第五十夜:月の雫
『月の雫』
初め私は薄絹の羽衣で耳を撫でられた、と思った。風が撫でたのではない、それよりももっと薄く滑らかで、冷たく艶やかなものであった。そのようなものに撫でられたのは初めてだった。だがしばらくしてそうではないことに気がつく。耳を撫でていたのは薄衣ではなく、私の愛する静かな月夜に花添える、雅やかな楽の音のような何かだったのだ。それは耳を撫で、同時にするすると官能的な動きで中へと入っていった。
何度も入ってくるそれの正体が分かったのは、それからしばらくしてからのことだ。嗚呼、私の耳に入ってくるのは笛や琴で紡がれる楽などではない、女――女の声だ。少女のあどけなさ、女の妖艶さと老女の落ち着き……様々な年頃の、そして様々な性格の女のあらゆる部分を切り取って綺麗に混ぜ合わせたような声。温度は冷たく、冬の夜風に絶えず突き刺される肌よりも、その声に入り込まれた体内の方が冷えている位だ。罪悪を覚える程の快楽と、臓物をぐちゃぐちゃに掻き回されるような不快感、膨れ上がる不安感、その中に包まれるようにしてある何かに対して抱いている期待……。
あらゆる思いに、感覚に発狂して叫びたくなる衝動に駆られているというのに、私は望遠鏡から離れもしなかったし、月から視線を外そうともしなかった。
月だ、私に今話しかけているのは今こうしてその姿を眺め続けているものの化身なのだ……そのことがどういうわけか私には分かっていた。そして月の化身は私を背後から抱きしめて離さず、耳元でずうっと囁き続けている。だから逃げられない、彼女の本体から目を離すことも許されない。
紺碧の海に浮かぶ、白銀の真珠。今日は満月で損なわれている部分はどこにもない。ああそうだ、あの月が声を発したとしたらきっとこのようなものになるに違いないのだ。
「月の雫……」
女が語りかける。私の意識はあの月のように宙に浮かんでいて、それが発する光のように朧げで、だが彼女が何と言っているのかちゃんと理解が出来る。
「月の雫をすくいとって、貴方だけのものにして。私が零す雫は貴方だけのもの。ねえ貴方、きっととってくださいますよね? 貴方と私の想いが同じなら。ねえきっと、きっとよ」
言いたいことを言い終わると、私の耳元に唇をやっていただろう者は消えてしまった。耳をくすぐるものは何もなく、体内に熱が戻る。抱きしめられて動けなくなっていた体が自由を取り戻したのも同時に感じた。暑くもないのにどっと汗が出、同時に心臓が絶叫しながらのたうち回って胸が痛い。
私はまだ、白い筒の向こう側にある月を眺めていた。するとその月の放つ光の一部がすうっと地上めがけて落ちるのを見た。白とも金ともつかぬ色をしたそれこそが月の雫なのだと直感する。飲み込めば一瞬で命を失いそうな、或いは逆に永遠の命を手に入れることが出来そうな、冷たい冷たい月の雫。それが今、私達の住む地上めがけて零れて落ちた。私の触れられる場所に。
――月の雫をすくいとって、貴方だけのものにして――
私は気がつくと自宅を後にし夜の舞花市を歩きだしていた。
昔から私は月が好きであった。空を彩るその他一切のものには興味がなく、星も虹も夕焼け空も雲も太陽も私にとってはどうでもいいものであった。幼稚園の時月組に入れなかったことを悔しく思ったし、花見なんかよりも月見の方が好きだったし、夕焼け空が綺麗だと母が言う隣で「早く夜にならないかなあ」と思ったこともあった。小学生の時、親から望遠鏡を買ってもらったが結局月以外のものを見ることはなかった。夜空に描かれる様々な星座を見てごらんよ、と言われてもどうでもいいよそんなものと答えるばかりで「どうしてそんなに月だけにこだわるのかなあ」と困惑されたことを今でもよく覚えている。
どうして。理由など私には分からない。もしかしたら月には魔力があって、初めて見た時それに憑かれてしまったのかもしれない。魔力に魅せられ、憑かれ、以降それ以外に目を向けることが出来ぬ存在になってしまったのかもしれない。
女友達から呆れ気味に「ここまで月を見ている人間なんて、あんたとかぐや姫位のものでしょうね」などと言われたこともあった。月に住まう姫君と同等に扱われるなら、本望だ。
幼い頃からずっと月を、月だけを見続けていた。社会人となった後も新たな望遠鏡を買って、夜になる度ベランダに望遠鏡を設置し、暑さや寒さも我慢して月を見る。ほんの少しも見ないで寝てしまうことなど私には出来ない。睡眠時間を削ってでも私は月を眺めていたいと思っていた。
月を毎晩、あまりずっと眺めていると良くないらしい……などという話を聞いたことがある。具体的にどんな良くないことが起きるのか知らないが、きっと月の魔力に身も心も滅ぼされてしまうのだろう。しかし、月に滅ぼされるのなら構わないとさえ思う。そう思うのもその魔力によってすでに狂っているからなのかもしれない。
白く輝くのは私の吐く息と、空に浮かぶ月ばかり。夜の帳降りれば、日常も姿を消し隠されていた異界が姿を現す。塀も、建物も、電柱も、何もかもが昼間とは様相を変え化け物的な気味悪さを醸し出し、こちらを声をたてずに笑いながら見つめている。その中を歩いていると心がざわつき、またうっかりと口から魂を零してしまいそうになるような心地がしてならない。もし月が存在していなければ、夜などただ怖くて気味悪いだけのおぞましいものであった。ペンライトだけでも持ってくるべきだったと後悔する。
早くこの異界の迷宮から抜け出したい、月の雫をすくいとって帰りたいという思いが早足にさせる。
自分の直感に導かれるままに、叫びたくなる衝動抑えつつも舞花市にある美吉山のある方面へと進んでいった。美しい姫君が守り続けているというその山は、この街にいる中で最も荘厳で、強く禍々しい力を持った化け物に見える。
その山の方面にある古い住宅に挟まれるようにしてあった空き地。ぽっかりと空いたその空間は、他の場所よりも暗く、地面など本当は存在していないのではないか、足を一歩踏み入れれば奈落のそこへ落ちてしまうのではないだろうかとさえ思う程だった。
その空き地の奥に何かが『いる』のを私の肌が感じ取る。そしてそれは自分の求めるものである気がした。少し躊躇い、ごくり唾を飲み込んだ後ゆっくりと歩く。そこに地面はあった……と思う。だが足が地面を踏む感覚はない。もしかしたら自分は歩いているのではなく、落ちているのかもしれない。そうだったとしても、構わない。
しゃがみこみ、そこに『いる』ものに触れる。痛い位冷たいそれはよく見れば骸骨であった。その手を静かに、寒さと緊張で固くなった指で撫でてみる。滑らかで、艶やかでぞっとする程官能的な肌触りに心臓が、全身を流れる血が暴れ狂う。
これこそが、月の雫だ。そのことを私は確信した。ゆっくりと優しくそれを抱きかかえ、元来た道をゆっくりと戻っていく。すくいとった月の雫は冷たく、清らかでそして何より美しい。骸骨を抱くなど普通のことではないのに、その異常なことを当たり前のようにやってのけている。道中絶叫してそれを投げ飛ばしたくなる衝動に襲われたことは一度もなかったし、彼女(この骨は女のものであると直感した)の骨と一緒にいるだけであれ程嫌だった夜道ももう怖いとは思わなくなっていた。
空に浮かぶ満月――私は何より満月が好きだ。揺籃の形した三日月も、半分闇に濡れた弦月も勿論好きだ。どの月の姿も私は愛している。けれど一番美しいと思うのは矢張り満月である。月と、骨を交互に見比べながら歩く。嗚呼、この骨は本当に月のようだ。空に浮かぶものの雫であるのだから、それも当然のことだろうが。月の雫を手中に収めている、その事実は私に今まで得たことのないような幸福感を与えてくれた。それがどれ程のものか、誰にも分かるまい?
私の幼い頃からの夢は『月を手に入れる』というものだった。一番欲しいものは何だと聞かれれば迷わず月、と答える。その願いは誰にも理解されなかった。小学校何年の時だったか、クラス文集作成時に行われたアンケートに『今一番欲しいものは?』という項目があった。私はそれに迷わず『月』と記入したが、完成した文集に掲載されたのは『望遠鏡』という単語。どうやら担任が勝手に答えを書き換えたらしい。答えが違う、と抗議したら「変なことを書いたらあれを読んだ友達にからかわれるよ」とか何とか言われたのを覚えている。何が変なものか、そうして異端と決めつけた答えを勝手に書き換え、生徒の願いを捻じ曲げる方が余程変で愚かな行為ではないか。
その時から今に至るまで、私の一番欲しいものは変わっていない。そして今夜私はその一部とも呼べるものを手に入れたのだ。今こうして両手にすくいとって家まで持ち帰っているのだ。
アパートの二階にある自分の部屋に入ると、私は寝室の壁の前に彼女を優しく下ろしてやった。薄汚れた壁に寄りかかる骨。嗚呼、銀色の月。
私は膝を抱えて座り、彼女を見つめる。物言わず、少しも動くことのないそれをずっと眺めていても飽きは来ない。むしろ変化などなくてもいいから永遠に彼女をこうして見つめ続けていたいとさえ思う。嗚呼、是非ともそうしたい。そう考えた時、私ははっとした。
そう思うのなら、そうすればいい。仕事も、人としての時間も捨てて彼女と共に過ごす時間を選べばいい。そのことに気がついたのだ。誰が止めようが知ったことではない、月の雫と共にいることより大事なものなど無いのだ、一番大事なものを選んで何が悪い?
やがて朝が訪れ、会社へ行く時間になっても私はその場を動かなかった。ほんの少しあった罪悪感も消えていき、私は完全に彼女と自分、たった二人の世界へ入り込んでいく。他の世界の音も、姿も何も無くなっていった。もう彼女のこと以外何も考えられないし、彼女の姿以外何も見えない。
私の目の前にいる彼女に、ある時変化が訪れた。銀がかった白の骨、その右足の五本の指からごぼごぼというグロテスクな印象を与える音が聞こえたのと共に、柊の実の様な泡が噴きだし骨を一気に包み込んだ。心がざわつくような音をたてながらどんどん泡が膨らみ、しばらくして少しずつ萎んでいく。萎んだ泡は肉となり、骨を覆った。
泡は次々と噴きだしては肉と化す。ゆっくりと、少しずつ全身を覆っていった。その姿を見ている内、段々と体が軽くなっていく。あらゆるものから解放されたからだろうか。
右足、左足、腰、胸、頭……全身がすっかり覆われるまでにはかなりの時間を要した。赤い、赤い、肉。皮膚はまだ無く、目玉らしきものも、爪も無い。自分が正常であったならとても正視など出来ない姿、化け物。しかし私は目を逸らさない。逸らすことなど出来ない位魅せられていたからだ。その他人から見れば不気味、グロテスクとしかいいようのない姿も、今の私にとっては石膏で作られた女神像よりも美しいものであった。
女性だけが持つことを許される曲線を描く肉体、もぎとって食したいと思う程に売れた二つの果実は銀から紅色へと変わった月に生るもの。
紅の月は再びその姿を変える。皮膚が段々と付き始めたのだ。ああそれはまるで、月から滲むものを漉いて作られた和紙のようで。姿の見えぬ名人が、その和紙をゆっくり静かに、そしてとても優しく丁寧にその体に貼っていく。一枚、また一枚、嗚呼ほらまた一枚。
目玉が生まれ、まぶたが生まれ一瞬だけその姿を見せた二つの小さな黒い月を覆っていく。蓮華の花びら――爪が一枚、二枚、指先に舞い降りる。それからしばらくの間は何の変化も訪れなかったが、もしかしたら目に見えない所に変化が起きているのかもしれない。例えば、臓器が作られているとか。
食べること、寝ること、排泄すること……人間として生きる為の行為をする時間を全て放り投げ、私は彼女と共に過ごす時間を選ぶ。正確に言えば自分がその行為を全く行っていないことに気がついてもいなかった。ごく自然に放り投げていたのだ、私は。投げようと思っても容易に投げられないものまで私は投げ、失った。私はもう『人間』だった時のことを覚えていない。忘れようとして忘れたのではなく、いつの間にか忘れていた。忘れたことさえ、忘れている。
そうして過ごしている内、段々と自分と彼女の『境』が分からなくなっていく。肉体も心も魂も、私のそして彼女の何もかもが溶け合っているような、もう『二人』ではなく『一人』になっているような感覚。『私』は『私』を『私』の中から見ている、そんな錯覚を覚えている。果たしてそれは本当に錯覚だろうか?
月を覆うように夜の帳が下りていく。床につく位長く真っ直ぐで、それでいて柔らかさもあるそれはただの黒色ではなく、花の色を焼きつけている。或いは真珠の粉をまぶしていた。揺れる度、しゃらしゃらという鈴の音でも聞こえてきそうだ。
唇は椿花乱れ咲く。頬はその花に照らされ仄かに桃色。まつ毛は秋の露二つ三つ落として濡れる。
欲情することを罪悪と感じる程穢れ無き裸体は、美しい衣に覆われていく。花をそのまま伸ばしたような着物が重なっていく様もまた見事。
私は彼女が目を覚ます時を待ち続けた。彼女はいつかきっと必ず目覚める、そのことを私は確信している。何故なら、彼女は私だから。だから彼女の全てが何もかも分かる。もう私は彼女で、彼女は私で、私と彼女はもう誰にも分けることは出来ないのだ。
彼女は少しずつ目を開ける。ゆっくりと、少しずつ。
いつか見たあの黒い二つの小さな月、嗚呼もう少しで満月だ、あと少し、おお、きた、ほうらやっと満月だ。二つの月がもう彼女と同一になったはずの私を見つめている。そして彼女は静かに微笑んだ。愛らしい、艶やかな、美しい、妖しい、幼気な――そのどの言葉も当てはまるような笑み。
光り輝くその姿はまさに月。子供の頃からずっと愛し、求め続けたもの。それが今目の前にいる。いや、私はすでにそれともう一体になっている。
「もう私は貴方のもの。貴方ももう私のもの。私と貴方は一つ」
あの夜、私に語りかけてきた声が聞こえる。今湛えている笑みと同じ、女性の様々な面や年頃を混ぜ合わせた声だ。
「貴方のことを、この世界では私以外の誰も知りますまい。私のことを、この世界で知る者は貴方以外にはいまい。それでよいでしょう? もう貴方にとってここは貴方の世界ではないし、私にとってこの世界は私の世界ではないのだから。さあ、還りましょう。私を落とした母の元へ。沢山の姉や妹がそこにはいます」
私は微笑んだ。彼女が微笑んでいるのだから、私だって微笑んでいるのだ。彼女が空を見上げれば、私も空を見上げる。彼女の意志は私の意志、私の意思は彼女の意志。
さあ行こう、母の元へ。沢山の姉妹が待つと言う、時に黄金色時に銀色に輝く月へ。望遠鏡はもういらない。遠くからただ眺めているだけの日々はもう終わりだ。私は還る、そして帰る。彼女と共に。そして私と彼女二人一人で永遠にあの場所で過ごすのだ。
体は地面から離れていく。
さようなら、そして私は月へ行き、こういうのだ。
ただいま、と。
*
夜の闇に包まれた小さなアパートの一室に、何かが座っている。薄汚れた、所々ヒビさえ見える壁の方を向いて。闇にぼうと浮かぶそれは白く怪しい灯、骸骨。膝を抱えて座っているその骨は男のもので、肉などもうかけらもついてはいない。この骨の持ち主がここまでなるにはそれなりの時間を要したが、その間誰一人として異変に気づくことはなかった。肉が腐る臭いに誰も気づかず、男の姿を長い間全く見ていないことに気づかず、会社も男が長期に渡って無断欠勤していることに気づかず……。そもそも皆、男の存在自体忘れてしまっていた。両親も、会社の同僚も、同じアパートの住人も、大家も、友人も、誰も彼も。
ただ壁を闇抱く空洞で見つめ続けていた骸骨が突然ぐらりと揺れ、床に倒れる。直後、銀色の炎が現れ、室内を燃やしていく。家具も、骸骨も、そしてその骨の持ち主たる男の存在も、彼がこの世界で生きていたという事実も、何もかも一つ残らず全てを燃やす。それはある一人の男の、この世界との完全なる別離を示していた。
燃える燃える銀の炎、男がこの世界で暮らしていた痕跡を残らず消し去る。
燃える燃える銀の炎、空に浮かぶ銀色の月へ還り、そして帰った男と女の笑い声を燃料にして。