学校の怪談~開花への階段~(6)
*
いつも以上に機嫌が悪い様子の鈴に案内されて出雲の部屋へ行けば、そこには出雲だけでなく弥助もいた。成程鈴は弥助のことがあまり好きではない。だから普段よりも更に機嫌がよろしくなかったのだろう。二人共鈴に負けず劣らずむすっとしている。そのせいかさくら好みの部屋の中はどんよりぴりぴりした空気が漂っている。それにしても出雲のことを大層嫌っている弥助が何故ここにいるのか……疑問と驚きに首を傾げるとむすっとしている弥助が出雲を親指でくいっと指しつつ口を開いた。
「何であっしがこいつの家に来ているのか不思議だって顔っすね。へん、あっしだって本当は来るつもりはなかったんだ。ただ、朝比奈さんが……」
弥助は左手に提げている紙袋に視線を移す。そこから仄かに匂う甘い香り。
「色々な人……まあ殆どがあっしら妖なんすが――の為にクッキーを焼いてくれたんだ。昨日受け取ってそれをあっしが朝比奈さんの代わりに渡すことになったんだが……その渡す相手の中にこいつが含まれていたんだ。出雲さんにも渡してくださいってさ。……あっしとしてはこいつなんかに朝比奈さん手作りクッキーを渡したくはないっすが、しかし渡してくださいと言われたからな、それを無視するわけにもいかんから」
仕方なく渡しに来たらしい。満月は弥助と出雲の仲が相当悪いことをあまり理解していないようだ。確かに二人が言い争う姿は傍から見ると『喧嘩するほど仲が良い』という風に映るが実際のところは仲などちっとも良くない。あんまりお互い相手を嫌いすぎていているせいか一周回って見た目そこまで悪いように見えないのだ……と喫茶店によく遊びに来る小雪が教えてくれた。
突き抜けるところまで突き抜けると、嫌いとか好きとかそういう感情も『無』に近いものになってしまうのだろう。逆に。
「私もこの馬鹿狸が作ったものだったら割り箸か何かでつまんでそのままドブに放り、その後割り箸も捨ててやるがね。満月が作ったものだったら喜んで貰って食べてやる」
「馴れ馴れしく朝比奈さんを名前呼びすんな! 朝比奈さんが汚れる!」
「はん、好きだ好きだと言っておきながらいつになっても告白も出来ず、名前で呼ぶことも出来ず、後にも先にも進めずうだうだしているヘタレ男が偉そうに」
「誰がヘタレだ、誰が!」
「出雲……弥助はヘタレじゃない。ヘタレ以下の存在……」
「おや、良いことを言うねえ鈴は。確かにそうだねえ、こいつはヘタレ以下だ。こいつをヘタレ扱いするなんて、世のヘタレ共に失礼だねえ」
「ヘタレ以下とかヘタレに失礼とか訳が分からんわ!」
顔を真っ赤にして怒る弥助は手に持っていた紙袋を投げようとしたが、その中には満月が心を込めて作ったクッキーが入っていることを思い出したのか、すんでのところで思いとどまった。出雲は自分のところにとてとてとやって来た鈴の頭を撫でながらにこにこ、いやにやにやしている。弥助の来訪によって生じたストレスを、弥助をけなすことで解消したようだ。
彼はまだぎゃあぎゃあ喚いている弥助を無視し、三人のコントのようなやり取りを見ていたさくらへ目を向け、首を傾げる。その姿の妖しさはまこと筆舌し難いものである。妖し美しおそろし。彼を目の前にすると放課後に抱いた恐怖などまやかしであったような気さえする。
「それで? 君はどうしてここへ?」
「あ、あの……その。実は最近東雲高校で怪談が流行っていまして」
「怪談が?」
出雲の眉がぴくりと動く。何の反応も示さないのでは、と思っていたので意外であった。
「はい。中には怪談で聞いた通りの幽霊や妖を見たと言って騒ぐ人もいまして……」
中には、というより生徒の大半が何かしら見ているのだが。
それからさくらは更に詳しく語って聞かせた。弥助も大人しくなり彼女の話に黙って耳を傾ける。とりあえず自分が今日の放課後幽霊を見るくだりまで話したが、どうにも要領を得ない話し方になってしまう。話しながら「もっと切実に訴えなくては」と思うのだが、その思いと裏腹に自身の語り口は妙に軽く、学校がどれだけ危険な状態か十分の一も伝えられないものだった。声にのせるだけの思いがないから、結局薄っぺらくいまいち重みの感じられないことしか言えないのだ。学校の中で語っていればまた違っただろうが……。
出雲は頬杖をつきながらそれを聞いていた。きっと「そんなくだらないことを言いに来たのかい?」と言うだろうなとさくらは思っていた。そう思われても仕方ない、自分でもそう思う位話の内容がぺらっぺらで危機感というものもない。
ところが出雲はそうは言わず、それどころか微かに笑んですらいた。
「成程……それで……ついに」
「あ、あの?」
「ん? 何でもないよ」
「いや、明らかに何かぶつぶつ呟いていただろう」
もしかしてお前何か知っているんじゃないか、と弥助。しかし出雲は何も知らないよと言うだけ。さくらから見ても出雲は今回の騒動について知っているように見えたが、ここにいる面子が問い質したところで彼が答えるはずもないのでそれ以上は何も聞かなかった。弥助もそれ以上追求はせず、代わりに頭をかく。
「しかし怪談かあ……ここらの土地であんまりそういうのってやらん方がいいんだよなあ」
「え、そうなんですか?」
「この辺りの土地は歪んだ力が流れているし、あちらとこちらの境界が曖昧になりやすいというか常時曖昧というか……。そういう所で人ならざる者の話を集中的にしていると、そういう話が、話す人間の思いが土地に作用し、曖昧な境界から人ならざる者を呼び寄せてしまうんだ。まあ何もこういう土地に限ったことじゃないんだが、ここらは特にそうなりやすい。怖いなあって気持ちが土地に流れる力と合わさって異形の存在を作りあげることもあるらしいっすよ」
それは知らなかった。もしかしたら自分達が見たものは皆の思いが土地の力に作用して生まれたものなのかもしれない。
「まあ直接現場を見てみないことには分からんがなあ、お前らが見たっていう幽霊とかが本物なのか、生み出されたものなのか、ただの幻なのかは」
「そうだねえ。……さくらはそれを知りたいの?」
「はい。けれどそれだけじゃなくて……」
色々出雲に伝えたい、そしてそれらについて出来れば調べてもらいたい。そう言いたいのに上手く言えない。千代子と話したこと、毎日の学校の様子など詳しく話せば良いのに言葉が出てこない。東雲高校で起きた諸々のことが夢に思えてならなかった。夢など目が覚めれば忘れてしまう。忘れてしまうから詳細に語ることが難しい。
はっきりしない娘だねえ、などと出雲は言っているがそれ程機嫌を損ねてはいないようだ。まるでさくらがどうしてこんなに要領を得ない話し方をしているのか理解しているかのように。
「この様子だと、君から話を聞くよりも実際に学校へ行って調べた方が早そうだ。おい、ドブ狸」
「誰がドブ狸だ、この性格どブス狐!」
またもや紙袋を投げようとするのを慌てて止めてやる。そうやってすぐ暴力に訴えようとする、低脳狸と鈴が呟くものだから弥助の顔はますます赤くなったがギリギリのところで踏みとどまった。
「夜辺りに学校へ忍び込んで色々様子を見て来い」
へ? とさくらと弥助二人の声がぴったりと揃う。何故そんな流れになったのか全く理解できなかった。当然弥助はすぐさま抗議する。
「何であっしが! お前が頼まれたんだから、お前がやればいい話じゃないっすか!」
「だって面倒くさいもの」
いっそ清々しくなる程の即答っぷりだ。確かに面倒事を嫌う出雲にとって夜わざわざ学校に忍び込み、探索する等やりたくないだろう。やりたくないことは絶対にやらない、それが出雲だ。
「使えるものは何だって使うのが私の信条だ。お前だって気にならないわけではないだろう?」
「そりゃそうだが、あっしは妖気やら霊気やらを察知するのが苦手だからなあ」
「それでも学校の状態が異常かそうでないか位は幾らなんでも分かるだろう? 詳しいことを調べる必要なんてないよ、適当に回って適当に調べて適当に報告しておしまい。それでいいじゃないか」
「依頼している人間の前でそういうことを言うなよな……」
と弥助は呆れ気味だ。しかしこの様子だと出雲の頼み(というか命令)を断ることはないだろう。彼に指図されることは気に食わないが、怪談が流行っているせいで困っているというさくらを放ってはおけないはずだ。
「断ってごらんよ、そしたらどうせこの娘『それなら自分でどうにかして詳しく調べる!』とか言いだして無茶をしかねない。それでも良いのかい?」
トドメの一撃。この言葉はさくらの胸にもぐさりと突き刺さる。実際今日の放課後彼女は学校の中をわざわざうろつき、怖い目にあった。そんな彼女にとってはかなり痛い言葉。弥助もそう言われて「仕方ねえなあ」と頭をかく。てめえの頼みだから聞くってわけじゃねえぞ、勘違いするなよなと出雲を指差して付け加え。そんなこと言われなくても分かっているよ、私はお前と違って馬鹿ではないからねと出雲。
調べる気になったらしい弥助だが、しばらくして「あっ」と声をあげる。
「どうかしたの?」
「いや、別に調べるのは構わないっすが……学校にどうやって入るっすか? 生徒や教師がいなくなった後に入るとすると……当然校舎には鍵がかかっているよな?」
あ、そういえば。弥助に言われて気がついたさくらは口元に手をやった。
「あっしは窓とかドアとかすり抜けることなんざ出来ないっすよ? 幽霊じゃねえんだから」
「私にだってそんな芸当は出来ないよ。……窓ガラスを割るなりなんなりして侵入すればいいだろう。警備員などが来たとしても、闇の中でならある程度お前だって気配を消せるだろう?」
「窓ガラスを割るなんてそんなこと出来るか! てめえはあっしを犯罪者にする気か!」
「お前は私の穏やかな気持ちをぐちゃぐちゃにかき乱し、大変不快な気持ちにさせるという犯罪を犯している。ゆえにお前はすでに犯罪者だ。だからこれ以上罪を犯しても全く問題はない。……というかお前は腐っても妖だろう? 人の世界の法に縛られる必要はないじゃあないか」
「何て滅茶苦茶な!」
と頭を抱え。しかし本当にどうしましょう、とさくらは二人の漫才に耳を傾けながらも考える。当然さくらは鍵を持っていないし、実は校舎のどこかの鍵が壊れていて出入りが自由になっているという話も聞いたことがない。かといって弥助に罪を犯させるわけにもいかない。
はて、何か良い考えはないものか?
「それじゃあ数時間以内に瞬間移動の術を会得してそれでどうにかしろ」
「出来るか阿呆!」
(瞬間移動……あ)
その言葉を聞いた時、ある人物の顔が思い浮かんだ。一度しか顔を見たことがないし自分とは大した接点もない者だがもしかしたら協力をお願いできるかもしれない。
さくらはそのことを二人に伝え、それから秋太郎の家へ。そして夕飯を食べる前に紗久羅に電話をかけるのだった。
*
「本当に一瞬っすねえ……お見事」
弥助は闇に浸かった東雲高校北校舎一階、昇降口近くに立っていた。勿論窓ガラス等は割っていないし、鍵のかかっていない場所があったわけでもない。彼はつい数秒前まで桜山の前にいたが、ある人物の力を借りて校舎内へと瞬間移動したのだった。
弥助をここまで連れてきてくれた人物は胸を張り、どれだけ濃い闇も一瞬で吹き飛ばすような眩く、そして幼さのある笑みを浮かべていた。栗色のセーターにジーンズ姿の少年は見た目十五歳位で、天真爛漫でやんちゃで人懐っこい男の子といった印象だ。しかしそんな彼は人間ではない。人間じゃないからこそ瞬間移動などという離れ業をいとも容易にやってのけるのだ。
「こんな所に入る位おちゃのこさいさいさ。……それじゃあ俺はこれで。適当な時間になったらまた迎えにきてやるよ」
といって弥助に手を振る。この少年、名前は速水というらしい。紗久羅の友人である柚季という少女の家に住み着いているらしく、彼女を助けたりからかって遊んだりして過ごしているようだ。
柚季宅で行われたクリスマスパーティに参加した際初めて会った(柚季もその日初めて会ったそうだ)彼のことを思い出したさくらが紗久羅に連絡し、紗久羅から柚季へと連絡がいき、それでもって柚季がかれに頼んで。そのお陰で弥助は窓ガラスを割ることなく校舎に入ることに成功したのだった。まあ不法侵入であることに変わりはないのだが、この際そんなところまで気にしてはいられない。
「ありがとうよ。ところでお前さんはこの学校に起きている異変の正体とか、何となく分かるか?」
戻ろうとしていた速水を引き止める。速水はにかっと笑う。その笑みを見る限りある程度のことは把握出来ているようだが、それを弥助に教えるつもりはないようだ。
「俺超すごいからね。大抵の空間になら簡単に入り込めるし、そこらの妖とか一発で倒せちゃうし。一般的に俺みたいなのってチートって言われるんだよね?」
「一般的ではないだろうが、まあそう呼ばれるような存在だろうなあ、お前さんは」
「ふふん、反則級の強さだもんねえ俺の力って! そんな俺だから、ここで起きていることは何となく分かったよ。でも教えてやらない。何でもかんでも教えちゃったらつまらないじゃん? まあ、どうしようもない状態になったら助けてやるよ」
「ってことはまだお前さんがどうにかしようと思うほど酷い状況にはなっていないってことっすね?」
速水はただにしし、と笑うだけだ。まあ出雲と違って最悪の状況をわざわざ生みだしてゲラゲラ笑うような性格には見えないから、実際そこまで酷い状態ではないのだろうと解釈する。ただ、わざわざ『どうしようもない状態になったら』と言っているところをみると、このまま何の対策もとらずに放っておくと酷いことになりかねない――という状態ではあるようだ。という弥助の考えもしっかり見抜いているらしい。
「ちゃっちゃと原因を見つけてどうにかした方が良いってことは否定しないよ。まあでもあんたには……無理だろうなあ! さて、今度こそ俺は行くよ。あんまり柚季の家を放っておくわけにもいかないからさ」
と言うや否や弥助の返事も聞かずにその場から去っていった。ごたごたどたばたには必要以上に干渉せず、むしろ間近で笑いながら鑑賞する方が好きだと自己紹介の際に述べていただけのことはある。答えが分かっているなら教えてくれてもいいのにと思ってしまうが仕方あるまい。
気を取り直して。改めて弥助は校舎を見やる。夜の水底に沈む校舎は暗く、また異様に冷たく体を少し動かす度顔をしかめる。その冷たさが気温に由来するものでないことは流石の弥助にも理解出来た。闇に混ざる空気は澱んでいる――否、歪んでいる。
こりゃあ酷いな……その思いが思わず口からぽろりと出る。こんな冷たくて重くてどんよりしていて、体にねっとりと絡みつく嫌な空気の中で生活していれば誰だって心身共に疲れるだろう。ましてやこういうものに耐性のない人間なら尚更だ。
異常、明らかに異常だった。何かがこの学校をこれ程までに異質なものへと変えてしまったのだ。
さくらはちょっと困っているという程度のニュアンスで話していたが、実際はちょっとどころではないいのではと思う。これだけ酷いもので満ちているのだ、小さなトラブルだけで済んでいるわけがない。
今日のさくらの話は妙にぼんやりしているというか、はっきりとしないというか――そんな印象を受けた。これを伝えたい、これを伝えなければいけないんだというポイントが存在せず正直彼女がどれだけ困っているのか、何を聞き、どうしてもらいたいと思っているのかいまいち分からなかった。浮かない顔をしながら話しているくせに、肝心の中身はぺらぺらというか。自分自身何を話したいのか分かっていないというきらいもあった。
だから実際に校舎を訪れるまで東雲高校で起きているという怪談騒ぎが大きなものなのか、それともちょっと変だな程度のものなのか分からなかった。
こうして来て見ると何となく分かる。恐らく東雲高校で起きている怪談騒ぎは大変なものであると。
それにしても、と弥助は顔をしかめる。こいつは酷いなと改めて思いを口にして。
(怪談や、怪談が生み出した負の心がこの辺りの土地に流れる力に作用してこんなことになったのか? いや)
何か違う気がする、そう思った。この学校を侵すものにその力は含まれていない気がしたのだ。歪んでいて、禍々しいものであることに変わりはないが土地に流れる力とは別物の気がしてならない。そういう力を感じ取る能力が残念である為確証はなかったが。
不吉さを感じる位静かな校舎の中をゆっくり歩きながら思考を巡らせる。こつ、こつ、こつという足音が闇を叩く。闇は冷たく硬い金属、叩けばきいんと響く音を鳴らす。
(さくら曰く、この学校に姿を現す幽霊やら妖達が生徒達に直接危害を加えることはないんだったな。……土地の力が生み出す者達は平気で危害を加える。怪我をさせることもあれば、人を死に至らしめることもある。歪んだ力から生まれでた禍つ者だからな)
何十人もの生徒が一堂に会する教室に現れても、その姿を見るのは一人二人であるという点も気になる。それぞれの持つ耐性やら自分の世界を守ろうとする力の強弱などもあるから半分の人は見るけれど、半分の人は見ないという程度なら納得は出来る。だがたった一人だけが見て後の人は見ない、というのは少しおかしい気もした。
(『向こう』が意図的にそうしているのか? 限られた人の前にだけ見えるようにするとか……そんなことをする意味が分からんが。その辺りも気になるが、やっぱりこの学校に漂っているものの正体も気になる)
もし土地の力とは関係ないとしたら、誰かがこの物騒なものを発生させたということになる。妖か、或いは黒魔術とかそういう怪しいものに傾倒した人間が何かやらかしたか。どの道善意でやったということはないだろう。明確な悪意を持ってこの学校に妙なものを発生させ、学校を闇に包み込んだ。
(あの坊主はあっしに『多分あんたには無理だろう』と言っていた。それはあっしがこういうのを察知するのが苦手だってことを瞬時に理解したからか? それともここに来た時点で気づかなくてはいけないことに気づいていなかったからか? 気づくべきことに気がついていなかったゆえに『あ、こいつじゃ駄目だな』と判断したのか?)
自分が気づいていないこと、見えていないものがあるのかもしれないと考えた上で改めて校舎を見回してみるがそれでも何か新しいものが見えるということはなく。問題は注意力ではなく、才能の有無であろう。
また弥助は出雲の態度も気になっていた。弥助には彼が今回のことについて何か知っているように思えてならなかった。いや何か、どころではなく何もかも知っているようにさえ見えた。知っていたからこそ、あんなぺらぺらで薄ぼんやりとした話も辛抱強く聞いていられたのだ。普段の彼ならそれは有り得ない話である。きっと一生懸命話しているさくらの姿を見てほくそ笑んでいたに違いない。そう思ったらますます憎たらしくなった。
(まさかこの学校がこんな風にしちまったのはあいつとか? それでもって怪談で大騒ぎしている生徒達をどこかから観察してげらげら笑っていたとか。いや、まさか……しかしあいつの場合はそういうことも平気でしかねない。まあかず坊もこの学校に通っているからあんまり酷いことは出来ねえかもしれんが。菊野婆にバレたらことだからなあ……あの婆さん勘が鋭いし)
出雲が犯人でないとすると、彼はどうやって東雲高校内で起きている騒ぎの原因というか真相を知ったのか。こちらの世界をうろついている妖仲間から何か聞いていたのか、それとも……。
そこまで考えたところで弥助はあることを思い出し、はっとして足を止める。さくら及び井上兄妹から以前聞いた話を思い出したのだ。さくらは弥助に興奮しながら語り、井上兄妹は愚痴った。
(そうだ、そういえばあいつ……)
*
「また新たな訪問者ですか」
少女は呆れたような表情を浮かべながらため息をついた。その息が世界を冷やす氷と反応して白くなる。彼女が立っているのは北校舎の屋上。輝く星に撫でられた黒髪はきらきら光り、制服のスカートが冬の風にたなびく。
彼女の目の前には祭壇に飾られていそうな丸い鏡が浮かんでいる。その鏡に映るのは自分の姿……ではなく校舎の中の様子だ。暗い廊下を歩く一人の男の姿が見える。学校の生徒ではありえない背格好だし、この学校の教師でもない。適当に揺ったぼさぼさの髪、濃い緑の甚平、立派な体格。少女は男の後姿をじっと見つめていた。
「あの男も妖ですか。……まさか彼が例の?」
「まっさかあ! そんなわけないじゃあないですか」
氷のように冷ややかな目をした少女の問いに答えたのは、この場に流れる冷ややかな空気には全く似つかわしくないふざけた調子の声。少女は整った眉をひそめ、それからきっとその声の主を睨みつけた。睨まれた相手といえばけらけら愉快そうに笑うだけでまるで怖気づく様子などない。
少女より頭一個分高い男は怒っている様子の彼女を見下ろしながらにこにこしている。
「僕がこの前見たのは、あんなポンコツポンポコアンポンタンな感じの男じゃあないよ」
「お前にそんなことを言われるなんて、可哀想な人」
「君程残念な子に同情されるなんて、可哀想な人!」
「お前は死にたいのですか、一刻も早く」
はあ、と二人のやり取りを鏡の傍らに座って見ている者がため息。男と言い争っている少女よりも三、四つ程年下だろう娘で長い銀髪に赤の着物と重ねて着た純白の着物が月光に煌いて美しい。
男の頬をつねり、彼が痛い痛いと呻くのを見て満足したらしい少女は話を本題へと戻す。
「……あの男は何者でしょう? もしかして『あれ』の匂いを嗅ぎつけて」
「そりゃあないと思うけれど。見た感じ気づいていないようだし。あれに気づけるのは一部の者位だから。ただでさえ見るからに妖力ぽんこつって感じの人だしさあ。ていうか妖だよね、本当に。何か人ならざる者特有の歪みをあまり感じないんだよなあ。すっかり人間の世界に馴染んじゃっている感じ! 鈍い察知能力がますます鈍くなっていそうだなあ」
「確かに。それでは心配しなくても大丈夫かしら」
「どうかなあ。彼自身は気づかないかもしれないけれどねえ……でも安心は出来ないよ」
「油断大敵ですね」
「常に油断している君が言っても全然重みがないんだよねえ」
また余計なことを言ったばかりに男は女に脛を蹴られることとなった。飽きる程見た光景に再び嘆息した白い着物の娘が呟く。
「……あの男、例の姫様の手下?」
「そりゃ違うでしょう。だったら彼等と一緒に来ているはずだし」
と言って男は真下を指差す。確かにそうだと二人の娘は頷いた。
「それでは、お前が言っていた男の方の手下か何か?」
「そんな風には見えないなあ。なんかいかにも僕が見た男と相性が悪そうだし、見た目。まあ、ふらっと遊びに来たというわけではないってことだけは確かだろうけれどねえ」
「……とりあえず放っておく? 姫様」
白い着物の少女に問われた制服の少女は首を横に振る。
「万が一、ということもありますし。矢張り今校内をうろついている者達にはご退場願いましょう。あの子達はとてもかしこい。だからきっと私の呼びかけにも答えてくれるでしょう」
静かにしゃがみ、コンクリートの地面に指を這わせる。
そしてゆっくりと目を閉じて、念じる。
それが始まりの合図だった。