第四十九夜:学校の怪談~開花への階段~(1)
『学校の怪談~開花への階段~』
「え……『例の幽霊』を見た? 一年の生徒が」
「そう。ジュースを買っている時に一年の生徒達がそんなことを話しているのを聞いたの」
そう言ってほのりはぱくりと卵焼きにかぶりつく。それを飲み込んでから、もっとも詳しいことはよく分からないけれど、と付け足した。どうやらそのことが原因で一年のあるクラスは大騒ぎになったという。そういえば先程の授業の時間、やたら階下が騒がしいような気がするなあと思っていたが、成程どうやらそれは気のせいではなかったらしい。
珍しくさくらが他のグループの会話に耳を傾けてみれば、どこもその騒動のことで盛り上がっているようだ。騒ぎがあったのはつい一時間少し前のことで、しかも昼休みが始まってからまだ十五分も経っていないというのにもう話が広がってしまっている。放課後になる頃には全校生徒に『例の幽霊を一年生徒が見たと言って大騒ぎになった』という話が行き渡るのではないかと思える位の勢いにさくらは正直恐怖を覚える。噂というのはこれ程までに早く広がるものなのか、と首を傾げもする。
よくよく考えてみれば今回一年生徒の誰かが見たという『幽霊』の話もあっという間に学校中に広まったものであるようだった。誰が最初に話しだしたのかは分からないが、下手すると一日ちょっとばかりで学校中に知れ渡ったものであるかもしれなかった。少なくともほのりとさくらは月曜日に環と陽菜から聞かされるまではそんな怪談がこの学校に存在していることなど知らなかったし、彼等もまた月曜の昼休み頃に聞いたばかりだったという。そしてそれより前の日に誰かがその話で盛り上がっているのを聞いた覚えはないそうだ。それは三年の佳花も同じであるらしかった。勿論ただ自分達が知らなかっただけで、先週或いはそれ以前に一部の人の間では知られていて、騒がれていたかもしれないが。
箸をかちかちさせながらほのりは背後にある窓の方を見やる。
「しかしまさか『見た』って言いだす人間が現れるとはねえ」
「あの話やっぱり本当なのかしら?」
さくらは妖や精霊と言った人ならざる者が実在していることを知っている。だからあの怪談が本当であったとしてもおかしくないと思っていた。しかし目の前にいるほのりはそうではない。彼女はさくらの呟きを聞くやいなや「まっさかあ!」と笑いながら顔の前で手をぶんぶん振った。
「見間違いでしょう、どうせ! 退屈な授業で頭がぼけっとしていたんじゃない? そんな時に時計を何気なく見たら十一時二十八分十三秒近くで『ああそういえばこの時間になると昔自殺した女子生徒の幽霊が屋上から飛び降りるんだっけ』って例の怪談話のことを思い出してさ、それでもってその時間に窓の外に目をやったものだから……」
「十一時二十八分十三秒という時間と、怪談話が頭の中で結びついて『幽霊』の像を作り上げてしまった?」
「人間寝ぼけていると幻覚とか見ちゃうものよ。あたしも夜時々見るもの。眠っているんだか起きているんだかよく分からない時に。その生徒が相当なびびりだったって可能性もあるわね。もし屋上から落ちる女の幽霊なんて見たらどうしよう、どうしよう、あああんな話なんて聞かなきゃ良かったってずっと考えてぶるぶる震えていて、結果的にいもしないものを見たのかも。或いは悪戯とか。悲鳴をあげて、幽霊を見たって言って皆を驚かせてやろうってさ。いかにも悪ガキがやりそうなことだわ!」
幽霊が本当に出たってより、そっちの方が余程可能性としては高いでしょうとほのりは言う。さくらは曖昧に笑い、それもそうねと言ったが本当にそうなのだろうかと内心では思った。もしかしたら本当に出たのでは、という可能性を捨てきれない。この辺りの土地は色々歪んでいて、そしてその歪みは人ならざる者を引き寄せたり、あちらとこちらの世界の境界を曖昧にする。そういう場所だから幽霊が出たとしてもなんらおかしくはないのだ。
「サクは本物であって欲しい? その誰かさんが見たっていう幽霊が?」
そう尋ねられてさくらは戸惑う。本物の幽霊――その響きには心惹かれるものがあった。あったが……。
「偽物であって欲しい……かも。だって正真正銘の幽霊だったとしたら……この学校で自殺したっていうその女性は何十年経った今もこの世を彷徨い続けているってことになるでしょう? それって何だか悲しいなと思うと」
「成程ねえ、確かにそれもそうだ。ま、大丈夫よ見間違えか悪戯、そのどちらかに違いないだろうから。それにしても何だって急にあんな話が広がったのかしら?」
「本当、どうしてかしら?」
そう言ってさくらとほのり、二人して首を傾げるのだった。
*
――あのね、何十年か前にこの学校で自殺した女子生徒がいたんですって――
――自殺、まじ?――
――十一時二十八分十三秒にね、学校の屋上から飛び降りたんですって。その人の魂は成仏出来ず、毎日十一時二十八分になると屋上から飛び降りるそうよ。毎日、毎日。成仏出来るまでずっと繰り返すそうよ――
――でも幽霊が飛び降りる姿なんて一度も見たことがないんだけれど――
――それはこの話を初めて聞いたからよ。この話を知らない人には決して見えないんですって。けれど、この話を聞いた後十一時二十八分十三秒丁度に窓の外を見ると……――
――見えるの?――
――そう。まあ、必ずというわけではないようだけれど。二十八分十三秒丁度にぱっと見る必要があるみたいだしね――
――ふうん。しかしそんな話があったなんてなあ……――
――怖いわよね……ああ嫌だ嫌だ、そんなもの出来ることなら見たくないわねえ!――
*
今日一年のあるクラスで起きた騒動について詳しい話を聞いたのは放課後――部活中のことであった。
ほのりがその話を口にしたところ、環が「先輩方の耳にももう入っていたんですねその話」と言いだしたのだ。もしかして、とほのりが聞くと環が頷いた。幽霊を見たという一年生徒というのは環のクラスの者だったようだ。
「誰よ幽霊を見たなんて言って騒いだのは。悪ガキ? チキン野郎?」
その問いに対し環は首を横に振る。「まさか御笠君が?」などと本気で問うたのは彼の隣に座っている陽菜だ。環は顔を真っ赤にしながら彼女を見「そんなわけないだろう!」と即答。確かに御笠君が幽霊を見たとか何とか言って騒ぐなんてことはありえないでしょうね、とさくらはそのやり取りを見て苦笑い。
「でも悪ガキとかでは決してありません。……委員長なんです、僕達クラスの」
えっ、と驚いたのはさくらとほのりだ。二人は環のクラスの委員長のことを知っていた。文化祭の準備を男子生徒達に邪魔され怒った榎本という少女をなだめ、ついでにその男子生徒にデコピンした娘である。さらさらとした黒髪に涼しげな瞳のクール系美少女といった風の彼女は確かに悪ガキなどでは決してないだろう。
「あの幽霊とか見ても動じなさそうな感じの子が? 嘘でしょう?」
「それが本当なんですよ。十一時二十八分十三秒でしたっけ? その時に窓の外に目をやったらしくて……すごかったですよ。初めは掠れた声で『あっ』って言ったんです。それから少しして、心から恐怖しているような悲鳴をあげたんです。それでそのまま転げ落ちるようにして床に」
委員長――安達は床の上にぺたりと座り込み、顔を青ざめぶるぶる震えていたという。頭の中はパニックになっているのか訳の分からないことを呟き、呼吸は荒くなり、先生や周りの人が問いかけてもしばらくは何も言わなかったという。
「何度も先生にどうしたんだって聞かれた後……言ったんです『誰かが落ちた、屋上から落ちていった』って。多分女の人だったって、例の幽霊だって……。それから念の為先生が下の様子を確認したんですが、そこには何の姿もなかったみたいで。例の怪談話は皆知っていましたから、もうその後は大騒ぎでしたよ。安達さんは一応保健室に行きましたが、彼女が出て行った後も騒ぎはなかなか収まらなくて」
「その姿を見たと言ったのは、安達さんという子だけ?」
本を読んでいた佳花が顔を上げて尋ねると環はこくりと頷いた。
「彼女以外には、誰も。他のクラス或いは学年にも同じように騒いだ人がいたって話も聞いていないです。これが悪ガキ男子とかだったら皆をびっくりさせる為に見てもいないものを見たって言って騒いだんじゃないかって思ったんですがね……去年の十一月十一日の十一時十一分に『チョコッキー!』っていきなり叫んで皆をおどろかした男子とかが言ったなら『またか』で済んだと思います」
どうやら去年、チョコッキー――棒状のクッキーにチョコレートがかかった人気のお菓子――の日ということになっている十一月十一日の十一時十一分にそんなことを言った馬鹿がいるらしい。そんな馬鹿なことを高校生にもなってやるのがいるとは、とほのりは呆れ気味だ。
「けれど悲鳴をあげたのは安達さんで……。まあ彼女、意外に茶目っ気のある人ではありますが」
「そんな茶目っ気のあるいいんちょちゃんとお茶会デートしたんだっけ?」
「だからデートじゃありませんって! お茶を飲んだことは認めますが! ああ、何であの時うっかり口を滑らしちゃったんだ僕」
つい一昨日自分がやらかしたことを後悔し、頭を抱える環の顔は真っ赤だ。あれを聞いた時の櫛田さん、とても輝いていたなあとさくらは苦笑い。
「って今はそれは関係なくて! こほん、確かに安達さんは結構茶目っ気のある人です。冗談とかも普通に言いますし、人を茶化すのも割合好きそうですし。でも、授業中に幽霊を見たといって騒いで授業を駄目にして喜ぶような人ではないと思います。授業は真面目に受けて、程々ふざけるのはそれ以外の時間で……そんな当たり前のことがちゃんと出来る人だと少なくとも僕は考えています」
「だから悪戯でやったとは考えにくいと」
はい、と環。ほのりもさくらもそれには納得だった。勿論人間というのは誰にも知られていない部分を持っているもので、真面目に授業を受けつつも心の中ではずっと授業を思いっきりぶち壊してやりたいと思っていた……ということも絶対にありえないとは言い切れない。しかしそれでも彼女が悪戯目的でやったのかもしれない、という考えはピンとこなかった。
演技、というのも考えにくい気がするんですよねと環は言う。
「演技だとしたら彼女、相当すごいですよ。教室の空気を悲鳴と自分の震える姿だけで一瞬にして凍りつかせたんですから。何か黒くで冷たくておどろおどろしいものに教室が包まれた気がしたんです……あの時」
「じゃあ彼女は本当に屋上から飛び降りた幽霊を見たと?」
首を横に振る。しかしどこかその動作は自信なさげで。いつもの彼だったら自信満々にそんなわけないじゃないですか、馬鹿馬鹿しいと首を振るだろうに。
「何かは見たのかもしれません。でもそれは幽霊なんかではないと思います」
「見間違い、か」
「それなりに大きなものだったのかもしれません。或いは全然大きいものじゃなかったけれど、安達さんも聞いただろう怪談が頭にあったせいで人のように見えたんじゃないかなと僕は思います。けれど、クラスの人の中には『安達さんが見たと言っているんだから本当にあの幽霊はいるのかも』って言う人もいるようで。その気持ち、全く分からないでもないんですが……」
見た、と騒いだ人間がかなり真面目でちっとやそっとのことでは取り乱さないような少女であったが為に皆『絶対にありえない』と言い切れないようだ。あんな怪談話を真に受けるような人にも思えないし、と環は付け加える。
「冗談で『あら、そんな幽霊がいるの? 怖いわねえ』とか言って笑いながら体を震わせてみせる、なんてことはしそうなんですが。何かを女生徒の幽霊と見間違える位あの話を信じていたり、あの話のことばかり考えていたりするってこともなさそうですし」
「今日のその騒ぎをきっかけに、十一時二十八分十三秒に窓の方に目をやって『幽霊を見た』と言って悲鳴を上げる人が増えていかなければいいけれど……」
佳花は明日以降のことを心配している様子だった。確かに今日の話を聞いて「自殺した幽霊は本当にいる」と思い込んでしまった人が一人二人いるかもしれない。そしてそんな人間が明日以降窓の外を見やり、屋上から落ちていく人の姿を見てしまうかもしれない。更にその出来事が他の人達の心に悪い形で作用して……。
そんなことないない、とここにいる誰もが言えなかった。さくらもそうだった。「何となくそんなことになりそうな気がする」という悪い予感を拭うことがどうしても出来なかった。
それは今回の幽霊騒動について話している内に生まれた、重く嫌な空気が部室を包み込んでいるからかもしれない。
次の日。佳花が心配していた出来事が本当に起きてしまった。
「きゃあ!」
「うわ!」
さくらはその悲鳴を聞いてびくりと体を震わせた。叫んだのは女子が十人に男子が七人。それを聞くまでさくらは授業に集中していた為、例の怪談のことをすっかり忘れていた。叫んだ内の一人――窓際に座っていた女子が窓を指差し、震えている。窓の外に広がるのは青い空に白い雲、他には何も無い。
彼等の悲鳴を聞いた途端生徒達が騒ぎ出す。もしかして幽霊、まじでいたのか、うわ怖い、本当に落ちていった、女が、血だらけの女の姿が見えた、そんなわけあるか、何だか寒い……。授業をしていた先生が静かにしろ、と言っても誰もその口を閉じようとはしない。幽霊を見たという人、見ていない人、誰もが興奮と恐怖でおかしくなっており、あっという間に教室内は禍々しく、ねっとりとしていて、とても気持ちが悪い空気に包まれてしまった。
「お、ちた、落ちた! 嘘じゃない! 本当に落ちた!」
悲鳴をあげた内の一人である少女が青ざめながら泣きじゃくり、その近くにいた女子が彼女の恐怖心にあてられて泣きだし、本当に誰か落ちたのかと興味津々に数人の生徒が窓際に殺到し、窓を開けて下を覗きこむ。危ないと先生が怒鳴ってもやめやしなかった。
隣の教室からも声が聞こえるような気がした。騒いでいないクラスなどもしかしたら一つも無いのかもしれない。さくらは席についたまま呆然としているほのりを見る。ほのりもその視線に気がつき、見つめあった。まさか本当にこんなことになるなんて……と二人共驚きを隠せない。
その後先生が外の様子を見に行ったが、矢張り誰かが落ちた形跡は見当たらなかったという。昼休みは再びこの出来事の話題で持ちきりにだった。しかしいつも通りのわいわい賑やか和やかムードとはどのグループも程遠い。喋る声にはどんよりとした重みがあり、覇気が感じられない。表情も皆どこか固く、災いを呼び寄せる邪悪なる神の顔とはこのようなものではないだろうかと思える程だ。強く吹いた風が窓を叩いただけで悲鳴をあげ、誰かが手で外から窓を叩いていると言いだす者もおり、そういう人が現れる度皆の心が乱れていく。
三時間目の出来事がもたらした嫌な空気は後になっても消えない。むしろ時間が経てば経つ程濃くなってさえいるようにも感じられる。
部活へ行けば、環も陽菜も佳花も皆元気がない。三人のクラスも矢張り幽霊騒動で滅茶苦茶になったという。
「私のクラスの女子が狂ったようになって教室を飛び出して……それを見た子達がまたパニックを起こして……私もそれを見たら何だか急に怖くなりました。幽霊なんて見ていないのに、何だか見たような気にさえなりました」
「どのクラスもそんな感じだったようね。誰かしら『幽霊を見た』と騒いで、その人の動揺や恐怖が他の人にも伝染して。このままだと明日はもっと酷いことになってしまいそう」
「たった一人の生徒が幽霊を見たと言って騒いだだけで……こんなことになるなんて、信じられないです。安達さんは今日は幽霊を見なかったそうですが、終始怯えている風ではありました」
「今日以上に酷いことになったらたまったものじゃないわ。あたしも窓の外は見なかったけれど、見たと言って騒いでいる人達の姿を見たら怖くなったわ。恐怖は伝染するって本当の話なのね」
ほのりのつくため息は、重い。ここにいる者は皆そんな息を吐いている。それらは吐き出された後も消えることなく室内に漂い、ただでさえ重苦しい空気をますます重くさせるのだ。
「あの人達の悲鳴とかって妙に説得力があって……本当の本当に幽霊を見たんじゃないかなって思えてしまうわ」
「幽霊なんていませんよ、いるわけがないじゃないですか。臼井先輩は相変わらずですね」
と言う彼の呟きは果たして本当にさくらへ向けたものだったのか。もしかしたら自分自身に言い聞かせているだけなのかもしれない。いつもの嫌味と自信たっぷりな感じがどこにもない。
結局ろくに執筆や読書も出来ぬまま時間は過ぎていった。恐らくどの部活もそうだっただろう。いつもなら外から聞こえるはずの快活な声も今はない。いや、声自体は聞こえているのだがどこか覇気がない。
そしてその声を聞きながらさくらは思った。
きっと明日もこうなるのだろうと……。
*
そして金曜日。三時間目、教室は異様な空気に包まれていた。皆授業を受けている体を見せてはいるものの、実際のところは欠片も先生の話を聞いてはいないようだった。時々ちらちらと見ているのは黒板ではなく時計だ。時刻は着実に『例の時間』へ近づいている。時計の針が進む音がカチカチと鳴る度、心臓が跳ね上がる。
教室にいる誰もがその時間が訪れるのを待っている。息を殺して、身を強ばらせ、静かに待っている。
皆その時間が訪れることを歓迎してはいない。だが一方で来るなら早く来いという気持ちも少しあるのだ。まるであらかじめ来ることが分かっている地震、それが訪れるのを恐怖に身を震わせながら待っているような。覚悟は決めているはず、それなのに怖くて仕方がない。その時間が訪れて欲しくはない、そのことを考えたくはない、でも考えずにはいられない。よく見れば先生もそわそわしているようだった。もっとも先生の場合はああ今日もあの時間が来ると皆騒ぐんだろうなあ、どう対応しようかなと考えているだけで、本当に幽霊が出るかどうかについては興味がないかもしれない。
来るぞ、来るぞ、後少しで。生徒達のそんな考えがひしひしと伝わってきて、体中がむず痒い。さくらは胃がきりきりと痛むのを感じた。どうやら自分は思った以上に緊張しているらしい。
そして、とうとうその時が来た。
その瞬間、さくらは窓の外を見た。見ない者は誰もいなかったように思える。
「あっ……」
窓枠で切り取られた青い空、その空を覆うようにして何か大きなものが……落ちてきたのがさくらの目に映った。それは本当に一瞬の出来事だったはずだ。しかしスローモーションでもかけたかのように見えた。だから本来ならありえない位はっきりとその姿を見てしまった。
今はもう着られていない、昔の制服に身を包んだ少女の姿。黒髪三つ編み、無念と苦しみと痛みにかっと見開いた瞳、もう何も吸うことも吐き出すこともない口はぽかんと開いていた。不自然な方向に曲がった体、頭を濡らす赤い液体……。生気はなく、だが様々な思いは残っている体。かつては自分と同じ生きている人間だったはずの体。
その体は落ちていく。落ちていって、しばらくしてからぐしゃりという嫌な音を聞いたような気がした。
(見間違いなんかじゃない、あれは、あれは……)
雫一滴が葉の上に落ちた音さえ聞こえるのではないかと思える位の静寂、そして雷が落ちる音さえ聞こえくなるのではという程の悲鳴、叫び声、椅子を引く音、大声で泣く声……。教科書を手から落とし、窓に目が釘づけになったまま動かない先生を尻目に生徒達は騒いだ。狂って暴れて泣いて震えて。
そしてこの日を境に、東雲高校を動かす歯車は狂っていく。