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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
恨み蝦蟇爺
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恨み蝦蟇爺(2)


「嘘、だろ……?」

 弥助はTVの前で呆然としていた。昼、彼は秋太郎の家で休憩していた。普段は喫茶店にある小さな部屋で休んでいるのだが、こうして時々彼の家にお邪魔することがあるのだ。ご飯を食べつつTVをつけていたら、丁度あるニュースが流れていた。それは三つ葉市で起きた事件を報道するものであった。朝のニュースでも流れていたが、その時はまだあまり詳しいことは言っていなかった。


 その事件というのは深夜から朝未明にかけて起きたもので、二十人近くもの人間が、自宅、もしくは友人宅で寝ている間に次々と何者かに襲われた、というものであった。ある者は骨折し、ある者は手や足、顔を縫う羽目になった。怪我は決して軽いものではなかったが、命に関わるようなものでは無かった。……ただ一人を除いては。

 あるアパートの一室に住んでいたその一人だけは全身血だらけの状態で見つかり、病院に運ばれたものの意識不明の重体だという。発見当時、玄関のドアには鍵がかかっており、窓も閉まっていて完全に密室状態だったそうだ。しかし、彼女の負った怪我はとてもじゃないが自分でつけたようなものには見えないらしい。とはいえ、まだ人為的なものであるのか、はたまた何らかの事故によるものなのかについての話はなかった。まだその辺りは断定出来ていないのだろう。また他の被害者の家も皆、密室状態だったらしい。

 弥助はその人物の名前を聞いて呆然としたのだ。何故ならその名前は半日程前に聞いた名だったからだ。


 汐見理沙。弥助がやんちゃでお馬鹿なお兄ちゃん達の手から守った女性の名。

 それが、今意識不明の重体だという女性の名前。年は二十歳――弥助が助けた彼女も見た目その位だった。名字が佐藤とか田中ならともかく、汐見という名字はありふれたものではない。同姓同名の別人……ではなく、恐らく同一人物と思われた。

 昨夜自分に助けられ、笑顔を浮かべてお礼を言っていた女性。そんな彼女が数時間後、大怪我を負い意識不明の重体になるとは。

 信じられない、どうしてそんなことにとただ弥助は愕然とした。そして、大きなショックを受けた。

 そのニュースは今回の件は事件性が高いとみて捜査を進めているという文言で締められた。そしてそれから今度は別のニュースへと移行していく。だが今の弥助の耳には、それらのニュースは届かない。しばらくしてようやく我に返った弥助はチャンネルを変え、また別のニュース番組を見る。そこでもこの事件について報道されていたが、目新しい情報は無かった。TVを消し、喫茶店へ戻りながらも弥助の頭はこの事件のことでいっぱいだった。


(詳しいことはさっぱり分からんが、部屋が密室状態だったってのが気になるな……まさか妖の仕業? いや、あればかりの情報だけじゃ何とも……)

 被害者の一人が知人(である可能性が高い)であるから、どうしても気になり、このことについて詳しく調べたいと思った。しかし今はバイト中だし、残りの休憩時間を使っても大したことは出来ないだろう。調べるとしてもバイトが終った後になりそうだ。

 もやもやとした、重いものを胸に抱いたまま喫茶店へ戻ると、満月が笑顔で彼を迎えた。その笑顔に弥助は僅かな間だけ三つ葉市で起きたという事件のことを忘れた。天使の様な笑み、至上の笑み。それを見ると自然に顔が、いや、全身が蕩けてしまう。太い丸太が一瞬にして熱したチーズである。

 それでもすぐ、頭の中に昨夜出会った理沙の顔が現れた為に弥助の顔は若干固くなった。それは微妙な変化であったのだが、満月はそれを見逃さなかった。


「弥助さん……どうかなさいましたか? 何か悩み事でもあるのですか?」


「え?」

 そのことを看破されたことに弥助は驚いた。自分では顔に出していないつもりだったからだ。心配そうに自分を見る彼女に弥助は色々な意味でどぎまぎしつつ、首を横に振った。


「いや、何でもないっすよ。心配してくださって、どうもありがとうございます」

 満月はそんな弥助をじいっと見つめている。満月の様に丸い瞳に見つめられ、弥助は顔が熱くなるやら汗が噴出すやら。しかし満月は弥助が観念して何もかも喋ってしまう前に、とりあえず彼の言うことを信じたのか「そうですか」とにこりと笑い、もし何かあったら迷わず相談してくださいねという天使の如き言葉を残して弥助から離れた。弥助はほっと胸を撫で下ろす一方、もっと朝比奈さんに見つめてもらいたかったなどと阿呆なことを考えた。


 残りの僅かな時間を休憩用の小さな部屋で過ごした後、仕事に戻る。とりあえずTVで聞いたニュースのことは頭の片隅へ追いやり、仕事に集中するよう努めた。が、お客さん達の中には今回の事件のことを話す者達がいた為忘れるに忘れられず。聞き耳をたて、その話を一応聞いたが矢張りTVで聞いた以上の情報はつかめず。

 少し仕事が落ち着き、時間が空いた時に弥助は秋太郎に今回のことを話すことに決めた。というのも彼が「何があったんだい、話してごらん」という目をしていたからだ。その目で見つめられると、どうにも弱い。優しく柔らかなものなのに恐ろしい程強い力を秘めているのだった。

 弥助は昨夜、いかにも素行と頭の悪そうなお兄ちゃん達に絡まれていた女性を助けたこと、二十人近くの人間が何者かに襲われ怪我を負った事件があったこと、自分が助けた女性もどうやらその被害者の一人で、今意識不明の重体であるらしいことなどなるべく小声で話す。秋太郎は自分の作業を続けつつも彼の話をちゃんと聞いている。そして聞き終わると、そういえばニュースでそんな事件が起きたということを言っていたねと柔らかな声で言い、静かに頷く。


「その内の一人が昨夜知り合った女性で、しかも怪我の度合いが一番高い……それは心配になるね。それで、弥助はそれらが妖の仕業である可能性を考えていると?」


「根拠なんて一つもないっすが。部屋が密室状態だったっていうのが気になるんすよね……、小説やドラマの中ではよく密室殺人なんてものがあるっすが、ああいうのって現実世界でもあるもんなんすか?」


「あまり聞いたことはないね」


「そうっすか……妖の中には空間を裂いてどこでも自由に行き来出来る奴がいる。だから部屋は密室状態だった……ってことも考えられるっすが、流石にこれだけの情報では何とも。ああ、これじゃあさくら達と同じっすね、何もかもすぐあっしら妖と結びつけようとしてしまう。兎に角あっしは仕事が終わったら、このことについて少し調べてみようと思うっす」

 秋太郎はそうかい、とだけ言った。それを止めるつもりは毛頭ないらしい。


(人の仕業か、妖の仕業か、はたまた不幸な事故か。二十人近い怪我人、その犯人は同じか、違うのか)

 何もかも気になって仕方がなく、ぐるぐるぐるぐる巡る。それでも仕事をおろそかにすることはなく、仕事が終わるまできちんと働いた。

 空が青から赤、そして紺色に変わり、今日の営業は無事に終わった。内心気が気でなかったが、それを表に出すと満月を心配させてしまうと思い、顔には出さないよう努める。そうしながら二人で掃除をし、秋太郎が今日のレジのお金を数える。一通りの仕事を終え、満月と秋太郎と短い話をし、別れた。

 

(さてと……早速今回の件について調べてみるか)

 ぶんぶん手を振り、満面の(ややだらしない)笑みを浮かべ家へ帰っていく満月の後姿を見送った。その姿が見えなくなったところで弥助はふう、と息をつき、家のある方ではなく三つ葉市へと向かっていった。図体がでかく、いかにも重そうな体だがその足取りはとても軽い。闇を纏い、かつ闇を裂きながら走る、走る。人間如きではとても追いつけない程彼の足は速い。途中から彼は軽く宙を舞い、民家の屋根へ着地する。屋根から屋根へ飛び移るそのさまは非常に軽やかだ。これが美しい乙女であったら天女の舞に見えただろうが、残念ながら飛んでいるのは背が高い、筋骨隆々の、だらしなく伸ばした髪を束ねた男である。そんな彼の姿を天女と見紛う者は誰もいないだろう。いたとしたら大問題である。

 人の姿をしているとはいえ、彼は妖。闇を味方につけることなど造作もなく、深く密度の濃い闇の中を飛ぶ彼の存在は気がつかれにくくなっている。だからこうして堂々と屋根から屋根へ飛び移るという行動に出ているのだ。飛び移るような場所が無くなれば一度地面へ降り立つが、また建物が密集している場所まで行くと上に向かってジャンプする。


 まずは理沙が住んでいたというアパートを目指す。三つ葉市の地理は大体頭に入っているから、ニュースで聞いた地名を頼りに探せば辿り着くだろうと踏んでいた。闇を裂き、生まれた冬の風が体に冷たく突き刺さる。痛いのか、冷たいのか、跳躍を続ける内に段々と分からなくなってきた。

 やがてそれらしいアパートが目に映り、近くに着地してそちらの様子を見やる。硬くて重く、そしてピンと張りつめた空気に包まれたそこが、理沙の住んでいたアパートということで間違い無さそうだった。前を通りかかる人達が、アパートの方をちらちらと見つめている。その目は好奇心という名の光で満ちていた。弥助もそちらを見る。冷たい闇に覆われている三階建てのそこは自分の住んでいるアパートに比べれば新しく、造りもしっかりしていた。


 弥助は神経を研ぎ澄まし、アパートを包む闇と空気をその身に感じ取る。

 そして冷たい闇、その中に邪悪で歪んだ力が微かに混ざっていることに気がついた。冷気と、その力が弥助の体をちくちくと刺す。


(妖の気配を感じる……土地に残った気配を感じ取るのが苦手なあっしでも感じ取れたってことは、この力の持ち主がここへ来たのはつい最近か、或いは元々強い力を持っていて、長い時間が経っていても残っているってことか。この感じだと恐らくは前者だろうが)

 もしその気配が理沙の部屋から発せられているとしたら、彼女が意識不明の重体になった原因が妖であった可能性は高い。実はこのアパートには妖が住んでいます、という可能性が皆無とはいえないが――実際弥助のように、人の世のアパートで暮らしている者もいるから。

 さて、どうするかと弥助は腕を組む。アパートの住人やこの周辺に住んでいる人に話を聞けば何か分かるかもしれなかった。弥助は人から情報を引き出すのが上手い。肉弾戦も大得意なら、情報収集も得意であった。しかし生憎今はもう夜で、外をふらついている人も殆どいない。幾ら不審に思われることなく人から情報を引き出すことが上手い弥助でも、チャイムを押して人を呼び出し、そして話を聞く――などという不審にも程がある行動を妙に思われることなくとるのは少し難しかった。


(明日はあっしは休みだから……明日聞くのも手だが、調べられる範囲では調べておきたいっすね。襲われた人間に共通点があるのか無いのかとか、妖の特徴とか……)

 もう一度弥助はアパートに目をやる。二階のある部屋だけ異様な空気に包まれているのを感じた。尋常では無い何かが起きたことを示すものだった。恐らくそこが理沙の部屋だろう。


(部屋の中に忍び込むか? しかし幾ら調べる為とはいえ、勝手に入るのは気が引けるなあ……)

 そこで躊躇ってしまうのが弥助、全く躊躇わないのが出雲である。

 さてどうしようか、と考えている最中どんがんどん、という大きな音が聞えてきた。いきなりのことに弥助はぎょっとする。どうも誰かがアパートについている金属製の階段から落ちたらしい。

 思わず弥助は敷地内に入り、そちらの方へと向かう。予想通り階段下には、痛そうにうずくまっている男性の姿があった。弥助はその人の体を起こしてやる。まだ若い人で、見たところ大きな怪我はしていない。恐らく階段を下りている途中、そこまで高くない所から落ちたのだろう。勿論見た目では大丈夫そうでも、実際はそうでもないこともあるが。


「おい、大丈夫か?」

 男は苦しげな表情を浮かべ呻きつつも、大丈夫だと答えた。


「とりあえずは……すみません」

 怪我はしていないようだったが、顔色が悪い。元々体調がよろしくなかったのだろう。弥助は男を立たせてやった。どうにも本当に具合が悪いらしく、そのままお別れするのは不安であった。


「お前さん、顔色が悪いっすよ。体の調子が良くないんじゃないか?」


「ああ、そうかもしれないですね……」

 あんまり弱弱しい声だったからいよいよ弥助は心配になった。矢張りこのまま放っておくわけにはいかない。


「これから外へ出る用があるっすか?」


「いえ、これといった用は……」


「それなら部屋に戻って休んだ方が良い。あんまり楽にならないようなら、病院に行った方がいいっすよ。……とりあえずあっしがおぶって部屋まで連れてってやるから」

 その言葉に戸惑う表情を見せた男を弥助はひょいっとおぶさる。大人一人おぶさるなどわけもない。しかも男は細身で相当軽かった。男の部屋は二階にあるらしく、弥助はとんとんとんと何も背負ってなどいないかのように軽々と階段を上っていった。男は相当参っているのか、申し訳ないというような表情を浮かべつつも抵抗する様子は全く見られない。

 二階へ上り、部屋を目指す途中問題の部屋の前を通った。ドアに掲げられているプレートには『汐見』と書かれており、それを見て弥助は胸を痛める。また、矢張りその部屋からはとても厭なものを感じた。妖の気配でほぼ間違い無さそうだ。その部屋を通り過ぎたところで男は「そこです」と理沙の部屋の隣を指差した。この人彼女のお隣さんだったのか、と思いながらその部屋まで連れて行ってやり、男を下ろす。男はドアの鍵を開け、中へと入った。そして靴を脱いで玄関へあがるなり、へなへなと座り込む。


「おいおい、大丈夫っすか?」


「大丈夫です、すみません……う……」


「お前さん相当気持ち悪そうだぞ……ああもう、放っておけるかってんだ!」

 弥助は多少躊躇いつつ玄関まで行き、男を立ち上がらせる。それから洗面所まで連れて行き、背中をさすってやる。吐くだけ吐くと男は少し楽になったようだ。弥助は奥にある畳敷きの部屋まで彼を連れて行き、座らせてやった。


「すみません、ありがとうございます……親切にしていただいて。……あれを見てしまったことを思い出しちゃって、どうにも気分が……」


「あれ?」

 男はしばし躊躇い、それから重い口を開いた。


「……昨夜ここである事件が起きたことはご存知ですか?」

 ぎくりとした。それは今まさに弥助が調べようとしている件だったからだ。

 弥助は高鳴る心臓を胸の内に抱きながら、こくりと頷いた。


「三つ葉市で、寝ている人達が次々に襲われたか何かで怪我をして……隣の部屋に住んでいる女の人も、その被害者の一人で。しかも一番怪我の程度が重くて意識不明の状態……実はその彼女の第一発見者が自分なんです」

 その言葉に更に驚いた。だが確かに異変に真っ先に気づくとしたら、彼女の隣の部屋に住んでいる人物だろう。男は青ざめながらも続けて話した。


「夜中、トイレに起きた時に隣からものすごい悲鳴が聞こえたんです。尋常じゃない悲鳴で、もうびっくりして……何かあったのかもしれないと思って、思い切って外へ出て、隣の部屋のドアを叩いたんです。けれど反応が無くて……のぞき穴を見ても、中は真っ暗で様子なんて全然見えなかったですし。同じく彼女の悲鳴を聞いて起きたらしい、一階に住んでいる管理人さんが鍵を持ってやってきて……それで鍵を開けたんです。それから二人で部屋の中へ入って、電気を点けて、そしたら」

 血だらけになって倒れている理沙を発見したらしい。


「自分、元々血が苦手で……しかも結構酷い状態だったものですから……その光景が目に焼きついちゃって」

 おまけに第一発見者として警察から色々と話を聞かれ、心身共に相当参ってしまったようだ。その弱弱しい姿は誠に哀れで、同情を禁じえない。しかしもっと悲惨なのは、大怪我を負った理沙である。

 男のことを可哀想には思ったが、一方でもう少し話を聞いてみたいという気持ちにもなった。そこで弥助はまず、実は昨夜理沙らしき人を不良達から守ったことを正直に話した。


「そしたら今日、名前をニュースで聞いてびっくりしてな。それでいてもたってもいられなくなって……ニュースの情報を基にここまで来たんだ。行ったところで何をするわけでも、何が出来るわけでもないんだが」

 弥助の話を男は素直に信じたらしく(実際ほぼ真実なのだが)そうですか、と頷く。それから男は理沙のことについて少し話した。話したといっても、大したことは言わなかった。部屋が隣同士であったが、相手は女性ということもありあまり話をしたことはないようだ。だから彼女のことについてもあまり詳しくは知らないらしい。だが良い印象は抱いていたようだ。


「一度困っていたところを助けてもらったことがあって……優しい人だなって思いました。友達らしき人も結構部屋を訪れていたみたいですし、周りから好かれていそうな印象でした。そんな人があんな目に遭って……」

 それを聞いて弥助は昨夜出会った彼女の笑顔を思い出す。彼女と、ここに住んでいたという汐見理沙は同一人物とみてほぼ間違いは無いはずだ。弥助は胸を痛め、男と一緒にしばし黙りこくる。

 だがそのまま黙りこくっていても仕方が無い。弥助は色々話しながら上手いこと男から昨夜のことに関する情報を集めていく。男は不審がることなくぽつぽつと自分が見たことについて色々話していった。これもまた弥助の人柄や、妖特有の空気がなせる業である。


 部屋は自分達が見た限り密室であったこと(ニュースでもそう報道されていたので、実際そうだったのだろう)、自分達が部屋に入った時には理沙以外の姿は見当たらなかったこと、自分の知る限りでは何らかのトラブルに巻き込まれた様子はなかったこと(勿論親しくしていたわけではないので、もしかしたら何かあったのかもしれないが、という言葉が付け加えられた)、不審な影などは見なかったこと、部屋の中は荒らされていなかったことなど話してくれた。

 そこまでの情報はさして重要なものには思えなかったが、最後のものは違う。


「……そういえば汐見さんの体、血じゃない生温い何かで濡れていたって……彼女の体に触った管理人さんが言っていました」


「生温い何か?」

 弥助は眉をひそめ、聞き返す。


「水では無かったそうです。何か生臭くて、ちょっとぬるっとしていて……そんなもので髪とかもべちょべちょで。まるで大きな生き物に呑み込まれて、それからぺっと吐き出されたかのような状態だったって……」

 その言葉に弥助はぎくっとした。一瞬思い浮かんだのは、昨日くまさんに聞かせてやった話。蛙の置物、蝦蟇、恨み蝦蟇爺。だが弥助はその考えを頭を振って弾き飛ばす。


(いや、あいつに全身血だらけになる程の怪我を負わされるってことは相当恨まれていたってことだ。でも彼女がそんな恨みを買うとは……)

 勿論ほんの少し言葉を交わした位であったから、確証はないが……。

 そのぬるっとした何かは理沙が倒れていた辺りの床をも濡らしていたようだ。

 とりあえずこれ以上色々しつこく聞いていたら流石に怪しまれるだろうし、男の体調も心配だったから話を聞くのをやめた。


「さて、何か悪かったな具合が悪いのに話し込んじまって」


「いえ、大丈夫です。自分も少し人に話して楽になりました……ただまだ具合うが良くなりませんし、とりあえず病院に行ってみることにします」

 それが良い、と弥助は頷いた。弥助は近くの小さな病院まで男を送ってやり、そこで別れた。それからふう、と息を吐く。


「さてと。これからどうするか。他の被害者についても出来れば調べたいところっすね……彼女の場合は妖の仕業である可能性が高いが、他の人達も同じなのかってところが気になるし。あっしがなあ、気配を辿るのが得意だったら良かったんだが」

 言ったところで、腹の虫がぐうと鳴った。そういえば夕飯がまだだったと腹を押さえて苦笑い。腹が減っては戦は出来ぬ、ならば腹を一刻も早く満たそうじゃないか。

 弥助は病院から離れ、より店が密集している方へと歩いていく。ファストフード店で適当に食べるか、ファミレスに行くか、それとも居酒屋で軽く一杯やるか、さてどうしようか?

 そんなことを考えながら、ビルや店の建ち並ぶ通りを歩く。車が道路の上を走り、若い女性達がきゃあきゃあ言いながら歩き、腕を組んで仲睦まじそうなカップル、仕事帰りらしいスーツ姿の人が歩いている。周りにいるのは皆人間、その中に一人、化け狸が紛れ込んでいることなど誰も知らないし、気がつかない。弥助自身もすっかり人の世に、そして人の群れに馴染んでいる。時々彼は自分が妖であることを忘れてしまう。


(妖なんて『いない』なんていうのが当たり前な世の中になるとは、昔は想像だにしていなかったなあ)

 居酒屋でくまさんや、他の客達と妖のことについて色々話したことを思い出す。皆笑ったり、時に怖い怖いと身を震わせたりしていたが、弥助のする話などを心から信じている者は誰一人としていなかった。何か不思議なことが起きたからって妖やら幽霊やらの関与を本気で考える者も殆ど居ない。

 しかしそれでも良いとは思う。無知は人を不幸にすることもあるが、幸福にすることもある。知らないこと、見て見ぬふりをすることは時に人を守る結界にもなりえる。一度知り、関わり、そしてもっと深くまで知りたい、関わりたいと考えればどんどん深みにはまり、人ならざる者から身を守る結界も弱まっていく。自分の『常識』を頑なに守り続けようとすることも、時に必要なことではある。


(まあ、無知であったからといって必ずしも身を守れるってわけじゃないが)

 今回の件がまさしくそうである。知っていようがいまいがどうしようもないことだってあるし、知らなかったが為に最悪の事態を迎えることだってある。

 難しいところだよなあ、と頭をかいていた弥助の耳に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。その人物は弥助の後ろを歩いていたようだ。振り返り、顔を確認したところで弥助は声をあげる。


「進さんじゃないっすか!」


「おお、やっぱりやっちゃんか。一ヶ月ぶりかな」

 進さんは三つ葉市に住んでいる初老の男で、時々ある居酒屋で顔を合わせ、酒を酌み交わしている。いわば酒飲み友達だ。


「そうっすねえ、それ位ぶりになるっすね。進さんは……もう酒を飲んだのか」

 顔がすでに真っ赤、息は酒臭い。進さんはへへっと笑った。否定はしないようだ。


「やっぱり酒は冬に限るね。美味い飯と一緒に食って、体ポカポカになって」


「夏には『やっぱり酒は夏に限るね』って言っていたくせに」

 笑って言ってやった。そうだっけ、全然覚えていないねえとぴゅるぴゅる口笛。そんなひょうきんなところが進さんの魅力。冬の寒さで水にさらしたガムの如く硬くなった体が少しほぐれた気がした。


「それよりやっちゃん、どうだい久しぶりに」

 手を丸め、口元にやってくいっとやる。弥助は苦笑い。


「まだ飲むっすか、進さん」


「当たり前だろうが。まだまだ飲んだ内には入らんよ」

 全く困った人だなあ、とは言うものの弥助もその申し出を断る気にはならなかった。三つ葉市在住の人から、今回の一件について話を聞いてみるのもいいかもしれないとも思った。

 近くにあった、何度か足を踏み入れている店の中へ入り、二人で酒を飲みながら話をする。勿論最初から事件のことについて聞くのではなく、気ままに雑談をしつつ、話を切り出すタイミングをうかがう。そして酒と食べ物の力でどんどん話が盛り上がったところで、話をそちらの方へともっていった。


「そういやあ進さん、何か昨夜三つ葉市で何人もの人が寝ている時に襲われたって話だけれど……知っているっすか?」

 それを聞いた進さんは目をぱちくりさせ、それから何か思い出したのか唐突に「ああ!」と大きな声をあげた。それから弥助の方に体を近づけ、深刻そうな、そうでもないような顔つきで喋りだす。


「勿論知っているさ! しかもさ……その被害者の内の一人が俺の知り合いでな――やっちゃんも何度か会ったと思うけれど……。酒飲んで家に帰って寝ていた時襲われたようだ。結構深い切り傷を腕とか足とかにつけられてさ、おまけに両頬を強い力でひっぱたかれたらしくてパンパンに腫れちまって……まあ幸い命に別状はなかったようだが」

 その知り合いの名前を聞き、弥助はすぐぴんときた。確かに進さんとその人三人で何度か酒を飲んだことがあった。そんな人がまさか被害者の一人だったとはと驚きを隠せず、また、胸の痛みは増すばかり。


「ぐうすか寝ていたら突然体が妙に温かくなって、それで目を覚ました。だが目を覚ましてから怪我をした間のことは殆ど覚えていないらしい。気がついたら体がものすごく痛かったって。同じ部屋にいた奥さんが悲鳴に気がついて明かりをつけたら、血を流している彼の姿があった。だが、誰かが部屋から逃げる姿は見なかったっていうし……悲鳴をあげてすぐ明かりをつけたってのに。それにとても一瞬でつけられるような傷じゃ無かったって話だし。しかも何故か奴さん全身ずぶ濡れになっていたらしい。ただの水じゃなくて、何か生温くて少しぬるっとしていたそうだ。まるで何かに呑み込まれて、それから吐き出されたかのようになっていたらしい」

 理沙さんと同じだ、と弥助は思った。となれば少なくとも理沙と進さんの知人を襲ったのは同一人物なのだろう。


「しかもさ、丁度彼が治療を受けた病院にさあ、同じような怪我をした人が運ばれてきたらしいんだ。怪我の程度はそっちの人の方が酷かったそうだが。それでもってその人も全身ずぶ濡れになっていたそうだ。おまけに……あのさあ、昨日の夜やっちゃんヤンキー達と喧嘩というか取っ組み合いというかじゃれあいというか……そんなことを三つ葉市でしていなかったかい?」

 話が急にそちらへ向かったので弥助は驚いた。一体先程までの話とその話がどう関係するというのか。弥助は何が何だかさっぱりだったが、それでもこくりと頷いた。進さんだって関係の無い話はしないはずだ。

 弥助が頷くのを見ると進さんはやっぱりそうだったのかと首を縦に二三回振った。


「いや、実はな誰かに襲われた俺の知り合いなんだが、昨夜ヤンキー達をちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返しているやっちゃんらしき人を見たって言っていたもんで。それでな、そいつ曰く……自分の後に病院へやって来た怪我人もさ、やっちゃんとヤンキー達が争っている姿を見ていたようなんだ。面白半分で携帯でその現場の写真を撮っていたんだってさ。不謹慎というか、暢気な奴だという印象があったもんで、顔を覚えていたらしい」

 それを聞いた弥助の顔を、冷たい汗が伝い、テーブルにぽたりと落ちる。

 あの場にいた――理沙と進さんの知り合い、それから携帯で写真を撮っていた人。その三人が家に帰った直後、何者かに襲われ怪我をした。

 果たしてそれは偶然か、はたまた。進さんは「まあ只の偶然だとは思うけれど、嫌な偶然だよなあ」とか「偶然なんだから、やっちゃんが気にすることはない」などと言っていたが、今の弥助の耳には届いていない。


(偶然……なのか? 偶然ではないとしたら、他の怪我人もあっしがあのお馬鹿達を何とかしている姿を目撃していた人ということになる。いや、でも何だってそんなことに)

 約二十人中三人がそうだった、というだけでは「絶対そうだ!」とは言い切れない。仮に二十人全員がそうだったとして、一体どうしてあの現場を見ていた人、当事者の一人である女性が襲われることになるのだろうか?


(他の怪我人についても調べないと、何ともいえないな……けれど、今日は多分無理っすね……)

 深く考え込んでいると、何かひんやりとしたものが頬にむにゅうっと押しつけられた。見れば進さんがおちょこを弥助の頬におしつけながらにんまり笑っている。


「何て辛気臭い顔しているんだい、そんな顔で酒飲んでもちっとも美味くないぞう」

 進さんのその笑みを見たら、少しだけほっとした。そして弥助はそうっすね、と頷き再び酒を飲み始める。冷たく、温かく、ほろ苦い酒を。

 明日になったらもっと色々な人から話を聞いてみよう、そう決心する。

 一方、これ以上被害者が増えなければいいがと願わずにはいられないのだった。



 恨め、恨め、恨め。その恨みはわしの糧となる。わしはそれ喰う、綺麗さっぱり、ひとかけらも残すことなく喰らうのだ。その代わり、わしは……。

 さあ、夜が来たぞ。恨みを喰らおう、恨みをぶつけよう、傷つけよう、願うなら恨みで生の営みを止めてくれよう。


 恨め、恨め、絶えず恨めえ。

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