桜の夢と神隠し(8)
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昼に見ても、どうしようもなく不安な気持ちにさせる、こちらの世界と向こうの世界を繋ぐ道。漆黒に染まる空の下、青白い灯篭の火に浮かぶ鳥居と桜は、いつも以上に静かで、美しくて、何より怖かった。余程勇気のある人でなければ、この道をこの時間、一人で通ることは出来ないだろう。
弥助さんが前を歩き、私達はそれについていった。鬼灯を握る手が汗で滑る。油断すれば、優しい温もりを放つそれは私の手から零れてしまう。もしそうなったら……ああ駄目、そんなこと考えていたら、本当に落としちゃうわ。ちゃんと握っていなくちゃ。
最後の鳥居を抜けた先にある満月館は、漆黒の闇の中で淡く光り、その姿をはっきりと見せていた。
その館の前に、出雲さんと、ランプを手に持っている鈴ちゃんが立っている。私達を待っていたようだ。
「……出雲、来た」
「ああ、来たね。さあ、早速だけれど骨桜の所へ向うとしよう。こういう面倒なことはさっさと終らせてしまうに限る」
出雲さんが、館の右横の方を指差す。そこには、牛車の様なものがあった。牛はいない。牛がいないのなら、牛車ではなく只の車というべきなのかしら。そんな牛車らしきものの前に、二人の男の子が立っている。小学4,5年生位で山伏の様な格好をしている。手には錫杖を握っている。髪の毛の長さは肩位で一人は下の方でそれを束ねて、もう一人は上で束ねている。それぞれの首には翡翠と勾玉を連ねた首飾り。
あら、もしかしてあの二人。
「あの車の前にいるのって、やた吉君とやた郎君ですか?」
私が聞くと、出雲さんがそうだよと頷いた。
「一応、ああして人の姿をとることもできる。結界能力は人の姿の時の方がより強くなるんだって。結界の範囲も広がるらしいし。髪の毛を下の方で束ねているのがやた吉で、上の方で束ねているのがやた郎だ」
「おいら達が、骨桜のところまで案内するよ」
「場所は確り覚えた。……乗って」
牛車に、私と紗久羅ちゃん、そして出雲さんが乗り込む。鈴ちゃんはお留守番らしく、出雲さんにランプを渡し、何歩か下がった。弥助さんは乗らない。本当に、自分の足で行くらしい。
「さあ、行こうか」
出雲さんがそう言うと、体がふわりと浮いたような感じがした。ふと外を見てみれば、牛車は地面から離れている。どんどんと高度をあげ、黒曜石を磨いたような色をした空へぐんぐん近づいていく。
まるで、飛行機に乗った時の様な浮遊感。体の重さが消えていく。銀色の月の光が、車の中に差し込む。
弥助さんはどうしているのだろうと、顔を車から出してみる。もう地面からかなり離れている。闇に隠れてもう地面なんて見えない。黒く染まる木々は、銀色の月光を浴びて、所々ダイヤモンドダストの様な輝きを見せる。よく見ると、木から木へ飛び移っている何かが見える。多分、あれが弥助さんなのだろう。大柄な割にあの人は結構身軽だ。重さなんて少しも感じさせない、大胆でそれでいて軽やかな飛翔。もっと遠くから見ていたら、むささびか何かと勘違いしたかもしれない。
「弥助さんやっぱりすごいわ。昔から化け物じみた体力だなあと思っていたのだけれど」
「まさか本当に化け物だったとは……ってか。しかし妖怪とかそういうのが大好きなさくら姉にすら人間ではないってことがばれないなんて。弥助が凄かったの? それとも、さくら姉が鈍感だったの?」
「さあ、どっちかしら? ちょっと変わった人だなとは思っていたのだけれど。ものすごい怪力で、常人離れした運動神経……というところ以外、特に普通の人と変わりなかったから」
出雲さんは全身から「人間ではないオーラ」を出しているけれど、弥助さんはそういったものを一切だしていなかった。彼が化け狸であるという事実を知った後も、彼からそういうオーラを感じ取ることが出来ない。妖怪であるなんてことを感じさせない位、弥助さんは人間らしいのだ。
「あの馬鹿はもう半分人間みたいなものだからねえ。時々、自分がこちらの世界の住人であることをすっかり忘れている節がある。自分の真の姿を忘れ、元の姿に戻れなくなる程の阿呆だ。サクが気づかなかったのも、無理からぬ話かもしれないねえ」
桜の花の描かれた綺麗な黄金の扇をさっと開き、それで綺麗な顔を扇ぐ。微かにそれから、甘い桜の花の匂いがする。月の光を浴びて、出雲さんの白い肌はより白くなり、瞳の赤がよく映える。さらさらと流れる髪は天の川の様。
妖しい微笑は、見る人を凍りつかせる。胸の鼓動が止まりそうになる。不安と恐怖を抱かせる、その顔、その姿。
人ではない美しさ。人ではありえない美しさ。異形とはこういう人のことを言うのだろう、と改めて思う。
本当にこの人は一夜達を助けてくれるのだろうか、という不安を振り払いたくて、また外を見る。
嗚呼何だか、闇の深い夜の海を漂っているみたいだ。冷たい空の海の中を、ぷかぷかと。そう思うと、下に見える木々は海藻や珊瑚、緑に染まった岩に思えてくる。
ああ、とても素敵。夢のようだわ、不思議の世界を不思議な乗り物に乗って。
私は、不安を振り払うどころか、その不安の元の元となる一夜達のことも忘れて、空の海を巡る旅に夢中になっていた。
夢中になりすぎて、時間というものは流れ過ぎ行くものだということを忘れていた。
誰かの叫び声が聞こえる。男の子……ああ、やた吉君の声だわ。
出雲さんが車から顔を出し、下を覗く。
「おや、もう着いたのかい。それじゃあ、そろそろ降りるとしようか」
出雲さんがそう言っただけで、車は下降し始める。この車自体が意思を持っているようだ。ふわふわシャボン玉の様に浮いている牛車は、地面に引っ張られるように高度を下げていく。
月とその光は遠ざかり、木々の間を縫うようにして降り、やがてコトンという音と共に地面に降り立った。失っていた重みが一気に体に戻る。
まずは出雲さんが降り、次に私、最後に紗久羅ちゃんが降りた。一度私にランプを預け、出雲さんが手をぱんぱんと叩くと、牛無し牛車はぐいぐいと縮んでゆき、手のひらサイズになった。それを出雲さんが手に取り、懐に入れていたらしい巾着袋にそっと入れた。私は出雲さんにランプを返す。今ある灯りといえば、これと瞬く星、浮かぶ月だけだった。
弥助さんも間もなく追いつき、紗久羅ちゃんの横に立つ。相当動いていたはずなのに少しも息は切れていない。
「旦那、あれだよ、あれ」
やた郎君が、錫杖で目の前を指した。出雲さんがその先をランプで照らす。
無数の木々の中に、一際大きく立派な木があった。幹は太くがっしりしていて、そこから枝が伸び、そしてその先には魅惑の薄桃色の花びら。月の光の浴びたそれは銀色の輝きを帯びている。砂糖をまぶした様なぎらぎらとした輝きが、美しいその花びらをより一層愛らしく、そしてまた美しく見せている。
愛らしい少女の様にも、美しく艶やかな女性の様にも、長い時を生きた老婆の様にも見えた。
多くの人を自分の世界へ導き、美しく無邪気に、そして残酷に殺める骨桜。
恐ろしくも美しいその木が、目の前にある。
夕菜さんが「思い出に残る風景」だと思うのも無理は無い。一度見たら、忘れられなくなるくらい見事な桜だった。
そして、その木の下に。一夜達が……いた。
*
遠目に見ても分かる。約17年もの間一緒に居た幼馴染の姿。間違えるはずが無い。私は慌てて骨桜の下へ駆け寄り、そして「あっ」と声をあげる。
よく見れば、骨桜の木の幹は半分以上無残にえぐれていたのだ。雷に打たれたのか、火に焼かれたのか。えぐれた部分は真っ黒に焦げている。最早元に戻ることは不可能だろう。更に、焦げていない無事な部分にも深い傷が幾つもあった。
何故、こんな傷が?不思議に思って、もっと木に近づいてその幹に触れようとする。しかし、途中で見えない何かに押し返されてしまって、触れることはおろか近づくことさえ出来なかった。そういえば、木の周りには結界が張ってあるんだったわね。
あまり無闇に近づかない方がいいよ、とやた吉君が私の腕を引っ張る。そんな彼は、しばらく木を見つめ、ため息をついた。
「やっぱり、この木……あれだよなあ」
「あれ?」
「ううん、なんでもない。出雲の旦那、結界を解こうよ。解かないことにはどうしようもないしさ」
「それもそうだ」
出雲さんが頷き、前へ進んだ。しばらく進むと、ぴたりと歩みを止め腕を勢いよく突き出した。出雲さんの手のひらは丁度結界に触れているらしい。
ばちばちというものすごい音がして、結界らしきものが眩い光を放つ。髪は乱れ、着物の袖や裾がバタバタと音を立ててたなびく。結界を解こうとする出雲さんの力と、解かれまいと必死に抵抗する結界の力。双方強力な力らしく、その衝撃は並大抵なものではない。
けれど、出雲さんの力の方が圧倒的に上回っていたらしい。雷の様な音と共に、光の粒が四方に散った。
乱れて顔にかかっている髪を振り払いながら、ぽかんとしている私と紗久羅ちゃん達の方を見て、にこりと笑った。
「さ、これで邪魔なものは無くなったよ」
そうして、先へ進む。私達もそれに続いた。眠り続ける一夜達に少しずつ近づいていく。
骨桜に連れ去られた人たちは、木の幹に背中をもたれさせ、眠っていた。私達の真正面にいるのは一夜。その右横にいるのが小学生の男の子、その右が女子高生らしき子、その右が就職を前にしていたという男性。一夜の左横にいるのは、長くさらさらとした髪の毛が印象的な、綺麗な女性だった。恐らく、彼女が夕菜さんなのだろう。その左隣に、孝一さんがいる。
私はしゃがんで、恐る恐る、一夜の頬に触れてみた。ほんの少しだけ冷たかったけれど、大丈夫。生きている。後からじんわりと感じる温もり。見れば、肩が微かに上下している。ぐっすり眠っているようだ。
ああ、良かった。生きている。……他の人達も、無事の様だった。一番最初に攫われた夕菜さんも、すうすうと寝息をたてている。
「とりあえず、皆無事のようっすね。見たところ、そんなに衰弱している様子も無い」
「でも、このままじゃあいつまでも兄貴達は眠り続けたまま、なんだよな。早く助けにいかないと。それで出雲、どうやって乗り込むんだ?」
一夜達のことなどどうでもいいのか、様子を見るわけでもなく乱れた髪を戻すのに夢中な出雲さんに、紗久羅ちゃんが問う。
「さっきも言ったとおり、じいさんから借りてきたものを使う」
そう言って、さっき牛車を入れていた巾着袋を取り出す。そこに、知り合いのおじいさんから貰ったらしいものが入っているのだろう。
出雲さんが取り出したのは、黒塗りの筒だった。
「現世ではない世界を映し出し、その世界へ導く道具らしい。見た目は万華鏡なのだけれど」
ほら、といって出雲さんが私にその筒を手渡す。恐る恐る、筒に開いているを覗き込んでみると、成る程確かに万華鏡らしい。赤や青や緑、金、銀という鮮やかな色が、筒を動かす度に形を変え、幻想的な模様を描く。確かに、これなら人を現世とは隔絶された世界へ導いてくれそうだ。
私は、しばらく万華鏡の世界を楽しんだ後、それを出雲さんに返した。
「通しの鬼灯みたいなものっすか、それは」
「似ているけれど、少し違うね。通しの鬼灯は、あくまで私達の世界と人間の住む世界を結ぶ入り口を見えるようにするだけの道具。こちらは、あちらの世界に限らず、様々な世界を映し出し、更にそこへ導くという道具らしい。その気になれば、過去にも未来にも、我々の知らぬ世界にも飛べるようだ。……まあ、使う者の力量によって行けるところは限られてくるらしいけれどね。私達の様な妖では、過去や未来などに飛ぶことなどは出来ないようだ。残念ながらね」
出雲さんは、一夜達のいない木の裏側にまわり、その幹に万華鏡の先の方を軽く押し付け、そのままくるくると回す。
「ああ、見えた、見えた。それじゃあ、早速行くとするか。皆、私の後ろに一列になって並んで、前にいる人の肩につかまって」
私は、それを聞いて出雲さんの後ろに並び、彼の冷たく細い肩につかまった。その後ろに紗久羅ちゃん、やた吉君、やた郎君、弥助さんと続く。
出雲さんは後ろをちらっと見て、準備がすっかり出来たことを確認した。確認すると、呪文の様なものを小声で唱える。それは人の世の言葉ではないようだった。
万華鏡が、朝日の様な眩い光を放つ。くらっと眩暈がして、体から力が一気に抜ける。そして、体は万華鏡に吸い込まれていく。ぐにゃぐにゃでぎらぎらした不思議な世界をものすごい速さで駆け抜けていく。
何も考える余裕は無かった。円形の大きな光……出口へ皆で仲良く向い、そして仲良く……放り出された。
跳び箱の着地を失敗したように、体勢を崩して地面へ勢いよく倒れこむ。結果、出雲さんは下敷きになり、一番重い弥助さんが一番上になる。出雲さん以外の体重が、重くのしかかる。重い、これは重いわ。み、身動きが全然取れない……。
地面には草が生い茂っていて、草のなんともいえないあの独特な匂いがした。
「いたたた……全く、何て乱暴な道具っすか」
「そんなこと言っている暇があるのなら、さっさとお退き。重いんだよ、お前」
苦しそうに呻く出雲さんの声を聞き、弥助さんが退く。そしてやた郎君、やた吉君、紗久羅ちゃん、私、出雲さんの順に起き上がる。うう、背中が痛い……。
「美しくない、実に美しくない。……こんな美しくない着地、私は認めない」
「そんなことはどうでもいいだろう、馬鹿狐! いや、まあ確かに痛かったけれど。兎に角! 潜入には成功したんだから、さっさと兄貴達連れて帰ろうぜ」
「それもそうだねえ。私をこんな目に合わせてくれた骨桜には、たっぷりお礼をしてあげなくちゃねえ……ふふふ」
可哀想な骨桜……。
そういえば、骨桜の空間に入り込めたようなのだけれど肝心要の骨桜の核はどこかしら。私は、そこへ放り出されてから初めて、周りをじっくりと見た。
空は、墨をぶちまけたように真っ暗。きらきらと金銀の星が瞬いている。薄荷を混ぜたようなすうっと涼しく、爽やかな風が吹いて、果てない草原を静かに揺らす。
ふと見れば、遠くに何かが見える。どうやら、桜の木らしい。遠くから見ても、それは随分大きい木だということが分かる。多分、あそこに骨桜の核……そして一夜達(の精神)がいる。
「さあ、行くとしよう。ああ面倒くさいねえ、あそこまで歩かなくちゃいけないのかい?」
うんざりした表情を出雲さんが浮かべる。そんな、嫌がる程の距離は無いと思うのだけれど。桜山の方から、桜町商店街まで行く方が余程遠いわ、多分。それとこれとは別なのかしら。まあ私も、古風な町並みや自然を眺めながら歩くのは好きだけれど、ビルしかないようなところを歩くのは好きではない。それと似た様なものかしら。
「その必要は無い。招かれざる客よ」
出雲さんの言葉に応えるように女性の声が、響き渡った。聞き覚えの無い……いいえ、聞いたことがある。そうだわ、あの時の夢でこの声を聞いたんだわ。
その声は、怒りに震えているようだった。お腹を深くえぐる様な、恐ろしげな声。それでいて、胸がドキドキするような艶やかな声。
ああ、この空間の主に見つかったのだ。そう思った次の瞬間、何かがこちらめがけて伸びてきた。それが木の根であることに気がついたのと、その根に体の自由を奪われたのは、ほぼ同時のことだった。
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あっという間に、その根っこに引っ張られ、あれだけ遠くにあった桜の木の前まで連れてこられた。
間近にみる桜の木はとても大きい。先ほどみた骨桜の数倍、いや数十倍はある。見たところ、本体の骨桜とは違って抉れたり傷がついたりしているということはなかった。月もでていないのに、木は輝いている。まるで、ライトアップされた夜桜のようだ。白樺のように白く輝く幹、枝。そして砂糖菓子のような、女性の肌の様な愛らしくて、滑らかな、花びら。うっとりするような、甘く艶やかな香り……。
ふっと私達は根から解放され、地べたにべたんと惨めな格好で着地した。いたたたた……本日二回目だわ。腰の骨が砕けちゃいそう。
「この私の世界に、生身で入ってくるとは思わなかった。こんなことをする者は初めてだ。……誰かと思えば、憎き極悪狐とその仲間達、か?」
声は、頭上から聞こえる。思いっきり尻餅をついた衝撃で、びりびりいっている首を傾け、上を見た。
見れば、宙に浮いている女性がいた。黒く、艶のある髪はとても長い。目蓋は赤く塗られ、睫毛は長く、黒い瞳はぎらぎら輝いている。唇は、綺麗に磨いた林檎のよう。淡い黄色の着物の上に、萌黄色の着物を着て、更につつじ色の着物を羽織っていた。ひらひらと、桜の花びらと同じ色の領巾が風に揺られている。首には金色の首飾りをつけていて、それがしゃらしゃらと音を鳴らす。
肌は出雲さんに負けず劣らず、白い。頬は怒りに震えているせいなのか、微かに桃色。
美しく、とても気の強そうな女性だ。
それにしても、憎き極悪狐って。この人は、出雲さんのことを知っているのかしら。でも、出雲さんの方は、こいつ誰だっけって顔をしている。
「ああ、やっぱりそうだ」
口を開いたのは、出雲さんではなく、やた吉君だった。
「やっぱりそうだって、どういうことだい」
「旦那、覚えてないの? まあ旦那はいつも人の顔なんてすぐ忘れちゃうけれど……じゃなくて……あいつ、あれだよ」
「あれじゃあ分からないよ」
出雲さんは本当に分かっていないようだった。その様子を見て、骨桜の核(以後は骨桜と呼ぶ事にしよう)はますます怖い顔になる。忘れられてしまったことを本当に怒っているのだわ。
やた郎君が、その問いに答えた。
「あいつというか、この骨桜というか……ほら、ずっと前に出雲の旦那が骨桜に連れていかれそうになったときあったでしょう? 結局逃げることに成功して、後日……酷い目にあわせた……あの、骨桜だよ」
「あれまあ」
ぽそっと一言呟いて。出雲さんは、骨桜の顔をもう一度見た。しばらく続く沈黙、やがてぽんと手を叩く音。
「ああ、そういえば。こんな感じの顔だったような」
「ようやく思い出したか。……私の身は、貴様の炎によって焼かれ、その爪で引き裂かれ、一生消えぬ傷跡をつけられた。忘れたくても忘れられぬ、おぞましい記憶。……まさか、また会うことになるとは思わなかった」
骨桜は、強く拳を握りしめた。あの立派な木を火で焼き、抉り、深い傷を残したのが出雲さんだったなんて。一度、骨桜の夢を見て、彼女の餌食になるところだった出雲さん。お仕置きしてやったとは言っていたけれど……。
「ふん、お前如き下等な妖が、この私を餌にしようとするからだ。お前達骨桜は、兎に角自分の美貌に自信を持っている。美しくあることが、生きがいのような存在だ。……そんなお前達には、一番ふさわしい罰だろう? その身を焼かれ、傷だらけになり、醜い姿になるというのは。ただ殺してはつまらないからね、ふふふ。お前の本体である木は永遠に、あのままだ。核であるお前も、術か何かでごまかしているのだろうが、本当は醜くなっているのではないかい?」
そう言って、出雲さんが、声を立てて笑った。ぞっとする声だ。怒り狂っている骨桜も、その恐ろしい笑い声のせいか、何も言い返すことが出来ない。
「お前、本当どこまでも最低な奴だな……しかもそれだけ酷いことしておいて、そうした相手の顔も忘れているなんて」
紗久羅ちゃんが、頭を抱え、呆れたように言った。あたしは骨桜に同情するよ、と続けて。弥助さんも私も、頷いた。
「しかし、夕菜さん達を連れ去ったのが、まさかこの極悪非道狐の被害者だったとはねえ」
呟く弥助さんに、出雲さんは心外だと言いたげな表情を浮かべて反論する。
「馬鹿いえ、被害者は私。加害者はあっちだよ。元々私を餌にしようとしていたのだから、あちらは」
「あっちは未遂じゃねえか。お前の場合は未遂じゃないだろう」
紗久羅ちゃんが、出雲さんの言葉に反論する。けれど、出雲さんは聞く耳持たない。
「ふん、私に手を出そうとする行為そのものがすでに罪なんだよ。……まあ、この女が昔私を餌にしようとした不届き者かそうでないかとかは、もうどうでもいいことなんだよ。私達の目的は、かず坊達を助けることなんだから。おい骨桜、お前が攫った人達はどこへ行った? さっさとお返し」
他人の家にずかずかとあがりこんだ挙句「お茶とお菓子を出せ」と上から目線で言うお客さんのような、ちょっとずうずうしい感じの言い方だ。骨桜が顔をしかめる。
「貴様ら、夕菜達を……っ」
骨桜が絶句する。その表情は自分の大切なものを奪われそうになって不安になったときのものに似ている。……自分の食べようとしたものを取られそうになった時の顔とは、何だか違う気がした。
「あれ、さくら?」
毎日のように聞いていた、でも最近は聞いていなかった声が背後から聞こえた。私は、さっと振り向いた。紗久羅ちゃんも同じように振り向く。
そこには、一夜……そして、骨桜に攫われた他の人達も一緒に立っていた。
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目をぱちくりさせ、ぽかんとする一夜達に向って、骨桜が叫んだ。
「馬鹿者! 何故出てきたのだ。あの空間から出るなと言ったはずなのに! 出てこなければ、この者達には決して見つからなかったはずなのに!」
その表情には焦りや不安が入り混じっていた。どうやら、私達に見つからないようにまた特別な空間に一夜達を隠していたらしい。けれど、皆は約束を破ってでてきてしまった。
「だって、何か聞き覚えのある声はするし、ものすごく賑やかだったから。あれ、紗久羅もいる。あ、出雲も弥助兄ちゃんも。……そこのガキ二人は知らないけれど。皆して何やっているの? お前らも、ここに連れてこられたの?」
私や紗久羅ちゃんは、とても心配していたのに、一夜といったら、ぽかんとする位能天気だった。骨桜に恐怖を感じている訳でもないし……。
他の人達は、少し疲れているようだった。何だか、元気が無い。とりわけ、一番後ろにぽつんと立っている夕菜さんは酷く疲れているようだった。
「弥助、さんですよね? 何で貴方が……もしかして、助けに来てくれたんですか?」
その夕菜さんの肩を優しく抱いていた孝一さんが問う。すると、他の人達がほんの少し元気になったようだった。けれど、藤色の髪の毛に赤い瞳と言う、明らかに人間ではない出雲さんの姿を見ると、何だこの人はと訝しげな表情を浮かべた。
「あっしが助ける、というよりはこっちの化け物がですがね」
「失敬な。私を化け物などと。美しい化け狐とお呼び」
「それ、どこが違うんだ?」
紗久羅ちゃんが小さな声でつっこんだ。
「おのれ、忌々しい! どこまでも、私の邪魔をするつもりか!」
「うるさいねえ。……またあの時の様に、火に焼かれたいのかい? 一気に焼かず、じっくり炙られたい?」
出雲さんが睨むと、骨桜は一度は口をつぐんだ。けれど、何か強い思いがあるのか、また口を開いた。
「誰が帰すものか。私は、別に夕菜達に危害を加えるつもりは無い。夕菜が一番愛おしく想っている男がここへ来たのだ、もうこれ以上人を攫うことも無い」
私は、どういうことなのだろうと首を傾げた。どうやら、骨桜にとって重要なのは夕菜さんであるらしい。そして、夕菜さんの恋人である孝一さんがここへ来たことで全てが終った……。ただ分かることは骨桜は一夜達を喰らうつもりはないということ。そして、皆を……とりわけ、夕菜さんを失いたくないということだった。
物語は、やはり夕菜さんを中心に動いていた。でも一体、どういう風に物語は進み、ここへ至ったのだろう?
骨桜の言葉を聞いた夕菜さんは、切なく苦しげな表情を浮かべる。孝一さんの、夕菜さんの肩を抱く力が強くなる。
「その人、お前達には絶対に危害は加えない、その代わりここから絶対に帰してやらないの一点張りで、俺達の話を全然聞いてくれないんですよ」
スーパーで働くことになっていたはずの男性らしき人が口を開いた。
「私達を帰したくないっていうか、この夕菜さんって人を帰したくないみたい」
続くのは、高校生の女の子。その女の子の手を握りながら震えているのは、愛犬を亡くした小学生の男の子。女の子は、その男の子の手を優しく握り返していて、優しい笑み浮かべる。まるで、お姉さんのようだ。きっと、訳の分からない事態に震え怯えている彼の面倒をずっと見ていたのだろう。
「何言っても聞く耳持たずだからさあ、俺達も参っていた訳」
と一夜が肩をすくめる。けれど、一夜の表情にあまり疲れは見えない気がする。他の人達程、深刻に物事を考えていないのかもしれない。
「普通の人間はこんな訳の分からないところに連れていかれたら、困るし、疲れるっての。ったく、本当に兄貴は能天気だな。というか、よくもまあこんなところに何日もいて、平気なツラしているなあ!」
紗久羅ちゃんは随分呆れているようだ。けれど、上擦った声には喜びの感情が入り混じっている。お兄ちゃんが無事で、嬉しいのだ、きっと。ちょっと素直じゃないだけで。そういうところが、紗久羅ちゃんの可愛いところだわ。
「別に平気って訳じゃないけどさ。さくらから胡散臭い言い伝えだのなんだの聞かされまくっていたせいで、そういうのに耐性ついちゃったっぽいんだよな、俺」
「胡散臭くなんかないわ。現にこうして、骨桜は本当に実在して……」
「ああ、はいはい。お前が話し出すと長くなるから黙っていような」
まあ、酷い。私そんなに長話なんかしたことないわよ。
「流石、かず坊はお馬鹿さんだね。……さて骨桜。もう一度言うよ。さっさとかず坊達を返しておくれ。……前以上に酷い目にあいたくなければ、今の内に従っておいた方がいいと思うけれど」
出雲さんの目は本気だった。これ以上抗えば、骨桜は……。
けれど、骨桜は決して頷かなかった。
「ならぬ、ならぬ! やっと会えたのだ、また、また彼女と会うことが出来た! だが、ここで帰せば、また彼女は私のことを忘れてしまう! そうなれば、私はまた夕菜と会えなくなってしまう! 嫌だ、そんなのは絶対に嫌だ! 私の悲しみを、寂しさを、温かいもので埋めてくれた、私の癒えぬ傷を癒してくれた……醜くなった私の姿を美しいと言ってくれた心優しい娘! 失いたく無い、もう何も失いたくは無いのじゃ!」
激しく首を横に振る骨桜の姿は、悲しいほど痛々しい。狂ったように髪を振り乱し、目を大きく見開き、口は裂けそうになる位大きく開いて。
「ねえ、何かやばくないか?」
紗久羅ちゃんが、近くに居た弥助さんに言うと、弥助さんも頷く。
「やばいっすね。……やた吉、やた郎。結界を張るんだ!」
「分かった! 二人とも、おいら達の近くに来て!」
二人の近くまで行くと、やた吉君とやた郎君は、私と紗久羅ちゃんを挟むようにして立ち、錫杖で地面を二回ほどついた。すると、ドーム状のしゃぼん玉の様な結界が私達を包む。
「これで、よし」
「一夜達は? 結界を張らないと危ないんじゃない?」
「あの人達には必要ないよ。今のあの人達は、精神だけの状態だもん。攻撃が当たったら死ぬとか、そういうことはないよ。でもおいら達は体ごと入ってきているから、攻撃を受けたらまずい」
「あっしが一応守ってやるから、安心しろ」
気づけば、弥助さんは一夜達の前に、彼らをかばうようにして立っている。
「殺してやる……かつて私から全てを奪った、憎き男……また私の得た幸せを奪うというのなら、この手で……殺してくれる!」
憎しみの感情を言葉に乗せ、出雲さんに浴びせる骨桜。彼女の体から、黒くもやもやした何かが出ているような気がするのは気のせいだろうか。
「やめて、やめてください!」
夕菜さんが、頭を抱えながら叫ぶ。けれど、もうその声すら骨桜には届いていないようだった。
憎しみをどれだけぶつけられても、出雲さんの表情は変わらない。心底面倒臭そうだった。
「全く……うるさい女は好きじゃないなあ、私は。でもまあ、お前がそこまで言うのなら、仕方が無い。そちらがその気なら、こちらも……ね」
出雲さんはあの金色の扇を取り出し、それを口元にやりながら、笑った。