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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
花咲く乙女
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花咲く乙女(8)


 その日、真紀は昼頃になってようやく目を覚ました。だるい体を無理矢理起こし、しばらくの間はベッドの上でぼうっとしていた。体からはだらりと力が抜けていて、少し触れられただけでばたりと倒れそうである。しかし体から力は抜けている一方で溢れんばかりのエネルギーが体中を廻っている……という妙な感覚に陥っていた。だるいのに、大声で笑いながらそこら中を走り回ってみたいという衝動に駆られている。これは一体どういうわけか。

 『踊れ、騒げ、己の思うがままに! 歌え、笑え、誰にも縛られず自由に! 自由になれば何でも出来る、自由になれば何も怖くない!』と自分の体内に住んでいる何かが陽気な声で歌っているような気がする。もうお祭り騒ぎである。疲れがとれず、眠気もまだある状態だからそんなおかしなことになっているのだろうかとぼうっとした頭で考えた。

 つい数時間前だったら、周りの目など気にせず思いっきり笑いながらそこら中を駆け回ること位したかもしれない。今回の夜はいつもと違い、何でも出来るような気持ちになっていたから。だが朝の訪れと共にそんな気持ちも薄れていった。今の真紀にはとてもそんなことは出来ない。

 階段を降り、真っ先に向かったのは洗面所。リビングにいるであろう、自分のことを少しも心配してくれない両親に挨拶するよりも、洗面所にある鏡を見て自分の身にどれだけの変化が訪れたか確認することの方が、ずっと大事だった。


 小さな洗面所に大きく膨らむ期待を胸に向かい、風呂場に隣接しているそこに掲げられた鏡を見る。

 驚く程劇的な変化はなかったものの、矢張り昨日よりもっと自分の顔が輝いて見えた。体内に染み込んだあらゆるものが光を放ち、真紀を輝かせているのだった。その輝きに目を奪われる。嗚呼、何て綺麗なんでしょう。

 自分の顔を見てこんなにうっとりするなんて、としばらくして我に返る。あんまり恥ずかしくて逆に笑えてきた。自身の姿が輝きを増すのに比例して、気持ちまで明るくなってくる。


(今の自分は、自分が思っている程惨めな存在ではないのかもしれない。きっと弱くて、うじうじしていた自分とさよなら出来るって思えるようになった。出雲さんと会うまで、そんな日が来るなんて思いもしなかった)

 それを思うと、自信がついてくる。その自信がどうか消えませんようにと真紀は願う。もしかしたらあの女王様に悪口一つ言われただけで消えるかもしれないそれは、ゆらめくロウソクの炎或いは線香花火のよう。けれどいつかは、少し位何か言われた位で消えないものになるだろうと今なら信じられる。

 自分は変わった、変われて嬉しいという思いは更に増していく。リビングに行くと、TVを見ている父と目が合った。彼は娘の顔を見るなり驚いたような表情を浮かべた。


「どうしたんだろう、真紀何だか綺麗になった?」


「それって今までは全然綺麗じゃなかったってこと?」

 思いもよらなかった言葉に胸高鳴らせている自分を隠そうと、わざとそんなことを言ってみせたら困り顔。そういう意味じゃないよ、とはっきり否定しない辺りがなんだか悲しい。だが父が自分の変化に気がついてくれたことは大変嬉しかった。

 

「まさか……恋人が出来たとか」


「違うよ」


「……もう真紀もそういう歳か」


「だから違うってば」

 ただもう苦笑い。真紀には恋人などいない。その言葉を聞いて真っ先に思い浮かべた顔は出雲ではなく、秀人の方だった。何故彼の顔がぱっと浮かんだのか分からなかったが、何にせよ彼は恋人などではない。出雲もまた違う。そんな人と自分がしたことを考え、父の優しい顔を見、痛む胸。朝方まで帰らないことや自分がしていることは悪いことだという思いが再び目を覚まそうとする。それが目を覚ましたら、また色々なことを考えなければいけないようになると真紀は無理矢理それの開きかけた目を閉じさせる。

 直後母がやって来て、同じように真紀の顔を見て驚いた。昨日までは気がついてくれなかったのに。それだけ変わってきているのだと思ったら嬉しくなった。その喜びが自分に『自信』という言葉を与えてくれた。しかし相変わらず二人はここ数日真紀の帰りが遅いことについては何も言ってこなかった。もうそれにも慣れてきたが……。


「お姉ちゃん、おはよう!」

 自分の部屋で今まで遊んでいたらしい美紀はリビングにやって来るなり真紀に飛びついてきた。それを受け止め頭を撫でてやると美紀はとても嬉しそうな声をあげる。相変わらず彼女はきらきらと輝いており、とても眩しい。その輝きは永遠に消えることなく残り続けることだろう。けれどその輝きを見ても前程惨めな気持ちにならなかったことに気がつき、幸せな気持ちになる。


「ねえお姉ちゃん、本読んで。またお姉ちゃんに読んでもらいたいの」


「分かった、分かった。それじゃあ持っておいで」

 そう言うと美紀はぱあっと顔輝かせ、一旦離れそしてまたすぐ戻ってきた。その小さな手には一冊の絵本。表紙を見てすぐに作品名が分かり思わず苦笑。やれやれまたか、と肩をすくめる。


「美紀はそればっかりね。たまには他の本でもいいじゃない」


「ううん、これがいいの。これが一番好きなの」

 ある有名な昔話、それが美紀は大好きだった。着せ替え人形やドールハウスよりもその絵本を大事にしていて、呆れる位何度も読み返すのだ。真紀は彼女にお願いされて数え切れない程それを読んで聞かせてやっていたから、段々と文章を覚えてきてしまい、幾らか暗誦出来るようになった程だ。

 何故そんなにこの話が好きなの、と尋ねれば「一番綺麗なお姫様だから、好き。着ているものも綺麗」とか「綺麗なものとかいっぱい出てきてわくわくする」と答える。シンデレラや白雪姫よりも、美紀にとってはこの絵本に出てくる姫の方が魅力的らしい。

 適当な場所に座り、絵本を読んで聞かせる。美紀は真紀にぴったりとくっつき、太陽のような笑顔を浮かべ、真紀の語りに耳を傾けていた。描かれている絵に目は釘付け、初めて見るものでもないのによくもこんなに夢中になって見られるなといつも感心してしまう。


「美紀は本当、それが好きだね」

 父がとても優しい声で美紀に話しかける。美紀は一度絵本から目を離し、元気よく「うん」と頷くとまた絵本へ目を移す。真紀は美紀にこうして読み聞かせすることが決して嫌いではない。何度も読まされているからたまには他の絵本も読みたいな、と思うのだが最後に「ありがとう、お姉ちゃん。また読んでね!」と眩い笑顔と共に言われるとまたこの絵本を読んでもいいかな、などと思ってしまう。


「お姉ちゃん、この人みたいになった」

 突然美紀が絵本の表紙に描かれたお姫様の絵を指差し、そんなことを言いだした。そんなこと一度も言われたことのなかった真紀は驚く。そこに描かれている女性と自分の共通点といえば、女性であることと黒髪であること以外に何もなかった。

 ああ、そうだ。真紀は彼女が何を言いたいのか少ししてから理解した。


(美紀にとって彼女は『綺麗』の代名詞なんだった。TVで綺麗な人を見ると、すぐこの人みたいって言う)

 つまり彼女は「お姉ちゃん最近綺麗になったね」と言いたいのだ。両親同様妹も真紀に起きた変化に気がついたらしい。真紀は絵本に描かれた女性の姿を見、微笑む。照れくさくて、でも、嬉しかった。


(きっと、もっと近づける。もっと、もっと)

 心は鞠の様によく弾む。赤や金の糸で模様が描かれたそれのように、今の真紀の心はとても色鮮やかだった。深夜、出雲と会う為に家をこっそり出ることだってもしかしたら出来るかもしれないと思いさえした。最初は怖くてためらっていても、きっと一度やってしまえば「ああなんだ、こんなものか」と思えるかもしれない。

 父がつけているTVからナレーションが聞こえる。どうやらゴールデンタイムにやっていたものの再放送らしい。画面に映っているのはある一人の女優。真紀がまだ幼稚園児だった頃、人気だった人だ。だがあるスキャンダルをきっかけに仕事は減り、そしていつの間にか芸能界から姿を消してしまった。それから彼女がどうなったのか、彼女の身にどんなことが起きたのかこの番組でやっていたらしい。


『……ただ一度足を踏み外した、ただそれだけで全てが変わってしまった。転がり落ちればあっという間だ、あれよあれよという間に落ちるところまで落ちていく。止める者がいなければ、いや、あまりに激しく転がればもう誰にも止めることは出来ない。彼女のように……』

 そんな言葉で締められ、それから呆然とした表情のTV出演者が映しだされる。

 家族三人から綺麗になったと言われて弾んでいた心に、その最後の言葉がいやにぐさりと突き刺さった。真紀にはそれが、自分の未来を予言する言葉に思えてならなかった。そしてそれと共に、脳内で秀人の「あの人とはこれ以上関わらない方が良い」という声が再生された。何度も、何度も。


 その言葉を振り払おうと、真紀は美紀と遊んだ。おままごとをしたり、TVゲームをしたりして。彼女と一緒にいるのは心地よい。かつては心地よく思う一方苦痛に感じてもいたが。彼女の笑顔などには、悪いことを吸い取り浄化してしまう力があるように感じられる。

 幸福な時間はあっという間に過ぎていく。そして、夜が訪れる。



 久しぶり(とまではいかないかもしれないが)に四人全員で夕食を食べた。美紀は今日真紀とどんなことをして遊んだかとか、学校でのこととか、色々なことを話して聞かせた。両親はそれを楽しそうに聞き、質問したり相槌を打ったりする。美紀と喋っている時の両親は本当に幸せそうだ。以前はその顔を見ているだけでも胸が苦しくなっていた。真紀と話す時、二人はそういう顔をしなかったからだ。でも今はそれ程気にならないし、僻みもしない。少しずつついてきた自信が、卑屈な性格を変えていったのだろう。

 風呂に入り、明日後藤達と遊ぶ為の準備をするまでは気持ちに余裕があったが出雲と約束した時間が近づくごとに緊張度が増していく。胃がキリキリ痛み、頭がじんじんし、体中の筋肉が叫び声をあげ暴れ狂っていた。両親は大抵の場合十一時位には寝てしまう。出雲が指定した例の公園はここからそう遠くない所にあるから、彼等が寝てから行っても充分間に合う。しかし……。


(ばれない、かな……お父さん達の寝室から玄関までの距離はそんなにないし、もし私が外へ出ようとした時二人の内のどちらかが部屋から出てきてしまったらどうしよう。もしかしたら美紀がトイレに行く為に部屋から出てくるかもしれないし……。玄関のドアを閉める時、うっかり大きな音を出してしまったら? かといって自分の部屋の窓から出るなんて芸当は出来ないし)

 流石の両親も、真紀が十一時過ぎになって外へ出ようとするのを見たらおかしいと思うだろう。そう思いたかった。

 ばれたらどうしよう、という気持ちがぐいぐいと心臓を押し上げ喉元まで持っていく。

 夜中、外へ出るという行為にも抵抗があった。明るく安全な場所から出て、暗くて何が起きるか分からない場所へと向かうことは勇気のいることだった。少なくとも真紀にとってはそうで、窓をすり抜けてきた夜の空気が胸の内にあった恐怖を煽る。

 かといってこのまま家にこもっていれば、出雲に会うことは出来ない。出雲に会えなければ、きっと自分はまた元の石ころに戻ってしまう。彼の機嫌を損ねてしまうこともあまりしたくなかった。怒らせればとてつもなく恐ろしいことが降りかかる気がした。

 両親にばれないように外へ出ることと、出雲の機嫌を損ねること。どちらがより恐ろしいことかは天秤にかけるまでもない。


(行かなくちゃ。私は変わりたい……変わりたいんだ。その為だったら、家を抜け出すこと位。もっと変われば私はうんと強くなる。強くなれば、笹屋君とまた向き合うことだって出来る。彼に自信をもって大丈夫だよって言える……)

 真紀の予想通り、両親は十一時を少し回ったところで寝室へと向かった。真紀は二人に「おやすみ」と言って一旦自室へ。そして程よい時間になったところで再び階段を降りる。電気の消えた廊下には一切の光がなく、薄気味悪い。そこが玄関へと続く道なのか、冥府と繋がっている道なのか判別がつかない位だ。ぼんやりと見えるドア、そこを開けたら死者の集う不浄の地が広がっているかもしれない――などという妄想が自然と生まれる。

 自分の靴を探りあて、静かにそれを履きそれからドアの鍵に手をかける。震えを懸命に抑えつつ、ゆっくりと、慎重にそれをひねって開けた。その時小さな音が出たが、闇の中に吸い込まれて消えた。誰かが部屋から出た様子はない。今にも口から心臓が飛び出しそうになるのを我慢して、ドアを開ける。がくがく震える足を無理矢理動かし、錆びたブリキのおもちゃのような滑稽でぎこちない動きでそこから出て、またドアを閉める。ぱたり、という音と共にドアが閉まった時少しだけほっとした。とりあえずばれずに済みそうだ。真紀は普段から持っている鍵でドアを閉め、そこから離れる。


 密度の濃い闇が真紀の肌を撫でる。その感触が不安や恐怖を煽り、呼吸がやや荒くなった。一応ペンライトは持ってきたが、下手をすればそのせいで自分が真夜中外に出ていたことがばれてしまいそうで、結局使えなかった。

 とりあえず歩くものの、怖くて心細くて仕方がない。思わず叫んでしまいたい、いやいっそ大声で明るい歌を歌いたくなる。だがそんなことが出来るはずもなく。昼間はなんてことない景色も、夜になると全てが化け物に変化する。皆口を開け、笑い、獲物である自分を狙っているように見えた。

 この世界を怖いと思っているいとはきっと出雲のような者にはなれるまい。真紀は美紀の輝きにも憧れていたが、今は出雲のあの妖しい輝きの方にむしろ惹かれていた。あれ程美しい輝きを真紀は知らない。

 彼と同じように輝くということは、すなわち人を捨てるということ。しかしそれでもいいからあんな風に輝いてみたい。

 ああなってはいけない、という気持ちとああなりたいという気持ち。二つが闇の中で混ざり合っている。混ざって、揺れて、迷って。


(それにしても、怖い。私はよくこんな中によくいられたな……)

 弱々しい風が時々吹いている。それが闇を体内へと運んでいく。そして少しずつ蓄積されていく。段々と溜まっていくそれが、真紀の中の『常識』などを飲み込んでいった。それが怖くて仕方ない。このままでは完全に闇に呑まれて、夜を恐れる気持ちが消えてしまうかもしれなかった。胸の中で蠢く何かが、体内へと入っていくものを喰らっている気がした。

 動いていた足が、止まる。


(どうしよう。家に帰った方がいいのかな。このままじゃ本当に取り返しのつかないことに)

 そう思った時だ。


 ひゅう、と一際強い風が吹いた。ただそれだけで全てが変わった。

 その風は真紀の体から『不安』『恐怖』『自分の中の常識』などだけ吹き飛ばした。すうっと綺麗にそれらは飛んでいった。体内に残ったのは夜の闇だけ。だが体は少しも重くない、むしろとても軽くなったような気がした。

 ただしばらく、真紀はその場に立ち尽くしていた。ほんの一瞬の出来事に呆然としていたのだ。自分の中から出て行ったそれらはもう闇に消えてどこにもない。見上げる空は黒い、黒くて黒くてとても綺麗だ。

 真紀の体内から何かがこみ上げてくる。そしてそれがやがて外へと出た。


「あは、は、はは……」

 笑い声が、漏れた。そして一度笑いだしたらもう止まらなくなり真紀は腹を抱えて大いに笑った。大きな声は出さなかったが、それでもよく笑った。あんまり体が急に軽くなったものだから、おかしくておかしくて仕方がなかったのだ。

 笑いながら、足を踏み出す。最初はゆっくりと、だが段々とその速度は早くなっていく。走り、笑いながら夜を感じる。冷たい風も、それに含まれた闇も今は心地よくて仕方がなかった。胸の中で何かが蠢いているのを感じても、もうあまり気持ち悪くなかった。

 どうして急にそうなったのか、真紀には分からなかった。特別な理由などなく、風が吹いたことがきっかけで心のスイッチがどういうわけか押されてしまっただけなのかもしれない。

 何でも良かった、真紀はただ気持ちよくて仕方がなくいつもよりずっと軽やかな動きで走る。心が自由になったような心地、開放感。闇の羽衣身にまとい、舞うように走る、走る、目指すは出雲のいる公園だ。軽やかになった足が地面に着く度、ぱきぱきと音がする。その音が聞こえると嬉しくて仕方がなかった。


(なんだろう、とても軽い! 体も心もとても軽い! こんなに気持ち良いのは初めて! あはは、なんて清々しいのだろう! 今なら本当にどこへだって行ける、何だって出来る気がする!)

 どうして今まで一歩踏み出すことを躊躇い続けていたのか分からない位だ。ついさっきまでの自分はとても愚かであった。でも今は違う。もう真紀は今までの真紀ではないのだ。ぱきぱきと胸の中、聞こえる音。きっと朝が訪れてももうこの気持ちを忘れることはない、いや、きっと出来やしない。

 生きているのか死んでいるのかよく分からない木々に囲まれた公園が目に入る。真紀の、色鮮やかな糸で模様の描かれた鞠の如き心がますます弾む。

 そこには出雲の姿があった。彼はベンチの前に一人ぽつんと立っている。真紀は一層速く走り、そして彼の胸に飛び込んでいった。おっと、という声と共に彼は真紀の体を受け止める。


 見上げればそこに彼の顔がある。月、夜の花、闇の(かんばせ)。月を削り、綺麗に磨き、夜と冬を混ぜたものを塗ったような姿。あれ程までに感じていた恐怖を不思議と今日は感じなかった。

 出雲は真紀の顔を見て、彼女が急激な変化を遂げたことに気がついたらしく嬉しそうに笑んだ。その妖しい笑みの花びらは口づけたくなる程美しい。


「そう、君は目覚めたんだね。私の力と夜の魔力が君を変えたんだね。ねえ真紀、気分はどう?」


「最高に気持ちが良いです! とても、とても」


「そう。そうだろうね。気持ちよくならないはずがない。君の殻も大分割れたようだ……その中で眠っていた花が、顔をのぞかせているよ。その花びらをこれから開いてやらなくちゃね。一枚、一枚丁寧に。傷つけないように優しく。真紀、君はようやく理解したね? 色々なものに縛られて生きることのくだらなさを」

 自然と頷いた。本当に馬鹿馬鹿しいと思った。自分が今まで大切にしていたものがいかに無価値であったのかようやく知った思いだ。胸の中で何かが蠢く、その感覚は今の真紀をわくわくさせている。

 心にのしかかっていた重しがとれ、何もかも開放された。今ならあの女王様を笑い飛ばしてやること位難なく出来そうだ。出雲は微笑み、真紀に口付ける。それを真紀は喜んで受け入れた。気持ちが高ぶり、もっと、もっと欲しいと願う心が生まれる。


 出雲と真紀、手を握って山へと向かった。金銀の星が煌き、月が光り、氷の風が吹き、木々が揺れ、夜の音楽を奏でる。その音楽は幻想を招き入れ、世界の姿を変える。その音楽を聞きながら二人、踊るように駆けた。さらさらと流れる出雲の髪、夜の川。風呂から上がり野暮ったいゴムを外している真紀の髪も揺れる。二つの川が流れ、道を幻想の水で満たす。


(ああ、きっと私は変われる。いえ、もうすでに変わっているのだ。自由な心でこれからは生きていこう、きっと生きていける。ふわふわと浮かぶ心、舞っている、舞っている! 誰にももうその舞を邪魔することは出来ない!)

 そんな素晴らしい未来を思ったら体が熱くなり、蕩ける。お酒を飲んだ時の気分ってこんな感じなのかしらん。


 その夜、真紀は出雲と朝方まで共にいた。その時の彼女には最早悦びしかなく嫌悪も後悔もない。どうして今までそんな気持ちを抱いていたのかさっぱり分からない位だ。彼と共にいる時、真紀は自分の中にある何かが少しずつ開き始めているのを感じた。その度胸が熱くなる。

 ああ嬉しい、嬉しい、この時間が永遠ならいいのに!

 そんなことを思える時間は今まで秀人と過ごすもののみだった。今もその時間を愛しく思うが、こちらの時間も素晴らしい。

 もうそこにかつての真紀はいない。十六年という月日が築きあげた『真紀』は冬の風に飛ばされ消えてしまったのだ。


 転がり落ちれば、もう止まらない。あっという間に転がって、落ちるところまで落ちていく。


 

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