猫の通り道(4)
*
「いやっほう!」
三匹の猫の声がパイプの中を駆けていく。混ざり合って、がんがん響いて、もう滅茶苦茶だ。パイプの滑り台は暗い暗い、けれどドントクライ、どんと来い暗い暗い。急カーブが待ち受けていることも、角度が急になることも、何も見えないから分かりやしない。それゆえよりエキサイティング。滑る滑る猫達、眩い銀月のような光が目の前に見えたかと思えば、ぽおんと思いっきり彼等の体は放り出される。その先にあったのはボルトやらネジの山――これが本物であったら痛いどころでは済まされないが、ご安心を、そこに積まれているのはゴムのようにむにむにした素材で出来たもの。だからちっとも痛くないし、むしろ心地良い。絶えることを知らないごおんとかどおんという、腹に良く響く音を聞きながら冷めやらぬ興奮を言葉で表そうとしたが、口はぱくぱく鯉みたいに動くだけでせいぜい「うう」とか「ああ」としか言えない。むにむにボルトやネジがどっさり入ったタンクの中を泳ぎ、設置されている鉄製の階段を下りていく。とおんかあん、という足音の小気味良さ。
ここは巨大工場……をイメージして作られたらしいダンジョン。こういうダンジョンは様々な領域にあるらしく、しかも日によって構造がまるで変わるというから驚きだ。のんびりまったりとした時間を過ごしたい猫にとってはどうでもいいものだが、皇帝達のような自らを殺しかねない程の好奇心を持つ猫にとってはたまらぬ場所である。ここへも鳥居の気まぐれによって辿り着いた。初めて来たらしいダンジョンを前に皇帝達は大層興奮し、しばらく皆して『新しい場所を見つけてハッピーの舞』なるものを舞った。
「私はあまり『いかにも人工的です!』といったようなものは好かないのだが、工場というのはものによっては素晴らしいものだと思う。特に夜、ライトアップされたものなどは大変ファンタジックで良い! そんな夜の工場をモチーフにしたダンジョンなんて、わくわくしない方がおかしいではないか! 時々聞こえる音もまたなんかこう、良いな! 夜に聞くと、何だか非日常世界の音といった感じがして。毎日聞いているとそれが当たり前になって、日常の音となってしまうだろうし、うるさくて嫌になってしまうかもしれんがな!」
銀や金、青、赤等の灯りでライトアップされた世界。無数のパイプ、赤と白の縞模様の煙突、タンク、階段、塔……直線曲線円に四角、様々なものが混ざり、絡み、複雑怪奇な世界を作り上げている。日常世界の一部として存在しているそれは、夜の持つ力と灯りによって非日常の世界に存在するものに見える。
無機物な建物に見える時もあれば、ごおんとかうおんという鳴き声発してその身を震わす生き物に見えることもある、まこと不思議な場所であった。その内外を三匹は冒険している。数々の罠を潜り抜け、あちこちに施された仕掛けを解き、しつこくこちらを追い掛け回したり、捕まえて遥か遠くへ飛ばそうとしたりするからくり人形達から逃げつつ、己の行きたいと思った場所へと行くのだ。
「おっと、向こうに宝箱が見えるね。けれどこのままだと宝箱のある場所まで行けないなあ!」
「地道に仕掛けを作動させる必要がありそうだ」
と虎吉。今三匹は無数のタンクがあるエリアにいる。タンクとタンクを繋ぐのは黄緑色の手すりがついた鉄製通路。だがこの通路、きちんとタンク同士を繋げているものもあれば、そうでないものもある。通路はタンクに設置されているレバーを引くことで方向を変えることが出来る。ただしどのレバーを動かすとどの通路がどんな風に動くのかは、動かしてみるまで分からない。しかも中にはタンクを移動させるレバーもあるし、宝箱のあるタンクまで行く為には動かしてはいけないレバーもあり、それを動かすことで正解から遠ざかってしまいどうしようもなくなってしまう、なんてこともある。皇帝はこういう仕掛けを解くのが大変苦手で、すぐ口から煙を吐いてギブアップしてしまう。虎吉は考えることを最初から放棄し、兎に角レバーを手当たり次第に動かす。そうしながら「それじゃあこことここを動かして、その後ここを動かすんだ」という風に何をどう動かすべきなのか考える……わけではない。偶然答えに辿り着くまで延々と適当に操作するのだ。格闘ゲームなどをやったら、間違いなく適当にボタンを押しまくってどうにかしようとするタイプである。どうも大抵の猫は皇帝或いは虎吉と同じタイプのようで。
こういう仕掛けを解くことに関しては欠片も役に立たない二匹の代わりに、晴明が頭を捻って答えを導きだす。なかなか複雑な仕掛けではあったが、どうにかこうにかクリアして宝箱の置いてあるタンクまで行った。
「あんた、本当にすごいなあ! 俺には一生こんなの解けないよ」
いえい、と三匹仲良くハイタッチ。
「私は文字とはお友達であるが、数字とはあまり仲が良くない、ゆえにこういうものは苦手ではあるのだが、しかしお友達になる努力を怠っているわけではないのだ! お友達は多い方が良い、きっと多い方が世界征服に役立つ! ゆえにあらゆる者と友になる為色々と頑張っているのである!」
「こういうのって数字が云々って関係あるのか? まあいいや。おい晴明、お前が宝箱を開けろよ」
虎吉は目の前にある宝箱をくいっと顎で示す。それでは遠慮なく、と宝箱を開けてみれば中には赤い宝石のネックレスが入っていた。それにちょこんと触れるとネックレスは消えていった。正確にいえば頭の中に『しまわれた』のである。晴明はふんふんと頷き、それから皇帝と虎吉の頭を自分の前足でぺしっと叩く。すると二匹もふんふんと頷いた。そうすることで彼等の頭の中にもあのネックレスが『しまわれた』のだ。行く先々で手に入るアイテムは、謎を解くのに必要なものもあるが大抵は何の役にもたたないものである。売れるわけでもなし、攻撃力やら素早さがあがるわけでもなし。ただアイテムにはこちらの想像力をかきたてるような設定がある。猫達はこれを集め、そのアイテムに付与された設定を脳内で『見る』ことで楽しみ、またその設定からあらゆる物語を捻り出して楽しむのだった。
「罠でなくて良かったなあ、さっきは宝箱を開けた途端酷い目に遭ったもんなあ」
「鼻がひん曲がっちゃったよ、すごい臭いだったもん。まだ感覚が……うげえ」
「あの臭いはなかなか言葉では言い表せぬものであったな! だがああいう臭いもきちんと文章で表せぬようにならねばいかんな! 臭いを発する文章、味を持つ文章、世界全てを可視化させる文章!」
「あんな臭いを発する文章なんて死んでも読みたくないね、ふん! いやあ、でも初めて来るダンジョンって素晴らしいよねえ! 罠や出てくるものの種類も全然違うから、通いなれている場所以上にわくわくどきどき、いやっほいにゃっほい!」
「とりあえずうっかり変な罠を作動させないようにしなくちゃなあ。中には鳥居を出現させる罠ってのがあってさ。しかもこの鳥居ってのが強制的においら達を呑み込んで、別の領域に吐き出しちまうってもんなんだ。それだけは勘弁だぜ!」
「そうだな、私もまだこの無機物にして生き物的ダンジョンから離れたくはない! ところで諸君、私は今変なスイッチを押してしまったのだがどう思う?」
「はあ!?」
明るく元気な声で、極めて自然に告げられた言葉に慌てて二匹、振り返る。にっこりしながら立ち止まっている晴明の右前足の下には成程確かにスイッチらしきものが見える。
そのスイッチが何のスイッチであったのか、それは間もなく分かった。三匹の頭上に出現した鳥居、ぱっくり空いた闇はけらけら笑っているように見えた。そうして笑いながら、ちゅうちゅうとにゃあにゃあ叫ぶ猫三匹を吸い込もうとする。三匹は吸い込まれまいと必死にこらえたり、通路を挟む手すりにしがみついたりするが、無駄な抵抗といってもよいものである。
「このあほんだらあ!」
「すまなんだ、すまなんだ! 後ついでに謝っておこう、実は私は人間で猫ではなかったのだ! 本当はずっと黙っておこうと思ったのだが、共に冒険をする内に絆を深めた大切な者達に嘘を吐き続けることはあまりに心苦しく! 苦しいのは誰だって嫌である、だから告白したのだ、ああ君達はそんな私を『人間とは一緒にいられない』と拒絶するだろうか! 私は拒絶されたくない、だがしかし拒絶されたとしても文句は言えまい、何故なら私は嘘を吐いたからだ、だが分かってくれ、嘘でも吐かねば猫集会に参加することなど出来ないと思ったのだ! 許しておくれ、許しておくれえ!」
「そんなこととっくに分かっていたことを告白するような状況じゃないだろうが今は!」
「というかこの状況でよくそれだけべらべら喋れるな!」
「何と! 最初から知っていたよ、だから大丈夫と! 私に気を遣って……本当に君達は最高の猫友だ! 猫は心が広い、額は狭いがとても広い心を持っている、ゆえに君達猫を見ているとまったり出来るのだ、きっと! 広いものを見る時、人は穏やかな気持ちになれる! 嗚呼猫よ、むにむにもふもふにゃんこ達よ、いつまでもその心広くあれ!」
「何を訳の分からんことを言っているんだあんたは!?」
とか何とか喚く猫達、その小さな体はとうとう鳥居の吸収力に屈しぺろっぽいっと光から闇、闇から光へひゅうぽろり。屋台に囲まれた道の真ん中にどてん、べたん。皇帝が一番下、その上に虎吉、最後にスイッチを踏んだ張本人、もとい張本猫が乗っかって。屋台の前、或いは屋台と屋台の間にある飲食スペースで食事をしていた猫達は三匹の猫が突然降ってきたものだからびっくりし、ぎにゃあとかうにゃあとかいう悲鳴あげ。
晴明は自分の下敷きになった二匹は、折角のダンジョンから放り出されたことをものすごく怒っているのではないかと考えた。わなわな震える二匹、彼等に嫌われてしまったと思い震える晴明。
「にゃはははははは!」
「あっはっはっはっは!」
ところが二匹から発せられたのは心からこの状況を楽しんでいるらしい笑い声であった。てっきり「折角新しい領域に行けたのに!」と言われるのだとばかり思っていたから、晴明は驚いてしまった。
「やっぱり冒険はこういうトラブルがつきものだよなあ!」
「そうそう! こういうものがなければ冒険とは呼べない! ま、あんたもあまり気にするなよ。はっはっは!」
二匹があんまり愉快そうに笑うものだから、晴明もつられてあっはっはと笑った。そのよく響く声は二匹の笑い声と混ざり合い、そして世界を照らすやかましく、温かく、そして優しい光となる。
ひとしきり笑った後、三匹は屋台を巡った。焼き鳥、おでん、焼き魚、得体の知れぬもの……あらゆるものがずらりと並び、酒のような良い香りもする。ちなみにどれも猫舌にゃんこに優しい熱さであるらしい。どれもこれも美味しそうだったが、皇帝も虎吉も「ここへ来ると本当腹が減るなあ」と話しながらも決して屋台の食べ物に手を出そうとしなかった。晴明も美味しそうだと思いながら、結局一口もタダで好きなだけ食べられる料理を口に入れることはなかった。そうした方が良いのだと思ったのだ。
途中、飲食スペースでいちゃいちゃしている豆大福とあいちゃんに出会った。彼等もまた、何も食べていないようである。飲食している時間さえ惜しい、兎に角ひたすらいちゃついていたいという理由だけでないことは、何となく察せられた。
三匹はまた様々な領域を回り、そして最後はがたんごとんと心地良く振動しながら動く列車の中にいた。真っ赤でふわふわしたシートの上で丸くなりつつ、外を流れる風景をぼうっと見つめる。のどかな田園風景、ちらほら見える藁ぶき屋根の家。かと思えば今度は西洋風の建物と風車が並ぶ街が見え、次に山を背に広がる野原を羊の群れが歩いているさまが見える。他にも草原のど真ん中に建つ和風の立派な屋敷、虹色に輝く水を湛えた湖、とうもろこし畑などが次々と晴明達の前に現れては消えていく。それを眺める晴明はこの美しく、変てこで、そして愉快な夢の終焉が間近に迫っていることを感じ取っていた。静かに流れる風景は、夢から覚める寂しさを少しずつ膨らませていく。風船のように膨らむそれを孕む体、特に胸の辺りがずきずき痛む。
「からくり人形とよく分からない生き物のサーカス、あれは楽しかったなあ! 紫色の泥で作られたかのような獅子による火の輪くぐりはなかなかはらはらさせられた! まさかその直後自分達があれと同じことをやる羽目になるとは思いもしなかったが! 危険が沢山のダンジョン、いやはや、あれは大変貴重な体験だった! 火の輪くぐりを経験したことを創作に生かせるかどうかはさっぱりであるが、いずれ火の輪くぐりファンタジーなるものを書く日が来るかもしれないから、あの時のことは忘れないでおこう! そういえばあの輪っかを包んでいた炎は本物だったのだろうか? 熱は感じたが、もしかしたら偽物だったのかもしれないなあ! 猫の世界が猫を炎で燃やすようなことをするとは考えにくいのだが。今度あそこへ行く時はサツマイモを持っていこう、サツマイモを! もし本物だったら美味しい焼き芋の完成である! しかしあそこには色々な罠があったなあ! まあ、そいつを作動させたのは殆ど私だがな! まあ、そう責めるな、滅茶苦茶にして摩訶不思議な世界は私の好奇心を際限なく膨らませたのだ! このような夢を見られる機会はそうそう無い、この好機逃してなるものかと溢れる好奇心の意のままに動いたのである!」
「だから夢じゃないって……夢に限りなく近い世界かもしれないけれど。それにしてもお前、少しも躊躇せず飛び込んでいったよなあ。俺と皇帝なんてしっぽ逆立ててぎゃあわあ言いながらようやく飛び込んだってのに。あからさまに怪しいスイッチとかも平気で押すし。恐れ知らずというか、何というか」
「一角獣の入れられた籠が燃やされたのを見た時の虎吉の悲鳴、傑作だったなあ! うんにゃがごうぐがあにゃってさ!」
「お前だって晴明が変なスイッチ押したせいで火の輪くぐりやる羽目になった時、似たような悲鳴をあげていたじゃねえか! 悲鳴といやあ、あの領域は意味が分からなかったよなあ。真っ暗闇の中、人とか動物とかの悲鳴が聞こえる――っていうやつ。意味は分からないし、怖いしでたまったものじゃなかった」
「あの宇宙プールも楽しかったなあ! 深い闇に煌めく星、素晴らしき惑星の数々、天の川……本物の宇宙のようであった! 程よくひんやりとした宙の水! どれだけ泳いでも息続き、生き続く! 素晴らしきかな、宇宙遊泳!」
「キノコの森の冒険も楽しかったな。俺の家にいるチビ共が読む絵本の世界みたいだった」
「晴明が触ったキノコから出てきた胞子のせいで笑いが止まらなくなった時には死ぬかと思ったよ。時計でいっぱいの世界も変てこな感じで楽しかったねえ!」
「ポップコーンみたいな生き物! 集まったりばらばらになったり飛び跳ねたり!」
「犬吠花!(いぬぼうばな)!」
「積み木とブロックの世界!」
今宵の冒険のことを話しだしたらキリがない。楽しくて、話せば話すほど気持ちが膨らんでいく。冒険を通じて目の前にいる二匹の猫との距離が縮まったことを、もう気のせいだとは晴明も思わなかった。
愉快な世界、ここでずっと暮らすのも悪くないかもしれないと全く思わないでもない晴明だった。だが、そうするわけにはいかないのだ。ここにいたら自分の夢は叶えられないし、変てこな世界だって毎日いれば変てこではなくなってしまう。それよりももっと大きな理由だってある。
「この奇妙奇天烈摩訶不思議な世界、本当退屈しないよここにいると。ずっといたい位さ。美味しいものもタダでたらふく食べられるしね」
「だが、皇帝も虎吉もそうしないのだろう。……もう、帰らねばならない。ここは異界だから。『夢の世界』もまた、異界の一つだと私は考える。我々が生きる世界と繋がっていて、それでいて違う世界なのだ。ここにずっと居続けるということは、夢を見続けるということ。自分の生きてきた世界を捨てて夢の、異界の住人になることを選ぶということなのだろうな。そして一度その道を選んだら、もう二度と元には戻ることは出来ないのだ」
あの屋台の並ぶ領域を訪れた時、晴明は虎吉や自分達とは異なる空気を纏う猫がちらほらいることに気がついた。皇帝もまた虎吉達とは違うものを纏っていたが、彼等のはそれともまた違うものであった。恐らく彼等はかつて、晴明達と同じ世界で暮らす猫だったのだろう。だが彼等は元いた世界を捨て、この夢という名の異界で生き続けることを選んだ。少なくとも晴明はそう解釈した。
「夢じゃなくて、現実の世界だとおいらは思うけれどな。おいら達のいる世界と重なり合うようにして存在している世界。そういう世界っていっぱいあるらしいぜ。でもそうだなあ、夢なのかもしれないなあ……神様は猫の国っていう夢を見る為の道を教えたに過ぎないのかもしれない。夢だから、ありえないことだって出来る。夢だから、朝になったら道が閉まっちまうのかもしれない」
(これは私の夢。夜の持つ力に触れた私が作りだした素晴らしい幻想! だがしかし本当にそうなのだろうか? この夢は私が作りだしたものではなく、別の誰かが作ったものということは有り得るだろうか? 夜は全ての境界を溶かす。夢の境さえなくなったらどうなるだろう? 他人が見ている夢を一緒になって見ることだって可能かもしれない。皇帝も、虎吉も、私が見ている夢を一緒になって見ているのかもしれない。或いは私もまた、別の誰かの夢を見ているに過ぎないのかもしれない。虎吉が言うように、例えばそれはある神様の夢で、その人は夜になる度自分の夢に猫達を招いているのやもしれぬ! ……なんてな! いいぞいいぞ、そういう突拍子もない考え、実に面白い! ううむ、何か素晴らしい物語が出来そうだ!)
あくまで彼はこの世界を現のものであるとは考えていない。空地で行われた猫集会に参加し、猫達の様子を見ている内に意識が彼岸へ行き、自身も猫となって彼等と会話し共に冒険する夢を見ているのだと思っている。今自分は現実のような幻想の中に立っている。その考えに変わりはない。
夢だから、いつかは覚める。覚めなければいけない。これは夢だと、目の前にいる皇帝や虎吉もまた自分が作りだしたものであり、本物の彼等ではないと分かっている。分かっているが、それでも別れを惜しむ気持ちは変わらない。
「難しいことはあまり考えたくないなあ。夢でも現実でも何でも構わないさ、どちらにせよここが異界であることに変わりは無いんだ。ここにしょっちゅう足を運んだり、ここで出てくる食べ物を沢山食べたりすると、そいつは段々と異界の、この世界の猫へと変わっていく。空気というか、雰囲気が変わるんだよねえ……そういう奴は段々向こうの世界に居づらくなって、結局この猫の国の住人になることを選ぶんだ。そういう奴を何匹か見たことがあるよ」
ふああ、と皇帝が呑気にあくびをする。虎吉以上に小難しい話が彼は嫌いであるらしい。
現の世界で生きる以上、虚の世界にいつまでもいるわけにはいかない。この素晴らしき幻想に別れを告げねばならぬ。がたんごとん、がたんごとんと体が揺れる。揺れる内に意識が遠くなっていく。皇帝達の声も、列車の揺れる音も少しずつ、少しずつ、遠くへ。
――少年。この世界の旅は楽しかったかね?――
年配の男性の声が、世界から遠ざかる晴明の耳に届く。その問いに晴明は答える。ただ、自分がその時本当に口を開けてちゃんと喋っていたかどうかは分からない。
――ああ、勿論楽しかったとも! これ程までに見事に幻想と一体化出来た上、大変愉快な時間を過ごすことが出来て私はとても幸せだ! そうだ、自己紹介をしなければならないな! 私の名前は瀬尾晴明、十六歳……――
――おっと、自己紹介は結構。もう私はそれを聞いているから。何故なら私はずっと君と、君のお友達がこの世界を巡る姿を見、会話一つ一つを聞いていたからね。私はね、誰も来ることの無い領域にある喫茶店で一人暮らしている。誰も来ないのにどうして喫茶店なんかって? ふふ、ただ喫茶店の雰囲気が好きだから家をそれ風に変えたってだけの話だよ。その店のカウンターの背にある棚には沢山の皿が飾ってあるんだ。何枚かな、分からないな、兎に角数えきれない位の皿さ。そしてその皿一つ一つにこの猫の国に存在する領域の様子が映し出されるんだ。声だって聞くことが出来る。私は珈琲を飲みながらそれを眺めるのが大好きだ。珈琲はね、君達の世界にお邪魔する度に飲んでいるんだ。あれは苦いけれど美味しいね。香りがたまらない。珈琲だけじゃなくて紅茶やカフェオレなんかも好きだよ――
――貴方はもしや?――
――君がこの世界を自分の作りだした夢ととるか、私が作りだした確かに実在する世界ととるか、それは自由さ。さあ、そろそろ夢から覚める時間だ。君の愛猫も一緒だよ。珍妙なお客さんのお蔭で久々に楽しむことが出来た、礼を言うぞ少年――
遠くから皇帝と虎吉の声が聞こえる。明るくて、温かい声が。
――それじゃあそろそろ帰ろうか、俺達の新しい友達――
――おいら達の変てこなお友達、ちゃんとおいら達についてこいよ。お前一人じゃあ元の世界には帰れないんだからさ――
微睡の中、確かに晴明は幸せな響きがする言葉を聞いた。例えそれが自分の作りだした言葉だったとしても、嬉しかった。欲を言うなら、灰かぶりや豆大福とも『友達』になりたかったなあ、などと考える内晴明の意識は完全に途絶えた。
――俺達、あんたのことは忘れないよ。ま、忘れようと思っても忘れられないけれどね。あんた程強烈な人間のことを簡単に忘れられる程馬鹿じゃないしね、俺だってさ――
――まあ、機会があればまた一緒に冒険しようぜ!――
目を覚ました時、彼は自分の部屋のベッドにいた。どうやら自分は夢見心地のまま猫の通り道を歩き、皇帝達と別れを告げ、家まで帰ったらしい。この夢から覚めたくない、という思いがそうさせたのかもしれなかった。
一階へ降りると、カーペットの上で丸まっているジョセフィーヌと目があった。彼女は相変わらずふてぶてしい顔を晴明に向け、それから大きく欠伸をする。
「お前、昨日はどの領域でどんな風に過ごしていたんだい?」
ジョセフィーヌはにゃあ、とだけ言った。何と言っているのか彼には分からなかった。
晴明はその後、猫集会に参加することはなかった。足を運び、再び皇帝や虎吉と会った時もし彼等に知らん顔されたらどうしよう、と思ったのである。その姿を見たら、素晴らしい夢が砕けて跡形もなく消えてしまうかもしれない、だから現実の彼等とはもう会わない、そう決めたのだ。
彼はノートを取り出し、二匹の猫との冒険譚をそこに記していく。優しく穏やかな笑みを浮かべながら。
後に晴明は『猫の通り道』という題の、猫になった少年と猫達との冒険を描いた作品を発表することになる。
*
「ありがとうございました!」
ポニーテールが似合う少女と別れ、晴明は桜町商店街を後にする。三つ葉市に引っ越してきた当初はまだ幼かった弁当屋の娘も、今や高校一年生。もうそれだけの時間が経ったのか、と思うと感慨深い。どこも変わっていないようなこの町にも等しく時間は流れているのだ。
これといった目的もなく、民家に挟まれた道をふらふらと歩く。ふと傍らの塀に目を向けると、その上をとてとて歩いている猫の姿が見えた。猫は晴明の視線に気づいたのか一瞬立ち止まり、それからまた何事もなかったかのように歩きだす。猫というのは大変愛らしい、今すぐにでも塀の上を歩いているにゃんこを捕獲してむぎゅむぎゅしたい、という衝動を抑えつつその後ろ姿を眺めていた。そうしていると、かつて自身が飼っていた猫、ジョセフィーヌのことを思い出す。ふてぶてしい顔、ぷくぷく太った体――陽だまりの布団をかぶり、くるんと丸まり、まるで眠るように逝った彼女のことを。
そして、もう一つ思い出すことがある。
(……ジョセフィーヌは『あの日』どこをどんな風に巡ったのだろう)
彼女のことだから、どこかでのんびりごろごろしていただけかもしれないなあ、と晴明は微笑んだ。
猫の通り道を歩き、猫の国を二匹の猫と共に冒険したこと。昔は所詮自身の作り出した幻想に過ぎないと思っていたが、あれは夢でも何でもなく現実の出来事であったのかもしれないと今は思う。世界を知れば、見方も変わるのだ。
自身の作り出した夢か、誰かの夢か、現実か。いずれにせよ、晴明にとって忘れえぬ物語の一つであったことは確かであった。だからこそ彼は『猫の通り道』という児童向けの物語を書き、世に出したのである。といっても主人公の少年は小学生だし、晴明よりもずっとまともだし、物語の内容だって十三年前に自分が体験したことそのままというわけではない。ただ主人公と共に冒険する猫の名前は皇帝と虎吉、それから灰かぶりである。大福や番長、それから最後の最後に言葉を交わした猫の国の創造主も出した。
(猫集会に参加した時はまだ『現実』の中を私は生きていたはず。だから、彼等の存在もまた幻ではなかった。それにしても彼等の本当の名前は一体何だったのだろう。全く、昔の私は大概阿呆だった。まあ、今も阿呆であることに変わりはないか。超変人がちょい変人になったって位だとよく言われるものなあ)
と苦笑い。思い出す内、彼等とまた会いたいという気持ちが湧き出でる。その気持ちを『猫の通り道』にはうんと込めた。だが込めても込めても、その気持ちは枯れることなく晴明の内に残り続けている。
ふと立ち止まり、空を見上げる。
「皇帝に虎吉に灰かぶり……また会いたい。そして確かめたい。あの日の出来事は私の作り出した夢であったのか、そうでなかったのかを。私だけの夢ならば、彼等との友情も存在していないことになる。幻の友情……何とも切ない響きだ」
「幻なもんかい」
晴明の独り言に答える声があった。そしてその声はとても懐かしいもので。驚き振り向いた彼の前に、一匹の三毛猫がいた。その猫は晴明のことをじっと見つめていた。
自身の願望が現世に幻を生み出したのか、と目をこすってみる。だがその姿は消えなかった。
胸がかあっと熱くなった。ついでに、目頭も。
「皇帝……」
「今はユウって名前があるんだよ、俺には。あんたと以前会った時は決まった名前はなかったけれどね。それにしても驚いた。後ろ姿といい、何か普通の人間が持っていないようなオーラを持っている点といい、十年以上前に出会った変てこな友達に似ているなあと思ってつけてみたら……似ているどころか本人だったとはね」
皇帝はあの日からちっとも変わっていない。ユウという名を与えられたこと以外、何もかも変わっていなかった。衝撃と感激で声が出せない晴明を見て、にゃあと皇帝――ユウが笑う。
「大きくなったね、俺の変てこなお友達さん?」
「私のことを友達と呼んでくれるのか」
「当たり前じゃないか。あの日の出来事はあんたの頭が生み出したものじゃあないんだから。っと、こんな風に猫がぺちゃくちゃ喋っているところを誰かに見られでもしたら大変だ。というかあんた、俺と普通に会話出来ていることをちっともおかしいとは思っていないんだな。流石というかなんというか」
「今の私は知っているから。……妖などと呼ばれる異形の者が実在していることを」
「へえ! 図体がでっかくなっただけじゃないんだなあ! 色々あんたも成長したみたいだ。変わらないのは俺だけかあ。そうだよなあ、トラ――虎吉の子供があれだけ立派になる位の時間が流れたんだもんなあ」
と茶化すように言った彼の姿は、一瞬で十五六程の人間の少年へと変わった。そして何食わぬ顔で晴明の隣を歩く。かつての晴明少年の妄想の中で、彼は化け猫であった。ところが妄想の外――現実世界でもまた、彼は化け猫であったのだ。もうどれだけ生きたか分からないと言う。
「……虎吉や灰かぶりは」
思いきって尋ねると、ユウは遠くへ行った時間を眺めるかのように空を見上げる。
「灰かぶりはあの後引っ越してしまってね、今はどうしているか分からない。虎吉は……何年前だったかなあ。あいつの子供から聞いたけれど、穏やかな最期だったってさ。相棒を亡くすのって、何回経験しても慣れないもんだ」
「……そうか」
でも、とユウは晴明の方を見てにかっと笑う。
「あんたはまだ生きている。そして今、またあんたと一緒に話せている……それだけで俺、幸せな気分さ。ねえ、折角会ったんだから色々話そうよ。あんたあの日以来一度も俺達の前に姿を現さないんだから!」
それから二人は色々なことを話した。晴明は主に三つ葉市を出た後のこと、ユウは虎吉達との思い出を語った。二匹はあの後、何度か工場風のダンジョンへ足を運んだらしい。灰かぶりが一緒だった時もあり、謎解きはもっぱら彼女の仕事だったようだ。でもあんた程あいつも賢くなかったから、結局断念した仕掛けもあったと彼は言う。晴明はあの時の思い出を元に書いた本を出したことを彼に話した。だが彼はそれを聞いてもまるで驚いた様子はなく、それどころか「知っている」などと言うから驚きだった。
「俺に名前をくれた高校生の女の子がその『猫の通り道』を読んでいた。彼女はあんたのファンなんだ。俺もそれをちょっとだけ読ませてもらったんだよ。……馬鹿な俺だって分かったよ、ああこれを書いたのは遠い日の友だってさ。俺、嬉しかった。あんたが俺達のことを忘れたわけじゃないってこと、ちゃんと友達だって思ってくれていることが分かってさ」
「私も嬉しいよ。そう、言葉で言い表せない位嬉しい。しかも君があの作品を読んでくれたなんて! 虎吉や灰かぶりにも読ませてやりたかったなあ……」
「あいつらは人間の世界の文字なんて読めないよ」
「それなら、私が最初から最後まで全部読み聞かせてやればいいだけのこと!」
「喉死んじゃうよそんなことしたら」
「死ぬものか、私の喉は不死身である!」
「それなら虎吉の子供に聞かせてやるのはどうだろう? 父親をモデルにしたキャラクターが出てくる物語をね!」
「それはいい、話して聞かせてやろうか私達の物語を!」
顔を見合わせ、二人して笑う。空から虎吉の、そして彼と同じ場所にいるか、或いはまだどこかで生きているかもしれない灰かぶりの笑い声と、ジョセフィーヌのあくびが聞こえたような気がした。
物語を聞かせよう。父親と、父親の友達の物語を。