第四十一夜:つくりかえて あそぼう!(1)
『つくりかえて あそぼう!』
じりりりりりりり……喧しい叫び声をあげる目覚まし時計。その上部についているボタンを押すのは、布団からにゅるっと生えて伸びた大きく立派な手。
ボタンを押したまま、その手の主はしばし布団の中で唸っていた。その唸り声は人のものとは到底思えず、まるで獣のようであった。実際彼は人では無い。
しばらくして、意を決したようにばっと起き上がり、それから少しして体をぶるっと震わせる。
「相変わらず寒いなあ! これからもっと寒くなるのかと思うと、ぞっとするよ、本当」
水分量が明らかに少なそうな、茶色がかったぼさぼさの髪に覆われた頭をわしわしかく。垂れ気味の瞳からつつうっと垂れる涙。荒く削った岩の柱のような腕、今にもはちきれてしまいそうな位がっちりもりもりな胸。
男――化け狸の弥助は布団を簡単に畳んで部屋の隅に避ける。
「いやあ、昨日は沢山飲んだなあ!」
う、ううんと伸びをする。元々大きな体が伸びてますます大きくなった。
弥助は昨日も居酒屋『鬼灯』を訪れており、鞍馬や白粉といった馴染みのメンバー(弥助にとっては大変残念なことに、出雲もいた)と酒を飲みつつ飯をたらふく食った。そしてこちらの世界へ帰り、バイトに備えてつい先程まで寝ていたのだ。寝ていた、というよりちょっとの時間だけ目を瞑っていたといった方が正しいのだが。人間とは違い、ちょっと位寝なかったからといって死んでしまう程やわではないから、それでも充分であった。流石に元はただの動物であったがゆえ、それがあんまり長く続くと多少影響が出てくるが。
(久しぶりにあのばあさんとも会ったな。相変わらず怪しい商品を人間達に色々売りつけているようだが)
小柄でありながらダムの如き胃袋を持ち、酒を弥助以上に飲み、豆腐や肉、魚をまるで水でも飲むかのようにごくごくちゅるんと飲み込む、化け物のような化け物、つまり化け物であった。その化け物――老婆は旅商人で、こちら側・向こう側を行ったり来たりしては各地で集めた怪しい商品を売りつけていた。 いかにも化け物な老婆が売る、いかにも怪しい道具を買う馬鹿な人間なんていない……なんてことはなく。その老婆から『物語を動かしたいならこれを買え』と言われて一つの箱を買い、結果として桜町を中心とした一部エリアを止まない雨で覆うことになった馬鹿娘がかつていた。弥助が働く喫茶店のマスターの孫、さくらである。
さくらに鬼と精霊の眠る箱を売った老婆は、今も稀に『鬼灯』を訪れては、弥助達と酒を酌み交わす。彼女と飲み食いすることは決して嫌いではなく、むしろ豪快な飲みっぷり食いっぷりをみせ、道中の様々な話を聞かせてくれる老婆のことは好きであった。が、一方で「また変なことが起こらなければいいが」と思う。さくらのような、お馬鹿で阿呆な人間が怪しげな道具を買った挙句、他の人をも巻き込んだ騒動を引き起こしてしまう……ということがもう決して起きないとは言い切れないからだ。
(婆さんに『桜町とかに住む人間に変な物を売らなかったか』って聞いても笑ってはぐらかされるだけだし。まあ、大丈夫だとは思うけれどな)
さて、とさっと着替えた弥助は、葱とたれを入れてよく混ぜた納豆をごはんにかけ、ざざざあっと一気にかきこんだ。とうふとわかめの入った熱々の味噌汁を胃に流し込み、卵焼きをごっくん丸呑み。
ごしごしと歯を磨く。しょぼい造りの壁の外から、子供達がわいわい言っている声が聞こえた。約二週間ぶりに聞いた、ほぼ毎朝恒例の声である。
(そういえばこの辺りは今日から新学期か。さくら達も学校かあ)
まあ、あっしにはあまり関係の無いことっすがと口の中をさっぱり綺麗にした弥助は再び伸びをする。そしてすっかり身支度を整え、準備は万端。
それから時計を見、そろそろ時間だなと玄関の戸を開けた。ぎいい、というすっきり爽やかな気持ちを一瞬にして台無しにする音がする。全く不吉な感じの音だよなあ、と心の中でため息。
外は矢張り寒く、ひゅおおという風が吹く度「うおう、寒い」と嫌になる。
からからと音をたてて、からからに渇ききって枯れた葉が風の旋律にあわせて踊った。
何でもないことを時々考えながらぼけっと歩いていた弥助は、ある場所を通り過ぎたところではたと足を止める。視界の端に映った風景に、違和感を覚えたからだ。いつもこの道で見ないものを見たような気がした。気のせい、見間違えということもよくあることだが、何となく気になり、来た道を戻る。
ずうっと続くブロック塀の前にいつもと全然違う風景が広がっている気がする。全く違うはずなのに、その大きな違いが具体的にどんなものであるのか少しも分からない。
ポストと道路標識、バス停の看板数個、薬局の人形、狸の置物、自動販売機、マネキン、カーブミラーが横一列にずらり並んでいる様を弥助はじっと見つめていた。
「……気のせいか」
別におかしい所なんてない。本当は何一つ変わっていないのに、何かが変わったと思うことはまあよくある話だ。
そう結論づけた弥助はその場を離れ、しばらく歩き出す。
数十メートル歩いた所で弥助は再び足を止める。それから慌てた様子で体の向きを変え、先程立ち止まったところまでダッシュで戻った。その前まで走った所で再び体の向きを変え、ブロック塀とその前に並ぶものと向き合った状態になる。
「気のせいなわけあるかい!」
数十秒程前の自分に全力でツッコミ。
ポストも自動販売機もこの辺りには置いていなかったはずだ。いや、その二つはまだしも、マネキンや薬局の人形やらがこんな所にずらりと並んでいるはずがない。道路標識やカーブミラーも同じように。よく見ればそれらが並んでいる辺りのブロック塀に『三つ葉市立三つ葉高等学校』と書かれたプレート(恐らく校門辺りについているものだと思われる)が掲げられていた。
道路標識やマネキンがずらり並んで仲良しこよし、という光景はかなり異様なものである。そんな光景を一瞬でもスルーしてしまった自分のぼけなすっぷりに初めは呆れたが、もしかしてこの光景の異様さに気がつかなかったのは、自分が阿呆だからというわけではなかったのではないかと思い始める。
(いくらあっしがぼけちんでも、こんな光景ガン見したらすぐ妙なことに気がつく。……ぱっと見てもその変化に気づきにくいようになっちまっているのかもしれない。これをやったのは人間じゃなくて)
弥助の後ろを誰かが通る。振り向くと、その人と目が合う。その人の視線は弥助だけでなく、彼の前にある異様な光景にも注がれているはずだが、全く動じる様子無くさっさと向こうへ行ってしまった。この光景の不審さにまるで気がついていないようにしか見えない。
やっぱり、人間の仕業ではないのかもしれない。
(ったく、誰だか知らないがとんでもない悪ガキっすね。見つけたらとっちめてやらんと)
それから弥助は腕組みし、目の前にあるものをどうしようか考える。出来る限り元の場所へ戻しておきたいところなのだが、生憎今は時間が無い。それに本来どこにあったものなのか分からないものも多い。
出雲だったら百パーセント無視する。それどころかこれらに術をかけ、事態を余計ややこしくしかねない。弥助が知る出雲というのは、そういう男だった。
しかし弥助の場合は、無視してそのまま何もせず放っておくなんてことが出来ない。こういうことは見過ごせないタイプなのだ。
仕方が無い、と弥助はため息をつき頭をかく。
(場所が分かるものは仕事が終わったら戻しにいくとするか。分からんものは……犯人捜してとっちめて、元の場所に戻させるとするか)
と、とりあえずは仕事場である喫茶店へ行くことに決めるのだった。
ポストやマネキン、道路標識の視線をその背に受けながら弥助はその場を後にした。
この時すでに、大きな騒動が始まりを告げていたのだが……今の彼は知る由もなく。
*
――上手く持ってこられたね、上手く運べたね――
――久しぶりだったけれど、大丈夫だったね。出来なくなっていたらどうしようかと思った――
――窮屈な籠からやっと出られた。これでまた遊べるようになる――
――もう、いっぱい増えたから色々なことが沢山出来る。材料は幾らでもある。いっぱい、いっぱい集めて、いっぱい遊ぼうね――
――もうあの中には入りたくない。だからまた捕まらないようにしなくちゃね――
――大丈夫だよ。捕まえることが出来る人間なんて、そうはいないよ――
――ふふ、そうだね、ふふふ……――
*
バスの中は相変わらず人でいっぱいだ。馬鹿みたいにきいている暖房と、乗客の体温が車内を冬とは思えない温もりで包む。これが優しい温もりなら良いのだが、残念ながら心地良いものであるとはいいがたい。
学校前にあるバス停でバスが止まると、続々と生徒達が降りていく。紗久羅もだらだらとした流れに乗るようにしてバスを降りた。車内は馬鹿みたいに暑かったが、外に出た途端体が纏っていた温もりは、冬の冷気にぺろんとめくられ、くるくる包まれ、そのままぽいっと捨てられた。
「うおお、寒い!」
思わずでた声は自分が想像していたよりも遥かに大きく、二三人の生徒がびっくりしたように紗久羅を見た。その視線を受け、紗久羅は寒さと羞恥心に頬を染める。
間もなく出て行ったバスを何となく見送り、それから何気なく――本当に何気なく、バス停を見やった。
見慣れた、というか見飽きた光景。だがそれを見た時紗久羅は「おや?」と思った。何かがいつもとは違うような気がした。だが何が違うのか、そもそも本当にいつもと違う点があるのか分からず。首を傾げながらも「気のせいか」という結論に達した紗久羅は、バス停を離れて校舎がどでんと座っている方へと歩いていった。大勢の生徒が、ぺちゃくちゃ喋ったり、誰かに挨拶したりしながら校門をくぐっていく。
紗久羅も彼等に続くようにして校門をくぐろうとして……あれ、と立ち止まった。再び自分が今見ている風景に違和感を覚えたのだ。だが矢張りその違和感の正体は分からなかった。
(久しぶりに来たから、変な感じがするだけかな。久しぶりといっても二週間位のものだけれど。まあ、いっか。別に大したことじゃないだろうし)
考えても分からないのなら、きっと大したことはないに違いない。そう結論づけた紗久羅は何かおかしい(と感じる)校門をくぐり、校舎へと入っていった。
二週間ぶり位だと、ああ久しぶりだなという感動もない。つい昨日もここに来ていて、授業を受けていたような気にさえなる。夏休み明けだとまた色々印象も変わるのだが。
教室に入ると、クラスメイトや友人が挨拶してきた。それに「おはよう」とか「久しぶり」とかいう言葉を返しながら席に座る。すると間もなくすでに来ていた柚季がとことこやって来た。
「おはよう紗久羅、久しぶり……っていう程でも無いか、元旦に会ったばかりだし」
「そうだな。毎日のように会っていた時のことを考えれば、久しぶりといえば久しぶりになるのかもしれないけれど。あんまり久しぶりって感じがしないや。昨日も会っていたような気がするよ」
それから二人は元旦以降にあったことをお互い話した。メールで結構やり取りしているから、ある程度いつ何をしたかということは把握している。それでも矢張り、詳しい話などを改めて直接本人から聞きたいと思う。もっとも、向こう側の世界の住人が関わる物事については(少なくともこの場では)語れなかったが。
「久しぶりにおばあちゃん家に帰ったわ。娘と孫がいなくなって、少しは懲りて良くなると思ったんだけれど……相変わらずだった。近況とかほんのちょっと聞いたら、その後は『あっち』関係のことについて延々と喋り続けてさ。もう頭きちゃって、適当な理由つけてすぐ外に出ちゃった。少しは変わると思ったんだけれど、よく考えてみればおばあちゃんって自分のどこが悪いのか、全然気がついていないのよね。どれだけ言っても分かってくれないし。だから、変わるはずものなかったのよ。私達が何で出て行ったのか、未だ理解していないのだから。……あのおばあちゃんにもし『あのこと』がばれたらと思うとぞっとする」
柚季は周りに知られたくない部分はぼかした上に小声で言ったが、彼女の事情を良く知っている紗久羅は充分話を理解していた。確かに、柚季の力のことがばれたら大騒ぎになること請け合いだ。どうか彼女のばあちゃんにばれませんように、と願わずにいられない。
「だから家にいる時は憂鬱だわ、イライラするわで。本当、私達のことよりもあっちの方がもっと大切だってことが良く分かる。まあ、とはいえ心から憎んでいるわけじゃないから……とりあえず病気一つせず元気でいてくれて良かったとは思うし、向こうの友達とも会えて色々お話できたから……結果的には帰ってよかったなとは思ったけれど」
しかし心の底から良かったと思えないのも事実であるらしく、憂鬱そうな域をはあ、と吐いた。紗久羅はその憂鬱さを忘れさせようと、向こうにいる友達のことなどについて聞いてみる。すると柚季は楽しそうに話を始めた。よく考えてみれば、向こうの友達の話というのはあまり聞いたことがなかったから、紗久羅も楽しかった。今度また友達の話や、前いた街のことについて話してくれるそうだ。
ぺちゃくちゃ喋っている内に、体育館へ移動する時間となった。始業式がこれから始まるのである。
移動する途中、友達と喋っていた奈都貴に挨拶した。彼は柚季には穏やかな表情で挨拶を返したが、肩をぽんぽん叩き余計な言葉を交えつつ挨拶した紗久羅には、ものすごく嫌そうな顔をしながら投げやり気味に返す。
ただ退屈なだけの式を、あくびを繰り返しながら適当にやり過ごした。その後はHRがあり、あっという間に今日の学校は終わった。明日からは通常通り授業が行われるが、今日は午前中で終わりである。
「ねえ紗久羅、折角だからちょっと遊びましょうよ」
「お、いいねえ! 遊ぼう遊ぼう」
断る理由など一つも無い。道草万歳、と叫ぶと柚季に苦笑いされた。恐らく帰宅部の生徒の多くは真っ直ぐ家に帰らないだろう。
二人で色々喋りながら校門を出る。それから、多くのビルや店が集中する街の中心部へと歩いていった。
最初はにこにこ笑い、ふざけ、はしゃぎながら歩いていた二人だったが段々とその表情が曇っていく、
道中喧嘩をして険悪なムードになったわけではない。原因は目の前に広がる世界にあった。目に映るもの全てに、何か強烈な違和感を覚えたのだ。紗久羅は朝、バス停と校門前を見た時にも同じような違和感を覚えたことを思い出していた。いや、今感じているのはその時のものの比ではない。もっと強烈で、気のせいであるとは到底思えないもので。だが、その違和感の正体が少しもつかめない。ものすごくもやもやとした気持ちになる。そういうのが一番嫌いな紗久羅は苛立ちを募らせた。
「なあ、柚季。さっきから目に映る風景にものすごい違和感を覚えるんだけれど」
試しに聞いてみると、柚季は頭を抱える。
「紗久羅も? 私もなんか変だなって思うの。いつもと何かが違うっていうか、変わっているというか……しかも微妙な変化じゃなくて、かなり大きな変化だと思うの。でも、何がどう変わっているのか少しも分からない。答えが喉まで出掛かっている気がする、でも出てこない。ものすごく変な感じ。考えれば考えるほど、世界がぐにゃりと歪んで見えるのよ。ああ色々な意味で気持ち悪い!」
それは紗久羅が感じているものと全く同じだった。紗久羅が朝にも似たような感覚に襲われたことを話すと、柚季は驚いたように紗久羅を見る。それから気まずそうに「実は、私も」と告白した。
「朝いつもの道を歩いていた時に……あれ、何か変だなって思ったの。何かいつもと違う気がしたの。でも、何が変わっているのか、本当に何かが変わっているのか分からなかった。今ほど強い違和感を覚えたわけじゃなかったから、結局気のせいってことで落ち着いたんだけれど」
どうやら気のせいではなかったらしい。
「他の人達はどうなんだろう。何か変なものを感じてはいないのかな」
「……見たところそうは思えないけれど」
柚季の言う通り、行き交う人々の表情は明るいもので目に見える景色に違和感などまるっきり覚えていないという様子であった。言った紗久羅も「だよなあ」と頭を押さえる。
「絶対おかしいよ、これ。……まさか」
「ああ言わないで、言わないで、その先は!」
紗久羅が続けようとするのを必死に止める。紗久羅だって出来ることならば言いたくはない。
「とりあえずもう少し様子を見てみよう。あんまりおかしいようだったら、九段坂のおっさんに相談しようぜ。きっと助けになってくれるだろうし」
柚季も納得したらしく、それからこのことについては口を閉ざし、二人して話題を全く別のものへと変えていく。何でもないおしゃべりは何より楽しい物だった。
だが、強烈な違和感は依然として覚えたまま。ところが常に感じるわけでもなく、何も感じない時もあった。
違和感を覚える場所と、覚えない場所。そこにどんな違いがあるのかは二人にはまだ分からなかった。
中心の方へ向かって歩いた二人は、ハンバーガー店で昼食をとる。その時は何も変な感じはしなかったから、お喋りを楽しみながらハンバーガーにかぶりつく。柚季はゆっくりと、綺麗に食べる。ハンバーガーが何だかとてもエレガントなお食事に見える位に。一方の紗久羅といえば、まあ遠慮なくみっともない位大きな口を開けては豪快にかぶりつく。その食べっぷりはまるで男である。
「飯食ったらどこ行く?」
口に入れているものをごくりと飲み込んでから紗久羅が聞く。柚季はよく二人で行く店の名前を幾つか挙げた。紗久羅も特に異論はなかったから、じゃあそこら辺にしようと決めた。
ハンバーガー店を後にした二人は、店を回ったりゲーセンに行ったりして放課後を大いに楽しんだ。
だが一方で時々「何かおかしい」という感覚に襲われもした。店、交差点、通りかかった花屋、コンビニ、住宅、ビル……。何か、いつもと違う部分がある気がする、ところが間違い探しをしようとしても一向にその間違いは見つからない。
しかも、不思議なことはこれだけに留まらなかった。
「あ、また横切った」
柚季が目の前を指差す。紗久羅も何かが目の前を横切るのを確かに見た。先程からちょくちょくと、小さな何かが横切ったり、ビルとビルの隙間へさっと入り込んだり、何かの上に上っているのを一瞬見かけたりしている。最初の内は、猫だと思っていた。しかし何度も見かける内、猫では無いのではと思うようになってきた。四足歩行ではなく二足歩行であるように見えたし、色合いも猫にしては鮮やかだ。猫や犬といった獣より、どちらかというと人間に近いように思われた。しかし確証にいたる程はっきりとその姿を見たわけではないのでまだ何とも言えない。それが向かった先に目をやっても、もうその姿は見えなくなっているから、追いかけることも出来ない。
幾度も繰り返す内、柚季はその何かを見る度「嫌な予感がする」と言うようになった。横切るものに、何か良くないものを感じる気がすると言うのだ。紗久羅もそれを見かける度胸がざわつくのを微かに感じる。そして段々と不安になってくるというか、また大変なことが起きるような気がしてくる。
(何か変だと思うのに、何が変なのか分からないことと関係しているのかもしれないなあ)
紗久羅は矢張り英彦に相談した方が良いのかもしれないと思い始めていた。
「冬休み明け早々あいつらと関わるなんてごめんよ。ああ、どうか気のせいでありますように!」
という柚季の心からの願いも、きっと天は聞き入れないだろうなあと半ば諦めている。それでも、やっぱり気のせいであって欲しいと祈ってしまう自分もいた。
まだ手を合わせてむにゃむにゃ祈っている柚季と紗久羅は元来た道を引き返していた。何か妙なことが起きる前にさっさと帰ってしまおうという寸法である。とりあえず後で英彦に相談するとして。
「きっと気のせい、気のせい、何も起こらない、起こったらまじで怒るわよ私……」
彼女にしては低い声でぶつぶつ呟き始めていた柚季は、ある場所ではたと足を止めた。紗久羅もそれにならって足を止める。
柚季は左に視線を向ける。店と店に挟まれた空き地である。それを見た瞬間、再び紗久羅は妙な感覚に襲われた。店と店の間にあるその広いスペースに強烈な違和感を覚える。
何かがおかしい、変だ、違う、そんなはずはない……そんなはずは?
(そんなはずはってどういうことだ?)
自分の頭を巡った言葉に、紗久羅は疑問を抱く。柚季の方を見ると、彼女はえらく青ざめていて、可愛らしい唇をわなわなと震わせていた。いや、唇だけではない。体まで震えていた。
「……ねえ、紗久羅。私達お昼ハンバーガー食べたよね」
「え? あ、うん食ったな。それがどうかしたのか?」
「紗久羅。そのハンバーガー……どこで食べたか覚えている?」
まるでそのことがとても重要であるかのように彼女は言った。どうでもいいことを、ただ何となく聞いているようにはまるで聞こえない。
勿論紗久羅は、そのハンバーガーをどこで食べたのか覚えている。よく利用している店だし、そもそも食べたのは数時間前のことだ、忘れる方がどうかしている。だから紗久羅は素直に答えようとした。
「覚えているさ。あれは……あ……」
その時だ、紗久羅の頭が急に熱を帯び真っ白になったのは。体中の血液がさあっと下へ落ちていく感覚。一瞬にして生成された冷たい汗が、たらり。
目の前にある店と店の間にあるスペース。
そここそが、つい数時間前に立ち寄ったハンバーガー店が『あった』場所であったのだ。それが今は、無い。綺麗さっぱり跡形も無く。
そしてそのことを認めた瞬間、紗久羅は世界が急に明るくなったのを感じた。
今の今まで自分の目を覆っていたフィルターが取っ払われたような。それは柚季も同じであったらしい。
「もしかして、色々な場所で違和感を覚えたのは……そこにあるはずのものが、無くなっていたから?」
「ちょっと、確かめにいこうぜ!」
紗久羅の提案に柚季は仕方無さそうに頷く。はっきりと気がついてしまった以上。調べないわけにはいかない。
二人して歩き回って確かめる内、柚季の推測がどうやら当たっているらしいことが分かってくる。
売り物の花や植物がごっそり無くなっている花屋、煙のように消えてしまったつい数十分前に使った歩道橋、消えたコンビニの看板、とてつもない巨人にかじられたかのようになっているビルや家といった建物、虫食い状態になっているレンガで出来た喫茶店、タイヤが全部とられた車がずらりと並ぶ駐車場、ペットが消えたケージの並ぶペットショップ、明らかに変な切られ方をしている街路樹の数々、台座だけ残して消えた像……。
「何なんだよこれ! おかしいだろう! ちょっとおかしい、ちょっと変とか言うレベルじゃねえぞこれ! これ見て違和感覚える程度だったとか……ああ、さっきまでの自分達を思いっきりどついてやりてえ!」
恐らく何らかの力が作用していたからなのだろうが、それでもこれだけの違いに気がつかなかった自分達に何か言わずにはいられなかった。
二人は今三つ葉高校を目指して歩いている。その間にも変な部分は山ほどある。紗久羅は原型を留めていない塀を前にして頭を抱え。大食らいな巨人がもぐもぐ適当にかじりながら移動していったとしか思えないような形になっている塀は、最早塀とは呼べぬものであった。塀の機能など全く果たしていない。
塀の向こうに建ち並ぶ家の中にも妙なものが幾つかあった。あるものは屋根が消え、あるものは庭がほじくられ、あるものは壁がそがれ……。
「いっそ気がつかない方が良かった、もやもやしたままの方が幸せだった……」
あまりの光景に柚季は涙も出ない様子。
「ああ、頭が痛くなってきやがった……無くなっているものの数を考えるだけでぞっとする。ったく、どうして次から次へとこんなにも変てこなことが起きるんだ!」
「もう何だってこんな……冬休み明け早々……」
柚季は今にも倒れてしまいそうだ。怒りと呆れが彼女をかろうじて支えているように見える。紗久羅も目の前に広がる異様な光景に力がへなへなと抜ける思いだった。
だがしかし、こんなものはまだ序の口なのである。
紗久羅の携帯が、軽快なメロディーをたてる。どうやらメールの着信があったらしく、取り出して確認してみると奈都貴からメールが一件。
「あれ、なっちゃんだ。どうしたんだろう……?」
何か嫌な予感がした。奈都貴がどうでもよいことでメールを寄越すことはまずない。もしかしたら奈都貴も三つ葉市が妙なことになっているのに気づいたのかもしれない。開いた画面に、短い文章が映し出された。
『桜町が訳の分からないことになっている。妖の仕業かも』