君は私の助女房(4)
*
「ああ……うげふがふぐう……ああ」
「うら若き乙女の死体って感じね。大丈夫?」
昼休み、弁当を食べ終わるや否や机に突っ伏してぐったりしている娘が一人。……紗久羅である。真向かいの机に座り、苦笑いしているのは柚季だ。
「今日でもう五日目だよ、何なんだよいつになったらあいつから解放されるんだよ」
「鈴って子はまだ熱がひいていないの?」
柚季はどうして紗久羅がぐったりげっそりしているのか知っている。紗久羅が怒った猿のようにむきむきうきゃあと喚きながらそのことを話したのだ。紗久羅は柚季に問われ、机にべたっとくっつけていた顔を上げる。
「いや、とりあえず熱は大分ひいた。でもまだ本調子じゃないんだ。熱だってまだ若干あるし。今また無理して動くとぶり返しそうだから、もう大丈夫だと言い張って家事をやろうとするあいつを出雲が全力で止めた」
そしてその結果、紗久羅はまだ出雲から解放されないのだ。よく効く薬を飲んでいるにも関わらず完治するまでにこれ程までの時間がかかるなんて、と紗久羅はこの五日の間に何度も思った。あのじいさんの作る薬は本当によく効くものなのか疑いもした。出雲はよく効くと思っているようだが、作っている人が作っている人なだけにいまいち信用出来ない。しかし出雲はそんなとんでもぼけぼけじいさんの作る薬をわざわざ遠い京まで買いに行き、愛しい鈴に飲ませてやっている。その効果や安全性を信頼していなければ、鈴に飲ませることはないだろうからやっぱり一応は効いているのかもしれない。
(あのじいさんの薬を飲まなかった時は今回以上に長引いたみたいだし)
風邪ってのはこじらせると大変なんだなあ、特に普段健康な妖怪なんかは一度そういうのにかかると弱いんだなあ、と改めて思う。五日経っても完治しないなんて、紗久羅には考えられないことであった。なり始めの時に休んでいればそこまで酷くならなかったろうに、自分がいないと家事の一切が出来ない駄目男と共に暮らしているせいで休むに休めなかったのだ。そして彼女が無理した結果、紗久羅は連日出雲にこき使われる羽目になったのである。
「あの人、人使いがとても荒そうだものね」
「荒いってもんじゃねえよ、あいつは! ああ思い出しただけでも怒りと疲れが!」
急に起き上がった紗久羅はぱん、と机をげんこつで叩く。自分が思った以上に強く叩いてしまった為、変な声をあげて呻く。机と喧嘩してもろくなことにはならない。分かっていても、怒りという名の爆弾に点火してしまったらもう止められないのである。点火して、喧嘩して、結果ええんええんと泣いて。
紗久羅は想像していた以上の痛みと衝撃に襲われている拳をさすりながら、出雲の世話をしたここ数日のことを色々と話した、というか愚痴って詰ってストレス発散。柚季に何度も話したことも含めて喋る、喋る。うっかり『向こう側』に関する話をしないように一応気をつけつつ。といっても周りのクラスメイト達もお喋りに夢中で、他のグループの話になどろくに耳を傾けていないのだが。
「夕飯作るだけならまだしも、風呂を掃除してから沸かしたり庭の手入れをしたり、池の掃除をしたりそこで泳いでいる魚に餌をやったり……だだっ広い屋敷の廊下を雑巾がけしたり、部屋の掃除をしたり、物置の整理をしたり、こっちにある和菓子屋へお使いに行ったり、洗濯したり、落ち葉を掃いたりあいつに茶入れたり……」
言いだしたらキリがない。出雲は一つ何か作業を終えると、すぐに次の作業を言い渡す。酷い時は別のことをやっている時に「これもやって欲しいんだけれど」と言いだすし、そうして散々色々頼んでおいて「遅い」だの「もうちょっとしっかりやっておくれよ」などと文句をぶうたれる。
「あのぽんこつ野郎、お湯さえ沸かせないんだぜ! 鈴の体を軽く濡らした布で拭いてやったって言うけれど、絶対冷たい水で濡らしたんだ! 湯くらい沸かせよ! それに何なんだよ、あいつ! 鬼か閻魔か!? 昨日なんて滅茶苦茶遅い時間にいきなりフルーツやチョコレートがたっぷり乗ったパンケーキを食べたいとかほざきだして! 知るかってんだよ! 結局あいつと一緒に材料をあっちで買って、あたしは夜遅くあいつを呪いながら作ったよ、ああ作ってやったとも! ややばいまじあたし良い奴、超良い奴!」
同時に湯を沸かし、紅茶も淹れてやった。そしたら「今はアップルティーの気分」などと言いだし、淹れ直す羽目になり。出雲が突っ返した分は紗久羅が飲むことになった。
「あいつの肩を叩く羽目にもなるしさ! 婆ちゃんにさえ殆どやったことがないっての! 超眠いって言ったら『じゃあ私の部屋で一緒に今から寝る?』とか言い出すし! もう何なのあいつそういう方向の発言ばっかりしやがって! 変態脳みそエロガキ野郎!」
自分も奈都貴を弄る時割合そっちの方面の発言をするが、その辺りは棚に上げておく。
「本棚の本の並び替えだの、よく分からん壺や置物を磨くだの、そんなことあたしが早急にやらなくちゃいけないことなのかよ! いいや、そんなことはないね! あんなの鈴が元気になった後やらせりゃいいんだ! しかももうやた吉もやた郎も帰ってきているってのに、最後まで紗久羅にやらせるとかなんとか抜かしやがってさ」
「本当、いいように使われているのねえ……多分紗久羅で遊んでいるのね」
「遊ばれてたまるか! くそ、そんなの出来るかって拒否すれば『鈴なら出来るのになあ、紗久羅はそんなことも出来ないのか』とか言ってくるし……!」
「そんな見え透いた挑発に乗って言うこと聞いちゃう辺りが流石よね」
と柚季は呆れ気味。出雲も紗久羅がそう言う風に言えば「分かったよ!」といって言うことを聞くのが分かっているからそういうことを言うのだろう。そして紗久羅もそのことを承知しているにも関わらず、分かったよやってやるよとその挑発に乗ってしまうのだ。これは最早割合幼い頃からの性格によるものだから仕方ないといえば仕方がない。
「何だか理由は性格以外にもありそうだけれどねえ」
「何か言ったか?」
小さな声で呟いた言葉に反応する紗久羅に、柚季は笑って「別に、何でも?」と返す。妙ににやついている感じが何だか腹立つ。
「兎に角そんなわけで最近寝不足でさ……あっちに行ってからずっと動きっぱなしで、帰りもかなり遅くなるし。今日もまた行かないといけない、と思うとまじ憂鬱だよ。はあ、今日の夕飯何にしよう……料理を作るのは苦手じゃないけれど、栄養バランスとか考えて献立作るのは駄目なんだよなあ……まあ、栄養偏ってもあいつじゃ問題ないだろうけれど。もういっそするめ焼いて酒出して、はい今日の夕飯はこれだけねと言ってやりたい」
などと言いつつも、これを作ろうかあれを作ろうかとそこそこ手間のかかる料理の名をあげる。そんな紗久羅を見て柚季はくすり。どうして笑うんだと尋ねれば、柚季は意地の悪い笑みを浮かべた。
「色々文句を言っているけれど、本当は結構楽しんでいるんじゃないのかなと思って。あの人の為に料理を作ったり、掃除をしたりするのが」
予想もしていなかった言葉に紗久羅はしばらく何も言えなかった。しかしふつふつと湧いてきた思いがやがて彼女の口を動かす。ぎろっと柚季を睨み、抗議。
「そんなわけないだろうが! あたしがあんな奴なんぞの為に働くことを楽しんでいるなんて、そんなことはありえん! あたしはこき使われることに喜びを感じるようなドM女じゃない。柚季の目はどうなっているんだ、その目にはちゃんと物事が正しく映っているか? 映っていないだろう、その目には真実が映っていない!」
「あら、もしかしたら紗久羅の目の方がそうなっているのかもよ? 自分の本当の気持ちがその目には映っていないのかも」
紗久羅は顔を真っ赤にし、きいきい騒ぐ。その姿、まさに猿。柚季はそれを見て愉快そうにけらけら笑い。抗議しても否定しても、柚季はまともにとりあわずに笑うだけ。結局彼女は最後まで「出雲の為にあれこれするのを実は楽しんでいる説」を翻すことはなかった。
その後紗久羅は柚季に散々からかわれたことによって生じたイライラを、奈都貴を弄ることで解消するのだった。
*
放課後柚季と三つ葉市で遊ぶのを泣く泣く諦めた紗久羅は、今日の夕飯のことを考えながら満月館へと向かう。カバンの中に潜ませていた通しの鬼灯を握ると、神社の社へ続く石段と丁度重なる位置にある『道』がその姿を現す。ひんやりとした空気に包まれているから、今の季節ここを通るのは地獄である。
相変わらず気味が悪くて、長居していると魂を全部吸い取らせそうな場所だと思いながら石段を上っていった。その石段を登りきると目の前に満月館がある。今は館、というよりは屋敷だがそのまま紗久羅は満月館と呼んでいる。木々に囲まれた、落ち着いた色合いの建物。その周辺には落ち葉の海が出来上がっていた。昨日必死になって綺麗にして掃除したのに、もう元通りだ。綺麗にするのは難く、汚くするのは易い。紗久羅は頭を抱え、ため息。
(完全に暗くなる前に綺麗にするか。あいつが変な用を言いつけてこなければの話だけれど。夕飯の下準備をして、それから……って何であたし当たり前のように段取りを考えちゃっているんだ!)
つい数日前までは屋敷の前が落ち葉で埋め尽くされていても気にもとめなかったというのに、たった数日で自分がここを掃除することを当たり前のように考えてしまっている。夕飯の献立を一生懸命考え、ここに行ったらこれをしてあれをしてと頭の中で組み立てて。
すっかり出雲の下僕その幾つかとして完成してしまった自分に絶望し、とうとうその場にしゃがみこむ。何でこんなことになってしまったんだこんちくしょう、と嘆いていると何かの影が自分を覆った。
「おや、紗久羅。そんなところで何をしているんだい? かごめかごめでもしているのかい? 後ろの正面には誰もいないのに。真正面にはいるけれどね」
見上げればそこには自分をこんなにしてしまった張本人。紗久羅はさっと立ち上がると、別になんでもないよとべろを出す。そして何のこっちゃと肩をすくめている彼を放って満月館へと入っていった。
はあ、はあとため息を幾度となく吐きながら台所へ。早速準備を始めようと思ったところで出雲がやってきた。
「紗久羅、今日はカレイの煮付けを作っておくれ」
「はあ?」
今の今まで彼が夕飯のリクエストをしたことなどなかったから紗久羅はぽかん。それを見て「献立決めていたなら申し訳ないけれど」と軽く手を合わせてから、この世界における冷蔵庫を指差した。
「実は今日、鬼灯の旦那から立派なカレイを貰ってね。それを使って煮付けを作ってもらいたいなと思って。あまり長くはもたないから、出来れば今日作ってもらいたいのだけれど」
紗久羅は冷蔵庫にしまわれていた箱の中に入れられているカレイを見てみる。成程確かに出雲の言う通りかなり立派なものだった。買ったらかなり値のはるものなのだろう。
決まりかけていた献立が駄目になってしまったことはショックではあったが、これだけ立派なカレイを調理できるならまあいいかと思い直す。むしろ「こんなのあたしが調理していいのかなあ」とかなんとか思いながらうきうきしてしまう。更に出雲とこれを一緒に食べる姿を想像してしまう。その瞬間柚季の言葉を思い出し、頭を激しくぶるぶると。
「ま、まあしょうがないか。分かった、作ってやるよ。必要なものは……買わなくても揃っていたはずだし」
「流石紗久羅、私の言うことは何でも喜んで聞いてくれる」
「別にそういうわけじゃねえ! ただこの立派なカレイを駄目にしたくないから、仕方なく作ってやるだけだ! お前のお願いなんて誰が喜んで聞くかよ!」
「けれど私に頼まれて色々やっている時の紗久羅、結構やりがいを感じてますって顔をしているよ」
「それは見間違えだ!」
と言って出雲を台所から追い出す。彼は去り際に案の定色々な用(勿論落ち葉掃きも)を押しつけていった。その数に紗久羅はげんなり。立派なカレイを調理出来るという喜びもあっという間に冬の風に吹き飛ばされて、さようなら。
それでも仕方なく夕飯の準備やら、用の数々をこなしていく。満月館を訪れたやた吉とやた郎は申し訳なさそうに「手伝いたいけれど、手伝ったら殺される」と謝る。どうやら出雲からきつく言われているらしい。
「くそ、あいつはそこまでしてあたしをいじめたいのか。あたしに何の恨みがあるってんだ」
「まあ出雲の旦那は可愛い子程いじめたいって人だから」
「もっともおいら達には愛情のあの字もないけれどね。ただいじめられているみたいな? 後、鈴は普通に可愛がられているね。あんまり鈴のことをいじめているの見たことないや。ちょっとからかうって位ならあるけれど」
「お前達も苦労しているなあ……」
やた吉の声から滲み出ている苦労に紗久羅は同情を禁じえない。ここまで彼等のことを哀れに思ったのは初めてである。それも単に自分が現在進行形で被害に遭っているから。
二人が去った後も紗久羅は忙しなく働いた。今やそれなりに段取りや時間配分を前もって決め、大分てきぱきと動けるようになっていた。その姿を見た出雲に「集中的花嫁修業は功を奏しているようだ、うんうん。なんならこのまま私の嫁になれば良い」と言われ、彼のふくらはぎを思いっきり蹴りつけてやる。
それからも動いて動いて動きまくり、夕飯の支度もすっかり終えた。カレイの煮付け以外にも何品か作ったので大変だったが、どれもそれなりに上手く出来たので満足。文句を言いつつも料理には手を抜かない。ここ五日の間に作った料理の名前を挙げたら、柚季に「やっぱり結構楽しんでいるんじゃないの」と呆れ気味に言われてしまった位だ。夕飯までの時間に余裕があったらもっと手の込んだ料理を作っていたかもしれない。
出雲とご飯を食べる前に、紗久羅は鈴の部屋へと行った。体調は大分良くなっているようなので、もうお粥ではなく普通のご飯が食べられるらしい。今日作ったものをお膳に並べ、慎重に運ぶ。いつもは出雲が運んでいっているのだが「今日は紗久羅が持っていって」と彼が言うので仕方なく持って行ってやっているのだ。
部屋に入ると、鈴が布団から起き上がる。出雲が来ていれば笑みを浮かべただろうが、大嫌いな人間である(しかも出雲には大層可愛がられている)紗久羅が来ては浮かべるものもない。
「ほら、夕飯だ。ありがたく食え」
と言っても彼女はしばらく何も言わない。しかし食べるのを拒否するつもりはないらしく、布団から出てきて半纏を着てちょこんと正座する。
「大分元気になったみたいだな。もう大丈夫そうか? まあさっさと元気よく動けるようになれよな、そうしなくちゃいつまで経ってもあいつの世話役から解放されやしないから。……あいつだって、あたしよりもお前に甲斐甲斐しく世話される方がずっと良いと思っているだろうよ」
うつむいていた鈴が顔を上げる。その瞳は前髪に隠れてよく見えなかったが、きらきらと輝いているように思えた。
「本当、に?」
「ああ。本当だ。それにあたしだってもうあいつの世話役なんてもうこりごりだしな。それじゃああたしはもう行くぞ。お膳は後であたしが下げるから、そのままにしておいていいよ。ついでに林檎を剥いて持ってきてやる。出雲が剥いたらりんごが血まみれになっちまうからな」
それ以上鈴と話すことは何もなかったし、彼女にも紗久羅と話すことなど何もないだろう。だからそのまま紗久羅は部屋を出ようとする。ところがいざ戸を閉めようとした段階で、背後から「待って」という声が聞こえた。とても小さな声だったが、確かにそう聞こえた。まさか鈴に呼び止められるとは思いもよらなかったので、紗久羅は目を丸くする。
「何だ、どうした」
鈴はしばらく俯いたままもじもじし、それから小さな声で言った。
ありがとう、と……。
「え、あ、え?」
お礼の言葉など絶対に彼女の口からは聞けないと紗久羅は当たり前のように考えていた。むしろ「何で紗久羅なんかが出雲の世話をしているんだ、余計なことはするな」位のことを言われるとばかり思っていたから、びっくり仰天ぎょっとして鈴の顔を見やる。
「……出雲にお礼言えって言われたから。そ、その今度からは体調崩さないように頑張る……出雲のお世話は私がする、他の人にはやってもらいたく、ないから。でも、その……お粥とか美味しかった。意外だなって思った」
嗚呼、そういうこと。まあそうだよな、と心の中で呟く。しかし理由は何にせよ、お礼を言われたことは嬉しく「やって良かったかな」という気持ちになんとなくなった。そうすると、ちょっと優しい言葉をかけてやりたくなる。
「お前もあんまり無理するなよ。何でも自分でやりたいって気持ちはまあ理解は出来んが……無理して具合悪くなったらあいつが心配するから。調子が良くない時は素直に言って、ちゃんと休め。そうすりゃ今回みたいに長引くこともないかもしれないしさ」
「……うん」
「それからあの馬鹿に、少しは家事のこととか覚えさせろ。幾ら何でも出来なさすぎだろう。食べ物の温め方とか、湯の沸かし方とか」
と言ったところで鈴が「え?」と驚きの声をあげ、首傾げ。
「……出雲、それ位なら出来るよ」
「え?」
「お湯も自分で沸かせるから、時々自分でお茶を淹れるし……食べ物を温めること位だって出来るし。それ以外のことはあまり出来ないけれど」
「嘘だろう、あの馬鹿狐! お茶なんて淹れたことがないとか何とか抜かしてやがったぞ!?」
「……出雲の言うこと何でも真に受けるようじゃ、紗久羅もまだまだだね」
そう言って彼女は微かに笑んだ。彼女が自分に対して微笑みを浮かべることなど初めてで、だからびっくりして怒りも吹き飛んでしまう。
よくよく考えてみれば、以前鈴が不在の時ここへ遊びに来たことがあったが、その時も普通に紅茶が出ていたような気がした。思い違いだったかもしれないが。
鈴はもう紗久羅に何か語りかけることなく、手を合わせて「いただきます」と一言、それからもぐもぐと夕飯を食べ始める。彼女が話すのをやめた以上、ここにいる理由もない。紗久羅は後で出雲をこてんぱんにしてやる、と思いつつも出雲が待つ部屋へ行く。
もう先にご飯を食べているものだと思ったが、彼は食事には手をつけずに紗久羅を待っていた。紗久羅が入ってくるなり彼はいつになく穏やかな笑みを浮かべて彼女を迎える。
「おや、戻ってきたかい。それじゃあ早速食べるとしようか」
「おいこの嘘つき野郎、お前お湯を沸かして茶を淹れること位は自分で出来るそうじゃねえか!」
思いっきり怒鳴りつけてやったが、出雲はくすくす笑うだけ。
「鈴がそう言ったの? ふふ、彼女が嘘を吐いているという可能性は考えないの?」
「あいつとお前、どっちが嘘を吐いているか……そんなの考えればすぐ分かることだ!」
「信用されていないなあ、私も」
「大体お前は……」
「ほら紗久羅、あんまり喋っていると折角の料理が冷めてしまうよ。ほらほら、さっさと座って」
その言葉に流され、思わず紗久羅は座布団の上にどかっと座った。それから素直に言うことを聞いて、紗久羅は良い子だねえとくすくす笑う。この野郎、と彼は怒鳴ってやろうとするが出雲は涼しい顔で手を合わせていただきます。結局それにつられて紗久羅もいただきます。
一度ご飯を食べ始めると、出雲の嘘のことなどどうでも良くなった。そうなる位なかなか今日の夕飯はよく出来ていたのだ。特にカレイの煮付けは絶品。まあ、これは自分の腕云々より素材の良さが起因しているのだろう。
「鈴ももう大丈夫そうだから、私のお世話は今日まででいいよ」
唐突に言われた言葉に思わず紗久羅は立ち上がった。
「まじで!? よっしゃ、ようやくこの苦行から解放される!」
ガッツポーズしてみせた紗久羅を見て、出雲は苦笑い。
「随分嬉しそうだねえ」
「当たり前だろうが! やっと放課後のんびり出来るし、お前にこき使われることもなくなる!」
これが喜ばずになんとする、と小躍りまで始める始末。全身使って表現する程嬉しくて仕方がなかった。心ゆくまではしゃぎ、それからまたどかっと座る。
「いい花嫁修業になって感謝、感謝だね」
「だから花嫁修業なんかじゃねえっての。まあ、お前みたいな駄目男とは絶対結婚したくないっていうことを再認識させてくれたことには大感謝するがな」
「完璧な人間よりも、ちょっと駄目な位の方が良いと思うけれど」
「お前はちょっとどころか駄目駄目じゃねえか。お前本当鈴と会う前はどうやって暮らしていたんだよ全く」
「さあ、どんな感じだったかな。まあでもそこそこ充実した日々は送れていたよ。ふふ、でも本当にありがとうね、とても助かったよ」
ここで笑顔、感謝の言葉である。その微笑みに不覚にも紗久羅はどきりとしてしまい、はっとして何どきっとしているんだよ馬鹿と頭をかきむしる。それを出雲は微笑みながら見つめていた。
「ありがとうね」
改めて彼はそうお礼を言った。それを聞いた時、何故か胸がちくりと痛みそれから妙に寂しい気持ちに襲われる。こき使われる日々から解放されたことを喜んでいることは紛れもない事実。だが一方で別の気持ちも自分の中にあるような気がしてしまう。
柚季がにやにやしながら言った言葉が脳内で再生される。
(いやいや、そんなわけないだろうが! 何であたしがこいつにこき使われることに喜びを感じねばならんのだ! でも、鈴に礼を言われた時よりも何か心が弾んでいる気が……いやいや、気のせい気のせい!)
自分の馬鹿な考えなどを振り払うように、紗久羅はご飯を口の中につっこむ。それはとても美味しいはずなのに、色々考えてしまっているせいか味を感じない。
「……助女房」
少しの沈黙を破ったのは、出雲の謎の言葉だった。紗久羅は彼の顔を見、首を傾げる。
「助女房? 何それ」
「助女房というのは、桜村奇譚集に出てくる妖のことだよ。病気や怪我で身動きのとれなくなった独り身の男の前に現れる女の妖で、その男の代わりに家事の一切をしてくれるんだ。勿論男の看病もね。そして男がすっかり元気になると姿を消すんだ。君は私の助女房だ、と思っていたら声に出してしまった」
「身動きがとれなかったのはお前じゃなくて、鈴の方だけれどね」
「確かに病気になったのは鈴だけれど、それによって何も出来なくなってしまったのは私だから。助女房はその人が元気になったら姿を消す。……君もそうだね。もう私の世話をすることはない」
そう言った彼の表情はどことなく寂しげで、紗久羅はわたわたドキドキ。しかしこれはもしかしたら彼の作戦なのではないか、と思った。紗久羅に今後も全てではないにしても色々やらせる為の。そんな手には引っかかるもんかと深呼吸。
「別にあたしはそいつみたいに姿を消すわけじゃないさ。これからもお茶とお菓子をたかりに来てやる。……でも、もう世話係はこりごりだから絶対にやりたくないけれど。まさかあたしにまた色々やらせる為にわざと鈴を怪我させたり、あいつ一人を長期旅行に行かせたりしないだろうな?」
出雲は困ったように笑った。
「流石にそんなことはしないよ。……大丈夫、私は自分の足を刺しはしないよ。馬鹿じゃないからね」
「はあ? 何言っているのお前」
意味が分からず紗久羅は眉をひそめる。出雲は笑うだけで、その言葉の意味を教えてはくれなかった。
変な奴、と呟きつつも紗久羅は二人きりの夕飯をそれなりに楽しんだ。
勿論食事を終えた後も帰ることは出来ず、最後の最後まで出雲にこき使われ。
「柚季、やっぱりお前は思い違いをしている。あたしは嫌だ! こんなこともうやりたくない! ああ、やりたくないとも! ちょっと寂しいとか思ったのは気のせいだ! 気のせいじゃなかったとしても、それは多分美味しい食材で料理を作る日々が終わることを寂しいと思っているだけなんだ! そうに違いない! ああ、もう死ぬ、無理、疲れた……ふげえ」
そして紗久羅は心に決める。
今度無病息災のお守りを買って、鈴にあげようと……。