花咲く乙女(5)
*
真紀はもやもやを抱えたまま学校へ向かっていた。昨夜のこと、両親のこと、鏡で見た自分の姿のこと。それらのことが順繰りに頭の中に現れては消えていく。答えは導き出せず、時間が経てば経つほどもやもやが増えていった。
(鏡で見た私の姿は、いつもとは変わって見えた……ほんの少しだけ輝いているようだった。あれはただの見間違い? 昨夜あれだけのことをしたのだから、変わっているはずだ、変わっていなければいけないという思いがそう見せたというの?)
月から作られたような出雲の体、微笑み、かかる髪の黒さ。それを思いだした真紀の血がのたうちまわり、思わずその場でうずくまってしまいそうになる。記憶はないが、体は全て覚えている。震える手のひらを見つめる。その手も、かろうじて体を支えている足も何もかも汚くなったように見え、じんわりと目に涙が浮かぶ。
(私が望んだことだ。分かっていたはずだ、私は。あの人が何をするか……教えていたもの、あの人の声が、手が、瞳が……それでも私は逃げなかった。あの人のもつ力のせいで逃げられなかった? ううん、でも私きっと心の底で望んでいた。あの人にもっともっと奥まで入りこんでもらいたいって……だから、拒まなかったんだ。なんていやらしい女なんだろう、私は)
美しいあの人に自分を染めてもらいたかった。自分の何もかも乏しい花は、自分の力だけでは咲かせられない。咲かせたところで、大して綺麗なものにはならないだろう。輝きも放たない、石ころと殆ど変わらない花。だからこそ出雲の力が必要だったのだ。人とは思えない人の手でもとらない限り、自分は変われない。そう考えていた。
それでも、昨夜のことをすんなり受け入れられるほど強い心を真紀は持っていない。彼女はうんとうんと後悔していた。だがまた今日も出雲に会いたいという思いがあることも事実だった。あの輝きはどうしようもなく恐ろしく、一方でどうしようもなく惹かれるものであった。だから真紀は迷っていた。再び会えば、あの夜と同じ時間を過ごすことになる。そのことに対する覚悟を自分は決められるだろうか、と頭を悩ませる。
両親や美紀、そして秀人などに背を向け胸に抱いた秘密を見せないようにしながら生き続けてまで、自分は花を咲かせたいのだろうか?
そのことを考えた瞬間、今朝の両親の姿が現れ胸を締めつける。
(どうして二人共、あれだけ平然としていたの。まるで何事もなかったかのような顔して……私のことなんて、どうでもいいの? 私が思っているよりも、二人は私のことを思ってくれてなんかいなかったの?)
僅かの間、出雲が魔術的な何かを用いて二人の記憶を弄ったのではないかなどということを考えたが、すぐに首を振ってその考えを脳から弾き飛ばす。彼は確かに人間離れした空気の持ち主だ。だが……。
(あの人は人間だ。妖しい位綺麗で、怖くて、人とは思えない輝きを持っているけれど……妖怪とか幽霊とか、そんなものいるわけがない。桜町には妖怪の話とかが沢山残っているけれど、あんなもの全て作り話ですもの。魔法とか妖術とか、そんなものだって使えるはずがない。催眠術……って可能性がないとは言い切れないけれど……)
いっそそうだったら良いのにと願わずにはいられなかった。それならば両親が真紀に全然目を向けていないという最も恐るべき可能性が消える。
こんな調子で、三つの事項について延々と考えていた。そうして重い気持ちを抱えたまま歩いている内に気づけば真紀は教室にある自分の席についていた。皆それぞれ友達と楽しげに話している。麗しい、夢幻のような人に身も心も捧げなくても、自分の力で輝ける人達。皆のことが真紀は羨ましくて仕方がなく、そしてまた惨めな気持ちが湧き上がってきて心が震えて涙が零れそうになる。でも皆、そんな自分に目を向けやしない。彼等が非情だからではなく、自分がつまらない人間だからだ。友達と過ごす楽しい時間を割いてまで、石ころに目を向けるような奇特な人が一体どこにいる?
(やっぱり朝のあれは気のせいだったのかな……まだほんの少しも私は輝けていないのかもしれない)
それを思うとただただ悲しく、肩を落とす。
だが、それは全くの見当違いであったことを真紀は後に知ることとなる。
初めは二時間目の授業の後、休み時間のことだった。いつものように本を開き真紀は本を読んでいた。
読んでいた、というよりはただ開いていただけといった方がより正確であるかもしれない。本を読むことに集中していれば、色々なことを考えて苦しい思いをしなくて済むだろうと考えていたが、それは大きな間違いだった。本を開いても、全く集中できずいつも以上に紙に書かれた文字を拾えない。真紀が抱えているものは、ただ本を開いただけでうやむやに出来るほど小さなことではなかったのだ。文字は文字として認識されず、よってそこに何が書かれているのか全く理解できなかった。かろうじて拾うことに成功しても、頭に入っていかない。
考えたら駄目、本を読むことに集中しなくては、本を読め、読め……そう念じれば念じるほど本は読めなくなっていき、考えたくないことばかりを考えてしまう。本の力が心から必要になった時に限って、その力は発揮されなかった。
「何を読んでいるの?」
頭が今にも爆発しそうになっていた真紀は、始めそれが自分に向けられた言葉であるとは理解していなかった。
「西原さん、何を読んでいるの?」
その人が再度声をかけていなかったら、永遠に自分に話しかけてくれた存在に気がつかなかっただろう。真紀は自分の名前を呼ばれ、はっと顔を上げた。
自分の前にクラスメイトの女子が立っている。後藤という娘で比較的大人しく、図書室にいるのを何度か見かけたことがある。だが、喋ったことは殆どなく同じクラスであるということ以外の接点は皆無であった。
そもそも真紀は、相手から話しかけられた経験が殆どない。ましてや「何を読んでいるの?」という、連絡事項や重要なことからは程遠い、世間話的な質問をわざわざ真紀にしてくるような人など秀人や家族以外にはほぼいない。だから真紀はびっくりし、口をぱくぱくさせる。体は固く、頭は真っ白だ。
「あ、あの……えと……」
「え、あ、ごめん。いきなり話しかけて。……私本が結構好きで、何となく気になっちゃって」
真紀が返事も出来ず戸惑っている様子を見て申し訳なく思ったのか、後藤は何度も頭を下げる。それから彼女は真紀の前から立ち去ろうとした。
「違うの! ごめんなさい、待って」
それを真紀は少し大きな声で引き止めた。後藤がぎょっとした様子で振り向く。真紀自身も自分の口から出た大きな声に驚きつつも、本をたてて彼女にタイトルを見せる。この機会を逃したら、二度と彼女は自分に話しかけてくれないだろう。
後藤は、今真紀が読んでいる本(開いていただけ、というべきか)を昔読んだことがあるらしい。真紀は今日以前もそこまで真面目に読んでいたわけではなかったし、まだ途中までだったので作品の内容についてあまり喋ることは出来なかった。だが、短いながらも誰かとお喋り出来ただけでとても満たされた気持ちになる。
「……西原さん、前から休み時間の時はいつも本を読んでいた?」
「う、うん……時間を潰す為に。図書室にもよく行っていて……その、あの……後藤さんが図書室に入るのも何度か見たよ。すぐ近くのテーブルに座ることもあった」
「そうだったの? あれ、ごめん全然気がつかなかった……今までに西原さんが本を読んでいる姿を見た記憶がなくて、なんだろう……失礼なこと言って申し訳ないけれど、その……入学してから数ヶ月経った今日、初めて西原さんが本を読んでいる姿が目に映って」
今までは視界に入っていても、まるで認識されていなかったのだろう。多くの人に存在を気づかれないまま生きてきた、それが真紀だった。だが今日は違う。今日は少なくとも後藤は本を読む真紀の姿を認識した。あまりに希薄な存在に気がついてくれた。家族や秀人以外の人間が。それがあんまり嬉しくて真紀は胸や目がかあっと熱くなる。その熱は不快なものではなく。秀人が声をかけてくれた時と同じだ。
「気にしないで、全然失礼じゃないよ。ありがとう。あの、その……また声をかけてくれると嬉しいかな、なんて……ご、ごめんなさい、変なことを言って……」
恥ずかしくなって俯いた真紀に後藤が優しい言葉をかけてくれる。
うん、また本とかのことについて話そうねと……。後藤の後ろ姿を見送りながら、思う。
(やっぱり気のせいじゃなかったの? 私は今までの私とは違う?)
三時間目の授業が終わり、皆昼食を食べていた。真紀は相変わらず一人でぽつんと座ってお弁当を食べていた。だしで味つけされた卵焼きを口に入れていた時、耳にあの聞いただけでその性格の悪さが分かるような声が聞こえた。
「ねえ、あんな奴このクラスにいたっけ?」
真紀はどきりとした。意地の悪い、とても嫌な視線を感じる。それが気のせいでないことは、女王様の『オトモダチ』その一の言葉ですぐに分かった。
「西原さんでしょう? 今の今まで存在忘れていたけれど。入学当初からいた、ような?」
「マジで? え、全然気がつかなかったんですけれど! 居たって記憶が全然ないし。やだ存在感薄すぎ! 透明人間、ていうか幽霊? このクラス幽霊の生徒がいるとかマジやばい!」
意地の悪い、下卑た笑いが教室内に響き渡る。それに合わせて周りのオトモダチ連中も笑う。調子に乗った女王様はその後も「塩とか撒いた方がいいんじゃね?」とか「このクラスに幽霊退治が出来る霊能者はいませんか」などとわざわざ大声で言っていた。
その悪意の塊がずしりと真紀にのしかかる。朝のことをどうにか思い出さないようにして、割合美味しく食べていたご飯の味がしなくなっていく。耳も傾けてはいけないと思っても、その声は否応なしに入ってきて、体内に流れ込み、黒く染めていく。恐怖や嫌悪と共に悦びなども与えた出雲の輝きとは大違いの、ただただ忌々しいだけのものだ。
しかし真紀が彼女の悪意の標的にされたのは、自身が知る限り初めてだった。女王様も今日になって初めて真紀の存在に気がついたという風であったし。
(あの人の視界に入る位の存在感は手に入れたってこと……?)
誰かの視界に入るようになったらしいということは嬉しいが、あの人だけには出来れば気がついてもらいたくなかったと、彼女達の笑い声が改めて思わせた。気がつかれるということがもたらすのは良いことだけでないということは肝に銘じておかなくてはいけない。
(怖くない、あんな人……悪口を言うことしか出来ない人なんて、あの人に比べたら少しも怖くない、大したことはない……)
そう言い聞かせようとした結果出雲との間に起きたことをまた思い出してしまい、体が凍てつき固まる。また、弁当を作ってくれた母へ向けていた疑念が再び湧きだしたせいですっかり食欲はなくなってしまい、ご飯とおかずを少し残してしまった。
本を開いても、考えることは夜の川の底に沈みながら過ごした夜のこと、自分のことを心配した様子のない両親のこと。特に出雲のことを考える時は体が疼きなんともいえない気持ちになる。そんな風になる自分がなんだか恥ずかしく、誰にも見られたくないという気持ちになる。もういっそトイレにでも閉じこもりたい。
昼休みも半ばを過ぎたところで、また後藤が話しかけてくれた。色々考えていたせいでまたも上手く話せなかったが、一緒に次の授業が行われる教室まで移動できたことがたまらなく嬉しかった。そんな些細なことにでも喜べる位、自分は人と接していなかったのだと思う。
掃除の時も同じ班の人に話しかけられた。話しかけられたといっても、ただ掃いたゴミを捨ててきて欲しいという内容のものであったが、それでも今まではそうして何かを頼まれることさえなかったのだから大きな進歩である。
それから、放課後。その日真紀の所属している委員の人が臨時で集まることになっていた。同じ委員に所属している生徒は、まだ自分の名前を覚えていないだろうかと思っていたがこちらにも変化があった。
その人はまだ友達と喋っていたから、先に集合場所まで行こうと歩いていた。そして最後の階段に足をつけようとしたまさにその時、背後から自分の呼ぶ声が。振り返れば、あのいつも自分の名前を忘れる女生徒――名前を野原という――が立っていた。彼女は階段をとんとんと降り、ぽかんとしていた真紀の隣に立った。
「西原さん……でいいんだよね?」
彼女はとても不安そうだった。間違えていたらどうしよう、と思っているのだろう。真紀が慌てて頷くと、野原はほっと息をついた。
「良かった、合っていて。何か不思議。今まで全然覚えられなかったんだけれど、というかごめん、昨日まで本当、あの、あまりちゃんと把握出来ていなかった。何回聞いても覚えられなくて……顔もぼやけて。でも今日は違う。なんか西原さんの姿を見た途端、ごく自然に頭に名前が浮かんだというか、いや、ごめん、訳わかんないこと言っちゃって」
「ううん、いいの……いいの」
首を振りながら言ったその言葉に、どれだけの思いが込められていたのかきっと彼女は永遠に知りはしまい。委員会が開かれている間、真紀の心は弾んでいた。弾みすぎて熱を帯びていたくらいだ。
(昨日まで、ほんのひと握りの人以外は私に目を向けていなかった、名前と顔さえまともに覚えられていなかった……けれど、今日は違う。これもあの人のおかげ……)
昨日のことに対する恐怖や嫌悪もまだ残っている。それが完全に消える日がやってくるかどうかは分からない。だが、そんな思いを上回る程の喜びを真紀は得たような気がした。
(あれ程のことをしなければ、私はこうはなれなかった。これからもあの人と会い続ければ、もっともっと輝けるのかな。その為には、とても皆には話せないようなことをし続けることになるけれど……きっと、あの人の手をとったことで最後に得るのは破滅だけだろうけれど……それでも、求めてしまう。あの人と会わなくなったら、またすぐ今までの生活に戻ってしまうかもしれない。それが今はたまらなく怖い)
人と触れ合える喜びを得る為なら、何だって出来る。そんな気持ちになる。だがもうこれ以上出雲とは関わらない方が良いと思う気持ちも消えはしない。正反対の考えがぐるぐると回る。
(石ころから卒業する為の第一歩を私は進んだ。……このままあの人と会い続ければ、私はもっと変われる。変われば、花を咲かせてうんと輝けば……お父さんもお母さんも、私に何かあったら心配してくれるようになるかな……今朝みたいな態度、とられないで済むかな)
委員長などの話をまともに聞かないまま臨時の委員会は終わりを告げ、野原に色々と確認をしてから部屋を出た。足は図書室へと向かっていた。だが廊下を歩いている途中でふと立ち止まる。
(こんな自分を笹屋君に見せたくない……)
真紀はためらった。急に自分の体がとても汚らしく見え、彼の前にこの姿を晒すのは恥であると思い始める。けれど、ただの石ころから少しは人間らしくなった自分の姿を彼に見てもらいたいという気持ちもある。どちらを選ぶか悩ましく、唸る。しかしその間も真紀の足は動いており気がつけば図書室の前に立っていた。この体の奥の奥にいる『自分』は笹屋に自分の姿を見せることを望んでいたのだ。
三回扉の前で深呼吸し、唾を二回ごくりと飲み込み、それからがらりと扉を開ける。彼がどうかいませんように、という気持ちといてくれますようにという気持ちを半分ずつ持ったまま中に入ると、いつもの場所に座っている秀人の後ろ姿が見え、どきりとする。
ゆっくり、本当にゆっくり歩いて彼のついているテーブルまで行き、そしていつもの場所に腰かける。
真紀がやってきたことに気がついた秀人は顔を上げ、そして目を丸くし口をぽかんと開けた。彼は真紀の変化に気がついたらしい。驚きに満ちた瞳に見つめられ、じんわりと額から汗が出て、流れて。
からからになってしまっている喉を唾で無理矢理潤し、挨拶する。
「こ、こんにちは」
秀人は「えっ、あ……」とはっとしやや慌てた様子を見せながら頭を下げた。
「こんにちは」
気まずい沈黙がしばしの間流れた。何を喋るべきか、自分の姿を見て彼はどう思っただろうか、彼の目に映ったのはほんの少しの輝きと多くの汚れ、どちらなのだろうとドギマギしてしまう。胃も胸も痛く、いっそのこと口からそれらを吐き出してしまった方が楽なのではないかと思う位に。本を開く手は震え、開いてもやはりまともに物語が頭に入ってこない。気のせいか、秀人の方もそわそわしているように見える。
「あの、西原さん」
真紀は危うく悲鳴をあげそうになりながら慌てて顔をあげる。
「その、なんか……髪型か何か少し変えた?」
「え?」
「どこかが変わっているような気がするんだけれど、よく分からなくて……うん……髪型とかじゃなくて、何かこう目に見えない何かが変わった感じがして。ごめん、変なことを言って。あの、悪い意味で言っているわけじゃないよ。むしろ良い方に変わったというか。いつもより輝いて見えて……ごめん、本当自分でも何を言っているのかよく分からないんだ」
もう秀人の顔は真っ赤で、口はぱくぱく、まるで金魚だ。その姿が愛おしく、いつもより輝いて見えるという一言に胸が熱くなる。もしかしたら自分の顔も今、金魚のようになっているかもしれない。
「ありがとう。ちょっと、ちょっとね」
「やっぱり何かしたの?」
「内緒」
笑って言ったら、秀人も笑う。彼がそれ以上追求してこなかったことは大変ありがたかった。
なんだか彼の言葉を聞いた、それだけで体の内を占めていた重くて暗い気持ちが吹き飛んだような気さえする。なんて単純な人間だろうかと、自分で自分に呆れさえした。
それからはいつものように二人して読書を始める。時々言葉を交わしながら。静かな図書室に常にある空気と、秀人の放つ優しく穏やかな空気が真紀に心地よい時間を与えた。文字も頭の中にすんなり入ってくるし、嫌なこともあまり考えないで済んだ。今の自分を秀人に見てもらいたくない、という思いさえその時はなりを潜め。体を襲う痛みさえも、忘れていられた。
この時間を一番愛しく思う気持ちも、彼への思いも、たとえ輝きを手に入れ、花を咲かせ、多くの人と関わるようになったとしても決して変わりはしまい。そんな確信が今の真紀にはあった。
(どんどん変われば、笹屋君は今以上に自分のことを見てくれるようになるだろうか……)
そのことを強く考える。どうしてそこまで自分が彼にこだわっているのか、まだはっきりとは分かっていない。
花びらの海をたゆたうような、そんな心地よい時間を過ごし、図書室が閉まる時間まで残り僅かとなった。途端魔法が切れたように真紀は出雲のことを思い出す。今日もまた、彼の所へ行かなければいけないのだろうか。憂鬱な気持ち、望む気持ち。二つの気持ちを体内で争わせながら真紀は立ち上がる。笹屋に別れを告げて図書室を出た。
ぽかぽかしていた体が、そこを出た途端寒くなる。眠っていた重く黒いものが目を覚まし、訪れる苦しみ。
バスに乗っている間も、ずっとその調子で落ち着かない。昨日出雲の手をとることを決めたと思ったら、また今日になってどちらにするべきか悩んでしまう。けれど真紀には分かっていた。自分はこのまま真っ直ぐ家には帰らないと。
桜町に着き、バスを降りた時「西原さん」と声をかけられた。そこには秀人がいた。どうやら彼は真紀が図書室を出てしばらくしてから出、発車ギリギリのバスに滑り込んできたようだ。心ここにあらずな状態だった真紀はそのことに全く気が付かなかったのだ。
「西原さん、これ」
秀人が何かを差し出す。それはキーホルダーで真紀がいつもカバンにつけているものだった。カバンを見てみると、ついているはずのそれがついていなかった。
「図書室に落ちていたよ。ちょっと壊れているみたい」
「あ、ありがとう」
受け取ったそれは確かに壊れているようで、直さなければカバンにつけられそうにない。真紀はカバンの中にとりあえずそれを入れ、秀人にぺこりと頭を下げた。
それから家に(いや、公園か)向かって歩き出すと秀人も歩きだす。彼は真紀のすぐ近くを歩き、しばらくして改めて声をかけてくる。
「西原さん。……その、一緒に帰ってもいいかな」
え、と驚きの声をあげると秀人は頭と手を慌てた風に振った。
「いや、別になんか、その、他意はなくて、えと……なんかちょっと話しながら帰りたいなって。でも、変に目立ったら迷惑だよね? いや、そのさ、俺は、あの……西原さんとは性別とか関係なく気楽に話せて……変に意識することがないというか、あ、でも別に女の子として見ていないってわけじゃなくて、その」
あんまり必死で、あわあわしていて、顔は真っ赤で。その姿が愛しく、またあんまりおかしかったものだから思わず噴きだしてしまう。また、あの黒い気持ちが遠ざかっていった。
「ごめんなさい。あの、私もね、笹屋君とは普通に話せるというか……男の子だから恥ずかしいとか、あんまり思わないよ。なんだかその……自然と話せるというか。だから、いいよ。きっと大丈夫だよ」
公園へ、せめてあの公園に辿り着くまではほっと出来る時間を過ごしたい。少しだけ変わった自分ともっと一緒に居てもらいたい。真紀が歩きだし、秀人もまた歩き始めた。最初の内は二人してぺちゃくちゃ話すのが苦手だったこと、お互い遠慮気味であったころもあり、殆ど口を開くことはなかったが段々と盛り上がっていく。話は学校のことから本のこと、それから妹の話へと変わっていった。
「なんかさ、小さい子供ってどこでそんなの覚えたんだよって言葉を使いだすことがあるよね。この前さ、歩美がさ俺の食べていたお菓子をとって……それでこらって追いかけてやったら、あいつ何て言ったと思う? きゃっきゃと笑いながら三十六計逃げるにしかずって言ったんだ」
「え、ええ……!?」
その言葉は七翼シリーズでも使われていたものだったが、馴染みのあるものではないし、ましてや小さな子どもが使うようなものでは決してないはずだった。その他にも秀人は『やぶからぼう』とか『背徳行為』とか『五里霧中』とかそんな言葉を挙げていく。本当にどこでそんな言葉を覚えたのだろう、と思うようなものばかりだ。
そして真紀にも色々覚えがあった。
「確かにそれ分かる。本当色々なことを言いだすわよね。意味が分かっている時と、少しも分かっていないけれどとりあえず使うって場合と。美紀もこの前……」
つい最近のことだ。美紀は仲良し姉妹が出演しているTVを見ていた。お菓子を食べながらそれを見ていた美紀は時々真紀に話しかける。しばらく色々話してから、美紀は「自分も妹が欲しい」と言いだす。
――いいなあ、妹欲しいなあ私も――
――あら、美紀ったら私がいるだけじゃ嫌?――
――そういうわけじゃないけれど、でも、私もお姉ちゃんになりたいなあって――
妹や弟のいないこの位の年の子は、そうやって『お姉ちゃん』に憧れるらしい。確かに自分も一時期、妹が欲しい、妹が欲しいとずっと言っていたような気がした。その願いが叶ったのはそれから大分後のことであったが……。
――そっかあ。もし妹が出来たとしたら、どんな子がいいの?――
と聞いたら、可愛くってむにむにしていて、お姉ちゃんの言うことを聞いてくれて……と理想の妹像を語りだす。
――それじゃあ、名前は?――
――名前はね、ええとね……まき、みき、だから……今度はむき?――
――むきって……そんな名前ないわよ――
真紀は苦笑い。ま、みと続いているからお次はむ。あまりに単純な発想に力が抜けたが、そういう子供的な発想が愛しいとも思える。
――じゃあ、めき?――
――めきって何よ、めきって。何かが壊れる音じゃないの――
――それじゃあ、お姉ちゃんならどんな名前がいい?――
無邪気に尋ねてくる美紀のきらきらした瞳、その自分にはない輝きに導かれるようにして自身の劣等感が表に出てしまうのを抑えながら、名前を考えてみる。
真紀と美紀、共通しているのは『紀』だ。ならもしまた妹が出来たとすれば、二文字目はその字で決まりだろう。
――そうねえ……沙紀とか由紀とか……――
――さき、ゆき……さき、ゆき……――
ぶつぶつと真紀の挙げた言葉を呟いていた美紀は突然はっとしたような顔になり、何故か誇らしげに胸を張る。いきなりどうしたの、と聞いたら美紀は……。
――さきゆき! あのね、この前ね、さきゆきがふあんって言葉を覚えたの! ねえ、さきゆきがふあんってどういう意味?――
そのことを話したら、秀人がぷっと噴きだした。そりゃこうなるだろうと真紀は恥ずかしいとも思わなかった。自分だって秀人の立場だったらきっと同じように噴いてしまうだろう。細いがきつさや寝ぼけているという印象はない、優しい瞳が輝き、目尻は下がってますます優しげになる。派手ではなくあっさりさっぱりとした顔つきだが、真紀はそういう顔が一番好きだった。もっとも好ましく、ほっと落ち着けるものだと感じる。その顔と、彼のもつ空気が真紀に穏やかな気持ちを与えてくれる。面と向かい合って喋っても、それ程恥ずかしくはない。
「沙紀と由紀って名前から、先行きが不安って言葉を連想したのか。それもすごいけれど、どこでそんな言葉覚えたんだろうね」
「全然分からないの。どう説明しようか……悩んじゃった。小さな子って時々『これってどういう意味?』って質問をしてくるよね。答えやすいものもあるけれど、説明が難しいものだったり、あまり教えたくないようなものだったりして困っちゃう」
「それは分かる。俺もよく聞かれるけれど……小さい子にも分かる言葉で説明するのも大変だし、変な言葉はあまり教えたくないしで。本当、どうやって覚えるんだろう。自分にだって小さい頃があったはずなのに、思い出せない。まあ、子供って何も聞いていないようでちゃんと聞いているんだろうね。ドラマの台詞とか、大人の会話とかさ……それで、リズムが良かったものとかすうっと覚えちゃうんだろうな」
それからまた二人して美紀と歩美のことについて話しだそうとした。
この時真紀は、出雲のことなどすっかり忘れていた。自分がどこへ向かおうとしていたのかさえ。秀人が地雷さえ踏まなければ、真紀は彼と話している時に嫌な気持ち、苦しい気持ちになったりはしない。今回秀人は美紀、美紀、と美紀のことをあまり口にしなかったら気が楽で、だからいつも以上に盛り上がっていて心も弾んでいた。
(改めて思い知る。私は美紀と過ごす時間も大好きで、けれど、やっぱり一番好きなのは……)
永遠に続くだろうと思われた時間。だがそれは錯覚だった。夢は覚めるもの、楽しい時間は終わるもの。
真紀は急に全身が凍りつくのを感じ、立ち止まる。それは隣を歩いていた秀人も同じだった。二人の前に誰かが立っている。その人の作りだす影が、そうさせたのだ。
すっかり硬くなった首を無理矢理動かし、そちらへ目を向ける。
そしたら、嗚呼……そこにはあの、化け物であり月であり花であり氷であり悪魔であるあの人の姿があった。
「やあ、こんにちは真紀。待っていたよ」