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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
恨み蝦蟇爺
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第四十四夜:恨み蝦蟇爺(1)

『恨み蝦蟇爺(がまじい)


「全く、これだから馬鹿の相手っていうのは嫌なんだよ」

 弥助は右足で一人の男の頭を踏んづけていた。うつ伏せになっている髪の長い男は必死にもがくが、弥助の足からは逃れられない。これでも彼はかなり力の加減をしている。もし本気で踏んだなら、人間の頭など簡単にミンチである。

 そんな弥助の目の前には、自分が踏みつけている男以外にも四人の男がいた。

 いずれも見るからにヤンキーなお兄ちゃん達で、無駄に血の気が多い。彼等は皆弥助を睨みながらもぜえぜえいっており、この冷たい夜空の下にいながら全身から汗を噴出している。一方の弥助といえば息は少しもあがっていないし、汗一つかいていない。


「くそ、馬鹿にしやがって!」

 金髪の男が弥助に殴りかかった。それを彼はいとも簡単に受け止め、すかさず相手にパンチをお見舞いしてやった。勿論、相当手加減している。しかしフルパワーには程遠いパンチでも、人間にとっては十分脅威だった。男は後方へ飛ばされ、挙句バランスを崩して盛大に尻餅をつく。今度は三人の男が同時に襲いかかってきたが、これも軽くいなす。彼等は喧嘩をしているつもりだったが、この騒ぎを遠巻きに見ている人々には、大の男と赤ん坊がじゃれついているように見えていたことだろう。それ位実力差がありすぎるのだ。

 弥助はああもう本当にめんどくせえ! と心の中で叫ぶ。


 馬鹿というものは、自分の力と相手の力の差を見極められない。弥助がどれだけ手加減してくれているのか、恐らく彼等は理解してはいまい。本当に強く、そして賢い人間は実力差など容易に見破れる。暴力をふるえば何もかも思い通りになると考え、自分より弱い人間を傷つけたり、脅したりし、挙句自分達は強いのだと言わんばかりに威張りくさるような馬鹿には無理な話である。


 どうしてこんなことになったのか――話は十分程前まで遡る。

 バイト帰りだったらしい一人の女性に絡み、無理矢理どこかへ連れて行こうとした彼等を、三つ葉市にある居酒屋で飲もうと思っていた弥助が見つけた。

 周りにいた者は見て見ぬフリをしたり、どうしようとおろおろしたりしていた。弥助は、これは助けなければいけないと迷わず双方の間に割り込み、女性を助けた。さて、折角可愛い子を見つけ、これから楽しいことをうんとこさしようと思っていた男達は弥助の乱入でそれがおじゃんになったことに腹をててた。自分達の方が明らかに悪いのだが……そんな道理も、馬鹿には通じない。

 弥助の体つきや、余裕綽々の態度など見れば彼がいかに強い人物であるか……普通は一目見れば分かる。恐らく小学生にだって分かるだろう。だが彼等には分からなかった。何故なら、馬鹿だからである。


 馬鹿は馬鹿ゆえに馬鹿をする。彼等は怒鳴り声をあげながら弥助に襲いかかった。が、霊的な力はからっきしでも腕力や脚力には自信のある妖である彼に、人間の小僧達が敵うはずもなく、いとも簡単に蹴散らされた。

 こうすれば流石に己との実力差を理解し、引くだろう……と思っていたのだが、認識が甘すぎた。彼等は弥助の予想を遥かに超える大馬鹿者だったのである。相当手加減されたことにさえ気がつかず「やっちまえ、こいつ図体のでかさの割には弱いぞ、やろうと思えばやれる!」などと言い始めた時には眩暈さえ覚えたほどだ。

 そして今に至るわけである。


 弥助はもう少し強い力で殴ってやろうかと思ったが、そんなことをしたら大怪我をさせかねない。自己中心的な乱暴男共ではあったが、必要以上に痛めつけたくは無かった。


(ああもう、これだから馬鹿ってのは困る! 普通ここまでやられれば、どう頑張ったって敵いっこないってこと位分かるだろうが!)

 女性を助けたことは少しも後悔していないが、馬鹿の相手をしてしまったことは後悔している。

 そんな馬鹿共であったが、弥助がもう一発ずつ打撃を加えてやったら、ようやっと彼等は諦め(というより、お巡りさんが来る気配を察知したらしい)、陳腐すぎてあくびが出る程の捨て台詞を残すと、そさくさと逃げていった。それから少ししてお巡りさんがやって来た。彼等にこの事態を知らせたのは、弥助に助けてもらった女性と、この騒動を間近で見ていた一人の男性だった。お巡りさんに連れられてやって来た交番にはその二人の姿があった。それから弥助はことの経緯について話す。そして一通り話し終えると、ようやっと解放された。


「あ、あの……ありがとうございました」

 弥助に助けてもらった女性がお礼を言う。彼女と一緒に交番へ来たという男性も、彼女に怪我が無くて良かったと心底ほっとした様子である。礼を言われた弥助は頬をかいた。礼を言われて少し照れたのだ。


「どういたしまして。全く、あんな奴等に連れて行かれちまったら何されるか分かったもんじゃないっすからね。ああいう馬鹿は本当嫌いっすよ、あっしは。いやそれにしても本当に良かった、良かった」

 男性は二人に一礼するとその場を去った。女性は、今日はタクシーで家まで帰ると言い、改めて弥助に礼を言った。弥助はタクシー乗り場まで彼女を送ってやることにした。彼女のことが心配だったのだ。

 わずかな距離を歩く間、二人は色々話した。話した時間は五分少々位だったが、その間に随分と打ち解けた。弥助はそうやってわずかな時間で人と心を通わせあうことを得意としていたし、女性自身も結構社交的な性格のようだったのだ。女性は汐見理沙という名前だった。これは交番で事情を話している時に知ったことである。


「今度からは少し遠回りになっても、なるべく人通りの多い道を歩くようにします」


「それがいい。まあ出来ればバイトの時間を早めるなりなんなりして、もう少し早く帰れるようにする方がいいとは思うっすが……こればかりは自分で決めることっすからね。とりあえず、気をつけろよ。自分の身を守れるのは、結局は自分自身なんだから」


「何だか弥助さんってお父さんみたい」


「お父さんなんて……そ、そんなに歳離れてないっすよ」

 大嘘である。実際の所は数百年もの差がある。歳離れているねえ、とかいうレベルではない。しかしそんなことを彼女が知る由も無く。理沙はくすくす楽しそうに笑った。


「でも、何かそんな感じがします。ふう……怖い目にあって、帰ったら泣いちゃうかもと思っていたんですけれど、弥助さんとお話したら少し楽になりました。本当にありがとうございます」


「いやいや。まあでもあっしと話したことで少しでも傷を癒せたなら、良かった」

 心からの言葉であった。それから間もなくタクシー乗り場に着き、理沙は改めてお礼を言うとタクシーに乗って帰っていった。それを見送った弥助は、さてとあっしも本来の目的を果たしに行くとするか……と言って、三つ葉市にある居酒屋へと足を運んだ。


「へえ、そりゃ大変でしたね」

 焼き鳥を焼きながら弥助と話しているのは、この店の主。森のくまさん、或いはもりくまと呼ばれる彼はふくよかな体を汗で濡らしながら調理している。

 ものすごく美味しい! というわけではないがほっと出来る優しい味、店の雰囲気、そしてこの店主のことを弥助は気に入っていた。それゆえわざわざここまで歩いて酒を飲みつつ焼き鳥やおでん等をつまむことがよくある。足を運ぶ回数を重ねる内、すっかり彼とは顔馴染みになった。そんな彼に弥助はつい先程あった出来事について語り、それから甘辛い味噌と火を通して甘くなった野菜、それから独特の香りがふんわり漂うもつをご飯にかけて一気にかきこんだ。熱いが、美味い。色々な味が体の中を一瞬にして駆け巡る。


 くはあ、美味いっすねえ! と手で口を拭う彼の姿をくまさんは笑いながら見ていた。そんな彼もまた、かつては弥助がつい先程出会った男達と同じお馬鹿さん――やんちゃなお兄さんであった。なんでも十年以上前、やんちゃ最盛期であった彼は神の如きオーラを纏った、人間という概念を超越した少年と出会ったことで、馬鹿とやんちゃで形成された道から外れ、多くの人々に慕われる心優しいおじちゃまになったそうだ。その人間という概念を超越した人間の少年は今小説家となり、自身の作品による世界征服を目指して日々精進しているとかいないとか。


「弥助さんはいかにも強そうですからねえ。俺強いですオーラがびしびし出ている。俺なんか、いとも簡単にのされちまうでしょうね」


「ってことが普通は分かるはずなんだがなあ」


「否定しないんですね」


「否定はしないよ。あっしは実際、そこらの人間よりかは強いっすからねえ」

 と言って二人して笑う。ねぎまの皿が間もなく弥助の前に置かれ、彼はさっそくそれに手をかける。黄緑色の葱、そこに程よくついた焦げ目、たらりと落ちる黄金の汁。その葱と、間に挟まれている肉を口で一気に串から外してごくり。


「そういうのがちゃんと分かる奴はいいんだけれどな。そいつら、何度やっても向かってきてなあ……本当、全力でどついたろかと一瞬思っちまったっすよ」

 そんなこと言いつつも、絶対にそういうことしないのが弥助さんでしょうとくまさんは言った。全くその通りだ。


「俺も昔はことあるごとに喧嘩していたっけ。あんまりここでは言えないことも結構したなあ……何であんな馬鹿なことばっかりしていたんでしょうねえ」

 昔を懐かしむように目を細め、遠くを見やる。あんまりよそ見していると焼きくまになっちまうぞうという別の客の声にはっとし、照れたように笑い。


「しかしお前さんは自分が馬鹿だったってことに気づいたじゃないか。あいつらもいつかそのことに気がついて、少しずつでも正しい道進むようになってくれればいいが」

 そうですねえ、とくまさんは頷く。弥助はたこわさと日本酒を口に入れ、本当に美味そうに喉を鳴らした。温かい店で、温かい人と関わりながら温かくて美味しい食べ物をたらふく食う。寒い冬を乗りきるにはこれが一番だ。

 

「まあ、覚えていやがれなんていう捨て台詞吐く内はまだまだっすがねえ。今頃あっしの悪口かなんかを言いまくっているんじゃないかな。……苛立ちを紛らわす為に変なことやっていなけりゃいいが」

 むしろそちらの方が気にかかる。くまさんも困り顔で、確かにそりゃ困りますねえと言った。腹立ち紛れに周囲の人や物にあたった経験が彼にもきっとあったのだろう。


「完全な逆恨みなんすがねえ……全く」

 などと呟きながら店内を何気なく見やっていると、視界に蛙の置物が入ってきた。お客さんがこの店から家まで何事もなく無事に帰れますように、という願いを込めて置かれているそうだ。

 蛙の置物、恨み。その二つの単語が弥助の脳内で結びつく。にやっと笑ったらくまさんが不思議そうな顔をした。


「どうしたんです、いきなり」


「いや、あいつらがもし恨み蝦蟇爺に出会ったら、真っ先にあっしをぼこぼこにしてくれって言うだろうなあ……ってその蛙の置物を見たら思ってさ」

 首を傾げる森のくまさん。そうなるのも無理はないか、と弥助は苦笑いしつつも、自分の脳裏に浮かんだ妖のことについて話してやった。


「あっしの住んでいる桜町には、これこれこういう妖怪がいたとか、こういうことをしたとか、そういった話がわんさか残っているんだ」

 そんなことを以前先生が言っていた気がする、とくまさん。彼が先生と呼ぶ作家は、妖など異界の住人を題材にした、幻想物語を主に執筆しているらしく、そういう話も色々調べていたという。


「その内の一つに、恨み蝦蟇爺っていう妖の話があるんだ。この妖は人間みたいな格好をした爺さん蝦蟇蛙でな、誰かに対して強い恨みをもっている人間の前に現れて、そいつの恨んでいる人間を怪我させたり、酷い時は殺しちまったりするっていう奴なんだ。なんでも、恨みを抱かれている人間を呑み込んで、その体内にあるという変な空間に閉じ込めた上で痛めつけるらしい」


「そりゃあ、怖い。俺は普通の蛙ならともかく、蝦蟇は苦手だなあ。そんな化け物蝦蟇蛙に呑み込まれる上酷い目に遭わされるなんて、おお、おっかない」


「だろう? 多分逆恨みだろうがなんだろうが、お構い無しにやっちまうんだろうぜ。あっしも蝦蟇に呑み込まれるなんて酷い目には遭いたくないっすねえ、おお、怖い怖い」

 べろんべろんになるまで酔っ払うことは好きだが、蝦蟇の体内に入って体が体液やら何やらでべろんべろんになってしまうのは、妖である弥助もノーサンキューであった。

 そこから桜町に伝わっている様々な物語についての話で盛り上がった。大抵は弥助が色々話して聞かせ、くまさんや周りの客がそれを聞いて色々言うのだ。

 酒の力もあり、妖やら幽霊やらの話で店内は賑やかになる。勿論話を聞いている人達は皆、それらの存在などほぼ信じていない。その話をしているのが正真正銘、本物の妖であるなど勿論知る由もなく。時々弥助はうっかり、そういった者と喧嘩したり、酒を酌み交わしたりしたことなどを喋ってしまったが、誰もそれを本当のことだとは思っていなかったから、笑って済まされた。


 散々飲んだ弥助はそれから上機嫌で桜町にあるアパートへと帰っていく。

 帰った後はぬるめの風呂に入り、歯を磨いてさっさと布団の中へ。温かい布団が弥助の大きな体を包み込んだ。

 寝る間際、弥助は先程助けた女性の顔を思い浮かべ、彼女は無事家へ帰れただろうか、嫌な目に遭ったことをいつまでも引きずってもらいたくないなとか、そんなことを考えた。


 世界はまだ闇に包み込まれている。少しずつ近づいてくる朝にも怯まず、夜は静寂と闇と共に踊っている。氷の風を吹かせ、星を明滅させる。

 外が闇なら、家の中もまた闇である。月も星も無いそこは、外よりも暗い。

 あるアパートの一室に、凝縮された闇がじっと座っていた。それはどろどろとしていて、ねっとりしていて、冷たく、異質であった。


 その闇をぬるぬるとしたものに覆われた前足が裂き、葉っぱのような形の、闇よりなおおどろおどろしい空間が姿を現す。その空間から、決してこの世界には存在し得ない異形の者が顔を出し、ねちょねちょぺちゃりという音をたてつつ床に着地する。この部屋の主はまだ、彼の者の存在に気がついていない。

 闇に浮かび上がる、岩。いや、それは動く岩などではない。……蝦蟇だ。豊かなひげを生やした、着物を身にまとった、二足歩行の蝦蟇がそこにいる。背丈は百八十位で、随分ぶっくりとしている。茶とも緑ともつかぬ肌が闇を受けて怪しく光る。


「恨み、恨み、恨み」

 がらがらの声でその者は鳴いた。布団の中で眠っている者は矢張り未だ彼の存在に気がついていない。気持ち良さそうに寝息をたてつつ、体をゆっくり上下させていた。


「恨み、恨み、恨み」

 そう鳴くと、蝦蟇の爺のふくよかな腹が裂ける。そこから大きな蝦蟇が顔を出し、更にそいつが口を開く。大きな口の中にある化け物じみた、ぬるぬるとした舌が何も知らない者の体に触れ、そして……。

 とても厭な音と、悲鳴が闇の中で響いた。

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