第五十二夜:鬼の隠れ家(1)
鬼は節分の日、豆をぶつけられるのが嫌だからどこかに隠れてしまうという。この日ばかりは鬼も人には敵わぬ。唯一人を恐れ、人に怯えるのだそうだ。
彼等が逃げ隠れる場所を『鬼の隠れ家』というのだという。
『鬼の隠れ家』
鬼はぁ外ぉ、福はぁ内ぃ
鬼はぁ外ぉ、福はぁ内ぃ
あちらこちらでそんな声が聞こえる。教室中に散らばる給食に出てきた豆、父親の扮する鬼に泣き叫び逃げ惑う子供、きっちり年の数だけ豆を喰らう者、そんなことどうでもいいやあと言って食べるだけ食べる者。スーパーの食品売り場や寿司屋に並ぶのは恵方巻き、人気料理家監修の商品、至ってシンプルなもの、海鮮たっぷりのもの、諸々。神社で行われる節分行事わらわら人がやって来て大賑わい。鰯柊飾られる家々。
人の世は節分を迎えた。
さて、その日の夜。人の世に重なるようにして存在する異界にある、とある京。
ひらひら舞う白雪が、背の高い建物が群れを成している京を真白に染める。その雪の上にあるのは無数の足跡、闇を流し込まれてほんの少しだけ暗い色。京を行く妖達の口から、ほう、ほうと零れるのは雪の幻、地に降る前にすうっと闇に溶けて消えていく。
赤や橙の灯りでその身を鮮やかに飾る建物は飯屋、居酒屋、風呂屋に妓楼等。酒の京とも呼ばれている場所だから、酒蔵や酒屋も多い。そしてどの建物も背が高く、大きい。中でも一番の高さを誇るのは京の中心にある摩天宮で、天をこするどころか突き破ってしまいそうな位高いのだった。
建物は高く大きいが、反面それらに挟まれている道はやけに狭い。それゆえこの京を歩く時は半端無い圧迫感に襲われることになる。慣れればどうということはなくなるが、慣れない内は建物に体を押し潰されるような錯覚に陥り、特別気の小さい者に至ってはあまりの圧迫感に気を失うとまで云われている。その道は複雑に入り組んでおり、まさしく迷路。
「ぶえっくしょい!」
数え切れない程ある道の一つを歩いていた男が、地を震わすような大きなくしゃみをした。四角い顔に太い眉、ぼさぼさ頭から伸びる二本の角、何かの毛皮で作られているらしい着物、丸太のような手足、唐辛子色の肌――といった風貌の彼はこの京近くの山でのんびり暮らしているが、こうしてよく山を下りてはこの京を訪れている。数え切れない程来ている場所だから建物の高さに驚くことも、圧迫感を感じてしかめっ面になることもない。ここを初めて訪れたのか「何か息苦しいよ、死にそうだよう」と呟いている妖を見かけ、ふっと笑う。彼も初めて訪れた時は随分戸惑ったが今はもう慣れた。
(今日は何を食べようか。豚揚げ丼も久しぶりに食いたいな。おろしポン酢でさっぱり喰らいたい!)
ざっざっざという雪を踏みしめる音が、自然と彼に噛むとざくっという軽快な音のする豚揚げ――すなわち豚カツ――を連想させた。大根おろしとポン酢で食べたいと思ったのは、目の前に広がる真白の世界が原因であるかもしれない。
男はある店の前で立ち止まる。赤く塗られた木の板に書かれているのは『鬼の隠れ家』という文字。隠れ家、とは言っているが別に隠れてはいない。京の中心近くにそびえたち、連日多くの妖達を迎え入れている。特に『鬼』と呼ばれる種族が多いのは店の名前ゆえではなく、ただ単にこの京に住む者の多くが鬼であるからという理由である。どこの店も客は鬼ばかり。何故この京が鬼の溜まり場になっているのか、それは不明だ。しかし理由が分からないからといって困りはしないから、誰も気にしない。妖には細かいことは気にしない性質の者が多いのだ。
手をかけた出入り口の戸は大きい。大柄な者がよく来る店の為そうなっているのだ。この京の戸は大抵の場合そうで、天井などもかなり高い。建物から漏れ聞こえるのは客達の騒ぎ声。戸を開ければその声は一層大きく聞こえ、えらく騒がしい。その声に混ざって聞こえるのは彼等が何かを食べる音、箸が皿に当たる音、店員が注文商品を運ぶ音、等など。店を満たすのは肉や油、醤油、ソース、茹でた芋や燻製、そして酒の匂い。その匂いを少し吸い込んだだけで腹がぐうぐう大騒ぎ。
八階建ての店、その中央部は吹き抜けになっている。二階から五階に個室、六階に宴会場、七階に座敷があり、八階にはいわゆるVIPルームがあり、それぞれの階へと至る階段は端の方に。一階にはずらりとテーブルが並び、大勢の者に囲まれながら馬鹿騒ぎしたい連中が集まっている。
きらきら輝く橙や赤の灯、各階にいる客から注文を聞く鳥達の色鮮やかな羽、くるくる回って、きらめいて、嗚呼まるで万華鏡の中に入り込んだような心地。
「今日も騒がしい、騒がしい。騒がしいことは素晴らしきかな……ってな」
入ってすぐ右手にある出っ張り、そこから垂れ下がっている鈴緒を揺らすとそれについている本坪鈴がガラガラと鳴る。程なくして店員がやって来た。どれだけ騒がしくても、彼等がこの鈴の音を聞き逃すことはない。
もうすでに宴を始めているだろう友人の名を挙げると、彼やその他友人のいる部屋の番号が書かれた板を店員が渡す。男はそれを受け取り、書かれている番号の部屋――『三のほ』を目指し、階段を上った。二階も三階も、どこもかしこも騒がしい。灯りの無い、物静かな部屋など殆ど見当たらず、この店の人気っぷりを伺い知ることが出来る。
『三のほ』と書かれたかまぼこサイズの看板が傍らについている障子戸を開ければ、そこにも馴染みのメンバーが座っており、一足先に美味い酒と飯を楽しんでいた。
「何だ、紅助じゃないの。ああ、結局いつもと同じ面子なのねえ。女の子、女の子が欲しいわあ!」
男――紅助の顔を見た途端がっくりと肩を落とし、テーブルをだんだん叩く者。胸の下辺りまで伸ばした、青みを帯びた豊かな銀髪を菖蒲の色した玉を連ねたもので束ねており、体の線の細さやうっすら施された化粧、整った顔立ち、口調も相まって一瞬女に見えるがれっきとした男だ。菫色の無地の着物の上に羽織っているのは、目が痛くなる程鮮やかな紫色の着物で模様も随分ど派手。角は無いが、紅助等同様彼も鬼である。
右側一番前に座っている彼の言葉に抗議するのは、左側一番奥に座っていた者。
「ちょっとお、女ならここにいるじゃあないの」
「私が求めているのは、可愛い女の子よ。分かる? か・わ・い・い・女の子! あんたみたいな大入道ちゃんはお呼びじゃあないの」
「か・わ・い・い・女の子、ここにいるじゃあないの!」
「え、どこどこ? 全然見当たらないんだけれど? 可愛い女の子はおろか、女の子すらいないわあ!」
むきい、と女扱いされなかった彼女は巨大牛串をひっつかんでぶん投げる。女口調の男はそれをいとも簡単にキャッチすると串を頭のてっぺんへとやった。すると頭から鋭い歯の生えた巨大にして凶悪なお口がこんにちは。その口で串から黒板消し位の大きさはある牛肉四枚を抜き去り、もぐもぐごくり。
「ああん、美味しい! 柔らかすぎるお肉より、ちょっと噛みごたえのあるお肉の方が美味しいわよねえ。醤油と玉ねぎで作ったタレもよく染み込んでいてたまらないわあ。美味しい牛串ありがとうねえ、ふくよ。んふふ」
気持ち悪い位くねくねしながら嫌味たらしく男が礼を言えば、ふくよは「悔しい!」と歯ぎしり。男にはまるで女扱いされていないが、彼女はれっきとした女性である。女性だが、この部屋にいる誰よりも図体が大きく、立てば三mを優に超す。縦もあれば横もあり、肌はうっすら赤く肩まで伸びている髪はごわごわしていて光沢のこの字もなく、立派な眉毛と長い睫毛といかつい目のアンバランスっぷりは半端なく、ぶ厚い唇は暑苦しい。頭のてっぺんから伸びる黄色い角はカラーコーン程の大きさもある。花柄の可愛らしい赤色の着物が絶望的に似合っていない。
紅助は二人のやり取りを見て苦笑い。
「おいおい菖蒲、あんまりいじめてやるなよ」
「あらあ、あんたにはあれが女に見えるの? どこから乳でどこからが腹で、首がどこにあるのか全然分からないあの体! 肉体というよりは肉塊、よねえ!」
「いい加減にしなさいよ、この御釜野郎! 牛の丸焼きぶつけるわよ!」
「まあ、失礼ねえ私のどこがオカマだってのよ!」
「お前のその喋りを聞いたら、誰だって最初はそっち系だと思うだろうな……」
「おだまり、この気色悪い二段重ねアイスクリーム!」
「意味の分からんことを言うな!」
二人の言い争いに口を挟んだ挙句菖蒲に罵られた男は、名を双という。人の世によく足を運んでいるという菖蒲が彼を『二段重ねアイスクリーム』と言ったのは、彼の頭が二つあることに由来する。なかなか渋い顔した男、その頭の上におかめのような顔をした女の頭が乗っかっているのだ。確かに気色悪い二段重ねアイスクリームに見えないでもない。彼は双頭鬼なる種族の鬼。常に男の頭が下であるとは限らず、女の頭が下になることもある。すると心も体も女になる。その辺りは自由に変えられるという。そして男の伴侶を得れば女、女を得れば男となりもう片方の頭は消えるそうだ。
まだきいきいうるさい声をあげながら言い争うふくよと菖蒲を見、紅助は苦笑い。双は全く、と呆れながら地獄焼きをぱくり。さくっという音の心地良いパイ生地の中には玉ねぎと人参、牛肉、そこにとんでもない量の唐辛子が入っており、野菜とパイ生地の甘味と強烈な辛味が口の中で暴れまわる。ただ辛いだけではなく、旨味もあるから妙に癖になり、一度食べだすと止まらない。涙も、止まらない。
紅助は菖蒲の真向かいの席に座る。彼の左隣にいるのは、大きな熊。いや、正確に言うと熊の毛皮を被った青鬼だ。紅助も、他の面々も彼がこの毛皮を脱いだ姿を見たことがない。青一郎という名のこの男はかつて人の世にある小さな山で暮らしていた。その山で出会った熊と彼は(どういうわけか)恋に落ちた。一人と一頭は幸せに暮らしていたが、熊の寿命は鬼のそれより遥かに短く。彼は自分を残してこの世を去った彼女の体から泣きながら皮を剥ぎ、それを被った。こちらの世界に来てからも毛皮を脱ぐことはなく、新たな恋人を作ることもなく、心も体も今なお最愛の人と共に。
「ちょっと、皿を阿呆みたいに投げてくるんじゃないよ! この凶暴大熊おん……凶暴大熊野郎!」
「何で言い直すのよう! おのれえ、ちょっと綺麗な顔しているからって調子に乗って!」
「ふくよなんぞを熊と一緒にするなあ、熊と! 嗚呼、熊美、熊美い……」
ステーキ十段重ねを黙々ともぐもぐ食べていた青一郎が、熊という単語に反応し憤慨。しかしその憤慨は続かず、最愛の熊のことを思い出してしまったらしい彼はテーブルに突っ伏しておいおい泣き始め。こうなるとしばらくの間は何を言っても泣き止みやしない。ふくよの「ふくよなんぞとは何よう!」という声も聞こえてはいないようだ。
全く飽きない奴等だよなあ、と言いつつ地獄パイに焼かれた喉に酒を流し込む双。すぐ怒るふくよと、余計なことばかり言う菖蒲、二人の喧嘩は一度始まるとなかなか止めるのが難しい。とりあえず殺し合いに発展することはないし、止めない限り永遠に続くというわけでもないから皆積極的に止めようとはしない。紅助もお品書きを見始め、二人の喧嘩は完全無視。菖蒲の隣に座っている智慧助も二人の顔を交互に見つつその低レベルなやり取りをぼうっと眺めているだけ。般若の面のような顔、鋭く長い二本の角、腰まで伸びる針の如き白髪――外見は恐ろしく、そして常に何かに怒っているように見えるが中身といえばこのメンバーの中で最も温厚というか、のんびりぼけっとしている。恐らく「あ、何か喧嘩してるー」といった位のノリで見ているのだろう。
やがて二人共疲れたのか、喧嘩を止めた。ふくよはぷんすか怒りつつボール状のメンチカツを三個引っ掴み、まとめて口の中へと放り込む。彼女が持っていると非常に小さく見えるが、実際は野球ボール以上の大きさがある。口の中に溢れた肉汁と油、甘い野菜のエキスをごくりという音をたてて飲み込んでは、また新たに三、四個メンチカツを口の中に放り込んだ。山のように積まれていた四十個のメンチカツはあっという間にふくよの腹の中。それを見て驚く者などここには一人もいない。紅助や双だって、それ位の数はぺろりと平らげることが出来るからだ。
「とりあえずこれで全員集合か」
「女の子は来ないの、ねえ、絶対に来ないの?」
「お前はそんなにふくよと喧嘩をしたいのか。お前は本当にあいつのことが好きだなあ」
「何を言っているのよ双! ちょっと、あんたも何顔赤らめているのよ気色悪い!」
「それじゃあ、改めて乾杯するとしようか」
全力で抗議する菖蒲を無視し、双は紅助に酒瓶を一本渡した。銘柄は紅助がいつも最初に飲んでいるもの。礼を言いつつその酒瓶を掲げると、他の者もそれにならって各々酒瓶やら盃やらを手に持った。ふくよに至っては巨大な柄杓。柄杓には傍らに置かれている酒樽から汲んだ酒がなみなみと入っており、灯りに照らされきらきらと輝く。
準備が出来た所で皆で乾杯。紅助や双は瓶に口あてラッパ飲み、菖蒲と智慧助は盃に入った酒を煽り、青一郎は「熊美!」と愛しの人の名を泣きながら口にし、それから両手で持てるサイズの酒樽に入った酒をごくごく飲んだ。ふくよは巨大樽から酒を汲んでは飲み、汲んでは飲み。
こうして鬼達の愉快な宴が始まった。