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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
花咲く乙女
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花咲く乙女(7)

 真剣な、そして痛い位真っ直ぐな眼差しがそこにあった。


「あの人は不味いよ。俺、ろくにあの人と言葉を交わしていないけれど、でも……分かる。あの人は多分、関わってはいけない人なんだ。今は西原さんに良い影響を与えているみたいだけれど、きっといずれ破綻するよ。段々壊れていって、駄目になっていって……最後はどうしようもなくなってしまう。根拠らしい根拠はないけれど、そう思うんだ。直感みたいなものかも。西原さんだって本当は分かっているんじゃないの?」

 図星だった。真紀だって分かっている。彼の手をとることと破滅の道を歩むことがイコールで繋がること位。人であって人ではない、化け物的な空気を孕んでいるあの男に普通の人間が関わってもろくなことにはなるまい。

 だが、真紀は「分かった。もうあの人と関わることはやめる」と素直に頷けない。


「心配なんだよ。なんかこのままじゃ、取り返しのつかないことになってしまうんじゃないかって思うんだ。余計なお世話って思うかもしれないけれど……」

 ああこの人は本当に自分のことを心配してくれているんだな、と真紀の心はずきりと痛む。だがきっとそうして心配してくれているのは、自分の妹である歩美と仲良くしてくれている美紀の姉だからという理由なのではないかと思ったらどうしようもなく悲しくなった。どうしてもっと良い方に考えられないのだろうと、情けなくなってくる。しかし自分にとって都合の良い考えをして、結果傷つくのが嫌で、だからやっぱり美紀の姉だからというのが理由なのだと思うことにした。

 秀人は真紀が返事をせず、俯いているのを見て黙る。何と言えば真紀が納得してくれるのか考えているのかもしれない。それからえっと、えと、と言っていたがやがて再び真紀に話しかける。


「変われるよ、きっと。あの人がいなくても西原さんは変われると思う。……もっともっと明るくなれるよ……その、何もしなければ勿論変われないとは思うけれど、頑張れば、その……出来る限り俺もち、力になりたいなって思うし」

 その言葉を聞いた時、頭に様々な映像が浮かんだ。過去の自分、地味で目立たない、惨めでつまらない存在であった自分。

 勇気を出して声をかけ、やっとの思いで作った友達。その友達はしばらくの内は真紀とよく遊んでくれたが、やがて他の友達の方へ目を向けていき、そしてとうとう真紀という友達の存在を忘れてしまう。そんなことが何度もあった。頑張っても、頑張っても、皆結局自分のことを忘れていく。自分よりも輝いている友達を作ると、その輝きにかき消されてその人の世界から消えていくのだ。

 何度も、何度も、そうやって友達を、人との繋がりを失った。頑張っても頑張っても頑張っても、どうにもならない、出来ない。次々と頭に浮かぶ、自分のことを忘れていった人達の姿。それは悪夢だった。

 頭に浮かんだ映像がもたらした悲しみや痛みが、血を通じて心に到達し、そしてある感情を作り出す。

 体も脳も心も熱く、痛くなって。真紀は立ち上がっていた。秀人が目を大きく見開いている。顔を真っ赤にし、目から涙をぽろぽろと零している真紀を見てぎょっとしたのだろう。涙と共に感情が流れ出る。


「笹屋君には分からない、分からないよ……私の気持ちなんて。私はどう頑張っても、駄目なの。石ころなのよ。存在感がなくて、皆の視界に入らなくて、入ったとしても記憶には残らない。そこらの道に転がっている石ころと同じなの。小さい頃は私だって友達を作ろうと頑張ったよ、実際友達が出来たこともある。けれど、けれど、皆結局私から離れて、そして忘れていく。それを何度も繰り返したの。私は自分だけの力じゃ輝けない。笹屋君が力を貸してくれたって無理だよ。私をどうにか出来るのは、人間離れしたものを持っている人、あの人のような人だけなの!」

 涙がぽろぽろ零れおちて、止まらない。図書室にいたごく僅かな人達の視線が一斉に集まったが、それ位で真紀の涙を止めることは出来なかった。秀人は何も言えず、ただ呆然としている。大声で喋ると次から次へとしまいこんでいた感情が表に出てきて、止まらない。


「私はどうなったって構わない。私はあの人とこれからも会う。そしてあの人に変えてもらうの、無様な自分のことを。笹屋君が何を言っても、私の気持ちは変わらない。私はちゃんとした人間になるんだから! 石ころの人生になんて戻ってたまるものですか! 美紀よりもずっとずっと輝いてやる! だから私のすることに口を出さないで!」

 本をカバンに乱暴に詰め、怒りと悲しみを動力源に足を動かし図書室を出る。秀人の「西原さん……」というかすれた声が自分の背中を叩いても、足を止めなかった。廊下ですれ違った生徒達が真紀の顔を見てぎょっとしたが、構うもんかと涙も拭かずにそのまま校舎を出、校門を出、バス停へ。

 青い空に抱かれ、呼吸をしたら気分が少し落ち着く。怒りが鎮まるが、悲しみや苦しみは残ったままだ。怒りが消えたことでそれらの思いが表に出てきて、更にそれらのものが後悔という名の感情を生み出した。


(酷いことを言ってしまった……。笹屋君は私のことを思って言ってくれたのに。分かっているんだ、私だって。正しいのは笹屋君の方。あの人とは関わってはいけない……けれど、他に方法はない。私だけの力じゃどうしようもないし、笹屋君にどうにかできる問題じゃない。生まれつきのものですもの、これは。……きっとあの人と会うことを止めたら、すぐ元通りになってしまう。今はまだ私は、あの人の輝きを貰わなければ人になれない。後藤さん達に話しかけられることも、野原さんに名前を覚えてもらうこともない……そんな日々には戻れない)

 だから秀人の忠告を聞くわけにはいかないのだ。彼の真剣な眼差しを、そして彼と過ごした時間のことを思うと胸が痛む。あれだけのことを言った以上、もう元通りの関係には戻れまい。秀人は自分が出雲に関わることを快く思っていない。だが自分は出雲と関わり続けることを望んでいる。双方の考えが正反対である以上、仲直りすることも出来ないだろう。


(私が、あの人と関わっても大丈夫だってことを証明できれば元通りになれるかな。そうしたら、あの時間を取り戻せるだろうか)

 自分でその手を振り払っておきながら、彼と過ごす時間に執着している。なんて欲張りで意地汚い人間だろうかとカバンを持つ手に力が入る。どちらか選ばなければいけないのに、選べない。秀人とこれまでと同じ関係を続けていたいし、出雲との関わりも終わらせたくない。

 大丈夫だよ、ということを証明出来ればという思いは離れない。破滅の道を辿っていることを認めていながらそんなことを言おうとしているなど、矛盾している。


(そもそも、破滅するってどういうことなんだろう。「破滅する、破滅する」って思っているくせに、具体的にどうなってしまうのか、そのことが少しも分かっていない。廃人になっちゃうとか、あの人と同じように普通の人間ではなくなって、恐ろしいけれど美しい化け物になってしまうということなのかな……)

 生き物の本能的なものが出雲のことを思う度ざわつくが、彼と会い続けることで自分がどうなってしまうのか、具体的なことは何一つ分からない。分からないから怖い。一方で分からないからこそ出雲と会うことを本気で止めたいと考えられないのかもしれない。

 やがて来たバスに乗り、ようやく涙を拭く。秀人の優しさと同じ位温かいそれが触れた途端、また泣けてきた。


(今の私じゃ駄目だ、何も思い浮かばない。何もかも自分の思う通りにする術なんて……。変わらなくちゃ、変えられない。私が変われば、もっと輝いてうんと強くなって、そうしたら笹屋君との時間も取り戻せる気がする。ううん、もしかしたらそれだけじゃなくて……破滅の道を歩むのを避けられるかもしれない)

 都合の良いことばかりを考え、気持ちを落ち着かせる。桜町に着いた後は公園へ向かって歩を進めた。

 秀人の視線に刺された背中、そこに風が当たる度ずきずきと心が痛む。本当は今すぐにでも学校へ戻り、彼にごめんなさいと言いたい気持ちだった。


(ごめんなさい、本当にごめんなさい。けれど笹屋君、私には無理なの。ただ頑張っただけじゃどうにもならないことだってあるの)

 出雲は公園のベンチに腰かけ、真紀が来るのを待っていた。その姿は絵になっている。ここに月光が差し込めば、見ただけで命を奪われるような風景が出来上がるだろう。彼は真紀の姿を認めると、その手を舞う蝶のようにひらひらさせた。その動きを見ていると、夢幻の世界に引き込まれそうになる。

 こんにちは、ととても小さな声で呟きながら出雲の隣に座ると出雲に顔を覗きこまれた。自分が先程まで泣いていた音を思いだし、慌てて顔を逸らそうとしたが時すでに遅く。花びらを思わせる滑らかでしなやかな指が、目尻の辺りに触れた。彼は無表情のまま、涙の跡やまぶたをなぞる。その感触に真紀の体は震えたが、それが恐怖によるものなのか彼の手が与えた快感によるものなのか分からない。


「随分泣いたようだけれど、どうしたの?」

 それに答えたら秀人に良くないことが降りかかりそうで、それが怖くて口をつぐむ。


「どうして泣いたの?」

 出雲はもう一度、さっきよりも強い口調で尋ねた。黙ることは許さない、という思いがひしひしと感じられ、とてもそのまま答えることを拒否し続けることは出来なかった。秀人のことを考えている余裕などない、答えなければ自分の身が危ない。

 始め真紀は「友達と喧嘩した」とだけ話した。だが出雲はそれだけで納得してくれるような単純で優しい人ではなかった。問い詰められ、より詳しい話をする羽目になる。それを繰り返す内段々と話は具体的なものになっていき、とうとう全てを話してしまった。

 彼は自分のことで二人が仲違い(そういう程仲良しというわけでもなかったが)してしまった事実を知っても表情一つ変えない。それを申し訳なく思うことも、真紀や秀人が自分のことを危険人物扱いしたことに怒る様子もなかった。ただ感情を表に出していないだけで、心の中では何か考えていたかもしれなかったが。


「そう。それは可哀想に。まあ、彼の言いたいことも分からないではないがね。でも、駄目だものね。真紀は私の力を借りなければ花を咲かせられない。彼の力では何も出来やしない」

 顔がぐっと近づき、吐息が頬にかかっている髪を揺らす。


「……彼は真紀のことが少しも分かっていない。君の苦しみも痛みも全部、全部。私よりも前に君と出会ったのに。どうしてかな、ねえ、どうしてだろう」

 その先は聞きたくない。思わず耳を塞ごうと挙げた手を出雲がつかみ、静かに下ろした。そして守るものがなくなった真紀の耳に静かな悪意に満ちた声をとくとくと注ぎ込んでいく。


「真紀のことなんて、少しも興味がないからかな。そうだ、きっとそうに違いない。君の心を彼は覗こうとしなかったんだ。そこに詰まっているものに彼は目を向けたいとも思わなかった。興味がないから、君のことなんてどうでもいいから。ああ、でも彼は君のことを助けようとしたね? 私に近づかない方がいいと助言したんだった。けれどそれは本当に君のことを思ってのことかな? もしかしたら、そうして可哀想な人間に優しくする自分に酔っていたのかも。君は本当に可哀想だものね。哀れで、惨めで……彼みたいな『優しい』人にとって、君ほど都合のいい存在はいないのかも」


「さ、ささ、笹屋君はそんな人じゃ」


「おや、泣いている。泣いているということは、私の言葉を嘘だと完全に思えていないということだね。心から信じているのなら、そんな悲しい涙は流さないはずだもの。それにしても酷いねえ、彼は。私との関わりを絶つと君がどうなるのか知らないからこそ言える言葉なのかもしれないけれど」

 酷い人だとは思わなかった。だが、自分のことなど少しも分かっていないと怒りはした。そのあまりに身勝手すぎる怒りはすでに収まっているが。そう思っているはずなのに、彼にそう囁かれるとああ確かに酷い人かもしれないとほんの少しでも思えてしまうのだ。


「まるで鬼だねえ? 君を石ころに戻そうとする、鬼。そういう鬼は放っておきなさい。君は私のことだけ見てくれれば良い」

 鬼。昔話に出てくるような赤い肌に二本の角を生やした大男の姿が浮かぶ。背筋がぞくりとした。手が、胸の辺りに置かれる。その下にある心が手で触れられた気がして、どきり。


「君の心はとても傷ついているね。どうして? あの少年以外にも何か言われたの?」

 浮かぶのはあの女王様の顔だ。話してごらんと出雲に言われれば話すしかなく、色々嫌なことを言われた話をした。


「そう、だから傷ついているのだね。馬鹿な真紀。そんな言葉に耳など傾けなければいいのに。けれどそれが出来ないんだね。大丈夫だよ、真紀。今はきっとそんなつまらない人間にさえ傷つけられるような君だけれど、殻を破って花を咲かせればそんなことどうってことなくなるよ。そんな人間がぎゃあぎゃあ騒いでいるのを聞いたってその心には傷一つつかなくなる。君は何でもかんでもしっかり受け止めすぎるんだ。そして色々考えて苦しんで。そんな苦しむばかりの人生なんて、つまらないじゃあないか。周りのことなんて気にしなければいい。自分の好きなように生きてごらん。周りの声になんて耳を傾けずに、何にも囚われず自由に。そうすれば楽になるよ……いずれ君にも分かるさ」

 君が殻を割るまで、何度だってそう言い続けるからね――耳元で囁く声に頭がくらくらする。

 桜山に行くまでの間真紀はその言葉について色々と考えていた。


(笹屋君のことも、お父さんやお母さんのことも皆考えないでいればとても楽になれるのかな。誰が自分のことをどう思っているかとか、破滅がどうとか、心の強さがどうとか、そういうことを考えずに生きられればもっと自由になって、どこまでもいけるような気持ちになって……そして、出雲さんみたいな人になれるのだろうか)

 他人から向けられる思いに左右されず、心を痛めることもなく、決まりに縛られることもなく、自分の生きたいように生きる。厚い殻に覆われることのない花は強い輝きを見せ、人々を魅了する。


(きっと楽になれるだろう。けれど今の私にはそんなことは出来ない。考えないようにしようと思っても、考えてしまう。考えて、苦しんで、閉じこもって。それは私が弱いから? もっと輝けるようになったら自信もついて強くなって、余計なことを考えないで済むようになるかな……)

 はっと気がつくと自分は桜山にある例の場所にいて、草にその身を刺されながら仰向けになっていた。罪悪感と期待が同じように真紀の心をちくちくと刺している。

 すっかり暗くなっており、頭上には星屑が散りばめられている。その空にも増して濃い闇の色をしていて、星よりなお眩い光を放っているのは出雲の髪だ。それが体にかかって冷たく苦しくだが心地よい。また真紀は夜の川の底に沈んでいるのだ。水面浮かぶ月、出雲の顔。何度も見ている顔なのに、一向に慣れない。いつも見る度心臓が激しく動き、恐怖を感じ、惚れ惚れとし、魂はその顔に吸い取られてしまう。

 またあの時間が始まるのだ、そう思ったら体が疼く。また胸の辺りで何かが蠢く。怖い、という感情も嫌だ、という感情も消えはしない。だが前よりほんの少しだけそれが薄らいだ気がした。


「夜、というのは一番良い時間だ。全ての境界が溶けてなくなるから。昼間よりも心や魂が自由になったような気にならないかい? 私はいつだって自由だけれど、特別夜は自由な気持ちになる。だからより私は輝く。輝きとは自由な心により宿るものだ。その輝きを、この夜を、ここに咲く夜の花を君の体にすり込んで染みこませて、それでいっぱいにしてあげるんだ。真紀、きっと君は朝また一段と輝くだろう。それはまだ君自身の輝きではないけれど」


 夜は様々な激しい感情と共に過ぎていく。その感情に溺れず、意識を保っていた時間は本当に短いが、今までは全くといっていいほどその時間のことを脳に刻みつけられなかった時に比べれば、随分と変わったと思う。それを進歩と呼べるかといえば微妙だったが。

 出雲の声が聞こえる度、胸の中にいる何かの動きが激しくなる。もぞもぞと動くそれは真紀の中へと入っていく出雲や夜のもつ空気を吸収し、それをエネルギーにしているようだった。

 自分の中に、何かが住んでいると思った。それが胸の中にある何かに寄生して、支配しようとしている……そんな想像をしたら気持ち悪くなった。そしてその想像は決してくだらぬ妄想ではないような気がした。


「もう少しの辛抱だ」

 遠くから、近くから出雲の声が聞こえる。ああそうか、もうしばらくの辛抱か。この気持ち悪さも、誰かに向けられた思いに悩むことも、何の輝きももたない人生に苦しむことももうしばらく辛抱すれば全てなくなるのだろう。

 ああ、それなら我慢しよう。大丈夫きっと今まで生きた時間に比べればずっと短い時間で、全て終わるだろうから。そう思ったら、少しだけ楽になった。



 気がつくと朝になっていて、自分の部屋にいる。体はだるいが初めて出雲と共に夜を過ごした日に比べればまだ少しだけましだった。お腹はあまり空いていない。単純に調子が悪いからなのか、意識がない時に何かしら口にしていたのか分からなかった。今まで出雲と桜山で過ごす時間のことを殆ど覚えていなかったが、今回は少しだけ覚えていた。それを思い出したら胸がかあっと熱くなり叫びたくなる。


 両親が何も言わないことなど、もうどうでも良くなってきていた。何かごちゃごちゃ言われたり、どうしたのだと問い詰められたりするよりも、何も言わず聞かずにいてくれた方がずっと楽だと思うようにした。心はまだそれとは真逆のことを考えていたけれど、無理矢理そう思うようにした。いずれ無理やりではなく自然にそう思うようになるだろう。朝方まで家に帰らないことに対する罪悪感も大分薄くなっている。もう、いいやと思う度何かがぱきぱきと割れる音が聞こえるような気がした。

 朝食を食べると、すぐ洗面台へと向かった。今日の自分は昨日までの自分とはまた違っているはずだから。鏡の向こうに映る自分の姿は矢張りますます輝きを増しているように見えた。顔のパーツは一切変わっていないのに、全体的な雰囲気が大分変わったように見え、まるで別人のよう。一瞬自分の顔に見えなかった位だ。それでもその輝きは出雲のものはおろか、そこらの人間のものにも届かぬ位僅かなもの。劇的に、短期間でどんと変われるものではないらしい。


(私の花の蕾がまだ殻に覆われているから、すぐに変われないのかな。この心が全てのものからすっかり解放されたら、そしたら一気に変わるのかな。自分の輝きを手に入れられるのかな)

 そうは思ったものの、真紀は鏡に映った姿を見て微笑む。まだまだ花は咲いていないし、身にまとっているものは自ら発しているものではなく、出雲によってこの身に塗りこんでもらったものに過ぎない。それでも真紀は嬉しかった。今まではそんなものさえもっていなかったから。

 また夜のことを思い出す。その身の全てを出雲に預けていた時、彼は色々と真紀に話しかけていた。


――狭苦しい世界から、飛び出しなよ。もしくは世界そのものを壊して、自由におなり。誰かが決めたくだらない決まりとか、そういうものはいらない。それが殻を壊すということ。ほうら少しずつ、君の殻は割れていっている――


――君は一体どんな花を咲かせるだろうね? ただの人間にはもてない蜜をもった、美しい花になれるかな。なれるだろう、だって私が手を貸すのだから――


――気持ち良いよ、とても気持ち良いよ。自由になること、周りの人の声や感情に流されずに生きるということは。何かを気にしながら生きるなんてつまらない。ね、自由に生きることを覚えたら気持ちよくて、心地よくて、色々なことに縛られていた人生が馬鹿らしくなるよ……――

 人間そこまで自由に生きられるものだろうか。いや、そんな風に生きて良いのだろうかという疑問がぼうっと湧いてきた。そしてすぐ駄目だろうな、と思った。多分そういうもの全てから解放されたら、人間のような化け物になってしまうだろう。

 そう思っている内はきっと自分は人間なのだ。 


 朝学校へ行って教室に入ると女王様と目が合った。途端彼女は大声で笑いだす。嗚呼、自分の姿を見て笑ったんだなと直感した。朝早くから嫌な気持ちになる。おまけに彼女は離れた席で、わざと真紀に聞こえるように色々と話し始めた。


「ねえねえ、西原ちゃんさあ昨日泣いていたらしいよ。地味男に振られたのかなあ!」

 第一声がそれである。本を開き、そちらに耳を傾けないようにするが無駄だった。


「もったいないよねえ。西原ちゃん、あれ逃したら一生恋人出来ないんじゃね? ていうか私つい最近まであの子の存在に全然気がつかなかった! あれ幽霊じゃないよね? いや、やっぱり幽霊? 幽霊がいるクラスとか超斬新!」

 そう言ってげらげら笑う。何て品のない笑いなのだろうと腹の中で黒くもやもやしたものが動き回った。そんな下品な笑いをする人間なんかの言葉に、自分の心は痛めつけられ、泣きたくなるのだ。何て弱いのだろうと自分で自分にがっかりする。

 女王様と一緒に喋っている生徒数名も同じように笑っている。彼女達は真紀のことを笑いながら、女王様のことも嘲笑っている。


「向こうも向こうだよね、お前みたいな地味男に選択肢はないっての! 西原ちゃん逃したら、一生独身決定でしょ! あいつ何回か見たことあるけれど、本当地味だし顔もあれだし、良い所なしって感じ!」

 今度は秀人のことを馬鹿にしだす。それを聞くと申し訳ないという気持ちと共に、女王様に対する怒りが湧いてくる。本を持つ手に力がぐっと入った。その力を彼女に思いっきりぶつけられればいいのに。


「西原さんに実際何があったか聞いてくれば?」

 女子の一人がそう言うと、女王様がまた大声で笑う。


「聞くわけないじゃん! 私別にあの人達の関係とか全然興味ないし!」

 興味無いならぐちゃぐちゃ言うなよクソ女、と真紀の近くにいた生徒の一人がぽつりと呟く。お説ごもっとも。昨日はわざわざ真紀のところまで来て色々言ってきたくせに。

 それから彼女はまた別の人間の悪口を言い始める。生徒の一人が人をけなすこと以外何も出来ない脳みそミニチュアサイズ女だあいつは、と彼女のことを称しているのを以前聞いたことがあった。全くその通りだと真紀は思う。


(ああ、今すぐあの人の所へ言って笹屋君の悪口を言うなと言いたい。貴方より彼の方がずっと素晴らしいと、貴方のような悪口を言うこと以外何も出来ないような人なんかが馬鹿にできるような人ではないと。いっそ、貴方のことを心から友達だと思っている人なんて誰もいない、皆陰で貴方のことを馬鹿とか性格ブスどころか顔もブスと言っているんだって言ってやりたい。色々、言ってやりたい。でも私には出来ない……)

 言うだけなら、勇気を振り絞れば言えるかもしれない。だが言った後はどうする?

 女王様に何かもっと酷い言葉を返されたら、それだけでなく酷いことをされたら、自分の取り巻き達に何かやらせるのではないか……そんなことを思うと、とてもあの女王様に怒りをぶつけることなど出来ない。

 彼女など、出雲に比べれば大したことはない。怖さも力もなく、ずっと弱い。だがそれ以上に真紀は弱かった。彼女のことが怖いし、彼女のもつ力にすっかりおされてしまっている。それがとても悔しかった。


(自分の弱さが憎い。あんな出雲さんに比べればずっと劣っている輝きにおされてしまう自分が)

 朝に得た、変化に対する喜びがしぼんでいく。それも後藤達との交流ですぐ元通りになったのだが。彼女達はうるさすぎないし、嗜好も似通っているから一緒にいるとほっとするし、とても楽しい。しかも日曜日、一緒に遊ぶという約束までした。その時の真紀は喜びのあまり涙を流しそうになってしまった。そうして友達とどこかへ行くことなどほぼ初めてだったから。


「私、後藤さんと友達になれて良かった」

 ついそういう言葉が口から出た。きょとんとした顔の彼女を見て一瞬真紀は焦った。もしかしたら友達だと思っていたのは自分だけで、相手はそんな風に思っていなかったかもしれなかったから。


「ご、ごめん、もしかしてそう思っていたのって」


「ううん、違う違う! 友達だと思っていなければ一緒に遊ぼうなんて言わないよ。何かいきなり言われたから照れくさくなって」


「そういうこと言う人なんて、なかなかいないもんね。私もびっくりしちゃった」

 後藤を通じて仲良くなった女子が笑う。確かにそうだなと思ったら真紀も恥ずかしくなり、真っ赤になり、笑い声。

 幽霊と友達になるなんてもの好き、という女王様の声が聞こえたが今はあまり気にならなかった。


 その日真紀は図書室へ行かなかった。秀人と会うこともなかった。謝りたいと思う気持ちはあったが、真紀は出雲と会うことをやめようとは思っていないし、恐らく秀人も真紀を止めることを諦めてはいないだろう。だから謝ったところで一度生まれた溝は埋まらないような気がした。

 彼に会いたいとは思っている。後藤達と仲良くなったからといって、秀人とのあの優しく心地よい時間を手放したくはない。彼のことが真紀は好きだった。それが恋愛感情かどうかは分からないが。


(何も考えないようになったら、私はあの人のことを恐れることもなくなれば、笹屋君へこういう思いを抱くこともなくなるのかな……それともただ、彼が出雲さんのことをどう思っていようが気にせず接することが出来るようになるのだろうか)


 夜は再び出雲と過ごした。胸の中の何かは蠢きつつ、徐々に成長しているようだった。ぱきぱきという音も聞こえたような気がする。昼に抱いていた様々な思いは夜に溶けて消え、月照らす夜の川に溺れ、また真紀は少しだけ変わっていく。

 段々と出雲と夜を過ごすことに対する恐怖や嫌悪感が薄れていく。それが薄れていくと、美しい人に自分の全てを捧げていることなどに対する悦びが強くなっていった。自分が女であることを改めて認識する。夜が真紀の体に降り注ぐ。冷たく甘美なそれが浸透し体内を染めていく。それを感じると、何だか今なら何でも出来るような気がした。悩まず、苦しまず、やりたいようにやる。ああそれはなんて素晴らしいことなんだろう!

 その夜は桜山を出るまで意識は失われなかった。夜は徐々に削れ、その下に隠されていた朝が顔を出し始めている。


「いつもはもう少しだけ早く帰るけれど。今日は学校が休みだと聞いたから、別に良いかなと思ってね。真紀、今日は夜遅くに会おう。そうだな、夜の0時頃あの公園で会おう」

 それを聞いて目を見開く。そんな夜遅くに家を出て、公園まで歩くなんて。朝が近づいている為か、さっきまで感じていた「何でも出来る」という思いが消えてしまっている。

 出雲は困った子だなあ、と笑いながら真紀の頬に口づける。あっという間に頭がぼうっとしていく。


「いいじゃないか、それ位。君は私と初めて会った時とはもう違っている。きっと出来るよ。それが出来たら、きっと君は今よりずっと大きく変われるようになる。ねえ、私は待っているよ。君が来るまでずっとね」

 月照らす冬の夜、一人真紀を待つ彼の姿を思い浮かべる。それは今までに見たどの絵よりも恐ろしく、美しい。その光景を目に出来るのなら、それ位出来るかなと思った。

 そしてそう思った途端彼女は意識を手放した。

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