桜の夢と神隠し(5)
*さくらの語り
出雲さんが、満月館で一人あれこれ考えていることなんて、全く知らない私と紗久羅ちゃんは、階段を下りて、畦道を歩き、家のある方を目指した。家の方向は二人とも同じだから、自然同じ道を辿ることになる。
紗久羅ちゃんは、私の前を歩いている。満月館を出てから、一言も話していない。いつも明るくて、気さくに話しかけてくれる紗久羅ちゃんが無言。ただそれだけで、周りの空気が異様なものになる。
「なあ、さくら姉」
紗久羅ちゃんが口を開いた。突然のことだったから、蝉や蛙の歌う声ばかり吸収していたその耳は、危うくその言葉を受けずに流してしまうところだった。
はっと気づいて、前を向く。振り返ってこちらをじいっと見つめている紗久羅ちゃんと目が合った。
「なあに、紗久羅ちゃん」
「いくらこの町が桜と言い伝えの数しか誇れないような田舎でもさ。こんな季節に、桜の化け物に次々と人間が連れて行かれるっていうのも、変な話だよな」
「そう……そうよね。季節外れな事件、よね。ひまわり畑で、桜餅を食べる位に」
何だか、とても不安だわ。重くて粘り気のある泥が体の底に、ずっしりと沈んでいるような感覚。
自然と、足取りも重くなる。前を歩く紗久羅ちゃんは、今何を考えているのかしら。何でも良い、話しかけてほしい。それだけで、きっとほっとする。内容など関係ない。ただ、この奇妙な静寂を打ち砕いてくれる何かが、あればいい。
自分から話しかければいいのだけれど、何を話せばいいのかさっぱり分からない。
体内に重く沈む泥が、吐き出しそうになるくらいいっぱいになった頃。
私は、ゆっくり頷いた。重苦しい泥は、気づけば体の中から外へと流れていったようで、随分と楽になっている。
「季節感ゼロだな。それにしても、何で骨桜とかいうのも、こんな真夏に動きだしたんだろう。ていうかさ、こんなの初めてじゃん。桜の花びらと一緒に人間が消えるなんて事件」
そう、今まで桜町でその様な事件は起きたことがなかった。桜山で友達と一緒に遊んでいた女の子が、行方不明になったという事件は大分前に起きていたとはいうけれど。でも、その事件には桜は一切関与していないはず。
眠りから覚めなくなり、終いに桜の花びらと共に姿を消してしまうという事件は、今回が初めてだと思う。もし以前にもそのような出来事があれば、話題に出てくるはず。まあ、もしかしたら何百年も前とかにはあったのかもしれないけれど。言い伝えとして残っている位なのだから。ああ、でもそれで連れ去られた人がいたとして……生きては帰ってこないはずだから、後世に伝えることなんて、出来ないわよね。それとも、出雲さんのように奇跡的に難を逃れた人でも、いるのかしら。ああ、気になるわ。
はっ、そういえば紗久羅ちゃんと話していたのよね。言葉をずっと返さなかったら、紗久羅ちゃんを不安にさせてしまうわ。
紗久羅ちゃんは、どうしてなんだろうなあとか、皆を連れて行った骨桜ボケでも来ているんじゃないのか、とぶつぶつ呟いていた。紗久羅ちゃんなりに、色々考えているらしい。考えていなければ、不安で押しつぶされそうになってしまうのは、何も私だけじゃないってことかしら。
紗久羅ちゃんが、急に「あっ」と何かに気づいたような声をあげた。何故だかその後気まずそうな表情を浮かべて、こちらに向けていた顔を元の向きへ戻してしまった。
どうしたのかしら?私は首を傾げる。
「……かもしれない」
「え? なあに?」
「あたしの、せいかもしれない」
やや上擦った、紗久羅ちゃんらしくない声。あたしのせい?どういうこと?
どうして?なんで?私は、早足になっている紗久羅ちゃんに置いていかれないように、必死になりながら、尋ねる。
そうしていたら、急に紗久羅ちゃんの足が止まる。そして、くるっと振り返ってこちらを見た。両手はぎゅうっと握りしめられている。
「あの馬鹿狐が言っていた。一度あの世界に足を踏み入れると、あっちの世界の匂いが染みつくんだって。……それでもって、その匂いは、異形を引き寄せるんだとさ!」
半ばやけくそのように、紗久羅ちゃんは叫ぶ。
「綺麗になくならないんだよ。結局、一度踏み入れたら、もう今までの自分には戻れないってやつ。あいつは、それが分かっていて、あたしをあの世界に連れて行ったんだ。嫌がらせだよ、本当にさ!」
紗久羅ちゃんは、わざとらしくため息をついた。きっと紗久羅ちゃんは、夕菜さんや一夜達が骨桜にさらわれたのは、自分のせいだと思っている(一夜がさらわれた原因は、まあほぼ確実に私にあるのだけれど)
「あたしが、その骨桜ってやつをこっちの世界へ導いちゃったのかも。それでもって、運悪く桜の花が頭の中をぐるぐる回っていた人達が被害者になった。あたしのせいかも、しれない」
大きく息を吐きながら、まるで教会の十字架の前で告白する人の様に。
そういう紗久羅ちゃんの姿は、とても弱弱しくて、小さく見えた。いつもは、とても元気で、明るくて、ちょっと気が強いところがある紗久羅ちゃんが。
きっと、私と同じ様に、紗久羅ちゃんも悩んでいたのでしょうね。私は、一夜が消えたことだけを考えていたけれど、きっと彼女は、他の人達のことも考えていたのでしょうね。自分が、異界と関わったばかりに、と。私以上に、辛かったんじゃないかな……紗久羅ちゃん。
出雲さんのその言葉が、真実であるかは分からない。あの人は、人を騙すことだってきっと平気でする。嘘に振り回され、頭を抱えて悩む人間を見るのとか、とても好きそうだわ。実際、桜村奇譚でも出雲さんがついた嘘のせいで不幸になってしまった人のお話と言うのが度々でてきている。
けれど、思う。多分出雲さんは本当のことを言ったのだ、と。
自分達の住む世界とは違う場所へ一度足を踏み入れてしまったら、きっと後には戻れない。自分には見えない、永遠に消えない印がついてしまうのだろう。
その印が、気づかぬ内に様々なものを引き寄せてしまうのではないだろうか。
私達の世界と、異界の世界を繋ぐ、あの美しくも恐ろしい、鳥居と階段と灯篭で出来た「道」のように。
私達自身が、自分達の世界と異界の世界を繋ぐ「道」となり「道標」となってしまうのではないだろうか。
もう、後戻りは出来ない。「嫌だから忘れる」といって、例えあの世界へ行ったことを記憶から消し去ったとしても、あの世界へ足を踏み入れたという事実が、消えるわけではない。もう、私達は関わってしまったのだ。見えない、黒く頑丈な糸で結ばれてしまった。それを鋏で切ることは、きっと出来ない。
私は、それでも構わない。だって、あの世界は私がずっと憧れていた世界だから(でも、自分のせいで周りの人達に迷惑をかけてしまうのは、少し心苦しいかもしれないわ)
けれど、紗久羅ちゃんは、あの世界と関わりたくて関わったわけではないだろう。だから、きっと辛いのね。
「あの馬鹿狐が、皆を助けても。また、近いうちに新しい事件が起きてさ。もし誰かがそのせいで死んじゃったらどうしよう。そんな風にさ、思う時があるんだ」
「そうね……。毎回、出雲さんが助けてくれるとは限らないしね。でも、関わってしまった以上もう、どうすることも出来ないわ。こうなったら、異界へ引っ張り込んだ出雲さんを、とことん利用して、ピンチを乗りきっちゃいましょう?」
珍しく、ウインクなんかしてみた。片目だけ瞑るのって、結構難しいわよね。左目だけっていうのは出来るけれど、右目だけって私は出来ない。
私は、紗久羅ちゃんと違って、この先どんなことが起こるのか、正直わくわくしている。……流石にそんなことは言えなかったけれど。不謹慎だとは分かっているけれど。
紗久羅ちゃんは、目をぱちくり。ちょっと頭をかいた後、いつもよりは未だ元気がないけれど、それでも十分に眩しい笑顔を私に向けてくれた。
「そうだな。あの馬鹿狐をこき使ってやろう」
二人で笑いあった。きっとお互い、不安と恐怖と罪悪感で胸がいっぱいなんでしょうけれど。今は、笑うしか出来ないから。
笑う門には福来る。二人で笑ったのだから、その福も二倍になるに違いない。それを信じて、兎に角、笑った。
*
紗久羅ちゃんは、歩きながら私に、何故自分があの世界へ行くことになったのか話してくれた。
小さい頃から出雲さんと顔を合わせていたけれど、すぐその存在を忘れてしまっていたこと。出雲さんの存在を忘れることが無くなったのは、花見で彼と出会った日からであったこと。いつになっても老いず、気味が悪いほど美しく、いなり寿司が好きでおまけにこの町に伝わる物語に出てくる化け狐と同じ名前であること……などから、彼のことを「化け狐」と呼び続けていたこと。
そうして、終いに出雲さんがふてくされて、殆ど嫌がらせの為に紗久羅ちゃんを、桜町で毎年行われる夏祭りの日に、あの世界へ引っ張り込んだこと。
その世界で行われた「鬼灯夜行」というお祭のこと。
色々、聞いた。聞けば聞くほど、羨ましくなった。私も、美味しいご飯を食べて、カガキミの樹という美しくて大きな樹を見て、沢山の妖さんや精霊さん達とお話したかったわ。私だったら、喜んでついていったのに。
そう言ったら、紗久羅ちゃんは「さくら姉はそう言うと思った」といって、ため息をついた。
夏祭りの日、紗久羅ちゃんと会ったのを覚えている。私は巫女役の女の人の舞をその後見た。その時、紗久羅ちゃんとよく一緒にいるのを見る女の子二人を見かけた(確か、お花の名前なのよね、二人とも。確か紗久羅ちゃんを入れて、お花トリオと呼ばれていたような)けれど、いるのは二人だけで紗久羅ちゃんはいなかったから「おかしいな」とは思っていた。……そうか。あの時紗久羅ちゃんは、あの世界のお祭に行っていた(連れて行かれていた)のね。
「さくら姉はやっぱりおかしいよ。そりゃあ、お祭はそれなりに楽しかったよ。飯も上手かったし、ものすごく綺麗なものも見られたし。でも、基本的には気味が悪くて、居心地が悪かった。見慣れない奴らがうじゃうじゃいたんだぜ」
「例えば?」
「河童。ぬいぐるみとかとは違って、超リアルな」
「まあ、素敵じゃない。河童の肌ってどんな感じなのか、触れてみたいわ」
「後は、牛の頭で、目が三つあるやつ」
「まあ、とっても逞しそう。目が三つあると、どんな世界が広がっているのか、見てみたいわ」
「……から傘お化けとか、目が沢山ついている肉の塊みたいな奴とか、人型二足歩行の猫とか」
「まあまあまあ、とっても素敵じゃない! 一度是非お会いしてみたいわ!」
「……うん。ごめん、あたしが馬鹿だった」
気のせいか、紗久羅ちゃんのテンションが酷く低くなっているような気がした。
何か私変なこと言ったかしら?
その後、私も紗久羅ちゃんに私があの世界へ行くことになった経緯を話した。
「やっぱり、ある意味すごいよ、さくら姉は。そして、やっぱりあいつは性悪狐だ。本当、あいつは人の不幸をおかずに飯を食いそうな奴だよなあ」
「むしろ、おかずだけでなくてそのご飯さえも、他人の不幸かもしれないわ」
「全然腹いっぱいにならないな、それじゃあ」
「ああ、後。他人の不幸は蜜の味。他人の不幸という名の蜜をかけたパンを美味しそうに頬張るかもしれないわ」
「あいつ、パン食うのかなあ」
「狐は、雑食性らしいわよ。一応肉食寄りではあるみたいだけれど。だから、パンでも何でも食べるんじゃないかしら。やましたの稲荷寿司や、水羊羹を食べている位ですし、きっとパンも食べると思うわ」
言ったら、紗久羅ちゃんが吹き出した。
「あはは、成る程。確かにあいつ一応は狐だもんな。雑食って言葉が何となく似合わない感じがまたうけるぜ。あいつ、虫とかも食べるのかな」
「案外今日のご飯は、ミミズのソテーとか?」
「うええ、絶対食べたくない。ああ、でもあいつがミミズ食っているところ想像したら、笑いが止まらなくなってきた」
出雲さん、今頃あの館でくしゃみ連発しているんじゃないかしら。
私と紗久羅ちゃんは「出雲さん談義」に花を咲かせ、異様に盛り上がった。
ごめんなさい、出雲さん。でも、とっても面白いのでやめられません。ごめんなさい。
明日、おじいちゃんの喫茶店でまた会うことを約束して、私と紗久羅ちゃんは別れた。菊野お婆様と紅葉おば様のやっている弁当屋『やました』からは、温かくて優しくてとても美味しそうな匂いがした。その匂いを嗅いだら、お腹が空いた。
ご飯を食べて、お風呂に入ったら、ノートに今日聞いたことや部活で聞いたことをまとめよう。それを明日、持っていって紗久羅ちゃんと色々話そう。
そう決めながら、私は家のドアを開けた。
*語り
喫茶店『桜~SAKURA~』の中では、いつも通り静かで穏やかな時間が流れていた。心地よいBGM、仄かに漂う珈琲の香り。ギトギトした油の様な太陽の光も、弥助や朝比奈さんが毎日丁寧に磨いている窓を通り抜けた瞬間、優しいものに変わって、テーブルや床に降り注ぐ。
そんな喫茶店の入り口の扉が、からんからんというベルの音と共に開く。雑巾でカウンターを拭いていた弥助は、笑顔を浮かべて「いらっしゃい」とその客に向けて言った。そして、次の瞬間、固まった。
扉を開けて入ってきたのは、弥助にとっては天敵にして宿敵である、出雲だった。
流石に人の世に来ている為か、髪の毛も瞳も黒い。恐ろしく熱い太陽に照らされながらも、その髪は触れたら凍ってしまいそうな位、冷たく見える。不気味に艶々冷たい光を放つ髪が、さらさらと揺れる。太くてごわごわしていて、何だかたわしみたいな弥助のそれとは違って、彼の髪は絹糸の様に細くてさらさらしている。炎天下を歩いてきたはずなのに、汗一つかいていない。一応妖怪である弥助から見ても、目の前にいる男は不気味で恐ろしいものに見える。
客は歓迎するが、不倶戴天の敵は歓迎したくない。
えび天やところ天は好きだが、不倶戴天(の敵)は勘弁して欲しい。
「全く、外は暑い。けれど、この店の中も暑いね。暑苦しい男が、いるからかな」
開口一番、弥助に憎まれ口を叩く。反論しようとする弥助を完全に無視し、カウンターの後ろで本を読んでいた秋太郎に笑顔を向ける。秋太郎は、こんにちは、とだけ言ってにこりと笑顔を返す。
「ちょっと、弥助を借りるよ」
言うや否や、出雲は指で、入り口に一番近いテーブルを指差す。こっちへ来い、と言っているようだった。拒否権は、ない。
こいつが自分の所に来る時は、面倒ごとを押し付ける時だ。出雲は、自分の事を相当嫌っているくせに、そういう時だけやってきて、自分をこき使う。
嫌いなやつにこき使われるほど嫌なものは無い。しかし出雲からしてみれば、嫌いな奴をこき使うほど楽しいものは無い、といったところだろう。人を貶め、苛め、苦しませ、泣かせ、怒らせ、地獄へつき落とすことは最早彼にとって趣味である。他人を巻き込み、不幸にする最低な趣味である。じわじわと体を侵す毒に苦しむ人を見ながら、腹を抱えて笑う様な男、それが出雲だ。
弥助は、ちらりと秋太郎を見た。救いを求めてみる。しかし、秋太郎はにこにこ笑うだけだ。その笑顔を言葉で訳してみれば「行ってらっしゃい」となるだろう。
弥助は、しぶしぶテーブルについた。出雲もそれに続く。
厨房の奥から、朝比奈さんがとてとてと駆けてきた。出雲と同じ綺麗な髪の毛。けれど、彼女の髪からは温かくて優しいお日様の香りがする。絶対零度髪とは対極の位置にある春のお日様髪を彼女は持っているのだ。
ふんわりとした笑みを、出雲に向ける。
「こんにちは。出雲さん、でしたよね。弥助さんのお友達の」
相手が朝比奈さんでなければ、今頃弥助は「友達じゃないっす!」と大声をあげて叫んだだろう。出雲は、あはははと笑いながら首を振った。
「友達? そんな訳ないじゃないか。この馬鹿は、私の下僕だよ、げ・ぼ・く」
いっそすがすがしくなる位の否定っぷり。けれど、朝比奈さんはその言葉も冗談だと思っているらしく、相変わらずにこにこと笑っていた。
「ふふ、仲が宜しいんですね。あ、ご注文は何にしますか」
「そうだねえ。アイスカフェオレとチョコレートパフェをお願いするよ」
「はい、分かりました」
朝比奈さんは、厨房へと消えていく。
「さて、本題に入ろうか」
「今度はあっしに何をさせようっていうんですか」
「おや、随分察しがいいね。でもまあ、安心おし。真っ裸になって、どじょうすくいしながら商店街を歩け、とは言わないから」
「ええ、できればそうして欲しいっすねえ」
怒鳴りたい気持ちを必死に抑え、体を怒りに震わせながら、答える。
「お前の裸なんておぞましいものを、私は見たくないからねえ。……まあ、それはどうでも良いのだけれど。ねえ、弥助、お前は当然知っているよね。この町の人間が次々と姿を消している事件のことを」
「へえ、あんたも知ってるんすか、あの事件のことを。勿論、あっしは知っているっすよ。この前、その被害者の恋人という男性から話を聞きましたからね。そういえば、紗久羅っ子の兄ちゃんのかず坊も、いなくなったんですよね」
出雲が、はあとため息をつきながら頷いた。
「そう。そのせいで、私は面倒ごとを押し付けられる羽目になってしまったんだよ。かず坊が被害者の一人でなければ、こんな事件無視したんだけれどね。だって、私には関係の無いことだし。けれど、あのお馬鹿が連れ去られたせいで、彼はおろか、他の人まで助けることになってしまったのだよ」
「ははあ、それでっすか。あんたが、ああいう事件に興味を持つなんて珍しいとは思ったけれど。……ところで、やっぱり皆を連れ去ったのは、骨桜なんすかね」
孝一の話や、他の被害者達の様子を聞くに、該当する「人ならざる者」といえばその位しかいない。弥助が小声でぼそっと呟くと、出雲は静かに頷く。
「だと思うよ。……けれど、骨桜の目的がよく分からないんだよね。食糧として連れ去るにしては、時期も連れ去る人数もおかしい。複数犯にしても単独犯にしても、おかしいんだよねえ」
しばらくすると、朝比奈さんがやってきて、出雲が注文したカフェオレとチョコレートパフェをテーブルの上に置く。弥助にも、バニラアイスをくれた。
何て優しい人なんだろうと弥助はじんと胸が熱くなった。邪悪の塊を目の前に沈んでいた心が、一瞬でぽかぽかと温まるのを感じる。このまま、この悪霊怨霊よりも恐ろしくおぞましい、化け狐を浄化してくれないものだろうか、などと思う。
しかし、朝比奈さんは眩しい笑顔を向けると、すぐに厨房へ戻ってしまった。お友達同士の会話を邪魔するわけにはいかないということだろうか。弥助は涙が出そうになった。いろいろな意味で。
出雲は、カフェオレを一口飲み、スプーンでチョコパフェのクリームをすくって口に入れる。
「まあ、勿論。食糧にする以外で連れ去ったというのなら、別におかしいことではないのだけれど」
「食糧にする以外で?」
弥助は、首を傾げた。
「それなら、おかしくないと思う。……おかしくは無いけれど、意味は分からない。骨桜にとって、人間は只の食糧に過ぎない存在だからね。他の目的なんて考えられないのだけれど……。今すぐ食糧にする訳ではなく、保存して、後で食べるとか? いや、でも人間は生ものだから、すぐ駄目になるしなあ」
「生もの言うな。あんたは人間だって食糧にするかもしれないが、あっしはそんなことしたことがないっすから……何か生々しい表現なんすよ、うええ」
「ふん、お前がどう思おうが知ったことではないよ。まあ、理由とかは別にどうでもいいんだよ、最終的にかず坊達を助けることが出来ればね。ただちょっと気になるだけだし。……興味深いのは、一番初めに連れ去られたという娘だ。現か虚か分からぬ、美しい桜を見たというじゃないか」
頬杖をつき、出雲は微笑む。曰く「自分が美しく見えるポジションその1」らしい。
弥助は、出雲から夕菜の話が出てきたことに驚いた。何故、そのことをこの男が知っているのだろう。まさか……。
弥助は、嫌な予感がした。出雲はそれを見透かしたかのように、嫌な笑みを浮かべ、スプーンで弥助をびしっと指した。
「君もよく知っている、頭にお花畑が咲いている娘から聞いたんだよ。お前、あの娘の知り合いなんだろう? ああ、そうそう。私にかず坊達を助けてくれと言ったのも彼女だよ。すごいよねえ、いきなり貴方は人間じゃないんでしょう、助けてくださいとか言うんだから。あまり面白いから、あちらの世界へ連れて行った」
弥助の無駄に大きな体から、しゅううう、と力が抜けていった。
自分は、今まで秋太郎には正体を明かしたが(というか初めて会った時点でばればれだった)彼女には明かしたことが無かった。秋太郎は、まだ物の分別がつくというか、踏み入れてはいけないところといいところの区別がつくから、いい。だが、さくらは常に夢の世界をうろうろしているような人間だ。夢と現実の区別が微妙についていない。
下手に正体を明かせば、何を言ったりやったりするか……。ましてや、あちら側の世界へ連れて行くなんて。そんなことしたら、とんでもないことになることは確実だった。彼女にとっても、周囲の人にとっても、良く無いことが起こる。
夢見ているだけで居て欲しかった。
そんな弥助の、ささやかで慎ましい夢を、目の前にいる馬鹿はにこり笑ってぶち壊しやがったのだ。何で、知らぬ存ぜぬふりをしなかったのか。
面白い、という理由だけで誰かをあちらの世界へ連れて行こうとする出雲の気持ちが分からない。分かりたくもないし、仮に分かろうとしても分かるまい。
「余計なことをして。本当に、一度地獄へ行って来い」
「いやだよ。お前が代わりに行けばいいじゃないか」
「あんたの代わりなんて死んでも嫌だ。全く、本当に、ああ余計なことを」
「まあ、どうでもいいよ、そんなことは。それより、その夕菜って子の話が気になる。詳しいことが分からないから、なんともいえないけれど、彼女が見たのは」
「あっしらの世界にあった桜の木……ではないかと。ふらっと歩いている時に、一時的にあちらへ迷い込んでしまった可能性はあるっすね」
人間達の住む『こちら側の世界』そして出雲達の住む『あちら側の世界』二つの世界は、重なり合っていながらも隔絶され、交わることは無い。
本来は、この世界に幾つかある特別な出入り口を、これまた特別な方法で通らなければ、あちらの世界へ行くことは出来ない。紗久羅やさくら、出雲の場合は桜山神社の階段がある場所に存在する「出入り口」とそこから続く『道』を『通しの鬼灯』を使うことで『見て』通って、二つの世界を行き来している。
しかし。二つの世界は基本的には境界線ではっきり区切られている。けれど、時にその境界線がぼけて曖昧になってしまうことがある。特にこの辺りの土地は境界が曖昧になりやすい。
だから、特別な方法を使って、特別な出入り口を使わなくても、適当に歩いていたらいつの間にか、もう一つの世界へ迷い込んでしまうことがある。しかしその場合、下手すると自分の世界へ帰れなくなってしまうことがある。特別な手段を持っている人なら良いが、持たぬ人は、どうしようもない。
「散歩をしている間に、あちらの世界へ迷い込んでしまった可能性はあるね。まあ、その後運よく元の世界へ戻れたみたいだけれど。しかし……もし、その時彼女が見た桜というのが、骨桜だったとすれば……」
「今回の事件と何かしら関係が?」
「あるかもしれない。無いかもしれないけれど。……お前、もう少しその夕菜って子のこと、調べられるかい? 後、一応他の人が『桜』で頭の中がいっぱいになった理由とかも。あ、かず坊はいいよ。原因は、さくらだから」
弥助は、考え込む。どうやら、出雲の用というのはこれらしい。
夕菜のことは、孝一からもう一度聞けばどうにかなるかもしれないが……。
というか、かず坊が連れ去られた理由はさくらにあるのか。大方、桜の木に関する言い伝えかなんかを、熱心に話したのだろう。そういえば、かず坊が消える前、この喫茶店でさくらが、彼に何かを楽しそうに話していたような気がする。
「夕菜さんのことだけはどうにかなるかも知れないっす。他の人は、まあ一応やってみますがね。……骨桜の意図がよく分からないっすが、もしかしたら、今回の事件は、彼女があちらの世界へ迷い込んだことから始まったのかもしれないっすね。いや、まあ彼女が見た桜が、あちらの世界の桜だったらの話っすがね。本当に只の夢だった可能性もありますし」
バニラアイスを、口に入れる。仄かな甘味が口の中に広がる。面倒ごとといえば面倒だが、丁度「孝一や夕菜、そして他の被害者達の為にも何かしてあげたい」と思っていたところだ。
自分の力では、どうにもならない。が、出雲ならどうにかしてくれるかもしれない。悔しいけれど。……本当に助ける気があるのか、今いちよく分からないが。
そういえば、他の被害者達って誰だったっけ……。後でそれも調べないと。
などと思っていたら、また喫茶店の入り口の扉が開いた。からんからん、という涼しげな音。
弥助は立ち上がる。客を迎えねば。弥助は入り口へ向おうとした。
そして、またさっきのように固まることになった。
入ってきたのは、さくらと紗久羅だった。