晴明少年の夜会(2)
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その人は、いつの間にか晴明の前に立っていた。ノートに文字を書くことに集中していた彼は、眼前に人が立っていることに、ふとした時に顔を上げるまで全く気がつかなかった。人がいる、その気配すら感じ取っていなかった。
無言でじいっと晴明を見つめているのは、小柄な老人であった。晴明の目の前に浮かんでいるのは、大きくくるっと丸い双眸。どこか不気味である。
普通ならあんまりびっくりして大なり小なり悲鳴をあげるところであるが、心臓に毛が生えているらしい晴明は、ただ目をぱちくりさせて「おや、これはこれは」と言ったのみであった。
「新たなお客様かな。珍しいこともあるものだ」
小学一、二年生位の老人。禿げ上がった頭が月光で銀色に輝いて眩しい。白い衣を身に纏い、右手には木で作られた大きな杖を持っている。先程出会った男よりもずっと仙人っぽい見た目である。
殆ど瞬きすることのない目を晴明に向けたまま、老人は首を傾げる。
「近頃人間の子供がよくここで妙なことをしている……という話を聞いたが、それはお前のことか?」
男にしては妙に甲高い声。ゆっくりとした、そしてやたら芝居がかった口調である。幼い子供の人形にあてる声みたいだ、と晴明は思った。そして、ああそうだともと彼は自分の胸をぽんと叩く。
「ここの隣町に引っ越してきて幾星霜! はは、まあ幾星霜などという言葉を使うほど長い時は経っていないがな! ただ単にこの言葉を使ってみたかっただけのこと。一年に天を一周する星に、毎年降る霜! その二つを組み合わせることで出来たこの言葉、響きが大変良い、字面も良い、大変美しいと思う! 私は美しい言葉が好きだ、特に月や星という単語はそれを見るだけで心が躍るものだ! 月の化身であるミツツキミツキカケ様を信仰し、彼の女神の魂の欠片である星々を愛する私であるからな! あ、ちなみにこのミツツキミツキカケ様というのは私の信仰する女神の名前だ!」
手を馬鹿みたいに動かし、老人に負けず劣らず芝居がかった口調で一気にまくしたてる。そのくせ息切れ一つしない。当然、老人、呆然。
「ちなみに先程貴方は『妙なことをしている』とおっしゃっていたが、それは誤解だ、私は妙とか変とかそんな風に言われるようなことは一切していない! ん、一体何をしているかって? それは……これさ!」
晴明は目の前にあるノートを手に持ち、老人のすぐ目の前に開いたページを突き出した。ぎょっとした老人は思わずのけぞる。
そうやってわざわざ見せたくせに、体勢を元に戻した老人がそれに目を通す余裕も与えず、さっさと引っ込める。もう老人は何が何だかと目をぱちくりさせるばかり。
「どうだ!」
「いや、どうだと言われても」
「おっと失礼、少し見せる時間が短すぎたかな? しかし残念ながら、あまりじっくりと見せるわけにはいかないのだ。何せこれは未完成品、とてもじゃないが誰かに堂々と、そしてじっくりと見せるような代物ではないのだ。まあ、新しい学校で出来た友には意見を頂戴するべく見せているのだが! まだまだ先は長いが、必ず完成させようと思う。そしていずれは世に送り出し、多くの人々を、私の内なる世界に取り込むのだ! 日本国内の人間のみに留まらず、ゆくゆくは海外……世界中の人々を! 物語で世界征服! 何と甘美な響きであろうか! 私は昔から創作というものが好きであった! 好きこそものの上手なれ、自分でいうのも何だが文章創作は私の特技と言っても過言ではない! 勿論、プロの方々に比べればまだまだひよっこのぴいちゃんであるが、そこらにいる高校生よりは得意であると自負している! あ、貴方にも特技とかはあるか? あるなら是非聞かせてもらいたい!」
晴明の呪文のように延々と続く言葉にふらついていた老人は、急に話をふられて困惑した様子。しかししばらくして何か良いことを思いついたのか、にやりと笑って晴明に顔を近づける。
かっと見開いた丸い瞳はこの世の生き物のそれとは思えないもので、邪悪な気を孕んでいる。人ならざる者が纏う特有の空気が、晴明を撫でた。
「人を喰うことだ」
ほぼ無表情で、老人はそう言った。その顔のもつ不気味さ、恐ろしさは闇の中、ライトで顔だけ照らされた人形を思わせる。
普通の人ならこの顔を見ただけでぺらぺら喋ることなど出来なくなる。呼吸すらままならなくなる。この老人は本当に人を喰う――普通の人間なら、今の彼の顔と声だけでそれが分かるだろう。普通の人間なら。
ぱちぱちと瞬きを繰り返していた晴明は、怖がるどころか満面の笑みを浮かべながら手を叩き。
「そうかそうか、人を食うことが特技なのか! あっはっは、良い性格をしていらっしゃる! それを特技だと言うというところがまたすごいなあ! 私もよく人から『人を食うというか、人を呑み込む能力に長けている』と評されるのだ。本来の人を馬鹿にするようなことを言ったり、やったりするという意味で言っているわけではないようだがなあ! どうやら色々な意味で相手を圧倒し、呑み込んでしまうということであるらしい。私というのはそれ程までに『強烈』であるらしいのだ! 私はごく普通に振舞っているだけのつもりなのだが、他人から見るとそうではないらしい! 不思議なものだ!」
「いや、人を喰うってのはそういう意味ではなくてな」
「しかしきっと、その他者を圧倒し、食らい呑み込む力は私が生来持っていたものではないのだと思う! 恐らくはミツツキミツキカケ様から頂いた力であろう! 人を超越する存在である女神である彼女だからな! 私自体はきっと大した人間ではないのだろう。どこにでもいる、平々凡々な人間なのだ」
「どの口がそれを言うか……」
老人は唸り頭を抱えるばかり。ツッコミを入れる余力さえないようだ。
晴明は老人に、ミツツキミツキカケ様がいかに素晴らしい女神であるか延々と語り続ける。句読点という概念を持たないのかと思う位の喋りで。それでも少しも噛まないというのはある意味才能であるかもしれなかった。
魔を祓う力を持っているようにさえ思える、一切の穢れを持たない清廉な声。
言葉は流れ続ける川になり、老人はそれに包まれていく。苦しいような、心地良いような何ともいえない感覚。そんな不思議な感覚を覚えさせる、晴明の語り。
老人は水に流されている最中、ふと何かに気がついたのか「お?」という声をあげた。その目はシートに置かれている大きな徳利に向けられていた。それに気がつき、晴明は話を止める。
徳利を、そのまんまるな目を限界まで開けてじいっと見つめる。その姿は滑稽なような、気味が悪いような。晴明は特に何も感じなかったが。
「どうかなさったか、ご老人?」
「酒の匂いがする。それには酒が入っているのか? 私は酒が大好きでなあ、匂いを嗅ぐだけでうっとりする」
成程確かにうっとりしているような声で彼は言った。だが表情は全くといっていいほど変わっていない。どうやら彼には基本表情というものがないらしい。
それを聞いた晴明はぱあっと顔を輝かせ、ぐっと身を乗り出し更に老人の手をとった。老人は何事かとぎょっとした様子。
「そうか、そうか、好きなのか! これは何という僥倖! お願いだご老人、この酒を私の代わりに飲んでくれ!」
「え? え?」
老人は何が何やら、ぱちぱち瞬き。晴明はそんな老人の様子など意にも介さず、ぺらぺらとまたものすごい勢いで喋りだす。
「この酒、先程ここで会った人から貰ったのだが何分私は未成年なものだから飲むわけにはいかないのだ! 今まで少しも飲んだことがないと言えば嘘になる、父から一口二口分けてもらったことが時折あった。しかし流石にこれだけの量は飲んだことがないし、私の中の良心が痛む! 私は特別いい子でもないが、それ位の分別は持っているつもりなのだ! それに飲んだことがばれれば、芋づる式にこうして外を度々抜け出していることもばれてしまうやもしれぬ! それだけは避けたい! 怒られることが苦なのではない、こうして夜外へ出られなくなってしまうことがたまらなく苦しいのだ! あ、このことは私の両親に会っても決して話さないでくれ! ん? 私の両親がどこの誰かであるかなんて知らないから問題ないって? 確かにそうだ、私としたことが! あっはっは! まあ、そんなこんなで困っていたのだ。飲むわけにはいかないし、持ち帰るわけにもいかないし、かといって捨てるなんてことは言語道断であるし! ミツツキミツキカケ様のお供え物にしようかとも思ったが、結局は後々何らかの処理をしなくてはいけないからなあ! だから是非、貰ってくれ! 大丈夫、毒などは入っていないさそれは私が保証する! 好きな人が飲んでくれればこの酒も本望であろう! きっとあの人も笑って許してくれるはずだ! さあさあ、ここに座って! 是非!」
ぱっと離した手で、シートをばんばん叩く。そのスペースにだけ、お菓子の箱や袋は無い。そこは先程訪れた男が座った場所であった。
老人は晴明のえらくよく響く声を間近で聞いたせいか、或いは殆ど息継ぎをせずに述べられた言葉を聞かされたせいか、しばらくふらついていた。それから大きな目をぱちくりさせ、口をもごもごさせながら思案にふける。
しかし結局目の前の酒に目が眩んだのか、ちょこちょこ歩いてシートの上まで来て、ちょこんと座った。表情を変えぬまま。瞬きも殆どしないその顔はやっぱり滑稽かつ不気味であり、冬の夜がそれにますます拍車をかけている。そんな彼を前にしても、矢張り晴明はけろりとしている。
「ささ、どうぞどうぞ。酒の供はどうします? 甘いお菓子からしょっぱいお菓子まで色々あるぞ! するめもほら、この通り。マヨネーズもばっちり! そのままで食すのも良いが、マヨネーズをつけても矢張り美味い! ここに七味唐辛子が入れば最強なのだが、生憎持ち合わせがないのだ。台所から失敬しようとも思ったのだが! せんべいやポテトチップもあるぞ! あ、それとも甘いものの方が良いか? チョコにクッキー、クラッカー、麦チョコ……その他諸々だ! はは、よくもこれだけの量を持ってきたものだと感心しているのか? 自分でも多すぎたかなとは思ったが、まあ良いかという結論に達したのだ」
あちこちにある菓子を指差したり、手に持ったり。老人はあっちを見、こっちを見してから、ミックスナッツの袋を静かに指差す。
「あれは木の実か?」
「うむ、ミックスナッツだ! アーモンドとカシューナッツ、くるみの入った贅沢な袋なのだ! 木の実は良いなあ! そのまま食べても良し、チョコと一緒に食べるも良し、木の実タルトも大変美味であるな! あまい砂糖に、木の実の香ばしい匂い……母に頼んでまた作ってもらいたいものだ! 自分で作る、というのも手だが。私は何かを生み出すということが好きだから、料理も割合好きなのだ! まあ、一番好きなのは物語を生み出すことだが」
と言いながら小袋を一つ、老人に手渡す。彼は袋を物珍しげに眺め、こりゃどうすれば良いのだと小首を傾げる。晴明は袋を開けたことのない人間というのもいるものなのだなあ! と感心しつつ袋を開けてやり、改めて渡す。
老人はアーモンドを袋から一粒取り出すと、ぱくりと一口。小気味良い音が冬の空に響く。老人は美味い、とぼそり呟くとどんどん袋から取り出して食べる。小さな口を小さく開け、ちまちま食べる。まるで小動物である。酒も一気にではなく、ちまちまと飲んでいた。相変わらず表情は変わらないが、口から出している声を聞くに、上機嫌であるらしい。
老人は先程の男に比べると口数が少ない。全く喋らないということはなく、時々口を開いては晴明と言葉を交わす。酒が入っても、彼の様子はあまり変わらなかった。晴明は彼の何十倍も喋った。どれだけ喋っても声は枯れず、むしろ喋れば喋る程どんどん生き生きしてきさえしている。
「お前はよく喋るな。そんなに喋って疲れないのか」
「疲れるまで喋ったことはまだ一度もないなあ! 私の体のどこかにある言葉の泉は止まることなく湧き続け、枯れることを知らないのだ。絶えず湧く言葉は自然と流れ、口の外へと出て行く!」
「私はすぐ疲れる。だからあまり喋らないな。馬鹿みたいに喋らずとも、充分相手に伝わるし。それにしても木の実美味い、美味い」
晴明はどうぞ、と新たなものを渡す。老人はそれを嬉しそうに受け取って、苦労しつつ今度は自分で開けて食べ始める。ハムスターに餌をあげているような気持ちになって、晴明はにっこり笑った。
「酒も美味い。きっとこれをお前にやったという者も無類の酒好きに違いない。お前も飲めば良いのに。決まりなんぞに縛られて、酒一杯飲むことも出来ないとは、全く人間とは哀れで阿呆な生き物だなあ」
「世に縛られない生き方をする……矢張り仙人は言うことが違うなあ!」
「いつから私は仙人になった。しかし、本当酒は良いぞ。気楽に極楽へ行けるから」
「それは良いなあ! 私もノートに向かって何か書いている時は極楽へ行っているような気持ちになる! 虹から出来たような石が沢山沈んでいる鏡の池、その傍らには石で造られた神殿があるのだ! それは月の色をしている。月というのは銀色になったり、金色になったり、時に赤くなったりする! だからその建物も時々色が変わるのだ! その神殿にはミツツキミツキカケ様がいらっしゃるのだ、たおやかな髪をなびかせて、月の光のようにふわりとした笑みを浮かべ、遥か彼方からずっと我等を見守り続けてくださっているのだ! ああ、何と美しい光景、何という極楽!」
「なんか私の知っている極楽と違うなあ……」
「人それぞれに物語があるように、きっと極楽の姿というのも人それぞれなのだ! 無限の極楽、無限極楽! 恐らく無間地獄と正反対の意味を持っている言葉であろう!」
もう意味が分からない。老人は突っ込むだけ無駄という風に、彼の発言を無視してカシューナッツをぱくぱく。
それから、煎餅やクッキーにも手を出し晴明の幻想論やミツツキミツキカケにまつわる話等を聞きながら、もぐもぐ。たまに老人が気まぐれに質問してやると、晴明は水を得た魚のようになって、ますますはきはき、そして生き生きと喋るのだった。
老人もしばらく晴明に付き合った後、その場を去った。去り際彼は(どこからともなく取り出した)舞扇を晴明にお土産として渡した。
燃えるような赤、白い雲に金の鳥、その空へ向かって手を伸ばすようにして咲き乱れる色鮮やかな花々。ほんのりと香る、甘い匂い。きっと何かの花の匂いだろう。
「私の知り合いに、舞が得意なえらくめんこい娘がいてなあ。その娘にやろうと思ったのだが、私は意気地が無いから結局渡すことが出来なんだ。きっとこの先も渡すことはないだろう。とはいえ私が持っていても仕方が無いもの。酒を馳走になった礼にお前にやろう」
晴明はそれを大層喜んで受け取った。月の光に当てると、それは輝き、夢幻を語る。
「これは素晴らしい! こういうものは大変好きだ! 文章を書く時の参考にもなるだろう、私の書く話にはこういった和風の小物が沢山出てくるのだ! しかし私は未熟者ゆえ、現物をじっくり見ないとどうにも上手く書けなくていけない。幻想と現実の壁にぶち当たり、現実の向こう側へなかなか上手く飛べないのだ! 想像の、そして幻想の世界へ容易に行くことが出来れば、実物を見たり聞いたりしなくてもそれなりに素晴らしいものが書けるに違いないと思うのだがな! 嗚呼、これは本当に良いものだ、ああ、泉が湧く、湧くぞ、これは早く書き留めねば!」
言うなり晴明は『湧き水の書』と書かれたノートに思いついたことをさらさらと書き始める。老人は少しの間それを見ていたが、やがて飽きたのか「美味い酒をありがとう」と一言言って、その場を去った。そのことに晴明は全く気がつかなかった。
その老人とほぼ入れ違いに、氷の空を滑るように飛んでいた者が「にゃおおん」という声と共に地上へ――晴明の目の前に降り立った。人には決して出来ない芸当、晴明はどんどん湧いてくるものを書き留めるのに必死で微塵も見ちゃいなかった。
降り立ったのは女性であった。肩ほどまでの、ばっちり切り揃えてある黒い鉄の板のような髪。猫の瞳に、程よい肉付きの体、随分と丈が短く動きやすそうな着物は赤と白の市松模様。
見た目だけでいえば二十代前半から半ばといったところ。
何気なく夜空を見ようと顔を上げた晴明と、そんな彼をじいっと上から見つめていた娘の目が合う。
「ようよう、お前、人間か?」
興味津々な様子で娘は聞いてきた。爛々と輝く瞳は太陽のように明るく、月のように妖しくぎらぎらしている。
無論! と晴明はいきなり立ち上がる。突然にょっきり伸びたその体を避けようと、娘はぎょぎょっと驚きながら体を反らし、いきなり立ち上がるなよ危ないだろうがとどきどきしながら言う。
「そうとも! このような時間、このような所に一人でいる子供などまずいないから、狐か狸が化けたものかとお思いになったのかもしれないが、私は人間である! 失礼なことを言ったと申し訳なく思う必要は全く無い、何故なら私はそう思われたことをとても誇らしく思うからだ! 私は人ならざる者に憧れている、だが私はどう抗っても人間以外の者にはなれないのだ、嗚呼、悲しいかな! いや、でも誤解しないで欲しい。私は別に人間として生きることを苦痛に思ってはいない、人として生きることもなかなか楽しいからな! 人であるからこそ、人では無いものに憧れるという気持ちもあるのだろう。人というのは、自分が持っていないものに憧れるものだからな!」
今日ここで初めに出会った男に言ったのと全く同じ文言。
「だから、貴方をがおーと言いながら食らうということは決してないのでご安心を! 正真正銘、私は貴方と同じ人間だ、ホモサピエンスだ!」
「いや、あたし人間じゃねえし」
「人間では無い? 普通の人間では無いと? つまりあれか、前の二人同様仙人か! しかし貴方は仙人といった感じではないなあ、むしろ仙人と格闘する虎の方に近いような」
「お前の中の仙人像どうなってんだよ」
呆れ気味に娘は言った、それから彼女は自分の頭を指差す。見ればその頭からは髪と同じ色をした猫の耳が。更によく見ると尻からはひょろりとした尻尾が生えており、ひょこひょこ動いている。
「これを見ろよ、これを。これ見ればあたしが誰なのか分かるだろう。さっさと理解して、さっさと怖がれ人間風情が」
晴明は耳と尻尾が生えていることに、その時になってようやく気がつき、それを凝視する。人間では有り得ないその姿、見ればきっと彼も悲鳴をあげるに違いないと娘は考えているのだろう、にやりと笑いながら晴明を見ていた。
ところが、思った通りの行動をしないのが晴明少年の恐ろしいところである。
ぎゃあ! そんな悲鳴をあげたのは晴明の方ではなく、その娘の方で。逆に晴明の方はものすごく嬉しそうな顔をしており……細い両手で彼女の耳をふにふにむにむにと。
「おお、これは! 素晴らしい、本物そっくりであるな! ジョセフィーヌの耳もこんな触り心地であった! 触るともれなく引っかき攻撃か猫パンチをお見舞いされるのだが。あ、ちなみにジョセフィーヌというのは私の飼い猫で、三毛猫なのだ! 大食らいであるゆえ若干ぷっくりしているが、そのぷっくり感が何とも愛らしい! 犬にしても猫にしても、私はスマートな子よりも少しふっくらしている方が好きだ、そういう子を見るとむにむにむぎゅむぎゅしたくなる! 彼女を抱き枕にして眠ったらどれだけ気持ち良いだろうと思うのだが、そんなことをしようものなら流血沙汰になってしまうだろうから、その衝動を常にぐっと抑えているのだ! 私の夢の一つに、沢山の猫と戯れたり、彼等に囲まれて昼寝をしたりするというものがある! もこもこぬくぬくの猫達に敷かれたい、ああ素晴らしきかな猫布団! いやあ、それにしても素晴らしい耳であるな、一体何で作られているのだ? ぴこぴこ動くし、本物そっくりだし、いやあ実に面白い! しかもきちんとくっついているし……瞬間接着剤か何かでつけたのか? 引っ張っても全く取れないな!」
「痛い、痛い、痛い! 乱暴者、暴力反対、あたしの爪で引っかかれたくなけりゃあその手を離せえ!」
晴明は素直に耳から手を離したが、今度は彼女の手を掴む。
「随分爪を伸ばしていらっしゃる、日常生活がかなり不便ではないか? おっと失礼、まあまあそんな猫のような目で睨まずに!」
「ような、じゃなくて猫の目なんだよ! 分かれよ!」
分かれよ、という言葉一つで晴明が全てを理解してくれるなら誰も何の苦労もしない。彼女の手から手を離した晴明は、腕組みこくこく頷く。
「いやあ、素晴らしい耳であった。作り物とはとても思えない!」
「だ、か、ら、作り物じゃねえって言っているだろうが!」
「成程、最早これは貴方の体の一部となっているのか! 作り物も、長い間つけ続けていればそうなるわけだ。そんなものを偽物、作り物というのは失礼だな!」
「だからそうじゃなくて、くそ、いっそ本当の姿に戻っておどかすか……いや、こいつのことだ、あたしが元の姿に戻ったら『猫! もふもふ!』とか言って抱きついてくるかもしれない。それは嫌だ……」
娘はぶつぶつ独り言、それからがっくりとうなだれる。もう彼に何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
「貴方はこんな時間、こんな所で何をしているのだ?」
「それはこっちの台詞だっつうの。……ここらに住んでいる仲間達とある場所へ飲みに行こうって話になったのさ。あんたのすぐ近くにあるあの鳥居の前で集合ってことになっているんだ」
「こんな所で集合なんて随分変わっているなあ」
「お前に変わっていると言われる程腹が立つことはない。ところで良い匂いがするが、ここで酒盛りでもしているのかい?」
「ああ、先程までここで酒を飲んでいた人達がいたから。私自身はここで創作活動に明け暮れているのだ! 現実を、日常をも覆いつくす夜、現実でいて現実ではなく、日常であって日常ではない不思議な時間! 現実と非現実の境目さえ闇夜で覆う神秘の時! 私はその時間、外に出ることで日常から非日常の世界へ飛び込み、その世界に漂う幻想、非日常を見てかき集め、それからそれら全てをこのノートに書かれているものへと混ぜていくのだ! そうすることで、何日もの間じっくり煮込みそして寝かせたカレーの如く深みのある文章が出来上がるのだ! ミツツキミツキカケ様のご加護も直に受け取ることが出来るし、夜というのは最高である! 静寂と幻想の世界! 見慣れた風景も、闇に溶ければまるで異界のものに見える。先が見えない、はっきりと見えないというのはそれだけで世界を不可思議なものへと変えるのだ! それゆえかな? トンネルや路地裏は異界に続いているような気がするのは。先が見えない、分からない、どんな世界が広がっているか想像もつかないから。見えない、想像出来ないというのはそういう思いを人に抱かせるのかもな! 視覚というのはとても大切なものだ!」
娘は「いや、そんなこと誰も聞いちゃいないんだが」と指で頬をかく。たらり流れた冷や汗がその指を伝う。だが彼女の言葉も今の晴明には少しも届いちゃいない。
「それで、私はここである小説を書き進めていたのだ! その文章に、かき集めた非現実や非日常を詰めていきながら! で、その最中私は二人の人と出会ったのだ。一人は中年男性で、チョコレートをたらふく食べて帰っていった。二人目は老人で、一人目の男性が残した酒を飲み、ミックスナッツをもぐもぐして帰っていったのだ。なので今酒は無い! そしてその直後、貴方が来たのだ! そういえば前の二人の名前は結局聞かずじまいだったなあ! 聞いておけばよかった。あ、ちなみに私の名前は瀬尾晴明、十六歳のおとめ座だ! 貴方のお名前は」
「ミケだよ、ミケ」
娘――ミケは投げやり気味に言った。
「ミケ! まるで猫の名前だ! その名前ゆえ猫の格好をするようになったのか!」
「そうじゃねえっての。しかし酒はねえのか、残念! あったらたかってやろうと思ったのに! あたしが猫撫で声でねだればそこらの男はイチコロだからなあ! あ、でも美味そうなものが色々あるじゃん」
「ああ、色々あるぞ! もしよければ少し食べて行くか? するめもあるし、フィッシュ&ピーナッツもあるぞ!」
ミケはそれを聞いた途端目をきらんと輝かせ、即手を上げた。
「食う! 食い物、食い物! これから飲みに行くけれど、ちょっとここで食っても何の支障もないはずだからな!」
言うが早いか、ミケはシートの空いている所に素早く座り込んだ。それから晴明に勧められたものを次から次へと口へと放り込んでいく。
「うん、どれも美味い! でも失敗したなあ、一気に詰め込んじまったせいで味がぐちゃぐちゃに混ざっちゃった!」
温かいココアで口に入っていた食べ物を流し込む。ココアの味が混ざったことでより変な味になってしまったらしく、次からは慌てず一種類ずつ食べていった。
「そんなに食べてお腹いっぱいにならないか?」
「ならないなあ! あたしも、あたしの仲間も皆あんたらよりずっと大食いだしさ」
チョコチップクッキーをかじり、にんまり笑顔。本来猫にとってチョコは毒であるが、彼女は平気であるらしい。勿論晴明は彼女が化け猫であることは知る由も無いのでそんなこと気にもかけず、幸せそうに菓子を頬張る彼女の姿を見て微笑む。そうしながら、この素晴らしい食べっぷりを、時々書く食事シーンの参考にしようと、時々ノートに彼女の姿を見て思い浮かんだ言葉を書き連ねる。
そんなことをしている最中「おい、ミケ!」という声が聞こえた。その声にミケが頭の上についている耳をぴくぴく動かして反応する。晴明とミケは声がした方を向いた。
闇の中、何かもごもごもこもこした塊が動いているのが見える。その塊はおおい、おおい、と言いながら少しずつ近づいてきた。
しばらくして、その全貌が明らかになっていく。ぷっくりふさふさの体、ちょこんとした四本足、愛らしい尻尾。
二人の目の前に現れたのは……どこからどう見ても狸。大きな、大きな、狸さんであった。
ぽんぽこ。




