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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
花咲く乙女
224/360

花咲く乙女(4)


 気がつくと辺りはもうすっかり暗くなっていた。公園の前を通り過ぎる者は誰もおらず、いやにしんとしている。

 ここへ来てからどれだけの時間が経ったのか、腕時計を持っていなかったし公園に時計は設置されていないから確かめようがない。恐らく隣に座っている出雲もそういう類のものは持っていないだろう。ベンチの傍らに設置されている灯りが不吉な音をたてながら明かりを灯している。その灯りとて一晩中ついているわけではなく九時か十時、その頃辺りに消えるのだろう。だとすればそれ以上の時間にはなっていないということになる。かといって六時、七時台であるとは到底思えない。肌で感じる空気がそれを感じさせる。

 極端に遅い時間ではなかったが、真紀を急速に不安にさせるには十分すぎた。何せ彼女は帰宅部である上に、普段殆ど寄り道などせず家に帰るような娘である。夜遅くまでこうして外にいることなどまずなかった。多くの人にとっては大した時間ではないが、そういう人にとっては十分すぎる程遅い時間のように思えてしまう。

 美紀に帰りが遅くなるかもしれないということを伝えはしたが、それでも不安で仕方がない。両親とて心配しているだろう。彼等は確かに美紀のことの方をずっと大切にしているが、自分のことを少しも考えない程冷たく薄情な人間ではないはずだ。もしかしたら今頃心配しているかもしれないと思ったら、たまらなくなってしまった。


 凍てつく風に吹かれて舞う枯葉はざわざわという音をたて、真紀の不安を煽ぐ。もう帰らなくていいの、帰らなくていいの、と囁いているかのようだ。深い闇が真紀の心臓を握る力をじわじわと強くしていく。

 ああ、帰らなくては。今の今まで空っぽだった真紀の頭は今、一刻も早くここを後にして家へ帰らなければという思いでいっぱいになっている。家族を心配させたくない、そう思った。ましてや夜遅くまで恋人でもない異性の人間と共にいるなど。

 だが自分が心から早く帰りたいと思う一番の理由は実際のところそれではないような気がした。一番の理由が何であるのか、奥底ではちゃんと分かっている。分かっているからこそ不安と恐怖に襲われ、帰りを急いているのだ。だが一方でその瞬間を待ち望んでいる自分もいた。その思いは更に奥の奥に隠れている。


「わ、私そろそろ帰らなくちゃ……」

 真紀はさっと立ち上がり、足早にそこから去ろうとする。だが直後出雲に手首をつかまれ、再びベンチに座らされてしまった。予想外の出来事に真紀の心臓がびくんと嫌な音をたてて跳ねる。彼の手は細いが、それでも真紀をベンチから離さないようにするには十分な力を秘めている。いや、真紀をそうさせているのは腕の力ではなく、彼の眼差しの妖しい輝きであるのかもしれない。

 夜になり、輝きがますます増しているように見える。いや、これこそが本来の彼なのだろう。昼の世界の彼は眠っていて、夜が訪れ月が空へ昇るのと共に覚醒した……そう思えてならない。ああ、彼は夜の住人だ、月に、闇に照らされてこそ彼なのだ。


「帰るってどこへ?」

 今なお真紀達の体に突き刺さる風よりも、もっと冷たく鋭い視線。息が思うように出来ず、口を開くのも一苦労したのは外も内も凍りついてしまったからか、それともその視線に心臓を突き破られたからか。

 出雲が真紀の手首をつかむ力を強める。その手に締めつけられているのは手首のはずなのに、何故か首を思いっきり締めつけられているような心地がして、たまらなくなる。


「あ、あの、その、い、家に」

 そんな状態でも一応の答えを出せただけ奇跡だったかもしれない。だがその答えで納得する彼ではないらしく、真紀を更に問い詰める。美しいその声は夜の闇によってますますその冷たさ、妖しさを増幅されており、ぞっとしたりうっとりしたり。


「どうして? どうして家に帰るの?」


「その、そ、そ、その……もう夜遅いですから。こ、これ以上いるわけには」


「どうして? どうして夜遅くなったら帰らなくちゃいけないんだい?」

 彼は心底不思議そうに尋ねた。早鐘を打つ心臓、その不安と恐怖と緊張の音は彼の耳にも届いているだろうか。

 

「夜は危ないですし、あ、あんまり帰りが遅いと両親も心配しますし……ま、周りの人に迷惑をかけてしまうことになるかもしれないですし……そ、それは不味いですから」

 面白くない、大変面白くない。そんな思いが真横にいる出雲の表情から感じられる。彼はその顔を真紀にぐっと近づけ、体をより密着させ、怒りと不満、それから侮蔑を含んだその瞳で真紀を見る。その目から視線を逸らすことは只の人である彼女には出来ず、震えながらもされるがままになっていた。


「くだらない、本当にくだらない。夜は危険だから早く家に帰らなければいけないとか、両親が心配するとか周りの人にも迷惑をかけることになるとか。そんなことどうだっていいじゃないか。真紀、私が最も輝く時間はね、これから訪れるんだ。そのより強い輝きで君を染めてあげる。奥の奥まで入り込んで……。ねえ、だからまだ帰るには早すぎる。これからなんだよ、真紀。それとも君は自分の花を咲かせることより、両親を心配させないことの方が大切だというの? まさかそんなことは言わないだろう。自分のことより、他人のことを大切にするなど、馬鹿馬鹿しいもの」

 真紀と出雲の体はぴたりとくっつき、隙間が見当たらない。悪魔の囁きは甘い花の香りがし、その言葉を紡ぐ赤い唇は真紀の頬につくかつかないかという位のところにある。吐息がかかる度、花びらのような滑らかさの見えざる手で体中撫で回される。その官能的な感覚に自分は身を固くさせているのか、それとも体蕩かせているのか、分からない。息が苦しく、荒い息になる。そこに重なるようにして聞こえる彼の息を吐く音……それを聞くと、ますます体に押し寄せるものが強く激しくなり、呼吸は荒くなり……。


「で、でも……や、やっぱり心配をかけるわけには。よ、夜遅くまで外にいたら……」

 息を吐きながらやっとのことでそう言った。早く帰らなければいけない、心配をかけたくない。

 いや、違う。分かっている。ここから早く逃げ出したいと思う一番の理由はそれではない。すぐ真横にいる出雲の、優しさという言葉を根こそぎ切り落とした状態の月を削り、丁寧に磨いて作られたような体が、妖しの花の雫で潤む瞳が、青い炎を灯した唇が、甘さを増した吐息が語っている。彼がこれからしようとしていることを。このまま彼に身を委ねれば、大切なものを失ってしまう。そしてもう本当に今までの自分には戻れなくなってしまうのだ。それを奥底で理解していたからこそ、真紀は必死だった。

 けれど、気弱な小娘一人が抵抗したところで何が変わるだろう?


 出雲はなおも真紀がそう言うのを聞いて、ますます冷たい視線で彼女を突き刺した。


「いいじゃないか、別に。ねえ真紀、君は花を咲かせたいのだろう。心から願っているのだろう? それなら、邪魔だ。そういうくだらない『決まり』や『常識』は。誰かが作った枠組みの中で、みんなと同じように、決められたように動くことは本当に美しい花を咲かせる為には不要なもの。不要どころか本当に邪魔だ。こうしなければいけない、ああいしなければいけない、そうやって色々抑えて本当の意味での自由を捨てることはね。それらは花を硬い殻で覆う。そしてその輝きを外へ漏らすのを阻害するんだ。そこらにいる娘達の輝きはね、本来のものではないんだよ。本当ならもっと輝いているのに殻のせいでつまらなくなってしまっている。まあもっとも、自由に生きていても汚い輝きしか放っていない花も多いけれど。特に今の時代はそうだね。汚らしいのに、無駄に主張する花。私の花とは大違いだよ、ねえ?」

 その花の輝きを死にそうになる位間近に、そして強く感じている真紀にはそのことがよく分かる。


(この人は自由に生きている。きっと自分が自由に生きる為ならその他一切のものを平気で切り捨てられるような人だ。自分が楽しむ為に他人を玩具にしたり、傷つけたりすることだって厭わない。自由で非情で冷淡で……けれどとても美しい)


「殻を破ってごらん、とても楽になるから。無駄なことを考えず、自分の思う通りに生きられる……ねえ、とては素晴らしいことなんだよ。両親のことなんてどうでもいいじゃないか、君より妹さんの方を大切にする人なんか。夜遅くまで外にいたら駄目とか、恋人でもない男と夜遅くまでずっと一緒にいるのは不潔だとか……そんな考えも捨ててしまえばいい」

 それでも首を縦に振らないのを見て、出雲は肩をすくめた。


「まあ、仕様がないね。一度作られた体を自分の力で破ることは難しい。鳥は自分の殻を自分で破らなければいけないけれど。……わたしが破るのを手伝ってあげよう。その邪魔な殻があると『私』を君の奥の奥……花の蕾までちゃんと届かせることが出来ないからね。今よりもっともっと君の奥深くまで入り込んで『君』を引っ張り上げて、殻を破って、閉じられた花弁を一枚一枚少しずつ開いてあげる。入り込んだ私がそうするだろう。そしてたっぷりとそこに『私』を染みこませて、立派な花にしてあげる……段々君は君じゃなくなっていく。それは怖いことではなく、喜ばしいことだ。君の体は変わる悦びにうち震えることだろう。ねえ、真紀だから帰っちゃ駄目だよ。他の人のことなど考えてはいけない。君は私におとなしくその身を委ねればいいんだ……」

 濃く甘い吐息が真紀の口の中へ入っていき喉を詰まらせ、彼の声が言葉が脳を侵して痺れさせる。

 意識は、そしてこれから起こるであろうことに対して感じている恐怖や嫌悪、殻を破ることを躊躇い、戸惑う思いも甘く滑らかな花びらに包まれていく。そうなるともう彼の言葉を拒絶することはおろか、頷くことさえ出来なくなる。

 何も答えることが出来ないまま、出雲の言葉をただ聞いている。


「何もかも捨てて、全てを受け入れればいい……」

 駄目押しするかのように、出雲は真紀の耳に唇寄せて囁き毒――麻薬を注ぎ込んでいく。その声を聞いていると、夜遅くまで帰らず両親を心配させることなど、どうでもいいことのように思えてくる。

 ああ、もう何もかもわからなくなって、何もかもどうでもよくなっていく。


「こんな所にいても仕方がない。桜山へ行こう。ここよりもずっと幻想溢れた場所だ。幻想は全てを曖昧にする。君の不要な考えも、怖がる気持ちも全部溶けてしまうだろうよ」

 桜山。頭にじんわりと響いたその名前は勿論真紀も知っていた。今は物寂しい山だが、春になると桜が乱れ咲き、丁度今出雲が放っているような甘い香りを漂わせて来る者を酔わせる。何度も真紀は花見に行ったし、小学校の時遠足でその山を上ったことがあった。夏には小さな祭があり、屋台がぽつぽつと並び、提灯が吊るされ夢のような淡い橙色の光を放つ。その祭の主役は、この土地の守り神として死後祀られた巫女と、祟りを恐れて共に祀られた、彼女と相討ちになった化け狐。彼等を祀った小さな神社で大人達は小さい頃遊んだという。

 確かにここよりはずっと幻想的な場所だ……真紀の脳裏に浮かぶ山の姿。

 気づくと真紀は出雲に引っ張られ、ベンチから腰を上げていた。そしてその手を握ったまま彼はすたすたと歩き、公園を出、桜山へと向かう。真紀はその手を振りほどくことはせず、いや出来ず、彼と共に歩いていく。


 氷を削り、磨いて作られたような月が空に浮かんでいる。それが溶け、絶えず滴り落ちる銀の雫が、世界の温度を冷やしていく。だが月はその形を変えることなく、夜の世界を闇と共に支配している。溶けかつ溶けず、ああ麗しの銀の月。

 その月の化身とも呼ぶべき出雲に真紀はひっきりなしに話しかけた。


「……出雲さんはこの町の人ですか」


「山の方に住んでいるよ」


「その……お歳は?」


「そんなものどうでもいいじゃないか。三十でも千六百でも」


「ご、ご家族はいらっしゃるんですか?」


「娘のような子と下僕のような子がいる」


「ど、どうして私の為に」


「親切心」

 そんな調子で、あまり詳しいことは語らず場合によってははぐらかされたり、無視されたりした。それでも真紀は馬鹿みたいに質問を繰り返す。話すことは苦手なのに口を開き通し開いていた。頭はぼうっとしたり覚醒したり、時々自分がどんなことを質問していて、彼がどんな風に返したかどうかも分からなくなる。もしかしたら言葉になっていない滅茶苦茶なことを言っていたかもしれない。挙句一人勝手に自分のことを延々と喋り続ける。

 どうしてこんなに必死になって喋り続けているのか。もしかしたら、これから起こるであろうことに大して抱いている不安や緊張感、恐怖などを喋り続けることによって紛らわそうとしているのかもしれなかった。


 白い手に引っ張られるようにして歩く真紀の目に、出雲の揺れる髪が映る。頭の頂きから腰にかけて真っ直ぐ、そしてさらさら流れる清らな水、夜の川。川の上を月光が踊り、白、銀、金、虹色に輝く。

 その美しい川に、思いっきり飛び込みたいと思う。だが飛び込めば一瞬にして体の全ての機能が停止し、そして二度と動きだすことはないだろう。美しの川は死の川。飛び込めば命はない。それでも飛び込まずにはいられないのだ。まあ、その川の源が出雲であることを考えればそれも当然のことだろう。


「あ、あの髪……とても綺麗ですね」


「どうも」

 真紀の言葉に対して喜んでいる様子はなく、随分と素っ気ない。自分の髪が美しいことは当たり前、だからそんな当たり前なことを言われても嬉しくもなんともないということだろうか。出雲は真紀の二つに結んだ髪の内のひと房に触れる。自分の綺麗ではない髪に彼が触れる、そのことが真紀にとっては恥ずかしいことのように思えた。


「真紀も私のように髪を伸ばせばいいじゃないか。今はぱっとしない髪だけれど、いずれは綺麗に輝くようになるはずだ。縛るのもやめたらどうだい? その方が開放感があって良いと思うよ」

 その言葉に真紀は頷けなかった。口の中でもごもご言っていると出雲が「何?」と訝しげな顔で聞く。


「あ、あの……その……似合いませんし、何より……あ、あのあまり髪伸ばしちゃいけないんです。校則で髪の長さが決まっていて……」

 多少の長さの髪なら縛れば問題ないが、出雲程の長さまで伸ばしたら恐らく縛っても色々言われるだろう。そもそもそう簡単にここまで伸びるとは思えないが。それを聞いて出雲の機嫌が再び悪くなる。


「また君はそういうことを。校則……決まりか。決まり、決まり、決まり、まったくもってくだらない。髪を伸ばしすぎてはいけない、ある程度伸ばしたら結ばなくてはいけない……そんなものに何の意味があるというんだい? 髪を短くしていれば良い子なのかい、髪が長い人は悪い子だというのかい? 髪の長さで君達は人の善し悪しを決めるというのか。本当にくだらないね。そんなもの、どうだっていいじゃないか、伸ばしてみなよ。とてもね気分が良いよ。伸ばして、解いて、君の全てを解き放ってごらんよ」

 それは確かにとても気持ちの良いことに思える。だが、そうしている自分の姿を想像できず、また本当にやりたいとは今のところ思えなかった。その思いが顔に透けて見えたらしい。出雲はため息をついた。


「やっぱりすぐには無理か。……まあいい、じきに面倒なことなど何一つ考えないで済むようになるだろうからね。大丈夫だ、私がそうさせてあげるから……」


 再び意識が遠のき、そして次に気がついた時にはすでに真紀は桜山の前にいた。目の前にそびえ立つ山ははまるで怪物、昼間の優しさはどこにもない。風が吹く度ざわざわと笑い、真紀を不安にさせる。

 出雲は迷うことなく桜山が大きく開く口の一つの中へと入っていった。嫌な空気がねっとりと絡みつくのを同時に感じる。

 彼も真紀も灯りは持っておらず、暗闇の中を歩くことになった。頭がぼうっとしている上に、前も後ろも上も下も殆ど見えないから危なくて仕方ない。途中何度も躓きそうになった。歩く度鳴るざわざわという音は、地に積もっている枯葉や落ちた木の枝か、それとも真紀の心がざわつく音か。

 一方彼女の手を引き歩いている出雲はといえば平然としていて、暗闇などものともしない。彼の目は闇の向こうにある世界をちゃんと見ているようだった。

 途中まで二人は登山道を歩いていたが、突然出雲はその道から外れ道なき道を歩き始めた。黒く染まった化け物の木々の間を縫いながら歩くことは途方もなく恐ろしいことであった。


 そうして進む内、真紀はある錯覚にとらわれた。まるで二人してこちら側から、こことは違う『向こう側』の――異界へと向かっている、そんな感覚。そしてこの道の向こう側まで行けば、もう引き返すことは出来ないのだ。

 それでも出雲の握る手を振りほどくことは出来なかった。無力であること以前に、この先にある新たな世界に行くことをどこかで望んでいたからなのかもしれない。


 やがて二人は開けた場所までやってきた。木々で囲まれたそこには草花が咲いている。月の雫に濡れた花々は昼には決して見せない、妖しく艶やかな姿を見せていた。その美しさに思わず心奪われる。


「美しいだろう、夜の花は。闇と月光を受けて輝く花は、昼とは別の姿を見せてくれる」

 その花々のような輝き、いやそれ以上に輝く美しい人。


「君もいずれ、こうなるんだ。妖しく美しい輝きを放つ花にね。その花は異質なものだ。他のものとは違う、その輝きはきっと君に新たな人生を授けることだろう。妹ちゃんとは違う花を咲かせよう。ここにある夜の花が、そして私が君の中へ入っていって、君の花を引っ張り上げて、くだらないことで作られた殻を壊して、花びらを開かせて、そこに色々なものを染み込ませて、美しく輝く花を咲かせてあげる。私達の全てが君を変えていくよ」

 出雲がその赤い唇を真紀の唇に重ねる。力が抜けていく、体が痛い程熱くなる。そして気がつけば真紀は草の上に仰向けになって倒れていた。自分の体と大きな空の間に出雲の姿がある。豊かな髪が体にかかり、突き刺すような冷たさと苦しさを感じる。まるで夜の川の底に沈んでいるようだ。口から吐いた白い息は泡沫となり、ぼうっと上ってぱちんと消えた。草や花の独特な匂いより、出雲の体が発する甘く蠱惑的な匂いの方を、草が肌をちくちくと刺す感覚よりも今自分の手首を掴んでいる出雲の花びらのような手の感触の方をより強く感じる。

 今この世界にいるのは彼と自分だけ。そんなことを考えた。だから助けは呼べない、呼んだところで意味はない。逃げも隠れも出来ない。もう終わり。


 それから先のことを、真紀は殆ど覚えていない。痛み、苦しさ、悦び、嫌悪感、罪悪感、恍惚、幸福、恐怖……あらゆるあまりに激しく強い思いに襲われた為だった。そのせいで頭は逆に真っ白で、何かを考えたり覚えたりする余裕など全くなかったのだ。

 それらに押し流された意識は真紀の手が絶対に届かない場所まで行ってしまった。



ぴい、ぴい、ぴい。可愛らしい小鳥のさえずりを聞いて真紀は目を覚ました。瞼は恐怖を覚える程重く、ただ少し開くだけでも随分苦労した。


(ここは……?)

 真紀は今自分がどこにいるのかさえ分からない位ぼうっとしていた。目にはしっかり風景が写っているし、ここが見慣れた場所であることも分かる。だがそこがどこであるのか全く浮かばない。


(私なんで今目を覚ましたんだろう……もっと眠りたいのに……)

 そのままぴくりとも動かず、幾らかの時間を過ごす。それからようやく真紀はここが自分の部屋であること、今日は学校がある日であることを思い出した。そのことを思い出した瞬間、真紀は数時間前に起きた出来事についても思い出した。


(そうだ、そうだ、私……!)

 がばっとベッドから起き上がる。頭が覚醒し、夜のことも思い出した途端全身が痛みを訴える。その痛みが罪悪感や恐怖を呼び覚まし、真紀はベッドの上で痛みとその思いに悶えた。


「私は、私は……昨日……」

 具体的なことは何も覚えていないが、何をしたかは覚えている。体が冷たくなったり熱くなったりを繰り返す。


(体は覚えている。けれど頭にその時の記憶は少しも残っていない。そもそも私は自分が家までどうやって帰ってきたのかさえ覚えていない。帰ってきた後何かあった? お父さんとお母さんはどんな反応をしていた? どれだけの騒ぎが起きていた? 覚えていない、何も、何も……)

 眠った自分を出雲が送ってくれたのだろうか。だとして彼は両親にどんな説明をしたのだろう。そもそもあれは夢だったのか、いや、夢のはずがない。全身がそう告げている。

 混乱しながらも真紀はとりあえず一階へ降りることを決めた。そうしないことには何も分からないし、学校へ行く準備も出来ない。学校を休むという選択肢もあり、本当はそちらを選びたいところではあった。気持ち悪いし、眠いし、何より汚れた自分を人の目に晒したくなかった。だが休むとなれば親に色々説明しなくてはいけない。嘘を突き通せる自信が真紀にはなかった。ならば血反吐を吐いてまで行くしかないだろう。


 だが真紀はなかなか一階へ行こうとしなかった。罪悪感がそうさせたこともあるが、何より彼等がどんな反応を示し、どんなことを言うのか、そのことを考えるだけで恐ろしかったからだ。


(どんなことを言われるだろう……怒られるよね、心配かけたんだから、当然だよね)

 彼等と会わずに済めばどれだけ良いだろうと考えたが、このまま部屋にいても話は進まない。とうとう真紀は意を決し階段を下りた。

 朝の日差しに包まれた自宅は優しい空気で満ちており、それに少しだけ気分安らぎ、楽になった。しかしリビングに入った瞬間胃がきりきりと痛む。リビングに併設されているキッチンで母は忙しなく動いており、庭へ続く窓のすぐ近くに置かれているTVを父が新聞を読みながら見ていた。いっそ二人共このまま自分の方へ目を向けないで欲しい、そう願った。

 だがその願い叶わずやがて顔をあげた母が真紀の存在に気がついた。気がつかれた、と思わず真紀は目をぎゅっと瞑る。耳も塞げればどれだけよかったことか。だが母の反応は意外なものだった。


「あら、真紀おはよう」


「え?」

 顔をあげると、母は満面の笑みを浮かべていた。テーブルの上にあったコーヒーカップを手にもった父もまた笑顔だ。


「おはよう、真紀」


「あ、え、うん、おはよう……」


「何ぼうっと突っ立っているの、ほらさっさと食べなさい。学校に間に合わなくなるわよ」

 真紀はしばし呆然とし、訳も分からないままふらふらとテーブルについた。コーヒーを飲み、新聞をたたんでテーブルの脇に置いた父が、彼女の顔を見て首を傾げる。


「どうしたんだ真紀、随分眠そうな顔をして。昨日はよく眠れなかったのか?」


「え、あの、昨日は……う、うん……」

 父はそうか、とだけ言うとコーヒーを飲み終え洗面所へ。間もなく母がトーストと目玉焼き、それから牛乳の入ったコップを持ってきて、最後に弁当箱を傍らに置く。


「あ、の、私昨日……帰り……」


「帰り? ああ別に気にしていないわよ。それよりあんた、弁当箱を洗うのはいいけれどもう少し丁寧に洗って頂戴。かなり汚れが残っていたわよ。というかいつの間に洗っていたの? 全然気がつかなかった」


「え?」

 平然とした顔で言われた想像もつかなかった言葉に真紀は唖然とした。母は彼女の顔を訝しげに見て、それから「さっさと食べちゃいなさい」とだけ言うとまた台所へと戻っていった。

 残された真紀は二人の言葉の意味を色々と考えなければいけなかった。二人が真紀を気遣っている様子はない。真紀がかなり遅い時間に帰ってきたこと、迷惑をかけたこと、それらの事実など最初からなかったような。


(な、何で……どうして? どうして二人共平然としているの? 確かに私は美紀に帰りが遅くなるかもしれないということを伝えさせた。でも、でも……帰りはちょっと遅くなるどころか……確実に0時は過ぎていたはず。もしかしたら朝方だったかもしれない。そうなれば普通は心配するはず……私が普段からそういう時間に帰るような人ならともかく)

 だが二人が真紀が帰ってこないことを心配した様子はない。周囲の人と協力してこの辺りを探した、ということもなさそうだ。


(じゃあ二人は全く心配しなかったってこと? あれだけ帰りが遅くなったのに? ううん、そもそも二人は私が何時に帰ってきたということさえ把握していない? だって遅くに帰ってきたことを知っていたら、あまり眠れなかったかなんて聞いてこないもの。もしかして私がただいまも言わず、帰ってくるなり夕飯も食べずにそのまま部屋に直行したと思っている? で、でも普通帰ってきたかどうか位確認するはず……え、え、どういうことなの?)

 混乱が不安や疑問を呼び、ますます頭をぐちゃぐちゃにさせる。ぐちゃぐちゃするあまり頭が痛くなった。


(まさか、私のことなんて本当にどうでもいいの? 他の人たち同様、あの人達にとっても私は路傍の石ころに過ぎないの? 美紀さえいれば、構わないの? 私に目なんて向けていないの? そんなはずない、幾らなんでもそんなこと……確かに美紀のことの方をずっと大切にする、するけれど、でも……)

 その疑問を払拭しようとパンをかじる。でも、味がしない。そのことばかりに意識がいき、他のことは何も考えられない。


(嘘、嘘、そんなはずない。違う、確かに私は出雲さんに家族の中でも自分のことを見てくれているのは美紀だけだと言った。でも、でも、あれだって心からの言葉じゃなくて……)

 涙が溢れそうになる。そして出雲のことを思い出したとたん、昨夜のことを思いだしたまらなく気分が悪くなった。

 結局食事はまともに喉を通らず、かなりの量を残すと震える声で「ごちそうさま」と言い、洗面所へ向かう。そんな彼女の耳に母の「大丈夫? あんたもしかして具合が悪いの?」という言葉は聞こえなかった。


 洗面所に行き、鏡を見た瞬間真紀は違和感を覚えた。目に涙を浮かべる自分の姿が、一瞬自分に見えなかった。顔のパーツが変わったとか、顔色が悪いとかそういうわけではない、だが何かがいつもと違う気がする。

 昨夜の、そしてついさっき起きた出来事に支配された体を掻き毟りたくなる衝動に駆られながらも鏡を見ている内、ようやくその変化がどんなものであるのか分かったような気がした。


(もしかして、少しだけ……私、輝いている?) 


 

 





 

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