花咲く乙女(2)
*
眩い日の光に刺され、重い瞼をゆっくりと開く。ろくに眠れなかったせいか、いつになっても起き上がる気にならない。自分の体温ですっかり暖かくなっている掛け布団に包まれ夢の海の中、ぼうっと漂っていた。それがたまらなく心地良く、全てを海に預けて漂う時間からなかなか抜け出せず。学校、朝食、時間……それらの言葉全てが彼女の頭から抜け落ちて、今は真っ白だ。
ああ、気持ちが良い。再び閉じようとする瞼。目を瞑ればもっと気持ちよくなれる、そんなことを思っていた。
しかしそんな時間も長くは続かなかった。
――君の花を咲かせてあげる……――
ぼうっとしていた頭に、昨日出会った男の冷たい声が一気に流し込まれ、ほぼ閉じた瞼の裏側を彼の姿が氷の炎で焼いたからだ。強烈なミントのタブレットを大量に飲み込んだとしても、これ程までに完全な覚醒に彼女を導くことは出来なかっただろう。
ばっと飛び起きた真紀は、頭の痛みに顔をしかめる。その痛みは急な覚醒によるものか、それとも氷と何ら変わらないあの男の声が流し込まれたことによるものか。
ほんの一時の間だけ気にならない位遠ざかっていた記憶。夢の様な現実。その現実の帰還が真紀を夢の世界から引っ張りあげた。
(昨日のあれは……夢なんかじゃなかったの……よね?)
右手で、冬のせいかやや乾燥した唇に触れる。途端あの男の唇の感触が甦り、真紀の体がびくついた。唇が、そして唇同様彼の色にすっかり染められてしまった口の中が熱くなる。その熱はやがて全身を伝い、真紀の呼吸を荒くする。
熱い、熱い、とても苦しい!
彼に唇を奪われた時の映像が繰り返し再生され、溢れる感情に叫びだし、そこらにあるものにあたりちらしたくなった。その身を満たしている、昨日の記憶に対しての思いは一体どんなものなのか自分でも判別がつかない。嫌悪か気恥ずかしさか、それとも……悦びか。
目まぐるしく動く瞳に時計が映り、はっとした。このままここで悶えていたら、学校に間に合わなくなってしまう。真紀は滅茶苦茶に暴れまわりたくなる衝動を無理矢理押さえ込み、ようやくベッドから抜け出した。それから一階のリビングで朝食をとる。ここで変な風になってしまったら両親に怪しまれるから、なるべく昨日のことを思い出さないよう努める。そのおかげで先程のようなことにはならなかったが、そちらに気を回しすぎたせいでご飯の味は全く分からず、そして気がついたら彼女は洗面所に立っていた。
(テーブルについてから、ここへ来るまでのことを全然覚えていない……)
歯を磨き、顔を洗う。目の前にある鏡に自分の姿が映る。誰の記憶にも残らない地味で、輝きのない顔。鏡に触れるとひんやり冷たく、指先の体温が瞬く間に奪われていく。その冷たさはあの男――出雲を思わせた。
(とても綺麗な人だった……怖い位に。綺麗なだけじゃない、あの人が纏っている空気は他の人のものとは違った。身の危険を感じる程恐ろしくて、そのくせどうしようもない程惹きつけられる。誰も、少なくともそこらにいる人間には決して抗うことの出来ない位強いものをあの人は持っているんだ。私とは本当、正反対だ)
あの人は毒を持つ花だと思う。その花に触れれば身を滅ぼすことが分かっていながら、触れずにはいられない。妖しく美しい花。
自分はすでにその花に触れてしまった。だからもう逃れられない。今日もあの公園で彼と会うか、それとも会わずにいるか――という選択肢も実質彼女には与えられていなかった。彼の申し出を拒むことなど、路傍の石、ただの小娘に出来るはずなどない。仮に「絶対に行くまい」と心に誓っても、最後には必ず自分はあの公園に足を踏み入れてしまうだろうと思った。
今日も同じように彼と会ったら、今度は何をされるのだろうと思うと不安だった。ただ和やかなムードで雑談して終わり、ということは決してあるまい。
(また、また昨日みたいに……)
冷たく滑らかな肌、細い手、夜の川を思わせる髪、そして艶やかな唇。その唇が、自分の唇に……。
生涯忘れることは出来ないだろう出来事に一瞬にして真紀の顔は赤くなり、全身が燃えるように熱くなる。再び思い出した感触。
「いや!」
思わず叫び、歯ブラシを立てているカップを手でなぎ払う。そんなことをしたところでどうにもならないのに。洗面所の前を通りかかった母が「何やっているの!」と叫んでくれなければ、自分の感情を抑えきれず滅茶苦茶に暴れていたかもしれない。真紀ははっと振り返り、それから作り笑いを浮かべてみせる。
「む、虫がいたの。それでそれを追っ払おうとして」
母はその言葉を疑うことなく、ああそうとだけ言うとそこから離れていった。
ほっと胸を撫で下ろし、それから自室に戻って制服に着替える。触れた頬はまだ熱く、心臓は高鳴っている。
(奪われたのは唇だけのはずなのに。それ以外の、もっと大切なものも奪われてしまったような気がする)
それは例えば、純潔などと呼ばれるようなもの。ただ一度の口づけに、自分の体が彼によって犯されたような気がして、身震い。しかしそのことに対して抱いている感情が何であるのかは判別出来なかった。抱いて当たり前の感情を抱いているような気もしたし、有り得ない感情を抱いているような気もした。
複雑な感情を飛ばそうと両頬を叩き、カバンを持って家を出た。しばらくは徒歩、それからバスに乗って隣街にある高校を目指す。窓の向こう側にある、大して面白くない風景を眺めて気を紛らわそうとしたが、そんなものでは昨日の思い出は忘れられない。せめて友達でもいれば、楽しくお喋りをして色々なことを考えずにいられたかもしれなかったが、生憎彼女にはそう呼べるような人がいなかった。
幼い頃は今よりもまだ明るく、口数も多かった。友達と呼べるような存在が少しもいなかったわけではない。しかし折角作った友達は、気がつくと真紀から離れている。嫌われた、というよりは忘れられていったという方が正しいのかもしれない。その原因は性格が悪かったからとか、付き合いが悪いからとかそういうものでは無いように真紀には思えた。どうして皆離れていったのか、何となく見当がついている。……彼女にはおよそ人を惹きつける力が無かったのだ。言葉や表情、行動、オーラ等あらゆるものに魅力というものが無い。そのことは本人が一番よく分かっていた。それゆえ人の記憶に残り辛く、結局友達の関心は他の友達の方へより向けられ、いつの間にか存在自体忘れ去られるのである。人を惹きつける、という才能にとことん恵まれずかといってそれらを改善する術も分からず、こうして今まで生きてきた。
人と関わる機会はぐんぐん減っていき、また真紀自身も離れられ、忘れ去られることを恐れて自分から人と関わろうとしなくなっていく。そうするとますます人と関わる機会は減り、人と話す力や人との関わり方も分からなくなっていった。その結果、今や人と話すことも人から話しかけられることもすっかり苦手になってしまった。
吊り輪を握りしめて立っている真紀の周りは、喋り声でいっぱいだ。皆楽しそうに思い思いのことを話している。うるさい位賑やかで、それが羨ましくて仕方無い。彼等は少し手を伸ばせば容易に触れられる位の距離にいる。だが真紀には自分と彼等の間にある距離が、地上と空程もあるように思えてならない。
バスから降り学校へ行くまでの間も、学校に着いてからも真紀は一人だった。
朝のHRが始まるまでの間、皆ぺちゃくちゃ喋っている。あれだけずっとしゃべり続けていて、よく話のネタが尽きないものだなと真紀はいつも思う。思う一方で、ああなんて楽しそうなんだろうと羨ましく思っていた。彼等は輝いているから、お互いの姿を認識出来る。だが輝きを一切もたない彼女は誰にも認識されない。認識されても、結局すぐ忘れ去られていくのだ。
ある輪の中心にいるクラスの人気者である男子と、女子に目をやる。彼等の輝きの何と美しいことか! あんな風になれたら人生どれだけ楽しいだろうといつも思う。そんな風に羨ましがられていることなど、彼等は露ほども知らぬだろう。そもそもこのクラスに西原真紀という人間が在籍していることすら知らないかもしれなかった。彼等と言葉を交わしたことなど一、二度あるかどうかだろうから。
(同じ委員会に入っている人にさえ、名前を覚えてもらっていないような人間ですもの。何度か話したり、月一の委員会の集まりの時に隣の席に座っていたりするっていうのに。あの人に何度私は自分の名前を教えただろう?)
それを思い、ため息。考えれば考える程惨めになるだけだと頭を横に振り、朝のHRを終え、それから出雲の顔を時々思い浮かべ、その度襲いかかる様々なものに耐えつつ授業を受ける。授業中、指名されることは殆どない。以前つい居眠りしてしまったことがあったが、先生も生徒も誰も真紀を起こしたり注意したりしなかった。つまり誰も彼女に関心を向けていない、ということだ。
休み時間は本を読んで時間を潰す。お気に入りの作家、作品が皆無というわけではないが、別段読書が好きということもない。ただ何もすることが無いから読んでいるだけなのだ。どんな本を読んでいるの、と話しかけてくる人もいない。
「あいつさ、まじむかつくよね。私頭いいでしょアピールっての?」
「分かる分かる! お前のそんなアピールなんて誰も見ていないっつうの!」
「こっちのこと馬鹿にするしさあ。そりゃ頭は悪いけれど、友達は私達の方が多いよね。勉強ばっかりで他のことおろそかにしていたら、ぼっちになって将来一人寂しく野垂れ死に!」
「ていうか、もうすでにぼっちじゃん?」
「あ、そうだったそうだった!」
本を読んでいる真紀の耳に、女子数人が悪口で盛り上がっているのが聞こえる。彼女達がむかつくと言っているのはどうやらこのクラスの委員長のようだ。自分の頭がいいことを鼻にかけているようなところが確かにある人だ。そんな人がどうしてこの、別段レベルが高いわけではない高校に通っているのか謎であるが。
彼女達はわざわざ本人に聞こえるように喋り、悪意の塊とも呼べる笑い声をあげている。そのグループの中心にいるのは我侭で口から出るのは悪口ばかりの人だ。彼女は自分が委員長など比ではない位皆から嫌われていることを知らない。今自分と話している少女達も、陰では彼女の悪口を言っているのだ。
そんな彼女に悪口を言われた記憶は真紀にはない。彼女は本人に聞こえるように悪口を言うのが好きな人間だ。だから恐らく彼女は真紀の悪口などほぼ言ったことが無いのだろう。
(多分視界に入っていないんだ、彼女の。その方が嬉しくはあるけれど……)
路傍の石のままは嫌だが、変に視界に入って嫌なことを言われるのも遠慮したい。しかし誰の視界にも入らず、誰にも触れられないことは大変寂しい。
(誰とも、一切関わっていないといえば嘘になる……)
真紀は文字を指でつつうっとなぞる。放課後になればまた『彼』と会えるだろうか、と少し期待する。家族を除けば、今思い浮かべているその人だけが自分と関わりをもとうとしてくれている。
やがて次の授業が終わり、昼休みに入った。皆机をくっつけたり、教室を移動したりして友達と喋りながらご飯を食べる。パンを買うのも誰かと一緒で、あれ食いたい今日はこれがいいなどと言いながら購買を目指すのだ。勿論――そんな単語がついてしまうのは誠に残念なことであるのだが――真紀は一人で弁当を食べる。一緒に食べようと誘ってくれる人もいないし、あの人また一人で食べているよと嘲笑する人もいない。誰も彼女の存在に気がついてなどいないから。寂しい、という感情を忘れることもある位にはこの日々に慣れてしまっている。慣れて、諦めて、それでもまだ焦がれる思いも無くしていない。
(私って透明人間なのかも……そこらに転がっている石と透明人間、どちらがましかな?)
弁当箱をつつきながら思い浮かべるのは出雲の顔だ。彼は自分のことを石ころだとか、透明人間だとかそんな風に思ったことなど一度もないだろうなと真紀は思う。産まれた時からずっとああで、そしてこれからも変わらず毒の花を咲かせ続けるのだろう。
しかし考えれば考えるほど彼が人間であることを信じられなくなっていく。
あのような人が人間であるならば、妖怪や幽霊といった化け物だって人間になってしまうのではないかと思う。
(あれ程までのものを、人間はもてるのかな……妖怪ですって言われてもすんなり信じちゃうかも。勿論そんなものがいるわけないけれど)
そんな彼と今日またあの公園で会う。もうそれは決まっているのだ。会ったら今度は何をされるのか、それを考えようとしただけで寒気がし、心臓が早鐘を打つ。怖くて仕方なく、だが一方で彼と再び会うことを待ち望んでいる自分もいた。それは彼の放つ毒混じりの魅力ゆえか。
恐怖を振り払うようにご飯をかきこみ、読書をして昼休みを過ごし、午後の授業も終え気がつけばあっという間に放課後になっていた。真紀は少し前に起きた出来事を思い出し、静かにため息をつく。彼女が四時間目の授業があった理科室に落としてしまったプリントをクラスメイトの女子が拾った。それを彼女は真紀へと返してくれたのだが……。
――西原さん、西原さん――
突然教室へ戻った自分のことを呼ぶ声が聞こえ、慌てて立ち上がった真紀と名前を呼んだ女子の目が合った。その時彼女は小さな声で「ああ」と言ったのだ。その直後一瞬彼女はしまったという顔になり、妙にテンションの高い声で「これ理科室に落ちていたよ」と言って真紀にプリントを渡すと逃げるように彼女から離れた。
彼女は悟られていないと思っているかもしれないが、真紀にはちゃんと分かっていた。彼女はプリントに書かれていた『西原真紀』という名前の人物の顔を覚えていなかったのだ。仕方なく西原さん、と大きな声でその名を呼び『西原真紀』が反応するのを待っていた。そして真紀の彼女を見て「ああ、そういえばそうだ、西原さんってあの人だ。確かにクラスにいたわこんな人」というような反応を見せたのである。これがまだ入学早々ならともかく、今はもう十二月。
(こんなに経ったのに、まだ顔と名前を覚えられていないなんて……)
改めてその現実をつきつけられた真紀はショックを隠せない。しかも渡してくれた生徒とは何度か言葉を交わしたことがあったのだ。
心が沈んだまま一階にある図書室へと足を運ぶ。なるべく静かにゆっくりとドアを開けて中に入ると、本や床に敷かれたカーペットの匂いがした。何とも表現しにくい独特の匂いだが、真紀はそれが嫌いではなかった。部屋の右側には本棚がずらりと並んでおり、左側にはテーブルやソファが置かれている。人は殆どおらず、心地良い静寂が真紀を優しく撫でた。
真紀はいつも一番奥にあるテーブルに座る。座る椅子は四つの内、正面から見て左のもの。テーブルに触れると、窓から差込む太陽の光に温められたのかほのかに温い。夏になるとそこは温いを通り越して熱くなる。そんなテーブルの上に本を広げて静かに読み始めた。
しばらくして誰かが椅子を引く音が聞こえ、顔を上げる。自分の斜め左にある椅子の横に一人の男子生徒が立っていた。その姿を認めた真紀はぎこちなく微笑んだ。それに相手も返し、微笑んでぺこりと頭を下げる。
「ごめん音立てちゃって。邪魔しちゃったかな」
「ううん、大丈夫」
首を横に振ると彼はほっとしたような顔つきになり、それから静かに座って本を開く。
彼こそが家族以外で唯一自分とまともに関わってくれる『彼』である。名前を笹屋秀人といい、真紀同様桜町で暮らしている。といっても昔からいたわけではなく、つい数ヶ月前引っ越してきたばかりだった。父親の仕事の都合らしい。職場自体は三つ葉市にあるが、賑やかで大きな町を両親共(秀人もそうらしいが)好まない為わざわざ桜町に引っ越してきたそうだ。
彼はやや細めの目で文字を追い、細い手でページをめくっていく。彼は真紀とは違い読書が三度の飯より好きであるらしい。確かにひょろりとした、いかにもインドア派な容姿である。真紀は本を読むフリをしながら、ちらちらと彼の方へ目を向ける。彼はいつもとても穏やかな表情で本を読む。誰にも穢すことの出来ないその顔は神秘的で、本を読む彼の姿は『奇跡の風景』に見えてならない。ただ見ているだけで心洗われ、その顔を眺めていると路傍の石ころがどうとか、花がどうとかあれこれ考えることがとても馬鹿馬鹿しく思えてきさえする。
「西原さんは今、何を読んでいるの?」
秀人が目を本に向けたまま尋ねてくる。
「えと……これ」
真紀は本をたて、そのタイトルを彼に見せてやった。顔を上げてそれを見た彼の目が輝く。
「あ、それ俺も読んだことがある。面白いよね」
その言葉に真紀は曖昧に微笑んで答える。彼のように本を『読んでいる』のではなく、ただ『文字を追っている』だけでストーリーなどはろくに頭に入っていなかったからだ。だがそんなことを本を心から愛する少年に言うなどとても恥ずかしくて出来ない。その恥ずかしさをごまかしたくて、真紀は笹屋君は何を読んでいるのと尋ねてみた。彼は本を真紀と同じようにたて、タイトルを見せてくれた。見慣れぬタイトルと見慣れぬ作家の名前(実は結構有名な作品、作家だったのだが、本に関する知識など殆どない彼女にはぴんとこなかった)だ。もう何度も読み返している本であるらしく、気に入ったセリフは諳んじることが出来るそうだ。彼は本のことを喋っている時、本当に表情が生き生きとしている。その顔を見ていると、自分の心までうきうきしてくる。そんな彼は何か思い出したのか「あ」と声をあげる。
「そういえばさ……『七翼シリーズ』の最新作、三月に出るらしいよ」
「本当!?」
それを聞いた時、思わず真紀は身を乗りだした。声も少し大きくなっていたが、そのことには気がついていない。笑いながら頷く秀人。
「前読んだ雑誌に書いてあったんだ……あらすじとかはまだ分からないけれど」
「まあ……やった、嬉しい」
それは心からの言葉だった。真紀が唯一好きで、文字を追うのではなくちゃんと『読んでいる』作品というのがその七翼シリーズというものだった。小さな村に住んでいた娘が主人公で、ある力に目覚めたことから世界の崩壊を防ぐ為の旅に出る――といった話だ。七翼、というのは主人公の武器となる杖のデザインからとった名前であり、また彼女が旅先で出会い仲間となる、特殊能力をもつ七人の男女のことでもある。たまたま目に入り、読んだところすっかりはまってしまい、あっという間に全巻揃えてしまった。真紀にとってはやや難しい文体だったが、それでも読める位物語の世界に引き込まれたのだった。
そしてこの七翼シリーズが真紀と秀人を引き合わせたのだ。二ヶ月程前、七翼シリーズの四巻を真紀が落としたのを、秀人が拾ってくれた。秀人はその本を見るなり「これ、好きなの?」と声をかけてきた。真紀がどぎまぎしながらそうだと答えたら、彼は自分もこのシリーズが大好きなのだと言い、それから二人してこのシリーズについて色々語ったのだ。お互い語る程好きでなかったら、今という時間は存在していなかっただろう。
「前回かなり気になるところで終わったからね、早く読みたい」
「私も、読みたい。……三月が楽しみだな」
秀人は笑って頷くと再び読書を始める。真紀もまた本に目を落とした。
二ヶ月前に出会ってからというもの、秀人は時々真紀と同じテーブルにつくようになった。隣や真向かいには座らず、必ず斜向かいに。最近はここへ来た時はほぼ必ずそこに座るようになり、言葉を交わす頻度も増えた。彼はお喋りな方ではなく、うっとおしく思う程話しかけてくることはない。時々短い会話をして、読書して、また少しだけ小声で話して……を繰り返す。挨拶以外の言葉を交わさないこともまあまあある。
真紀と秀人、二人のことをからかう人間は誰もいない。男と女が同じテーブルについて、仲睦まじく喋っていても。その理由はこういう場面を見るとすぐからかうような人間はまず図書室を訪れないから……というものだけではなく、真紀と秀人の存在感が薄いせいでもあった。秀人もまた地味で目立たぬ存在である。それでも真紀よりはずっとましで、友達も何人かいるらしい。真紀と彼との間にもまた絶対的な距離があるのだった。
「……歩美、昨日も美紀ちゃんのことを話していたよ。美紀ちゃんが友達になってくれてとても嬉しいって」
美紀。その名前を彼の口から聞いた時、真紀の胸がちくりと痛んだ。美紀というのは真紀の十も歳が離れた妹。歩美は秀人の妹で、美紀とは同い年。そして美紀と歩美は今大変仲良くやっているようだ。そもそも美紀は誰とでもすぐ仲良くなれるような子だった。美紀と歩美が友達同士であることは色々秀人と話す内に知ったことだ。
「美紀、何度か笹屋君の家に遊びに行っているんだっけ」
「うん。よく遊びにくるね。とっても良い子だよ、彼女。それに明るくて元気いっぱいで、何か向日葵の様な子だなって思った。ってこれはいつも言っているけれど。何か人を惹きつけるエネルギーの塊みたいな子だよ……歩美は引っ込み思案で、引っ越す前は友達が出来るか不安がっていて、引越しなんてしたくないなんて言っていたけれど……美紀ちゃんのお陰で他の子とも仲良くなって、今はこっちで暮らす方が楽しいと言っている位だ。本当美紀ちゃんには感謝しているんだ、俺」
妹思いの優しいお兄ちゃん、きっとその言葉に嘘偽りは無いだろう。だが真紀は素直に彼の言うことを喜べなかった。
(笹屋君まで美紀、美紀って……あの子に会うと皆美紀のことを色々言わずにはいられなくなるんだ)
脳裏に浮かんだ妹の屈託の無い笑顔に、胸がずきずきする。
(つまるところ、笹屋君がこうして私によく話しかけてきてくれるのも……お礼が目的なのかも。美紀のお陰で妹の歩美ちゃんが新しい町での暮らしを楽しんでいるからって……だから西原さんと俺も仲良くしてやるんだ……って。ううん、まさかね。でも、そうでなかったとしても……純粋な好意で、とかじゃないんだ……きっと。一人ぼっちで、透明人間みたいに存在感の薄い私を哀れんで、色々気を遣ってくれているのかも)
そうでなければ、一体誰が自分のような石ころと毎日のように話してくれるだろう?
彼は自分とは違い、石ころなどではない。少し近い位置にいるけれど、でも、遠い。
友達とも同志とも呼べぬ人。どういう関係かと問われても困ってしまうような間柄。強いて言うなら妹同士がお友達、七翼シリーズが好き同士といったところか。それを思うたびいつも真紀は悲しくなる。この優しく穏やかな時間を悲しい気持ちで過ごしたくない、だからなるべく考えないようにしているのだが、美紀の名前が出るとどうしても考えてしまう。彼女の名前は、そして彼女の存在はいつだって真紀を惨めにする。
気分が落ち込むと、少しの間だけ忘れていた出雲のことをまた思い出してしまう。この後あの公園で彼と再び会わなければいけないのかと思うと、ますます気分が重くなる。いっそこのまま秀人と穏やかで春の昼のように暖かな時間をずっと過ごせればいいのにとさえ思った。
それでも、時計が進む以上時もまた進む。時が進めば、終わりも来る。秀人が立ち上がった。もう帰るらしい。
「それじゃあね。……あの何か浮かない顔をしているけれど、大丈夫? もしかして、その、毎日のように俺がここに座るの……本当は」
「ううん、そんなことない。そんなことないよ。ごめん、ただちょっと眠くて変な顔していただけだと思う……」
ぎこちない笑みを浮かべて言えば、彼は不安そうな表情を変えぬまま「そう……」と返し、それから真紀に手を軽く振って図書室を後にした。そして真紀は再び一人ぼっちになった。
寂しさをその胸に抱きながら真紀もその数分後図書室を出て、家へと……その前にあの出雲という男が待っているだろう公園へと向かって歩きだすのだった。