学校の怪談~開花への階段~(2)
*
少女は身を固くして机に座っていた。先生が絶えず話しているが、それが一つも頭に入ってこない。黒板に文字を書き込むカツカツカツという音だけは何となく聞こえ、それが少女の体に楔を打つ。まともに呼吸が出来ず、冷や汗がだらだらと流れる。目の前にあるノートに自分が何を書いているのか、そもそもまともな文字を書いているのかさえ分からなかった。体中が冷たい、いや、熱い、どちらだろう、震えて、痺れて、痛い。
今の彼女の頭の中は怪談のことでいっぱいだ。
――四時四十四分四十四秒に音楽室にあるピアノの前で『ピアノさんピアノさん起きてください』って言うとピアノが動き出して、言った人を食べちゃうんだって――
――昔ここに迷い込んで、男子生徒達に遊び半分で蹴られて死んじゃった野良犬の幽霊が運動場に出るんだって――
――三階の廊下には呪われた場所っていうのがあって、そこの上に血を落とすとそいつは死んじゃうらしいぜ――
――図書室に『死の宣告』っていう本があって、その本を読んだ人間は一週間以内に死ぬらしい――
――理科室で……――
誰から聞いたものなのかもう覚えていないが、話の内容はどれも覚えていた。聞いた話を誰か他の人にも話したくなり、自由な時間が来る度誰かに話した。何故かそうせずにはいられなかった。聞いた話を、或いは自分が抱いている恐怖などを他の誰かと共有したかったからなのかもしれない。
どれもこれも他愛もないもので、あの日『幽霊』を見るまでの自分だったら「ふうん」と言って適当に聞き流し、そしてさっさと忘れてしまっていただろう。所詮は虚ろの物語、現の世界では生きられないものなのだ。特別面白いものでもないし、覚えていたからといって何の得にもならない。
しかし今は違う。自分が耳にしたどれもが本当に起きるものだと、現の物語なのだと彼女は信じて疑っていない。自分は別に怖がりでもなんでもないし、オカルト話を何の抵抗もなく真実の物語として受け入れるような脳内お花畑人間ではない。妖怪だの幽霊だの、そんなものを当たり前のように信じている人間なんてクラスメイトの臼井さくら位のものだった。……少なくともつい最近までは。今や校内にいる殆どの者が、他人から聞かされる或いは自分が誰かに語る『怪談』が真実の物語であることを信じている。当たり前のように、それが普通のことであるように。妖怪も幽霊も、この世に実在するものなのだと思っている。
少女の頭の中で、今まで聞いた『学校の怪談』の数々が笑いながらぐるぐると廻っている。部活中の不幸な事故で死んでしまった生徒の霊、二階のとある階段から落ちて死んだ女生徒の霊、昔あったという宿直室で首を吊って死んだ教師の霊、常に四つん這いで移動するという全身ずぶ濡れの女『ひたひた様』なるもの、呪われた野球ボール、四時四十四分に顔を出すと死んでしまうという窓、血で出来た染みが現れるという天井……。
どれも考えただけで恐ろしい。先程――十四時二十七分三十一秒に先生に指されなくて良かったと少女は思っている。昔その時間に指された少女が心臓発作を起こして死んだらしく、以来その時間に先生に指されると死んでしまうのだそうだ。その時間授業をしていた先生は誰も指さなかった。皆がほっと安堵の息を吐いたのを、同じくほっと胸を撫で下ろした彼女は聞いていた。その時だけ、彼女は少しだけ気持ちが楽になった。ほんの一瞬のことではあったが。
(後少しで授業は終わる……そしたら掃除をして、ああ、私は今週教室掃除だ……掃除用具入れは開けて道具を出したらすぐ閉めなくちゃ……異界に連れて行かれてしまう……掃除が終わったら部活をして、その時あの廊下を渡らないようにしよう、あそこには人を転ばせる妖怪がいるというから……部活が終わったら、さっさとこんな学校からは出てしまおう。そしたら楽になれる……)
さわ。
これからのことを考えていた少女は、誰かに腹を撫でられたような気がして、ぎくりとする。びくりと跳ね上がる心臓、それと共に跳ねる体。妙に冷たい何かが、自分の腹をずっと撫でている。さわ、さわ、さわと。ああ、息が出来ない、体が熱い、寒い、誰か助けて。
見てはいけないと少女は思った。気のせいだ、気のせいだ、誰も私のお腹を触ってはいないと自分に言い聞かせる。しかしその気色悪い感覚は消えない。そしてそれが少女にある怪談のことを思い出させる。
(そういえば、ここは、この机は……私、ちゃんと聞いていたはずなのにどうして今まで忘れていたんだろう、一番私が覚えていなければいけないものだったのに、あれは……)
誰かの声が頭の中に再生される。その声はある怪談を語っている。昼休みに聞いた怪談でそれは自分に――いや、自分が今いる席に関わるものであった。
――この教室のね……入口から入って三列目、前から四番目の机に座っている人は気をつけないといけないんですって――
(ああ、やめて、やめて……)
――そこに座っていた人が二十年前、急に腹痛を訴えて倒れちゃったの。その子は病院に運ばれたんだけれど死んじゃったんだって――
(やめて、やめて!)
うっすらと目に涙が浮かぶ。耳を塞いでもその声は遮れない。だってそれは自身の脳内で再生されているものなのだから。さわ、さわ、ゆっくりとそしてねっとりとした動きで『それ』は少女の腹を撫で続ける。
――それでね、それ以来ね……死んじゃった子の幽霊が同じ場所にある机に憑いて、座っている子のお腹を撫でるんだって。そうしてお腹を撫でられるとね……――
少女は自分の腹の方へ目を向ける。本当はそうしたくなかったが、自身を襲う感覚が気のせいかそうでないか確認するにはそうするしかなかった。気のせいだと思いたかった。気のせいならどれ程気持ちが楽になるか。
だが、その願いは聞き入れられなかった。少女の腹をからからに干からびた、緑のような茶色のような不気味な色をしている手が撫でている。少女は思わず椅子を引き、それから震えつつ机の中を覗き込み。
消えた教科書、代わりに机の中をいっぱいにしているのは闇。ぎょろっとした目玉が二つこちらを見ていて、大きく裂けた口は笑っていて、歯はなく、紫色の舌が覗いていて……。
「見つかっちゃった」
――酷い腹痛に襲われて、何時間も苦しみながら死んじゃうんだって……――
*
恐怖に満ちた悲鳴が教室内に響き渡った。さくらはその声に体をびくんと反応させ、びっくりしたと胸に手を当てながらも思った。
ああ、まただ……と。
ここ最近、最初から最後まで何事もなく授業が出来た試しがなかった。大抵誰かしら悲鳴をあげたり、突然泣きだしたり(殆どは女子だった)、倒れたりしてしまう。すると緊張の糸がぷつんと切れたらしい他の子達まで泣いたり喚いたりしだすのだ。昨日に至っては英語担当の女性教師が天井から血まみれの女が出てきたと言って泣きだし、比較的落ち着いていた生徒に慰められる始末。そういった出来事は授業中に限らず、休み時間や放課後にも起き、一日に何十回も誰かの悲鳴を聞く羽目になっていた。さくらはほのりや環達から聞く怪談よりも、狂ったように泣く人の姿や耳をつんざくような悲鳴などの方が余程怖いと思う。一昨日近くに座っていた女子が他の生徒が悲鳴をあげたのを聞いて、ぶつぶつと魔除けの呪文らしきものを小さな声でぼそぼそと唱え始めたのを聞いた時には本当にぞっとした。また無表情で言うから余計に怖かった。
掃除の時間の時も、教室掃除のグループが誰が掃除用具入れを開けるかで揉め、トイレ掃除をしていた女子が幽霊を見たと言って大騒ぎし、廊下にある窓を拭いていた男子が血の手形を見たといって絶叫したという。
「ああ、もう本当嫌になっちゃうわ」
黒くてどんよりとしたものを息と共に吐きだしながら、ほのりは頭を抱える。机に座ったままぐったりしているそんな彼女をさくらは見下ろしつつ苦笑い。こんな風になってしまうのも無理はないとさくらは思った。精神状態がまともであればあるほど辛い環境である。
「何だか日に日に状況が悪化しているわよね……」
辺りを見やれば、いきいきという言葉とは程遠い様子の生徒達がぽつぽつと。皆して語るのは怪談ことばかり。話せば話す程彼等は元気を無くしていく。そのくせ話すのをやめようとはしないのだ。
例の幽霊を全校生徒の殆どが目撃してからというもの、自分が聞いたというこの学校に伝わる怪談を語るものが増えていった。始めの内はそれでも平和ではあった。今ほど多い数の怪談が一度に広がるということもなく、話を聞いて「怖いねえ」と言う生徒達の心にもまだ余裕があった。話を聞きながら笑う者だっていた。あれを見たこれを見た、あれに何をされたと騒ぎだす人もまだ少なかったように思える。
しかし少しずつ皆の間で語られる怪談の数は徐々に多くなっていった。そうして校内に多くの怪談、そして生徒達の恐怖心が積み重ねられていき、そしてそれらは黒くて重くて禍々しいものに姿を変え、ここで毎日を過ごす者達の心や体を蝕んでいった。それに蝕まれたことで生まれた恐怖心を始めとした負の感情がまた積み重ねられ、空気を悪くし、それが心を更に蝕み……それを延々と繰り返しているようだった。
心が蝕まれたことによって自身を守る力も弱まったのか、多くの生徒(或いは教師)が自分が聞いた怪談通りの幽霊や妖、ありえない現象を見るようになっていった。そしてそれによって心が引き裂かれ、その恐怖に、痛みに人々は悲鳴をあげる。恐怖に満ちた悲鳴や表情、行動などは他の人の心を抉り、傷つけ、そしてそうされた者達もまた同じように叫んだり、泣いたり、とんでもない行動をとったりする。そして恐怖は更に積み重ねられ……。
(今はもう、自分が見たTVの話をする人よりも怪談を話す人の方がずっと多い)
さくらも最初の内は自分が聞いた怪談をノートに書き留めていたが、耳にする怪談の数が増える内もうどうにもならなくなって、結局書くのを諦めてしまった。割合根気のある(少なくとも紗久羅や一夜程は短気でない)さくらでさえ匙を投げてしまう程の怪談がこの学校に存在している。最早生徒の数より怪談の数の方が多いのではないかと思える程だ。
「皆口を開けば怪談、怪談、怪談……しかもそれを聞いて本気で怖がって!」
「誰かの作り話――という可能性を最初から誰も考えていないって感じよね……自分が耳にした怪談は全て真実の物語であると信じて疑っていない感じがする」
「そうなのよねえ……。本気で聞いて、本気で信じて、本気で怖がる。本来怪談ってのは一種のエンターテイメントだとあたしは思うのだけれど。話を聞くことで味わう感覚とか楽しむ感じ。怖くて仕方ないけれど、楽しい。……でも今の皆は怪談を語ったり、聞いたりすることを楽しんでいるって感じじゃないのよねえ。喜びはどこにもなくて、あるのはただ恐怖ばかり。怪談は話のタネじゃなくて、自分の身を守る為の情報として認識している印象もあるわね。わいわい雑談しているってより、本気の情報収集って感じで嫌になるわ」
確かに最近は誰も笑ったり、「ああもうやだこわーい」といかにも嘘くさい表情を浮かべたりしながら怪談を聞いたり話したりしていない。顔に張りついている恐怖に『楽しい』という思いは混ざっていない。恐怖することで得る快感などなく、ただただ純粋な恐怖にとり憑かれているのだ。
部室へ行けば、先に来ていた環達が今日起きた出来事について語っていた。勿論全て『怪談』に関わる物事である。
「今日なんか……五時間目だったかな、クラスの女子がいきなり『もう嫌!』って叫んだかと思ったら教室を飛び出していっちゃって。慌てて探しに行ったら近くの階段前にしゃがみこんで泣いていたそうです」
「今日もそういう風に突然叫んだり、泣きだしたりする人が多かったですね。私はそうして叫んだことはまだないですけれど、昼休み私が廊下でつまずいた時は」
「ってまたひいちゃん何も無い所でつまずいたわけ?」
呆れ気味にほのりが言うと陽菜が照れくさそうにえへへと笑う。本当君って何も無いところで転ぶ達人だよね、とじと目で彼女を見ながら環が言うと「それほどでも」と言い。誰も褒めていない、と言う言葉ももう彼女相手には言い飽きたらしい環はそれ以上何も言わなかった。
「それで、ひいちゃんがつまずいた後何かあったの?」
「はい。そしたらそれを見ていた女子達に『深沢さんがひっかけ坊に足を引っかけられた』って言いだして大騒ぎになっちゃいました。なんでも通りがかる人の足を引っかける妖なんだそうです」
さくらはその妖のことを桜村奇譚集で読んだ覚えがあった。
「足を引っかけることが大好きな、男の子の姿をした妖らしいわね。といっても普段姿を見せはしないようだけれど。足をひっかけるだけでそれ以外のことは特にしないらしいわ」
彼女より先にその妖について語ったのは現状を憂いている様子の佳花だった。彼女もまた妖の物語に詳しい。桜村奇譚集も読んだことがあるようだ。ほのりははあ、とため息。この頃彼女はため息ばかりついている。
「誰かがつまずいただけで大騒ぎなんて冗談じゃない! でも最近はそういうことが多いわよね。何気なくやったことで周りの人が騒ぐってパターン。この前なんて教室でため息ついていたら『櫛田さん、ため息をつくと魂が体からどんどん抜けていっちゃうよ!』なんて女子が言いだしてさ!」
「怪談というより、迷信という感じね……」
確かに、と佳花の呟きに皆同意。最初の内はいかにも『学校の怪談です』といった感じの話だったが、今や何でもありといった風になっている。学校の怪談から妖怪が云々という一般的な怪談、そして怪談というよりは『カメラで写真を撮られると命を吸われる』『夜に爪を切ると親の死に目にあえない』といった『迷信』にカテゴライズされるようなものまで様々だ。
「最早この学校『ぞっとする話のお鍋』って感じよね。学校っていう土鍋に色んな怪談諸々が突っ込んである」
「しかも味は整っていないのよね。異様な匂い、色味、味って感じでただただぐちゃぐちゃ滅茶苦茶。更にそこに皆の恐怖心が混ざって」
ほのりの言葉にさくらが続く。環や陽菜は何となく分かるかも、と小さく頷いた。
「今の学校は異常ですよ、もう。何かもう空気がおかしい。学校にただ来ただけで体はずっしり重くなって、気持ちもこの異様な空気に押されて沈んでいきますし……この部室にいる時は少し楽になりますけれどね。でもそれ以上におかしいのはここで日々を過ごす生徒達だ。皆今の学校や自分達の異常さに気がついていない気がします。この現状を妙だとか変だとか少しも思っていない。僕も少し油断していると忘れてしまうんです、この学校の異常さを……こうして『今学校はおかしいんだ』って考えることが段々少なくなっている気もします。いずれ皆と同じようになってしまうかもしれない。変だと、妙だと思わなくなるかもしれない……時々『幽霊や妖怪は本当にいるんじゃ?』なんて風に考えてしまうこともありますかし、本当嫌になります」
誰もその言葉に対して「自分は違う」とは言えなかった。さくらもそうだった。殆どの生徒が今の学校の異常さに気がついていない。自身も時々この学校が異常であることを忘れてしまう。そしてはっと我に返った時、どうして自分は忘れるはずのないことを、忘れてはいけないはずのことを忘れてしまっていたのだろうと思いぞっとするのだった。
「学校から出るとますます忘れちゃいますよね、この学校がおかしいということを。皆の叫ぶ声などを聞いてとても怖い思いをしたはずなのに、家に帰るとそのことを忘れちゃうんです。恐怖した、という事実が記憶の彼方へ追いやられて。他の方達も学校で幽霊などを見たこと、恐怖に震えながら授業を受けていたこと、怪談を聞いて怖い思いをしたことなど学校から出ると忘れてしまっているような気がします。死人のような顔をしていた人達が肛門を出てしばらく歩く内にどんどん元気になっていって、最後にはすっかり元通りになって『カラオケ行こうぜ』とか『ゲーセンに行こう』って笑いながら言う……そんな光景をよく目にします。話の内容も怪談云々ではなく、TVがどうとか音楽がどうとか……いつも通りのものになって。私の友達で、一昨日幽霊を見たと言って泣いた子がいました。その子、放課後までずっと泣いたり泣き止んだりを繰り返していて、顔色もものすごく悪くて今にも倒れそうな様子だったのに校門を出た途端に元気になったんです。それまでのことは全て演技だったんじゃないかって思う位の変わりようでした」
「ああ、ひいちゃんの言う通りだわ。皆学校から出るといつも通りの自分に戻るのよね。何か、学校の敷地に足を踏み入れると発動する催眠にでもかかっているんじゃないかって思う」
「確かにそんな感じですね……実際誰かとんでもない悪戯っ子がかけたのかもしれませんね、こうなるように仕向けるような暗示を。暗示にかかっていもしないものを見てしまうようになったり、何かにとり憑かれたかのように怪談などを話すようになったりした」
「だとしたら一体誰でしょうね、そんなろくでもない暗示をあたし達にかけやがったのは!」
「皆が見たという幽霊や妖が本物であるという可能性は」
「ない!」
さくらの問いにほのりと環は即答。だがいつもに比べてその声はどこか弱々しい。彼等も自信をもってそう断言出来なくなってきているのかもしれない。彼等が自分のこの言葉を即座に否定出来なくなる日がいずれ訪れるのだろうか、と思ったら恐ろしくなった。二人を見つめている佳花はどこかほっとしているような表情を浮かべている。彼女もまたさくらと同じようなことを考え「一応すぐ否定出来る程度には正常の状態なのだ」ということが確認出来て安堵したのかもしれない。
(けれど、実際のところどちらなのだろう。今この学校に現れている幽霊や妖は本物? それとも幻覚?)
出雲に聞けば何か分かるだろうか、とさくらは思った。まともに答えてくれるかどうかは分からないが一度聞いてみるのも手かもしれない。そして彼に話を聞くことで何かをつかめば、現状をどうにかする方法も見えてくるかもしれなかった。
自分が学校から出た後も今の東雲高校がどれだけ異常であるかということ、一刻も早い解決が必要であると認識していることをしっかり覚えていればの話だが。