第四十八夜:花降れば…
『花降れば…』
(やっぱり店の中は暖かくていいな)
冷たい一月の風吹く世界から逃げるようにして、御笠環はとある街にあるショッピングモールへと飛び込んだ。入った途端暖房や人の体温、橙色の光の暖かさに体が包まれる。あまりの冷たさに痛む頬や耳を撫でる温もりにほっと一息。
特別ここに用はなかったが、三階に本屋があることを知り思わずそちらに足を運んでしまった。本屋とか書店とか、そういった文字を見ると買うものがあろうがなかろうが向かわずにはいられなくなるのが読書好きの性である。行ってみればなかなか大きな店で文芸書だけでなく専門書や教養書なども豊富であった。
誰かと待ち合わせしているわけでも、急いでいるわけでもないしちょっと暇を潰そうかとほんの少しだけいるつもりで本屋をぐるりとしだし――それから一時間と三十分、彼はまだ本屋で本を読んでいる。本人はそれだけの時間が経っていることに全く気がついていない。凍てつく寒さに痛みと痺れを訴えていた体はもうとっくに元通り、ぬくぬくあったか良い気分である。心もよく行く本屋にはない本を沢山見つけ、目を通すことが出来たという喜びでぽかぽかしている。もっとも、財布の中だけはこの後氷河期を迎えるやもしれなかったが。
「御笠君?」
そんな彼に誰かが声をかけてきた。地元ならともかく、ここは電車で数本先の場所。それゆえまさか声をかけられるとは思わなかった環はびっくりしつつ、声の主――少女のようだ――の方を見やる。そこには環の見知っている人物がいた。人違いでなかったことを確信した為か、相手はほっと胸を撫でおろす。
「やっぱり御笠君だ、こんにちは」
「榎本さん……それに安達さん」
環の目の前にいるのはクラスメイトの榎本と安達であった。榎本は眼鏡をかけた「おとなしい」という印象のある少女で、微かな笑みを浮かべて彼女の隣に立っている安達は「落ち着いている」という印象の娘だ。文化祭の準備をしていた時に起きたある出来事がきっかけで仲良くなった二人である。榎本はベージュ、安達は紺のダッフルコートを身にまとっている。頬は二人共真っ赤で、どうやらここに入ってきて間もないようだ。
「こんにちは。二人で買い物?」
そう、と安達が頷きながら肩にかけているバッグをぽんと叩く。中に今日買った物が色々入っているのだろう。そして今度は榎本の方が環に尋ねる。
「御笠君は一人なの?」
「うん。ちょっとお使いを頼まれてここまで来たんだ。もっともこの店には用なんてないんだけれど、外があんまり寒かったから思わず飛び込んじゃったんだ」
「それでもって飛び込んだついでに本屋へ寄ったと」
安達の言葉にその通り、とやや照れながら答える。時計を見てみれば思った以上の時間が経っており、自分がどれほど夢中になっていたか今になってようやく理解する。彼女はくすくす、と笑う。さらさらした黒髪がさらさらと微かに揺れ、仄かに良い匂いを漂わせた。
「御笠君って本当に本が好きなのね。趣味と聞かれたら『読書』と答える位好き?」
「そうだね。自分で書くのも好きだけれど、読む方がもっと好きかな。榎本さんや安達さんは本って読まないの?」
見た目、二人共そこそこ読みそうではある。予想通り榎本は「御笠君程ではないと思うけれど」と言いながらも頷いた。しかし安達は苦笑いしながら手をひらひらと振る。その手の動きが「私は読まない」と語っている。環は正直意外だなと思った。勿論成績優秀で真面目で、窓辺で読書する姿が様になりそうな見た目をしている人全てが読書するかといえばそうではないのだが。
「私はあんまり。そもそも御笠君や榎本さんのように趣味らしい趣味ってもっていないの、私って」
と言って苦笑い。ちなみに榎本は料理が趣味であるらしく、よくお菓子を作って安達や他の友人に食べさせているそうだ。あんまりしょっちゅう渡されるから、食べ過ぎておデブさんになったらどうしようなんて皆ぼやいているらしい。と言いつつも喜んでそれを受け取り、美味しい美味しいと言いながら食べるのである。だからこそ榎本もそうしてお菓子を渡すことをやめないのだ。
「へえ、榎本さんって得意なんだ」
得意って、それ程でもないよと彼女は恥ずかしげに俯く。一方安達はため息。
「私は料理も出来ないのよね。これをやりたいって思うものも殆どないし。夢中になって打ち込めること、何か一つでも出来たら良いのにとは思うのだけれど、いかんせんねえ。……私の知り合いは最近ええと、アクセサリー作りを習うようになったわね。しかもわざわざ少し遠くまで出かけてね。何かあっという間にそれに夢中になってね、今はもう馬鹿みたいに作っているっけ。やばい超楽しいとか何とか言いながら。元々手先が器用な奴だから、みるみる内に上達しているわ。私には何が楽しいのか良く分からないのだけれど」
本当、私にもそういうものが出来たらもっと毎日が楽しくなりそうなのだけれどと嘆く。
「まあ趣味って無理やり作るものでもないだろうし……いつかこれってものが見つかるかもよ、意外な形でさ。それにしても二人共本当に仲が良いね、最近いつも二人一緒にいるような気がする」
「私が一方的につきまとっちゃっているだけかもだけれど」
苦笑いする榎本の頬を安達がぷにっと。そんなことないわよ、と彼女の顔が抗議している。榎本を怒らせた男子生徒に「お仕置き」などと言ってデコピンしてしまうところといい、見た目に合わず結構お茶目なところもある彼女だ。ただ、そういうことをやっている時も割合真顔だから本人にそういうつもりはないのかもしれないが。
「榎本さんと仲良くなれて私、とても良かったと思っているわ。一人で過ごす休日もなかなかだけれど、誰かと一緒にこうして出かけたり、遊んだりするのも楽しいってことに貴方のおかげで気づけたわ」
「安達さん……!」
と言って軽く抱き合い、およおよ泣くふりをする榎本とそんな彼女の背中をぽんぽんすました顔で叩く安達。本当に仲が良い。傍から見るとカップルがいちゃついているようにさえ見える。榎本もおとなしい子ではあるが、安達同様それなりに茶目っ気があり年相応にふざけもするようだ。
しばし環のことを忘れ、笑いながらじゃれあっていた二人はくすくす笑う環の声に気がつき、いやだ恥ずかしいと仲良く両手を頬にやり、軽く俯く。
「本当、仲が良いってことがよく分かるよ。何か親友って感じ」
「親友。ふふ、大変良い響きね」
「大変良い響きだね。……二人共これからここで買い物?」
環が何となく聞いてみると敦子が首を横に振る。
「ううん、これから喫茶店でお茶するつもり。近くに私がこの街に来る度利用しているお店があって」
「そうそう。私はそこへ行くのは初めてなんだけれど。……ああそうだ、もしよければ御笠君も一緒にどう? 美味しいケーキとお茶がいただけるそうよ」
まさかの誘いに環は驚いた。それは提案をした安達の隣に立っている榎本も同じようだったが、その提案を聞いても特別不快に思うことはなかったらしい。すぐにこくこくと笑いながら頷いた。
「ああ、それいいかも。御笠君も一緒に行こうよ、本当に美味しいから。人気があるから少し待つことになるかもしれないけれど」
美味しいケーキとお茶が食べられるのはいいが……環は戸惑う。
「僕が一緒でいいの? お邪魔じゃない? それにその、一応僕」
「私は構わないと思っているわ」
「私も、特に気にしないよ」
それに、とややためらいがちに榎本が言うと二人声を揃えて。
「何か御笠君って男の子って感じがしないから、全然問題ない」
「二人共結構酷いね……」
二人同時に言われると何とも言えぬ悲しみが。まあ普段からあまり男の子扱いされていないのだが。
「この前の文化祭の時の御笠君、なかなか可愛らしかったわよね。座敷童が学校に迷い込んできたんじゃないかと一瞬本気で思った位似合っていたし」
「クラス全員で記念撮影した時もあの格好だったよね。本当、あの格好可愛かった!」
「可愛い連呼されても嬉しくない」
とがっくり肩落とし。榎本はそのことに対してごめんね、と手を合わせて謝りつつ「嫌なら断ってもいいからね」と言った。御笠は二人が良いと言うのなら、と首を振った。姉がいること、文芸部が自分以外女の子であること、そんな彼女達と時々集まって一緒に遊ぶこともあって女の子と行動することに極端に抵抗は感じない。勿論相手にもよるが、少なくとも榎本と安達は気兼ねなく話せそうな相手だった。
安達と榎本は微笑む。
「それじゃあこれから一緒に行こう。あ、もう少しここにいたいなら付き合うよ?」
「ううん。ちょっと何冊か本を買ってくるからちょっとだけ待っていて」
「分かったわ。ふふ、ねえこういうのって俗にいう逆ナンパというものなのかしら」
安達の口からそんな言葉が出るとは思っていなかったから環は恥ずかしい以前にびっくり。榎本もこれには驚いたようだ。
「何か安達さんがそういう言葉を使うと違和感が……」
と榎本が言うと、安達はくすくす笑う。
「そう? 別に私生真面目で堅物な女の子じゃないもの。でも実際、そうだと思わない? どう御笠君、こんな美人二人にナンパされちゃった気持ちは?」
美人って……と何だかちょっと恥ずかしい気持ちになりつつ、環はその単語を聞いて真っ先に安達の方を見た。そしたら榎本に「安達さんの方ばかり見て、私は美人じゃないのね」と頬を軽く膨らませながら言われてしまった。慌ててそんなことないよ、と言ったら二人して笑う。何だかいいように弄られているような気がした。どうも自分は女の子に弄られる運命にあるらしい。いや、男子にも大層弄られるが。
環は本を買い(案の定財布は氷河期に突入)、三人して外を出る。自動ドアを出た途端、ぴゅうという嫌な音と共に猛烈に冷たい風に襲われた。ぎんぎんに冷やした氷の針で全身を突き刺されたかのようになり、三人仲良く体を震わせる。
「寒い! ああ、店の中が暖かかったから外がとても寒いことをすっかり忘れていたよ」
「この温度差、本当慣れないわ……」
「お店に着けばまた体も温まるよ」
そう言って榎本が先へと進む。環と安達はそれについていった。冷たさを感じる青い空、かき氷機で削った氷をまとめて作ったような雲――見るからに寒い、実際、寒い。
ずらりと並ぶ背の高い建物、すっかり寂しくなった木々に挟まれるようにしてある道を進む。街の中心は三つ葉市に雰囲気が似ているが、そこから外れていくと落ち着きのあるやや昔懐かしい香りのする街並みへと変わっていくらしい。
三人は学校のことや自分のことについて色々話した。ここから数本先の通りに目的の喫茶店はあるらしい。環は始めこそやや戸惑いがちに喋っていたが、時が経つにつれそんなこともなくなっていった。今通っている道はこれといった店がない為か人が全く通っておらず、心地よい静寂に包まれている。たった数本道が変わっただけでこれ程までに変わるものかと環は思った。
「そういえばこの街にはね、神様が住んでいるお屋敷があるんですって」
桜町神隠し事件のことや、妙な雨のことなど桜町や三つ葉市、舞花市で起きたちょっと不思議な出来事について話していた時、榎本がこの街にある屋敷の話をしだした。
「街のはずれにあるらしいんだけれど……とても立派なお屋敷で結構昔からあるみたい。女の神様で、とても美人だとか。男の神様にもてているらしくて……その為か、恋愛の神様扱いされていて、そのお屋敷に足を運んで『両思いになりますように!』とか『もてますように!』ってお願いする人がいるらしいの。本当は豊穣を司る神様らしいんだけれどね」
「へえ……」
その話を聞きながら思い浮かべるは、部活の先輩である臼井さくらの顔だ。先輩こういう話とか好きそうだよなあ、と苦笑い。安達は興味深い話だと思っている様子。彼女もそういう話に興味があるのだろうか。
「時々そのお屋敷で不思議なことが起きるらしいよ。その周囲でもね。なんか気のせいかもしれないけれど、三つ葉市や舞花市……この辺りってそういうお話多いよね。どこも同じようなものなのかな」
「どうなんだろうね。まあ妖怪や神様がどうとかって話は全国どこにでもあるだろうけれど」
その辺りのことは調べたことがないし、興味もないから分からない。妙なことが割合よく起こる地域のような気はするが。
安達がくすりと微笑む。
「もしかしたらこの辺りは妖怪達にとって居心地の良い土地で、昔から妖怪のたまり場になっているのかも。だから不思議なことが沢山起こるし、そういう話も多く残されている。そしてそういう存在は今なお人知れず生きているのかも。そのお屋敷にも、実際すごい神様が住んでいるのかもね」
「またまた、安達さんったら。そんなことあるわけないじゃないか。全く臼井先輩みたいなことを言って……ん?」
笑いながら彼女の言葉を否定し、それから何気なく空を見やる。そして「ん?」と眉ひそめ。何かが空から環めがけて落ちてくるのが見えたのだ。避けなければいけない、危険なものではないように思える。
それは段々と近づいてきて、とうとう手を伸ばせば届くところまでになった。環は思わず手を差し伸べ、それをキャッチした。榎本と安達、三人して手に掴んだものを見てみれば。
「……花だ」
それは紛うことなき花であった。三十センチ程の茎の先はハサミか何かで切られていて、花弁の数は多い。花弁の中心は濃い青でそこから先端に向かうにつれ紫、藤色、桃、薄桃色と綺麗にグラデーションになっている。そして甘酸っぱい良い香りを放っていた。また茎には綺麗に折られた紙がくくりつけられていた(丁度おみくじを紐などにくくりつけるかのような状態だ)。恐らく手紙か何かだろう。
「花だよね、どう見ても」
「でも何で花なんか。しかもこの花なんていうんだろう、見たことない花」
「他には……落ちていないわね」
安達は辺りを見渡すが、どこにも花は落ちていなかったらしく首傾げ。環は改めて空を見る。しかしそこには空と雲と鳥以外何も見えない。
美しく、大きな花。一体何故こんなものが空から降ってきたのか、訳が分からない。
「誰かが手に持っていたものが、風に飛ばされた?」
一番高い可能性はそれのような気もしたが、どうも腑に落ちない。神様が住む屋敷の話などを聞いたばかりのせいで、どうしてもそういった人ではないものの存在が頭をよぎり、これじゃあ臼井先輩と同レベルだと頭を振ってその考えを振り落とす。
環は茎にくくりつけられた紙に目をやる。その中を見れば或いは何か分かるかもしれなかった。申し訳ないと思いつつも環はそれに触れ……。
「放せ、それを返せ!」
その直後、上空から若い男の声が聞こえた。その叫び声に環は驚き、紙に触れた手を離した。三人同時に空を見上げればそこには人間……ではなく。
「鳥!?」
明らかに声は上空から聞こえたのに、そこに人はおらず代わりに金色の翼を持つ大きな鳥が。しかも嘴を大きく開けながら猛スピードでこちらに向かって飛んでくるではないか!
「それは貴様のような者が手にしていい代物ではない!」
確かにその声は、その鳥のいる方から聞こえる。最早その鳥が喋っているとしか考えられない、だが相手はインコや九官鳥にはどこからどう見ても見えない。何が何だか訳が分からず呆然としている間に鳥はすぐ近くまでやって来て。このままでは確実にぶつかる。環は思わず「うわ!」と叫びながらしゃがみこんだ。榎本と安達は環からさっと離れる。鳥は先程まで環の頭があった辺りを通過していった。ぶわっと吹く風が三人の髪を乱す。その鳥の巨大な足、そこにある鋭い爪を見て血の気がさっと引いた。鳥はそのままどこかへ去るかと思いきや、一度上昇するとUターンして再びしゃがんでいる環を襲う。
「御笠君、花、花!」
安達のその声を聞き、環は手にしていた花を榎本も安達もいない方へ思いっきり放り投げた。花は舞舞ひらりと落ちる。鳥は再び環の頭上を通過し、それからスピードを緩めて地に落ちた花のところまで行くと、それを優しく足でつかんだ。
「ああ、無事だ、良かった良かった。文も……読まれていないな。全く、人間などという下等生物に読まれないで良かった。はあ、それにしても心臓が飛び出るかと思ったぞ。これを落とすとろくなことにならないからなあ! おっと、ここであんまり喋っているといけないのだった。おいお前達、このことは忘れろ、私のことも忘れろ、全部忘れろ!」
忘れることなど出来るか、と誰もが思ったことだろう。鳥はドン引きする程流暢な言葉を発したかと思うとその場からものすごい速さで飛び去っていき、あっという間に青い空に溶けていった。
「何なんだあれ!?」
信じられない出来事に環は頭を抱えた。
「伝書鳩……?」
「いやあれ鳩じゃないから! 安達さん何言っているの!?」
「随分日本語が上手な鳥だったわね」
と安達は感心している様子。今目の前で起きた事態を受け入れられず頭が真っ白になっている環と榎本、一方の安達は随分落ち着いていて表情もクールである。
あれは何だったんだ、夢か何かだったのか、頭を抱えて唸っても答えなど出るはずもない。すると突然榎本が「あっ」という声を上げる。二人がどうしたの、と尋ねると彼女はあることを話しだした。
「そういえばこの街に住んでいる知り合いから聞いたことがある。あのね、さっきのような出来事が数十年前にここで起きたそうなの。上空から鳥の群れが叫ぶ声が聞こえたかと思ったら手紙らしきものがくくりつけられた花が上空から降ってきたとか。この町のどの辺りで起きたことかまでは知らないけれど。その直後上空から鳥が沢山飛んできたかと思うとその花をくわえて去っていったんですって」
「あら、同じことが以前もあったの? しかもこれどころのレベルじゃなかったのね」
「魚が空から降ってきたって話は聞いたことがあるけれど……」
「それでね、それから数時間後……この街は局地的にも程がある嵐に襲われたそうよ。しかも原因不明。死者は幸い出なかったそうだけれど建物や電柱が沢山壊れて大変だったとか。それをきっかけに『花降れば嵐來る』という言葉がこの街で生まれたんですって。おじいさまおばあさま方は今でもそれを信じているって」
へえ、と安達。どうやらこの話を面白いと感じたらしい。
「鳥が花を落としたことと、嵐が起きたことは何か関係があるのかしら?」
「さあ、そこまでは……」
「今回落ちてきたのはたった一輪だけれど、ふふ、またこの街が嵐に襲われちゃうのかしら」
「まさか。鳥が花を落としたら嵐が来るなんて、そんなことあるわけないよ。きっとただの偶然だよ」
と笑い飛ばす。そうだ、そんなことがあるわけない。さっきの鳥もきっと元々言葉を覚えて喋れるタイプの種類だったのだ。とてもかしこい鳥に違いない。そして誰かしゃれた趣味を持っている人が彼を使い、誰かに手紙を送ろうとしている、ただそれだけなのだ。これがさくらだったら「まあまあ素敵!」とか言いながら様々な妄想をするに違いなかったが、環はそういうタイプの人間ではなかった。夢物語は嫌いではないが、しかし夢は所詮夢。現にはなりえないのだ。
三人はそれ以上今回の件について考えようとはせず。せいぜい「不思議なこともあるものだ」と言う程度だった。それから目的の喫茶店へ行き、お茶を楽しんだ。その間、皆は時々外をちらちらと見やる。嵐が起きやしないかと思いながら。先程の話を全く信じていなかったはずの環でさえ何度か外に目を向けた。
しかし天気はずっと晴れのまま。矢張り嵐などは来なかった。
「来れば面白かったのに」
などと安達はがっかりした風に言った。面白くない、面白くないと榎本と環が声を合わせて突っ込んだら彼女はけらけらと笑った。
「それじゃあ私が嵐を起こしてあげようかしら。空からうんと沢山の花を降らせて」
そんなことを言う彼女の顔は気のせいか、いつもよりも輝いて見えた。
三人は喫茶店を出、それからすぐに別れた。環は用を済ませ、家へ帰る。今回の出来事は絶対に臼井先輩には話さないようにしよう、と考えながら。言おうものなら面倒なことになるに違いなかった。
しかし彼は月曜日の部活中、うっかり口を滑らせてしまい興奮したさくらに根掘り葉掘り聞かれるわ、ほのりに女子二人とお茶したことについてからかわれるわで散々な目に遭うことになるのだった。
*
上空を一羽の鳥が冷たい世界を切り裂きながら飛んでいる。目指すは美しい女神の住まう屋敷だ。大きな体の下には、無機質でつまらない上に人間の臭いがたっぷり染みついている無駄に背の高い建物や、昔ながらの建物、汚い空気に侵された木々、色とりどりの鉄の車が忙しなく通る道路等で構成された世界が広がっている。彼は今よりも昔の世界の方が好きだった。しかし彼の好みなどが反映されることは決してない。今やこの世界は人間のもので、人間の思惑や好みだけが反映される世の中になっているのだ。いや、それは昔からだったかと鳥はため息をつく。
やがて鳥の目に目的地である屋敷が映る。木造の建物は随分古い。そして、大きい。そこらにある人間達の住処よりずっと大きい。その屋敷を囲むのは天へ向かって伸びる塀。そんな塀も空を飛べる鳥にとっては全く意味がない。枯葉が幾らか落ちている、黒い瓦で覆われた屋根の上に降り立ち、足でつかんでいた花を一旦傍らに置いて小休止。
(はあ、この花を落としてしまったのは何十年かぶりだ。おまけに人間に拾われて、危うく主の文を読まれるところだった。人間なんぞに文を開かれてたまるか)
屋敷の周囲には静謐で穏やかな空気が漂っており、心地良い。ここで休んでいるとどれだけ疲れていてもすぐ元気になれる気がした。
この屋敷の中には誰も住んでいない。女神が本当の意味で住んでいるのはここではなく、ここに重なる位置に彼女が作り上げた領域の中。そこへ行くには『向こう側の世界』ではなく一旦『こちら側の世界』に出る必要がある。その領域は人間達が女神の為にこの屋敷を作ったことで生み出されたようなものだから。
(数十年だか前は大変なことになったよなあ。……半分は俺と俺の仲間が原因だったんだけれどさ。でもいきなりあんなことされたら誰だって驚いて持っているものを離してしまうだろうよ。もう半分は……我が主に原因があったんだけれど。本当あの頃の主はなあ)
この鳥の主は『向こう側の世界』に住まう男神であった。彼はこの屋敷に存在する領域に住む女神に惚れていて(その女神とは何度か『向こう側の世界』で顔を合わせている。女神もいつもいつでもこの領域にいるわけではないのだ)、せっせと恋文を書いては自分を始めとした従者(皆鳥)に託していた。
ところがかつての主は大変なプレイボーイで、女神以外の女(しかも大勢)にも同じように手紙を贈っていたのだ。数十年前のある日も数十人の女宛てに書いた手紙をそれぞれ従者に託した。女神同様こちら側の世界、或いはそちらに出ないといけない領域に住んでいる女達に手紙を渡すことになった従者達は、皆仲良く同じ場所からこちら側の世界までやってきた。そこからばらばらに散らばり、目的地まで向かおうとした……まさにその時。突如上空に現れた悪戯好きの妖に心臓が飛び出そうになる程びっくりさせられ、その拍子に足につかんでいた花を落としてしまい。皆パニック大騒ぎ。地上は地上で大騒ぎ。
(まさかあんなことになるとはなあ……あの時は思わなかった)
彼にとってはつい最近の出来事を、青い空を見ながら思い出したら顔の筋肉が引きつってしまった。
従者達は地上に落とした花を慌てて回収、それからそれぞれの相手にそれを贈った。しかし皆慌てて回収したせいであることに気がついていなかった。
(本来自分が持っていたものじゃない花を回収しちゃった奴が沢山いたんだよな。かくいう自分もそうだった)
悪戯好きの妖が原因で起きてしまった『恋文の取り違え』……自分のもとへやってきた文には別の女性の名前が書かれていて、しかも『愛しているのはお前だけだよ』という意の言葉まで書かれている。主はその言葉をどの文にも書いていた。
(別人宛の文を読んだ女神様、本当におっかなかった……)
冬の寒さには震えなかった体が、数十年前の女神の怒りを思い出した途端激しく震える。思い出しただけで血の気が引き、心臓が止まりそうになった。
怒った女神は大暴れ、それによりこの地に嵐が訪れて。他の女性にも文を贈っていたことがばれたという報告を受けた男神は慌ててこちら側の世界までやって来て、女神に謝ろうとしたが……謝ったからといって簡単に許してくれるはずもなく。怒る女神に男神は追いかけられ、すったもんだの大騒ぎ。街中の建物を壊し、電柱を壊し、木々を折り、あらゆるものを風で飛ばし。
散々暴れた末ようやく女神は落ち着いた。そしてぼこぼこにされた男神は他の女達にも謝りに行ったのだった(それは女神の提案だった)。その先々でも主はぼこぼこにされたらしく、自身の家に帰ってきた頃には生きているのか死んでいるのか分からない状態になっていた。それを見た時、従者の誰もが「女を怒らせたら怖い」という言葉が本当であることを悟った。身も心もボロボロになった主は文をばらばらに渡してしまった従者を咎めることもしなかった。もし元気だったら今頃自分達の命はなかっただろう。
(あれをきっかけに、主は大勢の女性にちょっかいを出すことはやめたんだよな)
ちらり、と傍らに置いた花を見る。男神は今や、この屋敷の主である女神以外には恋文を贈っていない。
(しかしあれだけぼこぼこにされても、女神を愛する気持ちは変わらないんだなあ)
鳥はそれが不思議で仕方なかった。女神は女神で男神のことを見限ってはおらず、文を貰えば返事を寄こしてくれる。
「男女の仲って良く分からないなあ!」
彼はそう呟くと花を再び足につかみ、それから女神の領域に自分を入れてくれるようお願いするのだった。