学校の怪談~開花への階段~(8)
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さくらはしばらく動くことも出来ずにいた。パソコン、或いはワープロで作成されたらしいものであるらしい。機械で打たれた無機質な文字、その背後にあるのは――恐るべき、悪意。冬であるのに汗が額から出て頬を伝った。手紙の文面を読むことで吸い込み、そしてそれが体内を冷やし、心臓の鼓動を早める。
動揺していることを必死に隠しながら辺りをきょろきょろ見回す。どこを見ても死人、死人、死人、息の代わりに恐怖と悲しみを吐きだし続ける屍。考えているのは怪談のことだけか……人に悪意を向け、脅してやろうと考えるだけの余裕など彼等にはないかもしれない。ならば彼等は犯人ではないのだろうか?
折りたたみ、カバンの中に入れたその手紙の文面が頭の中で繰り返し読み上げられる。吸い込んだそれは容易に吐き出せない。何の感情もこめずに、何度も何度も呟く。何もないゆえに、冷たさや邪悪なものを感じる。
(ただの悪戯……には思えない。本気で言っているんだ)
空気中に漂う黒いものが、さくらの中に生まれた黒いものを増長する。悪戯なんかじゃない、悪意と害意を持って脅しているのだ。
どうして?
(今回の怪談騒ぎのことを調べてもらいたくない人がいる……学校を意図的にこんな風にして、何かしようとしている人がやっぱりいるのかな。その目的を達成する前に私に真相を暴かれたり、犯人である自分に辿り着かれて欲しくない? だから私の動きを牽制しようとしてこんなことを。でも、私一人が何かすることが誰かの脅威になるとは思えないのだけれど)
念には念を、ということだろうか。しかし、調べられるのが嫌だというのなら千代子にも似たような脅迫文が届いていそうなものだが、彼女は一言もそんなことを話してはいなかった。話す必要もない瑣末なこととしてわざわざ話さなかったとか、さくら達に余計な心配をかけさせたくないから話さなかったとか、そういう場合も考えられないではないが。
見ている。その単語がさくらにあるはずのない視線を感じさせた。冷たい、敵意と悪意に満ちた瞳が嗚呼こちらを見ている。さくらを監視する為に、見ている、沢山、沢山。
黒いものが膨らんでいく。そしてさくらの体の中をいっぱいにするのだ。
「怪談の闇に触れようとする人は、化け物に殺されてしまうのですって」
そんな彼女に追い討ちをかけるような話が突如姿を現し、黒い視線を感じいつになく身を縮こませていたさくらの耳に届いた。昼休みの最中のことであった。それはいつも聞く怪談とは違い、随分抽象的なものに聞こえる。
「一体何なのかしらねえ、怪談の闇って! わけわかめ、とはこのことねえ」
そう言ってほのりは購買で買ったパンをちぎって口の中へと放り込む。さくらは「そうねえ」と平静を装って言うが、もしかしたらその声は震えていたかもしれない。授業中もずっと黒い視線と脅迫の言葉に恐怖していた。
彼女はさくらの元気がいつになく無いことに気づいてはいる様子だったが、こんなところにずっといたら流石のサクも参るだろうと考えているようだった。だから特に何も聞かず、それがさくらにとってはありがたかった。この恐怖を誰かに分かってもらいたい、という気持ちも正直少しあったが我慢する。心配をかけさせたくないし、下手に話せば彼女まで危なくなるかもしれない。それに彼女に打ち明ければきっとおおごとになる。犯人許すまじと怒り、犯人探しをしようとするかもしれなかった。それも困るから、矢張り話すわけにはいかなかった。
「サクは何だと思う?」
「私は……ううん、どうなのかしら。よく分からないわ」
そう言って苦笑い。けれど本当は分かっていた。
怪談の闇。それはすなわち、この怪談騒動の真実であると。つまり怪談の裏に隠された意図に触れようとするな、触れれば酷い目に遭わせてやるということ。これもまた真実に辿り着こうと考えているさくらに対する脅しなのだ。怪談はこの学校で『真実』になるから。ならばこの手紙を机に入れた人間と、この怪談を流した人間は同一人物なのだろう。あの手紙よりもある意味確実な脅しかもしれない。怪談が真実になることを知っている人にとって。
他の生徒達は今回の怪談をどう解釈しているのだろう。意味などは特に考えていないのだろうか。分からないけれど、怖い……それ位だろうか。もしくは意識下では理解しているのかもしれない。怪談に隠された思いを汲み取り、決して触れまいとする。
「そうよねえ、とうとう意味さえ分からないものまで現れて嫌になるわねえ」
とぼやく彼女はどうだろうか。心の奥底ではこの怪談の真意を理解しているのだろうか。
「しかし、いつになったら終わるのかしらねえこの馬鹿馬鹿しい騒ぎは! まあ、ピークは過ぎたかなって気はするんだけれど。いや、大きく変わったってわけじゃないけれどさあ。露天商から魔除けのストラップやらアクセサリーやら買う人間が増えてきたからかしら。何というか思い込みの力ってすごいわよねえ、あれだけ怖い怖い言っていた奴等がそれを買った途端おとなしくなるんですもの。これから買う人間はもっと増えるでしょうねえ。効くらしいって話を信じてさ。大して高いものじゃないらしいし」
あたしも買おうかしらねえ、と言うその声色では冗談なのか本気なのかはっきり分からない。本気だとしたら、相当参っているということになる。
ほのりの言う通り、近頃学校近くに現れる露天商からストラップや校則に引っかからない位派手ではないデザインの髪飾り、お守りなどを買い求める人はどんどん増えているようだ。噂によると、一部の教師も買っているらしい。学校から出ると怪談に翻弄され、恐怖する気持ちはかなり薄らぐがそれでも心の中には漠然とした恐怖や不安が残っているらしい。だからこそ買うのだろう。それを買って身につけたり、カバンにつけたりしている人は随分おとなしくなり、幽霊などを見て騒ぐことも殆どないようだ。それが単純に思い込みの力なのか、実際その商品に恐怖心を和らげたり、悪いものを寄せつけなかったりする力があるのかどうかは分からない。
(その露天商が東雲高校の近くに現れたのは偶然? それとも……)
まさかその人は呪術を使うことに長けていて、自作のアクセサリーを売って大稼ぎしたいが為にこのような騒動を引き起こしているのではあるまいか、などというくだらないことまで考えてしまう。そしてその露天商のグルである人間がこの学校にいる。
いや、いくらなんでもそれはないだろうと苦笑い。しかし今度その人を探してみるのは有りかもしれないと思った。そう思った途端、再びあの手紙の文面を思い出す。もしその露天商と、今回の件が何らかの形で関わっていたとしたら、危険な目に遭うかもしれない。そう思ったらやっぱりやめようかな、と考えてしまう。
昼食を済ませた後、さくらは図書室へと向かった。千代子曰く今学校の図書館で桜村奇譚集や怪談関連の本がよく借りられているという。そのことを確認しようと思ったのだ。それ位なら大丈夫だろうと自分に言い聞かせながら歩いた。図書室の扉を開けようとしたところで中から人が出てきたので、慌てて後ろにひく。
出てきたのは敦子であった。彼女はさくらに気づくとぺこりと頭を下げた。
「あ、こんにちは……」
「こんにちは。今は安達さんと一緒ではないのね」
そう聞くと敦子は口を尖らせる。
「安達さんは絶賛浮気中です」
「浮気?」
「クラスの男子達とのおしゃべりを楽しんでいる最中です。あの、私のことを怒らせた彼等です」
ああ、という声が漏れる。その男子達のことは覚えている。普段は大人しいであろう彼女から罵声を浴びせられ、戸惑っていた少年達。顔ははっきり覚えていないが、いかにもチャラチャラした感じの人達であったことは覚えている。
そんな彼等と、涼しげな輝きを持つ美しい黒髪の、茶目っ気もあるとはいえ基本的には真面目で優等生であるらしい鈴鹿が楽しそうに喋っている姿は想像し難いものであった。
「あの一件以来私と仲良くなった一方で、あの人達ともよく話すようになったんです。話友達になった……という感じではないんですけれど。いえ、一見お友達といった感じなんですけれど実際のところはお姫様とその家来って感じですね。デレデレヘラヘラしている家来と、そんな彼等を上手いこと使っちゃうお姫様って感じで。でもまあ、楽しそうではあります。ちょっと妬けちゃう位です」
といって苦笑い。どうやら彼女、相当鈴鹿と仲良くなったようだ。言葉の端々に彼女を大切に思う気持ちと、彼女をとられたような気がして悔しく思っている気持ちが見える。そのせいか『家来』という言葉にはトゲがあった。
「きっとあの人達だわ、安達さんにあの怪談を教えたのは。そのせいで安達さんあんなことになってしまったんだわ」
「えっ……そうなの?」
「下手すればあの人達があの怪談の発信源かもしれないです。屋上から飛び降りる幽霊の話を、色々な人に嬉々とした表情で言いふらしていたのをまだ怪談が広まっていない時に見ましたから。勿論絶対、ではないですけれど……最初に言いだしたのが彼等かどうか……もしかしたら違うかも」
と話が進めば進むほど自信なさげな声色へと変わっていく。ただ彼等がかなり早い段階であの怪談のことを知っていたことは確かなようだ。噂の出処はどうも一年らしい、という千代子は述べていた。
「そうなの……。安達さんはもう元気……みたいね。楽しくお喋りしているところをみると」
「はい。あれ以来『幽霊を見た』と騒ぐこともありませんし。ただ、一度見てみたいと今までは思っていたけれど、実物を見たらそんなこと言っていられない、でもまた見るかもしれないと思うと怖いとは言っていましたけれど」
「貴方は?」
「私は大丈夫です。今のところ一度も見ていないですし、他の人より落ち着いているかもしれません。皆程気分が重くなっているってこともないですし。安達さんが幽霊を見た次の日位に私にくれたお守りのお陰かもしれないです」
と言って彼女は制服のポケットから銀色の鈴と破魔矢を象ったものがついたストラップを取り出し、さくらに見せてくれた。赤と白の糸を編んで作られた紐が魔除けのお守り感をアップさせている。
「本当はカバンとか携帯につけるタイプのものなんでしょうけれど、肌身離さず持っていた方が良いと言われたので、その通り肌身離さず持っているんです」
そう言う彼女の顔は晴れ晴れとしている。魔除けのグッズを持ちながらもなおどこか暗い表情を見せている他の生徒達とは大違い。彼女は自分で言う通り、他の人程この学校に漂うものの影響を受けていないようだ。
「安達さんも同じものを持っているんです。だからきっともう大丈夫です。……と、失礼しました。それでは」
敦子はぺこりとお辞儀するとその場を立ち去った。さくらもぺこりと頭を下げると図書室の中へと入る。千代子から聞いた通り、まず貸し出されない本であろう桜村奇譚集がいつもの場所になく、その他の怪談や妖怪関連の書物も貸し出されているようだった。丁度図書委員の当番をしていた環にも話を聞いてみると、矢張りそういうものが少しでも関わる本というのはよく借りられているらしい。今まで借りられたことがあるのか微妙なものも借りられており、その度「こんな本があったのか」と驚くようだ。
そんなことを聞いている間もさくらはずっと息苦しさと胃の痛みを感じていた。背中に冷たい視線が突き刺さる。嗚呼それは気のせいか、それとも、本当に、化け物が。その考えを振り払うように頭を振る。それを考えてはいけない。だが、少しも考えず突っ走ればどうなるか分かったものではない。
さくらは環にお礼を言うと図書室を後にし、次の授業の準備を始めた。
「怪談の闇に触れるなんて怖いこと、する人がいるのかしら」
「命を捨ててまで、することじゃない」
そんな声が教科書を机から取り出すさくらの耳に聞こえる。彼等はその真意が分からない故に恐怖しているのか、分かっているからこそ恐怖しているのか。分からないが、確かに彼等は恐怖している。
でもそれ以上に怖いと思っているのは、自分だった。何故なら自分は怪談の闇に触れようとしているのだから。
(怖い、けれどこのまま放っておけない……)
膨らむ恐怖に汗を滲ませつつも、さくらは考えずにいられない。授業中もずっと色々考えていた。同じ事柄が何度も頭の中で巡る。そうして考えれば考えるほど自分に向けられる視線の鋭さや冷たさは増していく。教室中が黒い瞳でいっぱいになり、どこを見ても闇、闇、闇だ。
その闇さえもさくらの「どうにかしたい」という思いや「真相が気になる」という好奇心を抑えることは出来なかった。
気がつくとその日の授業は終わっていて、掃除の時間となっていた。今さくらの班は廊下の掃除を担当している。皆死んだような目をしながら黙々と、そしてだらだらと掃除に取り掛かっておりさくらもまた箒でゴミを掃いていた。そうしている間もさくらはこの騒動について考えていた。
(誰かが意図的にこうなるように仕向けたとすると、それは誰かしら。学校の生徒か、それともここに何らかのきっかけで住み着くようになった妖? 単純に考えて怪しいのは例えば……安達鈴鹿さん、よね。学校の歯車が狂いだしたのは、安達さんが幽霊を見たと言ったことがきっかけなのだから。ううん、それを言うなら『屋上から飛び降りる女生徒の幽霊』の噂を流した人の方が怪しいわ。学校中にあっという間に広がったというちょっと奇妙な点も気になる……榎本さんは文化祭の準備の時自分を怒らせた男子達が発信源ではないだろうか、と言っていた)
もしそれが本当なら、全ての始まりは彼等にあるということになる。悪意を持って噂を広め、学校を滅茶苦茶にし、その様子を見て楽しんでいるのだろうか。もっと恐ろしい目的があるのだろうか。それともちょっとした悪戯心のつもりが、怪談を広めた場所が歪な力の流れる土地であったがゆえにこんなおおごとになってしまった……というパターンか。
何らかの理由でこういうことをしている彼等は、たまたま昨日さくらが校内をうろついているのを見、下手に調べられて自分達のもとへ辿り着かれたら大変だと思い、次の日さくらの机に脅迫の手紙を入れつつあの怪談を皆に流したのだろうか。
(でも、彼等だとして……私の席をどうやって知ったのだろう。……朝、何気なく二年の廊下をうろついて私を探しだしたのかしら)
そもそも本当にあの怪談を初めにしたのが彼等であるという確証は無い。また、鈴鹿が仮に犯人だったとしても証拠らしいものなど何一つ無い。
(誰かが悪意をもって色々やっていることは確か……な気がする。この学校は狂うべくして狂った、そんな気が。何となくだけれど。……帰ったら弥助さんから昨夜の結果を聞かなければ。聞けばまた分かることもあるかもしれない)
学校の外なら安全だ。安心して話を聞くことが出来る。この騒動に対する危機感が薄まってしまうのは痛いが。
ひゅん。
ものすごく冷たい風を感じたのはあまりに突然のこと。さくらを思考の道から引っ張り出したその風はさくらの左頬を鋭く引っかいた。次の瞬間彼女は頬が焼けるように痛むのを感じ、思わず顔をしかめつつそちらに手をやり。
ぴちゃ。嫌な音、嫌な感触。恐る恐る離した手を見れば。そこには赤い液体。生暖かい真っ赤なそれはまるで涙のように頬を伝い、肩へぽたり、ぽたりと落ちていく。一瞬の出来事にさくらは悲鳴さえあげることが出来なかった。
その彼女の目の前に、どう見ても生徒や教師ではない存在が立っている。長くぼさぼさとした白髪、般若の面、衿の部分が赤く他は黒い色をした着物、足袋、赤い鼻緒の草履。そしてその手には黒い大鎌。
――これ以上首を突っ込むな。さもなくば大いなる災いが降り注ぐことだろう。忘れるな、お前のことは常に見ている――
――怪談の闇に触れようとする人は、化け物に殺されてしまうのですって――
朝から何度も、何度もさくらの心に闇を吹き込んでいた言葉が頭の中で暴れだす。
目の前にいる化け物がその、首を突っ込む者に『死』を与える者であることは容易に察せられる。(恐らくは)彼女から滲み出る怒りや殺意は全て、さくらだけに向けられていた。化け物は手にしていた大鎌の刃をさくらの首にぴたりとくっつけた。冷たい、怖い、痛い。首からじわりと何かが滲み出るのを感じる。それはきっと頬から流れ出ているものときっと同じだ。
周りの生徒達にこの化け物は見えていないらしい。だが、さくらの頬から血が流れていることには気づいたらしく戸惑いと恐怖に濡れた表情を見せている。しかし今のさくらの目にそれらは映らない。
『今回だけは見逃してやる。……だが、もしまた闇に触れようと色々考えたり、何かしらの行動をとったりすれば命はない』
臓器を揺らす、声。その声に冗談など一ミリも含まれてはいなかった。彼女は本当にそうするだろうとさくらは思った。命の危機をこれ程までに感じたことは初めてだ。流れる血は恐怖で凍りつきそうだ。心臓は激しく動いているのか、はたまたその動きを止めているのか。足が、手が、体全体が震える。嗚呼力が入らない、瞬きが出来ない、息が出来ない。
今までの生徒達の中に、この学校に現れる妖や幽霊に直接怪我をさせられたり、本当に呪われたりした者はいなかったはずだ。だが目の前にいる彼女は違う。彼女はさくらの頬に傷をつけた。きっと彼女にはそれ以上のことも出来る。
頬の痛みが、黒く禍々しい気に混ざった殺意が、化け物が本気であることを教える。
『忘れるな。私は見ているぞ……』
大鎌に加える力が一瞬強まり、それから弱まり。彼女は大鎌をさくらの首から離し、そして次の瞬間には消えていた。死の恐怖から解放されたさくらは体中から力が抜けるのを感じ、気がつけばその場にへなへなと座り込んでいた。
血が、血が、という女生徒の叫び声が聞こえる。大丈夫か、という声も聞こえる。だがしばらくの間さくらは周りの言葉に少しも反応することが出来なかった。ただ一人、震える体を抱きしめ、俯く。紅い雫がまるで涙のようにぽたりぽたりと落ちていった。
保健委員の人間に連れて行かれる形でさくらは保健室へと向かった。幸い怪我は思ったよりかは浅く、軽く消毒してガーゼを貼ってもらう程度の治療で済んだ。すぐに教室へ戻ったさくらは好奇の視線を浴びることとなったが、そのような視線など今のさくらは気にもせず。元より他人の視線に疎い人間であったが。ほのりはそんなさくらを心配そうに見つめていたが、帰りのSHRが終わった後も詳細を聞こうとはせずいつも通り振舞ってくれた。それがさくらにとってはありがたかった。
部室にはまだ佳花と陽菜しかいなかった。二人共さくらの頬についたガーゼを見るなり目を丸くする。
「どうかなさったんですか、臼井先輩」
「本当に……どうしたの?」
「え、いえ、別に……ちょっとドジをしてしまいまして。あの、別に大した怪我ではないんです」
二人を心配させたくないから、無理して笑顔を作る。隣にいたほのりはさくらに話を合わせ「本当、大したことないんですよ。なんていうと嘘らしく聞こえるかもしれないですがね」と言ってくれた。陽菜は「それなら良かったです。けれど痛そうですね……」と安堵の表情を浮かべたかと思えば、怪我をしたさくらを同情するような目で見つめる。
一方の佳花といえば「大したことがないならいいのだけれど……驚いてしまったわ」と何故か視線を逸らしながら言う。
それから少しして環が入ってくる。彼もまたさくらの頬を見るなりびっくりした表情を浮かべ「どうしたんですか!?」と尋ねてきた。二人に言ったのと同じようなことを言うとすんなり納得、こくこく頷く。
「臼井先輩、深沢さんレベルとはいかないまでも結構なドジっ子さんっぽいですもんねえ」
と言った結果ほのりに消しゴムをぶつけられた。先輩に向かってドジっ子とは何だ失礼な、ということだろう。勿論本気で怒っているわけではないが。
そして話は怪談騒ぎについてのことになる。その話題になった途端、さくらは怖気を感じた。しかしそれを必死に隠し、皆の話を聞く。
「……一番酷かった時に比べればましになったかなって気はしますね。授業が中断される回数もちょっと減った印象が」
「それは私も思いました。やっぱり色々な人が買っている魔除けのアクセサリーやストラップのお陰なんでしょうか」
それを買った生徒達は増えており、今日買いに行くという人も沢山いたそうだ。それは環のクラスも、佳花のクラスも同じらしい。
「いっそのことあたしも買っちゃおうかしらねえ」
「え、櫛田先輩魔除けのアクセサリーなんて胡散臭いもの信じちゃうんですか?」
「信じたくはないわ。でも、この際思い込みの力というのを利用しちゃってもいいような気がするのよね。これは効く、とても良く効くって思い込むだけで少しでも楽になれるなら真偽なんてぶっちゃけどうでもいいわ」
サク、いっそ今日の放課後一緒に買いに行く?とほのりが尋ねてきた。さくらは買うのもありかな、と思った。買って出雲に見せればそのアクセサリーに本当に魔除けの力があるのかどうかということも分かるかもしれない。といっても出雲が素直に答えてくれるとは限らないから、見せるなら弥助の方がいいだろうかと思う。
(でも弥助さん、そういうの感知するのが苦手なのよね……)
とりあえず駄目元で頼んでみよう。そうねそうしましょうとほのりの提案にのった。環は僕は買いません宣言をする。そういうものには意地でも頼りたくないようだ。それがどこまで続くかは定かではないが。
アクセサリーのことをそんな風に考えている間も、さくらはあの鬼から与えられた『死の恐怖』に蝕まれ続けていた。本当に学校の外なら安全なのか、という不安もある。そんなさくらの不安を尻目に、ほのりは近頃飽きる程聞いたため息をつく。
「はあ、さっさと落ち着かないかしらねえ。今日の集会で校長が色々話したけれど、効果無しだし。いや、最初から期待してなんていなかったけれどね?」
「誰かがやめなさい、と言ったところでどうにもなりそうにないですよね……」
「あ、そういえば美吉先輩」
環が佳花の名を呼ぶ。佳花はどうしたの、といつものように柔らかで温かい笑みを環に向ける。
「先輩、朝具合悪かったんですか? 確か今日の集会の時体育館から出ていらっしゃいましたよね。後ろで喋っている男子達の声が気になって後ろを見た時、丁度目に入ったんですが」
その言葉に佳花の表情が一瞬固まった……ように見えた。そしてそれを聞いたさくらの頭が、真っ白になる。電流に体中の骨を貫かれて。
「え、ええ……ちょっとね。でも今は大丈夫よ」
「そうですか、それなら良かったです。……そういえば美吉先輩、文化祭の後のキャンプファイヤーの時も……もしかして、人が沢山いる所が駄目だったり」
「いいえ、そういうわけではないの。得意というわけでもないけれど、人が沢山いる所にいると体調を崩しやすいというわけでも、体が弱いというわけでもないの。たまたま、よ」
そうなんですか、すみません変なことを言ってと環が佳花に頭を下げる。気にしないで、と彼女は笑うがどこかさくらにはその顔が引きつって見えた。何かを隠しているような、顔。そして彼女はどういうわけか一瞬だけさくらに視線を向けた……気がした。
まさか。その視線を感じた時、さくらの頭を『まさか』が満たす。
(美吉先輩が、集会の時に体育館を抜け出していた? まさか、その時、まさか)
疑念が生まれ、膨らんだ。それにさくらは指を突っ込み、ぱんと割る。その衝撃に震える体。
(まさか、そんなわけ。美吉先輩が私の机にあの手紙を入れたなんて馬鹿なことがあるものですか)
だが、一度割った疑念は再び生まれた。その膨らみは先程よりも大きい。集会前のやり取りを思い出したのだ。部活の時に渡せばいい本を渡す為、あまり教室を訪ねて来ることのない佳花がやって来た。
その時の彼女の言葉が再生される。
――いいえ、こちらこそ。ごめんなさいね……自分の席で読書していた時にお邪魔してしまって――
『自分の席で』読書していた時に――その言葉は今にして思えばあまりに不自然だ。自分の席で、などという言葉は必要ない。自分の席で読んでいるのが当たり前なのだから。勿論授業によっては席、あるいは教室を移動することもあるから、授業が始まる寸前に座っている席が普段生活している時に利用している席であるとは限らない。しかしあの時点では集会を挟むこともあって誰も彼も一時間目の授業のしたくなどしていなかった(元々今日の一時間目の授業は移動無しのものだ)。殆どが本来の自分の席に座っていた。勿論友達と話す為、違う場所にいた生徒もいたが読書するのにわざわざ席を移動する必要はない。そんなことは彼女も承知のはず。いやそもそも、どんなパターンがあったにせよ普通は『自分の席で』などという言葉などつける必要などないのだ。
それなら何故佳花は敢えてそのような言葉を付け加えたのか。
(……確証が欲しかったから。その席が確実に私の席であることの。自分の席じゃなかったらきっと私なら訂正すると思った。だから……)
どうしてそんな確証が欲しかったのか。思いつく答えはただ一つ。
(間違えるわけにはいかなかった。……あの手紙を入れる机を。私以外の机に入れてしまったら大変だから)
嗚呼、そんなことがあるだろうか!
あの手紙をさくらの机の中に入れたのは、佳花なのだ。
佳花がさくらを脅す為に、入れたのだ。