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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
学校の怪談~開花への階段~
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学校の怪談~開花への階段~(5)

 

 体育館に関する怪談が一つも語られていない。これは明らかに妙な話だった。この学校は今やどこへ行っても幽霊やら妖怪やらが出たり、呪いのアイテムが出てきたりするような場所となっている。文芸部の部室にさえ他の場所に比べると少ないが怪談が存在している(といってもそれら全ては文芸部員ではなく、全く無関係の人間が勝手に語っているものだったが)。どマイナーで泣ける程影の薄い部の活動場所にさえ存在するものが、誰でも存在を知っている上怪談を幾らでも作り上げられそうな場所に存在しないなど有り得ない。


「誰もいないはずの体育館からボールの弾む音がするとか……そういうどこにでもありそうな怪談さえ」


「ありませんね。皆さんも聞いた覚えがないでしょう?」

 さくらはその問いに頷いた。あまりに怪談が校内に氾濫(はんらん)していた為、体育館の怪談が一切語られていなかったことに気がつかなかった。こうして誰かに指摘されるまで。

 しかしどうして体育館だけ怪談の侵食から逃れることが出来たのだろう?

 千代子もその理由についてはさっぱり分からないようだ。


「一二年の教室よりも三年の教室の怪談の方が若干数が少なかったり、校舎の外に妙に怪談の数が多いエリアが――丁度文化祭で三年生の方達が出店していた辺りの場所です……――あったりと怪談の数には結構偏りがあります。けれど何一つ無いのは体育館だけで……有って欲しくないものではありますが、この状況の中一つも無いというのもそれはそれで気持ち悪いですよねえ」


「確かに気味が悪いわねえ!」


「体育館には一つも怪談がないせいか、皆さん体育館の中だと割合落ち着くんですよねえ。体育館で授業をしている時もあまり大きなトラブルはなかった気がします。まあ、ちょっと大きな物音を聞くとびくつくとか……そういうことはありますけれど。教室で授業をしている時に比べればなんぼかましな気がします」

 言われてみれば、とほのり。体育が体育館で行われた時、まあほのぼのとした空気の中平和に授業を最初から最後までやれた――とまではいかずとも、大きな騒ぎが起こることはなかった。ぎくしゃくしつつもとりあえず授業は出来た。教室だとまともに授業など出来ないというのに。

 怪談が無いから、体育館に幽霊や妖怪はいない。だから大丈夫、という何だかよく分からない考えが皆の中にあるのかもしれない。


「後は何もかも怪談通りにはならない、という部分も気になりますね。この学校で語られている怪談の多くはその幽霊を見たり、何かされたりすると死んでしまうとか病気になってしまうというパターンですが、実際その幽霊に会っても気絶したり倒れたりすることはあっても死んだり本当に病気になってしまうということは無いんですよね」

 びっくりしたり、幽霊や妖から逃げる途中転んだりして怪我をした者や、ありもしない傷に苦しむ者などもいるが、幽霊や妖に直接深刻な危害を加えられた者がいるという話はそういえば聞いたことがなかったなと思う。


「やっぱり皆は幻覚を見ているってことよねえ……実際に死んだり病気になったり呪われたりすることはないんだからさ」

 怪談の最後の部分は大抵の場合その通りにはならない。その時点で怪談には『信憑性がない』ということになるはずなのだが、皆は頑なに自分が聞いた怪談が真実のものであると信じている。大切なのは異形の者が出る、という部分で死ぬとか病気になるとかそういう部分は関係ないのだろうか。


(そんなことはないと思うけれど……そういう危害を加えられるからあんなに皆恐怖している……。単純に皆、学校で恐ろしい数の人間が死ぬはずがないとかそういう矛盾というか妙な点には気づかないようになっているだけ? 正常な判断能力などを失っているが為に)


「今回の件について私から話せることは以上ですかねえ」


「ありがとう、花澤さん。おかげで色々分かったわ。……聞いて良かったと思う」


「それはあたしも思ったわ。この学校の異常っぷりにも改めて気づかされたしね。あたし達自身自分が思っていたよりおかしくなっていたことも分かったし。サンキューね、ちよ」

 褒められて嬉しくなったのか千代子は腰に手をあて、えっへん。とても子供っぽい表情で、でも今はその表情が癒しになる。癒しの女神、手を合わせてありがたやありがたやと言いたくなる程だ。

 さくらとほのりは千代子と別れ、部室を目指す。


「しかし一体なんなのかしらねえ、今回の騒動は!」

 廊下を歩きながらほのりがぼやく。丁度通りかかった教室には女子が数名残っており何かしている。ぱっと見る限り「こっくりさん」のようだ。こんな時でもあんなことをやるなんてどういう神経しているのかしら、と唾を吐き捨てるかのようにして言うほのりをさくらは苦笑いしながら見つめた。


(それにしても、何故体育館だけ怪談が存在しないんだろう……血の染みのついた呪われたバスケットボールがあってそれを使うと死んじゃうとか、試合にいつの間にか誰か一人紛れ込んでいるとか、ステージに昔そこで自殺した生徒の霊が出てくるとか、何か色々話が作れそうなものなのだけれど)

 生徒が怪談を生み出すのには何か条件があり、その条件を体育館だけがクリアしていないのだろうか。

 条件があるとすればそれはどんなものなのだろうか。考える。しかし一向に良い考えが思い浮かばなかった。重苦しくて気持ち悪くて邪悪で変てこな空気を吸い込んでしまった頭はまともに作用せず、黒い霧でもかかったようにぼんやりとする。普段なら気づくことが出来るようなことにも気づけないような状態だ。学校から出ればこの嫌な空気からも逃れられるが、その代わり今この学校で起きている騒動に対する意識が低下してしまうので、このことについてもまともに考えようとしなくなるだろう。


 部室に着いた後、さくらとほのりは今日千代子から聞いた話を皆に聞かせてやる。重症な生徒達に比べればまだましな状態である彼等は「ああ、確かに」とか「そういえばそのことについて考えたことはなかった」などとさくら達とほぼ同じ反応を見せてくれた。もし「ふうん」とか「だから何ですか」と言われたらどうしようと思っていたので内心ほっとする。


「……臼井さんや櫛田さんは今回の件について色々調べようとしているの? だから友達から話を聞いたの?」

 二人の話を静かに聞いていた佳花が心配そうな表情を浮かべて聞いてきた。ほのりは笑いながら手を振る。


「いやいや、あたしは別に色々調べてやろうとは思っていませんよ。サクは違うようですけれど」

 佳花の瞳がさくらをじっと見つめる。さくらはそのような目で見られたものだから正直に答えることをやや躊躇したが、彼女を騙せる程自分は嘘を吐くのが上手くない。だから彼女にそんな顔をさせることを申し訳なく思いながらも頷いた。


「はい。どうしても気になって……」


「確かに気になるわね。その気持ちは分かるわ。けれど本当に幽霊や妖が出てくるかどうか調べたいといって校舎内を無闇に歩き回るとか、そういう無茶はしないでちょうだいね? 見てはいけないものを見てしまうかもしれないわ。怖い思いをしてもらいたくないの」

 分かりました、とは言ってみる。しかし今自分の中にある『気になる』『この学校に出る幽霊などは本物なのか、それとも皆の見る幻覚なのか知りたい』などという思いを止めることはきっと出来ないだろうと思った。

 いつの間にかさくらは部活終了後、校舎を巡って確かめてみようという気持ちになっていた。今までは皆が見るようなものを例の怪談以外のものは見てはこなかったが、彼等の存在を意識しわざと『恐怖』を抱くことで皆の見ているものが見えるようになるかもしれないと考える。


(そういう思いを抱いていると見える……私のように皆程恐怖していない、耳にした怪談を意識していない人間には殆ど見えない……やっぱり皆が見るのは自分の中にある恐怖心が生み出した幻なのかしら。所詮は幻だから殺されたり呪われたりすることはない?)

 単純に考えるとそんな気がするが、幽霊や妖という異形の存在が実在していることを知っているが為にその一番それっぽい考えを素直に受け入れることが出来ないでいた。


(確認した方がいいのかもしれない。皆の見るものが本物かただの幻なのか、本物を知っている私なら判断出来るかもしれない)

 屋上から落ちていった女生徒の霊を見た時は一瞬のことだったし、本物かどうか見極めようと思いながら見たわけではない。だからあれのみを基準にして本物か幻か判断するのは難しい。

 幻には思えなかった。しかし絶対に本物だったと断言も出来ない。その辺りをもう少しはっきりさせよう、そして今度こそ出雲もしくは弥助に相談しよう。さくらは心に決めた。佳花を裏切る形になるのは誠に心苦しいことではあるが致し方ない。


(私が確かめなくちゃ。……本物を知っている私が)

 さくらは無駄で余計で見当違いな正義感に体震わせるのであった。



 部活はいつもとほぼ同じ時間に終わった。明日からはもう少し早めに終わらせることにしよう、と佳花が言い、現部長であるほのりもそれに同意した。確かに今はうんと暗くなるより前に帰ってしまった方が良いような気がする。ほのりから一緒に本屋へ行こうと誘われたが断り、佳花から「くれぐれも無茶なことはしないようにね」と念を押されたのに対し曖昧に笑いながら「分かりました」と言い、それから一人廊下を歩いてクラス教室の集まる棟へと移動する。文芸部の部室がある階には様々な文化部の部室があるが普段以上に物静かで寂しく、皆まともに部活をやっているのか(普段もちゃんと活動しているかどうかは怪しいが)分からない状態だ。

 冬であるから日が沈むのは早い。もう学校は殆ど闇に包まれていて、一歩進む度こつこつこつという冷たい音が響き渡り心に氷の釘を打つ。校内に溜まりに溜まった暗黒の空気が、到来した闇の口づけに鼓動しそこを歩く人全ての心を乱す。今でさえこれ程恐ろしくおぞましい場となっているのに、何もかも全て完全な闇に包まれたらこの学校は一体どうなってしまうのだろうと思ったら何だかぞっとした。体も心も重く、頭の中も闇を閉じ込めた氷をぎゅうぎゅう詰めにされたかのようになっている。


(ここは本当に学校なのかしら……『こちら』と『あちら』を繋ぐあの道を歩いているみたいな気持ちになる。ううん、あそこを歩いている時だってこれ程酷い気持ちにはならないかもしれない……あそこには美しさもあるし、空気だってこれ程濁ってはいない)

 人間の強い感情の持つ力というのはこれ程までに凄まじいのかと改めて驚かされる思いだった。窓を開けたからといって逃げていってはくれないこの空気は一体いつになれば消えるのだろうか。生徒達が怪談を語り、怪談を恐れることをやめない限りは無理だろうとため息をつく。当分その日は訪れそうにない。

 クラス教室の集まる棟へと辿り着いた。もう殆ど生徒などいないからしいんとしていて音らしい音はほぼ聞こえない。それでも普段なら日中ここで過ごしている生徒達の持つ輝きや彼等の賑やかな声が生み出す眩く温かいものが残っている。だがそういったものはもう少しも残されていない。怪談が生み出したものが根こそぎさらっていってしまったからだ。

 今自分が歩いているのは学校か、化け物屋敷か、はたまた異界か。それさえ分からなくなる程異様な空間。日中はまだいいが、この時間になって歩くと妙に胸がざわつき気温によるものではない寒気までする。静寂が、闇がさくらの中にある恐怖を少しずつ増幅させていった。引き返すなら今だ、と思いつつも足は昇降口へと至る階段へは向かわない。


 校舎の二階は一年の教室がある。さくらは一年の教室やそこに面している廊下などの怪談を頭の中に幾つか思い浮かべる。何ということもないと感じていた怪談も今思い浮かべるとどことなく気味が悪く、また恐ろしく思えてくる。

 だから一年D組の教室から声が聞こえてきた時は本当に驚き、心臓が止まりそうになった。決して大きな声ではなく、複数の生徒達がわいわいきゃっきゃとお喋りしていたら絶対に聞こえない位のもので恐らくは女生徒のものである。廊下側の窓も、出入口も閉ざされているから中の様子を窺い知ることは出来ない。


(この声は一体……まさか、幽霊?)

 痛い程激しく動く心臓。息苦しいのを我慢しながら白く濁った色をした窓に耳をあてその声が一体何と言っているのか確かめようとした。初めはいまいち何と言っているか分からなかったが、何度か聞く内に理解出来た。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 消え入りそうな声で、恐ろしい程早口で窓の向こう側にいる誰かは呟いている。その声にはおよそ感情とか生気とかそういうものが感じられず、聞いただけでは生者のものか亡霊のものなのか判別出来ない。

 一体(恐らく)彼女は何に対して謝っているのか。どうしてごめんなさいと言い続けているのか。

 窓に手をかけ力を入れてみる。鍵が閉まっている為か、開かない。戸締りをした上で一人教室で延々とごめんなさいと言い続けているのだろうか。一人で、まるで生を感じられない声で。そう思ったら背を冷たい手で撫でられたような感覚に襲われた。

 ドアは開くだろうか。試してみようと教室後方側のドアに手をかける。


「ドア、開かないですよ」

 背後から死人のような声が聞こえ、さくらは思わず小さな声で短い悲鳴をあげてドアから飛び退いた。

 いつの間にかさくらのすぐ傍に女生徒が一人立っていた。死んだ魚のような目でこちらを見上げ、睨んでいる。右手にはハンカチ。どうやらお手洗いから出てきたところのようだ。

 生きているのか死んでいるのか。間近で見ても分からない位、彼女からは生気を感じない。固く結ばれた唇は気のせいか青く見える。


「……誰にも邪魔させないように鍵をかけましたから。あまり大きな声とか音とかたてないでくださいね、彼女の気を散らせるわけにはいきませんから」

 そう言いながらポケットにハンカチをしまう。その時ちゃら、という音が聞こえた。教室の鍵をそこに入れているのだろうか。


「中に誰か居るの? どうして鍵をかけているの?」

 いじめ……だろうか。その嫌な考えをすぐ振り払う。鍵は内側からでもかけたり開けたりすることが出来るから閉じ込めることは出来ないはずだ。

 少女はさくらをじっと睨んだまま口を開く。普段のさくらよりも小さな声でぽつぽつと。


「……彼女は『アカハラ様』の怒りに触れてしまった。このままだと殺されてしまう。だから、アカハラサマに謝罪しているんです。五百回ごめんなさいと言えれば許されます。でも途中で詰まったり、噛んだりしてその謝罪が途切れてしまったらやり直しです。私は彼女が誰にも邪魔されずにアカハラ様への謝罪を終わらせる為に見張っているんです」

 そう言えばアカハラ様なる神様がこの学校に住んでいて、何かすると怒りを買ってしまうという話を聞いた覚えがあった。

 ごほんごほん、と教室の中から咳き込む声が聞こえる。少女の視線がさくらから教室へと映る。その目には何の感情も映っていない。


「ああ、また失敗した。可哀想に一からやり直し……泣いている、泣いたって仕様がないのに。あら、一緒に居て彼女を見守っている子達まで泣きだして……ちゃんとしなくちゃ駄目なのに。これじゃあいつになっても彼女は許されない。アカハラ様に殺されてしまう……」

 もう彼女の目にさくらは全く映っていないようだ。虚ろな瞳を教室へ向けながらぶつぶつと呟いている。可哀想に、その言葉には何の気持ちもこもっていない。かといって教室の中で「ごめんなさい」を連呼している子に対して何の感情も抱いていないという風でもない。だから妙にちぐはぐで、不気味なのだ。


「何度だってやり直す……殺されないように……私、ちゃんと見張っていなくちゃ。誰にも邪魔はさせない、友達を死なせたくないもの……」

 咳き込み、そして絶望のあまり涙を流したが為に一旦止んでいた「ごめんなさい」の声。それがしばらくして再開される。彼女はきっと俯き、机を虚ろな瞳で見つめながらごめんなさいと呟いているのだろう。もしかしたら自分が何回ごめんなさいと言ったか確認する為その言葉を口にする度正の字を書いているかもしれない。何個も何個も書いて、途中でしくじってまた最初からやり直して、ノートは正の字でいっぱいになって、それでも彼女は開放されない。五百回一度も詰まらずに「ごめんなさい」を言い切るまで。

 そしてそんな彼女の周りを取り囲みむようにして友人数名が立っている。彼女達は無言で俯き、じっとアカハラ様の怒りを買ってしまった子の謝罪を見守る。感情のない瞳に狂気の光を抱かせて。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 その声が、想像したそれを呟く少女と見守る者達の姿が、じっと教室のドアを見つめている少女の姿がさくらの心をざわつかせる。じわじわと込み上げてくるのは声にならない声で叫び滅茶苦茶に走りたくなる衝動。恐怖だけが今さくらの中にある。自分の心を壊せるだけの恐怖が。

 これ以上ここにいたら自分までどうにかなってしまう。さくらは早足でその場を去った。恐怖と緊張、あせりのせいか太もも辺りが妙にむず痒く、先の方は痺れて感覚がない。自分が息を吐いているのか、呻き声をあげているのか分からなくなってきた。

 怖い。怖くて仕方がない。嗚呼この学校は地獄だ、闇に覆われた地獄だと心からそう思った。

 恐怖が闇やこの学校に満ちる空気に触れて増幅していく。膨れだしたらもう止まらない。


――一年の廊下の天井からね、ぽたぽたと何かが落ちる音が聞こえるんだって。雨漏りとかしているわけでもないのに――

 唐突にさくらの頭の中に浮かんだのは誰かから聞いた怪談だった。そしてさくらは思った。

 もしその音が聞こえてきたらどうしよう……と。


 ぽたり、ぽたり。背後から雫か何かが落ちる音が聞こえる。天井からそれは落ちているのだ。静寂の中にそれはよく響き、聞こえなかったフリをすることなど到底出来ない。振り返ってはいけないと思ったが、振り返ってしまう。


――振り返らないとね、天井にいる『そいつ』に背中から刺されてしまうんですってよ。『そいつ』は刃物を持っているから――

 振り返り、音のする方を見上げてみれば。天井に手と足をつけ、こちら側にある頭をだらりと下げている女の姿があった。波打つぼさぼさの長い髪、大きく見開いた瞳、口に刃物をくわえて笑っている。ぽたり、ぽたり、全身から落ちるのは血の滴。真っ赤な雫は廊下を赤く染める。夜を迎える前の空より赤くて、闇に飲み込まれることなくぎらぎらと輝いていた。

 あっと声を上げ、一歩後ずさる。女は刃物を口にくわえているにも関わらずげらげらと笑った。とても何かをくわえながら発しているとは思えない声、臓物をぐちゃぐちゃにかき乱すような声。

 女が天井から落下する。そのまま落ちれば頭や背中を激しく打つ形になるはずなのだが、いつの間にか体勢を変えたのか、四つん這いの状態で着地していた。


――『そいつ』はね、追いかけてくるんだって。そして逃げる人を捕まえて八つ裂きにしちゃうんだって。八つ裂きにしたそいつは成仏出来て、された方は次の『そいつ』になるんだって――

 女が四つん這いのままゆっくりとこちらへと向かってくる。機嫌の特に悪い日の出雲と対峙している時でさえこれ程の恐怖は感じない。幻にそれだけのものを感じさせる力があるだろうか。そもそも目の前にいるそれが自分の作り出した幻であるとは到底思えない。

 いや、そんなことを考えている暇はない。逃げなければ。逃げなければ八つ裂きにされた挙句次の『あれ』にされてしまう。妖や幽霊というものが好きなさくらでも、このような化け物になることは御免だった。

 悲鳴が聞こえる。それが自分の発したものであることに気がつくまでには多少の時間を要した。さくらが走りだすと『そいつ』も四つん這いのまま有り得ない位のスピードで走りだす。程なくして目にとまった階段を思わず駆け上がる。降りた方が良かったかもしれない、と考える余裕ももう無い。何度も足がもつれ転びそうになりながらも三階、そして四階まで上がっていった。運動が苦手で体力などろくにないが、生への執着が彼女の足を動かした。


――でもね『そいつ』はどこかの部屋に逃げ込めば、それ以上は追ってこないらしいよ――

 その言葉がさくらの頭の中で何度も響く。教室などはもう鍵がかけられているはずだから、逃げ込めない。それでは一体どうすれば良いというのか。

 四階まで来て右だか左だかを進んださくらの目に留まったのはお手洗いだった。もしかしたらあそこでもいいのかもしれない。女子トイレのドアを開け、その中に飛び込んだ。トイレはどこもかしこも闇に濡れていて、足を踏み入れればぴちゃりぴちゃりという音がしそうだ。光も温もりもなく、ただじめじめしていて肝まで冷える位寒々としている。小さい頃夜一人でトイレに行くのが怖くて仕方がなかった。その気持ちを今さくらは思い出してしまった。

 怖い、嫌だ、そう思いながらもさくらは目に飛び込んだ個室へと入り、鍵をかけた。そしてドアに耳をあてる。『あれ』が追いかけてくる気配は感じられない。どうやらここも『あれ』の中では部屋としてカウントされるらしい。ほっと息をつき、さくらはその個室から出ようとした。

 とんとん。自分以外誰もいないはずの個室なのに、さくらは誰かに背中を叩かれた。血の気がさっと引くのを感じながら恐る恐る振り返る。


「おじょうさん、いらっしゃい」

 角の方ににこり笑いながら立っている少女。おかっぱ頭、愛らしい手、白いブラウスに赤いスカート。 暗闇にその少女――トイレの花子さんはにこりと笑みを浮かべて佇んでいた。それを見た瞬間悟った、そういえばここは三番目のトイレだったと。そして息を潜めている間僅かではあったが彼女のことを考えていたのだということを。

 

――三年生の女子トイレにはトイレの花子さんがいるんだって。ドアを三回ノックして『花子さん』って呼ぶと返事をするんですって。その返事を聞いた後でないとそのトイレには入っちゃいけないの。……もしそれを破ってしまうとね……――


「おじょうさん、ずっといっしょにいましょうね?」

 可愛らしい声で、にっこり笑って花子さんはそう言った。

 気がつけばさくらは再び悲鳴をあげ、そして死に物狂いでドアを開けてそこから逃げた。花子さんの可憐な笑い声がずっと、ずっと頭の中で鳴り響く。よく逃げられたものだとトイレを出、一階まで階段を走って降りた後に思った。ドアを三回ノックしないで花子さんのいる三番目のトイレに入ってしまったものは花子さんに捕まって永遠にトイレから出られなくなってしまうから。

 心臓が痛い、心が恐怖に痛めつけられ悲鳴をあげている。ふらふらしながら辿り着いた昇降口の前でしゃがみこみ、呼吸を整える。

 もうこれ以上学校を回っていようという気にはならない。さっさとここから逃げだそうと心に決めた。

 そして家に帰るのは少し遅くなるが、出雲の所へ相談に行こうと。今度こそ今東雲高校で起きている出来事について相談するのだ。負の感情でいっぱいになった胸を抑えながら一歩一歩進み、いつもよりずっと長い時間をかけてようやく校門をくぐって学校を後にした。少しでも早く桜山へ行く為、そして少しでも早くこの学校から離れる為にバスに乗る。そして学校からその体が離れていく内、あれだけあったはずの恐怖が消え失せていく。


(もう少し学校の中を調べても良かったかな……。結局私が見たものは本物だったのか幻だったのか……さっきの出来事がまるで夢のように感じられる)

 自分がどれだけ怖い思いをしたのか、それさえ曖昧で。次の日になったら寝ている時に見た夢と共に遥か彼方へと行ってしまうかもしれない。成程、こんな風に感じるから皆どれだけ怖い目にあっても次の日当たり前のように学校へ行く。恐怖を抱いたままであったら仮病を使って休む者も現れるだろう。だが皆学校を出たら恐怖を忘れてしまう。それまで「もう学校に行きたくない」と思っていても、学校の敷地から出た途端その考えは消えてしまうのだ。

 紗久羅達別の高校に通う子達は東雲高校がとんでもないことになっていることを知らないらしい。せいぜい東雲高校では今怪談がちょっとしたブームになっているらしい……というレベルだ。子供から惨状を聞いて親が何らかの行動を起こしたという話も聞かない。それもこれも生徒達がまともな状態でいられないのが校内に限定されているからだ。


(変な騒ぎにならない分まだまし……と考えるべきなのかな。それとも外部に救いを求められない分厳しいのかな……)

 バスを乗り換え、桜山近くまで行く。満月館へ向かう前に喫茶店『桜~SAKURA~』へと寄った。今日弥助は休みであるらしい。彼にも相談したかったが仕方がない。さくらは祖父である秋太郎に今東雲高校で怪談が流行っていることを話す。しかし恐怖が消え失せてしまっている為かどれだけ酷いことになっているかきちんと伝えることが出来なかった。恐らく秋太郎は「学校で怪談が流行っている。その怪談通りの幽霊を見たといって騒いでいる子が何人かいる」程度の認識しかしていないだろう。話している自分自身、どれだけ学校が酷いことになっているか――そのことに関する記憶が曖昧で。だからきちんと話せない。


「とりあえず出雲さんに話しに行くことにしたの。ちょっと気になるから。お母さんには『おじいちゃんの家で夕飯を食べてから帰る』と言っておいて」

 秋太郎は微笑みながら分かったと言う。駄目といってもきかない子であることを理解しているからだろう。さくらは秋太郎に礼を言い、それから自宅に電話をしてから桜山へと向かった。そこに重なり合うようにして存在している満月館を目指して。

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