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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
花咲く乙女
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花咲く乙女(10)


 夜が来る度真紀は桜山へ行き、出雲と会った。それはもう日課になり、非日常から日常へと姿を変えている。いけないことをしているとは思わない。夜家を抜け出すことの何が悪いというのだろう?

 たっぷりと『夜』や『出雲』を吸収し、そしてそれらが真紀の内にある『花』を少しずつ開かせていった。一枚、また一枚と花びらは開いていく。胸が苦しくなる位異様に熱くなるが、それを嫌だと真紀は思わなかった。この苦しみは悦びだ、全身が叫んでいる。嬉しい、嬉しいと。冬の冷たさもすっかり肌になじんだ今はただ心地よく、一際強い風が吹く度その冷たさに、痛みに気持ち良いとくすくす笑うのだった。夜などもう少しも怖くない。怖い、などという感情は日に日に地中深くへと沈んでやがて消えていった。出雲のことも怖くないし、誰かの目を気にすることもなくなっていった。自分はますます強くなっていると真紀は思った。そしてその強さが自身の体を、魂をますます輝かせるのだ。


 仰向けになって寝そべっている真紀の体に、出雲が摘み取った花々を散らす。月の雫に濡れた花は美しく、妖しく美しく。その花が含んでいるものが外へ流れ出し、そして自分の体に染みこんでいくのを感じる。その感覚はくすぐったく、時々笑いながら身じろいだ。夜の花、そして出雲が真紀の『世界』を溶かしていく。どくどくと不気味な音をたてながら。その音さえもう不快ではなく、もっと溶かせ、もっと私を自由にしてくれと、自分が築きあげてきた世界を溶かして消すことを急かしさえした。


 むくりと起き上がると、花がぽとぽとと音をたてて地に落ちる。それを見ながら真紀は自分の髪を撫でる。夜の空気に触れると、近頃真紀の髪は綺麗に輝くようになった。その美しい色のことを昔の人は烏の濡れ羽色と呼んでいたんだよ、と出雲が教えてくれた。


「少し髪、伸びた?」


「ええ、多分。これでも少し切ったくらい。最近は随分よく伸びるわ。まるで呪いの日本人形みたい」


「いやらしい子は髪の毛がすぐ伸びるというよね」


「まあ、酷い。私はいやらしくなんてないわ」

 口を尖らせてそう言ってみせたら、出雲はははは、と楽しそうに笑う。その声はいつ聞いても惚れ惚れとする。

 

 そしてまた別の日の夜、真紀は出雲が人間ではないことを知った。私は実は化け狐なんだよと言った彼は、真の姿を彼女の前に晒した。赤い瞳、ほんの少し黄色がかった白い毛並み、すらっとした体――人の姿と同じく、その姿も妖艶で美しく芸術品のようであった。

 それを見ても、真紀は大して驚かなかった。そして彼が本当は化け狐であったという事実もすんなりと受け入れた。妖怪なんているはずがない、そんなものは存在しないのだという考えはもうすでに彼女の中にはない。彼女の『世界』はもうどろどろに溶けてしまっているのだから。

 月下に現れたその姿を見た時、真紀は「嗚呼成程そういうことか。通りで人間に見えなかったわけだ」と表情一つ変えぬままそう思っただけ。出雲もその反応を不思議がることはなかった。


(こんなことは『ありえない』とかこんなものは『存在するはずがない』って決めつけるのって、とてもつまらないことよね。そういう考えが世界を狭くする。狭い世界より、広い世界の方が良いに決まっている。皆可哀想よね! 広い世界を知らないまま生きるのだから。でも私は違う、私は無限に広がる世界を知っている! そしてそこを自由に動き回ることが出来る! そうよ、私は皆とは違う。昔は悪い意味で皆と違っていたけれど、今は逆。可哀想なのは皆!)

 それを思ったらおかしくなって、出雲が苦笑するのも構わず大声で笑った。もう惨めな気持ちになることも、卑屈になることもないのだ。美紀よりも自分の方が劣っているという考えともおさらば出来た。それもこれもみんな全て出雲のお陰だ。

 出雲は自身の正体を明かして以来、今までとは違う姿で真紀と会うようになった。髪は藤色になり、瞳は赤になった。


「こちらの方が、あちらの姿より楽なんだ」

 と彼は言った。人の世で何かする時は黒髪に黒い瞳の姿でいるそうだ。そして普段は人の世と重なり合うようにして存在する、妖達の住む世界(人が『異界』と呼ぶような場所だ)に住んでいることも話してくれた。

 真紀がそこに行ってみたいと言ったら、出雲は微笑んだ。


「勿論。ふふ、近々連れて行ってあげるよ」


 そうやって、幾つもの夜を過ごす。逢瀬を繰り返し、花びらを少しずつ出雲がこじ開けていく。花が咲いていく、後少しで完全に咲くに違いないという確信を真紀は持っていた。今でさえこれだけの輝きを放っているのだ、完全に花を咲かせたらどれだけのものになるだろうと思うと今から楽しみで仕方がない。

 花が咲く、永遠に咲かないと思われていた花が咲く!


「きっと綺麗な花が咲くだろうね。そうしたら、私は今まで以上に君のことを愛でるだろうねえ」

 その言葉もまた嬉しく、真紀の心を弾ませた。だがある人の顔を思い浮かべたら胸がずきずき痛み、顔をしかめる。


(そうしたら、笹屋君だって……)

 秀人に今の自分の全てを拒絶された時のことを、未だに真紀は忘れられずにいた。出雲に何度「もう忘れてしまえ」「そんな子のこと気にしなければいい」と言われても、駄目だった。秀人と過ごす時間を取り戻したいと願う気持ちは弱まるどころか強まるばかり。

 彼のことを忘れることなど、自分には絶対に出来ないと真紀は思っている。

 それでも彼女は、秀人の願い通り引き返すことをしようとはしなかった。



「おい、あいつ近頃絶対おかしいよな」

 ある男子生徒はそう言いながらある人物に視線を向けていた。視線を向けられている相手は、真紀だった。彼と話していた友人もこくりと頷く。

 机でにこりと微笑みながら真紀は本を読んでいる。その姿は妙に艶かしく、吸い込んだらたちまち全身に広がり、生命の活動を停止させてしまいそうな色香を漂わせていた。それはこの年頃の娘が、いや、普通の人間がもつことなど決してないはずのものだ。うっかり視線が合ってしまうと心臓を氷の矢で射抜かれたようになってしまう。

 

「なんつうかさ……人間的な綺麗さじゃないよな」


「化け物だよ、あれ」

 ほんの少し前までは彼女に言い寄る男子生徒が数人いたが、今は誰も近づかない。彼女と仲が良い様子だった女子生徒達も近頃は殆ど近づかない。たまに喋っていることもあるが、その時は決まって真紀以外の者は皆揃って顔が引きつっているし、声も上擦っていた。

 今の彼女には最早好意をもって近づく者も、悪意をもって近づく者もいない。

 真紀がいる時の教室は甘い花の香りを閉じ込めた氷で作られているかのようになり、皆居心地の悪い想いをした。彼女の放つ空気は、場と周囲の人に影響を及ぼす位強いもので中にはその空気に耐え切れず泣き出す生徒までいた。


「なんかさ、顔が特別整っているって感じじゃないんだよな」

 その言葉に相手の友人は同意する。真紀の目は大きいわけではないし、二重でもなく、まつ毛だってさして長くない。特別醜くはないが、綺麗に整っていてどこもかしこも完璧……というわけでもない。本当にそこらにゴロゴロしているような顔なのだ。

 それなのに、異様に綺麗に見えるのだ。それは彼女が漂わせている独特な雰囲気が、彼女の体に染みついている何かがそうさせるに違いなかった。


「そういえばあいつ、この前タケセンにたてついたんだよな」


「そうそう。俺、丁度その場に居合わせていたけれどマジやばかったぜ。見ているこっちの方が心臓ばくばくだった」

 その時のことを思い出したのか、彼はぶるっと身を震わせる。

 タケセン、というのは体育担当の教師で同時に生徒指導の役目も担っている。名を竹下という。非常に厳しい上におっかない先生で、多くのやんちゃっ子達が泣かされてきたそうだ。そんな彼に真紀が目をつけられたのは、髪を縛らずに登校してきたからだった。この高校では髪が一定以上の長さのものは縛ることになっている。そしてあまり長く伸ばしていると縛っていてもうるさく言われるのだ。なんだってそこまで髪の長さにこだわるのか生徒達には訳が分からなかったが、ごく一部の人間以外はそれを黙って守っていた。

 真紀もつい最近まではきちんと髪を縛っていた。ところがその日は髪を縛らず登校してきたのだ。

 多少の長さなら他の先生は目を瞑るが、タケセンは違う。彼は廊下を歩いていた真紀が長く伸ばした髪(短期間で気味が悪い位急激に伸び、胸を全て隠せる位は余裕であった)をそのままにしているのを目ざとく見つけ、彼女に声をかけた。


「おい、お前。その髪はどうした? 縛るのを忘れたのか。それとその髪長すぎるぞ、少し切れ」

 そう声をかけられた真紀はぴたりと立ち止まり、それからにっこりとタケセンに微笑んでみせた。その現場を丁度目撃していた男子生徒は、それを見て体が冷たくなりそれからかあっと熱くなったと語る。

 タケセンもまた同様の感覚に襲われたのか、口を開けてぽかんとしていた。そんな彼を見て真紀はくすくすと笑い、それから全身を撫で回すような声で言った。


「忘れたわけではないですよ? わざと、こうしているんです。だって髪を縛るのってとても窮屈なんですもの。竹下先生、おかしいと思いません? 髪が長いとか、髪を縛っていないとか、そんなことで人間の善し悪しを決めるだなんて。髪が長いことが、先生方にどんな不利益をもたらすのです? 周りの人を傷つけたり、苦しめたりするのですか? そんなことはないですよね、ねえ、先生?」

 真紀が恐ろしい輝きを秘めた瞳でタケセンを見つめる。タケセンは答えなかった、いや恐らく答えられなかったのだろう。

 彼が反論しないのを確認すると真紀は微笑み、そしてお辞儀をするとその場を去っていった。

 その場は朝の学校とは思えない位しんと静まり返ったという。


「タケセンさ、あれから体調崩して三日間寝込んだんだってな」


「そうそう。その後も覇気が全然なくってさ、死人みたいな顔していたっけ。今もまだそんな感じだもんなあ」


「西原に呪われたんじゃね?」


「おっかねえこと言うなよ」

 ひそひそと喋っていた彼等は、真紀が自分達の方を見ていることに気がつき固まった。真紀は彼等に対して何を言うわけでもなく、しばらくじいっと見つめてからにこりと微笑みまた本に視線を戻す。

 化け物、妖怪。そんな言葉がぱっと浮かぶ、そんな笑みだ。彼等はまるで魂を抜かれたかのように授業の始まりを告げるチャイムが鳴るまでその場に立ち尽くしていた。



(化け物、妖怪。そういうものを見るような目だったわね)

 自分のことについて話していた彼等が呆然としているのを感じながら、真紀は笑っていた。

 化け物を見るような目で見られても、傷つきはしない。むしろ出雲に近づいていることを改めて実感することが出来、嬉しい思いだった。


 真紀は最近また一人でいる時間の方が長くなった。後藤達とも殆ど話さなくなり、時々お喋りしても以前のように話が弾まない。お弁当さえ今は一緒に食べなくなったし、遊びにも行かなくなった。嫌われたからでも、自分から突き放したからでもない。彼女達が真紀のことを恐れるようになり、自然と距離が離れていったのだ。真紀も必死になってその距離を再び縮めようとはしない。

 後藤達はたまに真紀と喋る時、怯えた顔をする。声も震えているし、視線も極力合わせようとしない。

 そうされても、もう傷つかなかった。友達が離れていく恐怖も、皆から忘れられていく恐怖ももうどこにもなく。

 一人に戻った。だが、以前のように誰の視界にも入らず存在さえ認識されない――などということはなかった。むしろ常に人々の視線を集め、そして彼等の心を自分に対して抱く様々な感情でいっぱいにしていた。クラスの皆が真紀の虜。その状態から自力で抜け出せる程強い者などここにはいない。

 怖い、だが、彼女の放つ輝きに惹かれずにはいられない。皆のその気持ちを体で感じ取り、真紀は幸せだった。


(けれど、彼等の心をものにしたってあまり意味はない)

 本当にそうして自分で全てを満たしてやりたい人は、ただ一人。

 秀人とはあれ以来一言も話していない。廊下ですれ違った時が何度かあったが、その時もお互い話しかけることなく終わってしまった。

 自分の方から彼に会いにいくことは簡単だ。だが真紀にはそれが出来なかった。

 またあの時のように拒絶されることが、自分の全てを否定されることが怖くて仕方なかったからだ。今の彼女にとってはそのことが一番怖かった。話をしたとしても、彼を納得させる自信はない。


(何も怖くないなんて嘘。いつになっても笹屋君に拒絶されることは怖い……)

 もっと、もっと強くならなければいけないのだ。花が完全に開けば、彼と過ごす時間を取り戻せるだけの強さが、輝きが手に入るだろうかと思い……一人静かにため息をついた。


 近頃は夜に家を抜け出し、出雲と会う。だから学校を出たら桜山やあの公園ではなく真っ直ぐ家に帰る。別に寄り道をしても良いのだが、そうしてまでしたいことが真紀にはなかったのだ。

 家に帰ると、美紀が出迎えてくれた。彼女は全速力で走ってきてまるで突進でもするかのように真紀に飛びつく。それを真紀は笑いながら受け止めた。小さくて、軽くて、愛しい子。こんな子相手に劣等感を抱いていた頃がもう今は昔のことになっている。もしかしたらそんな日々はなかったのでは、とさえ思った。こうして輝きを手に入れてからは美紀のことが一層愛しくなった。前は「自分より美紀の方が愛されている」「自分なんかと違って美紀はうんと輝いている」という気持ちをもっていたから、どうしても愛しく思う度合いに限界があったのだ。


「ねえ、また本読んでくれる?」


「いいわよ。持っておいで」

 飼い主の手から放たれたフリスビーをキャッチしようとする犬のように駆け出した彼女は、しばらくしてフリスビー……もとい、絵本を手に戻ってきた。彼女が抱えていたのは例の絵本。全く本当に好きなのね、と肩をすくめる。

 真紀は美紀と一緒にリビングのソファに座り、絵本を読み聞かせてやった。もう本当は自分一人でも読めるのに、彼女はこうして姉である真紀に読んでもらうことが多い。その方が楽しいそうだ。

 最後まで読んでやると美紀は「ありがとう!」とお礼を言う。ほっぺは食べたら美味しそうだと思える位真っ赤でむにむにしている。

 絵本を読んでもらって大満足のはずだった美紀。だが彼女は笑みを浮かべている真紀を見ている内、徐々に表情を曇らせていく。不安げな表情、潤む瞳。真紀は首を傾げた。


「どうしたの? 急にそんな顔をして」

 美紀ははっとし、黙って俯きそれから少しして再び顔をあげる。


「お姉ちゃん……いなくならないよね?」


「ん?」

 何を言っているのか意味が分からなかった。だが美紀の顔はとても冗談を言っているものには見えず、本気でそのことを心配しているように見える。美紀は自分の持っている絵本を指差した。


「行かないよね、お姉ちゃんは。ずっとここにいてくれるよね?」

 嗚呼、そういうことかと真紀は理解した。彼女は絵本に出てくる美しいお姫様のように、自分の前から姿を消してしまうことを憂いている。そう思うようになったのは、真紀が輝きを手に入れ綺麗になったからだろう。異質とも呼べる美しさをもつ真紀と、こことは違う世界の住人であるお姫様が美紀の頭の中で結びついたのだろう。そのお姫様は最後、生まれ育った世界を離れて元の世界へ帰っていく。


「私達のこと、忘れないよね。ずっと一緒にいてくれるよね? 昨日、夢を見たの。お姉ちゃんがね、ばいばいって言って、いなくなっちゃう夢」

 とうとう美紀は泣きだし、真紀にしがみついた。幼い子供の妄想、けれど本人にとっては妄想などではないのだ。

 この子は何て愛おしいのかしら。真紀は美紀の頭を優しく撫でてやる。こんな子供が自分にとって最大の脅威であったなんて、本当今にして思えば笑っちゃう位おかしな話だった。美紀は自分の上ではなく、下にいる存在なのだ。もうそうなっているのだ。それが真紀の狭かった心を広くする。


「いなくなりなんかしない、絶対に。ほらだからもう泣くんじゃないの。そんな真っ赤なお目目を見たら、お母さん達がどうしたのって心配するわよ」

 美紀は顔をあげ、こくりと頷いた。それから目に溢れている涙を拭う。少しは落ち着いたようだが、まだ不安そうだ。しかしとりあえずは真紀の言葉を信じ、彼女はとてとてと自分の部屋へと消えていった。

 それにしても。


(ここから姿を消して、どこか遠くへ行く……もう誰の手も届かない世界を自由に歩き回る。それってとても楽しいことかもしれない。別にこの家で日々を過ごして、学校に通い続けるよりもずっと。そうよね、私は自由ですもの。身も心も自由で、何をしたって良いのだ)

 しかしそうはいっても、真紀には一人で自由に暮らせるだけの力はない。お金だって大してもっていない。お金がなければ、何も出来ない。流石の彼女もまだ「手に入らないなら盗んでしまえばいい」などと考えることは出来なかった。以前に比べればずっと自由になったけれど、それでもこの世界の決まりにまだ縛られている部分もある。真紀の胸の内にはまだ花を覆う殻が残っている。その殻の存在が煩わしくてならない。


(全部砕けて消えてしまったら、そして私の『世界』が溶けて新しいものに完全に生まれ変わったらもっと輝けるのに。けれど、まだ駄目。出雲にあれだけ手伝ってもらっているのに、私はまだ全てを手放せずにいる。それだから、いつになっても完全な花が咲かないのよね)

 花びらが開き、その輝きを遮断するものがなくなった時自分は一体どれ程強く輝けるようになるだろう?

 それを思うとわくわくし、全身が熱くなり、顔が赤くなる。だがその日はなかなか訪れない。


 次の日、秀人が廊下で友人と話しているのを見かけた。彼は真紀が大好きな優しい笑みを浮かべながら楽しそうに喋っていた。また別の時間、彼のいる教室の前を通りかかった時女子生徒と話している姿を見てショックを受けた。彼と話している女子は手に本を持っていた。どうやらその本のことで色々話しているらしい。もしかしたら七翼シリーズかもしれない。彼女は少し話してからその場を去った。


(笹屋君が、笹屋君が私以外の女子ととても楽しそうに喋っていた……)

 かつて自分に向けられていた笑みが、自分以外の女子に向けられていた。そのことが真紀の心を打ちのめす。真紀は近頃その笑みを手に入れていない。時々顔を合わせても、彼は視線を逸らしたり、今の真紀に失望しているかのような表情を浮かべたりするだけだった。

 前の自分に戻れば、彼との時間も取り戻せるかもしれないと気弱なことを考えもした。だがすぐにその考えを振り払う。幽霊、透明人間、路傍の石――そんな言葉がふさわしかった頃に戻るなど到底出来ない。


 どうすれば良いのだろう。

 その悩みを真紀は夢と現、常識と非常識、世界と世界の間にある境界――あらゆるものが溶ける夜、出雲に打ち明ける。出雲は真紀の背中を撫でながら、耳元で囁く。


「君は本当にこだわるねえ。彼への想いも、彼との時間もさっさと完全に手放してしまえば良いのに。彼の存在は、君を弱くする。その弱さが花が完全に開くのを邪魔するんだ。私のようになりたいのなら、そして花を心から開かせたいと願うなら、彼のことは諦めるんだ」


「いえ、いえ、諦めきれない。他の人のことなどどうでもいいの。後藤さん達との付き合いが完全になくなっても、少しも苦じゃない。けれど、けれど……」


「彼のことだけは諦められないと?」


「私は大丈夫だと、彼に分かってもらいたいの。そして昔の私より今の私の方がずっと素敵だってことも分からせたいの。そうすれば私はあの人との時間を取り戻すことが出来る」

 出雲が息を吐く。月の光のような美しい色をした息が真紀を包む。それから出雲は真紀の両頬を手で包み込み、くいっと顔を上げさせる。それから真紀の潤む唇をすうっとなぞる。


「分からせるって、説得か何かして?」

 多分、と真紀が頷いたら出雲は声をあげて笑った。何を馬鹿なことを言っているんだ君は、とその笑い声は語る。清々しい位冷酷な視線が胸を貫き、そしてそれによって穿たれた穴を通じて彼の声が胸の内に注がれていく。


「そんな馬鹿げたこと、する必要なんかないよ。彼を手に入れたいというのなら、話は簡単だ。ただ彼の耳元で君の望みを囁けばいい。目と目を合わせて、彼の耳に触れる位艶やかな唇を近づけて。君の瞳は、吐く息は、全身に纏う『夜』の匂いはきっと彼を一瞬で魅了するに違いない。君が心から彼のことを欲しながら囁けばね。君はもう、誰の心も動かせない人間とは違うんだ。相手を納得させるとか、自分のことを理解してもらうとか、そんなものは微塵も必要ないんだよ。彼の気持ちなんていうのはね、気にする必要がない。君のもつ力で、手に入れればいい。そうして私がしたように、彼を君で満たしておやり……」

 きっと彼だって喜ぶだろうさ。そう最後に出雲は囁いた。それを聞いた途端、真紀は今までの悩みが吹き飛んだのを感じた。


「そうか、私にはもうそれが出来る……そこらにいる人とは違う私には」

 自分を恐れながらも、自分に惹かれ、心奪われた人々の顔を思い浮かべる。彼等と同じように、秀人を魅了し、その魂を自分の虜にすること位本気を出せば訳ないことだろう。

 相手の気持ちなど、どうでもいい。それはなんて素敵な言葉なのだろうと思う。他人の気持ちを考えず、自分のしたいようにする。くだらない決まりなど考えずに行動することが素晴らしいことであるように、それもまた素晴らしいことだろう。

 心など、力でねじ伏せてしまえばいい。

 それを思ったら楽しくて仕方なく、真紀は笑った。そして素晴らしい提案をしてくれた出雲に心から感謝し、自分から彼にくちづけた。

 必ず朝、学校へ行ったら秀人を手に入れようと真紀は心に誓う。同時に彼と過ごすあの時間も取り戻すのだ。


 その瞬間を想像し心躍らせながら、真紀は夜を過ごすのだった。


 やがて朝が訪れ短い、本当に短い眠りから覚めた真紀は意気揚々としながら学校へと向かった。周りの人々は皆真紀の姿を見るとぴたりと歩くのをやめ、彼女が歩く姿を体震わせながらも静かに見つめている。そうして多くの人に見つめられることにも、もう慣れた。

 教室に着いてからは、昨日の出雲の言葉を延々と脳内で繰り返していた。教室内がしんと静まり返っていることも、肝試し感覚で真紀の姿を見に来た他のクラス、或いは別の学年の人間の存在にも関心を示さないまま。何も珍しいことではないからだ。


 そして放課後、真紀は秀人の姿を探すことにした。廊下は生徒達で溢れている。


(さて。笹屋君はどこにいるだろう。教室かしら、それとも図書室?)

 きょろきょろと、辺りを見回す。ここらにはいないのかと今度は図書室へ向かうが、そこにも彼の姿はなく。もう帰ったのか、それともまだ学校のどこかをうろついているのか。

 早く彼に会いたいな。そう思いながら真紀は図書室の扉をそっと閉めた。


 ぞくり、どくん。

 心臓が氷の手でぎゅっと握りつぶされたようになったのはその直後のことだ。かつて出雲と共にいた時に感じたものと同じ、あの久しく感じていなかった恐怖が真紀の体を一瞬にして支配する。背後に、禍々しい気を感じた。それがぐさぐさと全員を突き刺す。その衝撃に、痛みに全身から噴き出る汗は異様に冷たく、その冷たさがまた真紀の心臓に圧力を加え、脳を火傷させる。

 痛い、熱い、冷たい、怖い!


 何かがいる。何かが私の背後にいる!

 真紀は出来れば背後にいる者の姿を見たくなかった。だが振り返らないことにはその『何か』の正体もつかめない。

 意を決し振り向いた先にいた者――それを見て思わず真紀は悲鳴をあげた。

 そこに立っていたのは、鬼だった。体は細くて肌は赤く、好き放題伸ばした髪はぼさぼさで白髪が多い。その頭から生えているのは二本の三日月を半分に折ったような角。(くぼ)んだ眼、白目にあたる部分はくすんだ金色で真紀の顔をじいっと見つめている。その瞳からは強い意思を感じた。その姿はまるで色つきの霧の集合体のようで、実体らしい実体はないように見えた。そこから放たれているのは紫がかった黒いもや。可視化したオーラだろうか。見るからに邪悪なもので、普通の人が触れればひとたまりもなさそうだった。

 その邪悪な気にあてられて、真紀は震える。出雲のことさえ怖いと思わなくなった自分を震え上がらせるのだから、相当なものだ。


 鬼が大きな口を開き、何か喋っている。その口から生えている歯はするどく、人の肉など力を入れずともたやすく引きちぎれそうだった。真紀はその歯によって鮮血の華を散らす自分の姿を想像してしまい「あっ、あっ」という声を小さくあげた。

 彼が何を喋っているのかは分からない。ただ腹にその低い声が響く度、吐き気がする。

 言っていることは具体的に分からなかった。何を言っているのかはっきり分からないから余計不気味だった。少しも分からなかったが、真紀が聞きたくないようなことを言っていることは何となく察せられた。頭に、腹に、心臓に、ずんずん響く声、人を破滅に導く鐘の音。


(逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、逃げなければ、鬼が、鬼に、私は、嫌だ……!)

 鬼はゆっくりと真紀の方へ近づいてきた。


「来ないで!」

 彼が数歩進んだところで真紀は大声で叫ぶ。一瞬鬼の動きが止まった。今だ、早く逃げなくては!

 鬼がいない方の廊下を真紀はがむしゃらに走った。周りの目など気にせず、みっともない位に叫び手や足を滅茶苦茶に動かす。鬼はそんな真紀を追いかける。彼との距離が少し縮まる度真紀は絶叫し、もつれる脚を懸命に動かして距離を広げた。そうやって、必死になって逃げた。そこにいつもの真紀の姿はなく。

 あの鬼に捕まったら、終わってしまう。理由は分からなかったが、真紀はそう思った。校舎を出、校門を出、いつも使っているバス停も無視してそのままがむしゃらに走った。相手が諦めるまで、走り続けようと心に決めて。

 そうして逃げる内、鬼は真紀を追うのを諦めたのかいつの間にかその姿を消していた。本当はもっと早い段階でいなくなっていたのかもしれない。しかしそんなことはどうでも良かった。彼の姿が見えなくなったことを確認した瞬間力が抜け、その場にぺたんと座った。

 荒くなった呼吸を整えてからも、心臓の痛みは胸の苦しさは消えずにいた。ただ彼の姿を思い出しただけで玉のような汗が後から後から出てきて、真紀の体を濡らす。


(あの鬼はなんだったのだろう……怖かった。とても、とても。もうこれ程までに恐怖することは二度とないだろうと思っていたのに……)

 コンクリートの地面は冬に支配されて随分と冷たい。だがそれ以上に、あの鬼のもつオーラの方が遥かに冷たく恐ろしいものだった。あれに比べれば、こんな冷たさなどどうってことはない。

 震えがとまらず、かちかちという歯と歯がぶつかる音が絶えず聞こえる。


(訳が分からない。けれど私は、あの鬼が私をどうしようとしているのか何となく分かっている気がする。そしてその『何か』は私を終わらせるものなんだ……だから怖くて仕方がなかった)

 詳しいことは何も分からない。だが、ただ一つ言えるのは二度とあのような鬼とは遭遇したくないということ。


(出雲に相談しよう、きっと彼ならあの鬼がなんなのか分かるはず)

 それから真紀はようやく立ち上がったが、しばらくの間はその場で肩を抱いて震えたまま一歩も進まなかった。

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