第四十二夜:君の名を呼ぶ
『君の名を呼ぶ』
「笑ってんじゃないわよ、この馬鹿!」
むんずと掴んだくまのぬいぐるみを、柚季は天井へ向かって思いっきり投げつけた。にやにや笑っている少年がその先に浮かんでいる。少年はそれを余裕の表情でさっと避け、顔を真っ赤にしている柚季を馬鹿にするかのように声をあげて笑った。
「笑うななんて、無理な注文しないでよ。おかしかったら笑うのは当たり前のことだろう?」
「私が家に入ってきた妖を相手にしている姿のどこがおかしいっていうの!?」
「全てだよ。格下相手にわあきゃあ間抜けな声をあげてさ、あたふたどたばたする様はそりゃあもう最高だよ! 見ていると腹が痛くなる程笑いたくなる」
それを聞いた柚季の顔は林檎茹蛸マグマ鮪の赤身。今度はベッドの上にある枕をひっつかみ、妖なのか神霊と呼ばれる存在なのかさっぱり分からない(本人さえ分からないのだからどうしようもない)少年に当ててやろうと勢いよく投げつける。更に小さなうさぎの置物、カバン等を投げてやった。
全て綺麗に避けた少年は「乱暴だなあ、やれやれ」と言いながらため息。あんまりわざとらしい仕草に、柚季はますます腹が立った。
「君はもっと俺に感謝するべきだと思うんだけれど。俺がいなけりゃ君も、君の家族もものすごく強い妖に食べられちゃっていたかもしれない」
「強い妖だけじゃなくて、それ程強くない妖もどうにかしなさいよ! 本当は出来るくせに! そうしてくれたら、今よりは感謝してあげるわよ」
という言葉に少年は「いやだね」と即答。
「それじゃあ面白くないもの。それに、あんまり甘やかしちゃうと君の為にならないし。格下相手に練習して、経験積んで少しずつ成長していかなくちゃね」
「大きなお世話! 私は成長より平穏を望んでいるのよ。毎日のように妖達の相手をする羽目になって……もう嫌になっちゃう!」
昨日は白星・黒星という小人のせいで散々な目に遭い、今日も境界を飛び越えてやって来た妖達に家に上がりこまれ、つい先程まで彼等を倒したり追い出したりするのに家中を駆け回っていた。ようやく一段落つきへとへとになりながら部屋に戻れば、天井に少年が浮かんでいて、柚季を見てけらけらと笑いだし彼女を憤慨させたのだった。
頭上に浮かんでいる少年の姿は、初めて会った時から全く変わっていなかった。本来の姿というものを持たない彼はどんな姿にだって変われる。だが、少なくとも柚季の前では少年の姿を保っている。もしかしたらその姿が気に入ったのかもしれない。
彼は柚季が妖達と戦った後、酷い時はその最中に現れて彼女を茶化したり、笑ったりするのだ。それがたまらなく腹立たしく、いつか彼をぎゃふんと言わせてやりたいと思うのだがなかなか上手くいかなかった。ぎゃふんと言わせるどころか、ぎゃふんと言わされ返り討ち。
(何だかもう何年もこんなやり取りをこの人と続けている気がするけれど、実際のところは初めて会ってから一ヶ月も経っていないのよね……)
そんなことをぼうっとしながら考えている間に、少年が床へとゆっくり降り立った。たんぽぽの綿毛のようにふんわりと、音も立てずに。少年はむっとした表情の柚季を見ながら両手に腰を当てている。
「それよりさあ、柚季。俺の名前ってまだ考えていないの?」
「名前? ああそういえば貴方、名前が無いんですっけ?」
「うん。柚季が真に俺のことを必要にした時に叫んだ名前が、俺の名前になると言った。でも別に、事前に俺に名前をつけてくれても問題は無いんだ。あらかじめ決めた名前を、本当に困った時に叫ぶ……それでも良い」
「名前ねえ……」
少年は元気よく頷く。ピンチになった時、咄嗟に叫んだ名前でも良いと口では言っているが、その輝く瞳を見る限り「ゆっくりと考えて決めた名前が欲しいなあ」と本心は思っているらしい。
確かに名前があった方がこちらとしても呼びやすいし、便利であるとは思うのだが、人があたふたしているのを見てげらげら笑うような少年の為に、気の利いた名前を考えてつけてやることは酷く馬鹿馬鹿しいことのように思えた。
しかも今は複数の妖を相手にしてへとへと状態、名前を考える気力など残っちゃいない。
「別に何でもいいんでしょう?」
「良いといえば良いけれど」
「じゃあ、焼肉梅太郎とかパンストストライプ男とか磯遊び五郎左衛門とかでも良いんだ?」
そう言うと流石の少年も言葉に詰まる。その表情を見て柚季はくすくすと笑った。ぷうっと頬を膨らませる少年、見た目だけなら自分とそう変わらぬ歳に見える。実際は自分よりもずっと長生きしているようだが。
しばし間を空けてから少年が口を開く。
「別に、それでも良いけれど。……何かある度にそのこっ恥ずかしい名前を口にしても全然問題ないって君が思っているなら」
今度は柚季が言葉を詰まらせる番だった。確かにそんな名前を毎回口にしなければいけないと思うとためらってしまう。そんな柚季を見て少年がにししと笑う。仕返しが出来て満足しているらしい。
「ま、俺の名前を君が呼んでくれる日を今から楽しみにしているよ」
自分の勝利で締めた少年は姿を消した。最も見えなくなっただけでまだこの部屋に残っているかもしれなかったが。柚季は「もう!」と布団をぺしんと叩く。それからベッドの上でうとうとしていた。
ふと目を覚まし、ぼうっとした頭を左右に揺らしながら時計を見る。どうやら二時間ちょっとの間眠っていたらしい。それだけの睡眠では妖に振り回されてたまった疲れはとれなかったが、それでも少しは楽になった。
寝ていた為にやや乱れた髪をとかし、バッグに携帯や財布を入れて家を出る。
気分転換に軽く歩き、ついでに今日の夕飯になりそうなものを買ってこようとしたのだ。歩きながら何度か小さなあくびをする。その度手で開けた口を隠し、それからまだやや重いまぶたをこする。
冬の寒さに震えながら街の中を歩いた。本屋に入ると少し熱い位の温もりに体が包み込まれる。ざっと一周しながら、目についた雑誌や小説を手にとってぱらぱらとめくる。漫画の新刊コーナーに行くと、好きな漫画の新刊が出ていることに気がついた。地味で目立たない少女・南の前に、速水と名乗る謎の男が現れ、彼女を誰もが振り返る立派な女性へと変身させていく――というストーリーの漫画である。南が、自分が速水に恋心を抱いていることを自覚したところで前の巻は終わっていた。迷わずその本を手に取り、カウンターへと持っていく。
漫画を買ってから店を出、それからそこらの店を適当に回ってから最後にスーパーへ寄って野菜等を買う。両親は今日も仕事が忙しく、帰りが遅くなるらしい。一人での食事にはもう慣れた。とはいえ、寂しいことに変わりは無い。
(まあ、あの子が時々ちょっかいだしてくることもあるけれど)
少年は時々食事をしている柚季の前に現れて、彼女をからかったり、おかずを勝手に手でつまんで食べてしまったりする。時々柚季の話し相手になることもあった。その時、柚季の寂しいという気持ちは薄らぐ。
(彼なりの優しさなのかな、あれも。私が寂しくないように。それともただ単に、私をからかって遊びたいだけなのか)
いまいち彼の考えていることは分からない。共に過ごす時間が長くなれば分かるようになるだろうかと思ったが、結局どれだけ長い時間を共に過ごしても理解出来ずじまいになりそうな気がした。
悪い奴ではない、ということは出会ってからたかだか二週間程しか経っていなくても何となく分かる。出雲とは違い、優しく穏やかな瞳を彼はしていた。
初めて会った時もとても温かい笑みを柚季に向けてくれた。
(本当に困っている時に名前を呼べば私の所まですぐに来てくれる……多分嘘はついていない。あの目を見る限りは、そう思う。でもあんまり信用しすぎても……いつか痛い目みるかもしれないし。それにやっぱり、あの人人間じゃないし……妖は嫌い。人ならざる者なんて、大嫌い)
妖の話や、祖先の英雄譚ばかり話していた祖母。自分の娘や孫がそのせいで迷惑していることを何度聞かされても、ちっとも変わらなかった祖母。祖母のせいでからかわれたり、嫌なことを言われたりやられたりした過去。
そのせいで彼等の存在を憎み嫌うようになった。祖母にとっては、いもしない者達の方が自分や母よりも大事なのだと思ったら、たまらなく憎らしかった。
彼等に対する思いは、毎日のように妖達に絡まれているせいで強くなる一方である。
「全く、何が面白いよ……こっちはちっとも面白くないっての。出来るんだったら、あの家に入り込んでくる奴等皆追い出してくれればいいのに。そうすれば私も気が楽なのになあ」
それにしても寒いなあ、とひっかけているカーディガンに手をやる。長めのスカートがふわりと冷たい風に揺れた。帰ってからのことを考えながら家へ向かって足を進める。空は夜の色に近づきつつあった。
曲がり角を曲がった時、柚季は「きゃっ」と短い悲鳴をあげて立ち止まる。
角を曲がった彼女のすぐ目の前に人が背中を向けて立っていたからだ。勢いよく、走って曲がっていたらぶつかっていたかもしれない。
目前にいるのはどうやら少女であるらしい。背格好を見る限り十歳前後だと思われる。ところで彼女が身につけているのは洋服ではなく、着物であった。
黒い着物に描かれているのは真っ赤な花。まるで血しぶきのような、花。柚季はそんな少女の後姿を見ただけで「不味い」と思った。全身が一瞬にして氷で満たされ、内蔵が締めつけられ、脳がかあっと熱くなる。
(この子、人間じゃない……!)
幸いにもまだ少女は柚季に気がついていない様子。このままくるりと踵を返し、別の道から家を目指すことにした。関わらなくて済むのなら、その方が良い。少し遠回りになるが、仕方が無い。
柚季はすぐさまその少女に背を向けた。その直後、ひいっと悲鳴をあげる。
すぐ目の前に少女が立っていたからだ。恐る恐る背後に視線をやるが、すでにそこには誰の姿も無かった。そのことにも肝を冷やしたし、何より少女の顔の異様さにとてつもない恐怖を感じた。
白い顔についている目も口も、ただの穴であった。本来目玉があるはずの場所は空洞で、果てない闇が広がっているのみ。しかもその目は異様に中心に近く、それが一層不気味さを際立たせる。口には唇も歯も舌もなく、矢張りただの穴であった。夜さえ飲み込む闇がそこにはあった。
口という名の穴から、ひゅうひゅうと息が漏れる。ひゅう、ひゅう、ひゅう……。
「いやあ!」
柚季はくっつけた右手の人差し指と中指で、真一文字に空を切る。それと同時に、柚季の体内に流れている霊力が放たれた。しかしその力は、目の前にいる少女に容易に消し去られた。
(消された!?)
半ばパニックになっていたとはいえ、きちんと指先に神経を集中させぎゅっと凝縮させた力を放てたはずだ。雑魚なら一発で死に絶え、それより少し強くても当たっただけで相当苦しむし、ちっとやそっとのことでは消し去れない。
不味い、と柚季は思った。もしかしたら自分の手には負えない存在であるかもしれない。だがそう思った時にはもう遅かった。
周りにあった塀や家が消え、空が、道路が、電柱が消えていく。目の前にいる少女に目と口に広がるものと同じ闇が柚季をごくりと飲み込んだ。どうやら目の前にいる少女によって、自身の領域に引きずり込まれたらしい。
こうなると領域の主である少女を倒すか、何らかの事情で彼女が柚季を領域から追いだすかしなければまず出られない。無理矢理領域をこじあけて逃げる……という術が世の中には一応存在しているらしいが、かなりの力を使う上に難易度が高く、失敗すると訳の分からない場所に放りだされてしまう――ということを、以前英彦から聞いた。中には他人の領域等に出入りが自由に出来る妖や精霊もいるという。術師の中にはそういった者を味方につけることで、万が一に備える人もいるらしい。
柚季の家に住み着いている少年も、そんな他者の領域に自由に出入り出来る力を持っている者の一人である。その力を持っていたからこそ、柚季はクリスマスの時賭け婆という妖に殺されずに済んだのだ。
だからこの事態も、少年の名前を呼べば容易に解決できる。ところが暗い闇の中に放り込まれたことによりパニックを起こした柚季は今、そんな簡単なことすら考えることが出来なかった。
りん、りん、りんとんしゃん。あちこちで響く鈴の音は氷の音。闇の中、ぽつんぽつんと浮かぶは少女の顔。ぼうっと光る顔、黒い目黒い口。その灯りの色は橙色であるのに、少しも優しさや温もりを感じない。これ程までに冷たい橙色を見たことが今までにあっただろうか?
もつれる足、解いても解いても絡まっていく。逃げ続けたからといって何がどうなるわけでもないのに、今の柚季にはただ逃げることしか出来なかった。
冷笑する鈴、嘲笑する顔。時々背後を見やるが、あの少女の姿は見えない。
しかし柚季には分かっていた。少女は柚季のすぐ後ろにいる。笑いながら、ゆっくりゆっくりと、だが着実に柚季を追い詰めている。
時々力を込めた手を、後方へと飛ばした。それと共に、妖にとっては毒である霊的な力が放たれる。だがその力はある地点で霧散する。あの少女が、妖がそうしたに違いない。力の差は歴然だった。その度宙に浮かぶ無数の顔が笑った。馬鹿め、無駄だ、さっさと喰われてしまえと……。髪が乱れ、息が乱れ、足が乱れる。体を伝う汗が異様に冷たく、体の節々が痛い。氷の刃で何度も突き刺されているような気持ちだ。
(家の中に居ても妖と遭う、外に出ても遭う! 何でよ、もういい加減にしてよ……!)
心の中で叫んだ瞬間、闇に足をとられて転倒する。打った肘や膝がじんわり痛んだ。その痛みに、ようやく柚季は少年の存在を思い出した。
(そうだ、彼なら。彼ならここにも来られるはずだ。そして私を助けてくれるはず。名前を呼ぼう、何か、何か名前を……!)
体勢を整えながら振り向くと、あの少女が四つん這いになってゆっくりとこちらへ向かって歩いていた。小さな体から生えている四肢は大きく、太く、皺だらけで、爪は長く、肌は藻の様な色をしている。ひゅう、ひゅう、という音が段々と大きく、そして荒くなっていく。
その恐ろしい姿にまたも柚季は体勢を崩してしまい、恐怖で動かない手足を無理矢理動かしながら彼女から逃れようとする。逃れようとしながら、少年を呼ぶことを考えた。
ただ名前を呼ぶだけ。とても簡単なことだ。心から助けを求めながら、呼んだ名前が彼の少年の名前になる。何だっていいのだ、太郎でも二郎でも何でも……。
それなのに、何にも出てこない。目の前にいる異形の者に対しての恐怖が喉を塞いでいるから……いや、理由はそれだけではなかった。何でも良いと言われるとかえって悩んでしまうのだ。何でもいいと言われてはいるが、名前というのは大事なものである。適当な気持ちで決めたくないという思いがあった。
昔、TVゲームの主人公に名前をつけようとした時、酷く悩んだことがあった。
自分の名前では味気が無い、何か意味のある名前をつけたい、でも何がいいだろうか。これが良いか、でも何かこのキャラに会わない気がする、それならこれか……そんな風に悩んでようやく決めた名前を入力した。名前を何にしようがゲームの進行には何の支障もない、名前なんて適当でいい、そんなことは分かっていた。それでも悩んだのだ。
命の危機迫る中、ふと柚季はその時のことを思い出した。今まさにそれと同じ状況に陥っている。適当でいい、何でもいいから叫ばなければいけない、それが分かっているのに一向に叫べない。じりじりと迫る少女、それから少しでも遠ざかろうと尻を地面につけたまま、後退していく。だが距離は着実に縮まってきている――。
(このままじゃいけない、駄目、早く、早く呼ばなくちゃ……)
汗がとめどなく流れる。頭が熱い、白い、落ち着こうと思えば思うほどこんがらがってどうしようもなくなっていく。
いよいよ危なくなってきて、ますます柚季は余裕がなくなっていく。目を大きく見開き、体を震わせ、頭を抱える。
(早く、しなくちゃ……早く、早く、早く、早く、はやく、ハヤク……ハヤ……)
柚季の細い足に、異形の者の手が触れる。それはまるで髪のようにかさかさしていて、そしてとても冷たかった。その時、柚季の中の恐怖が爆発した。
「来て……早く……早く来て、ハヤミ!」
早く来て、その言葉とつい先程買った漫画のヒーローの名前が重なる。そしてその名を、恐怖の爆発と共に柚季は声に出して呼んだ。悲鳴に限りなく近い声で、闇を震わせる位大きな声で。
ひゅーひゅーという音しか出ていなかった口から、獣のような声が発せられ、それと同時に大きく開けた口と二つの目がくっついて溶け合って一つの巨大な穴となり、柚季を呑みこもうとした。
だが、柚季の体がその恐ろしい闇の中に呑みこまれることはなかった。
目を開けていられない位強い光が、柚季に覆いかぶさった妖を吹き飛ばしたのだ。妖の絶叫が闇にこだまする。耳をつんざくような断末魔。
その声が完全に聞こえなくなった後、柚季の右手を誰かがとる。その温かさに柚季の恐怖が溶けて消えていく。直後、ふわっと浮いた自分の体。
思わず瞑っていた瞳を開けると、そこは柚季の部屋だった。そして目の前には少年――ハヤミ、いや速水の姿が。彼は柚季の顔を見て、安心したような表情を浮かべた。
「ギリギリセーフ。もうちょっと呼ぶのが遅かったら間に合わなかったよ」
その時浮かべた笑顔を見たら、もう柚季はたまらなくなり思わず泣きながら彼の胸へと飛びこむ。速水はおっと、といきなりのことに困惑しつつもよしよしと柚季の頭を撫でてくれた。一度泣きだしたら止まらなくなり、恥ずかしい位大きな声で、激しく泣いた。人ならざる者の胸に自らの意思で飛び込んだことに、自分でびっくりしたがそれでも今は彼から離れたくなく、頭を撫でられながら涙を流していたかった。それ位怖かったのだ。
「怖かった……死ぬかと思った……!」
「あれはなかなか強そうな奴だったね、確かに柚季の手にはまだ負えないな。でももう大丈夫、俺が退治してやったから。俺からしてみればあんなの雑魚だから」
本当、と顔をあげると速水はにこりと笑った。それを見たらますます柚季は泣けてきて、それから気が済むまで泣くのだった。
「本当はもっと早く呼ぼうと思ったのよ……でも、でも、いざとなったら名前が全然出てこなくて……太郎とか二郎とかでも良かったはずなのに、でも、適当な名前を呼ぶってことが出来なくて」
「それは、柚季が俺をそこまで嫌っていない証拠かな。ありがたいことだね」
その言葉に柚季は返事が出来なかった。確かにそれは事実であったが、素直にそれを認めることは癪だった。
柚季は速水から視線を逸らす。
「別に、そういうわけじゃ」
「いや、そういうわけだね。嫌われていないどころか、実はとっても好かれていたり?」
「それは無い、絶対に無い!」
「素直じゃないなあ、柚季は。でも俺、そういうところが好きだなあ。うん、俺も柚季のことが大好きだ」
「俺『も』って何よ、俺『も』って!」
勝手に決めつけるなと怒鳴ってやったら、彼は大層愉快そうに笑った。その笑顔が本当に腹立つ。一方でそれを見ると安堵する自分もいた。
げらげらという笑いをふと止めて、速水はにこりと柔らかい笑みを柚季へと向けた。その笑顔にうっかりときめきかけた柚季は慌てて俯く。
「うん、元気になった。もう大丈夫だね。ふふ、それにしても……早く来て欲しい、早く早くってことで『速水』かあ」
「何よ、ご不満?」
「いいや、全然。納豆スパイラル小次郎とか、マリンバ林太郎とか、そういった名前をつけられなくて良かったなって思って」
わざと真顔になってそう言うので、柚季はおかしくなってついくすくすと笑った。そんな柚季を速水はじいっと見つめる。
「素敵な名前をありがとう。今日から俺は速水だ。俺を必要としたらその名を呼んで。きっと駆けつけるから。あ、でも前にも言ったけれど俺を呼ぶ時は計画的に。ちょっと困った位で呼ばないでね」
「……二度と貴方の力を借りなければ死んでしまうような状況に陥らないことを祈るわ」
まあ、確かにそれはそうだねと笑う。
「俺としては柚季に必要とされたいんだけれど。君が危険な目に遭えばあう程必要とされる機会も増えるわけだ。君としてはそんなのごめんだろうけれど、俺は大歓迎……いてて、冗談だよ冗談。ふふ、でもこうして名前を与えられて……ようやく俺達スタート地点に立てたなあって感じ。これから俺と柚季の時間は始まっていくんだ。ってなわけで改めてよろしく、柚季」
これから先、自分はどれ位の時間を目の前にいる少年と過ごすことになるのだろうと柚季は思う。彼にからかわれ、笑われ、そして助けられる日々を一体どれ程の間送ることになるのだろう。
(とても長い時間かもしれないし、とても短い時間になるかもしれない。その時間は私に何をもたらすだろう……)
そんなことをぼうっと考える。速水がもう一度「よろしく」と言った。
何かが変わっていくかもしれないし、何も変わらないかもしれない。どちらになるか今はまだ分からない。
柚季はにっこりと笑い、よろしくと言った。もういつの間にか涙はすっかり引っ込んでいた。
「しょうがないから、これからもこの家に置いておいてあげる。その代わり、私のことちゃんと守りなさいよ」
「うわあ、上から目線」
「悪い? 兎に角、よろしくって言ったからには最後までちゃんと守ってもらうわよ。利用出来るものは人でも人ならざる者でも何だって利用してやる」
「はいはい、分かりましたよお姫様」
こうして柚季と、及川家に住み着いた人ならざる者である少年は名前で結ばれた。そしてこれから、二人の時間が始まるのだ。