朱烏(3)
*
「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノアタマモアカクナル」
気づけば、もう烏は頭のごく一部分を残して朱くなっていた。これがオウムとかならどうも思わないが、烏だと思って見てみると気色悪いことこの上ない。おまけに不吉で禍々しく、それだから完全に不安を払拭することが出来ないのだ。
勇太殺しの犯人は未だ見つかっていない。三つ葉市には、いやこの世界には彼が死ぬ前と全く同じ時間が流れている。勇太が死んでも世界は回る。人気者で、人格者で、しっかり者で、何でも出来る勇太。太陽のように輝いていた勇太。そんな人間でも、いてもいなくても世界の歯車には少しの影響もないのだ。歯車を狂わされたのは勇太の両親や優子といったごく一部の人間のみ。世界は無情で、非情で、でもそれが通常なのだ。
(勇太でもこのザマじゃあ、俺なんて)
そう思ったら何だか悔しくなる。自分の死を嘆き悲しむ人は勇太に比べてずっと少ないだろうし、皆が立ち直るまでの期間も格段に短いのではないかと思える。それがまた切なく、腹立たしい。
烏の鳴き声がし、ぎくっとして反射的に空を見上げる。そこにいたのは普通の烏で、全身真っ黒だ。最近は真っ黒な体の烏の方が珍生物に見えてくる位自分の感覚はおかしくなっていた。そして、朱い烏を見ると心がざわつくが、黒い烏を見ると妙に安心する。より上位の不吉な存在が現れたことで、ただの烏が可愛く見えるようになったようだ。
烏一羽に何が出来るわけもない。そう思っているが、不安はある。その不安がもしかしたら翔馬の足を『ここ』まで運ばせたのかもしれない。
翔馬が生まれ育った町、桜町。お隣の三つ葉市とは大違いのど田舎で、多くの若者は大人になるとこの町から出て行く。翔馬も同じで大学卒業と同時に三つ葉市で一人暮らしを始めた。その時勇太や優子には大分世話になった。
そんな故郷の外れにある喫茶店『桜~SAKURA~』の前に翔馬は立っていた。しょっちゅう足を運んでいた高校時代から一切変わらぬ外観がそこにある。こんな田舎町の、しかもかなり行くのが面倒な場所にあるというのに意外にも客の数は多い。どれだけ遠くても、行き来が面倒でもつい足を運んでしまう魅力がここにはあった。ドアを開けるとからんからん、というベルの音。温かな照明と、珈琲の匂い、そして優しく温かい笑みを浮かべるマスターが翔馬を迎えた。マスターは翔馬のことを覚えていたらしく、久しぶりだねと優しく言ってくれた。経った年数分彼は老けていたが、その体から滲み出る人を優しく穏やかな気持ちにさせてくれる、そんな温かなオーラは少しも衰えてはいない。荒んだ心が一瞬にして綺麗に洗い流される。もっと早く来ていれば良かったかな、なんて思ってしまう。
カウンター席に座り、お気に入りの珈琲を注文した。他にもチョコレートケーキを一つ。翔馬は珈琲の何ともいえない良き香りを楽しみながらマスターを話をする。マスターは翔馬が勇太と親友だったことを知っている。何故ならここへは彼と、そして優子と一緒に来ることもあったからだ。だが彼は勇太が殺されたことに関して触れはしなかった。恐らく空気を読んでくれているのだろう。その心遣いが今の翔馬にはありがたかった。
やがてあの心地良いからんからんという音が聞こえたのと同時に誰かが入ってきた。高校生位の少女(あんまりな髪型や服装のせいで一瞬性別が分からなかった。もし彼女が貧乳であったなら「おじいちゃん」という声を発するまで判断が出来なかっただろう)で、マスターの孫だそうだ。名前をさくら、というとか。彼女は一番端の席に座るとパフェと紅茶を注文した。どうやらここへはよく来ているらしい。
さて、翔馬がこの店に来た目的は珈琲を飲むことでもマスターの顔を見て癒されにきたわけでもない。
また少ししたところで新たな客がやって来た。
「あら、やた吉君にやた郎君。こんにちは。今日は随分珍しい格好をしているのね」
その客に対し、さくらが随分親しげに話しかける。それを聞いた翔馬は首を傾げた。やた吉、やた郎という今時変わっている名前で呼ばれたのは中学生位の少年二人。恐らくは双子だろう。一方はぼさぼさした頭で活発そうな印象、もう一方は真っ直ぐな髪で大人しそうな印象があり、肩より少し下位まで伸びている髪を束ねていた。そんな彼等の服装を彼女は「珍しい」と評したようだが、翔馬が見る限りは珍しさなど欠片もなく、そこらにいる子供達が普通に着ているようなものだ。普段相当奇抜な格好をしているのかもしれない。二人は元気よくさくらの左隣に空いている椅子に座った。翔馬の右隣には髪がぼさぼさな方の少年が座り、翔馬にこんにちはと明るい笑みを浮かべて挨拶した。それからどういうわけか、きょとんとしたような表情になる。もしかして自分が挨拶を返さなかったのを不審に思ったのかと思い、慌てて小声で挨拶した。
(なるべく自然に、自然に。怪しまれたり、変な人扱いされたりしないようにしないと)
『あの話』をするタイミングを見計らい、ここだと思った時に何気なく話題を『夢の話』へと持っていき、心臓をばくばくさせながらとうとう彼に話した。
「実はさマスター。俺最近変な夢を毎日のように見るんだ」
「変な、とは?」
「一羽の烏の夢。その烏、最初はごく普通の烏だったんだけれど何度も夢に現れる内妙な変化が起きだした。妙な変化ってのは、黒い体が段々と朱色に染まっていくってものなんだ。足から順に、少しずつ。それが毎晩続くんだ……今やもう頭の一部を残して後は全部朱色なんだよ。それでさ、物騒な言葉を俺に言うと飛び去るんだ。ものすごく不吉で嫌な感じの烏なの。普通の烏が可愛く見えちゃう位にさ」
夢で見た、というのは嘘だ。だが本当に見たのだと言ったら恐ろしいことになるような気がどういうわけかしたから、夢の話ということにしておいた。
この店のマスターは言い伝えとか、妖怪とか幽霊に詳しい。もしかしたら「何だかそれって○○みたいだね」という話がその口から出るかもしれないと翔馬は考え、敢えてこの話をしたのだ。マスターは話を聞き、随分と驚いているようだった。これはもしかして思った通りの展開になるのではないだろうか、と期待を抱く反面、何かとても恐ろしいことを言われるのではないかという不安にも襲われた。
「それってまるで……朱烏みたい」
口を開いたのはマスターではなく、さくらの方だった。席が近いゆえ、話が聞こえていたのだろう。マスターもその言葉に頷いた。
「何、朱烏って」
「朱烏というのは桜村奇譚集に出てくる妖の内の一匹だよ。朱色の烏と書いて、朱烏。明るいに烏と書いて明け烏と呼ばれることもあるそうだ。この烏というのはある人の前に現れると云われている」
「ある人、というのは?」
翔馬が尋ねると、マスターとさくらは困ったように顔を見合わせる。どうやらとても言いにくいことであるらしい。嫌な予感が胸をよぎったが、そこまで聞いたら気になる。
「どうせ夢の話なんだから、問題ないよ。朱烏ってのはどういう奴の前に現れるんだ?」
そう尋ねられてもなおマスターは話すことをためらったようだが、やがて観念したかのように口を開いた。
「……人を殺した、或いは酷い裏切りや虐め諸々で人を死においやった人の前に」
「え……?」
ぐさりと、胸が鋭いもので抉られる。烏の眼光、刃、銀色の、自分があの日手にした……。頭が真っ白になり、顔中の筋肉が固まる。隣に座っているやた吉だかやた郎だかという少年がやたらこちらをじっと見つめている。その視線が妙に痛く、悲鳴をあげたくなる程だ。自分が出しているものとは到底思えない、異様なまでに冷たい汗が体中から噴出しているのに体はえらく熱くて目眩がする。
「朱烏はそういう人の前に現れ、罪を明かせと迫るという。彼の言う通り誰かに罪を告白し、しかるべき罰を受ける、或いは心を入れ替え自分なりに罪を償って生きるならば彼は何もしない。けれど、その身が完全に朱に染まるまでに己の罪を明かさねば恐ろしいことになるのだそうだ」
「へ、へえ」
耳に聞こえるのはかちかちに固まった声。金槌で叩けばカアン、という音がしそうだ。駄目だ、いけない、心を落ち着かせねば、彼等は夢の話だと思っている、動揺してはいけない……そう考えれば考えるほど頭も体もどうにかなりそうになる。
マスターは悲しげな表情を浮かべて続けた。
「もしかしたら昔君にその話をしたかもしれない。私はお客さんに桜村奇譚集に載っている話などをするのが好きだから。夢を見始めたのは例の事件が起きた後かい?」
「え、あ、うん」
「私の話が君の頭の奥の奥に残っていて、それをあの事件をきっかけに引っ張り出したのかもしれない。自分でも気づかない内に。大切な親友をあんな目に遭わせた人間の前に烏が現れ、その罪を明かすよう言えばいいのに、という風なことを君は思ったのかもしれない。その無意識の願いは君の頭の中に『朱に染まる烏』を生みだし、そして夢で出てくるようになった。あることばかり考えていると、それが夢に出てくる……ということは珍しくないから」
マスターの翔馬にとっては極めて都合の良い解釈に、少しだけ安心した。彼は翔馬をこれっぽっちも疑っていないようだ。「君と彼は本当に仲が良かったからね」と呟く声に嘘や疑いは混ざっていない。
そんな彼が翔馬にかつてこの朱烏の話をしたかどうかは定かではない。確かにマスターからは不思議な話をよく聞かされた(決して無理矢理ではなく。マスターは空気の読める老人だ)。だが具体的なことは殆ど覚えていないから、分からない。
彼は翔馬を疑ってなどいない。これ程までに不自然な態度をとっているというのに。決して気持ち良くはない話を聞かされて戸惑っているだけだと思われているのかもしれない。どちらにせよ、疑われていないという点はありがたかった。だがそれでも、翔馬は一刻も早くこの場を立ち去りたいと思った。しかし今すぐ帰ったら怪しまれるかもしれない。或いは「私が変なことを話したばっかりに」とマスターが自分を責めてしまうかもしれない。
だから翔馬はその後も、なるべく自然な振る舞いをすることを意識しつつしばらく話を続け、珈琲とケーキを胃の中に収めると、自分がここから一刻も早く立ち去りたいと思っていることを悟られぬようにしながら店を出た。ここ最近大人しくなりつつあった、腹の中に溜め込んでいるものが再び暴れだし幾度となく吐き気に襲われる。
しばらく歩いてから、バス停で三つ葉市行きのバスを待つ。寂れた町の生み出す気持ち悪い程の静寂が、化け物の形を成し、翔馬に抱きつく。ねっとりとしていて、冷たいそれは少しずつ翔馬の中へ入り込んでいく……。
(あの烏は、矢張り、知っている)
腹の中にある汚いものは異臭を発し、翔馬を責める。吐いたら楽になれる、楽になれるんだ、という悪魔の囁きが聞こえるような気がするが、吐きだすわけにはいかないのだ。
恐怖、不安、緊張、吐き気、ゴミ、あらゆるものが限界まで詰まった翔馬の穢れた体は今にも爆発しそうだった。あの朱烏が飛んできて、自分のはちきれそうな体をその鋭い嘴で貫き、破り、自身の全てを周りの人間に明らかにする……そんな妄想に囚われた彼は「お兄さん、お兄さん」という声を聞いた時本気で悲鳴をあげそうになった。あげた瞬間、自分の中にあるものが出てしまったのではという不安にさえ襲われた。
自分が蘇ってきた強い恐怖や不安でおかしくなりかけていることを必死に隠しつつ、声のした方を見てみればそこには先程喫茶店で見かけた少年二人が立っていた。
「な、何だどうした。俺に何か用? もしかして俺、何か忘れ物でもした?」
上擦った声を修正しようとすればする程パニックになり、どんどん声は変になっていく。それこそどれだけ馬鹿な人間にも自分が酷く動揺していることを悟られてしまうであろう位に。少年二人は仲良く首を横に振る。
「ううん、違うよ。おいら達お兄さんに伝えたいことがあって」
ぼさぼさ頭の方の少年が口を開く。少し手を伸ばすだけで触れられる位近くにいる二人は、翔馬をじっと見つめていた。何、と翔馬が問えば二人はにっこり微笑んだ。その笑顔に翔馬は背筋が凍りつくのを感じた。無邪気さの中に確かに混ざっているのは凶つ光、悪意、侮蔑……。ざああ、と風が吹く。その音はあの烏の羽音にそっくりだった。
「お兄さん、人を殺したでしょう?」
遠くから聞こえる烏の声。それが翔馬には悲鳴に聞こえた。それはナイフで体を刺された勇太の悲鳴であり、今少年達の目に宿るものに、彼等の言葉に突き刺された翔馬の悲鳴でもあった。
少年達は翔馬が何かを言う隙も与えない。その無邪気にして邪悪な笑みはますます黒い輝きを増した。
笑顔が、二人の目に宿る光が翔馬から体の自由を奪う。
「秋太郎が話してくれたよ、あんたの親友が殺されたことを。どうせそいつを殺したの、お兄さんなんでしょう」
組んだ両手で頭を支えながら、まるで「あいつのおやつ食べたのお前だろう」位のノリで言う。その、この場にはいかにも不釣合いな声色が余計恐怖を煽る。しかもぱっと聞くと場違いな位随分軽いものに聞こえるが、実は違う。その声には様々なものが詰め込まれていて(主にそれは侮蔑、という名のもの)とてつもなく重いのだ。その軽いように感じる声は体内に入るとずしりと重くなり、翔馬を苦しめた。
二人は交互に口を開き、翔馬を容赦なく刺す。血の代わりに噴きだすのは、自身の中にあるとても汚いもの。きっと彼等にはそれが見えている。
「さくらや秋太郎は『夢の話』ってことで納得してくれたみたいだけれど。俺達には分かる。お兄さん、完全に朱烏に憑かれているもの。しかも死と血の臭いがするし」
「人殺しは感心しないなあ、お兄さん。百害あって一利なし、実際お兄さんは人を殺したことで窮地に陥っている」
「理由はなんだか知らないけれど、どうせろくでもない理由でしょう? 同情の余地もないような理由じゃなきゃ、朱烏は憑かない。まあ、理由なんてどうでもいいけれど。ねえお兄さん、とても酷い目に遭いたくなかったら、さっさと警察へ行くことをお勧めするよ」
酷い目、という言葉から感じられた冷気のすさまじさは言葉に言い表すことが出来ぬもの。冗談やはったり、悪戯目的でそんなことを言っているのではないのだということは容易に察せられ、それが翔馬の内にある危機感を膨らませていく。少年達の笑みはどんどん黒くなっていき、その黒が渦を巻き、翔馬の腹を穿つ。
「朱烏は憑いた人間を必ず殺すような奴じゃあない。秋太郎が言った通り、きちんと罪を明かして罰を受けさえすれば離れていく。そしてそいつと契約を交わした人間の魂は死者の国へと向かう。けれどもし言うことを聞かず、最後までその罪を明かさねばとてつもない地獄をうんとうんと長い間味わい続けることになる。朱烏は容赦をしないよ。己の言葉を、死者の願いを聞き入れぬ者にはねえ」
「お兄さん、自らその罪を明かさない限りお兄さんの罪が明るみになることはない。事件解決が遅れているのは、朱烏の力によるものだ。本当だったらもうとっくにばれていたかもね? ねえお兄さん、この話を聞いて『それじゃあずっと黙っていよう』と思った? あはは、無駄だよ無駄。この時間は永遠に続かないよ」
「選択の時は近いよ、お兄さん。多分次に現れた時が最後だね。その時にもし朱烏の言うことを拒否したら、大変だよ?」
交互に開かれる口。笑いながら開かれる口、笑って、笑って、馬鹿にして、見下して、二人して、そうやって、いつも、二人で、二人で、仲良く、揃って、いつだって……。
翔馬は絶叫しながら二人に殴りかかった。だがその手は空をきった。確かに目の前にいたはずの少年達は一瞬の間に姿を消した。その代わりに、ばさばさという嫌な音をたてて現れたのは。
「お兄さん、暴力は駄目だよ暴力は」
「そうそう。暴力じゃ何も解決出来ないよ、お兄さん」
呆然とする翔馬の前には二羽の烏。少年達と全く同じ声で喋る烏は勾玉と翡翠を連ねた首飾りをつけていた。一方は赤い勾玉、もう一方は青い勾玉。前者がぼさぼさ頭の方の少年、後者が真っ直ぐな髪の方の少年が変じた姿であるらしい。それだけでも絶叫ものだが、更に恐ろしいことに彼等には本来存在するはずのない――第三の足が存在していた。朱烏も気持ち悪いが、こちらも負けず劣らず気持ち悪くたまらず翔馬は悲鳴をあげた。
「ば、化け物……! お、お前、お前達、さては、朱烏の、仲間」
指差し震える声で翔馬がやっとのことで声を搾り出すと、二羽の烏は呑気に顔を見合わせ目をぱちくり。おどけた、可愛気のある仕草だが今の翔馬にとってはそれさえ恐ろしくおぞましいものに見えた。
「仲間? いや、別に仲間じゃないよね?」
「まあ同じ化け物烏ではあるけれど。体を朱くするなんて芸当は出来ないけれどね」
「あれってどうやっているんだろうね? 超不思議。世の中不思議なことがいっぱいあるよなあ」
「お、前らがそれを……! 兎に角、俺の前から消え失せろ、化け物!」
二羽の烏は露骨なため息をつき、やれやれという仕草を見せる。
「分かったよ、いなくなるよ。ちぇ、折角親切にしてやったのに冷たいよなあ」
「お兄さん、俺達の言ったことは本当だから。きちんと罪を償った方が身の為だよ。俺達の忠告を聞き入れるか聞き入れないかはお兄さん次第だけれどね」
「うるさい、消えろ、消えろ、消えろ!」
もうほんの少しだって彼等の声を聞きたくなかったし、そのおぞましい姿を見ていたくもなかった。二羽の烏はもう一度ため息をつき、それから空へと飛び立ちあっという間に翔馬の視界から消えてなくなった。
一人きりになっても、一度乱れた心は容易に落ち着かない。むしろ帰ってきた不吉な静寂に余計かき回され、ぐちゃぐちゃになっていく。気持ち悪くて、吐きたくて吐きたくて、仕方がない。
バスに乗り、そして自宅へ向かって歩いている間少年達の声と『あの日』の出来事が交互に再生される。仕事帰りの勇太を待ち伏せし、近くにあった公園にある公衆トイレへと誘い込んだ。男子トイレに妙なものがあると言ったか、倒れている人がいると言ったかもう忘れたがともかく勇太は親友の言葉を何一つ疑うことなくついていった。そして近くに誰もいないことを確認した後、まず口を塞いで勇太の腹を包丁で刺した。塞がれた口から痛みと驚き入り混じる呻き声が漏れる。倒れた勇太の体に馬乗りになり、翔馬は何度も彼の体を刺した。勇太が下で、翔馬が上。勇太を見下ろして、見下して、笑って、怒って、心の叫びを、殺意を刃に変えて状況が飲み込めていない勇太の体に何度も何度も包丁を振り下ろす。彼が物言わぬ屍になった後も、刺した。広がる血、真っ赤な真っ赤な血。トイレの蛇口をひねって自分の体をざっと洗い、あらかじめ茂みに隠していたコートを羽織り、マスクをし、サングラスをかけ、なるべくまだ血の残るその体を覆い隠し公園を去った。かなり遅い時間だったとはいえ、誰にも見られなかったことはまこと幸運であったとしかいいようがない。
――お兄さん、人を殺したでしょう?――
(ああそうだよ、俺が殺した。殺してやったんだ!)
自ら罪を明かし、罪を償わなければ恐ろしいことになると彼等は言った。しかし翔馬にとって、自らの罪が明るみになることより恐ろしいものなどなかった。そんなことをすれば『自分』に傷がついてしまうからだ。勇太によってぼろぼろにされた誇りを、自分の価値を。彼を自らの手で殺すことで取り戻したそれらを、再び勇太によって傷つけられ、ぼろぼろにされることなど耐えられなかった。
何だって出来た勇太、何だって翔馬は勇太に勝てなかった。勇太と出会い『友達』になったばかりに、翔馬はゴミになってしまった。自分がぼろぼろになったのは何もかも勇太のせいだった。
だが、あの化け物烏達の言う『恐ろしいこと』というのが一体どういうものなのか気になりはした。もしかしたら本当にとてつもなく恐ろしいことで、自身の生命を脅かすようなことであるかもしれない。
(俺は、俺はどうしたら……)
自分の中にある汚いものを吐きだすべきか、それともようやく取り戻した『自分』を守る為吐きたくなるのをこらえるか。
守りを求めるようにして、翔馬は自分の部屋の中へ駆け込んだ。鍵を開け、転がるようにして中へと入った翔馬は汚い布団の上にいる者を見て、叫んだ。
そこには朱烏がいた。
――選択の時は近いよ、お兄さん。多分次に現れた時が最後だね――
唐突に、心の準備をする間も自分の選ぶ道を決める間もなく現れた『最後の時』。朱烏はいつものように、翔馬の姿を認識するや否やその口を開いた。
「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ、アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノスベテガアカクナル。サイゴ、サイゴ、コレガサイゴ」
最終通告。拒否すれば後はなく、受け入れても輝かしい未来は迎えてはくれない。朱烏はいつものようにすぐ飛び立つことはなく、じっと翔馬の顔を見つめている。その目は翔馬が正しい選択をすることを乞うているように見えた。それを願っているのは朱烏自身か、それとも彼と契約を交わしただろう……。
勇太の顔が浮かんだ途端、翔馬は怒りと憎しみに胸を焼かれた。炎に焼かれた腹の中にあるものが異臭を放ち、翔馬を不快にさせる。体が震える、唇を血が滲み出る程噛み締める。
(あいつが、あいつが契約を交わしたから俺はこんな恐ろしい目に遭った。あいつが何もしなければ、俺はこんな目に遭わないで済んだ、何もかも勇太のせいだ、死んだ後さえ俺を苦しめて、楽しんで、あいつは、あいつは……)
罪を明かした方がいいだろうか、と一瞬でも迷った自分は何て馬鹿な男だろうと翔馬は思った。そして彼の怒りは頂点に達し、体を破裂させ、その中にあったものを残らずぶち撒けた。もう目の前にいる烏を恐れる気持ちなどなかった。翔馬の目の前には勇太の姿しかなかった。
「誰が……誰が明かすもんか! お前なんか、死んで当然だったんだ! いつも、いつも俺のことを馬鹿にして、見下して、何でも出来るからって……いつも、いつも俺のことをお前は見下していた! 親友だなんて、俺は思っていなかったし、お前だって思ってなんかいなかっただろう! 自分よりも下な俺を傍に置くことで、自分を引き立てようとしたんだ! 俺は、お前と、いつも、比べられて、俺だって、勉強も運動も出来たのに、それ以上に出来るお前が、傍にいたから、俺は、俺は! そんな俺を見ているのは楽しかっただろう? いつだって比べられて『下』に見られる人間の気持ちなんてお前には分からないだろうな? はん、お前は『親友』の俺を見下して、優越感に浸っていたんだ!ずっと、ずっと!」
烏は、いや勇太は黙っている。
「お前は随分俺に優しくしてくれたな? 困った時にはいつでも助けてくれた、でもそれだって親切心からやっていることじゃなかった! 馬鹿にしていたんだろう、下に見ていたんだろう、心の中で! 格下の俺に優しくしてあげる自分って何て偉いんだろう、もっともっと可哀想な格下男に施しを与えてあげようって思っていたに違いないんだ! 楽しかっただろうなあ、格下の人間哀れんで、心の中で笑いながら優しくして『あげる』のは! 俺が志望大学に落ちた時も、就職が出来なかった時も、心の中じゃ大笑いしていたんだよな? さぞおかしかっただろう? 志望大学に合格して、そこそこ大きな会社に就職することも出来たお前から見れば、俺っていうのはさぞかし滑稽な存在だっただろう? 優子もそうだった、お前と一緒になって俺を見下していた、俺のこと馬鹿にして、笑って、私って優しいでしょう聖女様でしょうって顔をしていた! 恋人のいない俺に、幸せな日々をわざとらしく見せつけて、惨めな気持ちになる俺のことを笑ってもいた! 俺はお前も、優子も大嫌いだった!」
わざわざ結婚式間近に勇太を殺したのは、二人を傷つけ、地獄へ堕とすにはそれが一番だと思ったからだった。
「お前達の幸せを、俺は奪ってやった! 一番お前達が欲しかった幸福な日々を! 俺が、この俺が! ざまあ見ろ! お前を喪って悲しみにくれるあの女を、俺は哀れんでやった、そして優しい言葉をかけてやった! ついでに、あいつの傷を思いっきり抉ってやった! 勇太の思い出話を聞いたあいつはわんわん泣いた、気分がすっきりしたよ! あの顔は本当に最高だった! 俺はこれからもあの女の傷を抉ってやるんだ、馬鹿にしていた存在に、下に見ていた存在に、あの女は苦しめられる! お前達が散々俺にやって来たことを、これからうんとうんとしてやるんだ! 見下して、笑って、優しくしてやって、傷つけて、貶めて、蔑んで!」
嗚呼、なんて気持ちが良い。
「お前がいなくなって、俺はようやく自分らしい人生を歩むことが出来る! お前のせいで、お前のせいで俺の人生は滅茶苦茶になった! でもそれももう終わりだ、俺の価値は元に戻った、俺は、俺は誰かに見下されるような男じゃないんだ! これからは俺の方が見下す側に回るんだ、そうだ、はは、やっと、俺は!」
「……そう」
言いたいことを言い、息を荒げながらほくそ笑んでいた翔馬をしばらくの間無言で見つめていた朱烏。
その口から出た声は、いつものものとは違った。聞き慣れた、朱烏のそれよりある意味忌々しい声。
「そう、君は俺のことをそう思っていたんだ……君は俺を、そして優子をそんな下劣な人間だと思っていたんだ」
悲しみと落胆に包まれた声。普通の人なら勇太が本当に翔馬のことを大切な親友だと思っていたこと、見下してなどいなかったことなど、その声を聞いただけで理解が出来る。だが翔馬にはその声に込められた訴えさえ届かない。
「何だ、俺はそんな人間じゃないってか? はん、よく言うよ! そういう見え見えの演技がうざくてうざくて仕方無かったんだよ!」
「……罪を明かし、償う気は無いんだね」
「あるもんか! そんなことしたら『俺』に傷がつく! お前や優子のせいで傷つくのはもうごめんだ!」
頼むから考えを改めてくれ……そんな思いを込めた眼差しも、翔馬は乱暴に叩き落として粉々に割った。朱烏の朱く染まった瞳から透明の雫が、一滴。その涙さえ、翔馬を変えやしなかった。だから、何もかも、終わり。
「……分かった。それならば……オマエモアケニソマッテシマエ!」
再びあの無機質で、淡々としている恐るべき声が聞こえた。勇太の目の前でまだ微かに黒かった頭のてっぺんが完全に朱に染まった。
それが、最期だった。いや、それこそが地獄の始まりであった。体は固まり、動かない。そんな翔馬を嘲笑うかのようにより恐ろしい姿をした化け物――まるで鬼のような――に変わった朱烏。鋭い爪の伸びた手が翔馬の腕を掴み、そして。
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「ああ、結局おいら達の言うことを聞かなかったのかあのお兄さん」
古びたアパートの前にひしめくパトカー、最早何の意味もない救急車。夕空よりなお赤いものの発する匂いが、辺りに立ち込めている。担架に乗せられ、布で覆われた遺体は救急車に乗せられて運ばれていく。誰もが目を背け、吐いてしまう位無残な姿となったのはこのアパートの一室に住む男である。その体、朱くなっていないところはどこにもなく。
「きっと八つ裂きにされたんだろうね。体を裂かれる間朱烏の力で、意識を失うことは許されなかった」
「でもこれで終わりはしない。人間としての死を迎えても、朱烏からは逃れられない。むしろこれからが本当の地獄だよね。お兄さんの魂は朱烏に飲み込まれて、そして朱烏の体内にある空間で延々と痛めつけられる」
空間内で翔馬の魂は仮初の肉体を得る。そしてその肉体を朱烏は痛めつける。爪を剥ぎ、肉を削り、焼き、刺し、抉り、目をくり抜き……あらゆる痛みを与える。仮初の肉体はすぐ蘇る。意識が無くなることはなく、感覚が麻痺することもなく、狂うことも出来ぬまま、常に言葉で言い表すことなど到底不可能な痛みを与え続けられる翔馬は、どこへも逃げられない。気が遠くなる位の長い時間をかけ、苦しみを与えられ続け、そして朱烏が飽きた時その魂は完全に消し去られる。生まれ変わることも、やり直すことも出来ない。まさに、地獄。
「あのお兄さんに殺された人の魂も、お兄さんへの罰が終わるまでずっと朱烏の中にいなくちゃいけない。……こっちはこっちで地獄だよね」
「殺されたお兄さんも、無念だったろうね。きっと彼は自分のことを殺したお兄さんのことを許せなかっただろう。それでもお兄さんは信じていたかもしれないね。自分の親友はきっと己の罪を明かし、そして償うだろうってさ。だから朱烏と契約を交わしたのかも」
「まあ、信じられない位親友がひねくれていたせいで最良の終わりを迎えることは出来なかったけれどね」
近くにあった木の上でアパートの様子を伺っていた、三本足の化け烏二羽――やた吉とやた郎はため息。
翔馬のひねくれ具合は、すっかり黒い体に戻った朱烏から聞いた。彼もあんまりな言い分を聞いて頭が痛くなったらしい。今彼の体内には翔馬だけでなく、他の罪人の魂も入っているという。翔馬はその罪人達と共に果て無き罰を受け続けるのだろう。だがそれに対してあんまり可哀想だ、救ってやりたいとはやた吉もやた郎も思わなかった。自分の選んだ道なのだから、仕方がない。人の忠告を聞かなかった方が悪いのだ。朱烏が去った後もしばらくの間二人(二羽)は凄惨な事件が発生した現場を見つめていたが、やがて飽きてその場を去った。
翔馬の遺体は運ばれている最中に消え、同時に彼の死という事実さえも人々の頭から消えた。朱烏は、罪人の死を誰かが悼むことを許さない。彼の死は永遠に明らかにされない。最近姿を見なくなったが、一体どうしているだろうか、と思う人間さえいない。
朱烏は容赦しない。自らが犯した罪を明かさぬ者には痛みと苦痛しか与えない。
カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ、アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノスベテガアカクナル。
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朱烏、という妖がいる。明け烏とも呼ばれているこの妖はある人間の前にだけ現れる。その人間というのは、身勝手な理由で人を殺したり、酷い裏切りや苛めなどで人を死に追いやったりと直接或いは間接的に人の命を奪った者と云われている。
朱烏は始めは普通の烏と同じ黒い体をしているが、少しずつその身は朱色へと変じていく。朱烏は段々と変わっていく自分の姿を毎日その人間の前に見せ、そして自分の罪を誰かに告白し(明かし)、然るべき罰を受け或いは心をすっかり入れ替えて生きるように言うという。
その身が完全に朱に染まる前に朱烏の言う通りにすれば、朱烏は何もしない。だが、もし最後まで罪を明かし、償おうとしなければ朱烏は恐ろしく残酷な罰を与えるのだそうだ。