第四十夜:新年幻想迷路地獄(1)
『新年幻想迷路地獄』
「うええ、寒い」
幽霊でも出てきそうな、ひゅうどろろろという音と共に吹いた冷たい風が、悠太少年の小さな体を襲う。ぶるる、とその身を震わせながら小さな手をこすり合わせ、両頬に押しつける。ほんのりとした温もりが、頬にじいんと染み渡って、少し痺れる。
友達の家ですごろくやらTVゲームやら色々やり、冬休み最後の日を思う存分楽しんだ。後は家に帰るのみである。
母と姉が福袋を買いあさり、父がお雑煮の食べ過ぎでまた少し太り、親戚中から貰ったお年玉に悠太がうはうはし、おみくじに家族一同一喜一憂したこの七日間。新しい年の訪れに浮き足立っていた人々も、今は流石に落ち着きを取り戻しており正月モードは終わりを迎えている。明日からは悠太も小学校に再び通い始める。そうなれば、この七日間のお祭騒ぎっぷりも段々と日常の向こう側へと追いやられ、夢物語に近いものへと変わっていくだろう。
一度立ち止まり、ううんと伸びをする。家ではずっと座りっぱなしだったから、そうしたらすっきりとした。伸ばした体を再び寒風が襲い、ぶるぶる。
夏ならばまだ太陽が燦燦と輝いているような時間だが、冬となると話は別である。冷気に包まれた空はもう仄かに暗くなってきている。本当に冬はすぐ暗くなる。だから、あまり遅くまで遊んでいられない。
(寒いし、すぐ暗くなるし……早く春にならないかなあ)
冬が訪れてまだそんなに経っていないのに、もう次の季節のことを考えてしまう悠太少年である。体を震わせながら考えるのは町中を薄桃色に染める桜、ほーほけきょといううぐいすの泣き声、柏餅のこと。
体は寒いが、頭の中はぽかぽかいいお天気な彼は、家へ帰ろうととことこ歩いている。家は友達の家からやや距離があるが、行き来が苦になる程遠いわけではない。色々楽しいことを考えながらふらーっと歩いていればあっという間に家へ着く。
悠太はいつも通り、歩いていた。友達の家で食べたお菓子でいっぱいになったお腹も、夕飯が来る頃には空いているだろう。今日のご飯は何かなあ、といっぱいになったお腹をさすりながら行く。
そんな彼の鼻に、ふわりと甘い香りが入ってきた。その香りには嗅ぎ覚えがあった。……そう、それは今丁度頭の中でぱっぱと咲いていた桜の花の匂いであった。
悠太は困惑する。今は冬なのに、どうして桜の花の匂いがするのかと。始めは気のせいかと思ったが、どう考えても気のせいでは無い。はっきりとその匂いがする。
その匂いの出所は間もなく分かった。それはその場で立ち止まり、目をぱちくりさせていた悠太の眼前に、いつの間にか立っていた人物だった。
いつの間に、と彼は戸惑った。ずっと前からいましたよ、という風に立っているその人。瞬き一回分前までは確かにいなかった。いなかったはずなのに。
ワープ、テレポート。ゲームの中でよく見る単語が、悠太の頭の中をよぎった。
すぐ目の前に立っている、自分よりずっと大きいその人の体が作り出す闇に、彼の小さな体はたやすく呑み込まれた。可哀想に、闇に呑まれたその体は震えている。冬のそれよりなお厳しい寒さに、突然襲った今まで感じたこともない位の恐怖に。
危ない、逃げろ、逃げろ、逃げろ。頭の中にいるもう一人の悠太が叫んでいる。今目の前に立っている人は、危ない人だと体が、頭が知らせている。
不審者、誘拐、暴力、殺人――不穏な響きの単語が悠太の中を目まぐるしく駆け巡る。しかしそのどれも当てはまらないと、悠太は本能的に察していた。
そんなものより、もっと危ない、と。
突然襲った訳の分からない恐怖と冷たさに、悠太は動けないでいた。前にも後にも進めない。逃げられない、助けを呼ぶことさえ出来ない。
「……お前にしよう」
目の前にいた人が、喋った。それは明らかに男の声だった。クラスにいる悪ガキの出すような、粗野で乱暴なものではない。静かで、そして感情というものが全く無い、綺麗な、それでいてぞっとする位冷たい、声だ。アニメで見た、酷いことを平気でする悪役のものに似ている。その人は主人公達にどれだけ色々な言葉を浴びせられても、最後まで心を入れ替えることはなかった。自分は正しい、私のしていることのどこがいけないことなのかと、いたって冷静に言ったキャラだった。
それを思い出して、悠太は唾を飲み込む。
体を震わせながら、彼はゆっくりと上を向いた。男の顔は思った以上に近くにあった。悠太を見下ろすその顔は、薄闇に塗られてなお輝いている。
細い体、今時女でもなかなかいない位長い髪、朝から夜、或いは夜から朝へ変わる時に一瞬だけ空が見せる色に似た、赤青混じる藤の着物。
その顔を見た瞬間、悠太は心臓を氷の手で掴まれたようになった。男を見る目は氷に焼けて冷たく、熱い。目を逸らしたいのに逸らせない。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、危ない、逃げろ、危ない、逃げろ。
逃げられない、逃げられるわけがない。
男が静かに右手を挙げる。その手には桜の花が描かれた金の扇。その扇で、男は悠太の頭に触れた。
ふわ、かさり。途端悠太の視界を薄桃色の何かが覆い尽くす。むせる程甘い香り。それは桜の花びらだった。桜吹雪或いは桜の雪崩が悠太を襲う。
優しい色の、ひんやりした、美しく、甘い、花びら。開いた口の中にまで入り込んでくる。狂おしい程甘く、苦しい。
手を滅茶苦茶に動かして、自分の体にまとわりつく花びらから逃れようとするが、出来ない。もう怖いのか何なのか分からない位頭は真っ白になっていた。
そんな花びらが突然、消えた。一枚残らず。
はっと目を開けると……悠太は真っ暗闇の中、一人ぽつんと立っていた。
「え……?」
呆然。本当にそこは真っ暗闇で、家も電柱も塀も空も地面も何も無い。自分の体さえ見えない。目に何も映らない。
どうして、何故。怖いと思う以前に訳が分からなかった。
顔の前で手を振ってみる。手が動いている気配は感じるが、手自体は見えない。段々と、自分の体がここにちゃんと存在しているのか不安になってくる。
その不安が、内なる恐怖を呼び起こす。一度怖いと思い始めたら、もう止まらなくなり、まるで湧き水のように後から後から湧いてくる。湧いてきた恐怖は涙となり、すっかり冷たくなった悠太の頬をつつう、となぞっていった。
「誰か、いませんか」
思わず丁寧な口調になる。だが、何の声も返ってこない。
「誰か、いませんか」
もう一度。だが闇に溶けていった少年の問いかけに返事するものはいなかった。
「誰、か、いま、せん、か」
三度目はもう完全に涙声、込み上げる嗚咽に言葉は途切れ途切れ。
しいん、無音。ここには誰もいない。悠太以外、誰もいない。先程の男さえいないようだった。
突然訪れた訳の分からない事態に、容赦なく自分を襲う恐怖にただ彼はしばらくの間そこで一人泣いていた。その泣き声さえもすぐ闇に溶けていき、世界は常に静寂を保っていた。
(ここはどこ、何で俺ここにいるの? 夢を見ているの? 弘樹の家へ遊びに行った所から、全部、夢?)
信じがたいことではあったが、そうとしか考えられなかった。あんな化け物みたいな人間、或いは人間みたいな化け物がこの世界にいるはずがないし、あれ程の桜の花びらがどこからともなく現われるはずもないし、こんな闇だけの世界なんてこの世にあるわけがない。小さい頃悪戯をしてよく追いやられた押入れだって、これ程までに暗くは無い。
何て酷い夢だろうと悠太は思う。こんなに恐ろしい夢など、過去十年間見た事が無かった。
手で頬を叩いてみる。強く叩けばこの悪夢から抜け出せると思った。だが、どれだけ強く叩いても体と心が痛めつけられただけで、何も変わらない。
「誰も、いないの……?」
もう一度呟く。だが結果は変わらない。
嗚呼、やっぱりここには俺一人しかいないんだとがっくりうなだれる。涙がぽとり、ぽとりと下に落ちていくのを感じる。
誰もいない。そのことを認めざるを得ないと思った。
「アハハハハハハ!」
だから、突然その笑い声が闇のあちらこちらから聞こえた時、悠太は悲鳴をあげ、体をびくつかせた。心臓が不吉な音をたてて跳ねたのを確かに感じた。
静寂の世界を突然塗り替えたその声は、闇の世界に一人立っていた彼を安堵させるどころか、更なる恐怖に陥れる。
心底愉快そうに笑うその声は、妙に甲高い。明らかに地声ではなく、両親が夜によく見ているサスペンスに出てくる犯人が、誰かに電話する時などに使う機械を通したようなものであった。
気が狂ったピエロがボイスチェンジャーを通して笑っているような。この上なく滑稽で、不気味で、狂っていて。恐怖に震える悠太の哀れな魂を、笑いながら撫で回し、握りつぶし、振り回し、ぼろぼろにしていく。狂気と悪意の塊。
「アハハハハ!」
「ハハハハハ!」
「アハハハ!」
「アヒャヒャヒャ!」
狂った笑い声は、四方八方から聞こえてくる。誰かの声を聞きたいと心の中で願っていた悠太だったが、こんな声は望んでいない。
恐怖を煽る声は、耳を塞いでも聞こえてくる。
「やめて、やめて、やめて!」
怖い、怖いと泣き叫ぶ声もその声にかき消される。笑っても、笑ってもまだ笑い足りない――そんな声さえ聞こえるような気もした。
「やめろよ!」
あらん限りの力を込めて、悠太は目を瞑りながら叫んだ。するとさっきまで悠太のことなどお構い無しに響いていた笑い声が突然、止んだ。
恐る恐る耳から手を離す。こびりついていた笑い声が剥がれ落ちると、辺りは途端に静かになった。
ゆっくりと目を開ける。その目に、さっきまでなかった光が映ったような気がした。驚き、思わず目を再び瞑り。それからまた開けて。
矢張り、先程までなかった灯りが二つ悠太の目の前にあった。
やや青みがかった光を宿しているのは灯篭だ。赤く塗られた、家の様な形をしたよく神社で見かけるようなタイプのものであった。鮮やかな赤が、青白い光が、闇に幻想を生み出す。
その灯篭の間に、何かが見える。よく見るとそれは長方形の石を敷き詰めて作られた道であった。灯篭に、石の道。まるで神社である。
灯篭の灯りはそれ程眩しいものではないから、道も途中で途切れて見えなくなっている。だが、恐らくその先にもずっと道は続いているものと思われた。
(どうしよう……)
悠太は、その道を進むべきか進まざるべきかとしばし悩んだ。
あの道を進んだらもう後戻りは出来ないような気がした。だがかといってこんな暗闇の中に突っ立っていても何にもならない。
悩んだ末、突然現れた道を進むことにした。道を渡りきったら、この悪夢から覚めるかもしれないと淡い期待を抱いて。
石の道に一歩足を踏み入れる。その瞬間両側から男と女の声がそれぞれ聞こえた。
「ようこそ!」
「ようこそ!」
悠太はびっくりし、悲鳴をあげた。その声は今彼の体を冷たく照らしている灯篭から聞こえたように思えた。また何か喋りだすのかとびくついたが、訪れた静寂を切り裂くものは何もなく。
びくつきながらもその灯篭を後にすると、再び同じ形の灯篭が現れ、闇に包まれていた道を照らした。悠太が前の灯篭を通り過ぎると、新しいものが目の前に現われる仕組みになっているらしい。
彼が通るのを息を押し殺してじっと待っているそれらは、意思をもった化け物に見える。
横を通った瞬間、また声が聞こえた。
「もう出られない、出られない」
「幻想迷路の始まりだ」
悠太はまた体をびくつかせる。
新たな灯篭が、道が現れ、そこを通り、老若男女の声に震える。それを延々と繰り返す。始めの内は震えながら静かに、ゆっくりと歩いていた悠太だったが段々と歩みは早くなっていき、早足になっていく。
逃げるように、歩く。けれど逃げても逃げても、逃れられない。気がつけば悠太は走っていた。がむしゃらに手を動かしながら、走る、走る、走る。
両側から笑い混じりの声が聞こえ続ける。早く走れば走る程、声と次の声の感覚は狭まっていった。声と声が、ぐちゃぐちゃに混じっていく。
「可哀想に」
「もう逃げられない」
「愛らしい子なのにねえ」
「お前の世界は終わりだ」
「ここに来たらお終いだ」
「楽しいね、愉快だね、素敵だね!」
「あはははは!」
「死んじゃう、死んじゃう、ああ、死んじゃう!」
「けらけらけら」
混ざる、笑う、混ざる。早く走れば走る程ぐちゃぐちゃになる。顔も、頭の中もぐちゃぐちゃだ。
通り過ぎる一瞬、灯篭が人の姿に見えるような気がしてきた。ひょっとこやおかめのお面を被り、着物を身につけた男や女に。あの灯篭は人であり、人は灯篭で、あれは灯篭ではなく人で、でも灯篭で。灯篭は人なのか、人は灯篭なのか、混乱していく。
何度も足がもつれ、時には転んだ。その痛みは本物であった。でもこれは夢のはずである。なのにどうしてここまで痛いのか。
ぼっ、ぼっ、ぼっ。次から次へと現われる光。延々と続く道。
段々と自分が前に進んでいるのか、それとも後退しているのか分からなくなってきた。入り混じる声が方向感覚を奪っていく。もしかしたら自分は空に足をつけ、地に頭を向けて走っているのかもしれないし、まともに真っ直ぐ走ってなどいないのかもしれない。
「どこまで走っても無駄だよ、出られない!」
「もうお前は迷路に迷い込んでしまった!」
「出口なんてないよ、どこにもないよ!」
「お前はもう死んでいるかもしれない!」
「お母さんって叫んでみろよ、もしかしたら答えてくれるかもよ!」
「まあ、そんなわけないけれどね!」
やめて、やめて、やめろ!
自分ではそう叫んでいるつもりだった。けれどもしかしたら叫んでいないかもしれない。
もう自分が何をしているのか、しているつもりのことを実際にやれているのか、分からない。
声が、声が、声が! 嗚呼、もうやめてくれ!
その時悠太は、前方にあるものを発見して思わず立ち止まった。あんまりいきなり止まったものだからつんのめって倒れそうになってしまった。
灯篭に照らされていたそれは、人の姿をしていた。悠太は呆然とする。
豊かな黒髪を赤い紐で緩く束ね、狐面をつけ、真っ赤な和傘をさしている――恐らく、男。
身につけている着物は派手で、様々な模様や色の布を継ぎ合わせて作られている。市松模様、縦縞、横縞、格子縞、麻の葉……赤、黄、青、緑、目が痛くなる程鮮やかな。
ピエロ。悠太は彼の姿を見てまずそれを思った。赤や青の布で作られた衣装に身を包み、滑稽なメイクを顔に施す道化師。
悠太はピエロがあまり好きではない。小さい頃見に行ったフェスティバルでピエロに風船を渡されたのだが、その時彼はピエロを見て大泣きしてしまった。
面白い、ではなく気味が悪い、怖いという感情の方を真っ先に抱いた。あれから彼もちょっとだけ大きくなったが、その時の思い出があんまり強烈だった為未だに苦手なのである。
目の前にいる男も不気味で、恐ろしい。その姿は普通とはかけ離れている――異常だと思った。ピエロの滑稽さを限界まで押さえ、不気味さを極限まで増幅させたもの……そんな恐ろしいものが、悠太の行く手を遮っている。
男はくるくると傘を回す。その傘にはいつの間にか小さな鞠が幾つか乗っていて、傘の回転と共にそれらがころころと転がる。その姿は大変可愛らしいものであるはずなのに、どうにも悠太にはそれが可愛いとは思えなかった。じいっと見ていると、何だかそれが人の首に見えてくる。
「幻想迷路へようこそ! 可哀想な少年」
突然、男が叫んだ。闇の中でよく響く声であった。その声はあの笑い声よりも、灯篭の声よりも、もっともっと恐ろしいもので。悠太は逃げなくてはいけないと直感した。元来た道を振り返る。
青白い光をつい先程まで発していた灯篭は、今や、血のように赤い光を発していた。燃える、燃える、地獄の炎。赤鬼、笑い、けらけら。
「幻想の洪水はきっと君を惑わし、壊すだろう! うむ、結構、実に滑稽! 日常と非日常が、現実と非現実がぐちゃぐちゃに入り混じる幻想が生み出す、出口の見えぬ迷路」
言っている意味が分からない。ああ、背後で鬼が笑っている。怖い、逃げたい、どうすればいいんだ。
「嗚呼少年、君は私に選ばれた。さあ少年、迷えや迷え!」
「な、何を……」
それだけしか、言えなかった。直後男の姿がぐにゃりと揺らいで……消えた。
それと共に、世界は再び闇に包まれた。それによりパニックを起こした少年は悲鳴をあげ、折れてしまうのではないかという位激しく首を動かし光を探す。
その闇こそ、真の恐怖、真の幻想迷路地獄の始まりの合図であった。