新年幻想迷路地獄(2)
*
音が、声が再び世界から消える。あの恐ろしい笑い声などを聞いていたいとは少しも思わなかったが、かといって無音というのも矢張り落ち着かないし心細いし、何より、怖い。
突然現れた男の謎の言葉が、悠太の不安をますます煽る。不思議と彼の言葉は一字一句忘れず覚えており、胸の中で燻り続けている。それがたまらなく気持ち悪い。鼻水を、すする。自分で出したその音が怪物の唸り声に聞こえ、悠太はまた泣きたくなった。
(何で俺、こんな夢を見ているんだろう……)
新年早々これ程までに恐ろしい夢を見るなんて、ついていないとしか言いようがなかった。おみくじの結果は大吉だったのに。とんでもない嘘を吐かれたものだと彼はすでに大分弱った心を怒りに震わせる。
(この夢から抜け出さないと。出口の見えない迷路がどうとか、言って、いたけれど……)
出口の見えない迷路、それはつまり。それを考えた途端頭が真っ白になる。
真っ白になると恐怖も増し、泣いて叫びたくなった。そして訳も分からぬままその場から駆け出そうとした、狂って駆けて、まずは一歩、足を。
この闇の中には全く似つかわしくない、ファンシーなメロディーが突然鳴り出さなければ、そのまま悠太は駆けていただろう。
短い悲鳴をあげ、立ち止まればいつの間にか彼の目の前にはメリーゴーランド。目に痛い位眩しい輝きにそれは包まれていた。まるで洞窟の奥底に眠る宝箱のように見える。
中央の柱の周りを、ぐるぐると走り、とん、たん、とんと跳ね回るのは黒や白、茶色の馬。滑らかな毛並みは光を浴びて、きらきらと輝いている。筆でさあっと流れるように描いた……そんな風に見える鬣もまた、同じように。
そのメリーゴーランドには誰も乗っていない。無人のメリーゴーランドはメロディーに合わせてからからと回り続け。からから、くるくる、がらんどう。
悠太はメリーゴーランドが嫌いではない。むしろ、好きである。だが彼はそんなメリーゴーランドを目の当たりにして、初めて『怖い』と思った。
一見ファンシーなメロディーも闇の中で響けばどこか不安定で、狂った音に聞こえる。頭がいかれちまっている楽団が、笑いながら一心不乱で演奏している姿が脳内に浮かび、悠太は慌てて頭を振る。
闇の中ぽつんと立ち、狂気を帯びたメロディーに合わせ、ただひたすら回り続けているそれは、正常なものには見えなかった。
くるくる狂って、狂って、くるくる、くるくる、ぐるぐる、ぎいぎい、みしみし、きいきい、ずっこん、どっこん、ひひいん、くるくる、きらきらぎらぎら、ぐるぐる、くるくる、狂う。
一度怖いと思ったら、もうどうにもならない。メリーゴーランドの回転に合わせて、悠太の心もぐるぐる激しく躍り狂う。段々見るに耐えなくなっていく。
彼の心も知らず、同じ動きを繰り返すメリーゴーランド。くるくる、くるくる、繰り返し、狂って、くるくる回る。
突然、それがまとっていた輝きが強くなる。ただでさえ眩しかったその輝きが、急に、しかもかなり激しく増したものだから悠太は思わず目を閉じる。
しばらく経ってから目を開けてみれば。
「あ……!」
悠太は、いつの間にかメリーゴーランドの中央に立っていた。先程までそこにあった、豪華な装飾が施されていた太い柱はどこかへ消え去っている。
今、メリーゴーランドは悠太を中心に回っている。
しかもそれぞれの馬の背には人が乗っていた。しかし何故か馬乗りではなく、ただちょこんと腰掛けているだけ。その体は完全に悠太の方へ向いていた。
彼等は皆着物姿。顔につけているのはお面。般若、おかめ、ひょっとこ、ぎょろりとした目の男――。
あはは、はは、ははは。彼等は悠太を指差しながら愉快そうに笑う。馬に乗り、小さな悠太を高い所から見下ろして。
外から眺めていたメリーゴーランドの中央に追いやられ、笑い指差す者達の乗った馬に囲まれる羽目になった彼の恐怖心とパニック度は増すばかり。馬達の回転速度は速く、とてもじゃないが抜け出すことも出来ない。
元々速い回転は、ますます速くなっていく。馬が、笑い声が、ぐるぐる回る。
どこを向いても、馬、人、光、闇、笑い声。耳を塞いでも可愛らしく狂ったメロディーも、声も遮れない。目を瞑ったり、視線を逸らしたりすれば途端彼等が自分を襲うような気がしたから、怖くてもその回転を見続けていなければいけなかった。回転が早くなればなるほど、心臓の鼓動も早くなり、心のざわつきは加速して。
女の声、男の声、入り混じって。嗚呼自分を取り囲む馬達が体と同じ色をした光の線へと変わっていく。線と線は繋がって、悠太が外へと逃れる隙を与えない。光の牢獄に閉じ込められた、悠太を嘲る笑い声とメロディーが混ざって、もう何の音なのか分からなくなる。
光、囲み、笑い……。
ランタンタン、きゃはははは、ラララララン、ラン、けけけ、ぎゃははは、きーひっひっひ、ラントンタン、シャンタンタン、にひひひひ。
「やめろ、ここから出せよ!」
あっちへ行き、こっちへ行き、何とか逃れられる隙間を探そうとする。だがもう自分の周りを回っているのが何であるのかさえ分からない状態のそこに、そんな場所があるはずもなく。
段々と頭がくらくらずきずきとしてくる。
「やめろ、出せ、出せ、出せ!」
げはははは、ランタンタン、あはは、にひひひ、ランランラン……。
一瞬だけ、その光の線の中にあの奇抜な着物を着た男の姿が見えた気がした。
「お願いだから、やめてくれ!」
頭の中が恐怖と混乱で爆発した。その瞬間少年を閉じ込めていた光の線がどんどん収束していく。そして混ざっていた音と声は分離していって。
嗚呼光の線は馬と人にもど……らなかった。
悠太を囲んでいるのは、沢山の娘達。水色、黄緑、桃色、黄――赤子の肌のように、或いは春の陽射しのように柔らかな色をした、シンプルな模様の描かれている小袖を身につけている。手ぬぐいで頭を囲っている者あれば、可憐な紐で髪を結んでいる者もいる。悠太の周りに咲き染む花。
美しく可憐な花。だがその花々の顔を見て悠太はぎょっとした。彼女達の顔には眉、鼻、口はあったが……目が、無かった。本来目がある場所はつるつるで、しかもそこにだけ影がかかっていて暗くなっている。
彼女達は中心にいる悠太に体を向け、手をたんたん叩きつつ、ぐるぐると回る。
「かごめ、かごめ、かごめ」
そう、歌いながら。かごめかごめ――時々友達と一緒にやった遊びだ。ならば彼女達に囲まれている自分は鬼なのかと心の端で思う。
彼女達はただ、かごめかごめという部分しか歌わない。それ以外の歌詞などまるで知らないという風に。歌を紡ぐ口は、喜びの形。だが歌い方はかなり淡々としている。延々と、延々と悠太を取り囲んで彼女達は歌う。
女の声というのは、ある意味では男が怒鳴る声等よりも怖いものだった。心をざわつかせ、じわじわと恐怖心を煽っていく。最初の内はまだ怖くないのに、聞いている内段々と恐ろしくなっていって、しまいには泣き叫びたくなってしまう。いっそ周りを取り囲んでいるのが男達だったら良かったのにと悠太はうらめしく思った。
彼がどれだけ叫んでも、何を聞いても、彼女達は一切の反応を示さない。悠太の存在に気がついていないのか、それとも何があろうと自分達の『遊び』を中断したくはないのか。
かごめ、かごめ、かごめ、かごめ……。
「やめろ、俺をここから出せ! 出せよ!」
彼の叫ぶ声は闇に響かず、娘達の歌声を打ち消せない。娘達がただ手を叩きながら歌って周っている――それだけのことなのに、どうしようもなく恐ろしく、体を掻き毟りたくなる衝動に襲われる。
その時間は永遠のように思われたが、実際永遠の時間が流れたわけではなく、その遊びにも終わりが来た。
やめろ、やめろ、もうやめろ!
そう叫んでいた悠太は、いつの間にか輪の中心ではなく、輪を構成する人間の一人になっていた。気づけば歌も手拍子も止まっている。
輪の中心には一人の娘がいた。彼女は悠太に背を向けてしゃがみ込んでいる。
「後ろの正面、だあれ?」
輪を作っていた娘達が声を合わせてそう言った。輪の中心にいる娘、後ろの正面は――悠太だ。何か嫌な予感がする……そう思った悠太は後ずさり、輪から外れようとしたが、出来なかった。目には見えない、この場を支配する遊びの『ルール』が悠太を逃すまいとしているようだった。遊びはまだ終わっていないぞ、そんな声が聞こえたような気がする。
輪の中心にいた娘はしばらく無言だったが、やがてこの遊びを終わらせる言葉を紡いだ。
「……鬼?」
そう言った。途端、輪を作っていた他の娘達が一斉に悠太を見る。彼女達に目は無いが、突き刺す視線を感じる。しいん、と静寂。輪の中にいた娘も立ち上がり、悠太の方へ体の正面を向ける。
見られる恐怖と静寂に耐え切れず、悠太は「俺は鬼じゃない」と口を開こうとした。
だがその前に娘達が口を開き、悲鳴をあげた。
「鬼、鬼だ!」
「鬼がいる!」
「怖い!」
「いやああ!」
心から彼女達は恐怖していた。それは声を聞けばわかる。声を通じて彼女達の恐怖に触れたことで、悠太の恐怖も増す。彼は彼女達に負けない位大きな声で叫んだ。
叫んでいた娘達は口から次々と何かを吐き出す。それはビー玉に見えた。
そして彼女達はそのビー玉を手で受け止め、何と悠太に向かって投げてきた。
「消えて、鬼、鬼!」
「食べないで、食べないで、食べないで!」
「鬼は外!」
「鬼は外!」
いやにひんやりしていて、血に似た匂いを発するその玉を呆然としている悠太めがけて投げて、投げて、投げまくる。玉が当たると、とても痛い。ここは夢の中であるはずなのに、普通に痛みを感じる。
「痛い! 痛い!」
悠太は逃げ惑う。だが娘達はどこまでも追いかけてくる。怖い怖いと言いながら。彼女達は『鬼』を消すまで止めないのだろう。
痛みと、強烈な匂いに悠太は泣き叫ぶことしか出来ない。
走る悠太の前に、誰かが現れた。あの着物の男だ。男は刀を手にしていた。
「その鬼、私が退治してあげよう」
男はそう言った。そして刀から両手を離す。支えを失ってもその刀は落ちず、男の胸の前に浮遊している。その刀はやがて向きを変え、刃を悠太へ向ける。
逃げる間は与えられなかった。目もとまらぬ速さで刀はこちらへと飛んできて、そして悠太の胸に、刃が。
絶叫。刃の先が悠太の肌に触れた瞬間に、世界はぐるぐる回って生まれ変わる。
はっと気がつけば、娘も刀も男も消えている。その代わり、暗闇の中に数十、数百個ものだるま落としが現れていた。通常のものとは比較にならない位大きく、一番小さなものでも悠太と同じ位の背丈はあり、大きなものは一般的な成人男性よりもなお大きい。
顔の輪郭を覆うひげ、太い眉、厳つさと滑稽さを兼ね備えた瞳、ぎゅっと唇噛み締めて、悠太をじっと見つめている。
その顔は威圧的で、悠太はその気迫におされて後ずさる。
と、突然彼等は悠太ではなく頭上へと目を向けた。それにつられて悠太も上を見上げる。そこには何も無かった。だが何も無かったのはほんの僅かの間のことで。闇の中からにゅっと何かが飛び出す。悠太が悲鳴をあげるのと同時に、天から降り立ったのは一人の鎧武者。顔に被っているのは般若の面。鬼、鎧、刀。
鎧武者は首を左右に動かし、だるま落としに目を向ける。悠太とはまるで視線を合わせようとしない。彼が体を動かす度、ぎぎぎという厭な音がした。
しばらく同じ動きを繰り返していた彼は、いきなりその場で咆哮した。その声は地を震わせ、悠太やだるま落としの体を震わせる。その咆哮に呼応するように、だるま落としが絶叫した。先程の娘達同様、その声には恐怖しかなかった。
鎧武者は刀を構えると高く飛び上がり、右前方にあっただるま落としに斬りかかった。その刃は一番上にある顔と、そのすぐ下にある円柱の間に入り込み、そしてそのまま真っ直ぐ横に薙ぐ。めりめりめり……耳を塞ぎたくなるような音と共に、それに負けず劣らず恐ろしい悲鳴が聞こえ、そして頭が幾つも重なる円柱から離れ、ぽおんと飛んで……地面へ落ちた。頭がついさっきまであった場所から、赤いものが吹きだす。それは金魚、赤い折り紙で折られた鶴、薔薇の花びら等――あらゆる赤い物体であった。
鎧武者は次々とだるま落としの頭を胴から切り離していく。悲鳴が、分離する音がこだまする。首がごろん、ごとんと地面に次々と落ちていく、嗚呼、落ちていく。耳を塞いでも矢張り声も音も防げない。
すぐ目の前にいただるま落としの頭が切り落とされ、そのまま悠太の所まで転がってきた。斬られた断面が悠太の目の前に飛び込む。うわあ、悠太は悲鳴をあげ腰を抜かし、尻餅をついた。
真っ赤な無数の粒が、そこから出て来ている。粒、粒、赤、気持ちが悪い。
それは石榴の果肉であった。だるまの頭は、石榴であった。悠太は石榴の存在自体は知っているが、実物は見た事がないからそれを見ても石榴だとは分からなかった。人の血と肉を想像させるそれを見て、ただただグロテスクだと思うばかりであった。
真っ赤に染まった鎧武者、刀を手にさっきまで目もくれなかった悠太の方へと向かってくる。こつ、こつ、かつん。彼は静かに、かつ着実に近づいてくる。
悠太はまだ立ち上がれなかった。はねられた頭の出す呻き声が、鎧武者の持つ威圧感が、恐ろしい形相が、赤く染まった鎧が、悠太から立ち上がる力を奪い、闇に覆われた地に体を縫う。
「お、れは、だるまじゃない、きらないで」
掠れた声は鎧武者には届かない。彼はゆっくりと距離を詰め、やがて悠太の目の前までやって来た。真っ赤に染まった刀を握りしめたまま、彼は悠太を見下ろす。
はらり、彼のつけていた般若の面が突然剥がれ落ちた。剥がれた顔には……また面。それは見覚えのある狐面で。
「斬らないよ、だるまじゃないから。でもこの幻想迷路地獄はまだ終わらせない。地獄はまだこれからだ」
絶対にあんな咆哮などあげられないだろうと思う位美しく冷たい声。
男は刀を手から離す。手から離れた刀は地面へと突き刺さった。その瞬間、悠太の目の前が真っ赤に染まり……そしてその赤が消えたと同時に、男の姿も消えた。勿論あのだるま落とし達も。
子供の声が、代わりに聞こえた。数十メートル先に、自分よりも二つ三つ下と思われる、着物を着た少年と少女が向かい合って座っていた。
二人は手に何かを持っている。そして、二人の周りには何かが沢山散らばっていた。悠太はあちらには行かないでおこうと思った。近づけば絶対恐ろしい目に遭うと確信していたから。だから悠太は彼等に背を向けて、走った。彼等から逃げ、そしてこの夢から逃れる為の出口を求めて。
悠太はがむしゃらに走った。息が上がってくる、これは夢なのにどうして走るとこれ程までに疲れるのだろうと思った。時々延々と走る夢を見ることがあったが、その時はどれだけ走っても疲れなど感じなかったし、息苦しくもならなかった。
ここまで走れば、少なくともあの二人とは充分な距離を置けただろうと何気なく振り返り、そして彼は絶句する。
先程と全く変わらない位置に、あの二人が座っていたからだ。悠太は信じられない、という顔をしそれから何度か同じことを繰り返した。だが結果は変わらない。夢なのに、疲れる。夢だから、何だって有り得る。
結局、あの二人と関わらないことには話は進まないようだった。その事実は悠太を打ちのめし、より彼の心を底へと沈めた。悠太は涙を流しながらも、観念して二人の方へ向かう。
二人が手に持っていたもの、それが人形であることは間もなく分かった。そして二人の周りに散らばっていたのは、人形の首であった。老若男女、様々な首がある。
少女の持っていた人形は、おかっぱ頭の娘であった。彼女は人間を軽く揺さぶりながら鼻歌を歌っていたが、しばらくして急にぴたりと動きを止める。
「そろそろ首をすげ替えましょうねえ」
そう言うと彼女は人形の頭を乱暴につかみ、そして――一気にその首を、引っこ抜いた。
幾ら人形のものとはいえ、突然そんな場面を見せられれば驚いてしまう。悠太はびくっと体を震わせる。しかも首は引っこ抜かれた瞬間すぽんという音を出すのと共に「ひええ」と叫んだのだ。
少女は引っこ抜いた首を放り投げると、すぐ近くにあった見事な髷を結った艶やかな女の首をくっつける。
それを見た少年も同じように自身の持っていた人形の、日に焼けた中年男性の首を引っこ抜き、白い肌に金色の髪、青い瞳の少女の首をつけてやる。
二人はそれを見て満足そうに微笑むが、しばらくするとまたその首を引っこ抜き、新しい首をつける。猿、赤ん坊、頭が大きく目が異様に小さい子供、眼帯をつけた厳つい顔の男、ひょっとこ、一つ目、頬がぷっくりとした娘……。
「ねえ、私貴方の首が欲しい」
「俺も、君の首が欲しい」
人形の首をすげ替えて遊んでいた二人が、お互いを指差してそう言った。
そして二人は人形を置き、小さな手で相手の顔を包み込むと……揃って、互いの首を、抜いた。
「痛いね」
「痛いね」
くすくす笑いながら言った。その無邪気な声が、怖い。
二人は手に持った首を自身の体にくっつける。こうして少女は少年に、少年は少女になった。そして二人、満足そうに笑うのだ。
「頭がおかしい、あの二人……」
青ざめながら悠太がぼそりと呟いた。すると、首のすげ替えを終わらせた二人が悠太を見た。悠太はぎくりとした。嫌な予感が体中を駆け巡る、気のせいか首の辺りがかゆい……。
先程まで少年だった少女がにんまりと笑った。悪意など微塵も無い、それゆえ悪意あるものよりよっぽど性質が悪く恐ろしい笑みである。
「貴方の首もすげ替えてあげる」
「この首をつけてあげよう」
少年の手には、あの狐面の男の首がある。本気だ、この二人は本気で俺の首を引っこ抜いて、あいつの首をこの体につける気だと悠太は思った。首を抜かれることも、男に自分の体を奪われることも御免だ、絶対に嫌だ!
「いい、俺はいいよ!」
「良いって。素敵な案だと言ってくれている」
「それはそうだよ、だってこれだけ素敵な首が手に入るのだから」
「そういう意味じゃない! やめて、やめて!」
少女の手が文字通り、まるでろくろ首の首のようににゅっと伸びた。その手は逃げようとする悠太の頬を一瞬で包み込んだ。吐き気がする程冷たい手であった。
そして彼女は子供にしか出来ない無邪気な笑みを浮かべ、悠太の首をぐっと持ち上げる。
首と体が離れるような感覚と同時に、すぽん、という音が聞こえたような気がした。
その幻想はそこで終わった。だが何もかもが終わったわけでは無い。幻想の洪水はむしろここから勢いを増し、怒涛の勢いで悠太を襲う。
いつになっても、悪夢は終わらない。一つの幻想が終われば、次の幻想に捕らわれる。
(何で俺が、何でこんな目に遭わなくちゃいけないんだ! 何でこんな、酷い夢を見なくちゃいけないんだ!)
泣きながらも、その理由を求める。けれどその答えはどれだけ考えても分からなかった。
割れた部分を開け閉めし、無数の歯に見える果実を見え隠れさせながら、空飛ぶアケビが悠太を追い駆けまわす。甘い匂いが悠太を喰らおうと、襲いかかる。ビー玉で出来た底なし沼が悠太を飲み込む。ばたばたもがけばもがくほど深みにはまる。その中を、赤や透明のビー玉が集まって出来た鯉が泳いでいる。
綺麗な複数の羽と、硝子球の様な瞳を持つトノサマバッタに似た虫。その周りには無邪気に笑う子供達が居て、あっちをもごうこっちをもごうと言いながら、その虫の足や羽根をもいだり、目や内蔵をくり抜いたりしている。一つずつもいで、最終的にその虫の息の根を止めてしまった者が負けという遊びをやっていた。彼等の残酷な遊びにより、虫は死んだ。子供達は悠太の姿を認めると、次はあの子を使おうと言った。気がつくと悠太は彼等に取り囲まれ、そして無邪気な笑顔を浮かべ、悠太に手を伸ばす。赤い折り紙で折られた鶴が捕らえられ、変な機械に入れられて服を作る為の糸にさせられているのを見た。途中、その機械が壊れる。何故か機械が故障したのは悠太のせいということになり、機械を動かしていた鬼達に追い掛け回された。鮮やかな簪が雨となって悠太へ降り注ぐ。恐ろしい程甘く濃い匂いが首に詰まり、あまりの苦しさにもがいた。和傘を手に座っている女達の傍らにある金の香炉から出ている匂いだ。ボス格であるらしい女の傍らにはあの男が立っている。悠太の意識がいよいよ失われるという寸前、女達は笑いながら香炉を頭上にやり、地面に思いっきり叩きつけた。香炉はあっさり粉々に砕け、その欠片は蜘蛛になり、咳き込む悠太の体を這う……――。
突然高速回転を始めた超巨大茶せん、黄金の竜巻。整然と並べられた花や動物、あらゆる風物詩をモチーフにした巨大和菓子を粉々に吹き飛ばしていき、抹茶の海を泡立たせ、そして最後は悠太に向かって突っ込んできた。良い毛並みの和犬が、悠太や彼の家族、友達に似た人形を噛み千切ってぼろぼろにしていく。その身が千切られるたび、彼等は悲鳴の様な笑い声の様なものをあげる。
巨大な、渦巻状の蚊取り線香の上に立たされ、赤く燃え滾る炎に追われ、無数の招き猫にじいっと見つめられながら招かれ、体は否応なく双方の間にある谷へ引き寄せられていき、とうとうそこから足を踏み外して、落ちた。列を作って移動する柊の実、まるで蟻の行進。それを娘が薄ら笑いを浮かべながら一つずつ潰していく。静かな狂気。とっくに死んでいる魚を吐き続ける鵜、やがて死んだ魚の海が出来、その上を花でいっぱいの舟が渡る。そこには青い顔をした娘が寝そべっていて、真っ赤な花を胸にして眠っていた。黒と白の市松模様の着物を着た女が仰向けになっている。その両側には男が二人居て、女の着ている着物の上に乗せた(着物を盤に、模様を目に見立てているらしい)駒を動かしゲームをしている。それは、その寝そべっている女を手に入れる為の勝負であるらしい。悠太の前に現れてすぐに決着が着き、右側に座っていた男がどうやら勝ったようだ。勝った男は鮫に似た怪物に変じると、負けた男を一呑みしてしまった。それを見て叫んだ悠太を見て男はにたりと笑い、悠太の所へゆっくりと近づく。逃げようとした悠太、だがいつの間にか背後に立っていた女に捕らえられ、それから……。
小さな子供がとんとんとんと切る金太郎飴、その断面は最初の内はちゃんと金太郎なのに、次第に鬼の顔へと変わっていく。全て切り終わったところで金太郎の部分と、鬼の部分が戦いを始める。そのどちらとも呼べないものは両方から攻撃された。天井に足をつけ、床に頭を向け、無数の目のついた障子のある屋敷を走らされた。金屏風に描かれていた虎が飛び出してきた。その前に立っていた、長い縄を持ち屏風を睨んでいた小僧が「まさか本当に出てくるなんて!」と叫び、縄を放り投げ、どこぞへ逃げていった。悠太は虎に追い掛け回され、危うく食われそうになった。無数の狸ががっちり組み合わさって作られた、狸の鳥居が目の前に現れた。その先には狸で出来た社が。悠太が鳥居をくぐろうとすると、一匹の狸が屁をし、それをキッカケに鳥居はがらがら崩れ、哀れ大きな玉袋を持った狸達の下敷きに。銛の森を泳ぐ魚達。
次から次へと際限なく、消えては現れ、消えては現れ……。
「お父さん! お母さん! お姉ちゃん……!」
ここへ来てから、何度彼等に助けを求めただろうか。友達の名前、先生の名前も叫んだし、戦隊ヒーローの名前も叫んだ。叫べば叫ぶ程痛くなっていく喉はもうがらがらで、自分のものとは到底思えないようなものしかもう発せなくなってきている。
叫んで、叫んで、叫んで。でも返事は一つも返ってこなかったし、誰も助けには来てくれなかった。
誰も助けに来てくれないという事実が、悠太から希望を奪っていった。
目は覚めない、まだ悠太は悪夢の中を彷徨っている。数々の幻想が悠太を襲う。現れては、消えていく幻想。毎回幻想の切り替えが行なわれる直前、あの男の姿が目に映った。
(出口、出口、出口、出口、出口、でぐち、でぐち、デグチ……デグチ?)
走りながら頭の中で繰り返していた言葉の意味が、分からなくなる。
時間が経てば経つ程、悠太はまともな思考が出来なくなっていった。現実と非現実、現と虚、常識と非常識――それらの区別さえつかなくなっていき、やがて自分が何を叫んでいるのかも分からなくなり、家族や友人の名前も分からなくなり、自分がどこをどんな風に移動しているのかも分からなくなっていった。自分の名前さえ、幻想迷路のどこかへ置いていってしまった。段々と口を開く回数も減っていく。
正常な部分が、段々と消えていく。数多くの幻想が頭をパンクさせ、心を潰し、体にのしかかる。もう悠太はぐちゃぐちゃだ。
なめくじに変わる笹の葉、垂れる蝋燭の蝋を飲む艶やかな女、蛇と鰻の戦、頭が果物のびわである坊主達が一斉に始める読経、蜘蛛の糸で出来た滝、人の首がついたでんでん太鼓で遊ぶ巨人、数々の墓がある場所を、胡瓜で出来た馬と茄子で出来た牛に乗って、無言無表情でぐるぐる周る亡霊達、大根おろしの雪の中を駆け回るウサギリンゴ、桜の色した剥き身の海老に覆われた木、揚げるとカレーパンになる檸檬、動物達が茶会を開く薔薇庭園、硝子の小瓶に入った液体にストローの先端をつけ、息を吹きかける少女――出てくるのはしゃぼん玉ではなく雲、壊れた楽器で演奏をし続ける者達……。
ここに『普通』などない。どれもこれも、現と虚がぐちゃぐちゃに入り混じっている。笹の葉も、びわも、薔薇庭園も、全て『現』に存在するものであるが、本来笹の葉はなめくじにはならないし、びわの頭をした坊主も存在しない。
存在するものに、有り得ない要素が付与され、幻想の存在となる。その幻想を際限なく見せられ、頭の中は滅茶苦茶になる。まるで出口のない迷路に放り込まれたかのように、現実や常識という言葉が迷子になっていく。
頭の中だけではなく、悠太の存在自体も迷子になる。
幻想迷路地獄。
中がくり抜かれたかまぼこのトンネルをくぐる。中で魚が水も無いのに泳いでいたが、もうその位では驚かなくなってきていた。いや、本当は驚いてはいたのだ。だが、数々の幻想を目の当たりにした結果感覚が麻痺し、何も感じていないと錯覚するようになってきただけの話である。
トンネルをくぐった先に、誰か立っている。闇に照らされ輝く者――それは、あの派手な着物を着た男であった。
彼を見て悠太は「ああ、あの人か」と思った。突き抜けすぎた恐怖は悠太を『無』にし、表面上の平静を与えていた。
男は出会った時と同様、手毬を乗っけた傘をくるくる回しながら悠太を待っていた。そして彼がトンネルをくぐり抜けたのを見ると、無言で一歩一歩ゆっくりと距離を詰めてくる。
「もう、終わりにしてあげよう。良かったね全部これで終わるよ。とても楽しめたから、特別に終わらせてあげる。ああ、何て私は優しいのだろう」
少し耳にしただけで心臓まで凍りつくような声。その声は闇の中によく響いている。それは、あやしの生き物だからこそなせる業である。
終わりにしてあげよう。その待望だったはずの言葉を、悠太は上の空で聞いていた。言葉は意味を成さず、遥か先をふわふわ漂う。しかしそれは段々と近づいてきた。
少しずつ近くへ。それと共に言葉はようやく言葉になり、悠太はようやくその言葉の意味を認識する。
(終わりにする……終わり、終わる……オワル?)
悠太は『終わりにする』という言葉の意味を認識する。だがその内容は、目の前に立っている男が意図したものとは全く別のものだった。
終わりにする。全てを終わりにする。悠太はそれを……悠太の全てを終わらせるという意味にとった。思考するということを、心動かすことを、誰かと触れ合うことを……悠太の人生を。
ぼんやりしていた頭が、その時になってようやく覚醒した。突き抜けていた恐怖が収束し、密度の濃い恐怖の塊となる。汗が噴出す、悲鳴が口から飛び出す、頭が痛くて熱い、体が寒い……!
男は目に痛い位鮮やかな赤い紐を手に持っている。傘を持っていた手にはいつの間にか黒い鋏。
「や、め……」
男には悠太のその声が微塵も聞こえていないらしい。紐が、鋏の刃に挟まれる。心臓が止まる、息が出来なくなる、体が動かなくなる。
このままじゃ終わる、終わる、終わらされる、終わってしまう、全部が、全部が終わってしまう、全部、全部、全て……。
かっと目を見開き、そして口を大きく開けた。内にあった恐怖を声にして吐き出す為に。だが、もう何もかも遅かった。
「やめろお!」
闇を裂く悲鳴が上がったのと、男が鋏で紐を切ったのはほぼ同時であった。
ちょきん、という音。それと共にぱさりと切れた赤い紐が地に落ちて、消えた。
そして悠太はゆっくりと倒れる。目の前が真っ暗になる、意識は闇へ溶けていく。
もう悠太の前に数々の幻想が現われることは無い。闇はもう一生闇のまま。
闇の中ではもう、何も起きない。
悠太も、もう……起きない。
*
藤色の髪を冬風に揺らし、出雲は満月館へと帰ってきた。玄関の戸を開いて中に入ると鈴がとてとてとやって来て、小さく微笑む。
「……おかえり、出雲。帰り遅かったね。やましたに行くだけって言っていたのに……」
彼が気まぐれで予定を変更することは決して少なくない。それを理解しつつも彼女は尋ねた。それを聞いた出雲は伸びをする。
「まあ、私も今日はそのつもりだったのだけれど。消えた友達を探すのを手伝って欲しいと紗久羅が泣いて助力を請うてきたものだから、心優しい私は彼女に力を貸すことにしたのさ」
その言葉に鈴はため息をつく。彼女は出雲が紗久羅に甘いこと、紗久羅が出雲と関わることを快く思っていないのだ。
「……いつも出雲のこと邪険に扱うくせに、そうやって何かあると出雲を利用しようとする」
出雲ははは、と笑った。
「別に邪険に扱っているわけじゃないよ、あれは。私のことがあんまり好きすぎて、素直になれないだけさ」
涼しげな顔で言ってのける。その表情からは本当に彼がそう思っているのかどうか判別することは難しい。鈴は出雲はとても前向き、と少し拗ねながら呟いた。
そんな鈴の頭を撫でてやってから、出雲は今日あった出来事を簡潔に話した。
紗久羅の友人云々という話は、鈴にとっては心底どうでも良いことではあったが、出雲が楽しそうに喋っているので何も言わず大人しく聞いている。出雲はひとしきり喋り終えると、もう一度伸びをし大きなあくびをする。
「だから今日は大変疲れた。あの電車とか車ってものは本当に恐ろしいものだね。怪物だよ、あれは。巫女の桜よりも恐ろしい……いや、それはないか。怒った彼女の方が余程恐ろしかった。怒った鞍馬の旦那位かな恐ろしさでいえば」
「紗久羅のせいで、とんだ災難だったね……。出雲は腹、立たないの? 紗久羅に対して」
どうして紗久羅に私が腹をたてるんだい、と出雲は笑った。
「確かにどうでも良いことをどうにかする為に行動することは、私は好かないが。でも良いんだ。私は今のところ紗久羅のことが大好きだからね。……腹を立てたとすればそれは紗久羅に対してではなく、彼女の友人を連れて行った馬鹿共と……そうだな、後はあの生意気な妖」
出雲は少し不機嫌そうな表情になり、はあ、とため息。
「誰かと誰かの繋がりを意のままにすることが出来る力。私が持っていない力を持っていたあの妖。小さくて、その他のことは何にも出来ない非力な奴で、いらいらする位泣き虫で。そのくせ生意気な口ばかりこの私にきいてきた。もうむかついたのなんのって。捻るか、燃やすかなりしたかったのだが出来なくてね……本当、むかむかしたしいらいらしたよ。そのむかむかやいらいらを、何かにぶつけなければ気が済まなかった。最初はやた吉とやた郎辺りにでもぶつけてやろうかと思ったのだが」
それから彼は冷たい笑みを浮かべた。見る者に吐き気を催させる位の邪悪さをその笑みは秘めている。一瞬にして場の空気が変わる。
くるり、彼は回った。何かを思い出して気持ちが高揚したようだ。
「商店街から帰る途中、一人の少年を見かけてね。彼はその生意気な子供の妖に姿が似ていた。いや、実際はあんまり似ていなかったかも? あれ? ま、いいか。兎に角私はその少年を見て『あ、こいつは丁度良い』と思ってねえ。術で幻覚を見せてやった。その間は結界を張って、彼の姿が人目に映りにくくしてやった。幻想世界に迷い込み、泣き喚く彼の姿を見たらもう楽しくって楽しくって仕方がなくってねえ、いらいらとかも吹き飛んだよ。で、しばらくしてもう飽きたから終わりにしようと術を解いたんだ。そしたら」
今度は声をたて、体を小刻みに揺らして笑った。鈴は楽しそうだな、とそれを見て思う。
「壊れちゃった。数々の幻想に、身も心も耐え切れず押し潰されてしまったらしい。術を解いた途端倒れてね。あれは多分、もう二度と目を覚まさないだろうねえ。仮に覚ましたとしても、人並みの生活はもう送れまい。別にそこまでするつもりはなかったんだけれどねえ。人間って弱いよね。まあ、あんな子一人壊れて目を覚まさなくなったところで、私の生活に支障が出るわけではないし、どうでも良いよね」
鈴はこくりと頷いた。出雲がストレスを発散出来たのなら、それで良かった。
元より彼女は人間のことが好きではない。だから、一人の少年の一生が台無しになったからといって嫌な気持ちにはならない。それは出雲も同じだ。彼は少年を壊してしまったことに微塵も罪悪感を感じてはいないだろう。意地悪い顔つきで、くっくっくと笑っている彼の姿を見なくてもそんなことは容易に分かる。
「紗久羅は一生そのことを知ることはないだろう。一人の少年が倒れて目を覚まさなくなったという話を耳にすることはあるだろうが……よもやそのことと、自分が関係しているとは夢にも思わないはずだ。敢えてこのことを話してやるのも面白いが、それより話さないでいる方がずっと良いだろう。より面白い方を私は選ぶ。ところで鈴、今日の夕飯は何にする予定だい?」
ごく自然な流れで聞いています、という風な表情で彼は鈴に尋ねた。鈴はそれにごく普通に答えた。出雲は良いね、楽しみだねえと言って自室に向かって歩きだす。
夕飯を食べる頃にはあの妖の顔も、名前も知らない人間の少年の顔も――というより、存在自体を忘れた。いつまでも覚えているような存在ではないからだ。
そして、いつもと同じ時間を、同じように過ごす。