学校の怪談~開花への階段~(3)
*
少年は天井近くにいるあるものを恐怖に濡れた瞳で見つめていた。何気なく向けた視線の先にあったそれを見た瞬間彼の体はまるで動かなくなってしまった。自分の心臓の音以外は何も聞こえない。その激しくいつもと違って妙に不安定な音が余計少年の恐怖を煽る。狂った時計の音を聞かされているような心地がして大変恐ろしかった。ただ、その音を聞くことで自分はまだ死んでいないという事実を確認出来た。
自分が今生きているのか死んでいるのか、それが分からなくなる位少年は恐怖している。頭の中は雪のように真っ白で、とても冷たい。寒気もするが、そんなことを気にしている余裕などはない。
天井近くをふわふわ漂うもの、それは人魂だった。形はアニメや漫画で出てくる人魂そのままで青白い。外に広がる空よりも白っぽく、そして何より不吉さや禍々しさを感じる色であった。
見るだけで自分の魂が抜かれるような気持ちになる。だがそれから目を逸らすことは出来なかった。視線を動かす為に使うエネルギーは全て恐怖に奪われ、今や指一本動かすこともかなわない。
(この学校があった場所には昔墓場があった……その墓場で眠っていた魂が、安らかに眠る場所を奪われて怒っている)
真っ白だった頭の中に浮かんだのは、自分が昨日だか今日だかに聞いた怪談。安息の地を奪われ、怒り狂う魂は今もこの学校を彷徨っていて、ここで日々を過ごす生徒達の命を奪ってやろうとしていると少年は聞いていた。
(あの人魂に体を貫かれたら……)
静かにゆっくりと円を描いていた人魂が突然その動きを止める。少年はぎくりとした。
ああ、見られている。あの人魂は俺を見つけてしまった、気がついてしまった。逃げなければ、今すぐ立ち上がり、この教室から出て行かねば。しかし少年の体は椅子に縫いつけられたかのようになっていて少しも動かない。人魂の存在に気がついているのは自分だけのようだ。誰か気がついてくれ、そして悲鳴の一つ二つ上げてくれ、その声を聞けば驚いてこの体も動くだろうと思った。あれの存在に気がつき、呪文か何か唱えて追っ払ってくれるならなお良い。だが、誰も気がつかない。
どうして気がつかないんだ、誰も。誰か、誰でもいいから天井を見てくれ、誰か、誰か。
人魂が笑い声のようなものをあげた。同時に目にも止まらぬ速さでこちらへやってきて、そして少年の体を……。
――その人魂に体を貫かれた人間は死んじゃうんだって……――
少女は黒板に書かれている文字を一生懸命ノートに写していた。普段は真面目に授業など受けない彼女だったが、ここのところずっと真剣に授業に取り組んでいた。そうして何かに集中していれば、恐ろしい怪談の数々を忘れられるような気がしたからだ。勉強は嫌いだがそれ以上に幽霊や妖怪を目にすることの方が嫌だった。途中何人かの生徒が悲鳴をあげたり、突然泣きだしたりしたが少女は気にしなかった。いや、気にしないように努めた。下手に気にすれば心が揺らぐ、そうして揺らいだ心に惹かれて『彼等』は姿を見せると彼女は考えている。隙を見せてはいけない、見せればその隙間に彼等は入り込んでいく。彼等のことは考えてはいけない、そうして彼等のことを考えるという行為もまた彼等を呼び寄せる一因となるのだ。
黒板に書かれたやや長い文章を必死になって目で追い、その通りにノートに記す。自分では落ち着いているつもりだったが、矢張り慌てていたらしい。消しゴムをつかみ損なって床へ落としてしまった。ただ消しゴムを落としてしまった、ただそれだけで少女の心臓は激しく揺れ動き、額に汗が浮かぶ。あせってはいけない、あせれば彼等が現れてしまう、落ち着かなければ、落ち着かなければ……少女は何度も自分の心に言い聞かせ、そして荒ぶる気持ちを無理やり押さえつけつつ消しゴムを拾った。それを無事拾い、ノートに再び黒板の文字を写し始める。しかし押さえつけた気持ちが再び暴れだし、スムーズに文字を書き写す作業を妨げた。簡単な字さえ間違え、それを消しゴムで消して書き直し、しかしまた同じミスをしてしまい、また消しゴムで消す。
(こんな字を何で私は間違えて……落ち着け、落ち着け! 駄目、落ち着かないと! ああ、また間違えた……ああ、正しい字がどんなだったか思い出せない……落ち着け、落ち着け……)
あせる気持ちがシャープペンを持つ手の力を強め、芯が折れてどこかへ飛んだ。慌てて芯を出し、文字を書き、間違え、消し、書き、間違え……その繰り返し。駄目だ、このままではいけないと考えれば考える程気持ちは焦っていく。
そんな彼女は、ふと自分の視界が若干ではあるが暗くなったのを感じた。同時に全身から熱が奪われ、猛烈な寒さに襲われる。
(何かが、いる)
少女は自分の目の前――自分の机と前の人が座っている椅子の間に誰かが立っていることを確信した。
誰かが自分を見下ろしている。それは先生ではなく、生徒でもない。人間ではないものだ。顔を上げなくても彼女には分かった。目の前にいる何かが自分の体を見えない力で押さえつけている。体をぺしゃんこにされたような心地がして、とても苦しい。
「続き、書かないの?」
自分の体を影、或いは邪悪な色をした気で覆っている者が語りかける。その声にはまるで生気が感じられず、心を持たぬ人形が口をきいたらこんな風になるのだろうかと思えるようなものだった。
苦しい、痛い、冷たい、怖い、顔をあげてはいけない、叫びたい、泣きたい、いっそ楽に死にたい位の気持ちだ。
「顔を上げて? 黒板に書いてあること、写すのでしょう?」
何者か――恐らく自分とそう変わらない年頃の少女――がなおも自分に話しかける。冗談じゃない、と少女は思った。今顔を上げて黒板へ目を向けようとすれば確実に『何か』と目が合ってしまう。少女は黒板の文字を写すことを諦め、代わりにノートに『消えろ消えろ消えろ』と自分の思いを延々と書き連ねた。恐怖と、黒くどろどろとした気持ちが紙を埋め尽くしていくさまは大変気持ち悪く今すぐにでもやめたくなったが、こうして何かに集中していなければうっかり顔を上げてしまいそうになる。色々なものを吐きたくなる気持ちをこらえ、少女はペンを動かし続ける。
その時、少女は自分の名前を呼ぶ声を聞いた。その名前はクラスに自分だけしかいない。彼女は思わず顔を上げた、あげてしまった。そして上げた瞬間にはっとした。自分の名前を呼んだのは先生ではなく、目の前にいる『何か』であることに気がついて。
旧デザインの制服、切り揃えられた髪、大きく見開いた目、青い肌、そして全身を酷たらしく染める赤黒いもの――。
――昔、学校へ来る途中事故に遭って死んじゃった生徒がいるんだって。でもその生徒は自分が死んだことに気がついていないの。幽霊になってからも毎日学校に通っているの。そして席について授業を受けようとする。でも自分が座っていたはずの席には別の人が座っている。死んだ生徒はその席に座りたい。だからね、その子はね、自分の席に座っている子を……――
「ねえ、貴方が死ねば私は今度こそそこに座れる?」
体育の授業中である一年女子達が悲鳴をあげながらグラウンド中を走っている。走る方向はてんでばらばらで、フォームも滅茶苦茶だ。一人足がもつれて転んだ生徒がいた。すぐ近くにいた子がその子を引っ張り上げるようにして立たせ、二人して必死の表情を浮かべて再び走り出す。校舎の中に逃げ込む生徒も中にはいた。皆あるものから逃げる為狂ったような表情を浮かべながら走った。走り方もどことなく狂った人のそれのようだ。
そんな彼女達を追う者――それは『まもるくん』という少年だった。学生帽を被る頭は坊主で、レンズの分厚い眼鏡をかけている。
かつてこの高校の生徒だった彼は生まれつき左足が不自由でいつも少し妙な歩き方をしていた。そのせいで彼は悪ガキ男子達にいじめられたらしい。そしてまもるくんはそれを苦に自殺した。彼は死後人を呪う存在と化す。まもる君は時々学校のどこかに現れ、生徒を追いかける。彼に追いつかれ手をつかまれるとその人は呪われ、左足がまるで石のようになり、終いには粉々に砕けてしまう。彼をいじめた男子生徒達がまずその呪いによって左足を失い、次にいじめを見て見ぬフリした生徒達を呪い、自分を苦しめた人全員への報復が終わった後も彼は呪った。悪霊となったまもる君はもう誰の言葉にも耳を貸さない。
まもる君はその日、グラウンドに現れた。そして授業をしていた女子達を襲ったのだ。まもる君の足は速く本気で走らないとすぐ捕まってしまう。もう生者ではないから足の自由不自由は関係ない。
「捕まえてやる、捕まえてやる、捕まえてやる……」
女子達の悲鳴に混じり、ぶつぶつと呟くまもる君の声がする。恨みの感情のこもった声が。
ほうら、また一人まもる君の目の前で転んだ。しかも足をひねってしまって立ち上がれない。近くに彼女を助けてくれる人はいない。
可哀想に、可哀想にねえ。まもる君はその少女を見てにたりと笑った。
――その姿を七日連続で見てしまった人は死んでしまうのよ、彼女に首を絞められて――
少女は首に手をやりながら一人静かに震えている。少女は四日連続で『彼女』の姿を見てしまっていた。初めは自身の教室、二日目はトイレ、三日目は理科室、そして今日は中庭で。大きな幹から伸びる枝、そこにくくったロープで首を吊ってぶうらぶらと揺れていた、首吊りぶらんこぎいぎいみしみしぶうらぶら。
数十年前にこの学校で首を吊って自殺した少女の霊は、自分の死した姿を見せることでその人の体を死に近づける。それによって少女は着実に死へと近づいていた。
後三日連続で『彼女』を見たら少女は死ぬ。明日、明日は見ないで済むと良い、いやそうでなければいけない。少女は二度とあの姿を見ることがないよう必死に祈り続ける。授業も聞かず、友達とも話さず、ただ明日以降のことを願う為だけに時間を使った。
(いざとなったら自分の両目を潰そう。そうすれば『彼女』を見ないで済む。私は生きられる……)
くすくす、と誰かが笑うような声が聞こえた気がしたが気のせいだったかもしれない。
運動場にある倉庫のボール入れに混ざっていた人の首を見て絶叫する少女、理科の授業中乱入してきた動く人体模型を見て気絶する少年、トイレの花子さんに返事をされて逃げ惑う少女達、血のついたカミソリを下駄箱にある靴に一つずつ入れていく女の霊を目撃した少年、湯呑の底に沈む目玉と目があった教師、校内のあらゆる所でのっぺら坊と遭遇した少女、呪いの校内放送を聞いてパニック状態に陥る全校生徒、前の席に座っている生徒の背中にぎょろぎょろと動く目玉がついているのを見た少年……。
屋上に少女が立っている。そして闇に侵されていく橙色の空を眺めていた。屋上には鍵がかかっていたが、彼女にとってそんなものは無意味であった。
闇に染まる世界は美しい。だから今のこの学校もとても美しい。つい最近までここを満たしていた目が痛くなる程眩い輝きはもう殆ど残っておらず、惚れ惚れするほど美しい闇に彩られている。この禍々しい輝きを元の輝きで塗り替える程の力を、ここに通う子供達は最早少しも持っていない。
冷たい風に少女の髪が軽やかに舞う。風に混じる香りに彼女は微笑む。
ああ、空はもうすっかり闇色だ。どれだけ明るく強い輝きも闇に呑まれればあっという間に消えていく。ああ、この世界を包み込む輝きというものは何て弱いものだろう。そんなものを永遠だと、何にも侵されることはないと当たり前のように信じて生きている者達は何て愚かなのだろう。
愉快、痛快、滑稽。湧きあがる思い、こらえきれず少女は声をあげて笑った。
*
さくらは読んでいた本を閉じ、深いため息をついた。近頃は集中して本が読めない。といってもそれは学校で読む時のみに限られており、家ではいつも通り読める。改めて本を開き、目で文章を追いかけるが一文は愚か一文字さえ頭に入っていかない。それでも無理矢理読もうとしても物語の情景など微塵も浮かんでこなかった。
皆の話す声がうるさいから集中出来ないわけではない。彼女は周囲がどれだけ騒がしくても簡単に自分の世界へ入り込むことが出来る。常に外側ではなく内側の世界を見つめている彼女にとって、外側の世界を遮断することなど赤子の手をひねるよりも容易なことだから。
そんな彼女が読書に集中出来ないのは、この学校に漂う異様な空気のせいだった。家に居る時は問題ない。気分も重くないし、いつもと変わらぬ日々を送れている。他の生徒の様子も学校までの道のりは和やかでいつもとさして変わらない。しかし学校の校門をくぐった途端体に冷たい重りがのしかかり、他の人達の表情もさっと変わる。この年頃の子達だけがもつ眩い輝きは今どこにもなく、あるのは恐怖と苦しみと嫌な重みだけ。死んだような目をし、生気の感じられない声でぼそぼそと怪談について語り合う。
「全くいつになったらこのくだらない騒ぎは落ち着くのかしら? もうまじグロッキーのゲロゲロゲーよ。……別に勉強なんて好きじゃないけれど、まともに授業を受けていられた日々が今はものすごく恋しい。先生に指名されただけでびっくりして泣きだす子とか、急に立ち上がってごめんなさいごめんなさいと死にそうな声で連呼しだす子とか、化物がいたとか言って自分の机の天板をカッターで突き刺す奴とか一人も出てこない時間を過ごしたいわよいい加減」
安達が「幽霊を見た」と言ってから二週間程経ったが、学校の悲惨な状況は一向に改善する様子がない。担任の姫野は「怪談を話すのをやめるように」と生徒達に言ったが皆聞く耳持たず。怖い、怖いと言いながら彼等は自分が聞いた怪談を他人に語る。それを聞いた者は更に別の者に語って聞かせ……。怪談の広がる勢いは驚異的で誰かが話したその日の内に全校生徒に知れ渡る。
「毎日毎日馬鹿みたいに沢山怪談を聞いたり話したりしてさあ、いい加減飽きないのかしら? 話を聞く度あれだけ本気で怖がれるってある意味すごいと思うわ。ああまたそのパターンかって思わないわけ?」
「さあ……」
さくらは首を傾げる。確かに皆常に誰かから語られる怪談を新鮮な気持ちで聞いているようだった。そうでなければもうとっくに飽きているだろうし、毎度恐怖に身を震わせはしないだろう。異常な出来事が最早日常と化してしまった今も皆、その日常のものと化した異常と出会う度泣き、喚き、叫び、逃げ惑う。だから現状が少しも良くならないのだ。
「このままじゃあたしもぱーちくりんになってしまう。今日の朝クラスメイトの誰かから怪談を聞かされた時、あたし『そんなものがいるのか、怖い、嫌だ』って一瞬本気で思ってしまったの。すぐはっとしていやいやそんな馬鹿なことあるはずがないって思い直したのだけれど。少しでも本気で考えてしまった自分を絶賛嫌悪中よ、あたしは」
「御笠君も昨日言っていたわね、怪談を聞いて本気で怖いと思ってしまったって。幽霊の存在を疑わず、ああそんなものが出るなんてとごく自然に考えてしまった……」
ほのりや環の『幽霊や妖怪なんているはずがない』という考えもこの学校の空気にあてられ、相当揺らいでいるようだ。ただあるだけでその空気は人の心を蝕み、狂わせていく。そして一度狂えばもう手遅れ、破滅からは逃れられなくなる。実際最初こそ「幽霊なんているわけないでしょう馬鹿馬鹿しい!」と強気に言っていたのに段々と弱気になっていき、最後には他の生徒と同じようになってしまった人が何人もいた。
(私は元々妖や幽霊が実在していることを知っている。だからよく分からないけれど……でも、今までその存在を信じていなかった人にとってこの空気はとてつもない力を孕んでいる。自分の常識を、自分の世界をいとも簡単に破壊できる程のものが……櫛田さんや御笠君も相当参っている様子だわ、このままじゃ)
そのことを考えていた時、ふとさくらはある人物の姿を思い浮かべた。恐らくほのりや環以上に「幽霊だの妖だのいるわけない」という思いが強い人のことを。
「御影君……」
ほのりは何で要の名前が、ときょとんとした顔。さくらも自分がその名を口にしてしまったことに気づき、はっとして口元を抑える。
「あ、いや、その」
「あいつのことが気になるの?」
そう尋ねるほのりの表情は気のせいか妙ににやついている。
「き、気になるっていうか……その、御影君もこの空気にあてられて櫛田さん達のようになってしまってきているのかなとふと思って」
「あいつが? ううん、どうかしら。大分参ってはいるかもしれないけれど、皆程おかしくはなっていないでしょうね。少なくともあいつが幽霊を見たとかいってパニックに陥ったってことはまだないと思う。もしそんなことがあったら絶対あたし達の耳にも入っているだもの」
「そう、そうよね……」
「あいつが幽霊をもし見る日が来たら……この学校も終わりね」
確かに、とさくらはその言葉に同意する。彼程『ありえない』ものを否定している人間は少なくともこの高校にはいないだろう。ほのり達がどうにかなってしまうよりも彼がおかしくなってしまうことの方がずっと怖いことかもしれない。
そんなことを話した数時間後――昼休み、次の授業がある教室へ向かう前に廊下でほのりと喋っていたさくらは要と会った。その顔を見てさくらはすぐに悟った。彼も相当この現状に参ってしまっていることを。というのも彼の目のもつ鋭く冷たい輝きが以前よりも明らかに衰えていたからだ。そのことには隣にいたほのりも気づいた様子。
「随分参っている様子ね、あんたも」
ほのりとさくらの顔をちらりと見ただけでさっさと通り過ぎようとしていた要は足を止め、ほのりをぎろっと睨む。その睨みにもいつも程の力は感じられない(さくらにとってはそれでも十分恐ろしいものであったが)。
「こんな場所に毎日居て少しもおかしくならない方がおかしいだろう。重苦しくておぞましくて、ただただ不快なだけの空気の満ちた空間にいるとどれだけ身や心に負担がかかるか、今嫌というほど味わっているところだ」
「へえ? あんたにも読めちゃうとか、今ここに満ちている空気ってのは相当やばいものみたいね?」
「まるでそれじゃあ僕が空気の読めない人間みたいじゃないか」
「読めないでしょうが、実際」
と散々彼が空気の読めない発言や行動をする場面に居合わせたほのりが言っても、要は納得できない様子。ほのりはため息をつき、まあいいやと言った。要もそのことに関して追及する様子はない。する必要性を特に感じないのだろう。要はさくらをちらりと見、それから吐き捨てるように言った。
「幽霊だの妖怪だのくだらない。そんないもしないものの為に皆して多くの時間を無駄にして、挙句周りにも迷惑をかけて」
「ま、それには同意するけれど。この状況なんとかならないものかしらね? 毎日本気の絶叫聞かされて、狂ったようにしか見えないような行動をとっている奴を目の当たりにして……いい加減心が折れちゃうわ」
全くだ、と要。そんな彼の顔色はあまりよろしくない。さっさとこの闇をまとった空気に呑まれることを頑なに拒み続けるのには相当なエネルギーを使うらしい。もしかしたらさっさとこの空気に呑まれてしまった生徒達よりも、異常な世界の中でなおも正常な状態を保ち続けようとしている人達の方がかえって危険な状態になっているのかもしれない。この場の空気に耐え切れず真っ先に完全に心を壊してどうにもならない状態に陥るのは要かもしれなかった。
「御影君、顔色悪い……大丈夫、じゃないよね。保健室で少し休んだら?」
要はさくらが自分を心配するようなことを言ってきたのが意外だったらしく、少し驚いたような表情を浮かべそれから首を静かに横に振る。
「授業を休むわけにはいかないから? けれど、あんまり具合が良くないのに無理して授業を受ける方がもっと」
「そういうわけじゃない。僕だってとうとう我慢出来なくなって休もうとしたさ、今日の二時間目にね。一時間位休んで、それから授業にまた戻ろうと思った。けれど結局……五分ともたなかった」
「何でよ? ベッドが空いていなかったから?」
「……教室にはまだまともな人間がいるから。その分教室の方がましだったんだ、保健室よりね」
それを聞いてほのりはああそうか、と納得した様子。さくらも要が言わんとしていることを理解した。
ここ数日保健室へ連れて行かれた人がどんな人間だったか思い出す。ぶつぶつと訳の分からないことを延々と呟き始め、誰に何を言われてもやめようとしなかった少女と、幽霊を見たのだと言って泣き喚いた後急に狂ったように笑いだし後はただひたすら笑い続けていた少女、突然大声で「ごめんなさい!」と言い続け始めた少年等等。いずれもまともな状態ではなかった。
(そういう人達が一堂に会しているのが保健室……確かにゆっくり休めるわけがないわ。教室にはまだまともな人も残っているけれど、保健室には誰も)
「保健室という名の地獄だよ、あそこは。ああいう人を一箇所にまとめるというのは得策ではないな……保健室やカウンセリング室等に連れて行くしかないことは分かってはいるけれど、そう思う。誰もまともな状態の人間がいないから、一向に落ち着きを取り戻さないんだ。多分それぞれの人がもっている恐怖や狂気が他の人間のそれを増長させてしまっている。だから良くなるどころかますます悪化して……保健の先生も限界寸前といった感じだった。無理もないだろう、まともじゃなくなっている人間が鮨詰め状態になっている場所にずっといるのだから」
延々と泣き続ける者、笑い続ける者、訳の分からない言葉を発する者、恐怖のあまり喚きながら自分の頭をかきむしる者――そんな人達しかいないような場所に居続けたら……想像しただけで寒気がした。妖達(敵意がないこと前提だが)に囲まれて飲み食いしても平気なさくらだが、あまりに不安定すぎる精神状態の人間に囲まれることは大変恐ろしいと思う。
「今はギリギリのところで踏ん張っているからいいけれど……いずれあたし達一人残らずおかしくなっちゃうかもね。明日は我が身かも。……ねえあんた、今回のことどう思う?」
「どう思うとは? 皆が見たものは正真正銘本物の幽霊や妖怪だと思っているか……ということ? だとしたら答えはNOだ。そんなものは存在しえない。本物かも、などと思ってしまう人間の気が知れない。まさか櫛田まで幽霊を信じ始めているのか? 勘弁してくれ、お前までそんなことになったら臼井の面倒を誰が見るんだ」
と要に指をさされてさくらはたじたじ。ほのりは別に問題ないでしょうと言いつつ、にやり。
「この子の正規の保護者は井上だしねえ」
「だから一夜は別に私の保護者ってわけじゃないわ」
と抗議するも二人して聞く耳持たず。どうして自分は誰かに面倒を見てもらわなければいけないような人間であると認識されているのか未だ分からずややむっとしつつ首を傾げる。
「何ならあんたが面倒見てあげれば? あんたがおかしくなることはまあまずないでしょうから!」
「じょ、冗談じゃない! ともかく、幽霊だの妖怪だのそういったものは存在しないんだ。いもしないもののことで騒いで学生の本分である勉学を放り投げて、他人の邪魔もして、全く迷惑千万だ」
と心底彼は迷惑しているようだった。だが矢張りその声にもいつも程の覇気は感じられず、鋭さもない。ほのりも「あんたも厳しいわねえ」と言いつつ彼に同意しているらしく何度も頷いた。
「あたしだって本当にいるとは信じていないわ。……少なくとも今はまだね。しかし一体今回の騒ぎはなんなのかしら?」
「真面目で悪戯に騒ぎを起こす人間にはどこからどう見ても見えない者が『屋上から女の霊が飛び降りるのを見た!』と言いだした。……勉強などで疲れていて、その疲れのせいで幻覚を見たんだきっと。僕は彼女を知っているが、意図的に騒ぎを起こして楽しむような子には思えない。そんな彼女の話を聞いた一部の人間が『見たという人がいるのだから自分にも見えるのかもしれない』と思い込んだ。そしてその人達が勝手に幽霊の幻を作り出し、幽霊を見たといって騒ぐ。その騒ぎを聞いた人達が『あの人もあの人も見たという。だから自分にも見えるのだろう、見えなければおかしいんだ』と考え……そんな風に『見た』人間が増えていったんじゃないだろうか。そして『見た』ことで幽霊などは実在するのだと確信した」
「一人の見間違いが他の人にありえないことを思い込ませ、そしてその思い込みが幻を生みだした。そしてその幻を見ることで『もしかしたら』って思いが確信に変わっちゃって、自分が今まで当たり前のようにもっていた常識がぶち壊れちゃったと。……たった一人の言葉に流されて自分の常識さえ捻じ曲げちゃうなんて」
「そうなった人が多くなればなるほど『ああ、自分がおかしいんだ。周りの人が見たというのだからいるんだ、本当に見えるものなんだ』と考える人も多くなったんだろうな。多数派の意見に流される人間が多いから……特に日本人は流されやすいという」
などと話しているが要もほのりも今あがった説に心から納得している様子はない。幾らなんでも無理がありすぎるのではないだろうか、と思っているのだろう。だが『本当に幽霊や妖怪はいる』という考えに比べればまだ現実的ではある……少なくともそれらが実在することを知らない彼等にとっては。
さくらは改めて考える。今回のこの騒ぎに『向こう側の世界』の住人は関与しているのかどうか。
(皆が『見た』という妖や幽霊は本物なのか、それとも幻なのか……私も落ちていく女生徒の姿を見た。見た途端全身が凍りついたようになって、怖くて苦しくてたまらなかった。ただの幻にあれだけのものを人に与えることが出来るのかしら? でも、皆の見たもの全てが本物であったというのも考えにくい気が……それに『幽霊や妖はいる、そして自分達にはその姿が見える』と皆思い込んでしまったというのなら、学校から出た後も色々見るのでは? どうして皆が『見る』場所が校内に限られているの?)
結局さくらはまだ出雲や弥助に今回の件を相談していない。学校から出るまでは彼等に話す必要のある事案だと思っているのだが、学校を出てしまうと自分の中での重要度が極端に低くなる。だから相談することを忘れたり、やっぱりいいやという気持ちになったりしてしまうのだ。そうなってしまう原因も今のさくらには分からない。皆が学校の敷地から出た途端普段通りの状態に戻ってしまう理由も不明だ。
(皆して勝手に幽霊などが見える範囲を学校のみに定めてしまった? でも皆が皆どうして? 本当に今東雲高校では何が起きているのかしら。出雲さん達に相談するにしても色々調べてからにしないと……調べたことをちゃんと話せればの話だけれど)
考え込んでいたさくらは自分の頭をぺちんと叩かれ我に返る。どうやら叩いたのはほのりらしく、彼女も要も訝しげな表情でさくらを見つめていた。
「あんたはまた自分の世界にトリップして。一体何を考えていたの?」
「え、あの、今回のことについて色々と……。この学校に今起きていることを色々調べられたらいいなって思って、その、調べれば原因が見えてくるかも」
「君が色々調べたところで何にもならない気がするが」
ぐさりとくる言葉。いつもよりは鋭さが足りないものの、それでもさくらを打ちのめすには十分過ぎる威力がある。「あんまりサクをいじめないでやってよ、この子はこの子なりに色々考えているんだからさあ」と言うほのりに対し、要は相も変わらず冷たい顔をしてふん、というだけ。
「で、でもあの……今回のことについて色々調べることは大事だと思うの。調べると分かることもあるはずで、その……誰か今回のことについて調べている人っているのかしら」
最後の方などちゃんと二人に聞こえたかどうかさえ怪しい。変なこと言うんじゃなかったと後悔しかけた時、要が口を開いた。
「……花澤」
「え?」
「花澤辺りは色々調べているかもしれない。調べたり、情報を集めたりすることが趣味だから……あいつは」
花澤さん、とは誰だろうかとさくらは首を傾げる。男なのか女なのか、何年生なのか……呼び捨てしているところを見ると同学年もしくは後輩の可能性が高いが。
ほのりはその人のことを知っているらしく「ああ!」と声をあげながら手をぽんと叩いた。
「ちよ! ちよね。確かにあの子ならこういうことは嬉々として調べているでしょうねえ!」
「あ、あのその花澤さんって?」
「ああ、あんたは知らないのか。一年の時も別のクラスだったしね」
「臼井の場合は同じクラスになった者さえろくに覚えないからな」
またまた、ぐさり。ほのりに対して何か言う時より、自分に何か言う時の声の方が冷たく鋭い気がするのは果たして気のせいだろうか。要に冷たい眼差しを向けられたじたじしているさくらにほのりが『花澤』のことについて教えてくれた。
「花澤、花澤千代子。あたし達と同学年の女子で新聞部の部長よ」
「ああ、あのやたらクオリティの高い学校新聞を作っている部活の」
「そう。あたしと要の幼馴染でね、昔はよく遊んだっけ。ある意味有名人だけれど、まああんたはそういう人のことさえ知らないからね……そうねえあの子ならうん、間違いなく調べているわ。放課後辺りあの子を捕まえてみましょう。それでもって色々聞いてみましょう? あたし達が知らない情報も何か掴んでいるだろうし」
「勝手にすればいい。それじゃあ僕はもう行くよ」
そう言って要は再び歩き始める。その声には疲れが滲んでいて、彼とそこまで親しくないさくらも心配になってしまう位だ。
「あたしもあの子の話を聞きたいかも。今回のことが気になるのはあたしも同じだし。あたしが話してくれって言えば多分話してくれるわ。個人のプライバシーとかに深く関わるようなことはぺらぺらと話さないけれど、こういうことならねえ」
というわけでさくらとほのりは新聞部部長で同学年の『花澤千代子』に話を聞きに行くことになったのだった。