学校の怪談~開花への階段~(7)
*
ぽたり、ぽたり、ぽたり。天井から闇の雫が、闇に浸った床へ落ちていく音が聞こえる気がした。勿論実際にそんなものは落ちていないのだが、そんな気がしてしまうのだ。上も下も右も左も闇、闇、闇。その闇は異様に濃く、ここが人の世であることを忘れてしまいそうになる。
妖である弥助でさえ、何だか嫌な気持ちになる。呼吸する度吸い込む闇に内蔵を常時揉まれているような心地さえする。そして心を黒いもので満たし、無理矢理膨らまされている気もした。
そのせいか真っ暗闇など何でもないはずの弥助であるのに、今日ばかりはいやに心がざわつく。
「……ったく情けねえ」
ここを満たす闇にあてられちまったようだ――そう呟き、顔を歪めながら自分の頭を小突く。闇の中を一人歩くことを少しでも怖いと思うなんて、とっとと帰りたいなと思ってしまうなんて。こんなことが出雲や鈴にばれたら何を言われるか。
情けねえ、もう一度呟く。そうして声を出すことで、黒いもので膨らんでいく心を落ち着けようとする。
びちゃん。
その直後だ、背後から大量のねっとりした液体が落ちるような音が聞こえたのは。その音にぎょっとし何事だとばっと振り返る。
そこにいたのは手足の生えた巨大な血の塊。その塊の中には落ち武者らしき者の首が一つ、二つ、三つ……十はあるか。血を吐いた跡の残る口から出るのは無念を訴える呻き声。
恨めしい。弥助が進もうとしていた方向からも声が聞こえ、今度はそちらを見た。そこには着物姿の女がおり、右手に包丁を持ち左手で風呂敷包みを抱えている。髷は原型を殆ど留めていない状態で、恨みがましい目つきで弥助を睨んでいた。
「まだ生きている。殺したのに、まだ、まだ、まだ、まだ……」
人の声なのか獣の声なのか判別がつかないようなものが青ざめた唇から発せられる。途端風呂敷の結び目が解け、そして弥助はそこに包まれていたものを見た。ぼさぼさの髪、たれ気味の目――自分の顔が、見える。嗚呼、その女は確かに弥助の首を抱えている。真っ青な首、もう赤い血も出ない。
その女の背後には首にロープのようなもので絞めた跡が残っている女生徒、巨大な化け猫、兵士らしき男、病院服を身にまとっているまだ幼い少女、全身痣だらけの坊主頭の少年、鎌を手に持つ死神、大きく開けた口から青ざめた手がにゅるりと突き出ている四つん這いの女などがいた。恐らく彼等は皆この学校の生徒達が話してきた『怪談』が生み出したもの。
恨み、無念、苦しみ、悲しみ、怒り……生徒達が作り上げた思念が組み込まれた彼等はまるで『本物』に見えた。作り物でも他人に押し付けられたものでもない、本物の思いを抱いた、本物。だが彼等は確かに本物に限りなく近いように見えたが、本物である弥助にはすぐ分かった。
ああ、こいつらは作り物で紛いもので本物では決してないのだ――と。過去も、思いも性質も全て他者が作り上げたものであり、自身の手で築き上げたものではない。
彼等の体から溢れる様々な負の感情。その強さは並の人間などあっという間に押しつぶしてしまうようなもの。尋常ではないレベルだが、どこか空虚で。
しかし今彼等の体から感じる「目の前にいる男を排除しよう」という思いは作り物ではない気がした。
与えられた『恨み』や『怒り』の感情ではなく、今彼等は自分自身の考えに基づいて行動しようとしているのだ。作り物の負の感情に隠れてしまわぬ位強い敵意を感じ、弥助は身構えた。大人しくしていれば見逃してくれるということは決してないだろう。
まず、弥助の首を抱えていた女がこちらめがけて駆けてきて「今度こそ」という言葉と共に右手に持っていた包丁を振りかざす。憎き仇を見るような目。すさまじい速さであったが弥助にとってはどうということのないもので、振り下ろされた手をぐっと掴んでひねり、包丁は闇に引き寄せられるかのように落ちていった。
その手を掴んだ時、弥助は彼等が『本物』ではないことを再確認する。目の前にいる彼女は見た目『幽霊』であるのに、妖力を一切込めていない手でその手を掴むことが出来たから。霊体に触れたり、ダメージを与えたりするには妖力もしくは霊力をこめる必要がある。それを全くしないでも掴めたのだから目の前にいる女は幽霊ではない。幽霊もどきなのだ。
理由はそれだけでない。彼女の手を掴んだ時あることを感じたのだ。
(こいつは霊体でもない……幻でもない……だがちゃんとした肉体があるってわけでもねえ)
暴れる女の手を離し、それからその腹に拳を食らわせる。相手が作り物である為か罪悪感はあまり感じなかった。拳を当てた瞬間腹から、黒い電流のようなものが迸る。それのもつおぞましいと感じる程強い負の感情や禍々しさにしかめ面。女はまともな攻撃を食らいそのまま吹っ飛んでいった。
間髪いれず襲いかかってきたのは歯が人とは思えない位尖っている男。そちらは回し蹴りで対応した。
足が彼の体に当たった瞬間気が狂いそうなエネルギーが体内へ流れ込む。またかなりの抵抗力を感じたが、力技で押しきり吹き飛ばし。吹っ飛んた男は別の妖怪だか幽霊だかに直撃、二人して倒れた。四つん這いの状態のまま突っ込んできた、包丁を口にくわえている女の頭を踏みつけ、落ち武者の首のついた血の塊を掴んで投げ飛ばして向かってくる者の動きを抑制し、天井から降ってきた女の首を避ける。その女は三十センチ程の舌をもっていて、しかもそれはナイフのように鋭く尖っていた。もし当たっていたら怪我していたところだろう。
(こいつらは……ただのエネルギーの塊だ。どす黒いエネルギーと負の感情が混ざったものがここに通っている生徒達の『怪談』に基づいた形をとっているだけ。だから幻なんかじゃねえが、実体があるともいえない)
痣だらけの少年が手に持っていたカッターで弥助を襲う。他の『幽霊』の対処に気をとられていたがゆえに腕を切りつけられた。しかめっ面になるような痛みが襲い、血がじわりと滲む。
「痛えじゃねえか……こんにゃろう!」
少年からカッターを奪い、眉間にその刃を突き刺した。こんな乱暴な真似は滅多にしないが、相手がエネルギーの塊であるなら容赦はしない。カッターを突き刺した眉間から血は出てこず、代わりに息苦しくなる程強力で凶悪な暗黒のエネルギーが溢れだし、それをもろに喰らった弥助の体を冷やし、肝を冷やし、首を絞める。
(くっそ、さくらは学校に現れる『幽霊』や『妖』に直接怪我させられた奴はいないと言っていたのに。さくらが知らないだけ、もしくは覚えていないだけで本当は怪我させられた奴もいたのか? それとも生徒達相手には脅かし程度で済ませているが、妖であるあっしには遠慮はしないってか!)
妖である自分に真相を暴かれることを嫌がっているのだろう。彼等は弥助をここから排除するまで戦うつもりだ。結果的に弥助が死ぬことになっても構わないと思っている。そういう作り物ではない本物の『思い』が嫌になる位伝わってきた。
だがただのエネルギーの塊にそのような『意思』が存在することなど有り得るだろうか、いや、有り得ない。ならばこれはただのエネルギーの塊ではないのだろう。その辺りのことを色々考えたいのは山々だったが、生憎そのような暇はない。
突き、蹴り、殴り、奪い、刺し、斬り、払い……あらゆる手を使い、彼等を退けるがこのままでは埒が明かない。何せ彼等はエネルギーの塊、蹴っても殴ってもまともなダメージなど与えられない。弥助如きの妖力ではこのエネルギーの塊を消滅させることだって出来ない。強力な力をぶつけたり浄化の力で消し去ったりしない限り、無理だ。出雲や速水ならそれが出来るだろうが……。倒れても、倒れても彼等はすぐまた起き上がる。こちらが与えた傷もすぐ再生される。
嗚呼また一人、二人と増えていく。減りはしないが、増えていく。増えていくだけで消えやしない!
「くっそ!」
自分に飛びかかってきた血だらけのセーラー服を身にまとった少女の顔面に拳をいれつつ叫んだ。どこへ行っても彼等は現れる。次から次へと。校舎の窓を割ったり、壁を壊さないように注意しながら戦うのはなかなか骨だった。また彼等を吹き飛ばしたり、その動きを少しの間でも止めたりするにはそれなりの力が必要だった。エネルギーの持つ抵抗力は強く、すんなりと蹴りや拳が入っていかない。それでも無理矢理どうにかしようとして、力を入れてしまう。だから普段以上に疲れた。
「ああしかもくそ痛え! 全く、これ程度のものならすぐ治るとはいえ……いい加減にしろよな!」
向こうは傷を負わないが、こちらは負う。肉体を持つ以上それを傷つけられれば痛むし、血も出る。最初の内は殆ど攻撃を喰らうこともなかったが、相手の数が増えるに従い攻撃が避けきれなくなってきていた。いずれちょっと寝た位ではとてもじゃないが回復出来ないような傷を負わされるかもしれない。そうして痛いと怒鳴っている間に背後から頭をがつんと殴られる。自分にしがみつく者達を乱暴に振り払った後、自分を殴った不届き者を殴ってやる。嗚呼腕が熱い、いや痛い。見ればそこには彫刻刀が突き刺さっている。これもまたエネルギーの塊であろうが、威力は本物の彫刻刀と何ら変わらない。これを刺したらしい三つ編みの少女は「私と同じ目に遭えば良い」そう言ってけたけたと笑っている。弥助はそれを腕から抜くと、彼女の首に思いっきり刺してやる。いや、戻してやる。この彫刻刀は元々この少女の首に刺さっていたものだから。
段々と押されてきている。きっとこの場から逃げても、無駄だ。校内にいる限りは彼等に襲われ続けるだろう。
これ以上いてもどうにもならない。そう思った時、上の階から物音が聞こえた。かなり大きな音であった。一回だけではない。何回も、何回も聞こえる。もしかしたらずっと前――弥助が襲われた頃からその音はしていたのかもしれない。今になって気づいた、というだけで。物騒な物音はなおも聞こえる。
(まさか、誰かいるのか!? 人間ってことはない、はずっすが)
しかし万が一人間だったとしたらかなり不味い。念の為、と上の階を目指そうとしたところで速水が現れた。こんなに早く迎えに来るとは思わなかったからぎょっとする。
「あんたの力じゃどうにもならないよ。とりあえず今日の所は退散しよう。あんただってこんな所で死にたくはないだろう?」
「退散するのは賛成だが、でも上に誰かが」
「大丈夫! 上にいるのはあんたの同類だよ。直彼等も退散するだろうさ、救いようのない馬鹿じゃなければね」
あっしと同じようにこの学校のことを色々調べている奴なのか、と尋ねる前に速水は弥助を桜山の前まで移動させ、そしてさっさと退散してしまった。ご丁寧に体中についた傷を治してから。
あのとても嫌な空気はここにはない。澄み切った冬の、冷たいながらも清浄で心地よい空気が弥助の体を撫でる。吐き気がする程強い負の感情、それらに押しつぶされていた体は解放され、すっきりする。
色々なものから解放された弥助はほっと安堵の息を漏らしたのだった。
*
「……出て行った」
弥助達が出て行ったのを見届けた少女がふうと息を吐く。そして再び校舎には永遠にも思われるような絶対的な静寂が戻った。
「あっちの大男、すごいなあ。ほぼ腕力と脚力だけで戦っていたよ。彼等をあんなにぽんぽん吹っ飛ばしたり、彼等の体にあんなに深々と刃を突き刺したり出来る人にはなかなかお目にかかれない。妖力なんて多分殆ど使っていなかったんじゃないかなあ、何あの人化け物?」
「化け物でしょう。少なくとも人間ではない。……まあ何にせよ色々調べられてしまう前に追い出せて良かった。まあ、彼等も諦めてはいないでしょうからまた来るかもしれませんが……何度でも返り討ちにしてやりましょう。こういうことの為に折角のエネルギーを消費してしまうのは勿体無いですが」
「でもさあ、姫様。ぶっちゃけ手を出さない方が良かったんじゃないですか?」
男は両手を頭の後ろにやりつつ、満足げに微笑んでいる少女に言った。どういうことです、と少女はむっとしながら男の方を見る。
「何もしなけりゃ彼等は何の手がかりも得ることのないまま帰ることになったでしょう。この学校に漂う空気の悪さは感じ取れていても、ここで育っている『あれ』には気づいていない様子でしたし。入った時点で気がつかなければ、どれだけ一生懸命歩き回っても何も見つけることは出来なかったはずだ。でも姫様の呼びかけに答えて動きだした『あれ』が行動を起こしたことで、彼等は『あれ』が溜め込んでいたええと『えねるぎい』でしたっけ? あれに直に触れることになった。空気中に漂っているものとは訳が違いますから、それをきっかけに色々気づいちゃったかもしれませんねえ。ああ下手すると匂いも嗅ぎとってしまったかもしれない。嗅ぎとってはいなくても体に匂いが染みついてしまったかもしれない。もし彼等の仲間の中にあの匂いを嗅ぎとれるのがいたら」
不味いんじゃないですかね、と男は妙ににやにやしながら首を傾げる。呆然としている少女、それを見て男はますます楽しそうに喋るのだった。
「それに、これで学校に現れる『幽霊』や『妖怪』が本物でも、幻でも、かといってこの土地に流れているらしい歪な力から生まれたものというわけでもないことがバレてしまったわけで。あれが何かのえねるぎいの塊であることには気づいてしまったでしょうねえ! そういえばさっきあの爺様、瓶か何かにあのえねるぎいを少し入れていたような」
それをぽかんとしながら聞いていた少女はふつふつと少しずつ湧いてきたらしい感情に身を震わせ、やがて男の脛を思いっきり蹴り、胸を叩き。
「どうしてそういうことをもっと早く言わないのですか! 分かっていたなら言いなさい、分かっていたなら! お前はどうして……そう……お前は今回のことが成功するのと失敗するのどちらを望んでいるのですか!」
「いたいたいた、いや全然痛くないけれど、ああ痛い! 今のは本当に痛かった……そんなところ蹴らないでよ、痛い痛い! ええ、そりゃあ勿論君が成体になることを願っていますよ、そうすりゃ色々安心ですし僕達の力も強まりますし?」
「なら私が、何か間違ったことをしそうになったら、助言なさい! 余計なことばっかり言っているくせにどうして肝心な時には……!」
「いやあ、君が余計なことをしたり、油断してヘマやらかしたりする姿が可愛くて面白くて仕方がないものだから」
また余計なことを言ったが為に男はみぞおちにパンチを喰らう羽目になる。緊張感がない、と白い着物の少女は頭を抱える。今回がラストチャンスであるというのにどうしてこうも呑気でいられるのか。まだ男をぽかぽか叩いていた少女は急に「あっ」というをあげたかと思うと男の体に倒れこむ。へらへらしていた男は真顔になり、華奢な少女の体を抱きとめた。顔色は青ざめていて先程までの元気な様子は今どこにもない。
「姫様、大丈夫ですか」
「大事ありません……」
その声も弱々しく、すぐ近くにいた男にさえ殆ど聞き取れないものだ。男の背に手を回し、ぎゅっと手で着物を掴む。息も荒く、目もろくに開けていられない様子だった。
「何としてでも……私は。誰にも邪魔はさせない……させるものか」
もう大丈夫、と少女は男から離れる。どう見ても大丈夫ではなかったが言ったところで素直に休む少女ではない。むしろ色々言えば言う程意地を張ってしまうのだ。白い着物の少女は大丈夫か、とはらはらした様子で自身の主の姿を見ている。しかしどれだけ心配でも彼女にはどうすることも出来ない。
「……お前が以前見た例の男は『あれ』の収穫が間近であることに気がついているでしょうか」
「どうだか。そもそも彼が今僕達のやっていることについてどれ程の興味を抱いているかも分からないからなあ。『あれ』を横取りしようと狙っているか、邪魔することなく放っておくつもりなのか、高みの見物をして楽しむつもりなのか。……横取りしたいとか、高みの見物をしたいというならこの学校の様子を調べるだろうねえ。彼、この学校に仲の良い子がいるみたいだし。この前教えてあげた子だ……元々君、顔見知りだったんだよね彼女とは。彼女、今日の夕方校舎をうろついていたんだってね? 挙句お化けと遭遇して散々な目にあった」
「……ええ」
「彼女を使って例の男は色々調べているのかもしれない。……彼は関係なく、個人的な興味でうろついているってことも有り得るけれど。彼女自体はぱっと見驚異には感じないんだよねえ、これといった力もなさそうだし。力を隠している……って印象もない。危険を顧みないただのお馬鹿さんの可能性がうんと高い。けれど、あの男の人と知り合いってだけで怪しく見える」
「首を突っ込み、色々調べ回り、最終的に私へとたどり着いてしまう……ということもないとはいいきれませんね。何らかの策を講じるべきでしょうか」
どうだろう、と男。あごの辺りをさすりながら色々考えている様子だ。
「ま、大人しくしてもらうことにこしたことはないんじゃないかなあ。もうちょっと危ない目に遭わせてやってさあ」
「そう……ですね」
私達の計画に首を突っ込もうとする者は誰であろうと見逃しはしない。それが例え無力な人間の少女だったとしても。少女は校舎から溢れるものを吸い込み、そして幸せそうに笑うのだった。
訪れぬはずだった未来が、嗚呼、もう間近まで来ている。
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(弥助さん……何か掴んだかしら)
寝る時も起きてからも、学校へ行く間も教室に入ってからもずっとそのことをさくらは考えていた。
天気は晴れ、雲一つないアイスブルーの空。しかし相変わらず学校の中はどんよりとしていてただ寒く、天井は見えないどす黒い雲で覆われているのではないかと思われる程だ。教室に入る前、窓に目を向けた男子生徒が悲鳴をあげ、尻餅をついた現場に遭遇した。それを見た女子数名が泣きだし、それを宥めていた女生徒が何気なく天井に目をやった途端悲鳴をあげ宥めるどころではなくなってしまう。もう飽きる程見た光景なのに、未だ慣れない。その姿を見る度体内をぐちゃぐちゃにかき乱され、それによって生まれたあらゆる感情を悲鳴という形で外へ出したくなる。
今日は朝、全校集会がある。恐らく今の騒ぎについて校長は言及することだろう。しかし彼が色々言ったところで何も変わりはしまい。
集中出来ないことは分かっていながらさくらは本を開く。文字は歪み、ぼやけ、頭に少しも入ってこない。本が読めない学校生活程寂しいものはない。早くどうにかしたいと思うものの、自分の力ではどうにも出来ない。昨日の放課後の出来事を学校に来た途端思い出し、幾度となく震わせる体。
そのさくらに、誰かが話しかけてきた。何度目かの問いかけで気づいたさくらが顔を上げると、クラスの女子が立っている。名前はぱっと出てこない。
「臼井さん。……先輩が呼んでいるよ」
彼女が指さした先――ドアの前に佳花が立っていた。彼女は柔らかい笑みを浮かべぺこりと頭を下げる。
美吉先輩、どうしたんだろう。彼女が教室まで訪ねて来ることなどあまり無いことだったからさくらは驚きつつ、急いで立ち上りドアまで行く。
「どうしたんですか、先輩」
「臼井さんにこの前貸すといった本、あったでしょう? あれを今日持ってきたの。部活の時でもいいかなと思ったのだけれど……少しでも早く読みたいかなと思い直して」
もっとも今の状態じゃまともに本なんて読めないかもしれないけれど、と寂しげに言いつつ佳花は一冊の本を手渡した。確かにそれはさくらが読みたいと思っていた本で、佳花が近い内に持ってくると言っていたものだった。こんな時でなければ喜び、ぴょんぴょん飛びながら嬉々として読み始めたことだろうが、佳花の言う通り今の状態では教室でまともに読書をすることなど出来ない。結局家に帰ってから読むことになりそうだ。その本を受け取り、さくらは笑顔でお礼を言う。
「ずっと読みたいと思っていたんです。わざわざありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。ごめんなさいね……自分の席で読書していた時にお邪魔してしまって」
「とんでもないです! 本当にありがとうございます。後で早速読みますね」
「そう。それじゃあ読み終わったら返してね。急ぐ必要はないからゆっくり自分のペースで呼んでちょうだい。また部活で会いましょう」
「はい!」
手を振り彼女と別れてからすぐ、集会が行われる体育館へ向かう時間になった。皆ぞろぞろとろとろ廊下を歩き、体育館へ。誰もかれも覇気がなく、足取りの重さは尋常ではないもの。嗚呼、まるで死者の或いはゾンビの行列のようだとさくらは思った。誰だってそう思う位の光景が目の前に広がっていた。
体育館に入ると皆息を吹き返したようになる。怪談の存在しないこの場はまだ過ごしやすい場所といえよう。それでもいつも程の元気があるわけではなかったが。
(体育館には怪談が存在せず、他の場所には存在する。そのせいかどうかは分からないけれど、皆体育館にいる時は普段通りに近い状態になる。……どうしてここには怪談が存在しないのだろう。ここと他の場所に何の違いがあるのだろう)
浮かびそうで、浮かばない。一連の騒動の強烈さがとても大事なことを無理矢理押さえつけ浮上するのを阻害しているようだ。
案の定集会の内容は怪談騒ぎのことについてが主であった。校長は一生懸命話しているが、それが功を奏するとは矢張り思えないし、恐らく本人もそのことを自覚しているのだろう。元々生徒達は校長の話などまともに聞かないし、聞いたところで素直に「分かりました、そうしましょう」とは言わないものである。適当に流し、そしてあっという間に忘れてしまう。普段でさえそうなのだ。校長の話より、最近出没したらしい露天商から買う魔除けのアクセサリーの方が余程事態を収束させる力を持っているような気がする。
集会が終わり、体育館から外へ出ると皆また死人へと戻っていく。夜墓場で運動会やら宴会をして大騒ぎしていた死人達が朝になった途端墓の下に戻り、活動をやめる……そんなことをつい想像してしまった。
教室に戻ったさくらは一時間目の授業の支度をしようと机の中に手を突っ込む。
「……あら?」
手に教科書ではない何かが触れ、首を傾げる。一番上に置かれていたそれを引っ張り出してみれば、それは白い封筒だった。その封筒にはまるで見覚えがなく、少なくとも集会が始まる前までは無いものだった。
(誰かが集会の最中か、移動中どさくさに紛れて机の中に入れたのかしら。……それとも私より先に教室へ戻ってきた人が?)
それにしても一体なんだろうか。誰かが間違えて自分の机に入れてしまったものなのだろうか。もしそうだったら申し訳ないなと思いつつ、封筒を開ける。封筒の中には一枚の紙が入っていた。封筒同様、これといった特徴はない。綺麗に折りたたまれているそれはどうやら手紙であるらしい。
とりあえず読んでみよう。そうすれば自分宛てのものか、間違えて入れられたものか分かるかもしれない。
割と軽い気持ちでさくらは手紙を開き、そしてそこに書かれた文面を見た途端凍りついた。
『これ以上首を突っ込むな。さもなくば大いなる災いが降り注ぐことだろう。忘れるな、お前のことは常に見ている』




