでの間、四人は雑談していた。クシミタマが会話に参加することはなく、こちらから何か聞いても大抵の場合は無視された。妖や人と話すことなど汚らわしいと思っているからなのか、主に命令されたこと以外は一切やらない機械人形の如き存在だからなのか、理由は分からなかったがとうとう紗久羅達は彼女に話しかけることをやめた。
ただ一つしかない門から、最奥にあるという屋敷までは相当の距離があった。一体この宮は京の何割を占めているのだろうと疑問に思う位だ。外から見た時はそれ程の広さを感じなかった。もしかしたらここの空間は捻じれているのかもしれない、と三人は心の中で思う。三十分、いや、一時間は歩いたかもしれない。さくらが自分の読んだ本のことについてぺらぺらと喋っている頃、ようやく屋敷の前まで辿り着いた。長い長い、途方もない年月を生きているだろう荘厳にして雅な屋敷は、入るのを躊躇う程の凄みを感じる。
履物を脱ぎ、(出雲以外)覚悟を決めて上がった屋敷は迷路のようでクシミタマの案内が無ければ永遠に鬼灯姫のもとには辿り着けそうになかった。時折ここに住まう者とすれ違ったが、皆一様に冷たい視線、もしくは珍生物でも見るかのような目を向けてくる。出雲の姿を見ることはもう珍しくもないようだが、紗久羅達を見るのは初めてだから冷たく侮蔑的な目の中には驚きが混ざっていた。部屋には戸らしい戸も無く、御簾がその代わりとなっていた。殆どの部屋はそれを上げていて、ゆえにそこで暮らす姫君達の姿は丸見えだ。勿論、その前を歩く紗久羅達の姿も。ひそひそ話、突き刺すような視線……。ちらりと視界に入る彼女達はまさに麗しの園に咲く美しい花。だがその姿をじっくりと眺めるだけの勇気は三人には無かった。出雲は彼女達に冷たい態度をとられても欠片も気にしていない様子。そして興味もないゆえか麗しい花の姿を見ようともしない。
肩身の狭い思いを屋敷を取り囲むようにして生えている木々や花々を眺めることで一生懸命振り払いながら歩く内、クシミタマがある部屋の前で立ち止まった。そして彼女は膝を下り、ひれ伏す。
「鬼灯姫様、客人が」
「まあ、よくぞいらっしゃいました!」
その温かく、どれだけ頑なに開くことを拒む花も、一瞬にして開かせる力を持っていそうな可憐な声にすっかりかちこちになっていた紗久羅達の体がふにゃり、柔らかくなる。その声の主の笑顔はそれはそれは可愛らしいもので。奈都貴なんかは完全に顔を真っ赤にしており、紗久羅はそれを見て「なっちゃんも男だねえ」とにやにや。そういう井上だって顔が赤いぞ、と返された紗久羅はばれたかと舌をぺろり。同性さえどきりとさせるその笑顔、出雲は顔こそ赤くしていないものの「可愛いなあ、可愛いなあ、相変わらず可愛いなあ」といつになくふにゃふにゃした声で言っている。
こうして四人は翡翠宮三の姫、鬼灯姫に温かく迎え入れられるのだった。




