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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
桜の夢と神隠し
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桜の夢と神隠し(9)

 骨桜は、余裕のある笑みを浮かべている出雲さんを、睨み続けている。出雲さんとは正反対に、彼女に余裕というものは全く見られない。怒りと憎しみにまかせて「殺してやる」と叫んでいるけれど、実際に彼女に出雲さんを殺す手だてがあるのかは全く分からない。今回も、出雲さんに酷い目にあわされた挙句、大切なものを全て奪われるかもしれない。

 それでも彼女は、出雲さんに刃向かうことをやめない。意地なのか、何があっても失いたくないという思いなのか……それとも、憎しみの感情がそうさせているだけなのか。


「愚かな女。大人しく帰していればよかったのに。その後また、あの小娘達をさらえばいいだけの話だったのに」


「おい、出雲! 何馬鹿なこと言っているんだ!」

 紗久羅ちゃんが出雲さんに向って叫ぶ。


「今回は助けてやるといったけれど、その後のことは知らないよ。……興味ないからね。でも、もう知らない。私に刃向かうものは、もう許してなんてあげない」

 きっと、それは心からの言葉だろう。元々、出雲さんにとって夕菜さんや一夜はどうでもいい存在。今回は特別に助けてくれただけ。どうでもいい存在だから、その後どうなろうが知ったことではないのだ。例え、それが原因で菊野さんに怒られたって……。

酷く冷たい声でそう言われて紗久羅ちゃんは、拳を握りしめながら黙りこくってしまった。


 骨桜が、右手を振り上げる。


「ここでは私の力の方が強い! ここは私の統べる世界なのだから!」


 骨桜が一気に右手を振り下ろす。すると、桜の花びらの色に似た眩しい光が天から、出雲さんめがけて落ちてきた。それはまるで雷のようだった。太鼓を思いっきり叩いたような、内臓をぐわんぐわんと揺らす大きな音がした。あまりの衝撃に地面が大きく揺れる。眩しい光に、思わず私は目を瞑った。瞑っても、目蓋に焼きついた光はなかなか消えなかった。耳は痺れて、しばらくの間何も聞くことができない。

 地面が揺れがおさまり、私は恐る恐る目を開けてみた。もしあの光が出雲さんに直撃したのなら、幾ら彼でも無傷ではいられないだろう。


 やや離れたところに立っている出雲さんは、見たところ無傷の様だった。手に持っている扇で攻撃を受け流したのか、結界のようなものを張ったのかは分からないが、とりあえず無事だ。けれど、あの光を間近で見たせいで目をやられたのか、左手で目を押さえ、頭を振っている。

 骨桜がまた右腕を上げ、振り下ろす。私達をこの木の前まで誘ったあの木の根が出雲さんを再び襲った。太い根は反応が遅れた出雲さんの細い体を捕らえる。そのまま締め付けられれば、ただではすまない。良くて全身骨折内臓破裂、悪くて体がぺちゃんこ、或いは真っ二つ。出来ればそんな光景は見たくない。


「あれ、やばくねえか!?」


「何か、違うものに化けて逃げるとか出来ないのかしら?」


「何かに化けるには、ある程度集中して、自分の成りたい姿と自分自身を頭の中で結びつけるっていうことをしなくちゃならない。あれじゃあそんなこと考えている余裕がないだろう。……うーむ、あの化け狐がくたばるのは別段構わないっすが、グロテスクな場面を、皆に見せるのはちょっとあれっすからねえ……それに、あいつがいないと骨桜を……ああ、しょうがないな! 女に手をあげるのは好きじゃないっすが」


 弥助さんが、ものすごい速さで駆けていく。あっと言う間に木の下まで行き、信じられないことに垂直に木を上っていた。まるで、漫画みたいな光景だわ。

 骨桜の近くまで行くと、思いっきり木を蹴り、宙に舞う。呆気にとられる骨桜に、体当たりを食らわせる。多分弥助さんは相当手加減している。それでも、骨桜はしゃがみ、苦しんでいるようだった。木の根を操る余裕が無くなったのか、少しずつ木の根の締め付けは緩くなっていき、やがて出雲さんは解放される。


「旦那!」

 やた吉君が、地面に生えている草を適当に抜き取り、それに思いっきり息を吹きかける。すると、その草はみるみるうちに大きくなり、やがて人一人を乗せられる大きさにまでなる。そのまま、光のような速さで、地に落ちていく出雲さんのところまで飛んでいき、優しく彼の体を受け止める。

 出雲さんがそこから飛び降り、着地すると草は元の大きさに戻り、見えなくなった。弥助さんはいつの間にか、こちらに戻ってきていた。出雲さんは何度か咳き込んだが、無事だ。


「やた吉、助かったよ。矢張り、持つべきものは使い魔だ。……私としたことが。ふふ、でも今度はこうはいかないよ。全く……あの時、跡形もなく焼くべきだったかな」


「これ以上、この身を焼かせはしない……焼かれる前に、殺してやる!」

 骨桜を包む、黒いもやもやが、どんどん色濃くはっきりしてきている。濃くなればなるほど、何だか気分が重くなっていく。あれに触れてはいけない、と何となく思う。

 骨桜が、裾をふわりとさせ、その場でくるりと優雅に回った。細い指先に、ひらひら落ちてきた桜の花びらが吸い寄せられていき、少しずつ集まっていく。何度も回るうち、それはすごい数になっていく。

 骨桜の手が「枝」に、そしてその枝を彩る桜の花。そんな風に、見える。


「切り刻まれて、死んでしまえ!」

 骨桜が手を前へ突き出すと、集めた美しい桜の花びらが出雲さんめがけて飛んでいった。桜の雨、或いは流星群のように。柔らかい花びらを、鋭い刃に変えて憎むべき相手へと降り注ぐ。


 それは、出雲さんと大して離れていない私達も襲った。私と紗久羅ちゃんはとっさに手で目をかばった。結界が張ってあるとはいえ、矢張り何かが飛んできたらどうしてもそうしたくなってしまう。やた吉君とやた郎君の錫杖をぎゅっと握りしめ、向ってくる桜の花びらを睨みつけている。


 一夜達も、悲鳴をあげている。けれど、花びらは彼らの体をすり抜けている。成る程、ここにいる彼らは精神体のようなものだからどんな攻撃も効かないのね。けれど、一夜達と一緒にいる弥助さんは違う。しゃがんだり、思い切り飛び上がったりしてどうにかそれを避けている。


「やた吉君、弥助さんを結界に入れることは出来ないの!?」


「入れることは出来るけれど、結界に入れる人数が多くなればなる程、結界の精度が下がっちゃうんだよ。それに、弥助の兄貴だったら大丈夫だよ。ものすごく頑丈だし。ちっとやそっとの攻撃位じゃ死なないよ……多分」

 ……確実ではないらしい。


 一方、出雲さん。少しも慌てた様子は無く、扇をぶんと振った。すると、出雲さんを襲う花びらが、扇に吸い寄せられていく。先程、骨桜がやったのと同じような感じだ。扇を持つ手を返す様子はとても優雅。


「切り刻まれはしないよ。痛いのは嫌いだよ、私は。そんなに誰かを切り刻みたいのなら、自分の体を刻んじゃえばいいんだ」

 花びらは一箇所にまとまり、そしてその花びらをお返しとばかりに骨桜に向けて飛ばした。


「こざかしい!」

 けれど、骨桜が腕を振ると花びらは淡い光を放って消えてしまった。


 一向に決着は着きそうにない。


「このままじゃあ、埒があかないっすねえ…・…まあいい、とりあえず少しこの場から離れよう。詳しい話を聞くにも、ここじゃあ落ち着いて話もできやしない」

 とはいえ、ここは骨桜の空間。遠くに離れたからといって必ず安全とは言い切れないけれどと弥助さんは付け加えつつも、さっさと走り出した。私達も慌ててそれについていく。出雲さんは大丈夫だろうか。やられるということは無いとは思うけれど。それだけじゃない。ここを離れている間に、出雲さんがうっかり骨桜を殺めてしまったらどうしましょう。殺してしまったら、何も解決しない。誰かストッパーの役目を持つ人がいた方がいいのでは、と思った。

 けれど、彼を止められる人なんて多分いない。私にだってどうしようもない。


 素直にここを離れた方がよさそうだった。


 終わり無き果て無き草原を、夢中になって走った。しばらくは、二人の戦う音が聞こえていたけれど、もう何も聞こえない。運動場を少し走っただけで息切れしてしまう私にとっては、たった数百メートル走ることも苦痛だった。一夜達は今肉体の無い状態のせいか、少しも疲れた様子を見せていない。私より年下の小学生の男の子もけろっとしている。彼らは、今なら望めば空も飛べるかもしれない。少し羨ましい。

 私は、疲れてその場に座り込んでしまった。地面は、酷く冷たいような気がした。


「さて。とりあえずここならいいだろう。……早速だが夕菜さん。今回の事件の経緯を話して欲しいっす。何故骨桜はあそこまでお前さんに執着しているのか。何故、他の人達が連れ去られたのか。分かる範囲でいい。教えてくれ」

 骨桜の事が気になるのか、青い顔をして冷や汗を流しながら私達の逃げてきた方向を見つめていた夕菜さんは、弥助さんにそう言われてしばし俯く。けれど、ここで事情を説明しないことにはどうしようもないと思ったのか、静かに顔をあげた。


「数年前の、ことです。私、山とかを歩いて気に入った風景をスケッチするのが好きで……よく桜山にも上っていたんです。その日も、いつもの様にスケッチブックを持って桜山をふらふら歩いていたんです。そんな時です。急に、妙な浮遊感に襲われて。立ちくらみかな、って最初は思ったんです。実際はそうではなかったようですけれど」

 夕菜さんは、続ける。


「何だか、甘い香りがして。ひらひらと薄桃色の花びらが落ちてきたのを見たんです。桜の花びらに似ている、でも今は桜の季節じゃない。それじゃあこれは何の花びらなんだろうって顔をあげました。そしたら」

 目の前に、この世のものとは思えない美しい桜の木があった。あまりに立派だったものだから、しばらくは何も考えることが出来なかったという。我に返って、何で今桜?と首を傾げた。けれど、あまりに綺麗だからそんな細かいことはどうでもいいやとすぐ思ったらしい。

 そんな時。


「ふと見ると、その桜の木の幹……正面から見るとやや隠れている辺りが抉れていたんです。抉れている部分は真っ黒で……ああ、きっと雷が落ちたんだろうなって思いました。更に、よくよく見ると爪の様なもので深く幹が削られている。美しい。けれどその一方で残酷な傷をつけられている桜。私は、わずかな間にその木の虜になりました。思わず、幹に触れようとしました。けれど、触れられなかった。見えない何かに阻まれたかのように。その後すぐまた不思議な浮遊感に襲われたんです。気づくと、もう桜の木は無かった。その時は、あああれは白昼夢というものだったのだろうって思っていました」


 綺麗だったなあ、夢でもあんなに素晴らしいものが見られて幸せだった。そんなことを思いながら、眠りについたらしい。


「そしたら、夢で昼に見たのよりももっと立派で素敵な桜の木が出てきたんです。草原と、大きくて綺麗な桜の木。……私は、数年前にもこの世界に迷い込んだことがあるんです。彼女に導かれて」

 この辺りは、ノートに書かれていた通りだ。けれど、ノートを覗いたので知っていますとは流石に言えず、黙って話を聞き続ける。


「その桜の木から女の人の泣く声が聞こえて、何だろうと思いながら近づきました。そしたら、あの人がいたんです。酷く悲しそうに泣いていました。とても綺麗な人で……ああ、この人はきっと桜の精なのだろうと何となく思いました。どうして泣いているのだろうと思って私は彼女に話しかけました。話しかけたら、彼女は顔をあげて私の方を見ました」


――何故泣いているのか? ……私は、私の全てを奪われたのだ。美しかった私の体! 気が遠くなる様な時をかけて美しく育て上げた我が体!――


――奪われた? どういうことです――


――そなたは、私の体を見ているはずだ。私は今日、そなたを見た――


――それなら、貴方はあの時みた桜の木の精だったのですね。確かに、酷く傷つけられていました――


――精、か。どうだか。私はどちらかといえばそなた達が妖怪と呼ぶ存在に近いかもしれない。私は、人を喰らう。こうして夢を通じて自分の世界に人をおびき寄せて閉じ込める。そして、その者の肉体も攫って、喰らう。そなた達人間からしてみれば、恐るべし化け物だろう――


「自らを嘲るように彼女は笑いました。人を食べる……それはとても恐ろしいことです。けれど、どうしてでしょう。私は、彼女のことを怖いと思わなかったのです。大切なものを奪われて嘆く姿は、人間と同じで。哀れに思いました。愛しく……思いました」


――けれど、私は貴方を怖いとは思いません。それに貴方は、とても美しいじゃありませんか。私は、今日貴方を見ました。確かに貴方の体は深く傷ついていました。それでも、倒れず立ち続ける貴方の姿はとても綺麗でした。だから、もっと誇ってもいいと思うんです。誇りを持ち続けて生きていれば、きっともっと輝けると。少なくとも私はそう思うんです。泣いて嘆いて、ヤケになっていても仕方無いです。……ごめんなさい。変なこと言いましたね。私だってもし自分の体を傷つけられて、それが一生消えないと知ったら……ごめんなさい、勝手なことを言って――


「元気つけてあげたいと思って、慰めにもならないような言葉をかけたんです。私だって、同じ立場になったら泣き続けただろうに。誇りをもって生き続けろだなんて……けれど、彼女は私の言葉を聞いた後、涙を拭いて微笑んだんです」


――有難う。心の底からの、言葉を。少しだけ……救われた。単純な女だと、笑うか? それでも構わん。ただ、嬉しいと思った。そなた、名前は何という――


「優しいあの人の笑みは、ひらひら舞い踊る桜の花びらのようでした」

 出雲さんと骨桜のいる方を、切なげに見つめながら彼女は微笑んだ。


――夕菜といいます。夕日の夕に、菜っ葉の菜で夕菜です――


――そうか、夕菜というのか。夕菜、そなたと話がしたい。人の世のことを聞いてみたい。……安心おし、そなたを喰らいはしないよ。そなたとは、仲良くなれそうだからな――


「それで、骨桜とお友達になった……ってことっすか」


「……はい。それから、私は毎日の様に夢で彼女に会いました。最初はただの夢だと思っている部分もありました。けれど、何度も会ううちにこれは夢ではない。夢だけれど、夢ではない。夢であって現実の出来事なんだと思うようになりました。私と彼女は、色々なことを話しました。私は、学校のこととか友達のこととか、悩み事とか色々。あの人は、自分達のいる世界のことを話してくれました。私達が妖怪や精霊、或いは神と呼ばれる人達のことを」


 楽しかった……と夕菜さんは呟く。けれど、その顔が一気に曇っていく。


「楽しい夢でした。けれど、私はいつの日からか少しずつ彼女の夢を見なくなっていきました。大学受験のこととか、その……こ、恋とか。忙しくてでも楽しい現実の生活。その毎日を心の底から楽しんでいて。彼女のことを考えている暇なんて無かった。彼女と語り合う日々よりも楽しい日々が、あって。最低なんです……私。そしていつしか、全く私は彼女の夢を見なくなりました。彼女のことをすっかり忘れてしまったんです」


 現実の生活に夢中になって、骨桜のことを忘れてしまった夕菜さん。自分のことも桜の木のことも考えなくなった彼女の夢と、自分の世界を結びつけることは出来ない。骨桜の力ではどうしようもないのだ。彼女の意識を自分の世界に閉じ込めない限り、肉体を攫うことも出来ない。自分から会いに行くことは叶わないのだ。

 そうして、骨桜は友人を失った。それはどれだけ苦しいことだっただろう。きっと夕菜さんと出会い、彼女と語り合うことで出雲さんにつけられた癒えぬ傷を癒していたのだろう。けれど、かけがいの無い友人は自分のことを忘れて、自分の住む本来の世界へと消えていった。


 けれど、誰が夕菜さんを責められるというのだろう。幾ら骨桜と過ごす時間が楽しいものでも……。夕菜さんにとっては、自分の住んでいる現実の世界での暮らしの方がずっと楽しく、大切なものだったのだろう。彼女は自分の大切な時間を選んだだけの話。けれど、その選択は骨桜を苦しめることとなった。


 そのまま忘れていれば、物語はこんな風にはならなかった。骨桜は悲しみ嘆き続けるだろうが、夕菜さんは孝一さんや友人や家族と共に幸せな毎日を送る。二度と会うことは無かったはずだ。

 けれど、夕菜さんは思い出してしまった。思い出の風景という課題を前にして、数年前にあった不思議な出来事の事。そして、骨桜と夢の中で語り合ったことを。そしてその彼女の記憶は、再び骨桜の下へ彼女を導くことになったのだ。


「課題のことを聞いた時、真っ先にあの桜の木のことを思い出しました。そしてあの夢のようで夢ではない日々のことも。……そしてすぐに決意しました。彼女を描こう。あの素晴らしい桜の木を描こうって。私が見てきたどの桜の木よりも綺麗なあの木を」

 そんな風に絵を描いていたら、また彼女と会えるかもしれない。そうしたら沢山謝らなくちゃ。彼女は怒っているだろうか、泣いているだろうか。もしかしたら、もう私のことなんて忘れてしまったかもしれない……夕菜さんはそう続けた。話は更に続く。


「そうして桜の木を描き続けていたある日のこと。とうとう、彼女が私の目の前に現れたのです」


――夕菜! 夕菜なのか!? ああ、夕菜会いたかった。私のことを思い出してくれたんだね。嬉しい! 嬉しい! ――


「私が自分の事を忘れていたことを怒るわけでもなく、彼女は心の底から私との再会を喜んでくれました。私は彼女に謝りました。そんなことはどうでもいいと彼女は微笑んでくれました。あの、優しい笑みで。私は自分に恋人が出来たこと、新しい学校生活のこと、彼女の絵を描いていることを話しました。彼女は笑いながら私の話を聞いてくれました。久々に話せて嬉しかった……楽しかった……でもその時の私は知らなかったんです。自分がしたことが、どれだけ彼女のことを傷つけていたのか……」


 色々なことを語り合った後、夕菜さんはいつものように帰ろうとした。骨桜が帰り道を開き、夕菜さんの意識はその道を辿って自分の体に戻っていたらしい。

 ところが、だ。


「彼女は、私を帰してくださらなかったんです。意地悪で言っているような目ではなかった。本気でした。……彼女ははっきりと言いました」


――そなたは、死ぬまで私と一緒にいるのだ。もう帰さない、帰してなどあげない。そうしたら、そなたはまた私のことを忘れてしまうだろうから――


 夕菜さんは、肩を抱き震え始める。


「私は途端に彼女のことが怖くなりました。その後何度も私は彼女を説得しようとしました。けれど、彼女は聞く耳を持たず……」


 そして彼女は少しずつ元気を無くしていったのだという。どれだけ綺麗な世界でも、夕菜さんにとってそこは異界であり、自分の本来の居場所ではなかった。本来いるべきでない世界へ居続けるというのは想像以上に辛いことなのだろう(私でさえ、異界へ行く時は不安になるのだから)それに、骨桜の世界には彼女以外誰もいない。恋人である孝一さんも、家族も、友人も、誰も。

 

「私のせいなんです。私のせいで……。日に日に元気の無くなっていく私を骨桜は心配したようです。笑ってと何度も言われたけれど、とても笑うことはできませんでした。それどころか、涙や体の震えが止まらなかった。もう二度と帰れないのだと思ったら怖くて悲しくて、苦しくて」


「そこで、どうやらあの骨桜って奴は俺達人間を連れ去ることにしたらしい。ようはあの姉ちゃん、そこの夕菜って人の元気が無いのは話し相手が自分しかいなくて寂しいからだと思ったらしい。自分みたいな妖怪には分からない話でも人間なら分かるだろうから、良い話し相手になってくれるだろうし、そうして話し相手が増えればまた笑ってくれるだろうってさ」

 一夜が、話を続けた。


「話し相手が増えればいいってもんじゃないのにね。それで、たまたまその時桜に強い思い入れがある人達を引っ張ってきては、この世界に閉じ込めたの」

 高校生の女の子が更に続ける。小学生の男の子はその時のことを思い出したのか、泣きそうな顔になる。女の子が、そんな彼を優しく慰める。


「成程。じゃあ骨桜にとって必要だったのは夕菜さんだけで、後の人達はおまけってやつだったんすね。あのにぶちん女は、夕菜さんが何故落ち込んでいるのか分からず、見当違いの方向に進んでいっちまったわけだ」


「それで、最終的には夕菜さんの彼氏の孝一さんが連れ去られたと。……夕菜さんにとっては孝一さんが一番大切な人だから。一番大切な人間が傍にいれば、もう悲しむことも無いと思ったわけだ」

 紗久羅ちゃんが、肩をすくめる。「もう大丈夫」というのはそういう意味だったのだ。孝一さんさえこちらに来ればもう大丈夫。夕菜さんはまた笑顔を取り戻し、元気になってくれると思ったのだ。実際はそうでもないのだけれど……。


「しかし、このままじゃまた骨桜は誰かを連れてくるかもしれない。最悪、両親とか。勿論、彼らが桜のことを強く思っている必要があるけれど……娘が消えた場所に桜の花びらが散っていたんだから……桜のことを考えてもおかしくはない」


「かといって、無理矢理笑って骨桜をごまかすことも出来ない。でも自分に笑顔が戻らない限り、骨桜は何度でも同じことを繰り返す……被害者が増えていくばかりだ」

 弥助さんが苦しそうに呟くと、夕菜さんがその場に座り込み顔を覆って泣き始めた。


「ごめんなさい、ごめんなさい! 私のせいで……私のせいで……。骨桜を傷つけ、何にも関係の無い人まで苦しめて……」


「そんなに謝る必要は無いっすよ。夢のことなんて、普通はすぐ忘れちまうもんだ。それがどんなに楽しい夢でも、現実には適わないだから。まあ骨桜の気持ちも分からないでもないっすがね」


 大切な友人が、自分のことを忘れてしまう。それはどれだけ苦しいことなのだろう。そして、一度自分のことを忘れてしまった人が再び自分の目の前に現れたら。嬉しいだろう、けれどその一方でまた忘れられてはどうしようという不安にかられるだろう。もし今度忘れられてしまったら、もう二度と思い出してもらえなくなるかもしれない。

 もう、二度と会えないかもしれない。

 その相手が大切であればあるほど、不安は大きくなる。骨桜にとって、自分の心を癒してくれた夕菜さんはとても大切な存在だった。それだけに、忘れられた時の悲しみは深く、そしてその悲しみが彼女の心の底に狂気を生み出した。狂気は、夕菜さんと再会したことで表に出てしまったのだ。


「しかし、一向に決着がつきそうにないっすね。このままじゃあ、間に合わなくなるかもしれない」


「間に合わなくなる? どういうことですか、弥助さん」

 

「このままじゃあ、骨桜は『魔』に完全にとり憑かれるってことっすよ」


「……魔?」


「さくら、骨桜の体から何か出ているのを見なかったか」


「え、あああの黒いもやもやですか?」

 弥助さんが頷く。どうやら他の人にも見えていたらしい。


「強い負の感情を抱いた者には『魔』が憑く。魔は、元々強い負の感情を更に増幅させる。魔に憑かれた者は、通常よりも強大な力を手に入れる。その代わり、少しずつ正気を失っていく。少しずつ魔に支配されていく。……そして最終的には、怒りや憎しみだけで動く『魔物』と化す。そうなると、もう誰の言葉にも耳を貸そうとしない。殺し、壊し、暴れ続ける」


「それじゃあ、骨桜もこのままだと」


「魔に完全にとり憑かれ、ただの魔物と化す。……きっと、あの馬鹿狐に対する憎しみや夕菜さんを失った悲しみが……魔を引き寄せてしまったんだな」


「ど、どうすればいいんですか!?」


「……あの馬鹿狐は、妖でありながら魔を浄化する力を持っている。多分、桜って巫女が持っていた力なんだろうが……その巫女の肝を喰らったことで、彼女の持っていた巫女としての力も手に入れたようっすね。魔に完全にとり憑かれる前だったら、魔だけを浄化するだけで済む。けれど、もし魔に完全にとり憑かれて魔そのものになっちまったら……」


「なって、しまったら?」

 弥助さんが首を振りながら、苦々しげに呟く。


「完全に……消滅しちまう。魔と一体化しちまったら、終わりだ。相手に生きる意志が無かった場合も、消滅する。だから、早くしないといけない」

 夕菜さんが、声にならぬ悲鳴をあげる。


「やばいじゃん! あの骨桜が消えたら、兄貴達は帰れなくなっちまうし……でも、骨桜が今戦っているのは、あの姉ちゃんが一番憎んでいる出雲だから……」


「憎しみの感情がどんどん膨らんで、魔に侵食されるスピードが今まで以上に速くなっているはずだ。とはいえ、ある程度相手を弱らせないことには浄化の技も効かない。もしくは相手が少しの間でも魔を押さえつけていればその間に……。でも骨桜は魔の力でパワーアップしている。おまけにここは骨桜の空間。彼女の力がますます強くなっているし、出雲は多少弱体化している。まあそれでもあの馬鹿がやられることはないだろうが」


「でも、出雲の旦那が骨桜を殺さない程度に弱らせるのも難しいかもしれない。殺そうと思えば、多分本気出せば殺せるけれど。今回の場合は殺したら意味が無い。手加減するとか、自分の思い通りにならないとか、そういうのって出雲の旦那が一番嫌っていることなんだ。早く決着つけないと、やばいよ。骨桜を殺しちゃうかも」

 やた吉君の言葉を聞いた夕菜さんは、急に立ち上がった。


「私、あそこに行かなくちゃ! 今の私なら、攻撃も効かないのでしょう?」


「まあ、大抵のものは効かないはずっすが……」


「私が、骨桜さんを止めます! 少しでも骨桜さんが正気に戻れば、助かるかもしれないんですよね?」


「そうっすけど……でも、今の彼女は夕菜さんの声すら聞こうとしないかもしれない」


「それでも、行かずにはいられません! あの方は……今でも私の友人なのですから」

 そう言って夕菜さんは涙を拭い、そのまま急いで駆けていった。それを孝一さんが慌てて追いかける。続いて骨桜に連れ去られた人達、一夜、弥助さん、そして私達。結局皆、先程いたところまで戻ることとなった。


 やはり、骨桜と出雲さんは未だ戦っていた。出雲さんは傷こそついていないようだが、大分疲れているのか息を荒げていた。元々体力が無いのかもしれない。見た目からして、インドア派の運動嫌いっぽいし。まあそれでも私に比べればましなのかもしれないけれど。

 一方骨桜は、深い傷はついていないけれど、衣服はところどころ破れ、髪は乱れてぐしゃぐしゃ。頬から、赤い血が流れている。表情は更に険しい。それでもなお美しいが、一方でとてつもなく恐ろしくもある。鬼女のようだ。こちらも荒い息を吐き続けている。黒いもやも、確実に濃くなっている。


「ふふ、醜い姿になってなお、私に刃向かうというのかい? いい加減にしてくれないかな、私ももう我慢の限界なんだけれど」


「知ったことか、貴様を殺して夕菜を取り戻す! 私は負けぬ、貴様などに負けるものか!」

 骨桜が手をあげる。


「やめて、やめて骨桜さん!」

 夕菜さんの叫ぶ声が響き渡り、骨桜の手が止まる。夕菜さんは、出雲さんをかばうようにして彼の前に立つ。夕菜さん自体は精神体だから、かばえるはずもないのだけれど。


「夕菜、何故その男をかばう? よもや、私よりその男の方が大事だとは言わないだろうね?」


「違います! 貴方のことが大切だからこそです! 駄目です、お願い……もうこれ以上、傷つけないで。貴方が誰かを殺すところなんて、見たくありません! 貴方が、殺されるのも、見たくない! けれど、このままじゃあ……」


「夕菜、そこにいる男は私からかつて全てを奪った男だ。そして今度はそなたを奪おうとしている。友を失う苦しみを、もう私は味わいたくない。ここで暮らそう、ここにはもうそなたの恋人だっている。寂しくはないだろう? だが、ここで暮らすためにはそこにいる男を殺さねばならぬ」

 骨桜は聞く耳を持たない。夕菜さんは首を大きく振った。


「私は、ここでは暮らせません! 確かにここは素敵なところです、けれど……私の住んでいる世界には遠く及びません。私には私の世界があります! 孝一や、他の人達がいるからって幸せにはなれないんです! 私と貴方は友達です。けれど、私と貴方は人間と妖怪。ずっと一緒にはいられません。貴方には貴方の、私には私の世界がある以上……」


 夕菜さんの顔は、もう涙でぐちゃぐちゃになっていた。自分が言っていることが、どれだけ勝手なことなのかは自分が一番よく知っているのだろう。その心からの叫びに、骨桜は戸惑っているようだった。自分のことを大切に思ってくれている気持ち、けれど自分とずっと一緒にいることはできないという気持ち……夕菜さんのその気持ち、骨桜にも伝わっているのだろう。けれど、伝わっているから理解できるということはない。帰せば、また失う。しかし彼女をここに留めていても数年前のように楽しく語り合うことはできない。


「どうすれば良いというのだ。ああ、いっそ私もそなたのことを忘れてしまっていれば良かった。所詮人と妖の友情など成り立たぬと諦めていれば、こんなことにはならなかったのだ、きっと」

 骨桜はその場に崩れ落ちる。空に浮かんだまま座り込み、声をあげて泣いた。


「全く、ぴいぴいうるさいねえ。ほら、これで諦めがついたろう?」


「てめえは黙っていろ、馬鹿狐! 話がややこしくなる! 大体なあ、そもそもお前があの骨桜を燃やすわ切り裂くわ、散々なことをしたのが今回の事件の原因だろう。諸悪の根源はお前なんだぞ!」

 確かに。出雲さんがつけた傷が夕菜さんと骨桜を結びつけるきっかけとなったのだ。となれば、今回の事件が起きたのはある意味出雲さんのせいと言っても過言ではない。

 けれど、出雲さんはそんなことを言われても全く反省しないような人だ。


「おやおや。でも、もし私が傷をつけていなければあの骨桜は夕菜を食糧として認識し、数年前に会った時に捕まえて食っていただろうよ。となれば、夕菜は私のお陰で命拾いしたということになる」

 屁理屈のような正論の様な。


「まあ、でも出雲さんは黙っていた方が話がスムーズに進みそうですね。そもそも出雲さんの存在そのものが、骨桜の憎しみを増長させるものですし」

 と言ったら、出雲さんが舌打ちした。事実だから仕方が無い。

 気づけばほんの一時の間少しだけ薄れていた黒いもやが濃くなってきている。いよいよ、駄目かもしれない。


「嗚呼、苦しい苦しい、憎い、憎い……もう全てが憎い。ああ、憎い憎い……出雲も、夕菜も、もう何もかもが憎い。会わなければ良かった。こんなことになる位なら、いっそのこと。会ったばかりに! 奪われ、手にいれ、そしてまた全て失った!」

 体が震え、体のもやはますます濃くなる。顔を覆う手の爪が、額を血で染めていく。出雲さんが黙っていても最早無意味だ。このままでは骨桜は魔物と化してしまう。


 その時、夕菜さんの体が宙に浮かんだ。彼女はまっすぐ骨桜の下へ行き、彼女を抱きしめた。骨桜が目を見開く。


「ごめんなさい。ごめんなさい……貴方をそこまで苦しめた私を許して。いえ、許してくれなくて構いません。私は貴方の全てを奪った。そのくせ、自分だけ幸せに暮らしてきた……ごめんなさい、ごめんなさい」


 それだけしか、言えなかったのだろう。けれどその言葉には夕菜さんの心の全てが詰まっていた。

 その心からの言葉は、骨桜に夕菜さんと送った楽しい日々のことを思い出させたのだろう。楽しく笑いあい、語り合ったことを。


 会わなければ良かったなどと言えるわけがない。その思い出は忘れた方が幸せと呼べるようなものではなかったから。

 骨桜の体が震え、彼女は低く唸った。自我を奪いつつある魔に対抗しているようだった。黒いもやが消えたり現れたりを繰り返す。


 忘れたくない、憎みたくないと思う気持ち。

 忘れたい、憎みたいと思う気持ち。その二つが今戦っているのだ。骨桜が苦しんでいるのは、彼女の呻く声を聞けば分かる。あまりに痛々しくて、思わず耳を塞ぎたくなる。体が千切れそう、とても、痛くて苦しい。


 その様子を見ていた出雲さんが、はあとため息をついた。その右手には……いつの間にやら、立派な弓が握られていた。月光を受けて輝くそれは随分と古い木で出来ているようだった。弓に張られた弦は、空に浮かぶ月と同じ銀色だった。


「弓張月。かつて、巫女の桜が使っていたものだ。……今はもう私のものだけれど」


「射るのですか。弥助さんから『魔』というものについて教えてもらいました」


「ふうん、あいつもうそのことまで話していたの。まあ、でも恐らく大丈夫だ。あの様子じゃ、未だ完全に魔に飲み込まれたわけじゃない。今はこちらに注意を向けていないから……成功するだろう。失敗したとしても、知ったことか」

 そう言って、出雲さんは弓を構えた。けれど、肝心の矢が無い。


「出雲さん、矢は?」


 「いらないよ、そんなもの。矢なんて自分で作ればいいだけのこと」

 にやりと笑う出雲さんの髪が、ふわりと風にたなびく。月の光を浴びて、銀色に輝く髪。瞳の赤はより鮮やかに。歪む血濡れの唇。弓を支えるのは白く光る、あまりに細い腕。背をぴんと伸ばし、骨桜を見る彼の姿は、獲物を狙う獣のようだった。


 弓を見ると、何か白い矢の様なものが見えた。出雲さんの力で作られたものということだろうか。冷酷非情で残酷な人が作ったものとは思えない、眩しく美しい矢。あまりに神聖で、美しすぎる光を見たら気持ちが悪くなった。一点の穢れもないものは、逆に見るものを不安にさせる。心が揺れて、自分の中にある醜いものを吐き出しそうになる。

 桜の花はざわざわと揺れ、不安そうに「その時」が来るのを待った。


 そして。

 出雲さんは、静かにその矢を……放った。眩い白い光は真っ直ぐに骨桜へと向っていった。骨桜はその矢に気がついたが、最早避ける時間は無かった。彼女に巣食う魔にとってその矢は脅威だ。けれど、自分を苦しめる負の感情を消し去りたいと願っているだろう骨桜にとっては……救いに見えたかもしれない。


 矢は、彼女を抱きしめる夕菜さんをすり抜けて、骨桜の胸に当たった。


 骨桜が叫んだ。苦しげなその声は最早獣のそれであった。あの叫び声は骨桜のものなのか、それとも。

 彼女の体から黒いもやがどんどん出てきて、それを光の矢が吸収する。矢は少しずつ黒くなっていく。夕菜さんは衝撃で吹き飛ばされ、それを孝一さんが慌てて受け止める。

 いっそ耳なんて壊れてしまった方がいいと思う位、恐ろしい骨桜の悲鳴はしばらく続いた。彼女の悲しみが原因で膨れ上がった思いが、どんどん矢に吸収されていっている。


 どの位の時が経ったのだろう。一瞬だったのかもしれないし、とても長かったかもしれない。全てを吸い尽くした矢はやがて粒子となって、四方に散った。

 骨桜はゆっくり下降していって、やがて木の下にへたりと座り込んだ。

 彼女は死んでいない。ならば、出雲さんの浄化は成功したのだろう。夕菜さんが慌てて彼女のところまで駆け寄った。骨桜は酷く疲れているように見える。


「……私は、狂っていたのか。私の体の中を巡っていた色々なものが、すっかり抜け落ちたようだ」

 風が、彼女の髪を揺らす。骨桜はぼそぼそと、力ない声で呟いている。俯いているせいで、顔はよく見えない。


「すまなかった……夕菜も、他の者達にも迷惑をかけた。……そこの化け狐には何が何でも謝罪などしてやらぬが」


「それが助けた人に対して言う言葉かね」


「だから出雲は黙っていろって。全く良い神経していやがるぜ、助けたなんてよくいえるよ」

 紗久羅ちゃんはため息をつき、肩をすくめた。


「けれど、少しも心は晴れない。……空っぽだ」

 そんな彼女の手を、夕菜さんが優しくとった。


「私にとっては今も貴方は大切な友人です。私が貴方にしたことは、酷いことだとわかっています。それでも、私は貴方と友達でいたいのです。……遊びに、きます。また」


「けれど……」


「私は、またこんなことを言って、貴方のことを忘れてしまうかもしれません。毎日遊びに来ることは出来ないですし、いつか全く来なくなることもあるかもしれない。絶対に忘れないなんて……言い切ることは出来ません。私にとってどうしても大切なのは自分の世界ですから。それでもいいのなら、私は友達でいたい。けれどもしそれが嫌なら……私のことなんて、忘れてください」


「忘れるものか」

 夕菜さんの手に、骨桜の涙が落ちる。


「忘れられるものか。ただ泣くことしかできなかった、惨めな毎日を送っていた私を救ってくれた、友人だ。忘れてくださいと言われて忘れられる程、そなたの存在は小さくないのだ。私は今も怖い。いずれ、また狂うことがあるかもしれぬ。それでも、それでもそなたがまた私の下に来てくれるのなら、それ以上の幸せは無い。友達だ、私とそなたは。もう私はそなたを縛りつけぬ。幸せに暮らせ、そなたの世界で。そして時々遊びに来て、私にその幸せを分けてほしい。それこそが、私の幸せだ……」


 夕菜さんはうんうんと頷いた。そして骨桜を優しく抱きしめる。骨桜も抱きしめ返し、二人で泣き続けた。

 そんな二人を、あの桜の花びらが優しく包み込んでいた……。


 私達は、あの万華鏡を使って帰った。夕菜さん達の意識は骨桜が戻してくれた。

 一夜達の体もまた、骨桜の術によってそれぞれの家へ帰っていったようだ。消えていた人達が急に戻ってきて、家族達はさぞかし驚いたことだろう。喜ぶよりも、何が起きたのかさっぱり分からずパニックに陥ってしまうかもしれない。一夜も今頃、自分の部屋に戻っているだろう。


「ああ、終った終わった。疲れた。もうこんな面倒なことはできればやりたくないねえ」


「どうだか。あんたのことだから、ありとあらゆるところにトラブルの種を蒔いているんじゃないっすかねえ」


「お黙り、馬鹿狸。この役立たずめ」


「ああ、てめえ助けられたこと忘れたっすか」


「覚えていないね。お前の妄想なんじゃない? さあ、こんな馬鹿の世迷言は聞き流してさっさと帰るとしよう。私もさっさと休みたいし」

 出雲さんはまた巾着からあの牛車を取り出す。やた吉君とやた郎君が先導して、私達は満月館を目指した。


 出雲さんは車の中から、空を眺めていた。激しい戦いを終えた後とは思えな位静かな表情だった。彼は何を思っているのだろう。何も、思っていないかもしれない。骨桜と夕菜さんの友情も彼にとってはきっとどうでもいいものなのだ。しばらくすれば彼は、今日のことをすっかり忘れてしまうかもしれない。

 それでも結果的に彼は骨桜を助けてくれたし、私のお願いも聞いてくれた。一夜達は無事に家に帰ることができた。


「あの、出雲さん」


「なんだい、サク」


「あの、有難う御座いました。一夜達を助けてくれて」


「別に。でも今度は助けてあげるか知らないよ。君達が苦しみのたうち回っているのを見るほうが好きだし」

 私のほうをちらと見て、また視線を外へ戻す。ぐちぐち文句を言われないでよかった。てっきり色々言われるのかと思ったわ。一夜みたいに口うるさいことを。

 紗久羅ちゃんは、帰ったら馬鹿兄貴を一発くらいどついてやると呟いている。けれどその顔は何だかとても嬉しそうだった。良かったわね、紗久羅ちゃん。


 そして満月館へ戻った後、私と紗久羅ちゃんは弥助さんに連れられて帰っていった。私はおじいちゃんの家へ帰り、おじいちゃんに今日起きたことを話した。おじいちゃんは優しく笑いながら私の話を聞いてくれた。


 こうして「桜町連続神隠し事件」は静かに幕を閉じた。被害者達は皆家族にどう説明しようか随分悩んだらしく結局「よく覚えていない」と言い張ったらしい。一夜だけは菊野お婆様達に何もかも話したらしい。「何馬鹿な話しているんだい、それより宿題をさっさとやっちまいな」と言われたらしいけれど。あくまで菊野お婆様は、知らぬ存ぜぬ深く関わらぬというスタンスらしい。


 後日。私はおじいちゃんの喫茶店で一夜と話していた。骨桜の空間に居た時のことをもっと詳しく聞くためだ。アイスが溶けるのも気にせず、夢中になって私は話を聞いていた。一夜の方は夏バテしているのか、ぼうっとしながらパフェのアイスやクリームをかき混ぜ、もごもごしながら話している。


「もういい加減にしろよ、さくら。俺疲れたんですけど」


「やっぱり夏バテ? 駄目よもっとしっかり体調管理しないと」


「原因は夏の暑さじゃなくてお前なんだけど」


「何で?」


「はあ。正直に言った俺が馬鹿だった」


 意味が分からず首を傾げていると、弥助さんがアイスティーを持ってやってきた。


「よっ、おしどり夫婦さん。こんな暑い日に、お熱いことで」


「誰が夫婦だよ! こんな奴の旦那になったら三日でストレスで死んじまうよ!」

 まあ、失礼なこと言うわね。今日のパフェ代一夜に出させようかしら。弥助さんは大きな声を出して笑う。


「まあまあ。あっしから見ればあんた達お似合いだと思うけどな」


「冗談じゃないっての。それにしても、驚いたよ。弥助も出雲も妖怪だったなんてさ!」

 一夜は、出雲さんが妖怪だということにも気づいていなかったらしい。紗久羅ちゃんも菊野お婆様も、紅葉おば様だって気づいていたらしいのに(おじ様はどうか知らないけれど)本当に昔から鈍い人だと思っていたけれど、まさかあんな人を前にして人間だと本気で信じ込んでいたなんて。


「まあまあ、黙っていて悪かったよ。あっしとしては人間として暮らしていたかったからさ。しかし、そこの頭メルヘン娘にばれちまったせいで、質問攻めされる羽目になっちまった。あれは地獄だったっすよぉ」

 とおいおい泣いている。私そんなに沢山質問したかしら。……していないと思うけれど。一夜はその気持ち分かりますと涙ながらに語り始める。もう二人とも、失礼しちゃうわ。


「そういえば、今夕菜さんはどうしているかしら」


「ん? ああ、孝一さんから聞いたけれどあの後骨桜の絵を一生懸命描いているらしいっすよ。完成するのは当分先だけれど、心を込めて描くって張り切っているそうっす。時々骨桜のところに遊びに行っているようだし」


「そう。それは良かった。……あの二人の友情はずっと続くでしょうか」

 弥助さんはアイスティーを一口飲んだ。


「どうだかね。夕菜さんだってこれからどんどん忙しくなるだろう。辛いことも楽しいことも経験する。もし孝一さんと結婚して、子供を産んで、そんな幸せな家庭を築いたら……また現実の暮らしに夢中で骨桜のことなど忘れてしまうかもしれない。骨桜が、もう二度と魔に憑かれないとも限らない。上手くいくかどうかなんて……誰にも分からないっすよ。けれど、あの二人が自分達の間にある絆を信じ続けているのなら。どんなことがあっても大丈夫かもしれないっす」


「そう、そうですね。……そういえば、あちらの世界に一度行ってしまうとあちらの匂いが染みついてしまって、異界の人々を呼び寄せてしまうらしいですけど、今回骨桜に連れ去られてしまった人達はどうなるんですか?」


「まあ、見たくないものが見えるようにはなるかもしれないっすねえ。変なことに巻き込まれるかもしれない。今まで人間や自然の仕業だと思っていたことが、実は妖怪達のやっていたことだった……ってことに気づいてしまうかもしれない。まあ、でも自分から進んで関わろうとしなければ、そんなに変な目にはあわないっすよ」


「となれば、紗久羅ちゃんも望まなければ変なことに巻き込まれないですむんですか」


「いやあ、あいつは無理だろう。出雲と関わり続けている限りは」

 と言って、ため息。哀れ、紗久羅ちゃん。結局出雲さんが近くいる限り紗久羅ちゃんは異界との関わりを断ち切れないのね。


 けれど、私は今のところ異界との関わりを断つつもりは無い。どれだけ残酷で、どれだけ自分の住む世界と違うところでも……矢張り私はどうしようもなくあの世界に惹かれてしまうのだ。誰に呆れられてもいい。私は、あの世界のことをもっと知りたい。

 そして、出雲さんのことも。


 こうして私は、あの美しくも残酷な妖と関わるようになった。そして、妖達の引き起こす様々な事件にも巻き込まれていく。私だけではない。紗久羅ちゃんや一夜――色々な人達が。

 出雲さんはそんな私達を助けてくれることもあったし、私達が慌てふためくさまをただ笑ってみているだけの時もある。邪魔することだってあった。出雲さんが色々したことが原因で起きてしまった事件というものもあった。大抵の場合、私達はその事実を知ることなく終わるけれど。

 出雲さんは私を始めとした、多くの人や妖の運命を変えていく。今の私はそんなこと、知る由もないけれど。まだ私は何にも知らない。何にも。


 物語はまだ始まったばかりだ。


 

 

 

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