第四十三夜:貝で掘る夜
『貝で掘る夜』
深い夜の中真奈美は目を覚ました。本当にぱちりと目が開いたのだ。開けた瞳には闇だけが映っている。月明かりはカーテンに遮られてしまっていた。
彼女は夜が嫌いだった。自分の全てを容易に飲み込んでしまう闇の暗さが怖くて、たまらなく不安になる。いつもそうしてうっかり夜中に目を覚ましてしまうと泣きたくなった。泣きたくなるのをぐっとこらえ、布団を頭から被って闇を遮る。布団の中もまた闇であったが、その外に広がるものよりはずっとましだと感じていた。
なのに、今日は不思議と闇に少しの怖さも感じられなかった。むしろたまらなく魅力的にさえ思った。甘くて、とろける――真奈美の大好きなチョコレートのような空気が漂っているように感じる。けれど、いつも食べているそれとはまた少し何かが違う。母が、真奈美が今より小さい頃に食べていた、お酒入りのチョコレート。くらりとするような匂いと、真奈美の好きな匂いが混ざったあのお菓子。それに似た空気が今日の闇に漂っているような気がしてならなかった。
布団から出ると、強烈な寒さが襲ってきて真奈美はぶるりと震えた。けれど今はその寒ささえ、とても愛おしいものに思える。一体今日はどうしてそんなことを思うのだろうと彼女は不思議で仕方が無い。それから彼女は何かに導かれるようにして部屋からそうっと出た。階下にあるトイレに行こうとしたのではない。真奈美は外へ出たかった。たまらなくそうしたかった。両親にばれたらきっとものすごく叱られるだろうな、と思ったが一方で何故か彼女は「絶対に両親にはばれない」という自信を持っていた。
家の中を包みこむ闇を、手でかいて泳ぐようにして歩く。いつもは恐怖心を増長するような、ぎいぎいという音を出す廊下も、今日は少しも鳴らない。床も今は真奈美の味方をしている。
がちゃり、と家の鍵を開けた瞬間真奈美の頭の中、もしくは体の中にある何かの扉を封じる鍵もまた開いたような気がした。その今までに無かった不思議な感覚に一瞬戸惑い立ち止まったが、すぐ歩を進めて家を出る。
これ程までに遅い時間、外に出たのは初めてだった。いつもは眩しい位輝いている白い犬の置物も、今は海の底の様な色をしている。石を敷き詰めた道の先にある、錆びてぼろぼろの小さな門。その向こう側にあるのは見慣れた町並みのはずなのに、今は全く見たことのない不思議の世界に見える。一つ目の男や、角と羽の生えた化け物等があちらこちらで息を潜めているような気がしてならない。ただ夜になっただけなのに、どうしてこれ程までに与える印象が変わるのだろうと不思議だった。そんな門の向こう側にある町並みにも今は殆ど恐怖を覚えなかった。むしろ美しいと感じた。押入れの中にある箱、そこに入っているビー玉にこの世界を閉じ込めたい……そんなことを思った。
木々は天へ手を伸ばし、そこから降り注ぐ闇を受け止め、体を黒に染めている。道の両脇に生えている草は空を仰ぎ、闇を浴び、風が吹く度体を傾ける。
闇に包まれてもなおその白さを完全には失っていない雲、手に持って振ったなら鈴の音がしそうな金銀の星々。丸い月は静かに空に腰をかけている。
風が真奈美を撫でる。時々顔につく髪は冷たく、墨を混ぜた氷かと思う位だ。
ふと真奈美に向かって吹く風に、妙な音が混ざっているのを聞いた。風は後方から吹いてきている。さく、さく、という――まるで土を掘っているかのような音。風が吹いてきた方――後方、家の裏側には小さな庭がある。
(どうしてこんな音が聞こえるんだろう……?)
誰かが家の庭に忍び込み、土を掘っているのか。
そういえば、と真奈美は改めて門へ目を向ける。いつもは閉まっているはずの門はよく見れば開いており、塀を飛び越えずとも簡単に家の中へ入れるようになっていた。
(お父さんが閉め忘れたのかな)
きい、きい、と音を立てて門は開閉を繰り返す。しかし何故かそれを見ても「これは不味い」とは欠片も思わなかった。それどころか、大声をあげて喜び、飛び跳ねたい衝動に駆られさえした。門に飛びついて、冷たいそれに口づけしたいと思う。その衝動を堪えるのに彼女は大変苦労した。
気づけば真奈美の足は家の裏へと向かっていた。家と塀の間にある僅かな隙間を縫う。不安や恐怖は無い。泥棒、変態――その可能性は今彼女の頭から削除されている。その可能性を疑ったのは音を聞いた直後、ほんの一瞬の間だけ。
庭が、音が近づいてくる。地面の上に寝転んでいる枯葉が、足に踏まれてかさかさという音をたてる。近づく音、枯葉の音、高鳴る真奈美の胸の鼓動。
暗く狭い隙間を抜けると、庭が見える。物干し竿、小さな花壇、雑草の生えた地面――どこにでもある、ごく普通の庭で特筆するべき部分は何も無い。
さく、さく、さく。その音が夜の世界に響き渡る。ただその音が聞こえるだけで、凡庸な庭が幻想の結晶に彩られた、現実とは違う場所にあるものに見えてくる。
音の正体は、矢張りある人物が庭の中央辺りの地面を掘る音だった。縁側に背を向けて、その人物は黙々と地面を掘っている。
そこにいるのは意外にも子供であった。背丈だけで判断するなら、そこにしゃがんでいるのは自分と同じ小学四年生位であろう。青いジャンパーと、黄色のマフラー、紺色のズボン。恐らく男の子だ。
真奈美は悲鳴もあげず、縁側へと移動しそこに腰かける。そこから少年の作業を静かに見守っていた。どうして自分はここまで落ち着いているのだろう、いつもは怖いと思っている夜を何故少しも怖いと思っていないのだろう、様々な疑問が彼を見守る彼女の頭の中をぐるぐる巡る。
地面を掘る音が一旦途切れる。しゃがみっ放しの体勢がきつかったのか、一度立ち上がり、膝を伸ばす。そしてまたしゃがもうとしたところで、彼はぱっと振り返る。振り返った先に真奈美がおり、そして真奈美はその少年の顔を見た。暗闇の中でも彼の顔はよく見えた。
真奈美は「あっ」と小さな声をあげた。彼の顔に見覚えがあったからだ。
彼は秋に真奈美の通う小学校に転入してきた、同学年の卓であった。クラスこそ違うものの、何度か顔を見たことはあった。家がどこにあるかはよく知らないが、少なくとも近所ではない。そんな彼が何故わざわざ同学年という繋がり位しか無い自分の住む家までやって来て穴を掘っているのか。
卓もまた少し驚いたような表情を見せたが、叫ぶわけでも逃げだすわけでもなく、無表情のまま再び真奈美に背を向けると地面に尻をつけて座りこみ、穴を掘りだす。その反応に真奈美もまた少し驚いたが、不快には思わなかった。
「ここ、あんたの家だったんだ」
背を向けたまま、卓が口を開く。真奈美はうんと頷いた。
「誰かと思ったら卓君だったんだ、びっくりした。……ここへは今日初めて来たの?」
「ううん、一週間位前から」
毎日ここへ来て穴を掘るのか、と聞いたら卓は小さく頷く。
「……家の人、呼ばないの。家の中勝手に入って穴を掘っているのに」
「呼ばないよ。……呼ばない。何か、呼びたくない」
それは本心からの言葉。卓はそう、とだけ言って一旦喋るのをやめた。動かすのは手だけだ。
土をすくっては傍らにやり、すくってはまたそこへとやる。すくった土をやった場所には小さな山が出来ていて、きらきらと輝いている。まるで夜空を積み上げて作られたかのような美しさ。
「どうして私の家の庭を掘っているの?」
「掘れって言われたから」
「誰に? お父さんとかお母さん? それともお友達?」
「知らない」
「知らない?」
その答えに真奈美は首を傾げた。卓は首を縦に振って、少しだけ無言になってまた口を開いた。
「寝ている時に聞こえるから。夢の中で誰かが穴を掘れって言うんだ。月の光を浴びせた水の中に一週間浸けた貝殻で掘れって。それで穴を掘り続けていたら、いつか会えるからって。……この町に引っ越してきてすぐ、その声が聞こえるようになった。今までずっと無視し続けていたけれど、それじゃいけないって思うようになって。言う通りにしなければ、後悔するって思って」
今度は真奈美がそう、と言った。卓は穴を掘っている物を見せてくれた。虹色に光る、薄っぺらい貝殻。そこについた土が瞬いている。月の光を浴びせた水に浸けた貝殻は、普通の物よりもずっと綺麗で見る者の目を奪う。初めて声を聞いた次の日の夜、枕の下に敷かれているのを見つけたらしい。
「それで言われた通り貝殻を水に浸けて、準備を整えてから家を出た。歩いている時のことはあんまり覚えていないけれど、気がついたらここにいた。それでああ、ここで穴を掘っていればいいんだと思って……」
「一週間前から来ていたんだ、全然知らなかった。だって庭に穴なんてなかったもの。帰る前に埋めなおしているの?」
「ううん、そのままにしている。夜にしか見えない穴なのかな……しかも、一週間ずっと掘り続けているのに全然穴、深くならないんだ。変だよね」
「そうだね、変だね」
それから卓は無言になった。真奈美も無言になり、時々口を開くだけで後はただひたすら彼が穴を掘る後姿を見つめているだけだった。他愛も無いおしゃべりをする気にはならなかった。
穴を掘り続けたら、彼は一体誰と会えるのだろう。その人と会えればいいな、きっと会えるだろう――そんなことを考えていた。
二人だけの時間はあっという間に過ぎていき、気づけば闇は薄らぎ始めていた。卓は朝が近づいていることを悟ると立ち上がり、ズボンについた土を落とす。それから「それじゃあね」とだけ言って、その場から立ち去った。彼が立ち去った今、ここにいる意味はないと真奈美も自分の部屋へ戻っていった。
朝、学校へ行くと廊下で卓とすれ違った。真奈美は周りに気がつかれない位小さな声で「おはよう」と言った。彼もとても小さな声で「おはよう」と言った。それ以上のことは何も話さなかった。夜のことを学校には決して持ち出すまいと真奈美は決めていたのだ。何も言わないし、聞かない。それが一番だと思っているからだ。恐らく卓も同じだろう。
あくまで、同じ学校に通う同い年の少女と少年。それ以上の関係は無い。そんな関係を続けていく。少なくともこの昼の世界では。
二夜。
真奈美の目は深夜、またぱっと開いた。布団から出てパジャマのまま部屋を出て、あの庭へと向かう。もうすでに卓は庭に来ていて、昨日と同じように穴を掘っていた。真奈美は縁側に腰かけ、それを見守る。
卓は今日も貝殻で土をすくっては傍らへやり、またすくってはやりを繰り返す。その後姿から強い意志を感じる様な気がした。
時々真奈美は卓に話しかけた。といっても学校の話、友達の話といったものではなく、寒いねとか、月が綺麗だねとか、そういった類のものだ。昼間の生活についての話は、何だかこの美しい世界には似つかわしくないと思ったのだ。
そしてまた朝が来る。結局今夜も何の成果も無いまま終わった。卓は残念そうにため息をついて、静かに立ち上がった。真奈美もそれをとても残念に思った。
「今夜も、会えなかったな」
「会えるまでこの庭を掘り続ける?」
「うん。会えるまで、何度でも掘り続ける」
「それをずっと見守っていてもいい?」
「いいよ。何だかよく分からないけれど、その方が落ち着くから」
そう言って卓は自分の家へと帰っていった。
七夜。
「不思議だよね。朝までずっと起きているのに、学校行っている時も全然眠くないんですもの。普通だったら、絶対授業中に寝ちゃうよ」
「俺も全然眠くならない。もしかしたら俺達二人して夢を見ているのかもしれない」
夢? と真奈美は聞き返す。卓はうん、と言った。風が吹くと、冷えた頬が震える。その冷たさも、月の美しさも全て夢幻だというのか。
「同じ夢を見ているんだ、二人して。だから昼間も全然眠くならないし、誰にも気がつかれない」
「それじゃあ私も卓君も、本当は今頃布団の中で眠っているってこと?」
「そうなんじゃないかな。……違うかもしれないけれど。でも、そんなことどうでもいいよ。これが夢でも現実でも」
確かにそうだと真奈美も同意する。幸せな夢でも、夢の様な現実でも、どちらでも。月の時計は動き続け、そして世界は朝へと向かっていく。その長いようで短い時間を二人で過ごす。愉快な気持ちにはならないが、とても幸福な気持ちにはなった。
十三夜。
卓は自分が掘り続けた穴を、真奈美に見せてくれた。どれ位掘れたかと尋ねたら立ち上がってほんの数歩移動して、穴を指し示す。真奈美は氷だか水晶だかのようになっている縁側から離れ、何か強烈な力に引き寄せられるようにして穴の前まで行った。
穴はメロン位の大きさで、あれだけ掘り続けているにも関わらず深さはさしてない。三十センチあるかどうかといったところだ。そのぽかりとあいた穴に降り注ぐのは、遥か高くにある月の光。迷わず真っ直ぐに伸びたそれは全て穴の中へと入っていく。金、銀、どちらでも呼ぶことが出来るような光の粒子が真奈美の目を奪う。月光降り注ぐ穴の表面は虹色に輝いていた。それは卓が手に持っている貝殻の内側の色に似ている。
穴の中になみなみと注がれた光は水にも見える。手をその中に入れたなら、すくえてしまいそうだった。そっとすくって口に含んだなら、一体どんな味がするだろう?
続けて卓は、貝殻を触らせてくれた。それはとてもひんやりとしていて、虹を貼りつけたかのように輝いている。じっと眺めながら真奈美はふと思った。
(この貝殻……前にも触ったことがあったような気がする)
しかしいつ、どのようにしてこの貝殻に触ったのか全く思い出せない真奈美だった。
四十九夜。
不思議で、そしてとても美しい夜は毎日必ずやって来た。真奈美は欠かすことなく縁側へとやって来て、卓もまたこの家の庭を休むことなく訪れ続けた。
彼が貝殻で土を掘る度、自分の中の何かが少しずつ掘り進められていくような気がする。少しずつ、少しずつ。その感覚の正体はなんだろうか。最後まで掘られた時、自分は一体どうなるのだろうか。そう思うと不安になる一方で、どこか期待もしていた。早く、早く――彼の作業を心の中で急かす。
そんな気持ちを打ち消そうと、真奈美は卓に話しかける。
「もうあれから一ヶ月以上経ったんだね」
「あまりそんな感じがしないけれど。まだ一日も経っていないような気がする」
それは真奈美も同じだった。今夜初めて、家に穴を掘っている卓と出会ったような感覚がある。一ヶ月以上経った、という事実を卓が改めて口にしても全くピンとこない。
相変わらず二人は、学校では無関係・無関心を装っていた。あの美しい時間を、昼の世界に持ち込みたくなかったのもあるし、単純に変な噂をたてられたくないというのもあった。
「それにしても不思議だね。これが現実でも、夢だったとしても。同じ夢を見ているなんて、そんなこと普通だったらありえないよね」
「……この町、妖怪の話が沢山残っているんだってね。そんな話が沢山残っているような所だから、変わったことが起きても全然不思議じゃないよ」
「卓君は妖怪とか信じているの?」
「つい最近までは。サンタクロースの正体だってお父さんだったしさ……妖怪とかって呼ばれているのも、実は人間だったのかもなあなんて思っていた。でも、何かさ……ここで土掘り始めるようになってから、もしかしたら本当にいたんじゃないかって思うようになってきたんだ」
それを聞いた真奈美は驚き、目を丸くする。真奈美も全く同じで、ここで卓と会うようになってから、絶対いるわけが無いと思っていた妖怪などは実在していたのではないだろうかと思うようになってきていたからだ。そのことを話したら、卓は「そうなんだ。一緒だね」と言った。
一緒。その言葉を聞いたら、どういうわけか真奈美は胸がかあっと熱くなるのを感じた。涙が出そうになって、慌てて空を見上げる。
空には遥か昔から絶えず輝き続けている月の姿があった。
六十六夜。
珍しく卓が、夜にやっていたTVドラマの話をしだした。そういった俗っぽい話は滅多に口にしなかったのに、どういう風の吹き回しだろうと真奈美は目をぱちくり。そのドラマを、真奈美は見ていなかった。卓も別に見るつもりで見たわけではなく、親が見ていたのをたまたま目にしただけに過ぎず、その為詳しい内容は全く知らないそうだ。
「そのドラマがどうかしたの?」
「俺が見たのはそのドラマの最後の方だったんだ……何かさ、主人公の女の恋人がさ……女をかばって死んだところでその回は終わったんだ。男はさ、恋人守れて幸せですって顔して死んだんだ」
気のせいか、貝殻で土をすくう音が荒くなっている。苛立っているような、やるせない気持ちを目の前の土にぶつけているような。そんな感じだ。その荒々しい音に、真奈美は胸騒ぎがした。
卓はしばらく無言で作業を続け、それからようやく口を開きだす。
「男はさ、満足だっただろうさ。好きな人守れてさ。けれど、残された女の方はどうなんだ? 自分をかばって死んじゃうなんて。ずっと一緒に生きていきたかっただろうに……なのに、かばう為とはいえ命を投げ出して一人さっさと死んじゃって……」
かつん、という音がする。何か硬いものに貝殻があたったらしい。その瞬間、真奈美は頭がずきりと痛むのを感じ、顔をしかめて頭をおさえる。
「全然嬉しくなんかないと思う。どんな理由があってもさ。一生苦しんで、悲しんで、憎くなって、でもどうしようもなくて……命を削られていくような気持ちになると思う。自分の命を投げ出して、大切な人を守るって話って皆好きでさ……感動するとか、こういう生き方ってすごいって言うけれどさ。俺はそうは思わない」
苦く悲しい、重たい空気が底に沈んでいる。その空気が真奈美の体にくっついて、心臓を押し潰し、鼻や口を塞ぎ、とても苦しい。もがきたくても、もがけない。
貝殻が土を削り取る。その音を聞く度、真奈美は自分の心が削られていくのを感じた。一体どうしてそんな気持ちになるのか、どれだけ考えても分からない。だが実は奥底では答えが分かっているような気がした。
「……俺は生きて欲しかった。一緒に生き続けたかった。先に逝って欲しくなんか、無かった」
「ごめんなさい……」
無意識の内に出た言葉に真奈美ははっとし、驚く。何故自分は謝っているのだろう?
卓がばっと振り向き、真奈美の顔を見る。彼も驚いたような表情を浮かべており、短い、或いはとても長い時間真奈美の顔を見つめていた。
「……謝られる理由なんて無い。何で謝るの? けれど変だな、俺……お前がそう言うの、ずっと待っていたような気がする。そもそも俺、何であんなこと言ったんだろう。生きて欲しかったとか、一緒に生き続けたかったとか」
「私も、何でごめんなさいなんて言ったんだろう……でもそう言ったら私、少しほっとしたの。本当に……何故かしら?」
七十七夜。
月が一段と美しく輝いている。麗しき女神の化身は空に座して、微かに笑んでいる。
「長い時間がかかったね」
「ええ。けれど後少し、後少しだわ……」
「ごらん、月が綺麗だ。昔はよく一緒に眺めたね。肩を並べて、朝まで飽くことなく語り合いながら」
「懐かしいわ。私の持ってきた月の実を入れたお酒を飲んだ貴方が酷く酔ってしまって、大変だったこともあったわね。あの時は語り合うどころじゃなかった」
「そんなことは覚えていなくていいよ」
「いいえ、覚えているわ。忘れてはいけない思い出なんて、一つも無い。貴方との思い出は全て、全て忘れない」
「……私も忘れない。君との思い出を。君との約束も覚えていて、だからこそ時間はかかってしまったがこうして君の言う通り、君と再び会う為に頑張っているんだ」
「本当はもっと早く来られるはずだったのに、随分時間がかかってしまった。そのせいで、貴方を随分と待たせてしまったわ。そして……ごめんなさい。私は、私は」
「もういい。いいんだ、そのことは。もう、ね。だから謝らないで、それ以上謝られたら悲しくなってしまう」
「……ありがとう」
そこまで話したところで、二人は我に返った。お互い今まで自分達が何を話していたのか全く覚えていない。夢の彼方の、それよりももっともっと彼方へ意識が飛んでいた。
真奈美は両頬、しかもほんの一部分だけが妙に冷たいことに気づき、その部分に触れる。指が冷たい何かに触れ、それをゆっくりすくいとって見てみれば、それは涙であった。
「どうして私、泣いていたのだろう?」
その涙を見、貝殻が土を掘る音を聞いた真奈美は何かを思い出しそうになった。だがその何かは地中へ再び潜ってしまい、見えなくなってしまった。
九十九夜。
「私、思い出したことがあるの」
真奈美の言葉に、卓が振り返る。手を止めた彼に真奈美は思い出したことを話して聞かせた。
「夢の話。ある日私ね、夜の海の前に広がる砂浜を歩きながら、貝殻を探す夢を見たの。夜空の様にきらきらと輝く海はとても綺麗だったけれど、その海を見るよりも夢の中の私は貝殻を探すことの方に夢中になっていた。そちらの方が、私にとっては重要なことだったの。どうしてそう思ったのか全然分からなかったけれど……。私はね、目についた貝殻を拾っては捨て、拾っては捨てていた。これは小さすぎる、これは形が悪い、これは綺麗じゃない、これはふさわしくないって」
そのことを思い出したのはついさっきのことで、今の今まですっかり忘れていた。卓の持つ貝殻が土の中にあった石か何かに当たった時に出した、カンという音を聞いた途端、唐突に思い出したのだった。そしてそのことをすぐ卓に話したくなり、こうして話して聞かせたのだ。それを聞かせている時、真奈美の心臓は妙にどきどきしていた。
卓は一度真奈美から視線を逸らし、別の物に目を向ける。その瞳の先に何があるのか、彼女には分かっていた。
唾を飲み込み、話を続ける。
「海の音を聞きながら私は歩き続けた。そして最後に、とても綺麗な貝殻を見つけたの。月にかざしたらね、月と溶け合って消えてなくなりそうだった。それ位それは月と同じだったの。私はこれだって思ってね、それを月に照らされていた海で綺麗に洗ったの。それから私の体は宙に浮かんで、空を歩いて、ある家を目指したの……そこから先のことは覚えていないけれど、誰かに話しかけていたような気がする」
それを聞いた卓は黙っていた。真奈美もしばらく黙った。
「……その夢を見たの、いつ?」
消え入りそうな声で卓が聞いてきた。きっと聞いてくるだろうと真奈美は思っていた。呼吸を整え、それから質問に答えた。口から出た声は小さくて、それでいてとても響くものだった。
「多分、卓君が引っ越してきた日。……卓君に貝殻を渡したのは、夢の中の私なんだよ。でも何で私はそんなことをしたんだろう。そうすれば卓君と会えるから?」
「学校に行けば、会えるじゃん。学校じゃなくても会おうと思えば会えるし。わざわざこんなことする必要なんて無い」
「うん。だから不思議。何でだろう……後少しで分かりそうな気がするのに。私とっても大切な何かを思い出せそうな気がするの。卓君が穴を掘る度、自分の中に埋まっている何かが出てきそうになるの。後少し、後少しできっと出てくるの。でも、それが何なのか分からないの」
「俺も。何かが出てきそうなんだ……でもまだそれが何なのか分からない」
「明日になれば分かるかな」
「分かるかもしれない。きっと後少しだ……そうすれば、きっと」
真奈美が夢の中で貝殻を拾い、そしてそれを卓に渡した意味もきっと分かるに違いなかった。
百夜。
「……人間の男の人と、妖怪の女の人の悲しい恋のお話を今日、聞いたの」
「誰から?」
「……ここへ来る前に見ていた夢に出てきた女の人から。この桜町が、まだ桜村だった頃の話だって。だから、とっても昔の話」
卓は土を掘り続けながら、真奈美の話を聞いている。真奈美は自分の中の何かを掘り出そうとするその美しく切ない音色を聞きながら話を続ける。
「ここからうんと離れた所に暮らしていた男の人が、ふとしたことがきっかけで妖怪の女性と出会うの」
「人間の世界が見たくて、山から彼女は下りてきたんだ。初めて見た世界に驚きを隠せなかったらしい彼女は足を運んだ先でトラブルを起こして……しまいに、短気で乱暴な奴を怒らせてしまったんだ。そして今にもそいつに殴られそうになったところに……一人の男が現れて、彼女を助けたんだ。もっとも、その男は大して強くなかったから……ぼこぼこにされたそうだけれど。そうすることで気が済んだらしく、彼女を殴ろうとしていた男は去った」
「うん、そう」
卓が詳しいことを知っている――そのことに真奈美は不思議と何の疑問ももたなかった。当たり前のように頷き、当たり前のように話を続ける。
「その女性と男の人は恋に落ちたんだって。二人は深く愛し合い、やがて夫婦となって一生を共にすることを誓った。けれど」
「彼女の父親が、人間と夫婦になることを許さなかった」
「けれど、彼女と男の人はどうしても一緒になりたかった。……だから二人で逃げたの。逃げなければ一緒にはなれないと思ったから」
「父は娘を連れ戻そうとした。彼は娘を見つけ、そして連れ戻すよう手下に命令した。男の方は殺しても構わない……そう言ったらしいね」
土を掘るスピードがみるみる内に速くなっていく。真奈美の心臓の鼓動も速くなりつつある。恐らく卓も同じだ。
「……家から持ち出した様々な道具、それから知恵を使って二人は逃げたんだって。ああ、必死に逃げたわ、捕まればもう二度と会えなくなってしまうと思ったから。逃げて、逃げて、逃げ続けて……二人共、ぼろぼろになって。それでも、逃げた。父の手下が諦めるまで……父が私達を追うことを止めるまで」
「きっとつらかっただろうね、逃げ続ける毎日なんて。ああ、辛かった……とても苦しくて、辛くて、泣いてしまうことも何度もあった。それでも逃げることを止めなかった。逃げることを止めるということは、君を諦めるということだったから」
「けれどとうとう二人は手下達に追いつかれ、そして追い詰められた。持ち出した道具はもう何も残ってなかったんですって。女性のもつ力だけでは、追っ手をどうにか出来なかったそうだわ。……絶望だけがあったわ。ねえ、それでその後二人はどうなったと思う?」
「……手下は男を殺そうとした。それを……君が、君が庇ったんだ!」
「私じゃない、私は真奈美よ。それに私は人間だわ」
「違う、君だ、君だ!」
「ああそうだ、私だったわね。そうだわ……」
頭の中がぐちゃぐちゃになったり、冴えたりを繰り返す。
「私は貴方に生きて欲しかった。貴方に死んで欲しくなかった……貴方を守りたかった、その為なら自分の命だって惜しくなかった!」
胸に激痛が走り、その痛みは体内を真っ直ぐ突き進み、そして最後に背中を突き破った。その痛みはとても懐かしいものだった。
「そして、約束したんだ。私はいつか人間に生まれ変わる……貴方もいつか生まれ変わる。そしたら、また会おうと。人間に生まれ変わったら、私は貴方を探す。貴方を見つけたら、貴方に貝殻をあげると……その貝殻で土を、いえ、私達の魂の記憶を掘り出して欲しいと。貴方がもし生まれ変わってなお、私と会いたいと、愛し合いたいと願うのならと」
「そう言って、君は死んだ。君の父が放った追っ手は、私から君の亡骸を奪って、とぼとぼと帰っていった。私は彼等に殺されることなく、一人生き残ってしまった。いっそ殺してくれれば良かったのに。二人で共に生きるか、それが出来ないなら二人で共に死にたかった」
「……貴方は私が死んだ後、桜村で暮らしたんですってね。余所者の貴方を、彼等は受け入れてくれたそうね」
「……あの村で暮らすようになってすぐ、死んだけれど。私はその後何度も生まれ変わった。生まれ変わる度、君と再会することを願っていた」
「私はすぐには生まれ変われなかった。でもようやく人間に生まれ変わって……」
真奈美がはっとする。『誰か』から『真奈美』に戻ったのだ。
「それが私。私はその人の……」
「俺は……」
その瞬間、貝殻が何か硬いものに当たり、庭中に大きな音が響き渡った。
貝殻が砕け、穴の中にぽろぽろと落ちていく。落ちた穴から、ずっとそこに溜まっていた月の光が噴出し、金とも銀ともつかぬ光で世界を包む。
気がつくと真奈美は穴に足をつけて立っていた。そして、その前に座っている卓を見下ろしていた。真奈美は卓に向けて手を差し伸べる。彼はゆっくりと手を伸ばし、その手をとり、立ち上がる。
真奈美の手を、卓の手が包み込む。彼の手は暖かく心まで温かくなる思いがした。
「ああ、やっと会えた。約束を守ってくれてありがとう。私と……私と生きたいと願ってくれてありがとう」
「ずっとこの瞬間を待っていた。私も感謝する……君がまた俺と共に生きたいと願ってくれたことに」
魂の記憶を掘り当てた二人はただ、自分達以外誰もいない、誰も邪魔をしない世界で手を繋ぎ、飽くことなく見つめ合い続けていた。
約束は果たされ、そして二人の新たな人生が始まる。