嫌よ言わずに好きになれ(2)
*
「な、何で……?」
自分が目を閉じ、再び開けるまでは確かにいた人達が皆いなくなっていた。ずらりと並ぶテーブルにも、本棚の周りにも、誰もいない。一人二人が席を立ったり、この場から離れたりしたわけではない。
たった数秒の内に、さくらの周りから人が消えた。
空気が急にひんやりとし、先程までとはまた違う……本物の静寂が訪れた。人が周りにいたら絶対に生成されないような空気が生まれ、広い空間を包み込む。どくん、と心臓がとても嫌な動き方をした。
訳が分からないながら、とりあえず現状を把握しなければと思い本をそこに置いて立ち上がる。さくらが椅子を引く音、本を一旦閉じる音以外は何も聞こえない。さくらは静寂を嫌わない。だがこの静けさはあまり心地良いとは思えなかった。何か不吉なものを感じる気がした。
もしかしたら『何か』に変な場所へ引き込まれてしまったのかもしれない。そんなことを要の前で口にしたら何を言われるか分かったものではないが、幸いここに彼はいない。彼すら恐らくはこの館内にはいない。
さくらは図書館の中を歩き回った。児童書コーナーで絵本を読んでいた子供も、パソコンで蔵書検索していた人も、新聞を読んでいた人も、いない。利用者が全員いなくなっているというのも充分異質で不気味だったが、いなければいけない司書達でさえ貸出・返却カウンターから消えていたものだからいよいよ妙だった。二階、三階と行ってみるが矢張り誰の姿もない。トイレを利用している人もいないようだった。
「あ、あの誰かいませんか……?」
恐る恐る出した声もすうっと静寂に吸収されてあっという間に消えていく。そしてその声に反応する者は誰もいなかった。そしてそこまで行ったところで、ああやっぱりここには私だけしかいないのだと理解した。それでも異様なまでにパニックを起こすことはなかった。こういう異常事態にはもう慣れてしまっているのだ。かえって要と対峙する時の方が余程頭が真っ白になる。
今さくらは図書館の外へ出る自動ドア近くに立っていた。背後にはトイレや階段、エレベーター、そして館内へと入るドア。そんな所でさくらは一人考え込んでいた。普段こんな所に突っ立ったままうんうん唸っていたら不審に思われるだろうが、今は自分以外誰もいないのだから問題ないだろう。
(妖の仕業、と考えて間違いないでしょうね。でもどういう妖なのかは分からない……)
自身の領域を持ち、そこへ人や他の妖を引きずり込める者は少なくないらしい。そして、そこへ引っ張り込む理由は妖によってまちまちのようだ。
以前満月館を訪れた時、さくらは出雲から妖について色々な話を聞いた。というより質問攻めをした。
一度興奮すると、出雲の怖さなどすっかり忘れ彼がとてつもない殺気を出すまで延々と聞き続けたのだ。『向こう側の世界』で妖達はどんな風に暮らしているのだとか、どんな京が存在するのかとか、食べ物のこととか、まあ色々だ。領域、についての話も色々聞いた。特定の妖が持つ、どの世界にも属していないとされる特殊な領域。一旦そこに引き込まれると、自力で抜け出すことは酷く難しいらしい。出雲でさえ、相手によってはどう抗っても無理であるそうだ。
(妖が人を自分の領域に引きずり込むのは……食べる為の場合もあれば、常識を超えた出来事にパニックを起こす人間を見て楽しむ為だったり、悪さをする為だったり、或いは良いことをもたらす為だったり……妖によって目的は色々なのよね。稀に引きずり込むつもりはなかったのに、うっかり入れてしまった場合もあるとか……)
さて、今自分をここへ引きずり込んだ妖の目的はいかに?
食べられてしまう場合もある、ということを聞いているにも関わらず妙に落ち着いているさくらだった。生命の危機に瀕しているかもしれないというのに、どうして要に話しかけられた時より冷静でいられるのだろうとさくらは不思議に思う。不可思議な出来事をしょっちゅう経験しているとはいえ、死の危機迫るような目に遭ったことはそこまで多くないのに。
(もしかして、妖に食べられるなら本望だって心の中で思っているのかしら。それとも、あんまり怖くて逆に冷静でいられるのかしら)
よく分からなかったが、怖い怖くないはこの際関係ない。今大事なのはこの領域の主の正体、そして目的を探ることである。誰の助けも来ないのだから自分で何とかするしかない。
(もう一度図書館を回ってみる? けれどもう一回見ても同じ気がするし……やっぱり、この外を探した方が)
と、足を一歩前へ。
「そんな所で何うんうん考え込んでいるの?」
まさにその時、背後から聞こえるはずのない声が聞こえたものだからさくらの心臓はびっくり仰天、ぎょぎょっと行儀の悪い上に変てこな声をあげそうになった。冷気に近いものに背中を撫でられ、冷や汗たらり流しながら見てみればそこに立っていたのは、なんと要であった。腕を組み、訝しげな目でさくらを見ている。先程までは確かにいなかったはずだが。
「み、御影君!? どうしてここに!」
「どうしてって……さっきも言ったじゃないか、本を読みに来たんだと。もう忘れたの? それとも僕のことなんて、夢物語と違ってどうでも良いことだからちゃんと聞いていなかった?」
さくらと対峙している時は常に不機嫌そうな顔がますます酷く恐ろしいものになっている。不機嫌な上にものすごく怒っている風だ。嫌っている相手でも、ぞんざいに扱われるとそれはそれで腹立たしいのだろう。
「そ、そんなことは、ななな、な、いけれど」
必死に否定するも、信じてもらえてはいないようだ。
「あの、その、他の誰もがいなくなってしまっているのに、どうして御影君はそんなに平然としていられるのかな、と……」
最後の方、かなり声が小さくなる。全て聞き取れたかは分からないが、さくらが言いたいことは理解したらしい。それでも彼は表情一つ変えなかった。
「人が僕達以外いなくなってしまった、それが何だと言うんだ。いなくなったからいなくなった、ただそれだけだろう」
それどころかそんなことを言われたものだから、ますます訳が分からない。要と話していることで急激に上がった心拍数、苦しさに胸抑えつつさくらは大混乱。
(何でそんなに冷静なの!? 利用者どころか司書さんまで……誰も彼もいなくなってしまっているというのに! というか、何故御影君は今ここにいるの? さっきまではいなかったのに。領域に彼も引きずり込まれた? でも、だとして何でここまで冷静なの?)
考える内、段々と思考は突拍子もない方向へ脱線迷子でふらふらと。ふらふらついでに思った言葉がぶつぶつ口から飛び出す飛び出す。
「も、もしかして御影君はこういう事態に慣れている? 私と同じように。紗久羅ちゃんのお友達の柚季ちゃんみたいに、こういうことが嫌いで、だからそういうものから目を背けようと非現実的なことを否定し続けているとか。ううん、もしかしたら御影君は人じゃないとか……」
挙句。
「もしかして、ここに私を引きずり込んだのは御影君!?」
大声で叫ぶのは素っ頓狂なこと。この場に紗久羅や一夜がいたのなら「何でそうなる!」とすってんころりんしながら言ってしまうに違いなかった。
目の前にいる要は怒りや呆れの前にドン引きしている様子。口元をぴくぴくさせている様など普段はまず見られないものである。さくらはそれを見てようやく自分が考えていることを口に出していたことに気づき、慌てて口を手で塞ぐ。だがもう手遅れである。
「ご、ごご、ごめんなさい、い、今のは」
「君ってそういうことを何の抵抗もなしに考えられるんだね。ある意味柔軟な発想の持ち主といったところかな。けれど、あんまり柔らかすぎて逆に使い物にならないだろうね」
その声の冷たさといったらなく、口の中に大きな氷の塊を突っ込まれた風になったさくらは言い返せない。要はため息をつくとくるりと背を向け再び館内へと戻っていく。彼が一旦自分から離れたのを確認し、さくらは安堵の息を漏らした。
(本当、どうして御影君だけがいるの……?)
もしかしたら他の人もあの後何人かこの領域に入ってきたのだろうか、と思い改めて館内を見てみるがいるのは矢張りさくらと要だけだった。
(よりによって御影君……)
苦手な人とこの領域に二人きり。そう思った瞬間に絶望が押し寄せ、ずっしりと重い空気が体内に溜まっていく。これなら全く知らない人と二人きり、の方が余程気まずくなくて済んだのにと思う。
さくらの目の前には外へ至る自動ドア。
(そうだ、もしかしたら外になら人がいるかもしれない)
意を決してさくらは外へと出ることにした。しかしあまり期待はしていなかった。何故なら目の前にある道路を車一台走っていないのが見えているから。普段その道路は多くの車が走っている。休日なら尚更だ。だが今は一台も見当たらない。それでも外へ出て辺りを歩き回ったが、矢張り結果は芳しくなく。
店には客も店員もいないし、通りを歩いている者はいないし、バスは時刻表に掲載されている時間になっても来ないし、図書館からそう遠くない場所にある駅には人っ子一人おらず電車が来る様子もない。
住宅からも人が住んでいる気配を感じず、公衆電話で自宅や紗久羅の家に電話をかけても誰も出ない。
時間をかけ、ありとあらゆる場所を歩き回ったが結局誰の姿もなかった。
(本当に、誰もいない……。私と御影君以外……。一体ここへ私を引きずり込んだ人は何が目的なの? 単純に食べる為って感じでもないし)
それを掴む為の手がかりは見つからず、これからどうしようかと考える。
要しかいない図書館に戻るか、それとも誰もいない世界をあてもなく彷徨い続けるか。さくらにとってはある意味究極の選択であった。
それでも散々考えた末、とりあえず図書館へ戻ることを決めた。誰もいない上大して好きでもない街をふらふらしているよりも、図書館で本を読んでいる方がずっと良いと判断したのだ。そうして本を読んでいる間に何か進展があるかもしれない。なければなかったで、延々と本を読んでいれば良い。夜になっても図書館にいられるかもしれない、というのはさくらにとっては魅力的であった。全く呑気な娘である。
外の世界以上に館内は静かだ。針一本落ちる音さえ響いて聞こえそうだ。
さくらは先程の席まで戻り、そこに座った。幸いというべきか何というべきか要はその辺りにはいない。別の場所に居るのだろうが、探すつもりはなかった。
一度本を開くと、今度はすっと物語の世界に入り込むことが出来た。そうして、ここがある妖の領域であることをすっかり忘れてしまう。選んだ本はさくらの好みに合うもので、ページをめくる手は止まらず
心は踊って、踊って、踊る。
文体はどこか童話を思わせる優しげなもので、大変好みだった。本には短編が五つ入っていて優しく温かなものもあれば、切なく胸がちくりと痛むようなものもあった。本好きな主人公には共感できる部分が多くあり、読んでいる内に彼女がまるで自分のように見えてくる。主人公が出会う、日常の中にあるささやかな謎を解き明かす女性は月子さんや佳花を思わせる。優しく主人公を見守る、姉のような母のような存在。
物語を読む内自然と溢れる笑み。溢れた笑みは本に落ちていき、それにより温もりを与える。
「本を読んでいる時とかは笑っているんだね、君。僕と話す時はいつも怯えたような顔をしているのに」
聞こえた声にさくらは顔を上げ、途端笑みは消え失せる。いつの間にか真正面の席に要が座っており、頬杖ついてさくらをじっと見つめていた。その顔は呆れ顔で、何だか「ようやく気がついたか」と言いたげだ。もしかしたら何度もさくらに話しかけていたのかもしれない。
あんまり驚いてさくらは危うく椅子から転げ落ちそうになった。まさか要自らさくらのいるテーブルまでやってくるとは思いもしなかった。踊っていた心臓は爆発、時に優しく時に切ない物語はその衝撃で吹き飛んだ。要はむっとしながらなお話しかけてくる。
「君の幸せは本や物語の中にしかないの? 外の世界には何もないのかい?」
彼の放つ氷の矢に危うく縫いつけられそうになった体をさくらは動かし、立ち上がる。このままだとまたブリザードワードを吐かれ続けることになる。それは嫌だった。
だからさくらは相手にかなり失礼な位悲鳴をあげ、その場から逃げ出した。もうこうなったら外へ出るしかない。そうしなければ延々と彼に絡まれ続けるような気がしたのだ。
そうして外へ出ようとした時だ。
「嫌よなんて言うなよ!」
静寂に包まれていた館内にそんな声が響き渡った。男の声のようだが、要のものではなさそうだ。
その声にびくりとし立ち止まったさくらの頭に何かが覆いかぶさる。何が何だか分からずパニックになりながらもそれを掴む。そのぺらぺらでかさかさの何かは頭からすんなり離れた。手に掴んだそれはよく見れば、新聞だった。
何で新聞が……と重いその内容を見てみると。
「な、何これ!?」
新聞の見出しは『嫌よ言わずに好きになれ』というもの。そしてそこに書かれている文章はといえば。
『苦手だ嫌だと言って逃げ回ってどうするんだ。お前が思う程御影要は悪い人間じゃない。御影要が冷たいだけの人間ではないことはお前だって分かっているはずだ。雨の日に傘を盗まれ、困っていたお前を助けてくれたのは誰だ? 彼だろう。もう一度言う、彼は冷たいだけの人間ではない。感情を持たぬ者ではない、好きなものだってあるし優しい所だってある……』
そんなことがびっしりと書かれていた。それからもう一度「嫌よなんて言うなよ!」という声が響く。
びっくりして手放した新聞は地に落ちると溶けて消えた。何事かと思いながら辺りを見回せば、あらゆる所に変化が起きていた。
蔵書検索出来るパソコンから「嫌よ言わずに好きになれ!」という言葉が何度も発せられる。その声はえらく耳が痛くなる程甲高い。画面を見てみれば、自分が発したのと同じ言葉がびっしり羅列されている。別のパソコンには御影要の名前がずらずらびしり。
トイレ等があるスペースに出る為の自動ドア、その上にある電光時計は時を刻まず『好きになれ!』という言葉が刻まれている。『児童書コーナー』というプレートと共に吊るされている画用紙製の可愛らしいウサギや猫、それから本棚の上に飾られているくまのぬいぐるみが口を揃えて「嫌よ言わずに好きになれ!」「あんまり嫌うなよ、好きになれよ!」などと延々と言い続ける。そこらにあるものがぐちゃぐちゃ言うものだから、うるさくてかなわない。ここが図書館であることが信じられなくなる位だ。
二階へ行けば矢張りパソコンが騒いでいるし、とある小さなコーナーに飾られている三つ葉市出身もしくは三つ葉市ゆかりの作家の写真が口を開いて「好きになれ」コールを繰り返し、DVDやCD鑑賞が出来る三階へ行けば、何台もあるTV画面に要が映し出され、CDデッキからは「嫌よ言わずに好きになれ」という声が流れ、四階の展示スペースに展示されている写真は山や海、花だろうが人だろうが皆喋った。
「嫌よ言わずに好きになれ!」
「好きになれば人生楽しい!」
「嫌でも好きになるさ、だってこの世界にはあんたと彼、二人きり!」
最早何を言っているのかさえ分からない位騒々しく、さくらは耳を塞ぎながら外へ出る。外へ行けば少しマシになるだろうか、等と淡い期待を抱いたが勿論そんなことはなかった。
「嫌よ言わずに好きになれ!」
「逃げてどうする、逃げても好きにはなれないぞ!」
「嫌いとか苦手とかいう気持ちなんて捨ててしまおう!」
街中に設置されているスピーカー、道路には文字が書かれ、デパート等の垂れ幕に書かれている文章も変わっており、そこらに貼られているポスターには要の姿と『好きになれよ!』という文字。木の葉の舞い散る音も「嫌よいうな」「好きになれ」というものになっているし、店の前に置かれたマスコットキャラクターの人形も喋りだし、駅に行けば電光掲示板には電車の発車時刻ではなく『好きになれ!』の文字、駅ビルにあるCDショップから流れるのは音楽ではなく要の声及び耳にできたタコが弾けそうな位聞いた言葉……。どこへ行っても好きになれ好きになれ好きになれ好きになれ……。
「嫌よ言わずに好きになれ!」
「好きになることは良いことだ!」
「苦手なんて悲しい言葉は忘れてしまおう!」
「好きになるんだ、大丈夫、あんたなら出来る!」
「本はこれ以上好きにならんでも良い。彼のことを好きになろう!」
(頭が痛い、目が回りそう……)
最早空に浮かぶ雲さえも要の顔に見える位で、今聞こえている声は脳内で再生されているものなのか耳に入ってきているものなのかさえ分からなくなってきている。
「図書館に戻れ、御影要がいるぞ」
「この世界には最早あんたと彼しかいない! ひとりぼっちは嫌だろう? ほらほら戻って、戻って、彼と話をして、彼を好きになれ!」
その言葉に手を引っ張られるようにして、さくらは図書館へと戻る。もう途中から自分がちゃんと歩けているのかさえ分からない位になっていたが、最終的には辿り着けたのだからこの際もうどうでも良い。
あれだけうるさかった声も、先程まで座っていた場所に戻った途端に収まった。要はまだそこにいて、さくらが戻ってくると「戻ってきた……」と呟く。頭はまだくらくらしている。耳に内蔵されているスピーカーが延々と散々聞いた言葉を絶えず再生しているような状態になっているからだ。だからあまり静かになった、という実感がわかない。最早「好き」とか「嫌い」という言葉はゲシュタルト崩壊を起こしいる。ああ、好きとか嫌いってなんだっけともうその意味さえ忘れかかっている。
「どうしたんだ、そんなにぐったりとして」
「な、なんでも、ないの」
自分の顔をやや心配そうに見つめる要にさくらはただそれだけ言った。というよりそれしか言えなかった。矢張り彼の前に座った途端体が萎縮するし、そもそも謎の現象によってさくらは大分参っていた。
参りつつもさくらは自分をこんな目に遭わせている妖のことを考える。
(桜村奇譚集に、確かこんな感じの話が載っていた……苦手、或いは嫌いだと思っている人のことを考えている人間を……自分とその人しかいない世界に引きずり込む妖の話が。だとすると目の前にいる御影君は……)
「具合、悪いんじゃないの」
そんなさくらに要が話しかけてくる。さくらは全力で首を横に振るが、信じてもらえていないようだ。
「具合が悪いなら、帰った方がいいと思う。無理してまで本を読むことはないだろう」
そう言ってから何故か彼は気恥かしそうにそっぽを向く。それから「何なら送っていく」という予想だにしなかった言葉を口にした。さくらはその言葉に驚く。どうして嫌いな自分なんかの為にそこまで、と思ったが以前傘を貸してもらったことを思い出す。
(困っている人を放ってはおけないって言っていたっけ……櫛田さんも意外とお人よしだと言っていた気がする。そうよね、彼は具合が悪そうな人を平気で放っておける程冷たい人じゃない……)
少しだけ、要の前にいることでかちこちになっていた心臓が温もりを帯びる。さくらは微笑み、彼に言った。
「あの、本当に大丈夫なの。その、あの……ありがとう」
そうすると彼は「そう、なら良い」と言ってまたもそっぽを向く。その頬が俄かに赤くなっている様に見えるのは果たして気のせいだろうか。
彼でも照れることはあるのだろうか、と思っていると「にゃあ」という愛らしい声が聞こえた。見れば要の足元に猫の姿が。恐らくさくらをこの領域に引きずり込んだ妖が生み出したものだろう。その猫はややぷっくりとした三毛で大変可愛らしい。もう思わず抱き上げてむぎゅっとしたくなる程である。しかしさくらが思わずそうしようかと立ち上がる前に、要がその猫を抱き上げていた。
要は抱き上げた猫を膝に乗せ、どうやらその体を撫でてやっているらしい。猫を見ている表情はいつもよりも柔らかく、微かに笑んですらいた。彼がそうして微笑んでいるところを見たことなど皆無に等しく、だからこそさくらは思わずどきりとしてしまう。
「あ、の……猫、好き、なの、御影君」
「嫌いじゃない。動物なら、犬も割合好きだよ。君は……いかにも猫派って感じだね」
「う、うん。三毛猫が特に好きなの」
「ああ、確かにそうっぽいな。縁側に座って膝に猫乗せながらお茶を飲んでいそうだ」
「それって嫌味……?」
「いや、別に」
そう言って要が微笑む。いつもよりも年相応の顔に見え、少しだけ緊張感が和らいだ。彼は『笑う』という概念など知らないのではないかと正直思っていたが、彼も笑う時は笑うらしい。
「その、御影君は、あの、猫とか……飼っているの?」
思い切って尋ねてみると、要は首を横に振る。
「いや。生き物を飼うことに責任がもてないから、飼わない。確実に出来るか分からないことは最初からやらない」
「そ、それじゃあ猫を飼ったらこんな風な日々を過ごすんだろうなあ、とか、こういうことをしたいなあって想像することは? 私はよくあるの。本棚が沢山ある書斎で小説を書いて、時々猫を撫でてのんびりとした時間を過ごせたら楽しいだろうなって考えることがあるのだけれど」
「僕は猫を飼うつもりがない。だから、猫と共に過ごす日々というのは決して訪れない。決して訪れることのない時間のことなんて考えたって意味がない。もしも地震が起きたらこうしよう、ああしようと考えるというのはともかく、もしも猫を飼ったらなどというどうでもいい『もしも』を想像する必要性を感じない。だから僕はそんなこと、考えない。やれること、やらなくてはいけないことだけ考えて、やれることだけやる。出来ないことはやらないし、出来ないかもしれないことをやろうとしたり、考えたりする道は最初から選ばない」
少しだけ和やかな空気になったかと思えば、これだ。ほのりが小学生の時に『角張り四角太郎』という名前を心の中で彼につけた気持ちが分かるような気がする。彼は世の中には必要な『もしも』と不要な『もしも』があると考えているようだ。さくらが愛しているのは後者の『もしも』だ。だからこそ、そういう『もしも』に思いを馳せてばかりのさくらのことが彼は気に食わないのだろう。
そしてしばらく沈黙が続き、気まずくて仕方ない。席を外したいのは山々だったが、恐らく立ち上がった途端好きになれコールに再び襲われることだろう。それを思うとここから離れるのには勇気がいる。
(ここから出る為の方法は確か二つあるはず。……けれど、どちらも出来る気が今のところしない……)
沈黙がずっしりとおぶさる。心地の良い沈黙もあれば、いっそ死にたいと思える位気まずい沈黙も世の中には存在する。今自分の体におぶさっているのは間違いなく後者である。
兎に角この状況をどうにかしないと、何か質問しないと、と思って口から出た問いというのが。
「す、好きな食べ物は何ですか!」
これである。要が意外な質問に目をぱちくりさせている。さくらも口に出してから気恥ずかしくなり、俯く。しかも何故丁寧語、と自分の言葉にツッコミを入れる。
きっと何でそんなことを、と冷たく返されるのがオチだろう。そしてそう聞かれてもさくらには理由を答えることが出来ない。答える程の理由がないのだから。しかし予想は外れた。
「……山菜おこわとか、抹茶のお菓子とか」
「え」
「だから、好きな食べ物。黒豆を煮たものとかも好きかな」
今度はさくらが目をぱちくりさせる番だった。まさか何も言わずに答えてくれるとは思わなかったから。だがしばらくして何となく答えてくれて嬉しいという気持ちになり、自然と笑みがこぼれる。
「和食が好きなのね。何だか御影君らしい気がする。洋食派って感じじゃないから。……私も山菜おこわとか、抹茶のお菓子とか好き。炊き込みご飯も好きだし、けれど一番好きなのは手まり寿司かな。見た目も綺麗だし、名前からして和って感じがして」
「手まり寿司……食べたことないな。というかあまり見たことがないな。ふうん、やっぱり君も和食派なんだ。確かにそんな感じがするよ」
「皆からそう言われるわ」
それからまた会話が途切れる。どうやら新しい話題を投下する必要があるらしい。散々考えた末に出たものが「御影君って何人家族なの?」というものだ。またもや、どうしてそんな質問なんだといった感じである。
「父と母、兄が一人と父方の祖父。父と兄は公務員で、母は元々父と同じ職場で働いていたけれど結婚した後は専業主婦」
「お兄さんがいるのね……私は一人っ子だから、ちょっと羨ましい。御影君のお兄さん……頭良さそう」
「僕よりもずっと良いね。運動も僕と違ってよく出来るし。……何でもかんでもそつなくこなせる人間だよ。あんまり出来すぎて恐ろしい位だ」
「へえ……」
沈黙。さくらにしても要にしても、話を膨らませることが馬鹿みたいに下手くそだった。下手な上にそもそも話を膨らませて盛り上がろうという気持ちがないから、どうにも続かない。要は自分から話を振ろうとはしないから結局さくらから質問をすることになるが、要はそれに答える位で後はだんまり。
「え、ええと、御影君って趣味は……」
彼はそれを聞くと何故か照れくさそうにそっぽを向き、しばらくしてから彼にしては小さくぼそぼそした声で呟いた。
「盆栽」
「ぼっ……ぼ?」
無趣味、或いは勉強が趣味です位な回答を予想していたものだからさくらはぽかんと口を開け。しかも盆栽とは!
予想外にも程があるというか、誰が予想出来るかというような趣味だ。要もそれを理解しているからこそ言いづらかったのだろう。紗久羅や一夜が聞いたら「おじいさんか!」とツッコミを入れたかもしれない。ほのりだったら腹を抱えてげらげら笑い転げたに違いない。さくらは笑いこそしなかったもののどう答えていいか分からず、そうなんだとしか言えなかった。
「……強いて言うなら、だけれど。祖父と一緒に小さい頃からやっていた。比較的楽しいとは思う」
と矢張り少し恥ずかしそうに言う。要がハサミでちょきちょきやっている姿を想像する。そうすると、ああ結構合っているかもしれないと思えてきた。少なくとも一夜よりはずっと似合っているというか、違和感がないというか。
「えと、結構上手だったりするの……? 腕前というか、なんというか」
「いや。下手じゃないけれど、お前のは何だかつまらないって言われる」
「ああ……」
何となく、納得してしまった。
「後はクロスワードとかナンクロとか、そういうものをやるのも嫌いじゃない。……君は本を読んだり、何か書いたりする以外には何もないの?」
「え、ええと、その、舞花市とか落ち着いた雰囲気の街を散歩することが結構好きかも」
「ああ、そういうのも悪くないね。僕も休日、舞花市へふらっと行くことがある。三つ葉市よりは、あの街の方が好きだ。うるさくないし、落ち着いているし」
「あ、の、おすすめの店とかってある?」
そう聞くと、要は幾つかお気に入りの店を教えてくれた。その殆どは喫茶店で、本を読んだりノートを広げたりしながらコーヒーなどを飲むそうだ。本屋で参考書を探したり、古本屋に立ち寄ったりすることもあるようで、舞花市での過ごし方はだいたいさくらと同じだった。
それからもさくらは気まずい沈黙の時間を再び訪れさせないよう、何度も色々な質問をした。要は迷惑がらずに全ての質問に答えてくれた。
好きな色は白や黒であるとか、数学や理科が好きで国語|(文章から人の心情を汲み取るのが苦手らしい)と体育は苦手だとか、料理はあまりしないとか、TVはニュース位しか見ないとか、TVゲームは殆どしたことがない(面白味を感じないらしい。だがパズルゲームは嫌いではないようだ)とか、小学校低学年の時にはもう眼鏡をかけていたとか、ホットケーキを小さい頃作ろうとして大失敗したことがあるとか……様々なことを知った。
男女が面と向かい合い、質問をしてそれに答える――というシチュエーションがあるものに似ているとさくらは思った。
「何だか、親がセッティングしたお見合いを仕方なくやっている感じみたい……」
思ったことを、思わず口にしてしまう。はっとして顔を上げると、要は何故か顔を赤くしていた。何を馬鹿なことを、と言われるだけだと思っていたのでその反応は意外であった。これ程までに顔が赤くなっている彼など見たことがない。びっくり驚き、一方でその顔を見ている自分まで恥ずかしくなり顔が熱くなるのを感じる。結局しばらくお互い俯き、黙ってしまった。もう本当、お見合いでもやっているような気持ちになってしまった。
そんな気持ちを振り払い、さくらは質問を再開し、要がそれに応える。その内少しずつ堅苦しいだけの空気は柔らかなものに変わっていった。だが。
(けれど、だからといって御影君のことが苦手じゃなくなったかといえば……)
彼の意外な一面を知ることが出来たり、いつもよりは幾らか和やかな雰囲気で話をすることが出来たりしたことは確かだ。だがだからといって約二年の間にぐんぐん育ってしまった苦手意識がぽんと消えるはずもなく。
(しかも今『彼』から聞いたこと全てが本当かは分からないのよね……だって『彼』は)
さくらは要の顔を見る。顔も声も間違いなく要だし、その瞳の冷たさも角張りすぎている上に冷たいオーラも本物だ。けれど彼は偽物なのだ。
だから彼の言っていることが全て本当なのかどうかも分からない。本当のような気はするのだが。
(ここから出る方法は一つ。一つ目は御影君のことを好きになるというもの。そうすれば妖は満足して、私をこの領域から出してくれる)
好きになる、といっても別に恋愛的な意味ではない。ようは人間として彼のことを好きになればいいのだ。だがさくらは何をどう頑張っても彼にそういう感情を抱けないような気がした。若干苦手度が下がることはあっても、妖が満足する程度に好きになるのは無理そうだった。
(となるともう一つは……ああ、でも、それはそれで……)
またまた要の顔を見る。それから自分が彼にあることをしている姿を想像し、青ざめつつ頭を振る。
(無理、無理、無理! そんなこと私には)
しかし、苦手意識を払拭することの方が余程難易度が高い気もしてしまう。選択肢は二つに一つ。それ以外の方法をさくらは知らない。桜村奇譚集にそれ以外の方法が書いてなかったからだ。
延々とこの地獄のお見合い風質問会を繰り返したら、正直心が折れる気がした。この時間から解放されるには、彼を好きになる以外のもう一つの方法をとった方が手っ取り早い。だが、やり難い。しかしやらねばこの時間が続く。
決断の時が迫っていた。口を固く結び、要の顔を見ながら膝に置いた両手をぎゅっと握り締める。
「どうしたの、やっぱり具合が悪いんじゃないか?」
(やっぱり、やらなくちゃ駄目、かな……)
要の言葉に答える余裕もなく、散々考え。そしてようやくさくらは決意した。心の中でごめんなさい、ごめんなさいと謝罪の言葉をひたすら繰り返しながらさくらは立ち上がり、それから要の真横に立つ。要はどうしたんだ、とさくらを見た。
(ごめんなさい、御影君! 正確に言うと御影君ではないけれど!)
さくらは震える手をあげ、そして。
パアン!
静寂包む図書館に、さくらが要の頬を思いっきり叩く音が響いた。
(ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、もう本当にごめんなさい!)
要の頬を叩いた感触に泣きそうになりながらも、出来る限り大きな声でさくらは怒鳴った。
「この世界にたった二人きりになったって、私は絶対に貴方のことなんか好きにならない! 貴方なんて大嫌い! 一緒になんて、いたくない!」
叩かれた頬を手で押さえている要が口をぽかんと開けたままさくらの顔を見ていた。だがその表情に変化が訪れる。その顔は段々崩れていき、そしてあっという間に泣き顔に。良心にぐさっと突き刺さる位潤んだ瞳からはぼろぼろ涙が零れてきて止まらない。彼は「うええん」と本物の彼からは永遠に聞けないだろう情けなく、そして幼子のような声をあげながらぴいぴい泣く。
「酷いよ、酷いよ、殴るだなんて。親切心でやってやったのに、うええん」
それから要の姿が変わっていく。太陽光に晒したアイスの如くその体が溶けていき、やがて消えてなくなった体の中から青い人魂のようなものが現れる。その人魂こそさくらをこの領域に引きずり込んだ妖なのだろう。
苦手、もしくは嫌いな人のことを好きにさせる為、その人だけしかいない(もっとも、実際のところは妖が化けた姿なのだが)領域に引きずり込む妖。恐らく「世界に自分とその人だけしかいなくなれば、嫌でもその人のことが好きになるだろう」というよく分からない理論のもと行動しているのだろう。悪気はなく、人を不幸にするわけでもない……だが迷惑な存在。
この妖、どうも強い衝撃に弱いらしく(ついでにメンタルも弱いようだ)思いっきり叩くなり蹴るなりして「どうやろうが好きになるわけない!」と拒絶の言葉を吐くと簡単に正体を見せてくれるようだ。
「分かったよ、分かったよ! こんなことする人のことなんか知ったことか! そうだ、もう知ったことじゃない! あんたの為を思ってやってやったのに、もう知らないもんね!」
全く本当に小さな子の喋り方だ。こんな妖がよく要のフリをしていられたと思う。妖は泣きながら空高く昇っていき、天井を突き抜け、やがて消えて見えなくなった。その直後図書館の姿が揺らぎ、きいんという金属音がし、めまいがし、そして気がつけば。
さくらは元の世界に戻っていた。そのことが分かったのは、館内に人がいるのが見えたからだ。といっても人数は先程よりも少ない。あの領域にいた時もしっかり時間は過ぎ去っていたらしく、外はもう大分暗く閉館時間寸前となっていた。とりあえず元の世界に帰ってきたことを確信し、ほっと安堵の息。
(結局、あそこで聞いたことは全て本当だったのかしら。……聞いてみたい気もするけれど)
読みかけの本を借り、さくらはあの領域で起きたことを色々考えながら図書館を出ようとする。例によって彼女は前などろくに見ていなかった。見ていなかったから、人とぶつかった。ごめんなさい、と顔を上げてみれば……。
「また君か」
要だった。瞬く間に全身硬直、かちこちに。矢張りあれだけ色々話をしても苦手意識は消えない。苦手なものは、何をしたって苦手なのだ。そして、彼の趣味が盆栽ということや完璧超人の兄がいることなどが本当であるのか聞いてみることなど、絶対に出来ないことを同時に悟った。
「夢ばかり見ている目を少しは周りに向けたらどうだい。夢物語に目を向けていても、人とぶつかることは回避できないよ」
相変わらず冷たい瞳、冷たい声。さくらは『本物』を前に『偽物』に対して自分がしたことを思い出してしまった。本物と偽物がさくらの頭の中でぐちゃぐちゃに混ざりそして、青ざめる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
もう後は全自動謝り人形と化した。頭を上げては下げ、上げては下げの繰り返し。図書館を出ようとしていた他の利用者達がぎょっとしながらその様子を見ていることなど気づいてもいない。要はいい加減にそれを止めようとしたが、さくらはなかなか止まらなかった。
そんな彼は、その「ごめんなさい」に別の意味が含まれていることなど永遠に知ることはないだろう。
結局さくらは要があまりの気まずさと恥ずかしさに逃げ出すまでずっと謝り続けていたのだった。




