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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
花咲く乙女
229/360

花咲く乙女(9)


 集合場所である舞花市某所へとやって来た真紀の姿を見た後藤達の表情といったら、滑稽で仕方がなかった。豆鉄砲を喰らった鳩のよう、というのが的確な表現だろうか。真紀はそんな顔をして驚く彼女達のことを愛しいと思う。嗚呼、なんて素直で可愛らしい人達なのだろうか!

 目をぱちくりさせている彼女達の前に、真紀は偉人の像の如く堂々とした姿で立っている。

 身に着けている服自体は飾り気のない地味なワンピースだ。石ころ時代の彼女が着ると地味さが際立ち、より存在感が薄くなるような代物であったが、今の彼女が着ると服装の地味さが見事に消え、彼女自身の輝きが損なわれることもない。いつものように髪を色がついているだけのゴムで縛ってはおらず、自然のままの状態にしている。特別な手入れをしていないのに、それはきらきらと輝いている。

 後藤達は「おはよう」と言ったものの、しばらくの間はそれ以上何も言わず微動だにしなかった。

 それはきっと真紀が今までもっていなかった、妖しい輝きに魅入られまた恐怖していたからだろう。

 真紀はわざと無邪気な笑みを浮かべ、弾んだ声で言ってみせた。


「おはよう。私、今日をとても楽しみにしていたの。だってこんな風に友達とおでかけするなんてこと、なかったんですもの」


「え、そ、そうなんだ。そっか……喜んでもらえて嬉しい。私も西原さんと遊ぶの初めてだから、楽しみ。ええと、古本屋とか見に行きたいね。後は私のオススメの喫茶店とか」

 その声は明らかに上擦っていたが、真紀は気づかないフリをしていた。後藤も他の友人三人も、皆揃って彼女のことを凝視している。若干失礼な位だったが、真紀はそんな風には少しも思わない。むしろそうやって見られることが嬉しくて仕方ない。よく見れば、周りにいた人達にもじろじろと見られていた。今まで自分のことを見てくれる人など限りなくゼロに等しかった。その存在さえ認知されず名前さえろくに覚えてもらえず、惨めで寂しい思いをしてきた。


(そんな私が今、こんなに沢山の人の視線を集めている。本当、信じられない! でもとても気分がいい!)

 この場でくるくる回って踊りたくなる位嬉しかったが、とりあえずやめておいた。恥かしいからではない、後藤達のことを思ってのことだ。彼女達は移動中もじろじろと真紀のことを見ていたが、やがて意を決したらしい後藤が話しかける。


「西原さん、あの……今日化粧とかしている?」


「ううん。私化粧なんてしたことない」


「そう……そうだよね、なんかいじったって感じじゃないもんね。でも雰囲気ががらりと変わっていて、あの、あんまり綺麗になっていて、びっくりして」


「ありがとう。嬉しいなあ」

 わざとうつむき、頬を赤く染めてみせる。先程のようにわざとらしくはやらずにいた。あくまで、自然に。その表情を見て少し後藤達の緊張が解れたらしい。心からの笑顔がこぼれ、和やかなムードに。


「何か西原さん急に変わったけれど……恋でもした?」

 そう一人に尋ねられ、真紀はくすくすと笑う。


「あはは、お父さんにも同じこと言われたっけ。でもぶっぶー違います」

 すまし顔で言ってみせたら、口を揃えて「怪しい!」というお答えが。


「実はいるんでしょう?」


「女の子は恋すると変わるっていうもの」


「白状なさい」

 真紀は笑った。こんな些細なやり取りさえ真紀にとっては宝物。


「違うもん。確かにある人との出会いが私を変えてくれたことは確かだけれど、でも恋じゃないし、その人とは恋人同士でもないの」

 それを聞いた後藤がやや言いにくそうに口をもごもごさせながら聞いてきた。


「あの、それって違うクラスの……あの人が言っていた」


「ううん、違う。彼じゃない」

 そう、秀人ではない。彼は石ころ時代の真紀に接してくれた数少ない存在で、好意を抱いてはいた(恋愛感情かどうかは分からないが)。彼のことも、彼が与えてくれた日の光を浴びて輝くビー玉のような時間も愛おしい。

 だが、彼は真紀を変えてはくれなかった。変えようと思うことさえなかっただろう。思ったとしても、彼には真紀を変えることなど出来なかっただろう。穏やかな時間を与えることは出来ても、花を咲かせることは、決して。出雲と出会わなければ、その手をとらなければこうして後藤達と喋ったり、一緒に遊んだりすることもなかった。

 後藤達はじゃあそれって誰、どんなことがあったのとか色々聞いてきたが全てはぐらかした。その度くすぐられたり、頭をぺしんと軽くはたかれたりしたが、それでもその口を開くことはなく。


(あの時間は私とあの人だけのもの。誰にも教えてあげないの)

 それから真紀は後藤達と夕方までずっと遊んだ。買い物をしたり、古本屋に入ったり、喫茶店でケーキやパフェを食べながらお喋りに花を咲かせてみたり。時々妖しい魅力放つ甘い匂いをわざと漂わせ、彼女達をどきりとさせて楽しみもした。出雲のあの笑みを見、息を体内に注がれていた自分もあんな顔をしていたのかな、と思ったらおかしくてたまらなくて、思いっきり笑って後藤達を困惑させた。

 つい昨日まであった重くずっしりとしたものはもう少しもなく、その縛りから解放された心は軽い。

 後藤達と過ごす時間が真紀にますます「今までの自分とは違う」という自信をつけさせ、身も心も自由にしていく。


(これならもう大丈夫。今の私は弱くない。惨めなんかじゃない。もう何も怖くない。きっとバッドエンドを避けられるし、それを笹屋君に証明することだって出来る。周りの声なんて気にしない。どうだっていいわ、あんなもの)

 恐れという気持ちなんてもうどこにもない。出雲さえ、怖いと思わない。むしろ早く彼と会いたいとさえ思う。自分はまだ完全に花を咲かせたわけではない。花びらをこじ開けている最中なのだ。それが全て開いた時、一体自分はどうなるだろう? それを思うとぞくっとする。その震えがまた快感だった。


 後藤達と別れてから、すぐに出雲の所まで行った。彼はいつもの公園ではなく、山の前にいた。

 空を覆い始めた闇を吸った彼の姿は相も変わらず美しく、ああまだこの人には全然適わないなと感心する思いだ。

 月が映りこんだ水面そのものである髪に溺れたい、朝までずっと。苦しいが、心地よい。その感覚がもう忘れられない。


「真紀、大分綺麗になったねえ。まあ私には劣るけれど。でもきっともっと綺麗になるだろう。最後、君はどんな花を咲かせるだろう? 楽しみだよ、綺麗なものを見るのは好きだから」

 綺麗、と言われて真紀は体がかあっと熱くなるのを感じた。後藤達や父にも言われた言葉なのに感じる喜びの度合いも系統も違う。体を喜びに撫で回されながら、思う。

 笹屋君も今の自分を見たら同じようにそう言ってくれるだろうかと。言ってくれるはずだ、他の人達だってそう言ってくれたのだから。


(明日、笹屋君に会おう。うん、そうしよう……)


 やがて地に向かって滴り落ち始めた月の雫に花は濡れる。そして夜の輝きを放ち、夢と現の境界を消していく。



 真紀は玄関の鍵を開け、出来た隙間から蛇のようにするりと中に入り込むと平然とした顔で二階へと上がっていった。昨夜もそんな風に一人で帰った。それまでは出雲が家まで送り届けてくれていたらしい。

 弁当箱を洗ってくれたこともあったそうだ。だが彼は存外いい加減な性格であったらしい。彼が弁当箱を洗った(と思われる)時は必ず母に「もっと綺麗に洗え」と言われていた。

 夜が揺らぎ、朝がその下から顔を出す直前まで起きていたにも関わらず、真紀は眠気もだるさも感じなかった。夜遅くまで起きていることに耐性がついたのかなんなのか分からないが、そちらの方が好都合だったから特に気にはしなかった。

 朝食を食べに二階から降りてきた真紀を見て、両親は呆然。あまりの変わりように驚きを隠せないようだ。一体何があったのか、といった風でそれが愉快でたまらず真紀はくすくすと笑った。二人は真紀に色々聞きたげであったが結局何も聞いてこない。自分のもつオーラに圧されているのだと思ったら気持ち良い。真紀も特別二人に何も言わず、いつものようにご飯を食べそれから洗面所へ。鏡に映る自分の姿は確かに昨日以上に輝いており、つい最近まで微塵もなかった妖しい色気があった。そうして変化していくことにも大分慣れてきた。真紀は鏡の前でにっこり微笑み、それから歯を磨き、制服に着替えて学校へ向かう。


 心が軽くなれば身も軽くなり、にっこり微笑みながらすたすたと歩いていく。昔はやや俯きながら重い足取りで一人寂しく歩いていたが、今は違う。そんなことをする必要など何もない。堂々と前を向き、石ころでなくなった自分の存在を見せながら歩いていればいい。バスに乗っている間、真紀の方をちらちらと見やる人が幾らかいた。真紀はその視線に気がつかないフリをしながらも、心の中では笑っていた。もっと堂々と見てくれてもいいのに、十六年間向けられなかったものだもの沢山もらったって不快になるどころか喜んじゃう、などと考えていた。何もしていないのに、これ程までに注目を浴びるなんて。何かをしていても目を向けられなかった頃が夢のようだ。


(ああそうだ、今までのあれは夢だったんだ。とてもとても悪い夢。そう思うことにしよう。けれど今私は夢から覚めた。あの人の口づけが、私を目覚めさせたんだ)

 いばらに抱かれて眠っていたお姫様みたいだ、などと思ったら笑いたくなる。そんなメルヘンチックなことを何の抵抗もなく考えられるなんて、恥ずかしい乙女ね私ったら……なんて。でも実際は本気で恥ずかしいだなんて思ってはいない。「こんなこと考えちゃって、いやね恥ずかしい」などと思って頬を仄かに染める自分というものに酔っているだけ。

 学校の廊下を歩いている時も、真紀は沢山の視線を感じた。皆自分のことを見ているのだと思ったら小躍りしたくなる。


 教室に入ってすぐ、また人の悪口で盛り上がっていた女王様と目があった。少し前までの真紀だったらそれだけでぎくりとし、恐怖に身を固くさせていただろう。だが今日はその逆で、女王様の方が真紀のもつ恐ろしいまでの妖しい魅力に身を固くさせた。一瞬にしてかちこちになった彼女を見て真紀は「ああ愉快、愉快」と大笑いしたくなってしまった。

 彼女の何が怖かったのか、もう今となっては分からない。それ位今の女王様は小さく、か弱い存在に見えて。

 真紀は微笑んだまま自分の席に座る。


「……あいつ、どうしたの? 何かやばいことでもしたんじゃないの。幽霊から妖怪に変わっているんですけれど」

 いつもより少し小さめの声で彼女が言っているのが聞こえる。その声には恐怖と戸惑いが混ざっていた。それを聞いて悟る。彼女は本当はとても弱い人間だということを。とても弱くて、小さい生き物で、だからこそ自分より弱い人間を見下し、いじめるのだ。そうすることで自分の弱さから目を背けている。

 自分よりも弱い人がいる。自分よりずっと下の人間がいる。だから私は弱くなんてないと。

 それが分かると、最早彼女に対して抱いていた恐れも憎しみも怒りも何もかも壊れて消えた。そして彼女のことを心から哀れみ、出来る限りの愛情を注いでやりたいなどという気持ちになった。

 あの人はとても弱くて可哀想な人だから、少し位の悪口は許してあげないとね。可哀想な人、でもその哀れさが愛しい。皆貴方のことなんて愛していないけれど、私は愛してあげる。だってそうしないと可哀想だものね?

 そう言ったら彼女はどんな反応を見せるだろう?


「ふふ……」

 思わず笑ってしまう。女王様が「何あれ気持ち悪い」と呟いていたが、その声には力がなかった。


(あんなに可哀想な人を、どうして私は怖がっていたんだろう? 不思議よねえ!)

 休憩時間は後藤達と主に喋っていた。他の人達からもちょくちょく話しかけられ、その全てに真紀は笑顔で応じた。そうして笑う時、皆顔をひきつらせたり、頬を紅潮させたりする。その姿がおかしくて、楽しくて。誰の心も動かすことが出来なかった自分は今、そうして彼等に「恐怖」「戸惑い」それから「ときめき」「緊張感」などを与えている。道端に転がっている石ころに、そんなことは出来ない。ならばもう自分は石ころなどではないのだ。改めてそれを確認し、心は強さを増すばかり。

 なんだかとても綺麗になった、という言葉も何度か聞いた。その言葉も真紀に自信をつけさせる。

 そして迎えた放課後、真紀は意気揚々と図書室へ向かっていた。入口のドアから中を覗くとすでに秀人の姿があった。彼はいつもと同じテーブルに座っていた。真紀が再び図書室を訪れることを信じてそうしているのか、ただそこが定位置になっていて他の場所だと落ち着かないからなのか――どちらなのかは分からないが、前者だったら嬉しいと真紀は思う。


(私は変わった。笹屋君もきっと驚くに違いない。ずっと素敵になった私のことをちゃんと見てもらおう。綺麗になったって言ってくれるかな? 言ってくれたら嬉しいな。私は破滅の道なんて進まない、昔の自分程弱くはないからって言わなくちゃ。そしたら分かってくれるはず。そして私はあの時間を取り戻すことが出来る!)

 不安はなかった。今の自分よりも、前の自分の方が良かったなどと言う人はいないはずだ。今の自分の方がずっと良いと言ってくれるだろう、彼は、彼だって。

 例えば美紀が同い年だったとして、別々のテーブルに前の自分と美紀がいたら……そしてどちらか好きな方のテーブルに行けと言われたら、皆迷わず美紀のいるテーブルを選んだことだろう。秀人だって絶対そうしただろう。けれど今の自分と美紀だったら、皆して美紀を選ぶということはないはずだ。


 図書室に入り、いつもの場所に座る。本に目を向けていた秀人は真紀がやってきたことを察知するとさっと顔をあげる。彼は始め、緊張と喜びの混じった顔をしていた。だが真紀の姿を見るなり驚愕の表情に変わっていった。一見他の皆と同じ表情だが、真紀は他の人がもっていなかったある思いが混ざっていることにすぐ気がついた。


 何で変わってしまったのか、どうしてそんな風になってしまったのか、嫌だ、嫌だ、こんな姿の君なんて見たくなかった――――その顔はそう語っていた。

 どうして彼がそんな顔をしたのか、真紀はさっぱり理解できず、動揺。ぽんぽんと気持ちよく弾んでいた心の挙動が一瞬にして嫌なものに変わる。

 気のせいだ、そんなこと考える人がいるものかと自分に言い聞かせて必死に笑顔を作り、久々に秀人へ話しかけた。


「久しぶり、笹屋君。この前はごめんなさい。親切で言ってくれたのに……あんな風に怒鳴ってしまって。私、そのことをとても申し訳ないと思っていたの。謝りたかったけれど、なかなか言いだせなくて」


「え、あ、うん……気にしなくていいよ」

 小さな声だが、その中には戸惑いや「自分の言葉を結局理解してくれなかったんだ」という絶望などといった気持ちが沢山詰まっている。それを感じ取り、真紀の胸は痛む。その痛みを忘れようと、口を開いた。


「私はね、あの人と会うのをやめることは出来ないの。笹屋君がどれだけ言ってもね。ねえ、私変わったでしょう? あの人のお陰なの、全部ね。もう地味で目立たなくて、つまらない存在だった私とはサヨナラしたの。笹屋君だって、昔の私よりも今の私の方がずっと良いと思っているよね?」

 最後、少し大きくなる声。秀人は口をぎゅっと結んだまま、その問いには答えず。


「私は強くなった。だから大丈夫なの。笹屋君はあの人と関わり続けたら不味いと言ったよね? 私もそんな風に思っていた。あの人がもつ『毒』に冒されて、破滅するだろうって。その『毒』に打ち勝つだけの強さを持っていなかったから。でも今は違うよ、私はもうそれにやられてしまう程弱くはない。あの人のことももう、怖くない。だから破滅なんてしない。今の私を見れば分かってくれるでしょう?」

 何度も彼が唾を飲み込む音が聞こえる。唾を飲み込むのではなく、自分にかける言葉を吐き出して欲しかった。

 ずっとそれが続いて、とうとう我慢出来ず真紀は立ち上がり秀人のすぐ横まで行った。そして身を屈めて彼に顔を近づける。美形、とはお世辞にもいえないが醜くはなく、見る者の心をほっとさせる顔が今までにない位近くにあり、どきどきした。そのどきどきを隠し、真紀は静かに微笑む。出雲が見せるような、妖しく艶のある笑みを。もう今の自分はそんな笑みを浮かべることさえ出来るのだった。


「ねえ、分かってくれるよね笹屋君。私、とても素敵になったでしょう?」

 自分のものとは俄かに信じがたい位甘い息が口から漏れる。それを秀人も感じ取ったことだろう。そしてそれに彼の心は激しく動かされたはずだ。石ころだった真紀には出来なかったことだ。

 秀人はしばらくの間、口を僅かに開けたまま硬直していた。しかしとうとう何かを言う決心がついたのか、その口が動きだす。


「……何で、そんな風になってしまったの」


「え?」


「どうして、君はそんな風に変わってしまったんだ。今の君は本当に自分が求めた姿なの?」

 その答えに、今度は真紀が固まった。自分を見る彼の目には憐憫、侮蔑、嫌悪、悲しみなどが含まれていた。


「変わること、変わりたいと願うことは決して悪いことではないと思う。確かに君はお世辞にも目立つ存在であったとはいえなかったし、君がそのことで色々苦しんでいたことも分かる。そんな自分を変えようと頑張るのは悪いことなんかじゃない。けれど変える為の方法を間違っちゃいけない。あの人とはやっぱり関わってはいけなかったんだ。君が良い方に変わったとはどうしても俺には思えないんだ」

 真紀は衝撃のあまり何も言えずにいた。心苦しそうな表情を見せつつも秀人は続ける。


「自分は強くなったから、破滅することはないと君は言う。でもそれは違うよ、きっと、違う。君はもう終わりに向かって進んでしまっている。あの人が持っているものに君はとっくに蝕まれていて、あんまりそれが進んでいるせいで感覚が麻痺してしまっているんだ。あの人は人間じゃない。人間だとしても、普通の人が関わってはいけないような人なんだ。あの人への恐怖は、あの人に破滅させられるという思いは感じ続けていなければいけないものなんだ。そうしなければ、自分の身を守れないから。ほんの少し見ただけで分かる、あの人には何があっても近づいちゃいけなかったんだ!」


「笹屋、君」


「今の君は、本当の君? 俺には作り物に見えるよ……。西原さん、俺は、俺は……前の君の方がずっと良いと思う」

 その言葉は、今の自分全てを否定するものだった。真紀の脳裏に浮かぶ、惨めだった頃の自分の姿。


「前、の、私……」


「俺は前の西原さんと過ごす時間が、その……好きだった。優しくて、温かくて穏やかなものを君はもっていた。少なくとも俺はそう感じた。同じテーブルで、本を読んで、それで時々言葉を交わす。特別なことは何もしない、でもそれで良かった、それだけで俺は楽しかったし幸せだった。西原さんも嫌がっている様子はなくて、それが嬉しくて……。からかわれたこともあったけれど、でもそんなことどうでも良かった。ずっとこの時間が続けばいいと思っていたよ」

 真紀が思っていたことと、彼の言ったことはそっくり同じだった。真紀が感じていたことを彼も感じていたのだ。しかしそのことに対する喜びよりも、今の自分を秀人に拒絶されたことに対するショックの方がずっと大きかった。


「俺は、やっぱり前の西原さんの方が……好きだった。そう思っているのは俺だけなのかもしれないけれど。俺と話している時に見せてくれたあの笑顔の方が、今のものよりずっと良かった。作り物じゃない、本物の笑顔だったから。優しくて、温かくて、心地よかった……その笑顔を見ると、俺も自然と笑みがこぼれた。西原さん、変わるなとは言わないよ。でも、あの人と関わることだけはやめてくれ。今ならまだ引き返せる、いや、引き返さなくちゃいけない。このままじゃ本当にもうどうにもならなくなってしまう」

 彼は必死だった。心から叫んでいた。だからこそ余計に悲しくて、腹立たしくて、苦しくて仕方がなかった。もう何があっても乱れないと思っていた心が暴れ狂い、どこかに消えていたはずの昔の自分が再び顔を出そうとする。

 誰からも相手にされず、友達も出来ず、存在さえ認識されず、妹程愛されずにいた自分が。

 そんな自分の方が好きだった? 何を馬鹿なことを!

 

「冗談はよして! 前の私の方が良かったなんて、そんなことあるはずない! あんな地味で、目立たなくて、人をけなさければ自分の弱さから目を背けることが出来ないような可哀想な人なんかにびくびくしていたような自分なんかが! 私は綺麗になった、ずっと素敵になった、人間でさえなかった私とは大違い! ねえ、嘘でしょう? 前の私なんかの方が良かったなんて! 嘘だよね? 嘘って言って」

 秀人の両肩をつかみ、周りの目も気にせず真紀は叫んだ。泣くように叫んで、信じたくない言葉をなかったことにしようとした。秀人はぎゅっと唇噛み締めて、しばらくしてゆっくりと首を横に振った。なかったことに出来ないことを悟り、真紀は呆然とする。


「何度だって言うよ。……俺は、前の西原さんが好きだった。あの時の西原さんは人間だったよ、優しくて温かな人だった。石なんかじゃ、なかったよ。俺は西原さんのことを石ころだなんて思ったことなかった」


「嫌!」

 ばっと秀人から離れる。もう自分が泣きたいのか怒りたいのか分からなくなってきていた。ただ今は一刻も早く秀人から離れたかった。そうしなければ前の自分が完全に戻ってきそうな気がしたから。


「私は破滅なんてしないし、昔の惨めな自分には絶対に戻らない! 戻る位なら死んだ方がましな位!」

 それだけ叫ぶのがやっとだった。真紀は図書室を出て行った。秀人が「西原さん!」と叫んだがその声に振り返ることはなかった。

 家に帰るまでぐっと我慢して、部屋に入るなり泣いた。


(どうして、どうしてあんなことを言うの? 前の私の方が良いなんて、そんなことありえないのに!)

 色々な人達が「綺麗になった」と真紀に言ってくれた。真紀自身もそう思っていた。綺麗になって、魅力的になった。石から人に変わり、そしてきっと後少しで蕾は完全に花開くだろう。

 それなのに。


(沢山の人に綺麗だと言ってもらえた。今まで言われなかった言葉で、とても嬉しかった。でも笹屋君はそう言ってくれなかった。どうして?)

 彼ただ一人に受け入れられなかった、ただそれだけで胸が痛い。その時一番彼に今の自分を褒めてもらいたかったのだということに気がついた。他の人が「綺麗」だと言ってくれても、彼が言ってくれなければ意味がないのだ。

 どうしてそう思うのか。気がつきそうで、気がつかない。


 また深夜家を抜け、桜山で出雲に会った。そしていつも行く場所に辿り着くと、泣いて今日の出来事について話した。出雲は可哀想に、と真紀を抱き寄せその頭を撫でる。


「昔の君の方が良かったなんてねえ。酷い人だね、彼は。……思うに、彼は昔の惨めな君の傍にいて優しくしてやることで、ああ自分はまだマシなんだって思おうとしたんじゃないかな。彼だって君程でないにしても、地味で目立たない存在だったんだろう? それなりに苦労していたんじゃないのかな。でももっと酷い子がいて、その子といることで『自分より可哀想な人がいる。ああ、この人に比べれば自分は全然可哀想なんかじゃない』と自分に言い聞かせようとした。だからさ、前の君の方が好きだったんだよ。今の君じゃ、そう思うことが出来ないから」

 その言葉がぐさりと突き刺さる。だが真紀は出雲の言うことが信じられなかった。彼はそんな人ではないと思っているからだ。そんな真紀の顔を見つめ、出雲は残酷な笑みを浮かべ、とても冷たい声で囁く。


「絶対そうって、言いきれる? 自分より弱い人間を貶し、下に見ることで自分の弱さから目を背けようとする人間が事実君の傍にいるんだろう? 世の中、そういう人間だらけだろう。だから笹屋という少年がそういう人間だったとしてもおかしくない」


「けれど……」


「ほら、もう泣くのはおやめ。そんな子の言うことなんて気にしなければいい。君は昔の自分より、今の自分の方が良いと思っているのだろう。自分はそう思っている、それでいいじゃないか。他人がどう思っているかなんて気にするだけ無駄だよ。だから泣かないで。涙に濡れる娘も美しいけれど、あんまり泣きすぎたら目が真っ赤になって、腫れて、醜くなってしまうから。人の思いになど左右されず、自分の生きたいように生きなくちゃ駄目だよ。本当に綺麗な花を咲かせたいなら。そうやってうじうじしていたら、元の君に戻ってしまう。それは嫌だろう?」

 真紀はこくりと頷いた。秀人に拒絶されたことを気にしないようにすることは難しいことだと思われたが、元の自分に戻ってしまうことが嫌だという点には同意出来る。


(もっと変わらなくちゃ。そうすればいずれ笹屋君だって分かってくれるわ……)

 今日抱いた苦しい思いを忘れようと、真紀は出雲の胸に顔を埋める。

 そして石ころは花を散らしながら坂を転げ落ちていく。



 

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