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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
恨み蝦蟇爺
220/360

恨み蝦蟇爺(4)


「くそ、あの男まじぶっ殺す!」

 土か何かがくっついている、肩まで伸ばした髪の男があまり厚くない壁を殴った。壁はどん、という大きな音をたてる。もう夜遅くでその壁を挟んだ――隣の部屋には住人がいるが、男はそんなことお構いなしでもう一度壁を殴った。


「死ね!」


「あの男いつか絶対殺す!」

 夜遅くにも関わらず、彼等は大声で叫んだ。そうやって叫んでも、誰も文句を言ってこないことが分かっているのだ。


 髪を金色に染めた男、体中にピアスをつけている男、赤く染めた髪を逆立たせた男、目つきの異常に悪い男。大して広くない部屋にいる五人の男達は、見るからに柄が悪そうだった。実際、柄が悪い素行が悪い性格が悪い態度が悪い……良いところを見つけるのが、目隠ししたまま針の小さな穴に糸を通すことより難しいような男達だった。世界は自分達を中心に動いている、自分達の言うことを聞かない奴には暴力を振るっても構わないと思っていた。そうやって言うことをきかせることが格好良いのだと本気で考えている。ヤンキーにも根は優しい人もいるというが、少なくとも彼等はそのカテゴリーに分類出来ないような人物達であった。

 彼等は皆傷だらけで、動いたり大声を出したりする度ずきずきと体中が痛み、その度イライラの度合いは増していく。


 長髪の男は傍らにあったペットボトルに口をつけ、中に入っているものを一気に飲む。飲み終わった後は壁に思いっきり投げつける。ぱこん、といういい音が聞こえる。


「あいつがいなけりゃ、今頃楽しくやっていたのによ!」


「散々こっちを馬鹿にしやがって! 本当は俺達の方が強いんだっての!」


「一日中遊びまわっていたからな。その疲れが無ければ、あんな奴一ひねりだったのに! それをまるで自分の方がずっと強いですみたいな態度とりやがって、本当死ねばいいのに!」

 それから始まる死ね死ねコール。自分達をぼこぼこにした男に対する怒りは、やがて無理矢理連れまわそうとした女性の方へと向いていった。


「つうかさ、あの女に話しかければこんな目に遭わないで済んだんじゃね?」


「そうだよな! くそ、あの女さえいなければ……まじムカツク!」


「あの女のせいだ、あの女……今度会ったら絶対痛い目に遭わせてやる」


「通行人の奴等の顔、はっきり覚えておけば良かった。そうすりゃあ、次に会った時しめられたのによ。ったく俺達のこと見世物扱いしやがって!」


「携帯で撮っていた奴もいたぜ、あいつはぶっ殺す、絶対ぶっ殺す!」

 彼等にとって、悪いのは自分達以外の者でいつだって自分達は無実だった。


 畳に散らばった、空になったコンビに弁当の箱やペットボトル、漫画雑誌、割り箸……。それらを壁にぶつけたり、握りつぶしたりして苛立ちを紛らわせようとする。

 そうして大騒ぎする彼等の声に、六人目の『声』が混ざりだしたのはいつのことだったか。男達は始め、その声の存在に気がついていなかった。

 最初に気がついたのはピアスの男だった。彼は口を閉じ、眉をひそめている。

 どうした、と四人が問いかけると男は小さく低い声で答えた。


「いや、何か男の……変な声が聞こえるような気がして」


「何だあそりゃ。隣のもやし野郎辺りがいびきでもかいているんじゃねえか?」


「いや、違う。あいつの声とは全然違う……」

 その直後、五人の耳に入ったのは聞き覚えの無い声だった。それこそがピアスの男が言っていたものだった。


「恨み……恨み……その恨み、わしに喰わせろ」

 がらがらで妙に低く、腹に響くような声が確かに聞こえた。その声に彼等は聞き覚えが無かった。そしてそれを耳にした途端、言いようのない不安と恐怖がその身を襲う。

 恨み、恨み、恨み、美味そうな恨み、その声はその言葉を繰り返していた。

 その声のもつ力に圧倒され、口を少しも動かせない男達を背に声は段々と大きくなっていく。お経にも聞こえる声が部屋中をぐるぐる駆け回り、その駆け回る速度と男達の緊張感が最高潮に達した時、天井近くの空間が何者かの手で裂かれた。空間が裂かれるという有り得ない事態に、男達の頭は真っ白になった。


 おどろおどろしい闇の見える裂け目から、大きなものが降ってきて、ゴミでぐちゃぐちゃの小さなテーブルの上に落ちてきた。どおん、という音と共に部屋が一瞬だけ揺れる。

 テーブルの上に現れた者を見て、五人はひいっと悲鳴をあげる。


 そこにいたのは、一匹の大きな蝦蟇だった。岩にも緑がかった茶色の泥を固めたものにも見える立派な体はを身にまとっており、大きな口の下に豊かな白ひげを生やしていた。

 白く太い眉の下に隠されるようにしてある、威圧感のある瞳でぎょろぎょろと室内を見回し、それから不気味な声で笑ってテーブルから降り後ろ足で立った。立ち上がったその身の丈は天井近くまである。


「最近は向こうの世界で美味いものを食べて毎日を過ごしていたが、ふと久々に本来わしが食べていたものを食べたくなってこちらの世界へやって来てみれば……この世界はどこもかしこも恨みだらけ、昔もそうだったが今はもっと良い。お前達は、人を恨んでばかりだな、ん? がはは、そんな険しい顔をするな。わしはそのことを責めはしない。むしろ、褒めよう。うんうん、逆恨みというのもまた美味しいものだ」

 男達は予想だにしなかった事態に、そしてあまりの恐怖にそこから一歩も動けないでいた。立つことも逃げることも出来ず、ただ金魚のように口をぱくぱくさせることしか出来なかった。真なる恐怖の前では悲鳴すらあげられないことを、この時初めて思い知る。目の前にいる化け物は、少なくとも男達に害意を抱いてはいないようだが、そんなことは今関係無い。

 蝦蟇の足が傍らにあった紙パックを踏みつける。ぺしゃり、というその音が彼等の口を動かすスイッチになった。


「化け物……!」

 男達は口々に目の前の蝦蟇を指して叫ぶ。それ以外にそこにいる者を表現する言葉が思い浮かばなかった。体は震え、熱いのか冷たいのか分からなくなり、腹の中をこねくり回され、息はつっかえて口から出てこない。

 現実を突き破った非現実、それを前にした彼等は蛇に睨まれた蛙のようになっていた。蝦蟇に睨まれた餓鬼、五人。

 蝦蟇は男達からそう言われても表情一つ変えない。実際化け物なのだ、怒る理由もあるまい。


「わしは恨み蝦蟇爺と人から呼ばれてきた者。恨みを喰らう妖だ。お前達、相当大勢の人間を恨んでいるようだな?」

 誰も答えなかった、否、答えられなかった。男達の顔がますます青ざめていく中、彼だけは元気でおかしそうに笑う。


「そんなに怖がるな。わしはお前さん達を食べようだなんて思っていない。危害を加えるつもりもない。わしはただ、お前さん達が抱いている多くの恨みを喰らいたいだけだ」


「く、喰うって、何だよ」


「蛙が喋った、は、は……うっ……」

 現実も夢も、常識も非常識も、何もかもがぐちゃぐちゃになり、彼等の世界は崩壊している。世界を壊された彼等は何をどうすれば良いのか分からず、混沌の中を徘徊するしかない。


「文字通り、喰らうのだ。お前達の目では見ることも触ることも出来ぬ『恨み』を喰らい、わしの糧とするのだ。それを喰われたからといって、お前達の体がおかしくなるということはない。勿論タダとは言わぬ。お前達の恨みを喰らう代わりに、わしがお前達の恨みを少しだけ晴らしてやろう。恨みの対象を、このわしが痛めつけてやる」

 

「痛め、つける……」

 長髪の男が口を開く。蝦蟇はにんまりと笑って頷いた。


「そうだ。呑み込み、突き刺し、苦しめる。恨みが大きければ、その者の生の営みを止めることさえ出来る」

 震えながらも自分のことを見ている男達に向かい、蝦蟇は地につけていない右前足を差し伸べる。

 その化け物の手(足)を彼等は見つめた。


 恨みの対象を痛めつけてやる。

 その恐ろしくも甘美な言葉は耳から離れず、恐怖に支配された体を駆け巡り、彼等の心に、脳に呼びかける。

 手をとれと、望めば恨んだ相手を苦しめることが出来る、恨め、苦しませよ、そして笑い、喜んで我に恨みを差し出せよと……。


 光に満ちた世界は夜に呑まれ、闇と静寂がこの世を支配している。

 恨み蝦蟇爺は、慣れた手つきで空間を切り裂きある家の部屋へと降り立った。

 電気が消され、窓から入ってくる僅かな光をカーテンによって遮られ、部屋の中は暗黒に包まれている。光溢れる世界より彼はこの闇に満ちた世界の方を好んだ。恨みは闇の中で輝き、蝦蟇の食欲よりそそるものとなる。


(再び人の世で『恨み』を喰らう為に動くようになってから、三回目の夜が訪れた)

 昔はこの世界で、誰かの恨みを喰らう為に数多くの人を傷つけていた。だが人が妖の存在を拒絶し、否定するようになり始めてから急に居心地が悪くなり、自分と同じ異形の者が住まう世界に移り住んだ。それからは恨みではなく、肉や野菜などといったごく普通の食事を摂るようになる。恨み以外殆ど食べたことがなかった彼だったが、色々食べてみれば恨みに負けず劣らず美味しいと思え、やがて自分が恨みを食べて生きる妖であることを忘れていった。最早恨み蝦蟇爺ではなく、ただの蝦蟇爺と化した彼は充実したセカンドガマライフを送っていた。


ところがつい先日、路傍の石に頭をぶつけた瞬間ふと「あ、久しぶりに恨み食べたい。人間の恨みが特に食べたい」という思いが痛みと共に押し寄せてきた。思い立ったが吉日、ただの蝦蟇爺から恨み蝦蟇爺に戻った彼は空間を咲き、こちら側の世界へとやって来た。珍しいその力をもつ種族に生まれた彼にとっては、境界も道も関係ない。

 この世の全てと繋がっている空間内を通っていた彼は、美味そうな恨みの匂いにつられ、再び空間を裂いてある場所へと降り立つ。そこにいたのが例のヤンキー組である。


 恨み蝦蟇爺はその時のことを思い出しながら、窓際にあるベッドで気持ち良さそうに眠っている人間を見つめる。世にも恐ろしい化け物が傍らにいて、自分を狙っていることなど夢にも思っていまい。

 そこで寝ている人間――若い男は、ヤンキー達の逆恨みによって今から非常に痛い目を見ることになる。そのことを気の毒には思わなかったが、かといって傷つけることを嬉しいとも思わない。

 

(素晴らしい人間達と出会えたな。あの男達はまるで逆恨みすることが生業であるかのようだ。あやつらの傍にいれば、あの刺激的な味を沢山味わうことが出来る。飽きたら、別の人間のところへ行けば良い)

 男達は次から次へと痛い目に遭わせたい人の名前を口にする。例え彼等が名前を知らない、顔を一瞬しか見ていないような人物でも、彼等の記憶を覗き込めば顔も、今どこにいるかも瞬時に分かる。それを理解した瞬間飛ばしてつける印が、彼をその人のいる場所へと導いてくれた。


 ベッドで眠っている人間はむにゃむにゃ言いながら寝返りをうっている。暢気なものだと彼は思った。膨れた腹を彼は撫でる。

 その腹が裂ける。そして中から自分よりもなお大きな蝦蟇を出し、男を呑み込もうとしたまさにその時だ、彼が自分の頭上に異変が起きたことを感じたのだ。


 自身は今何もしていないのに空間がいきなり大きく裂け、更にそこから太くてがっちりとした腕が伸び、ぎょぎょっとした彼の頭を掴んだ。何だ、何が起きたのだと理解する間もなく、その巨体はいとも簡単に引っ張りあげられる。そして彼の体が完全に空間と空間を繋ぐ領域に入ったところで、裂け目がまるで目でも瞑るかのように閉じていった。

 

「恨み蝦蟇爺一本釣り……ってな」

 彼の頭から手を離した者が真面目な声で言ったのが聞こえる。ぽかんとしながら目の前にいる男を彼は見た。

 一つに束ねられた茶色の、だらりと伸ばしたややぼさぼさの髪、たれた目にうっすら見える無精ひげ、筋骨隆々の立派な体を包むのは緑色の甚平。人間でいえば三十前後といったところだが、その体から放たれている気は人が決して持てないようなもの。見た目は人だが、どうやら妖であるらしい。その男は彼を睨みながら仁王立ち。その姿が彼の持つ強さをより引き立てていた。男の傍らには笠を被っているのか、笠に被されているのか分からない、頬肉の垂れた細目の男がちょこんと座っていた。いや、もしかしたら立っているのかもしれない。ぱっと見ただけではどちらなのか全く分からない。


「なんなんだ、いきなり」

 彼は目の前にいる男に問うた。



 弥助の前にいる恨み蝦蟇爺が、なんだいきなりと戸惑いの声をあげた。突然頭をつかまれて引っ張りあげられたら、誰だって混乱するだろうと思いつつも弥助は答えてやる。


「あんたのやっていることをやめさせる為に、この空間を移動してきた。二夜連続で、主にこの街に住んでいる人を襲ったのはあんたで間違いないだろう?」


「それは間違いないだろうが……しかしなんだって、わしらと同じ妖であるお前さんが、わしのやっていることを止めさせようとしているんだ?」

 

「人間が妖に傷つけられることを放っておけないからさ。あっしは人間が好きでね、今は主に人の世で生きている。勿論全部を解決することは出来ないが、解決出来そうなことなら、なるべくしてやりたいんだ。……それにあんたが襲った人の中には、見知っている人がいたからな」

 はあ、と恨み蝦蟇爺は困惑気味だ。しばしぼけっとしていたが、あることに気がついたらしくはっとした表情に変わる。


「お前さんもしかして、わしが印をつけた者の一人では? あの男達に強い恨みを抱かれている。女を連れて行こうとした彼等を止めて、ぼこぼこにしたという奴か。お前さんのこと、あやつら殺したい程恨んでおったぞ。わしにも『あの男は殺せ』と言ってきたし。まあ、その恨みの度合いを測るに実際は殺したいというより、半殺しにしたいという風だったが」

 それを聞いてため息をつき、そうだよと答えてやった。


「……ってことはやっぱりあいつらが諸悪の根源か。全くろくでもないことをしやがる。逆恨みで半殺しの目に遭わされたらたまったもんじゃねえ。それにしてもあんた、どうしてあっしを真っ先に襲わなかった? 恨みの度合いでいえば、あっしはかなり強い方のはずだが」


「単純に、今のわしにお前さんをどうこう出来るだけの力が無かったからさ。力量など、直接会わずとも奴等の記憶を覗けば何となく察せられる。敵わぬ相手に無策のまま突っこむ程わしは愚かではない。とりあえず奴等には、楽しみは最後までとっておくべきだと言ってごまかしておいたがな」

 その言葉、どうかあの馬鹿達にも言ってやってくれと弥助は本気で思った。

 喉まででかかったその言葉をぐっと飲みこみ、本来話したいことを口にする。


「兎に角……あっしは別にあんたが悪いとは思っちゃいないよ。あんたは契約を交わした人の恨みを喰らわせてもらう、そしてその代わりに恨みの対象を傷つける妖だ。それから傷つけた様子を契約者に見せてやりつつ、恨みを喰らう。あんた達種族はそういう奴だ。人を傷つけて楽しみたいからやっているわけではないこともちゃんと分かっている。だからあんたのことを悪者扱いするつもりはない。悪いのは、あんたがそういう者だと分かっていながらその手をとったあいつらだ。そのことも分かっている……分かっているが、少しでも関わった以上あっしはこの件に関して見て見ぬ振りをすることが出来ない。恨み蝦蟇爺という種族が恨みを喰らい、その恨みの対象者を傷つける者であることを知っていても、あっしは言わずにはいられない。……頼むからもうこんなことはやめてくれ!」

 弥助は叫んだ。目の前にいる彼を止める為、『向こう側の世界』へと彼は行きそこで恨み蝦蟇爺同様、空間と空間を繋ぐ特殊空間を自由に移動できる力を持った妖を偶然助け、協力することを了承してもらった。彼と会い、そして彼を助けていなければ、今弥助はここで恨み蝦蟇爺と対峙出来ていなかったかもしれなかった。その妖こそが、弥助の傍らにいる小柄の男である。彼は弥助の体についた『印』を頼りに、どこに恨み蝦蟇爺がいるのか突き止めてくれた。また、弥助の力だけではいけない異空間に彼を連れて行ってくれたのだ。そのことに弥助は深く感謝している。

 懇願する弥助を、恨み蝦蟇爺は困惑気味の表情で見つめた。無理も無いだろうと弥助は思う。


「やめろ、と言われても」


「別に恨みを食うこと自体は止めない。恨みを喰われたからって、人間の体には何の悪影響もないからな。ただ、恨みの対象を傷つけることは出来ればやめてもらいたいんだ。あんた達は別に、そうしなければ恨みを喰えないというわけじゃないんだろう?」

 それはそうだが、と彼はかなり困り果てた様子だ。恨み蝦蟇爺が、恨まれている人間を傷つけるのはいわばサービスであり、それをしなかったからといって恨みが喰らえないわけではない。弥助からしてみれば、人を傷つけることを(とりあえずは)止めてくれればそれだけで良いと思っていた。


「確かに喰らう恨みの対象を傷つけなくても、恨みを喰らうことは出来る。契約もなにもなく、いきなり喰らっても問題は無い。だがしかしなあ、今までずっとこうやって喰らってきたからなあ。何の代価も支払わず喰らうのはちょっと……。わしは傷つけ、代わりに恨みを喰らう。恨みを喰らう為には傷つけなければならぬ。そうやって生きてきたのだ。だからなあ、何だかなあ」

 申し訳ないというか何というか、と恨み蝦蟇爺はもごもごとそんなことを言っていた。本当にそう思っているらしく、しおれた顔だ。

 弥助もその態度に困惑し、頭をかく。もっと強気な態度で出られると思っていたからだ。


「誠実というか真面目というか……そう思う気持ちも分かる。分かるから困るんだよなあ……」


「わしはつい先日まで、恨みを喰らうことを忘れて他の者と変わらぬ食事をしてきたような者だ。恨みを喰らって生きるという道を、わしはすでに外れていた。恨み蝦蟇爺としての道から外れた者なのだ、わしは。……恨みを喰らう代わりに対象者を傷つけるのもまた恨み蝦蟇爺としての道。今更その道を外したところでどうということはないかもしれない。だが、何というかわしは恨み蝦蟇爺だからそういうことをしているわけではなくて、何かを得る代わりに何かを返したいという思いがあるからやっているのだ。これはわし自身の信念なのだ」


「それならば、別の形で返すとか」


「そんなものは思い浮かばん。わしが知っているのは、対象者を傷つけて、その者の心を少しでも晴らすことのみ。だからお前さんの要望には応えられないのだ。だがお前さん、わしが言うことを聞かないとなったら……力づくでもどうにかしようとするだろう?」

 わしは痛い目に遭うのはいやなんだよなあ……と俯き、ため息。痛い目に遭うのは誰だって嫌である。理沙や他の被害者達だって同じのはずだ。


「手荒な真似はしたくないが、あっしだって妖に人間が傷つけられるのを放っておきたくはない。あんたが嫌だというなら、こっちだって実力行使に出る。あっしのことを勝手な男と恨んでくれてもいい、けれどあっしは」

 あんたとあの不良共のやっていることをどうしても止めたいんだ、と真っ直ぐな瞳で恨み蝦蟇爺を見つめる。一見全く構えていないように見えて、実際はいつでも戦いに入れるようにしており、彼に少しの隙も見せない。

 見つめられた方の彼は弱った風にため息をついた。


「お前さんのことを恨みはしないよ、そっちの言いたいことが全く理解出来ないわしではないから。しかし弱った、はてどうするか……お前さん、わしが他の場所で同じようなことを始めたらまた止めにくるか?」


「……どこまでも追いかけてあんたをどうこうしようとは思わないさ。本当はやめてもらいたいんだがな。向こう側でのんびり暮らして欲しいとは思う」


「そうか。ならば仕方が無い、しばらく大人しくするとしよう。だがな、わしとて何もせずこのままあの人間達のところへ戻って『やっぱり契約を破棄する、わしはもう帰る』などと言うわけにはいかない。お前さんと戦ったという事実が欲しい。まあ、今のわしにはお前さんを倒す術は無いが。とりあえず戦って、その上で『あの男を半殺しにするのは無理』と言って、契約を破棄する。大した違いは無いかもしれないが、それでも一応やることはやったと奴等に誠意を見せたいというか……まあ、あいつらには誠意もクソも無いだろうが」

 というが早いか、彼のぷっくり膨れた腹が大きく裂け、そこから大きな蝦蟇が目にも止まらぬ速さで飛び出してくる。弥助は抵抗しなかった。生暖かい口の中に彼の巨体がすっぽり入り、途端また恐ろしい速さで蝦蟇の体が恨み蝦蟇爺の腹の中へと戻っていった。


 ぱっと目を覚ますと、弥助はだだっ広い平地の真ん中に立っていた。地面には殆ど草が生えておらず、土肌が露になっている。ところどころに池があり、蓮の葉がぷかぷかと浮かんでいて、水特有の匂いを放っていた。ぽつんぽつんと地面から生えているのは背の高い木。空は爽やかな水色をしていて、暑い時に食べるソーダ味のアイスキャンデーを思わせる。そこにふわふわ浮かぶ白い雲も太陽の光に当たって眩く輝いている。木々を飾る豊かな葉の色や、それらの色を見る限りこの空間内は夏であるらしい。実際の気温はそれ程高くはないようだったが、湿度は異様に高い気がした。


(ここが恨み蝦蟇爺が体内に持つ空間か。皆ここに連れてこられて、その上で襲われ、怪我をした)

 背後に殺気を感じ弥助はばっと振り返った。何かが自分めがけて飛んでくる。

 弥助はそれをさっとしゃがんで避ける。すると今度は別の何かが頭上から降ってきた。その何かは赤く鋭い何かを弥助の方へ向けて落ちてくる。それも弥助は飛んで避けた。標的を失った何かは地面に突き刺さり、そしてようやくその姿をはっきりと現すのだった。

 そこにいたのは三、四十センチはあろうかという蛙。黄緑色のアマガエル……に見える。突き刺さっているのはその蛙の舌であるらしい。彼の舌は硬くそして先は鋭い。まるで刃のようだ。成程、皆はどうやらこれに刺されたり斬られたりして傷ついたようだ。蛙は前足、後ろ足をじたばたさせて地面から逃れようとする。

 弥助はその蛙を片手でひょいっと引っこ抜くと、自分に向かってきた別の蛙めがけてぶん投げた。投げられた蛙も、その先にいた蛙も伸ばしていた舌を引っ込める前に激しくぶつかり、お互いの舌に刺されて無様に地へ落ちる。突き刺された体から出てきたのは血ではなく、黒いもや。それは天へ昇って消えていった。


「ああ、そいつらの腹をあんまり裂かないでやってくれ。わしが喰らってためた恨みが飛んでいってしまうから」

 空から恨み蝦蟇爺の声が聞こえる。成程、あのもやの正体は恨み――黒い負の感情であるらしい。確かにそのもやからはとてつもなく厭な何かを感じた。

 弥助は天へ顔を向け、この空間の主である彼に問う。


「ところで、あの飛んでいった恨みはどうなる?」


「恐らくその恨みの主の下へと帰っていく。ある種の穢れや呪いに形を変えてな。つまり、あの男達の下へと飛んでいくのだ」


「穢れや呪いっすか。目に見えて大きな変化は起きないだろうが、それでもあまり良い変化はもたらさないだろうな。……あいつら、あんたに恨んでいる人間を襲わせて楽しんでいたか?」


「楽しんでいたな。罪悪感と呼べる感情を抱いている様子も殆ど無かった。心から楽しんで笑いながらわしが彼等の脳内に直接送る映像を楽しんでいる。ロクガ出来るものならそうして、何度でも再生して笑い飛ばしたいとも言っていたな。ロクガというものが何なのかよく分からないが。あそこまで性格の歪んだ奴等に会ったのは初めてだ。大抵の者はその映像を見せられ、恨みを喰われると罪悪感や嫌悪感、恐怖に身を震わせ、さっさとわしとの契約を解消するものなのだがな。……あの歪んだ性格は最早仏や神の力でもどうにもなるまい」

 彼等は怖がるどころか大興奮、いいぞもっとやれもっともっと大勢の人間をぼこぼこにしてやれと口々に言ったという。自分達のことをどうにかしようと、誠実に彼等と向き合った高校教師が意識不明になるほどの怪我を負ったのを見ても「ざまあみろ」とか「そのままくたばっちまえ!」とか何とか言っていたという。

 それを聞いた弥助は怒りを通り越して、呆れてしまった。自分を襲う蛙達の腹を裂けば、穢れや呪いと化した恨みが彼等の下へと飛んでいく。それらを受けたからといって死ぬとか、不幸のどん底にいきなり突き落とされる――ということは無いだろう。だが穢れや呪いは更なる穢れを呼ぶ。体はそれらを溜め込み、幸運などを弾き飛ばし徐々に彼等を苦しめるだろう。しかし彼等にはその苦しみの原因がどこにあるか分からず、対処することも出来ず、一生それらと関わり続けることになるだろう。

 そんな人生を送らせることを弥助は本来なら望まない。だが、恨み蝦蟇爺の話を聞いたらどうでも良くなってしまった。腹を裂いてしまったら、それはもう仕方が無い。彼等の所へ飛んでいって、その体を黒く染めようが知ったことではないと思った。


「人を呪えば穴二つ。……少しでも罪悪感を抱いているのならあっしもまだ遠慮しただろうが、もう知らん。あっしだって菩薩じゃねえんだ」


 四方八方から多くの蛙達が弥助に向かってくる。そのスピードは決して遅くは無かったが、弥助からしてみれば大したものではなく。

 その腹や頭に無駄のない動きで強烈なパンチをお見舞いし、飛びかかってくる蛙の舌をむんずと掴み、そのままぶんぶん回す。回された蛙に当たった他の蛙達が吹っ飛んだ。高くジャンプして彼等の攻撃を避けたり、彼等に肘鉄を食らわせたり、蛙を盾にして攻撃を防いだり。

 速さも力もある得意の蹴りで蛙を薙ぎ倒し、その巨体には似合わぬ軽いフットワークで攻撃をかわし、そこから間髪入れずに反撃。勿論数が数なので無傷とはいかなかったが、彼にとっては軽い方で薬を塗って少し睡眠をとればあっという間に治る位のものだった。人間にとってはそれなりの怪我だが。

 図体の割に動きは速く、しかも無駄な力は一切使わないし、無駄な動きも殆どない。出雲の戦う様子が舞姫の舞姿なら、彼の戦う姿は力強い演武。流れるような動きで一連の動作をやってのけ、見惚れる位見事に敵を倒す。


「あんた達に全く恨みは無いが……許せよ」

 彼等を痛めつけることに、弥助は胸を痛める。だが胸を痛めてもその体は動くことを止めない。これ以上何にも悪くないのに傷つけられる人を出さない為に。


「矢張りわしの力じゃどうしようもない……こりゃかなり強いわ。あの若造達の愚かさが恐ろしいよ、わしは」

 恨み蝦蟇爺の嘆く声も、彼の耳には届かない。わき腹をかすった舌を一瞬で握りしめ、地面へと叩きつける。すぐさま振り返り、さっとしゃがんでそこにいた蛙にアッパー。

 最後に弥助とほぼ変わらない位の背丈の蛙が襲ってきたが、これも弥助は楽に沈める。急所になりそうなところを的確に攻撃し、背負い投げでトドメ。そして、数百匹はいただろう蛙達はあっという間に全滅。腹を裂かれ、溜めていた恨みの感情を出したものも多い。それらは全て彼等の下へと飛んでいったのだろう。だがそれを弥助は申し訳ないとは思わなかった。

 弥助は汗を拭い、呼吸を整える。岩のように硬いがっちりとした体から幾らか血が流れていたが、どうということはない。


(自分達のやったことにはきちんと責任をとってもらうっすよ)

 戦闘不能状態(半数近くは息絶えた)の蛙達は地に倒れ、或いは池にぷかぷか浮かび、世界は見るも無残な姿に変わっていた。この風景も、自分が蛙をこてんぱんにした姿も、さくらや朝比奈さんには絶対見せたくないなと弥助は心から思う。

 やがて聞こえる恨み蝦蟇爺の弱弱しい声。


「お前さん本当に強いなあ。妖力は殆どないようだが。これでは、わしがどう足掻いたって勝てやしない。例えお前さんの方から来なくても、いずれは奴等との契約を解いていただろう。お前さんを倒すことが出来ない以上、お前さんを半殺しの目に遭わせたいと願っている、あの男達の要望には応えられないから。とりあえず努力はした。努力しても無理なら仕方が無い……わしはお前さんの願い通り、しばらくはおとなしくしていよう。向こうの世界で、ただの蝦蟇爺として生きるさ。下僕達をこてんぱんにされたから、しばらくはろくなことも出来ないし……わし自身も弱ってしまったし」


「……悪いな」


「お前さんはお人よしだよ、本当に。心からそう詫びられると何も言えんわ。それじゃあな。もう二度と会うこともないだろうが……いや、お前さんがあちらにも顔を出しているというのなら、或いは向こう側の世界でいずれ顔を合わせることになるかもしれんのう。そしたら酒でも飲もうじゃないか」

 途端弥助は目の前が真っ白なり、気がつくと異空間にぽつんと立っていた。

 恨み蝦蟇爺は弥助に背を向け駆け出し、その姿は少しずつ小さくなっていき、あっという間に消え、さようなら。

 それを見届けた弥助はほっと安堵の息を吐く。


「とりあえずは一件落着っすねえ」

 いずれあの恨み蝦蟇爺はこちら側の世界に現れ、同じような事件を引き起こすかもしれない。だが少なくともこの辺りの土地には姿を見せないだろう。

 同じような事件が二度と起きなければ良いがと弥助は願う。


(恨み蝦蟇爺の差し伸べる手をとらなければ、このようなことは起きない。人間の良心と、自分の世界を守りたいという気持ちを信じるしかないなあ)

 そして弥助は異空間を後にし、軽く自分で手当てをしてから、協力してくれた妖と居酒屋『鬼灯』にて酒を共に飲んだ。その場には出雲もおり、事件を解決したことを話したら舌打ちされた。


「使えない蝦蟇だねえ。お前のことをいっそ殺してくれれば大変良かったのに。ああ、つまらない、つまらない」

 などと言うものだから弥助が立ち上がり、この野郎今ここでぼこぼこにしてやると啖呵を切った。が、鬼灯の主人と柳の圧倒的なオーラに押されすぐ大人しくなる。


 その後、理沙と高校教師など意識不明の重体だった人は目を覚まし、やがて無事退院したという。夜中人々が何者かに襲われるというこの事件は少しずつ忘れ去られていった。

 ところで例のヤンキー達であるが、この後も悪行の限りをつくした。しかし一方で何をしても気分は晴れず、体も常にどこかだるく、幸運にも恵まれない日々を過ごしていた。その間にも穢れや呪いは次々と集まっていき、そして三年後――無謀な車の運転が災いし崖から転落。その車に乗っていた五人全員が死亡した。しかしそのことを弥助は一生知ることなく過ごした。彼等のせいで酷い目に遭った人達も同様に。


 さて、恨み蝦蟇爺の方はといえば向こう側の世界でのんびりと暮らしていた。

そして数ヵ月後、完全に蝦蟇爺ライフに戻ったところで橘香京にて弥助と再会。二人共かつて戦ったことも忘れて仲良く酒を酌み交わし、大いに盛り上がったとさ。

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