鬼の隠れ家(3)
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「おお、こちらは牛肉とごぼうの甘辛煮が入っているぞ。なんだか卵が欲しくなる味だな」
「こっちは金山寺味噌だわあ。茄子に胡瓜、しゃっきしゃき!」
「儂のは海老と卵酢(こちらの世界におけるマヨネーズ)を和えたものだ」
紅助にふくよ、青一郎……皆が夢中になって食っているのは巨大なお盆にずらりと並んでいるおにぎりである。これは『おにぎり全種盛り』というメニューで、この居酒屋で出されている百四十種類のおにぎり全てを楽しめるというものだ。一応お盆と共に『ここに並んでいるものは○○味』というのが書かれた紙が来ているが、皆そんなものは読まずに「これ!」と思ったものに手を伸ばしている。
鮭に昆布、おかか、ゆかり、ちりめんじゃこ、辛子明太子、焼きたらこ、五目ご飯、ツナマヨ、たぬき(天かす等が入ったおにぎり)、大根の葉とおかか、いくら、とろとろ半熟煮玉子、天むす、塩昆布、梅干し等など。中にはかなり変わった具もあるし、人の世には存在しない動物や野菜を用いたものも。焼きおにぎりもあり、こちらもしその葉がついているものや甘辛い味噌が塗ってあるものなど様々なバリエーションがある。味も香りも噛んだ時に出る音もそれぞれで楽しく、一度手をつけたらどうにも止まらない。熱々ふっくらご飯についている仄かな塩味もまた食欲をそそる。全く魔性の食い物だなおにぎりというものは、と零す双の口から米粒ぽろりと零れ落ち。智慧助は左手に醤油等で味付けされたしその実を混ぜたもの、右手に燻製醤油を塗って焼いたものを持ち、交互に喰らっている。
「この全種盛りっていうの、いいわねえ。……あら、もう大分少なくなっている。やっぱり皆で百四十個なんてあっと言う間に終わっちゃうわね。後でまた頼もうかしら」
おにぎり全種盛りを注文した菖蒲はぷりっとした牡蠣の燻製入りの焼きおにぎりをかじり、それから今度は鯛茶漬けをかきこんだ。他の食べ物は上品に食べるが、お茶漬けは思いっきり豪快に食べる方が美味しいという信条があるから、こればかりはお上品に食べることは出来ない。
お茶漬けが食べたい、といってお品書きを開いたら『おにぎり』という文字も見え「おにぎりも食べたい! 二三種類じゃなくて色々な味を沢山食べたい、ああもう一度食べたいと思ったら駄目ねえ!」と言いだし、じゃあ茶漬けもおにぎりもどちらも頼めばいいじゃないというふくよの言葉にそれもそうねと頷いて、鯛茶漬けと鮪の漬け茶漬け、それからこのおにぎり全種盛りを頼んだ次第。
「本当、おにぎりって時々無性に食べたくなっちゃうわ。ふくよみたいにおにぎりが食べたいと思ったからって山を引っこ抜いて食べるってことはしないけれどお」
「だからあれはただの伝説、人間共が作ったでたらめ話だって言っているでしょうが! 山のようにおにぎりを食べたいとか、山のようなおにぎりを食べたいとは思っても、おにぎりのような山を食べたいなんて思わないっての!」
と言いながらまた一つおにぎりを掴み、大きな口の中に放り込む。ところがかなり強烈なお味のものだったようでふおおと悶絶。
「やだあ、何が入っていたのそれ」
「多分腐腹鳥の肉をわさび醤油で漬けたやつ。まさかそんなものが入っているとは思わなかったからびっくりしちゃった。ああ、臭い。でも美味しいのよねえ……」
こちらの世界にのみ存在するこの鳥の肉はなかなか強烈な匂いがし、味はものすごく濃いブルーチーズといったところだ。なかなか癖になる味で、酒のつまみとして食うものが多い。そんなものが入ったおにぎりまであるのねえ、と言う菖蒲が次に手にとったのはわさび漬け入りおにぎりだ。わさびの辛さと酒粕の香り、そして甘みが上手いこと混ざり合って美味い。紅助と青一郎はそれぞれが手にとったおにぎりを半分子にして交換し、二つの味を楽しんでいた。
「そういえば皆はおにぎりって何の具が好き?」
「ん? 俺は肉が入ったものとか、がっつりしたものが好きだな。さっき食った唐辛子味噌で味つけした豚肉が入ったもの、あれは美味かった」
「紅助はがっつり系か。儂は高菜やしそといったさっぱり系のものが好きだな。何も入っていない塩むすびなんぞも良いな。程よい塩味で米そのものの味を楽しむのもまた乙なもの」
「俺は辛子明太子だな。あのぷちぷち具合と辛味がたまらん。ただ中には辛いだけでちっとも美味くないものもあって、ああいうのを食うとがっかりする。ちなみに焼きたらこやいくらも好きだ」
「あたしは別に食べられるなら何でも。これが特に好き! というのはないわねえ。木と土で出来たおにぎりは勘弁だけれど!」
「智慧助は? ふうん、梅干しにおかかに昆布なんだ。いいわねえ、定番もの。私は海老とかをマヨネ……卵酢で和えたものが好きねえ。あ、最後の一個は私が貰うわね。……んん、海苔の佃煮だわあ」
とろっとしたそれは甘さの中にほんの少し辛味があり、それがいいアクセントになっている。それを食べながら菖蒲は山盛りのご飯に海苔の佃煮を乗せて食べる自分の姿を思い浮かべる。それから久しぶりに買おうかな、海苔の佃煮……などと思うのだった。
おにぎり全種盛りをあっと言う間に食べ終わると今度は皆別の料理を注文。勿論、大量の酒も。
「好きなおにぎりか。好き、といえば……つの子はまだ松浜のことを諦めていないようだぞ」
散々おにぎりに食らいついていた彼等は、今度は双の話に食いつく。つの子は全員と面識のある鬼でだ。非常に暑苦しい太い眉が特徴的、背丈は二m程度だが顔は非常に大きく角張っており体はがっちりしている。顔や図体はでかいが乳は小さく、誰もが男と間違えるような姿。対して松浜というのは非常に顔立ちが整ったいい男である。
あいつはまだ諦めていないのか、と皆呆れた様子。智慧助だけは呑気に「頑張っているねえ、彼女、あはは」と言っている(らしい)。
「外見があれな上にやることが結構ずれているのよねえ、あの子。この前私『手作りの何かを贈ってみたら?』って言ったのよね。そしたら野生の目尻牛(目が尻についている牛。普通の牛より一回り大きい)を狩って丸焼きにして松浜に『私の愛を受け取ってえ!』とか言って投げつけた……らしいのよ。いや、まあ確かに自分で狩って焼いたものだから一応手作りには手作りかもしれないけれど……」
顔に手をやり、深いため息。自身のぶ厚く大きなキスマーク入りの恋文と共に、これまた自分が狩った腹口熊(読んで字の如く。力も大きさも人の世にいる熊とは比べ物にならない位すごい)の毛皮を贈りつけたこともあるのだと菖蒲は言った。
「そんなくだらぬことの為に、熊の毛皮を! 何て酷いことをするんだあの女は! ああ、熊美、熊美い……」
「色気で誘惑するとかなんとか言って、気色悪いだけの変てこな舞を舞いながら迫った……などということもあったな。俺もその場にいたが、あれはすごかった。大女に全身をくねくね動かしながらものすごい勢いで迫られたら、松浜じゃなくても泣くよ。顔も鬼気迫るものがあったしな。しばらくの間、夢に出てきてうなされて寝不足になったとかって言っていたな。……かくいう俺もそうなったが」
その時のことを思い出しているのか、双は語りながら頭を抱えている。そういえば、とふくよが酒をごくごく飲んでから口を開いた。
「この前ちょっと化粧をしてみたら、なんて助言をしちゃったけれど大丈夫かしら」
「原因お前か!」
どん、とテーブル叩いて立ち上がったのは真っ赤な顔を青白くさせている紅助だった。ふくよはその悲鳴にも近い声にぎょっとし、手に持っていた殻付きの生牡蠣をぽろりと落とす。
「つい先日、俺は松浜の家で一緒に飲んでいたんだ。そしたら戸を叩く音が聞こえてな、あいつが戸を開けたんだ。……そしたら、そしたら」
わなわな震え、それから。涙ぽろり流しながら絶叫。
「戸の前に白粉顔中に塗りたくったあいつが立っていたんだよ!」
「いい!?」
「お前等、分かるか? あのつの子が顔にべったり白粉つけて、えらく長いまつ毛をつけて、ぶ厚い唇に紅さして、まぶたに紫色の何かを塗って、頬に赤っぽいなんかをべったり塗って立っていたのを見た時の衝撃が! 松浜は無言で戸を締めようとしたがあの女はそれを阻止して……隙間から覗くあいつの顔の怖さといったらなかった。人間が見たら死ぬな、間違いなく」
更にいかにも鬼っぽいパーマ頭に花を象った髪飾りをつけまくり、異国の地から来た旅商人から買った紫色のネグリジェを身にまとい、体から様々な花の匂いを発していたという。更に貴方へ贈り物を、などといって風呂敷に包んだ物言わぬ猪を放り投げた。松浜はそれをもろに喰らい、吹っ飛んだと紅助は語る。
「倒れる程美しいのね、今の私。ああつの子嬉しい! とか体くねくねさせながら言った後『でも私、ありのままの自分を受け入れて欲しい。次からはいつもの姿で貴方に会うわね』とか訳の分からんことを言った後いつも通りがに股で歩いて去っていった……。松浜は今もあいつの衝撃的な姿及び猪を思いっきりぶつけられた衝撃で寝込んでいる」
怖い、つの子怖い……一同彼女に好かれてしまった松浜に心の底から同情する。それからしばらくの内はつの子の珍プレーの話で盛り上がった。盛り上がりつつ、震え上がる。そうしながら次々と運ばれてくる料理を召し上がる。青一郎は味噌をつけて焼いた葱一本に豪快にかぶりつく。焼いたことで強くなった葱の甘みは甘く、かぶりつくとそこから黄金色の汁が出る。ぴりっと辛い味噌は焼くことで香ばしい匂いも発し、口の中でそれらすべてが混ざり合い良い香りが鼻を抜けていった。味噌、といえば菖蒲が食べているのは朴葉味噌の上に鶏肉や葱をのせて焼いたもの。おっとこちらも葱が入っている、黄金色の卵焼き。出汁がきいたそれをもぐもぐ食べるのは智慧助だ。卵を食ったら親を食う、甘辛い味つけ、からっと揚げた手羽先。
つの子の話題からそれぞれの恋愛事情……に発展しかけたが、結局頓挫。
「恋バナなんて出来るはずがなかったわよねえ……」
「恋花? なんじゃその花は」
「花じゃないわよ、青一郎。恋の話、略して恋バナ。向こうの世界の言葉よ。はああ、女の子達とお話しているとこういうことで盛り上がるんだけれど。恋愛事興味なし! って野郎しかいないから。相手がいるのって智慧助だけだもんねえ。羨ましいわよ、あんな超絶美人な奥さんを手に入れられるなんて!」
「儂にだって熊美という伴侶が」
「熊美死んでんじゃないの」
「うおおお、熊美、熊美い!」
再びテーブルに突っ伏し、泣き喚く青一郎。その右手には味噌入りマヨネーズをつけた胡瓜が握られている。彼はつい先程野菜スティックを頼んだのだ。余計なことを言うんじゃないわよ、と菖蒲を叱るふくよは最早「野郎しかいない」という発言にはツッコミを入れなかった。自分の名前を出された智慧助はしゅっしゅっしゅと言っている。恐らく笑っているのだろう。彼と奥さんはラブラブで子供も三人いる。紅助一同は初めて彼の奥さんを見た時、衝撃のあまり口を大きく開け危うく顎が外れるところだった。
「ああもう、女の子、女の子、女の子! 女の子頂戴よう!」
「バンバンと叩くな、うるさくてかなわん!」
ぶり大根を頬張っている双が怒鳴ると、菖蒲はしばらく彼の方を見てぽんと手を叩き。
「あ、女の子いるじゃない女の子。双、あんた今すぐ頭を入れ替えなさいよ。そのおかめ顔も好きじゃないけれど、いないよりはましだわ。ふくよに比べれば可愛いもんだし」
「断る! 酒が入っているお前がいる所で女になったら何をされるか分からん。この前だってべたべたと触ってきて! しまいに着物の中に手を突っ込んで乳を揉みおって! 嗚呼、男の時に思い出すと一層気持ちが悪い」
男の頭、その上についている女の頭も随分嫌そうな顔をしている。女としての双が散々菖蒲にべたべた触られた後「顔だけは良い男だけれど、付き合いたくはない!」と叫んだのを紅助は覚えている。ちなみに男としての双と女としての双はあくまで別人格。男の時は女を、女の時は男を愛する。記憶は一応共有出来るらしい。双に提案を拒否された菖蒲はまたテーブルをどんどん叩く。
「女成分が足りないわあ。女、女、可愛い女! 嗚呼、沢山の女の子と遊んでいるのも楽しいけれど、生涯の伴侶も欲しい……素敵な出会いを私に頂戴よう、誰かあ!」
「お前段々酔ってきたな……。そんなに言うなら、知り合いとかいう人間の娘辺りを口説いて恋人にすればいい」
「駄目よ、あの子好きな人いるもの。それに童顔娘ちゃんだし……遊び相手ならともかく彼女にするのはねえ。あ、隣の部屋から女の子の声が聞こえるわあ。可愛い子だったら攫ってこようかしら」
阿呆言うな、阿呆をと紅助にたしなめられた後もひたすらぶつぶつと「女の子女の子女の子」と呟いている。最早お経である。女の子宗のお経、ひたすら女の子女の子と言うのみの至極簡単なお経である。そのお経を無視し、皆は酒飲み飯食らい。
この時間になると酔っ払いも大分増えてくる。そこら中にいる客達の声はどんどん大きくなり、入る部屋を間違えたのか見知らぬ者が突然戸を開けて入ってきたり、ここで吐くなここでという悲鳴が聞こえたり、誰が奏でているのか笛や鼓の音が微かに聞こえてきたり。どこもかしこもますますやかましくなってきたが、そのやかましさもまた愛し。そういった音や声が自分は今幸せだと実感させる。
切られてなおうねうね動いているイカの足に醤油をかけて食う双、ロシアンルーレット用の一個だけわさびたっぷりのものが混ざっている寿司六種盛りを何故か一人で食い、ひいひい火を吹く智慧助、それを見て脱力しつつ紅助は、強烈にして美味な味や香りを持つ食材を詰めたパイを屠り、青一郎はだしつゆと程よくさくさく程よくふにゃりとした衣がたまらぬ揚げだし豆腐をもぐもぐ。ふくよは枝豆片手に酒樽からせっせと酒を汲みごくごくと喉を鳴らして飲む。それから皆で生肉十種盛り合わせを喰らう。塩だれ、味噌だれ、醤油だれ、様々なたれにつけてじゅるじゅるちゅるりん、ぺろりん。焼くのも美味いが生で食うのも美味い。
まだまだ色々食べる。様々な味のタレを染みこませた(何かの)目玉をひたすら口の中で転がすだけの料理、さっぱりとした味わいのおでんのつゆで作った牛すじの煮込み、ふんわり優しい大豆の香りが良い生姜と葱をちょこんと上に乗せた冷奴、ご飯と辛だれで味つけされた肉数種類を重ねて作られたミルフィーユ風の料理、ごま塩かけると一層美味しく食べられる赤飯……。全く阿呆みたいな種類の料理があるが、まだまだこの店にはメニューが見ただけで気を失う程ある。
料理を食えば、会話も弾む。ふくよの角がやけにきらきら輝いて綺麗になっていることに双が気づき、どうしたのだと問えば「やっと気がついてくれた」と言いながら、彼女は先日角磨き屋に行ったことを告白。角磨き屋――ネイルサロン角バージョン、ツノサロンといったところか。
「女の子の間で最近流行っているのよ、角磨き。美角女王を決める大会も開かれるようになったし。角に模造宝石つけたり、金箔貼ったりする子もいるって。蒔絵を施しているのも見たことがあるわあ」
「それは儂も見たなあ。あれには魂消た。角を磨いて綺麗にするのはいいが、ああいうのはどうかと思うのだ。飾らぬ美しさだって世の中にはある。熊美もそうだった、彼女は飾らぬ女で、そんな彼女が儂は一番美しいと、ああ、熊美、熊美い……」
「人間の娘達も爪に色々くっつけるのよねえ。最早『これ爪!?』って思う位変身するわ。可愛いような、気持ち悪いような、何ともいえない感じ。あんな爪じゃあ何も出来ないでしょうよ」
「まあそういう風に飾りたいって気持ちは分かるなあ!」
というふくよ、その表情は乙女だが顔の作りは漢、つの子とどっこいどっこい。内心紅助は「女ぶりやがって」と思ったが、ぶるもなにも彼女は女である。時々忘れそうになるその事実。
しゅうしゅしゅう、と智慧助。
「うちの奥さんの角もすごく綺麗だって? 時々撫でると照れて赤くなって可愛い? はん、惚気けちゃってこの幸せ者! 今度私にも撫でさせて頂戴! え、駄目? あの子の角は自分だけのもの? ああ、もう全くお熱いことで」
他にも青一郎が熊美との思い出を語ったり(毎回聞く話ばかりではあるが。そして必ず最後、彼は号泣するのだ)、屋台で買った肉巻きおにぎりを頭にある口を開けて食べていたら、上空を飛んでいた悪戯鳥の落とした糞が入ってしまって酷い思いをしたという話を菖蒲がしたり、ダイエット失敗談をふくよが話したり、幼い頃自分の角を父の尻に突き刺して思いっきり叱られたとか、辛子入りの饅頭を母に食わせてどつかれたとか、友人を落とす為に掘った落とし穴に友人もろとも落ちてしまった、とか悪戯大好き糞餓鬼時代の話を皆でしたり、色々。
醤油ダレの染み込んだ生の鶏肉を喰らいながら紅助が、ぼそり。
「ある条件を満たした者だけが食えるという幻の料理、食ってみたいよな」
「食べたいわよねえ。ああ、それにしても良い気分だわあ、にゅふふう」
ふくよはそろそろ酔ってきたらしく、変な笑い声をあげながら口の中に手当たり次第に料理を放り投げていく。彼女は酔っ払うといつもそうして口に入れられるだけの料理を突っ込み、もぐもぐ食べる。当然味はぐっちゃぐちゃになるが、この状態になるとそれもちっとも気にならぬ様子。
この店で、ある条件を満たした者にだけ提供される幻の料理がある――という噂はかなり有名なもので、この店の常連なら誰もが知っているものだった。
「一口食べただけで極楽に行くような心地になるって聞いたわ、私」
「儂は食った者は一人残らず本当に極楽へ行ってしまう為、噂の真偽が一向に明らかにならぬのだと聞いたなあ」
「俺は菓子だと聞いた」
「智慧助は条件自体はかなり簡単なものでかなり大勢の人が実は食べているって話を聞いたことがあるんですって。でも食べた時の記憶が料理に込められた力のせいで消えてしまうから、結果的に幻の料理になってしまっているって。ああ女の子……幻の料理より可愛い女の子を食べたい」
「それじゃあ俺達も実は食ったことがあるかもしれないと?」
しゅうしゅう智慧助が言っているが、通訳係の菖蒲が再びお経をぶつくさ唱え始めて役立たずになっているから、何を言っているか分からない。筆談でも出来れば良いが、筆がなければどうにもならん。
「兎に角美味いらしいからなあ……食ってみたい。極楽に行けてしまう位美味い飯」
「紅助。本当に幻の料理とやらが存在するかは分からんぞ。誰かの作り話かもしれん」
「双の言う通りだわ。でも、あったらいいわねえ!」
「おにぎりのような山だったとしても、食べたい?」
「あんたいつまでその話を引っ張るつもりい? あたしが今口に入れているもの全部あんたに投げつけちゃうわよう!」
「ああ、怖い怖い。超絶可愛い子がもぐもぐしたものならともかく、野郎のもぐもぐしたものなんて投げられたらたまったものじゃあないわあ」
誰が野郎か、と立ち上がったふくよは開いた口に手を突っ込もうとする。それを皆で必死になって止めつつ「菖蒲謝れ、謝るんだ!」と言うが菖蒲はぴゅうぴゅう口笛吹くだけ。それから「それじゃあ私は厠に行ってくるわねえ」と逃げるように部屋の外。ふくよはおのれ御釜野郎と口にものを入れたまま叫び、辺りに散らばる飯の哀れな姿。それを仕方無いなあ、と言いながら壁についている箱から取り出した紙で拭き取る青一郎。
と、直後菖蒲がふらりと戻ってくる。厠など間違いなく行っていないだろう菖蒲は何故か満面の笑みを浮かべていた。
「ねえねえ皆、何だかお店が愉快なことになっているわよ」
「愉快?」
この店が愉快じゃない時などあっただろうか、などと言いつつも皆して部屋から出てみれば。
ぴいろりぴろり、ぴいろぴろ。笛吹けばぽんぽぽんぽんぽんと鼓の音が鳴り響く。他にも鈴やら誰かの歌う声やら。そんな様々な音色に混ざって聞こえるのは床を大勢の妖達が踏み鳴らす音。踏めば震え、店は喜びや幸福に踊り狂う。
どういうわけか大勢の客達が部屋から出、通路で踊っている。下を覗いてみれば、一階はここらとは比べ物にならない程盛り上がっていた。テーブルの上に乗り、裸同然の姿になった赤鬼や青鬼が踊っている。彼等と一緒にいる大狸はぷっくりした腹を叩きながらくるくる回り、そうれそうれと言っている。彼等以外の客達も皆踊っていた。祭囃子のような愉快な音楽に合わせ、手を動かし足動かし、ぎゃははと笑いながら。テーブルは最早舞台であり、飯を喰らう場ではない。成人男性位の背丈がある猿が、酒を飲みながら飛び跳ね、陽気に踊る。そうして酒を飲んだり、肉やら魚やら食いながら踊っている者は少なくない。空飛ぶ足の無い女はその真っ白な腕に抱く、本来テーブルや手を拭くために備えつけられている紙をちぎって作ったらしい紙吹雪をばっと投げた。ひらひらと、店の中に降る白雪。それを自慢の長い角で突き刺す鬼、はさみでちょきちょき切る蟹お化け。料理の上にはらはら落ちたって誰も気にしない。紙位、なんてことはない、そのまま食えばいいのだ。
お祭り騒ぎ、馬鹿騒ぎ、祭りが店にやって来た。
「な、なんだあこりゃあ」
紅助は訳が分からず、目をぱちくり。他の者達もぽかんとしている。菖蒲が近くにいる妖に尋ねてみれば、なんでも一階にいる客数名が酔った勢いで踊りだしたら思いの外盛り上がり、一人一人と踊りだし、その馬鹿騒ぎが二階、三階にまで伝染してこうなった――そうだ。これを止める店員はいない。テーブルの上で踊るな、とも言わないし客がすっ裸状態になろうがお構いなし。客達も店員が料理を運んでくる時は動きを抑え、邪魔にならないような位置に移動する。
「一階の客達はもう殆ど料理なんて注文していないようねえ。それにしても楽しそう!」
「お前も踊ればいいじゃないか、ふくよ」
「それもそうねえ! 皆はどうする?」
「……智慧助はすでに踊っておるな」
青一郎の言う通り、般若の顔した男はすでに近くにいた客と一緒になって踊っていた。豊かな髪がばっさばっさと暴れるように踊り、口からはしゅうしゅうという声が漏れ、まるで歌っているよう。
その他のメンバーは顔を見合わせ、それかはにかっと笑った。
「私達も」
「踊るとしようか」
こんな馬鹿騒ぎ、放るは損損。同じ阿呆なら踊りましょう。恥など彼等にはない。何の躊躇いなく皆で踊りだした。型もくそもなく、ただ踊りたいように踊る。だんだだんと足を踏み鳴らし、その滅茶苦茶にして軽快愉快なリズムと階下で奏でられる音楽を友にして、踊って、踊って、踊る。
近くにいた猫の妖が、手すりの上にぴょんと乗って落ちることなく器用に踊る。負けじと智慧助ぴょいと乗って、飛んで跳ねてくるっと回って。紅助と青一郎の踊りはまるでゴリラのようで、うほうほという声が今にも聞こえてきそうだ。菖蒲はふくよの手をとり共に踊る。しばらく踊ると今度はふくよと双が踊りだし、そして菖蒲と双が手をとりとりくるくる回る。猫の妖とすっかり意気投合したらしい智慧助は今度は階段で踊りだす。踊ればどこだって、舞台になるのだ。
騒ぎを聞きつけ、部屋の外に出た妖達も次々とこの馬鹿騒ぎに参加する。友も他人も関係なく、共に笑い、歌い、時に手をとり、踊る。料理の注文が少なくなろうが、店員達は気にしない。むしろ暇になったからといって少しの間だけ客と共に踊る者もいた。鳥達も縦横無尽に飛び回り、美しい声で歌いながら踊った。
上にある座敷にいた妖達も部屋から出、彼等を楽しませていた芸妓達も出、踊る、踊る。べべん、べんべん、軽快な三味線の音色がますますこの場を盛り上げる。もうどこも、滅茶苦茶で、はちゃめちゃで、はてここは何屋だ、居酒屋だ。
見よ、人間達よ。節分の日、鬼の隠れ家にその身を隠し恐怖に震える鬼などどこにもおらぬ。
いるのは喜びに、幸福にその身を魂を震わせ踊る阿呆達ばかりだ。
鬼の馬鹿騒ぎは朝まで続き、終わる頃には皆へとへとになってしまったが、その疲れさえ幸福。
笑顔溢れる鬼の隠れ家、これにて閉店!