恨み蝦蟇爺(3)
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弥助の心からの願いは天には届かなかった。昨夜もまた同じように寝ているところを襲われた人達がいたのだ。しかもその人数は前の夜以上に多く、あまりの多さに弥助は開いた口が塞がらなかった。中には理沙同様意識不明の重体の者もいるようだ。今のところ死者が一人も出ていないことは不幸中の幸いだといえそうだった。だがこのまま放っておいたらどうなるか分からない。
一昨日の夜に襲われた人達は皆、襲われた時のことをはっきりと覚えていないらしい。とても恐ろしい目に遭った様な気はするが、具体的なことは頭からぽっかり抜けてしまっているという。昨夜襲われた人達も恐らく同様に、あまりはっきりと覚えてはいないのだろう。妖に襲われた時のことをよく覚えていない――というのはよくある話だ。自分の常識を守りたいが故に無意識の内に記憶を封じ込める場合もあるし、妖の力が作用して記憶が曖昧になることもある。
弥助は今日、三つ葉市で理沙以外の被害者について調べるつもりだった。被害者には共通点があるのか、それとも無差別なのか、情報を集める内に分かるかもしれなかった。
(昨夜の被害者達もあっしと悪ガキ共が争っているのを見ていたのか? いや、でもあそこはあまり人通りが多い方ではなかったし……これ程までの人数がこっちを見ていたって覚えは無い)
昨日は結局進さんとお酒を飲み別れてからは、三つ葉市内をうろうろした位で大した情報は手に入らなかった。ただ、弥助が完膚なきまでに叩きのめした男達がまだ高校生であること、三つ葉市に住んでいること、相当なろくでなしであったこと、幾つも騒ぎを起こしていることなどは分かった。コンビニや飲食店に客としてやって来て迷惑極まりない行為を幾つもし、注意すれば逆切れし、暴力やら恫喝で相手をねじ伏せる……まったくろくでもない連中で、道を外すまでの経緯に色々な事情があったとしても許されるべきではない行為の数々を聞き、弥助は頭を抱えたほどだ。
弥助は準備を整え、それから三つ葉市へと向かう。なにぶん昼間なので昨日のように屋根から屋根へと移動する方法はとれなかったが、別に何の問題も無い。気配を消すのが呆れる程上手い出雲なら日中だろうがなんだろうが、そういった大胆な行動がとれるのだが。ただ出雲の場合、移動する為にわざわざ屋根まで上り、勢いよくジャンプして飛び移りながら進む……などという面倒で歩くよりある意味疲れることなど、自らの意思ですることは殆ど無い。きっとそういう姿を見たら「何故わざわざそんなことをするのか」と鼻で笑うに違いない。
凍てつくような寒さは健在だ。あんまり健在すぎて腹がたつ程である。人間に比べれば寒さには強い方だが、寒さを全く感じない程強くは無い。特に色々なことを考え、悩み、(ほぼ間違いなく)妖によって傷つけられた人達のことを思って胸を痛めているその身には、冬の風は堪える。
のどかな、いかにも平和ですというような空気で満たされた小さな町を離れ、そのお隣の、常にぴりぴりとしていて、汚れていて、落ち着かない空気に包まれている三つ葉市内へと入っていく。屍のような建物が立ち並ぶ、悪い意味で騒々しいこの街のことが、弥助は正直あまり好きではない。時々足を運ぶ位なら良いが、ここに住みたいとは一度も思ったことが無い。だが今の人達はこういう場所の方が好きなようで。弥助にはその考えがあまり理解出来なかった。
(こんな所で毎日過ごしていたら、心も荒むよなあ全く)
この街に来ると、そういうことを時々考えてしまう。だが今はこの街に対する思いなどどうでもいい。今回の事件について調べることの方がずっと大事である。誰に頼まれたわけでもない、それでも弥助は動かずにはいられなかった。
平日の昼間でも人通りは多い。弥助はそこらで話しているおばちゃん達や、何度も通う内すっかり仲良くなった店の人達などから話を聞く。そういった顔馴染みの人は三つ葉市にも多い。初めて会う、全く面識が無い人間相手にも臆することなく話しかける。相手は初めこそ驚くが、不審に思ったり気持ち悪がったりすることはない。そしていつの間にか弥助とずっと前から友達だったかのように接するようになるのだ。弥助も同じような気持ちで相手と話す。情報を集める為に仕方なく話しているとか、顔は笑っているが心の中は冷めているということも無い。心から楽しんで会話することが、結果的に相手から情報を上手いこと引き出すことに繋がるのだ。
「あら、弥助さんこんにちは」
「弥助じゃないか、久しぶり」
「お兄さん、しばらくぶりね元気していた?」
「コロちゃんが急に走る向き変えたから、誰か知り合いがいるのかなと思っていたら貴方だったのねえ」
歩いていると、色々な人から声をかけられた。顔見知りの人達でお互いの名前を知っている者もいれば、名前は知らないがそこそこ仲は良いという人達もいる。そういった人達からも世間話を交えつつ、情報を集めていく。中には知り合いや身内が被害に遭ったという人もいた。
そうして色々な人と話す内、他の被害者についてのことが少しずつではあるが分かってきた。
高校教師、飲食店やカラオケ店でアルバイトをしている者、大学生、ヤンキー……被害に遭った人の性別や年齢はバラバラで、小学四年生の子も一人襲われ怪我をしたらしい。そんな子があの時間あの場所にいたとは思えない。そう思える人は他にも沢山いる。ならば、一昨日のことと今回のことは関係が無いのかもしれない。
怪我の度合いは矢張り人それぞれ、どういう怪我をしたのかもバラバラだが、大抵は何かで切られたり、刺されたり――といった状態だそうだ。そしてその体は何かぬるぬるとした生温いもので濡れていたらしい。怪我をした時のことをはっきりと覚えている者の話は聞かなかった。
「私の親友の旦那さんもね、被害に遭ったのよ。命には別状なかったみたいだけれど……朝電話で聞いてびっくりしちゃった」
そう語ったのは、三つ葉市を二分するように流れている水瀬川をふらふらと歩いている時、ふとしたことがきっかけで言葉を交わした中年の女性で、今日もいつものように彼女はジョギングをしていたらしい。額から流れる汗をタオルで拭き、息を整えながら喋っている。
そのことを話した後、彼女は何かを思い出し何か悲しくなったのか嘆きの息を漏らす。
「曲がったことが大嫌いな、真っ直ぐで良い人でねえ……この前も電車の中で、周りに迷惑がかかる位派手に騒いでいた、いかにも素行が悪そうな若い男達に注意したそうよ。そしたら逆ギレされて、おまけに殴りかかられそうになったらしいけれど、隣にいた屈強そうな男子高校生が助けてくれたみたい。結局注意された子達は、それからすぐに着いた駅で電車から降りていったそうよ。お前達のせいでいらん恥をかいた、くそ、死ねジジイ、クソガキとかなんとか言って……挙句安静が必要な位の怪我をして……あんなに良い人を襲って……無差別なのか何なのか分からないけれど、嫌な世の中になったわね」
嫌な世の中、という言葉に弥助は反論出来なかった。人間を好ましく思い、人の世を愛する弥助にも、そのことを否定することは出来ず。今と昔は何かが違う。発達具合がとか、そういう部分ではなく別のどこかが確実におかしくなってきていた。
さて、そのことを嘆く一方で弥助は別のことも考えていた。マナーの悪い若い男達に注意した男性。その男性が殴りかかられそうになったところを助けたという男子高校生。彼はその話に聞き覚えがあった。覚えがあるはずだ、実際ほんの数時間前に聞いたばかりだったのだから。
それはスーパーの近くで話し込んでいたおばさん達から聞いた話だった。こちらの話のメインは始めに男達を注意した男性の方ではなく、彼を暴力から守った男子高校生の方だった。男性と同じく、正義感が強い、今時珍しい位真っ直ぐな少年だったらしい。
そんな彼は昨夜、何者かに襲われ怪我をした。……その身を生温い何かで濡らし、体中傷だらけにして。矢張りこちらも命に別状は無かったようだが、それでも決して軽い怪我とはいえない有様だったという。
だから弥助は驚いていた。まさか二人共同じように妖に襲われ、怪我をしたなんてと。
(これは偶然か? いや、もしかして……)
弥助の脳内に浮かぶ五人の男の姿。電車の中で騒ぎ、それを注意されたら逆ギレ……彼等ならやりかねない。女性にさりげなくそのことについてより詳しい話を聞いてみると、男達は五人組で高校生位だったらしい。あの日出会った男達は十六~八歳で五人組……可能性として有り得なくはない。
それから世間話をして彼女と別れた。そしてもっと別の人達から話を聞いてみようと市内を引き続き歩き回る。被害者達が乱暴でお馬鹿さんな男達と何らかの形で関わっていたかどうか――そのことについて聞ければ聞いた方が良いかもしれないと思いながら。
騒がしく、せわしなく、陰鬱になる位澱んだ空気に包まれた街だが、ほっと落ち着けるような場所が少しもないわけではない。
大通りから少し離れた、比較的古くて低めの建物が並ぶ通りにある小さな喫茶店へと弥助は入った。イメージカラーというものをあげるとするならセピア色の、ほんのり橙がかった灯りに照らされた店で、外国のしゃれた音楽が店内を優しく包み込む。優しく、甘いメロディーは外に漂う汚らしい空気を店の中へ寄せつけない。コーヒーの匂いが胸にじんわりと染み渡り、心を自然に落ち着けてくれる。客層はどちらかというと高めだが、喧騒を嫌う比較的若い人達にも愛されている。
店内左側にはテーブル席が数個あり、眼鏡をかけコーヒーをすすりながら読書している老婆や、勉強か何かに夢中の学生、談笑しつつパフェを頬張っているおばさんなどの姿がある。
右手にはカウンターテーブルがあり、渋い格好をした初老の男性と、友人同士らしい若い女性が二人椅子に腰掛けていた。弥助はカウンターテーブルの一番奥に座る。やがてこちらに背を向けていたこの店のマスターが、弥助の存在に気づきにこりと微笑んだ。
「あら、やーさんいらっしゃい」
「だからそのやーさんってのやめてくださいよ、ヤクザみたいじゃないっすかそれじゃあ」
弥助が苦笑いすると、マスターはくすくすと笑った。こちらが本気で怒っているわけではないことをちゃんと理解しているのだ。
「いいじゃないの、別にそっちの意味で言っているわけじゃないんだからあ」
ところでこのマスター、口調は女だが性別は男である。渋い顔のダンディなおじさまだ。女口調だが別にオカマさんということはなく、普通に女性が好きで(男性に恋愛感情をもつことは全くない)、妻子もち。いつも女口調で喋っているわけではなく、気分によって口調が変わるタイプでいたって普通の喋り方になったり、ワイルドな口調になったり、英語交じりになったり、敬語オンリーになったり……色々である。
「まあ、いいってことにしてやろう」
「ははあ、弥助様の深いお慈悲に感謝いたします。ふふ、なんてね。……いつものでいいかしら?」
いいっすよ、と答えるとマスターはてきぱきと手を動かし、弥助好みのブレンドのコーヒーを作って出す。白いティーカップに注がれた茶色がかった黒い液体から良い香りが漂う。更に弥助は甘酸っぱいフルーツと甘さ控えめのクリームがたっぷり入ったこの店自慢のロールケーキを頼んだ。
「程よく甘いこれが、コーヒーによく合うんだよなあ。クリームも甘すぎないから、ちゃんと果物の味がするし……絶妙な甘さっすよね、うん」
「ふふ、ありがとう。それにしても久しぶりねえやーさん。何ヶ月ぶり?」
「ここ三ヶ月位来ていなかった気がするなあ」
「他の喫茶店と浮気しちゃったわけ? 酷いわやーさん、この店というものがありながら!」
口調が女っぽくなると、仕草まで女っぽくなる。ぷくっと頬を膨らませ、両手に腰をあててぷりぷりする様子はまるっきり機嫌を損ねた女の子だ。
「悪いな、マスター。あっしには昔から心に決めた店があるっすよ……」
「まあ、一体どこ、どこなの!」
「喫茶店『桜~SAKURA~』だ」
「ま、まさか秋ちゃんのいる……そんな! まさかあそこが貴方にとって一番お気に入りの、一番通っている店なの!? ああ、そんな、そんなことって、私信じていたのに……ってそこは貴方の働いている店でしょうが」
ノリにのって最後にはびしっとツッコミ。弥助はにししと笑った。ちなみに秋太郎とここのマスターは知り合いで、仲も良い。
マスターは他のお客さんの相手もしつつ、弥助とも色々と話す。お互いの店であった珍エピソード、食べ物の話、年末年始をどう過ごしたかということなど……――。
そこから政治や芸能のニュースについての話になり、最後に弥助が今調べている件についての話になっていった。
「全く、一体何なのかしらね……同じ犯人の仕業なのかしら? それにしても異常な数よねえ……もう二日あわせて六十人以上の人が被害にあったのでしょう? それ全部、同じ人がやったとしたら……ああ、恐ろしい!」
「マスターの知り合いで被害に遭った人はいたんすか?」
そう聞いたら、彼の顔つきが苦しげなものになった。どうやらいるらしい。
カップを綺麗にしながら、先程までより小さな声で話しだす。
「近くの家に住む高校の先生がね……結構酷いみたいで、今意識不明の重体らしいの。この店にもよく顔を出してくれていた、仲の良いお客さんでもあったから、ショックだったわ」
「高校って、どこの?」
「野風高校。……この街にある高校の中で、一番荒れている処よ。ヤンキーのたまり場で、何人もの教師が逃げるようにやめていくらしいわ。あ、被害に遭った先生は別に性格に問題があるとか、何かトラブルを起こしたとかそういう理由でその高校に配属されたわけじゃないわよ? むしろその逆で、真っ直ぐで心優しくて、その学校の生徒達を変えることが出来そうだからってことでそこへ異動したのよ。実際彼のおかげで更生した子も少なくないみたい。……勿論全員が全員彼に心を開くわけじゃないだろうけれど。うざがられたり、筋違いの恨みを買ったりすることもしょっちゅうで、なかなか大変みたい。今もある問題児グループをどうにかしようと頑張っているようだけれど、かなり邪険に扱われているって苦笑いしていたわ」
それを聞き、弥助は考え込む。浮かぶのは矢張りあの男達の顔だ。彼等が高校に入っているかどうかは分からないが、もし入っているとすればその高校である可能性が高いと思った。そして実際そうなら……また、電車内で注意されて逆ギレした男達というのもまた彼等だったとしたら。
(事件があいつらで繋がることになる……)
といっても実際に人々を傷つけているのは彼等ではないだろう。どこからどう見てもあの男達は人間だった。だが、人々を襲っているのは人ではなく妖である。
(あいつらと、その妖ってのが何らかの形で繋がっているのか?)
と、マスターがカウンターテーブルについていた女性二人に話しかけられ、弥助から少し離れる。マスターに話しかけた女性客はまだ大学生位で、神妙な面持ちでマスターを見ていた。
「どうしたの? みっちゃん、よっちゃん」
「あの、マスターのお知り合いの方も……襲われたんですか?」
髪の長い女性ががちがちに固まった声で問う。小さな声であったが、耳の良い弥助には彼女が何と言っているのかはっきりと聞こえた。マスターは「あらまあ」と目を丸くした。お知り合い『も』と言ったということは、彼女達の知り合いも襲われたということだ。弥助はコーヒーをちまちま飲みつつその会話に聞き耳をたてる。
「あゆも襲われたみたいなんです……幼稚園の頃から仲が良くて……ほんの少し前にその子のお母さんから電話があって。少しの間入院するらしいんです」
「まあ、あっちゃんが? そんな、まあ……とりあえず無事ではあるの?」
「はい。意識はあるみたいです、でもショックが大きいみたいで……出来たらお見舞いに行きたいなって思うんですけれど。これから花屋へ行く予定です」
今度は髪の短い方の女性が話す。その声は悲しみと苦しみが混ざっていて、ただ耳にするだけで胸が痛むものだった。本当に心からその友人のことを心配しているという証拠だった。髪の長い女性の表情も沈んでいる。
「バイトでちょっと嫌なことがあったらしくて、少し元気がなくて……挙句これですもん、本当可哀想というかついていないというか……嫌なことって続くんですね」
「バイトで? 何かミスしちゃったとか、バイト仲間と何かあったとか?」
髪の長い女性(後にこちらがみっちゃんで、髪の短い方がよっちゃんであることが分かった)はふるふると首を横に振った。
「客とのトラブルらしいです。といっても悪いのは百パーセント向こうの方だったみたいですけれど。いかにもヤンキーって感じの高校生五人組らしいです。あの子レンタルビデオ店で働いているんですけれど……その客達がDVDを返しにきたんです。そしたらケースと中身がバラバラになっていて、それを直しながら返却を確認していたら『そんなこと今やらなくてもいいだろう』とか言いだしたらしくて。そうしなければ確認なんて出来ないのに。おまけに延滞していたらしくて」
そのことを伝えたら、キレられたらしい。たかだか一日遅れた位でそれだけとるなんてぼったくりだ、詐欺だとかそんなことを言い、タダにしろとか何とか言って彼女に迫ったらしい。結局店長を呼び、どうにか延滞料を払わせることは出来たようだが、最後に色々暴言を吐かれたらしい。
「ブスだの死ねだの……。その客達ってそんなことばかりしているみたいです。自分達の欲しいレンタルCDが無かったからって『何で置いてないんだよ』とか怒鳴ったり、カードを更新する為に申込書にサインしてくれと言ったら『面倒臭い、お前らが書けばいいだろう』とか何とか言ったり、ケースや袋を平気で汚して返してきたり……」
兎に角ろくでなしであったらしく、店のブラックリストにもその名を連ねているそうだ。弥助はその話を聞き、頭と胃がきりきりと痛む思いがした。マスターも同じようで、
「嫌になっちゃうわねえ……お客様は神様ってやつかしら? でもそんな我侭な神様、こっちから願い下げって感じ。それにしてもあっちゃん、心配ねえ。体の傷は癒えても、突然襲われて痛い目に遭ったことでついた心の傷は、簡単には癒えないでしょうし」
それには弥助も同意する。他の被害者とて、幾ら襲われた時のことを覚えていなかったとしても心に深い傷を負っただろう。突然全身を襲う痛み、何が起きたか分からぬまま苦しみ、痛みに悶えなければいけない辛さ。
「犯人が誰だか知らないけれど、許せないわ。ねえやーさんもそう思うでしょう?」
マスターが、そ知らぬ顔で会話を盗み聞きしていた弥助に尋ねた。弥助はいきなりのことでコーヒーを噴出しそうになった。
「どうせやーさん話聞いていたんでしょう? やーさん地獄耳だから。花の乙女の話を盗み聞きなんて、えろえろさんねえ」
「そんなんじゃないっすよ! その誤解を招くような言い方やめてくださいってば!」
「あらいやだ、やーさんったら必死になっちゃって。面白いわねえ」
とマスターはくすくす笑う。マスターは弥助がこういう風に弄ったからって怒ることはないことを分かっている上でやっているし、弥助もマスターが本気で言っていないこと位重々承知している。みっちゃんとよっちゃんも不快な気持ちにはならなかったらしく、あせっている様子の弥助を見て小さな声で笑っていた。沈んだ顔に少し元気が戻ったことを弥助は喜ばしく思う一方、笑われて恥ずかしいなどとも思った。
それからその二人とマスターとで少しの間話をした。弥助とマスターとでお見舞いに関するアドバイスをしたり、学生生活について(みっちゃんとよっちゃんは大学生だった)話し、マスターが昔のほろ苦い青春物語を思い出したのか目を微かに潤ませたり、弥助が自分から見れば圧倒的に年下である三人から弄られたり……周りのお客さんの時間を壊さない程度の声で喋った。
店を出てから弥助は更に色々調べた。人から話を聞き続けるという地道な作業だったが、弥助はそれを大して苦には思わなかった。元々人と話すことは好きだったからだ。
そうして色々話を聞いてみれば、他の被害者達にも見るからにヤンキーな男達と何らかのトラブルがあったらしいことが分かった。勿論被害者全員の情報は集まらなかったが、それでも今回の件とヤンキー達は密接な関係にあった可能性が大いに高いと判断するのには充分な情報は得た。トラブルといっても九割九分九厘はヤンキー達の方が悪く、被害者達には全くといっていいほど非が無かったようだ。そんな人達が何者かに襲われ、怪我をしてしまった。
弥助は一度桜町へ戻ることにした。桜山から『向こう側の世界』へ向かい、犯人捜しに役立ちそうなものを探すのだ。今回の件はこのまま放っておいたからといって解決しそうにもない。
彼の脳裏に浮かぶのは、ある妖の姿。空間を裂き、建物の中へ侵入して寝ている人間を呑み込み、体内にある特殊な空間内でその人を傷つけるという妖。
居酒屋で蛙の置物を見た時連想し、冗談で口にした者――恨み蝦蟇爺。被害者の体は皆生温いもので濡れていたという。それは彼に呑み込まれたからではないだろうか。
だが弥助は彼が犯人であるという確証がいまいち持てなかった。
(何で理沙さんや、あの現場を目撃していた人達が襲われて、あっしはまだ襲われていないんだ? それに、どうしてあの人達は襲われたんだ……? 理沙さん達を恨む理由がどこにある? しかもあれだけの怪我を負わせる程強く恨めるものか……?)
また、恨み蝦蟇爺は恨みを抱く者に、恨みの対象を怪我させた時の光景を見せるという。そうしながら彼は、その人が抱く恨みを喰らう。恨みを喰らう代わりに、その人の恨みを少しでも晴らす為、対象者を痛い目に遭わせる。男達は、人々が惨たらしく痛めつけられるサマを見せられたはずだ。それは相当な光景であるはず。それを見てなお恨み蝦蟇爺に恨みを晴らしてもらうことを止めなかったのか。普通なら恐怖するか、奥底にある罪悪感に胸を痛めるのではないだろうか……そう弥助は思った。
桜町に近づくほど、世界を包む静寂の割合が大きくなっていく。ほっと落ち着ける空気で作られたこの町のことが、昔に比べると大分様相が変わったがそれでも彼は好きだった。
田んぼや古い民家に挟まれるようにしてある道をしばらく進む。闇に同化するようにそびえたつ黒々とした山は、闇を好む異界の住人の住む世界への入り口だ。枯れた葉が申し訳程度についている枝が伸びる木々は、闇の中でのみ呼吸し、生きる化け物のようである。闇の口を開け、彼等はざわざわと笑っている。
神秘と異質の境目にあるような、赤黒い鳥居が山の裾にあり、その口を開けていた。と、その口から姿を見せた人影。その人影は徐々にこちらへと近づいてくる。闇を違和感なく自然に身に纏い、蝶か風に舞う羽衣の様にひらひらとしなやかに動く手足。異界への入り口ともなりえる水の様に地へと流れる長い髪。
その人物が誰であるか把握した途端、弥助は顔をしかめた。それはその人物も同じで、彼以上に嫌そうな顔に一瞬でなった。同じ妖である弥助でさえ気持ち悪いと思う程整った顔立ち、氷人形かと思う程冷たい体を持つ男。
「何だ、ゴミかと思ったらやっぱりゴミだった」
「誰がゴミだ、こら!」
先に口を開いたのは向こう――出雲の方だった。弥助を見る目はゴミでも見るかのような目つきで、実際彼は弥助のことをゴミであると信じて疑っていない。弥助が反論しても出雲はどこ吹く風だ。
「全く、美しい夜によりにもよってお前なんかと顔を合わせることになるなんて……今日は厄日だね、ああ、嫌だ嫌だ。まあ、そんな日も後数時間で終わるけれど。ああ、それにしても嫌な気分だ。どうしてこんな時間にお前はここを歩いているんだい? お前が歩いてさえ、いや、生きて、息をしてさえいなければ私は幸せだったのに」
「へん、残念だったな嫌な気持ちになって! ざまあみろってんだ。お前が嫌な気持ちになったり、嫌な目に遭ったりする程嬉しいことはない」
鼻で笑ってやると、出雲はぎろりと弥助を睨む。弱い人間なら簡単に射殺されてしまいそうな目で。
「腹が立つったらないねえ……まあいい。明日その分紗久羅を可愛がって遊ぶんだ」
「この変態野郎が。あいつも可哀想に。まあいいや、あっしは早く向こうの世界に行きたいんだ、お前なんかと話している時間がもったいないったらない。あっしにはやりたいことがある……と」
そういえば、と弥助はふと思った。出雲は今回の事件のことについて知っているだろうかと。試しに尋ねてみると出雲はため息をつき、それから「知っているよ」と答えた。
「紗久羅が今日そのことで騒いでいたもの。『向こう側の世界』の住人が関わっているんじゃないかとか何とか言って。全く、何でもかんでも我々と結びつけようとするんだから……困った子だよ。それはサクも同じだけれど」
「お前が『向こう側の世界』に連れて行って、向こうの世界のことを教えちまったのが悪い。そんなことしなけりゃ彼女達だってそんなことを考えることだってなかっただろうに……しかし、今回はどうやら紗久羅っ子の方が正しいようっすよ」
それを聞いた出雲の耳がぴくりと動き、弥助を睨みながら「どういうことだい」と聞いてきた。弥助は今回の件のことや、ヤンキーや理沙のこと、自分が聞いてきたこと全てを出雲に話してやった。興味がないといってさっさと去るかと思いきや、珍しく出雲は最後まで大人しく話を聞いていた。といっても顔は不機嫌そうであったが。
話し終えると出雲はいつの間にか取り出した扇を開き、口元にやる。
「ふうん、成程……それで、お人よしのお前はどうにかしてやろうとじたばた醜く手足を動かしていると。成程、そうかそうか……道理で」
道理で? その言葉は何を示しているのか。弥助は気になって聞いてみた。
「道理でって何だよ」
「いや、お前みたいに吐き気を催す位お人よしで、気色悪い位優しい性格なお前でも、本気で恨まれることがあるんだなあと思ってねえ。あ、勿論私は別だけれど」
「恨まれることがあるって、何を」
出雲は三日月を二つ合わせたような口を歪めて笑う。
「お前にあの蝦蟇の印がべったりとついている。……いずれお前を襲うつもりのようだ」
闇にすうっと溶ける声。その声が発した言葉は予想だにしていなかった言葉とまではいかないが、充分衝撃的なものだった。出雲はくすくす笑った。
「金魚みたいに口パクパクと開けて、ただでさえ間抜けで汚い顔がますます面白いことになった」
「そんな、それじゃあやっぱり皆を襲っている犯人は」
「恨み蝦蟇爺だろうねえ、高確率で。そしてその背後にいるのは、お前がこてんぱんにしたという不良君達だろう……お前の話を聞く限りでは。被害者達が何らかの形で関わっていた不良組と、お前が関わった不良組は同一人物なのだろうさ」
弥助は彼等のあの憎たらしい顔を思い浮かべる。馬鹿な奴等だとは思ったが、そこまで馬鹿だったなんて。その直後脳裏に浮かんだのは理沙の顔だった。
「ちょっと待て、あっしが……まあ逆恨みにせよ何にせよあいつらに恨まれるのは分かるが、あっしが助けた理沙さんや、あの現場を目撃していた人達は何で恨まれる羽目になったんだ? 恨まれる理由が一体どこに」
出雲はそれを聞いて呆れたように息を吐き、そして弥助を侮蔑する。
「お前は馬鹿なのかい? 普通に考えれば分かることじゃないか。それとも人間のことが大好きなお前は、人を好くあまりに人間の醜い部分から目を逸らしているのかい? 現場を目撃していた人間は、彼等にとっては自分達がぼこぼこにされているところを見て面白がっている奴等に見えたんだろう。実際面白がって見ていたのもいたのだろう? 彼等は『俺達を見世物扱いしやがって、むかつく、ぶっ殺す』とでも思った、だから憎くなり、恨み蝦蟇爺に襲わせた」
「それじゃあ、理沙さんは」
「自分達がお前にこてんぱんにされたのは、理沙という娘に声をかけたからだ。彼女に声をかけて、彼女を無理矢理どこかへ連れて行こうとしなければお前にぼこぼこにされることもなかった。だからこう思ったんだろう。『あの女のせいだ、あの女のせいで俺達はぼこぼこにされるわ馬鹿にされるわで、散々な目に遭ったんだ。あの女まじむかつく殺してやる!』ってね」
彼は表情一つ変えずに言ってのけた。その声は相変わらず氷のような冷たさで、夏に聞いても納涼を通り越して凍死してしまうレベルである。
あまりの言葉に、弥助は何も言えなかった。そんなことを平気で考えられる人が本当にいるのだろうかと思った。いや、本当は心の奥底ではとっくに分かっていたはずだ、だがそんなことは幾らなんでもあるはずがないと否定し、意識の表面に出すことを拒んでいたのだ。
「だが、でも、そんな」
「お前は本当馬鹿なの? 人間というものを美化させすぎじゃないのかい、お前は。お前は分かっていたはずだ、その不良君達は自分の非を絶対に認めない、すぐ逆ギレするような人間だってことが。そのくせお前は、いや、幾らなんでもそんな風に人を恨んで、怪我をさせるようなことなんてするはずがないと言い張る」
これには弥助も反論出来なかった。出雲は嬉しそうに笑った。
「お前をまだ襲っていないのは、単純に蝦蟇にお前を倒せるだけの力が無いからか、或いは最後の締めにお前を殺すことで全てを終らせたいからか分からないが。……ふふ、人間は醜い、とても醜い。そうやって平気で自分の非を他人のせいに出来る。挙句、その人間を傷つけ苦しめることが出来るんだ。とても醜いからこそ、美しい。ねえ、私はそういう人間が大好きだ。彼等にはもっともっと傷つけてもらいたいものだ。恨み蝦蟇爺を使って、大いに暴れて欲しい。私は紗久羅からその話を聞く度、胸を躍らせ、心から笑うんだ。ああ、人間って本当に醜くて、酷くて、素敵な生き物だねえ!」
月輝く闇夜に、出雲の高笑いが響き渡る。こうなると最早何を言っても無駄だ。恐らく弥助が今目の前にいることさえ忘れているだろう。弥助は彼を思いっきりぶん殴りたくなる衝動を必死で押さえ込み、それから彼の横をすり抜けて桜山へと走っていった。異界へと繋がる道具を手にしながら。
早く、一刻も早く恨み蝦蟇爺を止めなくてはいけない。道理が分からない、詳しい所在も分からない男達をどうにかするよりも、蝦蟇の方を止める方が恐らく簡単だろう。
だが、空間を裂いて移動する彼の現在地などを掴むことは、力の気配を辿るのがあまり得意ではない弥助には至難の業。だが、もしかしたら『向こう側の世界』に、そのことをどうにかする為の術があるかもしれない。
消える消える弥助の巨体。山に、鳥居に、闇に吸い込まれてあっという間に無くなった。