第四十五夜:花咲く乙女(1)
流血描写や、R15とまではいかないかもしれませんが性的な描写を示唆する表現が出てきます。苦手な方はご注意ください
昔、桜村に一人の娘がいた。娘はぱっとしない容姿で、これといって秀でた部分もない、地味で目立たぬ人間であったそうだ。特別嫌われもしなかったが好かれもしない、路傍の石ころのような娘だった。
そんな彼女だったが、ある時から雰囲気ががらりと変わった。
『花咲く乙女』
冬の色に塗られた街の中を、紗久羅は不機嫌そうに歩いていた。足音もどこか騒々しく、時々吹く冷たい風の音にも負けてはいない。
家を目指して歩いている彼女が今不機嫌なのは、クラスメイトである吉田霧江が原因であった。彼女が今日の放課後、女子数人相手に得意げになって話していたこと……それが紗久羅を嫌な気持ちにさせたのだ。楽しげに「怖いわよねえ」と言っていた彼女にも、その話を面白半分に聞いていた女子達にも無性に腹が立った。奈都貴や、その場にいた桜町出身である女子生徒数名も不快感を露にしていた。
彼女の脳裏に、一人の女の子の笑顔が浮かぶ。真っ赤なほっぺが愛らしい女の子。誰からも好かれていた女の子。
――……おねえちゃん、おねえちゃん――
その声を紗久羅は今でも覚えていた。そして彼女のことを思い出すと、ますます霧江と、面白半分に話を聞いていた女子達のことが憎らしくなった。
ああ、くそ! とその辺にあった石ころを蹴飛ばす。石は一瞬宙を舞い、それからすぐぽとりと落ちてこつこつ音をたてて跳ねる。それを見てから紗久羅はため息をついた。
(あいつらのせいで、嫌なこと思い出しちゃったな……)
小さな女の子が不安げな表情で言った言葉が脳内で再生される。ここまで覚えているか、という位はっきりと覚えていた。
――……かぐやひめみたいになっちゃったの。だからね、なんだかね、ふあんなの。いつかおつきさまのところにいっちゃうんじゃないかって……――
その話を聞いた時はあまり意味が分からなかったが、何年か経ってからようやく何となくだが分かった。だが、分かった時には何もかも遅かった。その言葉を聞いた時すぐ意味を理解したところで何が出来たわけでもないのだが。
(一体何で……)
腹立たしい気持ちから、悲しく苦しい気持ちへと変わっていき憂鬱になる。
気分が沈んで、重くて冷たいものが腹の底にたまって、痛くて冷たくて気持ち悪くて仕方が無い。
空を見上げると、一瞬銀色の丸い月が見えたような気がした。だがそれは見間違えで、そこに浮かんでいたのは白い太陽だった。
(ったく、思い出させるなよな……くそ)
霧江の発した笑い声に似た風が、紗久羅を撫でた。
*
かさり、という渇いた音が冬の道に空しく響く。アスファルトの上ですっかり枯れた葉っぱが眠っている。時々吹く風に目を覚ましてはけだるげに歩いたり、飛んだり。その上を西原真紀は一人とぼとぼと歩いていた。ひゅう、と音をたてて吹く風に身を震わせ「寒いねえ」と言い合えるような友達はおらず、ましてや手を繋いでお互いの温もりを確かめ合う……恋人などいるはずもなかった。ほう、ほうと吐きだされる白い息をただ見つめること位しかすることはない。
買い物袋の入っている籠が前についている自転車を漕ぐ中年のおばさん、犬の散歩をしている小学生位の少女、えらく不機嫌そうな表情を浮かべながら歩いている、自分と同じ高校一年生位かと思われる少女などとすれ違う。その少女とすれ違った直後、ころころとんという音が聞こえた。どうやら石を蹴飛ばしたらしい。石が蹴飛ばされているのを見たり、その音を聞いたりすると、まるで自分が蹴られているような気がして胸が痛む。
路傍の石ころにシンパシーを感じてしまう自分を恥ずかしく思った。
ご飯を食べて、宿題やって、お風呂に入って、寝る。そしてまた次の日学校へ行き、授業を受けて、帰る。振り返る価値もないような毎日を延々と繰り返す。
水色の空は、少しずつ暗くなっていく。冬は本当に日が沈むのが早い。その空を何とはなしに眺めていると、楽しそうにお喋りしながら歩く女子高生二人に追い越された。彼女達は路傍の石ころなどでは決してなく、世界を彩る花のように華やかだ。自分とは大違いだな、そんな思いがふと頭をよぎる。
(……石ころは花を咲かせられない。どれだけ羨ましがっても無駄なのに。馬鹿だな、とっくに諦めているはずなのに。時々、もしあの子達のようになれたらいいなって思ってしまう。結局、諦めきれていないのかな)
冷たい風が束ねた髪を乱し、体を通り抜け、心に突き刺さってそれを凍らせ、スカートをばたばたとたなびかせた。枯葉がざわつきながら舞い上がり、真紀をぺちぺちと叩く。
ふと真紀はすぐ左手にある公園に目を向けた。遊具が申し訳程度にちょこんとある程度の、小さく寂しい公園である。そんな公園でも普段は子供達がきゃっきゃと言いながら遊んでいるのだが、今日はいやにしんとしていた。その静けさにどういうわけか胸騒ぎを覚える。
正面奥、ずらりと並ぶ木々の前にある青いベンチに誰かが座っていた。今公園にいるのはその人物だけであるらしい。
ざわ、ざわざわ……その音は木々についた葉やそこらに落ちている枯葉が出しているのか、それとも真紀の心臓、或いは心が出しているのか。目の前にある公園が、今の彼女には妖怪等の化け物が住まう異界に見えた。そしてその世界の中心にいるのは、ベンチに座っている人物で。彼の者の存在そのものが寂れた公園をそんなものに変えてしまっているのだ。その人を見ていると、氷の手で首を絞められたようになって、苦しく、冷たく、熱い。一体何故そんな風になるのか、初めての経験にがくがく震える真紀の両足。
怖い。真紀の心が、体が、脳が「怖い、怖い」と叫んでいる。その叫びが膨らんで爆発し、今にも自分の体を弾けさせてしまいそうだ。悲鳴をあげる心臓。
ああ、ここから一刻も早く離れなければいけないと彼女は思った。真紀は急いで震える足を動かす。
(あれ、何で……何で、私)
ところが彼女の足は公園から離れるどころか、逆に公園の出入り口へと向かっていった。ゆっくりと進む足が公園外と内の境界を跨ぎ、そのまま真っ直ぐ進んで正面にあるベンチをめがけていく。自分の意思で歩いているのではなく、ベンチに座っている人物の見えざる何かに体が引き寄せられているようにして。
近づいてはいけない、これ以上進んではいけないと冷や汗を流しつつ念じるが、足は止まらない。その先にいるのは自分とはあらゆる意味で対極にいるような人物なのだと直感する。あまりに違いすぎるから恐ろしく、一方でどうしようもなく惹きつけられる。まるで磁石のようだ。正反対のその力は、正反対だからこそこちらを惹きつける。
あまりに強力すぎる磁石に、どうしようもなく弱い磁石の真紀は抗うことが出来ない。正反対だからこそ、反発して逃れることが出来ない。
冬の空に地面、遊具、木々……全てが混ざり合い、一つになっていく。今自分がどこにいるのか分からないし、何を思っているのかも分からず、ちゃんと立って前に進めているのか、足は地面を踏みしめているのか、それさえも分からなくなってきていた。ふっと意識が飛んで倒れる寸前――そんな状態に真紀は陥っていた。
空白の時間が終わりを告げ、真紀は我に返る。彼女はあの青いベンチの目の前に立っていた。そんな彼女と、そこに座っていた人物の目が合う。
座っていたのは男だった。真っ直ぐ、そして静かに流れる、月の光に輝く夜の川を思わせる髪は長く腰程まで伸びており、また細身であったが女性と間違えることは無かった。
歳は三十いくかいかないかといったところに見える。柳の葉の様な目、その中央に埋め込まれているのは闇を混ぜて造られたガラスの球体。艶やかな唇は赤いが、化粧によるものには見えない。肌は白く、月の光だけ浴びて生きてきたらこうなるのだろうかと思えるようなもの。その細い体を包むのは、無地の藤色の着物で帯は青。
その髪、瞳、肌……全てにおよそ温もりというものが感じられない。触れれば一瞬にして心臓まで凍りついてしまいそうだ。顔はどこもかしこも完璧に整っていて、わずかな歪みもない。だからこそ、恐ろしい。全てが整いすぎていて、それゆえ『生き物の顔』に見えなかった。置き去りにされた自動人形なのではないかと思える位だ。完璧、その言葉に恐怖を覚えたのはこれが初めてだった。
恐ろしく、妖しく、不気味で……美しい。真紀の常に寝ぼけているような眼はそのかんばせから離れない、離せない。彼を見ていると体の中を滑らかな手で撫で回されているような心地がする。その感覚は恐ろしいもので、だが一方でそれによって快感を得ている自分もいた。
男はにこりと微笑んだ。それは決して優しく温かな笑みなどではない。身を焼かれる程冷たい、魂を無数の刃で串刺しにするようなもの。しかしその死の微笑みにもどうしようもなく惹かれてしまう。
(こんな人、本当に存在するの? 私は今夢を見ているのでは)
その体を襲う様々な感覚に倒れそうになる度足に力を入れて、どうにか体勢を立て直す。
「こんにちは、お嬢さん」
男が口を開いた。外見や笑みと同様にその声も冷たい。真紀は「こんにちは」と返すのに相当な時間を要すことになった。男のそれと違い透明感も無い声は、いつも以上に聞き苦しいものに聞こえ、惨めな気持ちになる。
それからしばらくの間、この場で喋っていたのは枯葉のみであった。小声で彼等はかさかさざわざわと何事か囁きあっている。何か喋らなければただの変な子だと思われる、と真紀は思う。だが声が出てこない。かといってその場から離れることも出来なかった。それを目の前にいる男は許さなかった。呼吸の仕方さえ忘れ、体温の調節も出来なくなり、冷や汗が止まらず、苦しくて仕方が無い。体内を撫で回されているような感覚も消えない。
苦しさが最高潮に達した時、どさりという音が聞こえた。見れば枯葉の寝床と化している地面の上にカバンが落ちていた。それは真紀のものだった。慌てて取ろうとするが、体が上手く動かない。ようやっとのところでしゃがんだ時には、すでに男がそのカバンを拾っていた。男は手でカバンについた汚れを軽く払うと真紀へ差し出す。
「どうぞ」
「あ、あ……ありがとうございます」
おどおどしながらそれを受け取る。受け取った途端電流か何かが全身に流れるのではないだろうか、などと考えたがそんなことはなかった。受け取った後はまた無言になる。目の前にいる男に圧倒されたというのもあるし、単純に人と話すことが苦手というのもあった。
かといって完全に彼から目を離すことも、ここから離れることも出来ずどうしようかと悩む。その様子を見ていた男はくすりと笑い、自分の右隣にあるスペースを手で叩いた。
「ここ、座りなよ」
「えっ……」
「遠慮しなくていいよ? ほら、どうぞ」
惑い、躊躇う。ただ面と向かい合っているだけでもおかしくなりそうなのに、隣に座ったらもっと恐ろしいことになるような気がした。真紀はその申し出を辞退しようとしたが、出来なかった。彼のもつ恐ろしい魔力が彼女の体をベンチへと近づけ、抗いようのない力が彼女を座らせる。座った途端、彼の体のすぐ隣にある左半身が、痛い位冷たくなる。流れる汗さえ、彼のもつ空気が氷へと変えそうだ。
逃げたい、逃げられない、逃げたい、逃げられない。横目で男を見る。見ているだけで魂が削られそうな位美しく、そして恐ろしい人だと思う。度を過ぎた美は人の胸を弾ませない。だが、人を魅惑する力は損なわれることなく、むしろ強まるばかり。
(そんな人が……どうしてこんな寂れた公園に一人ぽつんと座っているのかしら。この人には何というか……純和風のお屋敷とか、彼岸花が沢山咲いているような所とか、そういった所が似合っているというか)
彼の存在のせいで空気が歪められ、いつもと違う雰囲気を醸しだしているとはいえ、ここは公園。寂しくて、つまらなくて、地味な――真紀のような場所なのだ。隣にいる男はそのような場所にぽつんと座っているような人間には、どうしても見えない。
そんなことを考えていたら、男が声をあげて笑った。
「どうしてこんな所にいるのか、という顔をしているね。なに、別に大した目的は無いよ。……家に帰るまで我慢できなくてね、これを一つここで食べていたんだ」
男の左横にはビニール袋が置かれている。彼はそこからあるものを取り出した。何が出てくるのかびくついていた真紀は、それを見て呆然とした。
彼が取り出したのはプラスチック製のパックで、その中にはいなり寿司。ふわりと漂う甘酸っぱい香り、油揚げ。
「いなり寿司……」
「そう、いなり寿司。私はこれに目が無くてねえ。特に桜町商店街にある弁当屋で売られているものが好きなんだ。ここのは甘みも酸味も丁度良くて、とても優しい味がする。知っているかい、やましたという店なのだけれど」
その店のことは知っていた。弁当屋ではあるがどちらかというと惣菜の方がメインの店で、どれも素朴で優しい味がする。時々その店のおかずが夕食などに出てきて、食べる度美味しい美味しいと真紀達が言うので、母が「私の料理はそこまで褒めないくせに」とすねる。だが母自身も美味しいと思っているようなので、買うのを止めるということはない。
「……知っています。どれも美味しいから、好きです」
俯き、小声でぼそっと返答すると男は「そうだろう、そうだろう」と満足そうに笑んだ。それは今までとは違い僅かながら温もりを感じるものだった。それでも彼のもつ空気などが優しくなることはない。
それにしても、いなり寿司が好物だなんて。真紀は正直驚いていた。人間が当たり前のように食べるものではなく、隣にいる男は生き血を啜り、肝を喰らい、花を喰らい、月光を飲み干し、蜜と髑髏の粉を練って作った団子を喰らって生きるような者に見えるからだ。そんな失礼な上に馬鹿馬鹿しくて痛々しい妄想へと人を自然と導く力が彼にはある。
男は沈黙から滲みでる真紀の妄想を感じ取ったのか、くすくすと笑った、その甘やかな息と声が、彼女の体をくすぐる。訪れる恐怖と快楽に震える体。
「私だって、人間が食べるものも食べるよ」
「え、あ、あの……」
真紀は失礼なことを考えてしまったことが恥ずかしくなり、赤面しつつ弁解しようと必死になる。いや、恥ずかしさもあったがそれ以上に、恐ろしい目に合わされるかもしれないという恐怖があった。だが必死になればなるほど口からは変な声が出て来てしまい、余計パニックに。
男は別に怒っていないから安心おし、と言ったが本当にそうなのかどうかは分からない。感情を全く読み取れない声で言ったからだ。真紀はどうしようかと慌てふためいていた。が、ふとあることに気がつき心臓が止まりそうな思いをする。
(……も? あれ、さっきこの人……人間が食べるもの『も』食べると言わなかった?)
「元々こちらの方へ足を運んだ目的はいなり寿司では無かったのだけれど……気がついたら買っていた。ちょっと食べ過ぎてねえ、今日は買わなくていいかなって思っていたはずなのに」
真紀の思考を遮るかのように男は言い、苦笑い。
「目的、ですか」
無言のままでは不味いと思ったから、聞いてみる。静かに男が頷き、さらさら流れる夜の川。
「あるものを探す為に、町をふらふらしていたんだ。それは家にあったものなのだけれど……長い間その存在を忘れていてねえ。ふと思い出して取り出してみたら、すっかり駄目になっていた。まあ、今の今まで忘れていたようなものだし、無かったからといって困るものでもないのだけれどね。一度思い出したら、また無性に欲しくなって」
「結局見つかったんですか」
その言葉を聞いた男は一瞬無表情になり、それからにこりと微笑んだ。
「ああ……どうやら手に入りそうだ」
不吉な言葉――動物の勘がそう訴える。握りしめた拳を濡らす汗が冷たく、逃げろ逃げろという声で殴られている頭が痛み、喉を塞ぐ悲鳴、苦しくて苦しくて。
「どうしたの、具合でも悪いのかい?」
さして心配などしていない風に尋ねられた真紀は、首を横に何度も振るのが精一杯。男はそれ以上深く追及せず「そう」と一言言っただけ。
再び訪れた沈黙。それを冬の風が吹き飛ばすまで、少々時間がかかった。
「制服姿、というところを見ると君は学生さんかな?」
自分のことを尋ねられ、真紀は驚きつつ頷く。高校の名前と学年を思わず口にしたが、ちゃんと言えたかどうか自信はあまりなかった。男の表情を見てもよく分からない。
「高校一年生、というと……ええと?」
「じゅ、十六です」
「そう。綺麗な花咲かせる年頃だねえ」
花。その言葉が真紀の胸に突き刺さる。教室で笑いながら喋っている同級生、真紀の横を通り過ぎていく少女達、運動場や体育館を汗を流しながら駆ける少女達、筆をとり、半紙に魂を込めた字を書いていく少女……。
色とりどりの花、花、花……咲き誇る花。眩い光に輝く花。
真紀の頭の中で花が乱れ咲く。咲けば咲くほど、段々と惨めになってきて、泣きたくなる。彼女達の姿は遠い、あまりに遠くて届かない。足元に転がっている小さな石には、容易に手が届くというのに。
「……他の子達はそうでも、私は違います」
気づけばそんな言葉を口にしていた。直後はっとして男の方を見る。彼は「ほう」と言って笑う。その瞳が抱くのは、妖しい輝き。
「君は花を咲かせていないと?」
「元々私は……私は、花なんかじゃありません。路傍の石ころなんです。いてもいなくても変わらない、毒にも薬にもならない」
それは常々彼女が思っていることだった。だがそのことを誰かに話したのは初めてだ。
「どうしてそう思うの?」
男は更に尋ねる。その声は蜂蜜のようだった。甘くて滑らかで、べたりと絡みつく……。
これ以上話してどうする、花じゃないとか石だとかそんなことを話して相手に痛い子だと思われるのがオチじゃないか、そもそも誰かに話したからといってどうにかなるものでもない。話してはいけない、ここから立ち去らなければいけない、立ち去らなければ。
その思いに彼の声が絡みつき、閉じ込める。真紀の震える唇がしばしの沈黙を破り開かれた。
「髪は生まれつきぱさぱさで、目も細くて、鼻も低くて、ぱっとしない顔で、声も地味で、スタイルもよくなくて……良いところなんて一つもなくて」
「まあ確かにこれといった部分が見当たらないねえ。美人でもなければ、醜いともいえない。どっちつかずの、良い意味でも悪い意味でも記憶に残らない顔って感じだ」
彼はお世辞とか、オブラートに包むという言葉を知らないらしい。だがその方がかえってありがたいと真紀は思う。変に気を遣われて「可愛いよ」とか「華やかだよ」と言われる方が余程惨めだ。
「それで? 容姿がぱっとしないから自分は石ころであって花ではないと?」
違う、そうではないと真紀は首を横に振る。それだけが原因であるとは彼女も思ってはいなかった。
「私、私は……何もかもぱっとしない人間なんです。勉強も運動も真ん中位、特技はないし、人を惹きつけるものを何一つとしてもっていなくて、人と話すことも苦手で、じめじめしていて、暗くて、友達といえるような子は誰もいなくて」
段々と話す声は大きく、そして速くなっていく。荒い息が混ざり、息苦しくなり、それでも口の動きは止まらない。隣に座っている男がそうさせているのかもしれない。
「だから地味で目立たなくて、誰の視界にも入りませんし、記憶にも残らない存在なんです。幼稚園に入る前からずっとそんな調子でした……いじめっ子達の視界にも入らないお陰でいじめらしいいじめに遭ったことがないのは不幸中の幸いだと思いますけれど。誰の目にも入らない、誰の心も動かせない、輝きも無い、女としての魅力も無い……だから私は路傍の石ころなんです」
周りの人達が楽しそうに喋る声、はしゃいだり遊んだり喧嘩したりする様子、喜びと幸福に満ちた空気、どれもこれも真紀には遠く思えた。
「誰も……誰も君のことなんて見てくれないんだ? 誰一人として? 家族さえも?」
「か、家族は別ですけれど……ああでも両親は」
一人の幼い少女の笑顔が浮かび、胸が締めつけられる。真紀は苦しい思いをしながら訂正した。
「家族の中でも……一人だけは別です。私のこと、慕ってくれています。それは確かです」
「ふうん。家族以外には誰もいないの?」
「誰も」
言いかけて、口をつぐむ。図書室、本、机、向かい側、微笑……。
一人もいないわけじゃない、そう言いかけた。だがその言葉を口から出すことは出来ず、ごくりと飲み込む。
「いないです。誰も」
妙に空いた間を男がどう解釈したかは分からない。ただ男がそのことに関してはそれ以上追及しなかった。
俯いた真紀の目には、太ももの上に乗せた拳が見える。その拳――左手の――に、白い手が乗せられる。細くて滑らかで火傷する位冷たい手。心臓が飛び跳ねる、顔が熱くなる、骨に電流が走る。
男の赤い唇が耳元に寄せられる。そこから吐かれる甘い息に真紀はどうにかなってしまいそうだった。彼が呼吸する度、彼女の唇から荒い息が漏れる。
「もっと話してごらん。君のことを、石だという自分のことを」
真紀の唇は、その言葉に操られる。彼女は今まで誰にも吐露したことのないことを話した。
話す内、段々意識が遠のいていく。自分が何か喋っていることは分かるが、具体的にどんなことを喋っているのか分からない。男の声が聞こえる、だが何と言っているのか分からない。
心が掘り進められていく、男が深く深く入り込んできていることを感じる。
きっと今自分は誰にも話さないことだけではなく、自分自身さえ今まで気がついていなかった思いなども話しているのだろうと何となく思った。
自分でさえ辿り着いたことのない所まで、男は侵入してきている。そのことを不思議と真紀は不快に感じない。むしろ心地良い位だ。
永遠にも思われたその時間に終わりを告げたのは男の「もういいよ」という声。元の場所まで意識が戻ってきたのと同時に、真紀は目を大きく見開いた。
自分の目からぼろぼろと涙が零れ落ちていた。制服のスカートは、両手は涙に濡れている。どうして自分は泣いているのか訳が分からず困惑する。
隣に座っていた男が突然立ち上がり、数歩歩いて真紀の前に立つ。それから彼女の手をとり、ゆっくりと立ち上がらせた。男は特別長身ではなかったが、その存在感はえらく大きい。
「君は石だから、花を咲かせられないと言う」
静かに頷く真紀。石は花を咲かせられない。
「けれど本当は咲かせたいと思っている」
また素直に頷いた。自分は路傍の石ころ、他の子達のようにはなれないと諦めていた。だが心の底では諦めきれなかった。皆のように輝きたい、花を咲かせたい、そう思っていた。ある意味では、他の人達以上に強く願っていたかもしれない。
自分とは大違いの少女の顔が浮かぶ。ひまわりのような笑顔をいつでも浮かべている少女のことを。
「私は……でも、私は」
「咲かせられるよ。だって君は女性だもの。これはね、慰めの言葉なんかじゃないよ。私は事実を言っているんだ」
男は怪しく笑んだ。そして真紀の丁度心臓がある辺りに右手で触れる。かあっと熱くなる体。とてもいやらしい感覚が穢れなき彼女の体を襲った。
「君の花を私が咲かせてあげる。最も咲かせられるかどうかは最終的には君次第だけれど。大丈夫、私にその身の全てを委ねてごらん。きっと君の世界は変わる。花を咲かせた君のことを路傍の石ころだと思うような人間は誰もいなくなる」
胸に触れていた手はゆっくりと上に上っていく。喉、あご……彼の手は体の芯まで撫でていく。逃げたくなる位冷たい手、だが真紀は逃げ出さない。逃げ出せない、逃げ出さない。そして最後に頬までやってきて、もう片方の手と共に両頬を包み込む。
真紀は抵抗しなかった。彼の放った甘い言葉を振り払えぬまま、そこに立っている。脳が、体が痺れている。
花――輝き、魅力、女、爆発的なエネルギー等――それを強く欲し、そして男に完全に呑み込まれた彼女には最早正常な判断を下すことさえ出来なくなっていた。
男は真紀に拒絶の意思がないことを確認すると、何かを取り出し飲み込む仕草をみせ、そして次の瞬間己の唇を真紀の唇に重ねていた。
ぼうっとしていた真紀の頭が一瞬だけはっきりし、目を大きく見開く。だがまた頭は痺れてぼうっとして、抵抗する力も奪われていく。
小さな何かが男の口を介して真紀の体内へ入り込んでいく。それは熱く、あまりに熱すぎて叫びそうになった位だ。
どれ位の時間が経ったのか。冷たい唇が静かに離れた。そして妖しく微笑む。
「私の名前は出雲だよ。お嬢さんのお名前は?」
「ま、き……西原真紀です」
「そう、真紀。覚えておくよ。ねえ真紀、明日もここで会おうね。きっと会ってくれるよね? 私に花を咲かせてもらう為に」
男――出雲は答えを聞くことなく手を振った。真紀が明日もここへ来ることを確信しているかのようだった。
「それじゃあ、今日はお帰り。また明日ね」
途端、体が自由になった。真紀は出雲に背を向け、ふらふらと歩いて公園から出て行った。
そして、出るなりものすごい速さで駆けだした。未だ感触の残る唇に触れ、顔を赤くさせながら。
家に帰ると自分の部屋へ直行し、ベッドにダイブした。数時間後母が夕食の時間だと呼びに来たが、いらないと言って部屋から出なかった。風呂も家族の目を盗むようにして入った。
今の自分の姿を誰にも見られたくない、そう思ったから。
――ねえ真紀、明日もここで会おうね……――
あの公園での出来事、その映像が延々と真紀の脳内で繰り返される。
結局その夜真紀は殆ど眠ることが出来なかった。




