花咲く乙女(6)
*
美しいその人の輝きは、夜に向かって増してきている。冬の風になびく髪は夜のそして死の空気を纏い、そしてその空気が真紀と英人の心臓を撫でる。痛み、凍てつき、苦しい。彼の放つものに、冬の寒さに体はすっかり凍えているというのに汗が止まらない。
コンクリートで出来た塀、民家、大した遊具のない寂れた公園――それらの平凡でつまらない風景さえ彼がただそこに立っているだけで異界に変わる。
真紀も秀人も、悲鳴をあげることも動くこともままならず。ただ目の前にいるその人の姿を、恐怖に震える瞳で見ていることしか出来なかった。
「やあ、真紀。会いたかったよ。……今日もね、君のことを待っていたんだよ」
首を傾げ、甘い声で囁く。薄暗い世界に青白く輝く顔に黒髪がいくらかかかる。その様子がなんとも艶かしく、いけないものを見ているような気になってしまう。無意識にそういう仕草をとっているのか、それとも分かっていてやっているのか。
真紀は唾を飲み込み、それから隣に立っている秀人に目を向ける。彼はその場に棒立ち状態、顔は青ざめていて口は半開きになっていた。彼は真紀の視線に気がついたのか、こちらを見る。その瞳には出雲に対する恐怖が映っていたが、それよりも強かったのは真紀のことを心配しているという気持ちだ。化け物的な男に「今日も待っていた」と言われている真紀。もしかして何か面倒事というか、恐ろしいことに巻き込まれているのでは、という思いがあるのだろう。そしてその心配は的中しているといえばしているのだ。真紀は必死になって秀人に「大丈夫だから」と目で伝えた。大丈夫、といえる程大丈夫ではないのだが、彼にあまり心配をかけたくなかった。その目を見た秀人が口を開いた。
「こ、この人……西原さんの知り合いの人なの?」
真紀はすっかりかちかちになった首を無理矢理動かし、頷く。
「うん。つい最近会って……ええと、色々お話しているの。名前は出雲さん」
自分の声も、秀人の声も酷く震えている。おそるおそる顔を出雲の方へ向けると、彼は妖しい笑みを浮かべている。その笑みを見て真紀は不安になった。
もし彼があの夜のことを笹屋君に話してしまったらどうしよう、と。その秘密を両親や秀人に暴露されることは、今の真紀にとって最も恐ろしいこと。しかも目の前にいる出雲の場合、平気で口を開いてしまいそうだ。顔が、浮かべている笑みが語っている――言っちゃおうかな、どうしようかな、と……。
真紀に、出雲を牽制出来るだけの力はない。だから彼女はただ願うことしか出来なかった。それを見た出雲が、小さな声をあげて笑う。息を吐いただけ、という言葉の方が近いような笑い声だったが真紀の体に染みついている『出雲』を目覚めさせ、全身を疼かせるには十分だった。秀人がこの場にいなければ、不潔で汚らわしい、いやらしい声をあげていたかもしれなかった。
「初めまして。真紀とはとても仲良しでね、一緒に話とかしているんだ。それが楽しくてね、毎日が楽しみだよ。……それで、君は? 真紀のお友達?」
秀人の体がびくつく。彼に冷たさと妖しさを抱く鋭い視線で突き刺されたからだ。その視線に直接突き刺されていない真紀でさえ、死にそうな思いだ。人の視線にこれほどまでの力があるなんて、未だに信じられない。秀人は震えたまま何も答えない。否、答えられない。生きる為に最低限必要な呼吸をするのが精一杯という様子。それは真紀も同じだった。
彼が「あのこと」を言わなかったことに少しだけほっとしたが、油断はできない。いきなりぽろっと暴露してしまう可能性も大いにある。
いつまでも秀人が答えないのを見て出雲がまた笑った。明らかに秀人を見下している、いやらしい笑みだ。
「お友達かどうかも答えられないの?」
「それ、は……」
「お友達ですらないのかな、君にとって真紀は」
秀人は口ごもるだけで何も言わない。いや、何か答えたいが出雲の気迫に負けて何も言えないのかもしれない。出雲がねっとりした蜜を思わせる笑い声をあげ、秀人と真紀を交互に見、笑う。
「それとも友達を超えた関係なのかな。……恋人とか」
その響きが真紀の体を熱くする。特に顔が熱い、きっと頬は真っ赤に染まっていることだろう。それは秀人も同じようだ。口をぱくぱくさせている彼と目が合ったが、お互い慌てて逸らした。くすくす、という出雲の笑い声も、心臓の鼓動でかき消され。
「あの、こ、い、びとじゃ……」
秀人の声はかすれていて、聞いているこちらの方が苦しくなる位辛そうに喋っている。自分と一緒にいたが為にこんな恐ろしい目に遭わせてしまったことを申し訳なく思った。
「ふうん、そういうこと……。ふふ、真紀も罪な子。まあ私にとってはどうでもよいことだけれど。さあ、真紀行こう。今日も二人でお話とかしようね。ねえ真紀、二人でだよ」
その声は体内に入り込み、暴れ狂い真紀を乱す。そうしながら彼は真紀の右手首を掴んだ。北風など彼の手の冷たさに比べれば熱風のようなものだ。心臓が弱い人なら出雲に触れられただけで生を終わらせてしまうかもしれなかった。
「……それじゃあね。真紀とお友達ですらない少年君」
抵抗することなど真紀に出来るはずはない。出雲に引っ張られ、足は前へ前へ進んでいき秀人から離れていく。彼は真紀をこちら側に引き止めたかったのか、その右手を前に突きだしていたが……その手はあまりに短すぎた。恐怖、不安、悲しみ、緊張――あらゆる感情を湛えた瞳に見られて、心苦しい。
出雲もまた秀人の方をちらっと見やっていた。何故だか勝ち誇ったような笑みを浮かべて。
秀人一人をその場に残し、真紀と出雲は公園までやってきた。ベンチに真紀を座らせ、それから出雲も続いて座る。男とは思えない程美しい座り方だった。
そうして座るなり出雲は真紀の耳元に囁く。
「昨日は楽しかったねえ、真紀。大丈夫? ちゃんと眠れたかい」
夜、月、白い肌、甘い息。自分がかろうじて覚えている僅かな記憶が呼び覚まされる。体が痛み、気持ち悪くなった。それを見て出雲が笑う。
「辛かった? そうか、そうか。まあそれも仕方のないことだね。でも大丈夫、辛いのは最初の内だけだよ。嫌悪感も痛みも、全部消えていくさ。そうすればとても楽になって、愉しくなって、色々なしがらみから解放されるようになっていく。ね、それを思うとなんだって耐えられるだろう?」
真紀は何も言えなかった。自分の中に入り込んだ『出雲』が彼の声によって絶えず動く。疼く体、気持ち悪くて、気持ちよくてとても苦しい。
「……ところでさっきの子は誰? もしかして君が私に話してくれた笹屋って子?」
笹屋君のことも彼に話したのか。それさえ真紀は覚えていなかった。いつの段階で言っていたのかさえはっきりしない。秀人のことに限らず、彼との会話の殆どは記憶にない。
「優しそうな子だね。地味な感じでもあるけれど。それにしても、可哀想だなあ彼も。もっと頑張らないと、気づいてもらえないんだろうなあ」
「それは、どういう意味ですか」
「秘密。教えたらつまらないもの。報われる人間より、報われない人間を見ている方が楽しいしね。あ、真紀は別だよ」
真紀は出雲が何を言っているのかさっぱり分からなかった。彼の声のせいで頭がぼうっとしていなければ、分かっただろうか? いや、真紀には分かるまい。自分なんて、自分なんか、という気持ちが出雲の言葉の意味を理解することを阻んでいるのだ。ぽかんとしている真紀を見て出雲は愉快そうに笑った。
「まあ、どの道彼が報われることはないだろうけれど。その方が楽しくていい。ふふ……さて、彼の話はこれ位にしておこう。私にとってはどうでもよいことだから。真紀、君の体にはちゃんと変化があったようだね。学校生活も少しは楽しいものになったんじゃないのかい?」
出雲の言う通りだ。真紀にとって今日という日は特別なものになっていた。クラスメイト達が自分の存在に気がついてくれたのだから。そのことを話すと出雲はよかったねえ、と真紀の頭を撫でる。体に冷たい電流が走り、恥ずかしいとか照れくさいとかいう思いはせず、ただ痛みと恐怖だけが襲う。
「でもね、まだまだだよ。君はまだ花を咲かせていない。硬い殻はそのままだし、まだ君の『花』に『私』は作用していない。今君が少しだけ輝いているのは、結局のところ私から受け取った私の輝きなんだ。自分自身の輝きではない、それは嫌だろう? だからね、まだまだ。でも大丈夫。私にその身も心も委ね続けていれば、いずれ花が咲き、君自身の輝きを手に入れることが出来るよ」
その囁きが体内に流し込まれていく。そうすると、どういうわけか真紀の胸がむずむずとする。何か小さな生き物がその辺りで蠢いているような感覚だ。その感覚を真紀は出雲と出会ってから何度か感じていた。とても気持ち悪く、胸を開いて中で動いているものを取り出してしまいたくなる。
「そうすれば、今よりもっと素晴らしい時間を手に入れることが出来るだろうね。両親だって、誰だって皆妹よりも君のことの方を求めるようになるだろう」
両親……。朝、何事も無かったかのように笑っていた父と母。美紀のことばかり大切にしていることは分かっていた。でも、自分のことだってそれなりに大切にしてくれていると思っていた。少なくとも今日の朝までは、そう信じていた。ずきりと胸が痛み、顔をしかめる。その顔を出雲が覗き込んだ。ああ彼の頭からさらさら流れる川は、夜に近づくにつれその輝きを増すばかりだ。
真紀は何度も言葉を詰まらせながら、両親のことを話した。話しながら出雲が、自分が叱られないように魔術めいた何か(催眠術とか)を用いて何かしてくれたのではないか、そうであって欲しいと願っていた。ところがその願いは、彼の残酷で冷たい言葉によっていともたやすく崩れ落ちた。
「ふうん、それは可哀想に。君の親は思った以上に君のことを見ていないらしい。……まあ、でもねあまり気にすることではないよ。親なんていうものはね、そういうものなんだよ。子供が思うほど親は子供のことなんて想っていないんだ」
子供が思うほど、親は子供のことを想ってはいない。彼が言うと、そんな認めたくないようなことも認めたくなってしまう。この世界の真理にさえ思えてしまう。彼は両親と上手くいっていなかったのか、だからそんなことを言えるのか。分からなかったが今の彼女にとってそんなことはどうでもいいこと。僅かな救いもない言葉に真紀は目頭が熱くなるのを感じた。冬の寒さとは違い、そこから流れてきた雫は温かい。その温もりが今はたまらなく辛く、ますます涙は流れていく。その雫の内の一つを手に取り、艶かしく舐める出雲の顔に同情という言葉はない。
両親に目を向けられていない真紀の姿を、苦しい辛いと泣く真紀の姿を見ているのが楽しくて仕方がないという様子だ。浮かべているその表情はとても憎らしく、だがそれを見ても彼との縁を切ってしまいたいとは思わない。自分には彼の力が必要なのだ、どうしても、必要なのだ。
「私のことを見てくれないのは、私がつまらない人間だから。石ころだから……美紀にも負けない位輝ければ、きっと、きっと」
出雲がそうだねえ、と言って真紀の体を抱き寄せる。その所作には少しの優しさも含まれていなかったが、今の真紀にとってはそれでも十分ありがたかった。
夜の川が、体を包む。溺れていって息苦しくなって、ああ意識が遠のいていく。
「可哀想な真紀。両親のことなんてどうでもいいと考えれば、楽になれるのに。それが出来ないんだね、可哀想にね。君はそんな酷い両親にも愛されたいと願っているんだね。……その願いはきっと叶うよ。私の声が、肌が、温もりが、息が……私の全てが君を変えるから。女の子は皆、綺麗な花。どんな花をどんな風に咲かせるかは人それぞれだけれど。君は石ころじゃない、石ころな女の子なんていないよ。大丈夫、君は女の子だ。だから花を咲かせられる……」
とろとろと、流し込まれる毒が真紀から自由を奪っていく。苦しさを超えて、眠くなっていく。
かろうじて残っている意識はこれからのことを考える。きっと出雲は昨夜のように、桜山へ行くだろう。
真紀を染める為に。未だ消えることのない「夜遅くまで外にいてはいけない」「恋人でもない男とあんなことをしてはいけない」などという『常識』を破壊し、その内側にある花を引っ張り出して、その花びらを一枚ずつ開いて、そして真紀の花を咲かせるのだ。
(ああ、駄目だ……そんなこと……許されない。私はやっぱり間違っている、このままじゃきっといけない、駄目、駄目……石ころのままでも、平穏に暮らせればそれで……ううん、でも駄目、それも駄目……私は知ってしまったもの、人に気がつかれることの喜びを……ここでこの人の手を振り払ったら、きっと後藤さんは私に話しかけなくなるし、野原さんには名前をまた忘れられる……)
「君はただ大人しく、私に全てを委ねていればいいんだ」
途端かろうじて残っていた意識さえ手放し、それが戻ってきた時にはすでに真紀は桜山にいた。山には人の気配などまるで感じられず、花や木々の命しか感じ取れない。夜の姿にすっかり変わっているそれらは怖いながらも美しく、静かでいながら並々ならぬエネルギーを放っている。まさにそれは、今真紀の近くにいる出雲のようだった。
それからのことは矢張り殆ど覚えていない。ただ気持ち悪くて、気持ちよくて、苦しくて、辛くて、嫌で、嬉しくて……そんな様々な感情が体内で絶えず暴れ続けていたことと、胸の内で何かが蠢き続けていたこと、温かい雫が目から溢れるのを止められなかったことだけは覚えている。
覚えていない方が幸せだろうと真紀は思った。だが逆にあの時間のことを覚えていないのは勿体無いことだと思う気持ちもあった。
*
目覚めると、真紀は自室のベッドに横たわっていた。体はだるく、気持ち悪い。
昨日と同じように、今日も両親は何事もなかったかのような態度で接してきた。昨日は何時まで起きていたのか聞いたら、いつも通りの時間に寝たという。娘がその時間まで帰ってきていないというのに。
色々真紀は尋ねたかった。自分のことなどどうでもいいと思っているのか、娘が夜遅くまで帰ってこなくても心配ではないのか、そもそも娘が帰ってきていないという事実に気がついているのか。だが真紀にそれらの質問をするだけの勇気はなく。残酷な言葉を吐かれてしまうことや、はぐらかされてしまうことを恐れていたから。
(私が馬鹿だったのかも。父さんも母さんも、私が帰ってくる時間なんてどうでもいい……そんなことないって信じていた自分が)
そう思った途端、夜遅くまで家に帰らないことに対する罪悪感が消えていく。なんだかもうどうでもよくなってしまったのだ。向こうが気にしないなら、自分も気にしなければいいのだと思えるようになる。
ぱきん、と体内で何か硬いものが割れるような音がしたような気がした。
鏡を見ると、そこには昨日とはまた違っているように見える自分がいた。目の前に映っている自分が自分であるとは俄かには信じ難く。しかし今の自分が放っている輝きは自分自身のものではない。あくまで出雲からほんの少しだけ分けてもらったものにすぎない。それを思うと肩を落としたくなるが、それでも真紀は嬉しかった。
(今は自分で輝けなくてもいい。いずれ輝けるようになるまでは……それでも……)
学校へ行き、教室に入ると後藤が挨拶してくれた。彼女と話していた人達も続けて挨拶する。真紀はどきどきしながらお世辞にもあまり大きいとはいえない声で「おはよう」と言った。
それから自分の席に座り、筆記用具などを机の中にしまっていると誰かが真紀のところまでやってきた。真紀は後藤さんでも来たのだろうかと思い顔を上げ、固まる。そこに立っていたのは女王様だったのだ。その顔が浮かべていたのは、下卑た笑み。出雲のそれと違い、上品さの欠片もない。
「西原ちゃん」
一音一音を伸ばし、わざわざねっとりした声で名前を呼ぶ。呼ばれた方は気持ち悪くてかなわないし、ああ絶対ろくでもないことを言うのだとうんざりする。彼女は真紀の机に手を置き、顔をぐいっと近づけた。
長めの、縛っていない髪は(校則違反レベルの長さだ)長期休み中には茶色に染め、明けたら黒に染め……を繰り返しているせいか完全に傷んでいて、しかも完全な黒ではなく茶色がかっているから、まるで枯葉のようになっている。明らかに化粧をしている顔は作り物感が満載でなんだか滑稽に見える。そのくせ自分は自分のことを可愛いと思っており、他人の容姿を平気で馬鹿にする。
真紀はこの場から逃げ出したかった。だが今の彼女にはそれが出来るだけの度胸がなかった。
「西原ちゃん、昨日男子と一緒に帰っていたでしょう」
それを聞いた途端、頭が真っ白になる。心臓がどくんと嫌な音をたてて揺れた。何故彼女がそのことを知っているのか? 女王様は桜町出身ではないし、あんな田舎町にわざわざ足を運ぶような人間にも見えない。
しかも悪いことに、彼女の声はかなり大きかった。恐らく周りの人に聞こえるよう、わざとそうしたのだろう。周りにいた人間の視線が一斉に向けられる。そんな風に大勢の視線を集めたことなど今までなかった。
「ほら、隣のクラスにさあ、相沢っているじゃん? 桜町に住んでいる奴。そいつがさ教えてくれたんだ」
相沢という女生徒のことは知っていた。まともな会話をかわしたことは無かったが。石ころレベルの存在感だった時だったら、きっと気がつかれなかっただろう。笹屋と女子が歩いている、ということさえ認識されたかどうか。だが昨日の真紀は、今までの真紀とは違っていた。誰かに気がつかれる程度にはなっていたのだ。
しまった、と思ったがもう遅かった。よりにもよって一番知られたくないような人種に知られてしまうなんて、と早くも真紀は泣きだしそうになった。それでも女王様は追求を緩めてくれない。
「ね、帰っていたんでしょう。ほらちゃんと答えてよ西原ちゃん」
見間違いだと主張すべきかと思ったが、真紀には嘘を突き通せる自信がなかった。
「……うん」
それだけ、たったそれだけ言っただけで女王様は大声で笑いだす。これ程までに不快な笑い声をあげられるのは、ある意味才能であるかもしれなかった。
「やだあ、西原ちゃんったら大人しそうな顔して結構やるねえ! お相手はあれだっけ、最近転校してきた男でしょう? 笹なんとかっての。え、どこまでいったの? キスした? もしかしてもっとやばいこととかしちゃった!?」
本当に声が大きい。真紀はその声と、周りからの視線に耐えられず小さくなって、震えて。
でも、このままではいけないと思った。このままでは秀人の名誉に関わる。真紀は見たくもない顔を見ながら、口を開く。
「別に、付き合っているわけじゃない……た、ただ、私の妹と笹屋君の妹が仲良くて……それで、い、妹のこと、話していただけ……」
「あはは! 西原ちゃんったら、またまた! 超仲良さげに話していたって相沢言っていたよ? どう見ても恋人同士って感じだったってさ!」
真紀は殆ど話したこともないような人間である相沢を恨んだ。どうして彼女はこんな人に話してしまったのかと今すぐにでも隣の教室に行って、彼女を問い詰めてやりたくなった。だが矢張りそんなことが出来るはずがなく。
どうする、助けた方がいいかな……という声が聞こえる。しかしきっと彼女達は助けに来ないだろうと思った。女王様は無駄に力をもっていて、変に助け舟を出すと自分達の身が危なくなってしまうのだ。
「まあ、頑張ってよ西原ちゃん。付き合っていないにしてもさ。大丈夫だって、笹なんとかって確か超絶地味でぱっとしない奴でしょう? あんな地味男狙っているの、西原ちゃんだけだろうから! 西原ちゃんっていい趣味しているよねえ。あんなのに目をつけるなんてさあ」
その発言に真紀は怒りを覚える。自分のことを馬鹿にするならまだしも、秀人のことを馬鹿にするのは許せなかった。同時に、自分というつまらない人間に関わったが為にこんな風に馬鹿にされることになってしまった秀人に対し、申し訳ないという気持ちになる。もしかしたら彼も今同じようにからかわれているのかもしれない。
女王様は真紀の肩をぽんぽん叩くと、笑いながら去っていった。
腹立たしくて、悲しくて、悔しくて。体の震えが止まらない。
(私のせいで、笹屋君まで馬鹿にされて……私が石ころのままだったら、こんなことにはならなかったはずなのに……ううん、違う。自分が弱いから、こんなことになっているんだ。悔しい、何も言い返せなかった自分が。今の私にはあの人をどうこう出来る力はない。もっと自信がついていけば……あの人が手出し出来ない位の輝きを手に入れれば……変わるかもしれない。出雲さんみたいになったら、きっと)
それからSHRがあり、授業が始まる。その間も悔しいという思い、笹屋に謝りたいという思いがぐるぐる体内を巡っていた。
(そういえば笹屋君には昨日、怖い思いをさせてしまった……ううん、きっと嫌な思いもしたはず。出雲さんは笹屋君のことを馬鹿にしていて……彼だってそのことに気がついているはず。さようなら、また明日って言葉も言えなかったし)
ますます気分が沈む。彼に会いたい、会わなければ、でも会いたくない、あんまり申し訳なくて合わせる顔がない……気持ちはぐるぐる回る。目も回りそうで、気持ち悪い。
そんな風に嫌な思いもした。が、輝きをもつことの喜びもその日真紀は改めて感じる。休み時間の時、後藤と彼女の友達が話しかけてきてくれたのだ。女王様がその場にいないことを確かめて。
「ごめんね、西原さん。本当は助けてあげたかったんだけれど……」
本当に申し訳なさそうに彼女達は言った。その心からの言葉だけで真紀は充分救われた。
「あの人本当酷いよね。人を傷つけることを楽しんでいる。私も色々言われたことがあるよ……本当嫌になっちゃう。そのくせ、自分が何か言われると怒るしさ。ブスのくせに生意気とか、あんたに私のことをとやかく言える資格なんかないとか……あの人、相当嫌われているよね。あんな人生で楽しいのかな」
「あまり気にしない方がいいよ。気にするだけ無駄だもん。大丈夫、きっと皆今日あの人が言っていたことなんてすぐ忘れてくれるはずだから」
あまりに優しい言葉に、真紀は思わず泣きそうになってしまった。彼女達は朝女王様が話していた内容については触れずにいてくれた。それがどれだけありがたかったか、言葉で言い表すことはできない。
その日真紀は、彼女達とご飯を食べた。昨日は喉を通らなかったご飯も今日は美味しく食べることが出来た。彼女達と喋るのは楽しくて、最初の内はおっかなびっくりといった風に喋っていた真紀も気づけば後藤達と同じ位の声で大分はきはきと喋るようになっていた。
誰かとお弁当を食べながらお喋りする、そんなことにさえ真紀は喜びを感じていた。なんでもないこと、でも今までの自分には決して出来なかったこと。それが今、当たり前のように出来ている。その喜びが、女王様につけられた傷を癒す。
(この時間を手放したくない。笹屋君との時間も……たとえ彼に迷惑をかけることになるとしても……失いたくない。だから私は嫌だと思うことがあっても、彼のことを恐れても、それでも出雲さんと会うことをやめはしない。きっと、私は毎日だってあの人に会う。今は辛いけれど、いずれ平気になっていく。笹屋君や後藤さん達に迷惑をかけない位強くだってなれる。決めたからには、そうならなくちゃいけないんだ)
そう思うと、少しだけ気持ちが楽になる。また出雲と会う時間が近づいたら沈んでしまい、馬鹿みたいに悩んでしまうかもしれなかったが、それも仕方がないことだと思う。今の自分は弱い。弱いから、どうしようもないのだ。
掃除の時も同じ班の人と少しだけ言葉を交わした。朝のことについて聞いてきた人もいたが、どうにかごまかした。それから放課後となり、真紀は図書室へと向かう。秀人に会わなくては、と思った。彼が今日何か変なことを言われなかったか聞いて、もし言われたなら謝らなくてはいけない。昨日のことだって謝らなくてはいけなかった。
(笹屋君、怒っているかな……怒っていたらどうしよう。でも怒っていたとしても不思議じゃない……嫌な思い、させてしまったもの。私のせいで……)
秀人をあからさまに見下し、何故か勝ち誇ったような笑みを浮かべていた出雲。
――それじゃあね。真紀とお友達ですらない少年君――
その言葉を思い出したら、胸がずきりと痛む。
(そう、友達ですらない……私と笹屋君は)
それでもいいと思っているはずなのに、改めて出雲の口から出たその言葉を思い出したら悲しくなった。ちんたら歩いてたどり着いた図書室にはすでに秀人がいて、いつもの場所に座っている。
真紀がテーブルまでやってくると秀人が気がついた。彼は少し緊張しているような笑みを見せ、こんにちはと挨拶してきた。
「うん……こんにちは」
真紀はテーブルにつくのを躊躇った。自分か笹屋を知っている人間に同じテーブルで本を読み、色々語らっている姿を見られたらどうしよう、と。そんな真紀の心情を察したのか、秀人が優しい声で語りかけてきた。
「大丈夫だよ。俺、気にしないから。……西原さんが辛いなら、止めないけれど」
「私も、大丈夫」
彼がそう言うのなら、もうどうなっても構うもんかと思い少し安堵して椅子に座る。
「あの、笹屋君……やっぱり、昨日のことで誰かに何か、言われた?」
「うん。何か色々な人を通じて俺のクラスの人に話が伝わったらしくて。ごめんね、俺が一緒に帰ろうなんて言ったせいで西原さんに迷惑をかけた」
椅子に座ったままぺこりと頭を下げてきたものだから、真紀は困惑してしまった。彼が自分に対して謝罪することなど少しも考えていなかったから。真紀は真紀で自分の方が悪いと思っていたのだから、当然だ。
真紀は慌ててかぶりを振る。
「そんな、とんでもない! 笹屋君が謝ることじゃないよ。あ、あの私こそ、その、ごめん……出雲さんのこと……とても嫌な思いをさせてしまった」
秀人の体がびくんと動く。その顔は恐怖で引きつっていた。彼の心に出雲という存在は思った以上に深い傷をつけたらしい。そのことを感じ取り、ますます申し訳なく思った。
彼は少ししてから微笑む。矢張りどこか硬い笑みだ。
「西原さんのせいじゃないよ。……あの人、その……西原さんの知り合いを悪くいうのは申し訳ないと思うけれど、なんというか、人間に見えないよね」
「うん……それは私も思う。怖いし、普通の人が持っていないものをもっているし。けれど、そこに惹かれるというか」
惹かれる、という言葉に秀人が反応する。
「惹かれる……西原さん、あの人のこと」
「ち、違うの、そういう意味の惹かれるじゃなくて」
慌てて言ったら、彼はほっと息をついた。何故かそれを聞いて安堵した様子。
「あの人は、お友達……なの?」
友達。そんな生易しい関係では絶対にあり得なかった。だが間違っても恋人ではない。真紀は彼と自分の関係を説明する言葉をもっていなかった。色々言おうとすれば、自分が出雲と何をしているか話してしまいそうで、それが怖くて、結局嘘をつくことにした。
「うん、そんなもの、かな。色々お話するの。結構、楽しいよ。怖い位綺麗だから……話している間はどきどきしっぱなしだし、怖くて泣きそうになっちゃうこともあるけれど。なんて、何言っているんだろう、恥ずかしい」
俯く真紀、黙り込む秀人。また少しして秀人が口を開く。
「……西原さんが少しずつ変わってきている気がするのは、あの人のおかげなの」
「え、あ、うん……そうかもしれない」
「そっか。うん、変わるってとてもいいことだと思う。西原さん表情が明るくなってきて……それって悪いことでは決してないよね。でも、でもね、俺思うんだ」
秀人は真っ直ぐな目で真紀を見ている。そして彼は言葉を続けた。
「あの人とはもうこれ以上関わらない方がいいと思う」