表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜町幻想奇譚  作者: 里芽
朱烏
260/360

朱烏(2)


 烏は翔馬の願いも虚しく、毎日必ずその姿を現した。彼の体はゆっくりと、だが着実に朱色に侵食されており、足に近い部分が朱くなってきている。漆黒の闇から、目にも鮮やかな朱。夜から夕方へと時間を巻き戻された世界の空を見つめているような、そんな妙な気分になる姿である。

 そして姿を現す度、背筋が凍りつき腹の中にあるものを全て吐きだしたくなるような声で告げる。


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノアシモアカクナル」

 そして変化が腹の部分に起き始めた頃から最後の部分だけ言葉が変わった。


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノハラモアカクナル」

 一度目を合わせてしまうと、彼が翔馬のお望み通り消えてしまうまでそこから動くことが出来なくなる。あの今まで多くの血でその身を染めているようなナイフを持つ瞳から、己の無駄に大きいプライドと、小さく弱いい心を現すかのような光を持つ貧弱な瞳を逸らすことはどだい無理な話で、いつもがくがく震えながらその眼光に滅多刺しにされ、彼が去った後もしばらくの内は元には戻れないでいた。慣れ、という言葉は少なくともあの烏との邂逅には存在しない。いつもまるで初めて出会ったかのような衝撃に襲われ、腹の中が沸騰して嫌な臭いを発する。その臭いに、烏の言葉に負けてしまいそうになることもあったが、それでも翔馬はギリギリのところでいつも耐える。


 烏はどうしたって現れた。カーテンをずっと閉めっぱなしにしていても、ふいに血のように生温い風がどこからともなく吹き、汚らしいカーテンを舞い上がらせる。そして露わになった窓の向こう側にある柵の上に止まっている烏と目が合ってしまう。烏は窓越しに翔馬へ語りかける。この時、窓などというものは何の役にもたたず、彼の声を少しもくもらせることなく翔馬の耳へと届けるのだった。がくがく震えながら目を瞑り、耳栓をしてカーテンが開こうがどうしようが絶対に目を開くものか、その声を聞いてなるものかと心に決めても無駄だった。抗うことの出来ない強い力が彼の目を無理矢理こじあけ、そして自分の腹の上に乗っかっている烏の姿を見ることになるのだ。冷たく重くのしかかるそれは、血と死の臭いを孕み翔馬の生命活動をほんの一時止める。それからまた言いたいことを言うと、消え去る。意識が飛び、しばらくしてからはっと目を覚ます。あれは夢だったのか、それとも本当にあったことなのか初めの内は分からなくなるが、まだ冷たい腹をさする内現実であったことを思い知ることになり呻くのだった。ヒゲを剃っている時、翔馬の肩へ降り立ったこともあった。鏡に映る、まるで自分にとり憑いているように見えるその姿に悲鳴をあげ、頬を切った。切った頬からつうっと赤いものが流れ落ちてきたのを見た時、烏の「アケルマエニアカセ」という言葉が響き渡りまた腹を沸騰させ吐きだしたくなる衝動に駆られた。


 外を歩いている時も彼は姿を現した。バイト中、休憩室で一人休んでいた時に現れ掃除用具入れからモップを取り出し、振り回すだけの余裕も与えることないまま烏は「アケルマエニアカセ」と言って消え去った――などということもあった。どこへ行っても油断など出来ず、安息の地というものなどどこにもなかった。段々と人ごみの中を歩くことさえ怖くなっていった。行き交う人々全てがあの烏に見えるようになっていたのだ。彼等は自分を見ている。そして自分のあらゆる汚いものを溜め込んでいる腹を、その瞳の刃で刺して外へ出そうとしている。腹から出てきたものを見て、ある者は悲鳴をあげ、ある者は満足そうに笑い、ある者は軽蔑の眼差しを向け、そして刺された自分の人生は終わる――そのような妄想を、街中を歩く度にした。黒い服を着ている者の姿を見ると、その恐怖が倍増する。赤い服を着ている者も、駄目だった。


 烏の声は、その姿を消した後もずっと残り続ける。

 アケルマエニアカセ、アケルマエニアカセ……。アカセ。その意味が全く分からないとは翔馬も言わないが、だからといって素直に烏一羽の言うことを聞く気にはなれない。あんなものはただの悪戯だ、誰かがからかっているのだ、性質が悪い、しかし悪戯だとすればあの烏をここへやっている者はどうして自分には明かさねばならぬことがあることを知っているのだろう、もしかしたら、いや、知っているものか、偶然だ、誰にだって秘密はある、考えすぎだ、でももしアケルというのが明ける、つまり明かすという意味だったら、あの烏は自分が腹の中に溜めているものを皆にばらすということで、あの烏は知っている、アケルという言葉には朱けるという意味合いもあるのでは、あいつの体が全て朱色に染まったら、駄目だ、いや、何を俺は考えて――常にそんな思考が翔馬の中を巡った。


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノシリモアカクナル」


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノドウモアカクナル」

 あの烏はただの烏ではない。体を染める朱は誰かによって塗られたものではない、そしてあの烏は全てを知っている……その考える度翔馬は「いや違う、あれは悪戯だ。家の中や休憩室にいる時に出会ったあいつはただの幻覚だ。誰かの悪戯のせいで自分はおかしくなってしまったのだ」という思考でそれを押さえつけようとする。だが彼には分かっていた。あまりにもそれは無理矢理過ぎるということが。


 もう一週間程前のことか、殺された勇太の葬式に翔馬は行った。本当は行きたい気分ではなかったが、行かなかったが為に変に怪しまれるのも嫌だったし、自分は勇太の「親友」なのだから行かないわけにはいかない。喪服を着た自分の姿を見て、吐きたくなるのをこらえつつ足を運べば、死の臭いで空気が澱んでいるその場には沢山の黒、黒、黒、黒……。烏の群れ。虚ろな眼光、しかし翔馬に目を向けた時だけ一瞬あの銀色の刃が見えたような気がして、早くも帰りたくなった。涙に濡れる声は死者の呻き声に聞こえ、彼等一人一人に無念の死を遂げた勇太の魂がとり憑いているのではないかとさえ思えてくる。耳も、目も塞ぎたくなった。

 塞ぎたくても塞げない目に映る、一人の女性。純白のドレスを着て、皆から祝福されて勇太と共に幸せな日々のスタートを切るはずだった人。白い装束(しかも本来予定していたものとは違うもの)を着ているのは勇太だけで、彼女は白とは正反対の色の服を身にまとい、じっと俯いている。始まる前に終わった二人の物語。女――冴島優子の目に宿るのは『無』の光。悲しみも苦しみも全て涙を通して出し切ってしまい、最早もう流せるものは何一つとしてないといった風だ。高校時代翔馬達学年の憧れの的であった女性の顔は深い悲しみゆえに変わり果てていた。顔色は悪く、頬は痩せこけ、目蓋は腫れ、昔の輝きなど見る影もなくなっている。先日まではますますその輝きを強めていたというのに。勇太の両親も魂ここにあらずといった状態だ。

 そこにいる間、ずっと烏の声が聞こえていた。翔馬の周りにいる沢山の烏達が、アカセアカセと鳴き続け、翔馬を苛む。手頃な棒状のものがその場にあったなら、うるさいと怒鳴りながらそれを振り回したかもしれない。式が終わった後は勇太の両親や優子に挨拶し、友人達との会話も程々に逃げるようにしてアパートへと帰った。その道中にもあの烏と遭遇し、翔馬は帰るなり脱いだ喪服を何度も踏みつけた。烏め、烏め、と怒鳴りながら。


 誰とも会いたくない、特に勇太に関わる人間とは。会えばまたあの声を聞くことになり、そして多くの刃でその身を刺されるのだ。

 だから翔馬は布団の上で膝を抱えて長い日々を過ごした。外へ出るのはバイトの時位だった。元々積極的に外へ出るようなタイプの人間では無いから変に怪しまれることもないだろうと翔馬は踏んでいる。例え「あの人最近見ないなあ」と誰かが思ったとしても、きっと「親友を凄惨な事件で失ったのだから仕方ない」と思ってくれるに違いなかった。


 警察が何度か翔馬を訪ねてきた。初めて来た時はいつだったか。葬式の前か後かそれさえ彼は覚えていなかった。ただ、あの烏がいつものようにベランダに現れ「アケルマエニアカセ」と言って飛び立った直後にやって来た、ということだけは覚えていた。初めて彼等が姿を見せた時は心臓が止まり、そのまま自分は物言わぬ石像になってしまうのではないか、と思った位だった。いっそその方がどれ程楽だったかしれない。彼等は勇太の友人や知り合い、仕事仲間等から色々話を聞いているのだという。

 勇太を恨んでいる人間はいなかったか、何かのトラブルに巻き込まれたようなことは言っていなかったかなどなど、恐らくそういうことを聞かれた。しかし具体的なことは覚えていない。自分自身が彼等の質問にどう答えたかさえろくに覚えていない有様だった。ゆえに、自分が彼等から話を聞いている最中酷く動揺していなかったか、答えに変に詰まりはしなかったか、目が泳いではいなかったか……そういう、翔馬自身にとっては大事なことも一切覚えていなかった。変に怪しまれたら嫌だ、という気持ちはあったがそういう事態に陥らない為の対処は出来ていたのか、否か。警察が訪れる度、頭は真っ白になり、そして彼等が帰った後はぶるぶる震えた。その日はろくにものが食べられず、空腹で腹が鳴る度腹の中にある汚らしいものが蠢き、ますます気分を悪くする。眠れば血だらけの勇太が烏に呑まれていく、という夢や烏に変じた血だらけの勇太が物言いたげにこちらをただじっと見つめているだけの夢を見る。


 アカセ、アカセ、アカセ、アカセ、アカセ……。誰もが翔馬に刃を突き刺し、そう言う。部屋にある全ての黒、もしくは朱いものが烏に見え、それを捨てたり目に映らない場所へやったりした。それでも烏は、彼の発する言葉は消えなかった。

 腹の中にあるものが、常に暴れ狂っている。汚らしくて、臭いもの。ぶちまけようにもぶちまけられず、誰かに救いを求めるにも求められぬもの。何故こんなものを抱えなければいけないのか、と翔馬は恐怖に怯え、暴れ狂いながらも思う。抱える理由が翔馬には見当たらなかったのだ。

 しかし彼もいつまでもそのような辛く苦しい日々を送っていたわけではなかった。永遠とも思えた苦しみは、永遠のものではなくなった。


 一日、一日と過ぎていく時間。過ぎれば過ぎる程、烏の身はどんどんと朱くなっていった。今や三分の二は朱色となり、後はくちばしや頭の部分を残すのみ。


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノムネモアカクナル」


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノクビモアカクナル」

 最早、彼を見ても誰も烏だとは思うまい。南国の島に暮らしている珍しい鳥だと思うに違いなかった。

 朱くなればなる程、その禍々しさは強まり、邪気は見えざる手となり翔馬の首を絞める。

 そうして烏の変化はゆっくりと、だが着実と進んでいっているのに対し勇太が殺された事件の方は全くといっていい程進展がなかった。勇太の知り合いなのか、それとも強盗か何かの犯行なのか、それさえ検討がつかないという様子。日に日に事件は報道されなくなっていき、人々の記憶から消えていく。

 風化していく事件、全く進展しそうにない事件。

 嗚呼、大丈夫かもしれない。


「あはははは!」

 翔馬はバラエティ番組を見て、久々に笑った。一度笑いだしたら止まらなくなり、少しむせた。以前食べるのをやめた赤いカップのしょうゆラーメンをすすり、酒を飲む。適当に肉と野菜を切って炒めたものを口にいれ、また酒を一口。

 直後カーテンが生温い風によって舞い上がり、ベランダが見えた。そこにはくちばしが半分位まで朱くなった烏がいた。夜、真っ暗なはずなのにその姿は気持ち悪い位はっきりと認識できる。烏は「アカサネバオマエノクチモアカクナル」と告げ、飛び去った。体が自由になると翔馬はあくびをし、再びラーメンをすすった。

 物事にはピーク、というものが存在する。そしてそれが過ぎれば落ちていく、ああ落ちていく。そのピークがいつ頃だったのか、具体的には分からない。一番酷かった頃は黒いもの、朱いもの、また鋭く尖ったものを見ただけで呼吸が出来なくなり、腹の中が煮えたぎりより酷い異臭を発生させ、烏への恐怖心もすさまじいものとなり、それらの要素が合わさった結果狂人一歩手前までいっていた。いや、もしかしたら狂人に成り果てていたかもしれない。だが、今は違う。

 少しずつ、黒いものや朱いものに対する恐怖心がなくなっていき、行き交う人々全てがあの烏に感じられることもなくなっていった。烏と目を合わせても、大分平気になってきた。勿論、彼の持つ異様な空気は今でも怖く、その姿を見ればぞっとするし「もしかしたら」という気持ちも起きる。だが彼が姿を消した途端楽になる。以前程吐き気もしない。勿論いきなりそうなったわけではなく、少しずつだ。バイトの時笑顔が引きつることもなくなってきたし、外へ出かけて買い物をするようにもなってきた。黒、もしくは赤い服を着ることだってある。つい最近は優子とも会った。優子は相変わらず勇太の死から立ち直れずにいて、翔馬と話している間にぽろぽろと涙を零していた。そんな優子を翔馬は優しく微笑みながら慰めてやるのだった。

 人間など、そんなものである。いつまでも恐怖や不安に縛られ続けるとは限らないのだ。


(慣れってやつなのかな……)

 慣れればどんな感情とてこれ程までに萎んでいくものなのか。否。翔馬は本当は分かっていた。自分にどうして心の余裕が生まれたのか。今はそれでも時々言い知れぬ不安や恐怖に襲われ、震えることもあるがいずれはそういうこともなくなるような気がした。


(あんな烏が、なんだ。ただ体が朱色に染まるだけじゃないか。不吉な言葉を吐くだけじゃないか。烏だって人の言葉を覚え、喋ることが出来ないでもないらしい。あの烏が特別ってわけじゃない。あの体だってやっぱり誰かが朱色に塗りたくっただけなんだ。あの体全てが朱色になったって、何も起こりゃしないさ。仮に何かが起きたとしても、烏の言葉なんて誰が信じるもんか)

 阿呆、阿呆と鳴く烏、阿呆と言う方が阿呆阿呆。


 次の日の朝に現れた烏は、くちばしが完全に染まっていた。この頃朱に染まるスピードが心なしか早くなっているような気がしたが、その事実が翔馬の胸の鼓動をせわしないものにさせることはない。

 新聞の中に入っている広告に目を通す。その中には結婚式場の広告が混ざっていた。地元にある式場、満面の笑みを浮かべる男性と女性。純白の衣装、幸福の象徴。花嫁に負けず劣らず美しいブーケ。

 男の顔が勇太、女の顔が優子に翔馬には見えた。永遠に訪れることのない光景が、今彼の目の前にある。翔馬は立ち上がり、ぐちゃぐちゃの引き出しから赤いペンを取り出す。


(残念だったな)

 純白の衣装をペンで赤く染めてやった。最後に二人の顔に×印を書いて、完成。血に染まった二人の幸福。血で洗い流され、跡形もなく消えた幸福。それを前に翔馬はほくそ笑んでいた。

 その様子をあの烏がじっと見つめていることに、彼は気づかなかった。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ