花咲く乙女(11)
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夜、真紀は出雲に学校で遭遇した鬼のことについて話した。話していると彼の姿、身にまとっていたおぞましいオーラに刺される感覚を思い出し、同時にその時感じていた恐怖も呼び覚まされ、その感情が与える冷たさに震える体を出雲に預けながら早く話し終えてしまいたいと、口の動きが自然と早くなる。月の雫が真紀の体に絶えずふりかかり、体が冷たくなる。
出雲は話を聞いても顔色ひとつ変えない。真紀のことを心配している様子は微塵も感じられないところに、彼の為人が現れている。彼は決して心優しい人ではない。人の気持ちに触れて心を激しく動かすことはないだろう。今の真紀がそれに限りなく近いように。誰にも左右されない生き方をしている、だからこそ冷たくそして美しいのだ。
彼はしばらく無言だったが、ややあって口を開いた。余裕のある笑みを浮かべて。
「そう。……成程、確かにそれは鬼だねえ。きっと他の人には見えない鬼だろう。その鬼はね、人が変わることを快く思わない者だ。そしてその人をすっかり元通りにしてしまおうとする。君がどうしたい、という意思など関係なしにね。無理矢理君を元の君に戻し、微笑むんだよ」
「元に、戻す」
「そう。君が手に入れた輝きも、人を恐怖させつつ魅了する力も、その艶やかな髪も唇も瞳も全部奪って、元通りにする。そうしたら君は自分が『石ころ』と評していた頃の姿に戻るんだよ」
恐ろしい言葉が彼の息を吸った口から喉を通り体内へと入り込んでいく。そしてそれはあっという間に全身を駆け巡り、大声で狂ったように叫ぶことさえ出来ない位に真紀を恐怖させた。
ある意味石ころ時代に戻ることは、死よりも恐ろしいことであった。真紀は助けを求めるように出雲にしがみつく。
「どうすればいいの、あれは私を元の石ころに戻すまで目の前に現れ続けるの? 怖い、そんなのは嫌!」
「落ち着きなよ、真紀。大丈夫さ。君が心から元に戻りたくないと願っていればね。今の君は鬼一人がどうこう出来るような存在ではない。だから君は堂々としていればいい。怖いと思うからいけないんだ。明らかに自分よりも劣っている存在にびくびくするなんて、情けないよ。そんな風に恐怖することは、今の君には不要だよ。大丈夫だよ、真紀。つかまりっこないよ……捕まってはいけない。間違ってもそんなことにはならないでね」
念を押すように言われ、真紀は力なく頷いた。もう惨めな自分とは違うのだと言い聞かせても、あの鬼から逃げ切れる自信が一向に湧かない。その自信のなさに鬼がつけこむかもしれない、と思ってもどうにもならなかった。
それ位、あの鬼は脅威だった。秀人に拒絶されることと同じ位あの鬼のことも怖い。他のものは少しも怖くないというのに。
「ここまでして、結局元通りになってしまった……なんてことになったら私も辛いしね」
そういって出雲は自分の唇を真紀の唇に重ねた。鬼に対する恐怖が、少しだけ遠ざかる。
身も心も蕩けるような時間は瞬く間に過ぎていき、朝近くに家へ帰り、そしていつものように学校へ向かう。もしこのバスにあの鬼が現れたらどうしようかとハラハラしていたが、幸いにも彼は現れなかった。バスを降りるとすぐ近くに学校がある。
(もし、あそこに鬼がいたら……)
そう思うと、急に校舎が化け物に見えてきた。黒く禍々しいものが薄汚れた無機質の校舎からにじみ出ているように思える。そんな所に自ずから足を踏み入れるなどまこと馬鹿馬鹿しい話だと思い、いっそ学校などサボってしまおうかという考えさえよぎった。自分は自由なのだ、学校に通うも通わないも自分次第、自分の選択が両親に迷惑をかけようがどうでもよい。
散々考えてから真紀は首を横に振った。出雲の言葉を思い出したのだ。
(行こう。出雲は言っていたじゃない、あの鬼には私をどうこうするだけの力はないと。私が元に戻ることを望まない限りは大丈夫だって。そうよ、私はもう弱くなんかない。私はもう特別な存在なんだ、あんな鬼を恐れる必要なんてないんだ)
自分に言い聞かせたら、なんだか「ああ、きっと大丈夫だ」という気持ちになりそれから校門をくぐり校舎へ。生徒達の視線が、体重など存在しないかのような軽い足取りで歩く真紀に集中する。自分がどれだけ異質で、そしてどれだけ特別な存在なのか改めて感じることができる。
そしていかにも「自分には怖いものなどないですよ」と言わんばかりの表情を浮かべながら階段を上りきった。後は廊下を少し歩けば教室だ。
だが真紀はすぐにそこへ行くことが出来なかった。心の余裕も一瞬で消え去った。廊下で雑談をしている生徒達に混じって……昨日の鬼が立っていたからだ。
「あ、ああ……」
後ずさり、震え、恐怖する。鬼は真紀の教室の前に立っていて、室内をじっと見つめていた。きっと自分を探しているのだとすぐに察した。そして見つけて、石ころに戻してやろうとしているのだ。
彼は真紀がまだ教室にいないことを把握したらしく、ゆっくりと体の向きを変える。そこで真紀に背を向け、そのまま去ってくれれば良かったのだが運の悪いことに彼は真紀のいる方へ体の正面を向ける。もしかしたら真紀がそちらにいることに気がついたのかもしれない。
真紀の姿を認めた途端、その目が不気味に輝く。口からのぞく歯もまたぎらぎらしており、その存在を無視せずにはいられない。あの鋭い歯で噛みつかれたらひとたまりもないだろう。花は咲かせたいが、血の花は咲かせたくない。その体から放たれているものは喉を詰まらせ、心臓を握りつぶし、頭をがしりとつかむ。息は出来ず、外へ出るのは涙ばかり。
鬼が一歩前へ進んだ。それと同時に真紀は絶叫した。近くにいた生徒達が体をびくつかせ、こちらを見る。狂った人でも見るかのような目で。あんな鬼を前にして、叫ばない方がおかしいじゃないかと真紀は心の中で叫ぶ。だがあの鬼は真紀以外には見えていないのだ。だから誰も真紀がどれだけ怖い思いをしているのか分からないのだ。かつて石ころであることに苦しんでいた気持ちに誰も気がつかなかったように。
(怖い、怖い、やっぱり怖い! あれを怖いと思うなという方が無理よ!)
真紀は何度も悲鳴をあげた。そして来ないでと叫びながら、先程までとはうってかわってずしんと重くなった足を滅茶苦茶に動かして階段を下りていく。誰かとぶつかりそうになってもおかまいなし、ただ、あの鬼から逃げることだけを考えて逃げて、逃げて、逃げた。
そして校舎から転がるようにして出てから、ようやく逃げるのをやめた。鬼の気配を感じなくなったからだ。結局彼は追いかけてはこなかったようだ。呼吸を、それがいかに大事なものであるか実感しながらして、整えてそれから涙を拭いた。
もしかしたらあの鬼はもうあの場から立ち去ったかもしれない、もし立ち去っていなければまた逃げればいい、そして今度こそ学校を休んでやろうと思った。一歩一歩ゆっくり歩を進め、さっきのうん倍もかけてようやく鬼と遭遇した廊下へ戻る。予想通りそこに鬼はおらず、また自身の教室にもいなかった。
ほっと息をつき、自分の席に座った。教室にいる人の誰もが真紀を気の狂った人を見る目で見ていたが、気にしなかった。彼等の視線などどれだけ束ねたってあの鬼の視線の足元にも及びやしない。それに本当の世界を知らない可哀想で、とても弱い人達が自分のことをどう思っていようとどうでも良かった。
(ああ、もう二度とあの鬼とは会いたくない……)
心から願ったことだ。だがそうして願っても叶わない願いは叶わない。
鬼はそれからも度々真紀の前に姿を現した。廊下で会ったり、廊下から教室にいる真紀のことを見ていたり、他のクラスの教室にいたり……校内のありとあらゆる所で遭遇したり、その姿を見かけたりした。
彼はしつこく自分のことを追いかけてくることはなかった。そもそも追いかけようともせず、自分の走る姿をただ見つめているだけのこともあった。かと思えば、真紀がもう駄目だと思う位長い間追いかけることもある。全く心から自分のことを石ころに戻したいのか、戻せたら戻したいという位の気持ちなのかいまいち分からない態度である。だが、その分からなさ具合が逆に怖かった。
何十回と鬼と真紀は邂逅する。毎日毎日、繰り返し。
鬼とは主に校内で遭遇した。学校の外で会うこともあり、この前は休みの日にその辺りをふらふらした帰りに姿を現したこともあった。家にいる時、外に彼がいる気配を感じたこともあった。彼が家をじっと見つめている姿を想像したら鳥肌がたった。
一方で、会いたくて仕方の無い秀人にはあまり会えなかった。遠目で彼の姿を見たことはあったが、近づくと鬼が現れるのだ。鬼は真紀が秀人に近づくことも快く思っていないようだ。だから真紀が近づくと、彼を隠すのだ。ようやく「理解してもらう必要はない。ただ魅了すればいいだけだ。そうして自分のものにすればいい」ということに気がついたというのに。彼と共にいれば、鬼さえ怖くなくなるような気さえしたのに。
ある日は、外で美紀と何か話している場面に遭遇した。鬼は自分以外の人には見えないはずなのに。
(もしかしたら、私以外の人にも見えるように出来るのかもしれない。しかもそのままの姿ではなく、いかにも優しそうな人に姿を変えて。そして美紀に話しかけて、私のことを色々聞いているのかもしれない。いえ、もしかしたら美紀を騙して人質にして……)
そんなことはさせるものですか、と意を決して真紀は二人の間に割り込むとぽかんとしている美紀の手をつかみ、全速力で走った。そして鬼から充分距離をとったことを確認すると疲れてぜえぜえいっている美紀の肩に手をやる。
「いい、あの人と話しちゃ駄目よ」
「え、どうして」
「いいから!」
思わず怒鳴ったら、美紀はびくりと体を震わせてそれから泣いてしまった。可哀想なことをしたと思ったが、これも美紀の為を思ってのことである。真紀は彼女の頭を優しく撫でてやり、それから二人で手を繋いで帰った。美紀は口は笑っていたが、顔は笑っておらず終始怯えたような表情を浮かべている。
(美紀さえも私に怯えるようになった。それは私の輝きが、この子の輝きを圧倒しているから。もう私はこの子よりもずっと強い。だから私はこの子を守ってあげなくちゃいけない)
それにしても、とうとう美紀にまで手を出すなんて。鬼への恐怖、そこにいくばくかの怒りが混ざる。
その怒りが混ざっていたのはほんの僅かの間で、収まってしまえば残るのは恐怖のみ。無視してしまえば良いと出雲は言うが、今の真紀にそれは出来そうになかった。
夜、真紀は今日も出雲に何も纏っていない状態で抱きつきながら。鬼のことを話す。近頃はいつもその話ばかりしていた。そのせいか、出雲は大分うんざりしているようだったが、そのことには気がつかないフリをして。
「お願い、私にはどうしようもないの。ねえ、あの鬼を倒して。出雲なら出来るでしょう?」
出雲は肩をすくめる。
「確かに出来るね、しかもかなり簡単に。けれど私が倒してしまったら意味がない。もし鬼を滅ぼしたいのなら、それは君自身の手でやらなければ」
「どうして? そんなこと私には」
「出来ないの? 出来るだろう。鬼一人殺す位今の君ならわけないはずだ。……ほうら真紀、どうせ君がそんなことを言うと思ってね私はこんなものを用意したんだ」
そう言うと出雲は自身の持ち物である巾着袋から、あるものを取り出した。それは一本の小刀だった。
木の鞘を抜くと、水晶のようなもので出来ているらしい刃が現れる。明るい色をした海の泡沫を思わせる色をしたそれは、月光に煌めき。出雲の視線にも似た鋭い刃、これで刺されたら幾ら鬼でもどうにもなるまい。
「鬼を殺すことで、今までの君と完全に決別出来るかもしれない。そしてもう君は二度と元の君に戻ることはないだろう。そうするには矢張り自分でやるのが一番だ」
出雲はその小刀を真紀に渡した。真紀はその刃を見ながら、自分が鬼を刺し殺す場面を頭に浮かべる。
そうすれば、あの惨めだった自分と別れられる……完全に。しかし、幾ら化物とはいえ人に限りなく近い形をしたものを殺すことにはためらいがあった。相手が蚊とかアリなどだったら、簡単に殺せるものを。
「……まだまだ君は色々なものに縛られているようだねえ。まあいい、彼を殺すにせよ殺さないにせよとりあえずはそれを常に持っていなさい。良いお守りになって、少しは気が楽になるかもしれない」
「ええ……」
真紀は刃を鞘にしまい、それからいつものように出雲に身を委ねる。そのことを怖いとか不潔だとか、そんな風に思っていた自分を鼻で笑いながら。
もう少しで花が咲く。そのことは真紀も自覚していた。
(鬼を殺して、花が完全に咲いたら……私は笹屋君を取り戻せるわ)
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鬼を殺す為の刃を手に入れた真紀は、それを肌身離さず持ち歩いた。バッグに交通安全や恋愛成就のお守りなどを提げるのと同じ感覚で。紙っぺらなどが入った、ちんけな作りのお守りよりもずっと力がありそうだ。何といってもあの出雲がくれたものなのだ。
ただ、お守りがわりになるものを持ち歩いているからといって鬼に会う頻度が減ったわけではない。彼に会う度真紀は悲鳴をあげ、叫び、逃げ惑う。それを奇行とみなされ、担任に呼び出しをくらったこともあった。担任は真紀のことが心配だとか色々言っていた。その言葉に嘘はないようだったが、ありがたいとは思わなかった。鬼相手には取り乱すが、たかが先生如きには怯まない。妖しい笑みを浮かべ、囁くように色々言ったらすっかりおとなしくなり、やがて何も言わなくなったのを見た時は腹がよじれる程笑いたい気持ちだった。
ある日の土曜日、真紀は舞花市をふらふらしていた。もう一緒に自分と遊んでくれる人はいなかったが、そんなことなどどうでもいい。好き勝手出来る分一人の方が楽であることにも気づいた。どうしてあれ程友達というものに憧れていたのか、今となっては分からない。
特に目的もなく色々な店を見て回り、ご飯を食べ、それから桜町行きのバスに乗った。座席に座り、窓から見えるどうってことのない景色をぼうっと見ながら発車の時間を待つ。
そしてあと少しでドアが閉まる、そんな頃真紀の体に衝撃が走った。全身から汗が噴きだし、呼吸さえままならなくなる。まさか、と思い前方に目を向けると……鬼が、バスに乗り込んできた。突然のことに真紀の体は凍りつき、逃げることさえままならない。彼もまた真紀の姿を認めたようだが、何もしないまま無言で彼女の横を通り過ぎると最後列の座席に腰かける。そしてその直後、バスが出発した。
次のバス停で降りるべきか、と身を固くしながら考える。しかしどうにも上手いこと体を動かすことが出来ず、降車ボタンも押せないし誰かが降りる時一緒に降りることさえ出来ずにいた。
全く地獄のような時間であった。座席が火にくべられでもしているかのように熱く、背中から心臓に向かって氷の刃が幾つも突きたてられる。ぎゅっと握り締めた拳はぶるぶる震え、血が出るのもお構いなしに唇を強く噛み締める。耳元で常に「石ころに戻れ、石ころに戻れ、元ある姿に戻れ」と囁かれ続けているような気がして、いっそ耳をぐちゃぐちゃにして何の声も聞こえないようにしたいとさえ思った。
手を置いているカバンの中にはあの小刀が入っている。周りの人が叫ぼうがパニックを起こそうが知ったことじゃない、今すぐ立ち上がって鬼の胸に刃を突きたててしまおうかと何度も考える。そうすればこの恐怖からだって解放されるのだから。しかし、肉に刃を刺す時の感触を想像したらとてもそんなことなど出来なくなってしまう。唾を飲みこみ、それで喉を塞ぐ邪悪なものを洗い流そうとするが上手くいかない。
(嫌だ、私は元の石には戻りたくない……けれど、でもこれで鬼を刺し殺す決心もつかない)
こういう時に限って時間というのは流れが遅くなるものだ。もう三時間も四時間もバスの中で苦しんでいたように思えた。
本当に長い時間が経ったような気がした。そんな時間はようやく終わりを告げ、バスは目的のバス停に辿り着いた。その時ようやく体は自由になり、ドアが開くなり真紀はすっと立ち上がり、バスから降りようとしていた他の乗客を押しのけ、その人達が何か言うのさえ聞かず、無我夢中でバスから降りると全速力で逃げ出した。鬼は追っては来なかった。そのことを確認してから真紀は長い息を吐いた。
(いつまでこんなことが続くの……? この心の殻が全部割れて、花も完全に開くまで? そしたらあの鬼のことも怖くなくなる? いや、違う。あの鬼への思いをどうにかしなければ、そして過去の私と完全にさよならしなければ花は咲かないのかもしれない)
冗談じゃない、と真紀は思った。まだあの鬼と向き合う勇気は湧かない。しかし早くどうにかしなければと思う。やっとここまできたのだ、早く辿り着きたいと願う。出雲と同じような『完全』な人になりたかった。今まで誰よりも貧相なものしか持っていなかったのだ。こうなったらもう、誰よりも見事な花を咲かせてやる。
次の日の朝、真紀はベッドからむくりと起き上がる。
(今日も特にすることが無い……三つ葉市にでも遊びに行こうかな)
そして夕方、出雲と桜山で落ち合う。今日はいつもよりも早く会おうと彼に言われたのだ。そうしていつもよりも長い時間をかけて完全なる開花に必要なことをするのだろう。もしかしたら今夜あたり自分は『完全』になるのかもしれないと思ったら、胸が弾む。
いつも以上に念入りに身だしなみを整え、あの小刀の入ったバッグを持って出かけようとする。そして玄関までいったところで、美紀が姿を現した。
「お姉ちゃん!」
そう叫ぶと、美紀は真紀に飛びついてきた。その体を真紀はしっかり受け止める。しばらく彼女は真紀にしがみついたまま、何も言わなかった。
「どうしたの、いきなり」
そう尋ねられ、ようやく顔を上げる。その顔は不安と恐怖でいっぱいで。いつもの輝きがあせてしまう位暗い表情だ。
「お姉ちゃん、行かないで」
「行かないでって……どうして?」
「ここでバイバイしたら、もうお姉ちゃんと会えない気がするから。お姉ちゃんが……遠くの世界へ行っちゃう気がする。つ、月に行っちゃうような」
涙混じりにそう言い、そして言い終わると声をあげて泣いた。その泣き声に気がついた母がこちらへとやってきた。幼い頃真紀が大きな声で泣いてもなかなか気がつかなかったくせに、美紀が泣くとすぐ気がつく。
「どうしたの、美紀?」
母はまず美紀を見てから、真紀の顔を見た。美紀を心配する気持ちと、化け物のような存在に成り果てた真紀に恐怖する気持ちがその顔にはよく表れていた。
もうそんな顔をされたって傷つかない。そんな弱い心など持っていない。真紀はにこりと微笑む。
「気にしないで、ちょっと錯乱しているだけみたいだから。……美紀、私はそんな所に行かないわよ。ちゃんと帰ってくるわ。前にも行ったでしょう? 美紀はお姉ちゃんの言うことが信じられないの?」
その問いに対し、彼女は首を横に振る。真紀は微笑みより一層優しい声で話してやった。
「そうでしょう? だから、泣かないで。ほら指きりげんまんしましょう。私は月になんて行かないわ、あのお姫様とは違うもの。ね?」
しゃがみこみ、小指を差し出すと美紀は唇をぎゅっと噛み締めながらも自身の小指を差し出した。その指はあまりに小さい。何て愛おしいのかしら、そんなことを思いながら指きりげんまんをしてやった。こんなことで彼女の気が晴れるのなら、何度だってしてやるだろう。
離れる指。真紀は美紀の頭を一回撫で、それから家を出た。
「行ってきます」
ドアを閉める時、美紀が小さく手を振っているのが見えた。そしてとても小さい声で「行ってらっしゃい」と言うのが聞こえる。パタン、という音と共にその姿も見えなくなった。