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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
朱烏
259/360

第五十一夜:朱烏(1)

 

 朱烏、という妖がいる。明け烏、もしくはアカシドリとも呼ばれているこの妖はある人間の前にだけ現れる。(中略)朱烏は始めは普通の烏と同じ黒い体をしているが、少しずつその身は朱色へと変じていく。朱烏は段々と変わっていく自分の姿を毎日その人間の前に見せ、そして(中略)その身が完全に朱に染まる前に朱烏の言う通りにすれば、朱烏は何もしない。だがもし……。


朱烏(あけがらす)


 ゴミや吐瀉物、ごつごつとした石や冷たい金属を体内にぎっちり詰められたかのような気分のまま、小金井翔馬(こがねいしょうま)は朝を迎えた。

 汗や零したカップ麺の汁やらで汚れている布団からのっそりと起き上がり、しばらくの間天井をぼうっと見つめる。ぼけっとしていた頭を覚醒させるのは、強烈な吐き気。我慢出来ず俯くが何も出てこなかった。二十九年間生きた中で恐らくワースト1の朝だと翔馬は思った。これ程最低な気分で朝を迎えたことが今まであっただろうか、いや、無い。

 気分の悪さに苛立ちながら紐を引っ張り灯された蛍光灯の明かりは、点滅を繰り返す。その明滅は目を鈍器で幾度となく叩き、痛めつけるもの。こうなると一回消してもう一度点け直す必要があった。二回に一度はこうなるから嫌になるが、だからといって交換するのも面倒臭い。苛つき、思いっきり殴り飛ばしたくなる衝動を懸命に抑えつつも四度程挑戦したところでようやくまともについた。


 ゴミ山幾山飛び越えて、辿り着いた先もまたゴミだらけ。少しでも気を抜けば崩落する程物をぎゅうぎゅうに、そして乱雑に詰め込んでいる戸棚を開ける。入っているのは殆どカップ麺かレトルトカレーである。さて、何を食おうか。さまよう手はやがて赤い容器のしょうゆラーメンに触れたが、それを見た途端吐き気がして、その感じが何だか嫌で結局その下にある橙色の容器のみそラーメンを手にとった。流しの上はつゆや食べ残しが入ったままのカップ麺や弁当の容器でいっぱいで、何とも表現し難い臭いを放っている。その臭いが最悪の目覚めをもたらしている気分をますます面白くないものにした。布団の傍らにあるちゃぶ台、その上にあるゴミや読みかけの雑誌を乱暴に畳の上へと落として確保したスペースに湯を注いだカップ麺の容器を置く。脱ぎっぱなしのシャツを適当に放って座る。TVをつけるとアナウンサーがニュース原稿を読む姿が映し出された。流行の止まらぬインフルエンザ、コンビニ強盗、最後に翔馬が今住んでいる三つ葉市で起きたという殺人事件のニュース。聞いた途端箸を握る手から血の匂いがしたような気がして、ラーメンをすすりながら翔馬はチャンネルを変えた。

 気分が悪くてなかなか胃の中へ入っていかない麺を無理矢理腹へ詰め込み、つゆと若干の麺が残った容器は流しへ放り込んだ。ゴミと異臭に塗れた場所。まるで今の自分の体内を見ているかのような気分になり、また吐き気。


 カーテンを開け、空でも眺めれば少し気分が良くなるかと思い、汚れで元の色がもう分からなくなっているカーテンを一気に開ければ、真っ先に飛び込んできたのは錆びた柵の赤。ただそれを見ただけで胸からとても嫌なもにが込み上げてきそうになった翔馬にトドメを刺すかのように、それはいた。


 錆だらけの柵の上に我が物顔で止まるのは一羽の烏。黒い瞳を隠す程の色をした体は陽の光を浴びて不吉な輝きを見せ、くちばしは死を与える刃の煌き。そんなものがまさか止まっているとは思いもしなかったから、翔馬はぎゃあっとみっともない悲鳴をあげて仰け反った。危うく勢い余って尻餅をつくところだった。それ位ぎょっとしたのだ。あまりの禍々しさに見た瞬間、とてつもなく強い恐怖心を抱いたというのも悲鳴をあげた原因の一つである。

 普通の烏よりやや大きいように思えるその身は、圧倒的な存在感を放っており翔馬が自分以外のものを見ることを許さない。そして、翔馬が自分から目を離すことも。そこらをふらふら飛び、生ゴミをあさって生きているただの烏とは違う何かを持っている。やばい――死――災い――恐怖――不吉、様々な思いが彼の中で駆け巡った。烏など元々見ていて気持ちの良い鳥ではないが、この烏は特別強い印象を与える。今の自分の心情が、こんな鳥を見る目にまで影響しているのか。いや、それとも気のせいではなく実際にこの烏は普通のものとは違うのだろうか。この世ならざる者、化け物?

 その思いを翔馬は打ち消した。烏に普通も異常も無い。奴等は皆同じだ。だからやっぱりこの烏を特別恐ろしいと感じるのは自分の心情が影響しているのだと思い直した。

 嗚呼何ておぞましい。

 翔馬は烏を己の視界から消そうと、吐きそうになるのをこらえつつ窓を開けて物干し竿を手に取る。彼にこれ以上近づきたくはなかったのだ。翔馬は手にした竿をぶんぶんと振った。そうすれば簡単に飛んでどこかへいくだろうと踏んでいたが、烏は予想に反して逃げようとしない。あんまり腹立たしくてその身を思いっきり突いてやろうとしたが、彼は軽やかなステップを踏んでそれを上手いこと避ける。


「くそ、何なんだよ! お前なんかと遊んでいる余裕なんて今の俺にはないんだ! 行け、あっちへ行けったら!」

 かあ、かあ、かあ。烏は笑うように鳴きだした。嘲笑――俺の一番嫌いな――馬鹿にして……。腹の中に溜まっているものが、熱を帯びてせり上がっていく。こうなったらとっ捕まえて殺してやる、そんな乱暴なことを考えた直後だった。


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエモアカクナル」

 目の前にいた烏が、人の言葉を話した。感情らしいものを感じさせない、抑揚のない声で確かに彼は喋った。しかし何も無い中にも翔馬は様々なものを感じ取る。狂気、害意、宣告、慈悲、懇願、命令……。


「アカセ、アカセ、アケルマエニ。アカ、アカ、アカ、カアカア」

 黒い瞳の中にある銀色の輝き――冷たいナイフの如き眼光が翔馬の心臓を刺した。本物のナイフで突き刺されたような感覚に、血の気がさっと引くのを感じる。あの眼光が本物であったなら自分は今頃。噴きだす血、倒れる者を冷たい目で見つめる者。

 この烏にはそれが出来る。本物のナイフで自分を突き刺し、殺すことが。いつだってお前のことは殺せるんだぞ、そうその目は語っているような気がしてぞっとした。真っ青になる翔馬を一瞥し、烏は彼の願い通りどこかへ飛び去ってしまった。

 昨夜から続く悪夢、それが覚めぬ内にまた別の悪夢に遭遇した翔馬は烏の姿がすっかり見えなくなってから、へたへたとその場に座り込んだ。腰が抜けてしばらくの間そこから動けなかった。


(何だったんだ、あの烏は……)

 烏を前に「殺される」などと思ったのは初めてだった。その黒い死神が去り、這うようにして布団の上までやっとこさっとこ戻った翔馬の体は未だ震えている。一見何も込められていないようで、その実多くの『思い』が詰め込まれている、そんな声は頭からなかなか消えていかない。そして、あの烏は近い内に再び自分の前に現れ、恐るべき目を向け話しかけてくるのではないかという予感にとり憑かれ頭を抱えた。


(何をびびっているんだ、あれはただの烏だ。怖がることなんてない、烏に何が出来る? 何も出来やしない。烏は烏だ。死神でも死刑執行人でも警察でも無い。さっきの声もきっと幻聴に違いない。疲れているんだ、俺は)

 そう自分に言い聞かせるも、体の震えは一向に止まらない。不吉な声、禍々しい姿。烏如きに自分をどうこうする力などあるものか、そうは思っても「もしかしたら何か良からぬことを自分にもたらすかもしれない」という思いを払拭することが出来ない。

 その時携帯が震え、着信を告げる音を鳴らした。心臓が悲鳴をあげ、同時に耳を刺す声が聞こえる。それが己の出した声であることに気がつくまでには多少の時間を要した。着信は友人からであった。泡を吹き痙攣する心臓のある辺りを撫でながら、翔馬はボタンを押す。


「……何?」

 冷静を装い尋ねれば、冷静さを明らかに欠いている友人の声が聞こえてきた。かえってそれを聞いて少し落ち着いた位だ。


「おい、大変だ……落ち着いて、聞いて、くれ。あい、あいつ、あい……あいつ」


「あいつって?」


「あいつ……勇太が、勇太が……」

 その後どんな会話を交わしたのか、翔馬はあまりはっきりと覚えていない。自分が彼の言葉に対しどう返したのか、冷静でいられたか、上擦った声になっていなかったか、何もかも。友人の話とて断片的にしか聞こえていなかった。その話はとても重大なもので、本来なら少しも聞き漏らしてはいけないようなものであったのだが。

 話というのは高校の時からの友人である勇太が昨夜何者かに殺されたというものだった。笑顔の似合う勇太、勉強もスポーツもよく出来た勇太、皆の人気者であった勇太、一週間後結婚式を挙げる予定だった勇太……そんな彼は殺された。包丁で滅多刺しにされて。先程のニュースはこのことを伝えていたのだった。結婚を間近に控えた男が殺された――マスコミにとっては良い餌となることだろう。まだそこまでは報道されていなかった覚えがあるが、いずれその辺りのことについて詳しくやるに違いなかった。

 血だらけの状態で発見された勇太。近い内に白い服を着るはずだったその身を真っ赤に染めて、彼は死んでいた。赤、赤、カアカア、アカセ、錆だらけの赤い柵、烏、銀色の刃、死……。


「うわあ!」

 壁の方に先ほどの烏が立っているのを見た気がして、近くにあった雑誌を投げつける。その後聞こえたのはドサっという虚しい音だけだ。頭の中でアケルマエニアカセという言葉がぐるぐる巡る。その声を打ち消そうと頭を何度殴っても、それは消えなかった。

 外を誰かが歩く音を聞く度、びくりとする。冷や汗が流れる。いっそ朝になっても目を覚まさず、ずっと寝ていれば気が楽だったのに……いや、あの不吉な匂いのする烏と遭遇さえしていなければこれ程までに震えていることはなかったのだと、あの時カーテンを開けてしまったことを後悔した。その時間がずっと続き、気がつけば翔馬は眠りについていた。いや、もしかしたら寝ていたのではなく気絶していたのかもしれない。

 目を覚ますと恐怖と緊張は幾分和らいでいたが、気持ち悪さは残る。自分は永遠にこれと共に生きていなければいけないのだろうか、と一瞬よぎる不安。いや、大丈夫だとすぐ言い聞かせた。遮るものの無い窓から差し込む光は僅かに橙色を帯びていて、自分が思った以上に長い時間眠っていたことに気がついた。今はどんなものでも遮っていたい、そんな気持ちであったから翔馬はのろのろ立ち上がってカーテンを閉めようとした。そしてカーテンに手をかけた時、あっと声を上げた。


 朝見た烏がまた柵の上に止まっていたのだ。他の烏よりも明らかに大きい、化け物の如き空気を漂わせるもの。途端腹の中に溜まっているものがぐちゅぐちゅという嫌な音をたててぐるぐる回る。吐きそうになるのを必死でこらえた。

 慌てて窓を開け、放ったままの物干し竿を手に取ると烏はカアカアとまた笑うように鳴いた。


「この……あ?」

 確かに目の前にいるのは朝見た烏だった。だがよく見ると、何かが違う。妙な違和感を覚え、思わず近づき、凝視してしまう。烏はそうして翔馬が近づいても逃げやしない。

 じっと見る内、ようやく翔馬は違和感の正体に気がついた。


(足……)

 烏の足が、朱色に染まっていたのだ。まるで習字の添削に使われる朱液をべったり塗ったかのような色に。

 足全体ではなく、また上部は黒いままだ。足の先だけを染める朱色――それが何故か翔馬にはとても不吉なものに見え、後ずさる。その様子をじっと見つめてから烏は口を開いた。


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ、アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノアシモアカクナル」

 それだけ言って烏は飛び立ち、見えなくなった。物干し竿が手から離れ、からからかんという音をたててもなお翔馬はその場に立ち尽くしていた。いつまでも脳内に残り続ける抑揚のない声に再び溢れ出す恐怖という名の感情。


「何なんだよ、あの烏は……」

 そう呟く声は異様に震えていた。これは誰かの性質の悪い悪戯だ、芸を仕込んだ烏を自分のところへやり、恐怖させようとしているのだと言い聞かせても不安や恐怖は消えぬままその身に残り続けた。その後はチーズとするめをつまみに酒を飲んだが、味は全く感じず、快楽も得られず。それどころか酒を入れたことで腹の中がぶくぶく音をたてて沸騰し、吐き気が余計増しただけだった。TVはつけず、高校時代の友人達との電話やメールのやり取り(話題は全て、勇太の死に関するものだった)も適当に済ませ、色々なものを流してしまおうと念入りに体を洗ってからさっさと寝た。寝た、といっても布団にただ潜っただけでまともに眠ったのなどほんの数時間に過ぎなかったのだが。

 その僅かな時間の間に翔馬は夢を見た。血だらけの状態で倒れている勇太があの烏に変化し、アケルマエニアカセという言葉を吐き、銀色の刃の如き眼光をこちらに突き刺してから飛んでいく夢だった。


 体をあれだけ綺麗に洗ったのに、腹の中で動く吐瀉物もゴミも冷たい石も一つとして洗い流されていない。また、目覚めの悪い朝を与えた夢が血の匂いを発し翔馬は呻いた。外に出る気力も、バイトをする気力も無かったが出ないわけにはいかない。起き上がり、シャワーを浴びてから朝食を摂る。そしてお茶漬けを無理矢理腹の中に収めてから外へ出た。

 アパートの階段を下り、門を出たところでまたあの烏と遭遇した。見れば昨日よりも足の黒い部分が明らかに減っている。せり上がってきそうになる心臓を無理矢理元に戻すことに必死で、その場から逃げることの出来ない翔馬に再び烏は告げた。


「カア、カア、カア、カア、アカ、アカ、アカ。カアカアアカセ、アカセ。アカセ、アカセ。アケルマエニアカセ。アカサネバオマエノアシモアカクナル」

 昨日、二回目に会った時と同じことを言って彼は再び飛び立った。もうあの烏と遭遇するのは三回目だというのに、会う度強烈な恐怖に襲われる。そして腹の中に溜めているものをぶちまけたくなる衝動に駆られるのだ。

 その衝動のままに吐いてはならない。自分にそう言い聞かせ、無理矢理笑顔を作ってバイト先へと行き、いつも通り働いた。地元で起きた勇太の事件の話で職場内はもちきりで、聞く度強烈な吐き気に襲われたがそれをなるべく顔に出さぬよう努め、延々と再生され続ける烏の声も無視して、必死に。


 どうにかこうにかバイトを終え、帰宅した後はしばらくの間敷きっぱなしの布団の上でぼうっとしていた。カツン、カツンという足音が外から聞こえる度心臓が悲鳴をあげる。何度も悲鳴をあげる心臓を落ち着けよう、何かして気を紛らわせようと思った時腹が鳴る。料理でもしていれば少しは気が紛れるだろうか、と夕食に焼きそばを作ることにした。かろうじてまだ食べられる状態のキャベツを冷蔵庫から取り出し、しまってある包丁を取り出そうとした瞬間烏の顔がちらつきその手を引っ込めた。キャベツ位手でちぎればいいのだ。豚肉がまだ残っていたことを思い出し、それを使おうとするがやっぱりウインナーでいいやと思い直し、それを取り出して調理用のハサミで切って使った。夕飯を食べながらTVを見るが、ちっとも気は紛れないし、いつもゲラゲラ笑いながら見ている番組もちっとも面白く感じない。折角作った焼きそばも美味しさを全く感じない。足音が聞こえる度、無理やり押し込んだ麺を吐きそうになる。


 あの烏はまた俺の前に姿を現すのだろうか。想像するだけで寒気がした。

 この日も結局ろくに寝ることは出来なかった。

 

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