第一夜:鬼灯一夜(1)
鬼灯一夜、2012年1月20日、改訂。
『鬼灯一夜』
*
外は今、氷水に包まれている。そこに少しいるだけで体中の熱が奪われる。次第に感覚という感覚全てが麻痺していく。
鬼灯の実の様な色をした夕陽はとうの昔に底へ沈み、代わりに白銀の、口へ入れたら薄荷飴の様にすうっとしそうな月が浮かび、林檎の果実と雪の色の間のような色をした光を放っている。月の色は冬を思わせる冷たさだが、その光には少しだけ温かみがある。
砕いた硝子を散りばめた空を、一人の男が見上げていた。
背は高くも低くも無い。やや細いその体を包んでいるのは藍色の着流し。顔立ちがどんなものであるかは分からない。狐の面をつけているからだ。今地面を照らしている月光に似た色をした面に、鮮やかな赤で髭や耳の穴、まぶたが描かれている。白目にあたる部分は金色で、中央に大きな黒目が浮かんでいる。
髪の色は漆黒で白髪の一本もない。高齢では無いが、決して若くも無いように思える。
彼の傍らには小さな建物がぽつんとある。黒っぽい色をした木で造られたいかにも古そうなものだ。
やや平べったいその建物についている戸。上半分は障子で下半分は硝子で出来ていた。障子紙は長らく張り替えていないのか、随分と黄ばんでいる。下半分を占める硝子は牛乳を流し込んだかのような色をしている。濁っているものだから、中がどうなっているのか見ることが出来ない。ぽつぽつと描かれている透明な菊の花が洒落ている。
戸の両脇には提灯がついており、達筆なのか下手糞なのか分からない字で『居酒屋』と書かれていた。まだ提灯に灯りは灯っていない。
「寒い」
低い声と共に、面の下から白い息が漏れた。組んでいた腕を解き、自分が着ているものと同じ色をした暖簾を戸の前にかける。そこには『鬼灯』と書かれている。提灯に書かれているもの同様、上手いのか下手なのか判別に困るような字だった。
提灯に灯りを灯す。暖簾に書かれている文字の表す植物と同じ色の灯りが、冷たい世界を優しく照らした。
細くやや骨張った手に息を吹きかけた後、男は目の前にある戸からではなく、裏口から建物――居酒屋『鬼灯』の中へと入っていった。
*
『鬼灯』は大して広くない店だ。
入り口の戸を開けて入ると、カウンターがお出迎え。両端はきっちりと壁にくっついている。その前に八つ、小豆色の座布団が敷かれた小さな椅子が並んでいる。席はそれだけ。飾り気は全くといっていい程なく、壁に貼られているのはぼろぼろのメニュー表だけ。
カウンターを挟んだ向こう側が、店主――先程の男――の領分だ。主な調理はここで行う。そこには鍋やまな板、包丁や具材が所狭しと並んでいる。
裏口から入ってきた男は、もつの味噌煮込みが入った鍋をかき混ぜながら客が来るのを待つ。
料理はこれだけではない。おでん、魚の煮付け、豚の角煮……その他諸々。店の中は味噌や醤油、鰹節等の匂いで満たされている。どれだけ意地っ張りなお腹もここへ入れば簡単に降参し、腹の虫を鳴らすだろう。
「外は寒かったでしょう」
男はその声を聞いて振り返る。一人の女がそこに立っている。白い肌、腰まで伸びている長い黒髪。若い娘にも、それなりに歳をくっているおばさんにも見える女だ。瞳は柳の葉の様に切れ長で、とても妖しい。その一方で唇の色は桜色で、可憐であった。
「ああ、とても寒かったよ柳。けれどこうして鍋をかき混ぜているとあっという間にその寒さも吹き飛んでしまう」
それを聞いて女は「そうですわね」と微笑んだ。女、柳は彼の妻である。唇と同じ色をした着物に赤色のタスキがよく映えている。彼女は主人の隣に立ち、彼の手伝いを始める。
それから十分程経っただろうか。入り口の戸ががらっと勢いよく開いた。
入ってきたのは大柄の男。余程寒かったのか左端にある椅子に大股あけて座るなり大きなくしゃみをした。
「いらっしゃい、弥助さん」
男は常連客であった。弥助と呼ばれた男はおう、と応え、にかっと笑う。
歳は二十代後半から三十代前半といったところか。後ろで無造作に束ねた、肩程まで伸びている茶色のぼさぼさとした髪、ちらちらとあごからのぞいている無精ひげ。暗い緑色の甚平に下駄姿。見た目は良く言えば野性味溢れる、悪く言えばだらしない。
体つきはかなりがっちりしているが、目がやや垂れているせいか、怖い兄ちゃんという印象はない。
「こんばんは、鬼灯の旦那。あっしが一番乗りっすか?」
「ああ、あんたが一番だね」
面の下で微笑みながら主人は空色のどんぶりを手に持つ。
「最初はあれでいいかな?」
「勿論。あれを食べないことには何も始まらないっすよ」
弥助はにかっと笑いながらまだ冷えているらしい手をしきりにさする。
「弥助さんが最初にあれを頼まない日なんて無いですものね」
柳はそう言って上品に笑いながら、桜海老に人参、ごぼう、玉葱がたっぷり入ったタネを揚げ始める。 かき揚げをつくっているのだ。
一方鬼灯の主人は調理場の隅に置いてある木箱を開ける。中には規則正しく、綺麗に並べられた蕎麦の束が入っていた。そこから主人はいつも彼に提供している量を取り出し、鍋の中へと入れた。
二人が調理する様子を、弥助はにこにこしながら眺めていた。時々、ぐうぐううるさく鳴いている腹をさすりつつ。店内を満たす良い匂いが腹を刺激しているのだ。
「毎回毎回この蕎麦が出来る様子をじっと見ているのがあっしは大好きっすよ。好きなものを待つっていうのは、いつだってドキドキワクワクすることなんですよねえ。いやあ楽しみ、楽しみ」
弾んだ声に、満面の笑顔。まるで遠足を心待ちにしている子供の様だ。
くすくすと柳が笑う。
「本当、弥助さんって子供ですわね。体だけ立派な、小さな子。蕎麦一つでそこまで盛り上がれるなんて……ある意味羨ましいですわ」
褒められているのか、馬鹿にされているのか。どちらかといえば後者のような気はするが、とりあえず弥助は褒められていると思うことにして、いやあそれほどでもと頬をかいた。
笑みを浮かべながら、からからに揚がったかき揚げをあげ、さっと余分な油を落とす。それから程なくして蕎麦も茹で上がったらしく、主人は出汁のきいている暖かいつゆの中にそれをそうっと入れた。つなぎを使っていない蕎麦が茶色の汁の中に沈んでいく。それらが入った丼の上に蓋をするように、出来たてのかき揚げをさっとのせた。
主人がその丼を弥助に手渡す。嬉々として受け取った彼は、鼻をひくひくさせ、その良い香りを楽しむ。
「ああ、これこれ。この匂い。ああ、もう本当になんともいえませんねぇ。たぬき蕎麦はあっしの大好物っすよ」
「正確に言うと、たぬき蕎麦ではないけれどね。本来は天かすをのせるだけなんだが……まあ、あんたは常連さんだから、特別だ」
ちなみに天かすはのっていない。最早たぬき蕎麦ではない。誰がどう見てもかき揚げ蕎麦である。しかし弥助はそんな細かいことなどいちいち気にしない。
鬼灯の主人も、柳もあまり名前にはこだわっていなかった。
弥助は、大きな声でいただきますというと左手で丼を持ち、まずはかき揚げを一つ大きな口を開けてぱくりと食べた。たった一口。たった一口でかき揚げ一個が彼の胃の中へ消えていった。次にその下に隠れていた蕎麦を、大きな音をたてながらずるずるとすすり始める。それはもうすごい勢いで、みるみるうちに汁に沈んでいた蕎麦は消えていく。弥助の口という滝つぼに蕎麦が勢いよく落ちていく(正確には上っていく)
急いで食べる上に、豪快に食べるものだから、主人が綺麗に拭いたカウンターの上に汁やらかき揚げや蕎麦のかけらが飛び散ってしまう。ずるずるびゅるっと弥助が蕎麦をすする度、カウンターの汚れは酷くなっていく。主人は面の下で苦笑した。いつものことで、もう慣れてはいるがやはり何度見てもその食べ方には呆れてしまう。
「もう少し落ち着いて食べなさい。急がなくても、蕎麦は逃げやしないよ」
「全く、そんなにこぼして。子供だってもう少し綺麗に食べますよ」
柳は苦笑いし、肩をすくめた。美味しそうに食べてくれるのは誠にありがたいことではあるが……もう少しお行儀よく食べてもらいたい。それが本心だ。
「まあ自分を馬鹿にした子供を本気になって追いかけたり、子供と本気で遊んだり、子供に好物とられて本気で落ち込んだりするような人だから……仕方が無いと言えば仕方が無いね」
主人のその言葉を聞き、弥助が思いっきりむせた。慌てて柳が水を差し出す。
ぜえぜえいいながら息を整えた弥助はとても情けない表情を浮かべている。
「何で鬼灯の旦那がそんなこと知っているっすか!?」
彼の前で子供と遊んだり、子供を追いかけたり、子供に対してムキになったりした覚えは無い。主人ははははと笑う。
「この前出雲から聞いたんだよ。あいつはむさ苦しい上に子供より子供な、情けない馬鹿だとか言っていたっけ」
出雲、という名を聞いた途端男の口元がひきつった。そしてみるみるうちに顔を真っ赤にさせ、獣のように唸り声をあげる。
「あの馬鹿、余計なことをペラペラ喋りやがって……後で覚えていろよ」
弥助は出雲という者のことを相当嫌っているらしい。ついさっきまで浮かべていた笑みはどこへやら。
しかしまだ蕎麦が残っていることを思い出したのか、顔から怒りの感情はあっという間に消え失せ、再び食べることに集中し始めた。主人と柳はそんな彼の百面相を面白がりながら眺めていた。
「まず、蕎麦が良い。こんなに良い香りのする蕎麦、ここじゃなきゃ食えないっすよ。でもこの蕎麦だけ美味くても、駄目だ。つゆとかき揚げも大事なんすよねえ。かき揚げは一口食べれば人参と玉葱の優しい甘味がふわっと広がって。それを包み込んでいる衣と桜海老の香ばしい匂い……磯の香りも程よく混じっていて……さくっとしたこの衣に甘くてそれでいてさっぱりしたつゆがいい感じに染みこんで……さくさく、じゅわっと……くう、たまらないっすねえ」
一人で勝手に解説している。それだけ美味いと感じているのならもっと味わって食べれば良いのだが。 どうも彼にはゆっくり味わって食べるという概念が存在しないらしい。二つ目、三つ目のかき揚げもほぼ一口で食べ、残り僅かな蕎麦を一気にすする。挙句、丼を両手に持ちつゆまで飲みだす。ビールの一気飲みでもしているかのような、ごくごくという音が響き渡る。
すっかり丼が空になると、弥助はぷはぁと息を吐いて、口の周りについた汁を手でぬぐった。満足という言葉を具現化したような表情を浮かべながら。
「いやあ、やっぱりたまらないっすねえ。もし死ぬなら、このたぬき蕎麦がたくさん入った鍋の中で死にたいなあ」
「ほう。ならば今すぐやってみるかね? 協力してやるよ」
そう主人が意地悪い声で言ってやると、弥助は慌てて首と両手を振った。
「いやいや、いや。嫌ですよ、あっしはまだ死にたくないっす」
「冗談だよ。生憎、あんたの体がすっぽり入る位大きい鍋を持っていないものでね」
「あったらやっていたんすか?」
「さあ、どうだかね」
そういって、主人ははははと笑った。果たして面の下に隠れている目は笑っているのだろうか、笑っていないのだろうか。表情を読み取れないから、主人の考えていることは分かりづらい。分かりづらいから、余計に怖い。弥助は鬼灯の旦那には敵わないや、と冷や汗を流しながら柳にもつの味噌煮込みと酒を頼んだ。
*
外はもう本当に暗くなっていた。夜の住人たる月や星はますますその輝きを増している。そんな頃『鬼灯』に次の客が入ってきた。
「邪魔をする」
入ってきたのは弥助以上に図体のでかい男であった。その声は力強く叩かれた太鼓の音のように、腹に響く。また、随分と低い。
男の肌は、赤い。酔っ払って赤くなっているのではない。生まれつき、赤いのだ。顔も、手も、足も、全て赤い。唐辛子、彼岸花、鳥居――それらを思わせる色だ。
鼻は長い。三十センチはあるだろう。艶の一切無い、ぼさぼさな上に先端が針のように尖っている髪は胸程まである。
太い眉、鋭い光放つ目はつり上がっている。それゆえ、常に怒っているように見える。兎に角、怖い。小さな子供が彼と会ったら、泣いて逃げ出すか、腰を抜かしてしまうに違いなかった。白目にあたる部分は、金色。鬼灯の旦那が被っている面のそれと同じだ。
想像してみれば分かる通り、彼は人間では無い。彼は妖怪――天狗であった。
しかしそんな彼の姿を見ても、誰も驚かない。主人も柳も、弥助も。
それもそのはず。……ここに人間はいない。皆妖怪なのだ(但し鬼灯の主人が妖怪なのかどうかは柳以外知らない。しかし人間でないことは確かだ)。妖怪が妖怪を見たって驚かない。
そもそもこの居酒屋『鬼灯』があるのは、我々人間の住んでいる世界ではない。ここは妖怪、幽霊、精霊……ありとあらゆる人では無い者が住んでいる世界。人間が足を踏み入れることは『まず』無い世界なのだ。
山伏衣装に身を包んだ天狗は前の腰をかがめ、頭を低くしながら戸をくぐる。
そうしないとぶつかってしまうのだ。鞍馬は弥助の右隣にある席に座ると、ふう、と一息。
「こんばんは、鞍馬の旦那。今日も寒いっすねえ」
「うむ。ああ、最近は特に寒いな。我の住んでいる山はここより冷える」
彼の住処である山はこの世界には存在しない。その山は人間界――桜町という小さな町の外れにあるのだ。名を桜山。彼はその山頂近くでひっそりと暮らしている。
しかし人間が彼の住処に辿りつくことは出来ない。何故なら鞍馬が自分の縄張りの周囲に人間避けの結界を張っているからだ。彼は人間のことがあまり好きではない。だからそうして人間という存在を拒絶しているのだ。
反対に、弥助は只の狸であった頃から人間という存在に興味を持っていた。
興味はやがて好意に変わり、人間と一緒に暮らしてみたいと願うようになっていった。弥助は長く生きる内に身につけた変身能力を用いて人間となり、色々あって元々の住処であった桜山の麓にある小さな村、桜村(現桜町)で人間として暮らすことになったのだ。
村で数十年暮らした後、彼は村を離れて山へと帰った。しかし数十年後、人恋しくなった彼は再び村を訪れ、人間としての人生を再び歩むことにし……それを幾度となく繰り返した。
今は桜町にある喫茶店で働いている。しかもこの男、あろうことかその喫茶店で一緒に働いている人間の娘に恋をしてしまった。しかもべた惚れ。
弥助は今の生活を心の底から楽しんでいる。彼の話を聞く度、鞍馬や鬼灯の主人は思う。この男自分が妖怪であることを時々忘れてしまっているのではないだろうか……と。
そんな化け狸、弥助は「そういえば」と話を切り出す。指差す先には鞍馬の立派な鼻がある。
「何か鼻……曲がっていないっすか? あっしの気のせいっすか?」
弥助に指差された鼻をちらと見た鞍馬は気まずそうな表情を浮かべながらそれを撫でる。どうやら気のせいではなかったらしい。
「いや、気のせいでは無い。実は数日前知り合いの猫又と飯を食っていたのだが」
「ほうほう」
「その、何だ。つまらぬことで喧嘩をしてな。その時奴に鼻を折られてしまったのだ。我としたことが油断した。……憎らしいあの凶暴猫又、鼻に毒を流し込みおって。お陰で傷の治りが少し遅くなっているのだ。今はこれでも大分ましになったのだが。まだ痛むわい」
言いながら若干紫っぽい鼻先を赤子の頭を撫でるかのような優しい手つきで撫でる。自分の失態を暴露してしまったことを恥じているのか、その頬はまだ酔っていないのに赤くなっている。
「そりゃあお気の毒に。……で、喧嘩の原因は何すか?」
「そ、それは」
詰まる息、下がる眉。喋りたくないのか何度も咳き込む。
しかしそれでも辛抱強く口を開く時を待っている弥助を見、とうとう観念したのかはあと深いため息をつき、いつもとは違う全く覇気の無い声でぼそぼそもごもごと語る。
「その、何だ。魚を喰う時頭から食うか、尻尾から食うかで喧嘩に……。猫又の奴、魚を尻尾から食うとはけしからんと言うて。急に襲いかかってきたのだ」
「……」
開いた口が塞がらない弥助。鞍馬の方は話している内に猫又に対する怒りの感情が蘇ってきたのか、カウンターをだんだんと叩き始めた。
「おのれ忌々しい! この恨み晴らさでおくべきか。今度会ったらあの小汚い耳を引きちぎってくれるわ」
わきあがる怒りに震える鞍馬。ぐっとつりあがった眉、瞳。吐き出す息に混じっているのは真っ赤に燃える怒りの気。
一方。
こみあげてくる笑いに震える弥助。でろんと下がる眉、瞳。吐き出す息に混じって聞こえるのは笑い声。
「魚、魚の食べ方で、喧嘩して……鼻、を」
最初の内は遠慮気味に笑っていたが、笑っているうちに段々加減が出来なくなってきたのか、とうとう腹を抱えて大声で笑いだした。一度そうなるともう止められない。頬や腹が痛むまで笑う。しまいに涙まで流れてきた。
「そ、そりゃあ、まあ、ほ、ほほほほ、本当に……くくく…つま、つまらないこここ、ことで、けけけ、喧嘩しました……ね、ははは、くく、くっくっく」
「それ以上笑ってみろ、貴様の背中にある古傷を引き裂いてくれる」
鬼の形相、という言葉を具現化させたような顔に睨みつけられた弥助は笑うのをやめ、小さくなる。
「それだけは勘弁して下さいよ」
情けない声を出しながら、自分の背中にある大きな傷跡に手をやった。
数百年間決して消えることの無いその傷を裂かれたら。考えただけでも恐ろしい、と今度は恐怖に体を震わせた。
弥助が大人しくなったことに満足したらしい鞍馬は鬼灯の主人に酒とおでんを頼んだ。主人は鬼の角を混ぜて造った酒を注いだものを彼に差し出した。
「それにしても随分こっぴどくやられたね。お前さんにしては珍しい」
「本当に。早く治ると良いですね」
優しい声色で囁くように言いながら、柳は黄金のだし汁に浸っている竹輪、蒟蒻、牛すじ、はんぺん等をすくって白い深皿にいれる。そしてそれを鞍馬にそっと手渡した。
それを受け取る鞍馬の手は不自然に震えており、夏でも無いのに汗だくだく、顔はいつも以上に赤くなっている。
弥助はにたりと嫌な笑みを浮かべ、鞍馬を肘でつついた。
「おやあ? 鞍馬の旦那、元々赤い顔がますます赤くなっていますよ? どうしたんですかねえ……ぐはあっ」
鞍馬が柳に好意を抱いていることを知っていて、わざとらしくそんなことを言う弥助。勿論無事ですむはずもなく。鞍馬に思いっきり頭をがつんと殴られた。
痛いどころの騒ぎでは無い。あまりに痛くて、痛すぎて、最早訳が分からない。自分の頭は潰れていないだろうかと涙目になりながら目を上へと向ける。
「貴様は黙れ。背中の傷を開かれたくなければな」
「あらまあまあ、駄目ですよ鞍馬さん。そんなに強く殴ってしまったら、ただでさえ阿呆な弥助さんがますます阿呆になってしまいますわ」
ふんわりした笑みを浮かべながら柳がそうたしなめると、鞍馬は頬を赤く染めながらこくりと素直に頷いた。
「う、うむ。そうですな」
一方、頭を殴られた上に阿呆扱いされた弥助は面白くなさそうな表情を浮かべている。
「酷いっすよ、柳の姐さん。あっしはそんなに阿呆じゃないっすよ」
そう弥助がそう訴えると、柳は袖で口元を隠しながらほほほと笑った。
「あら、冗談ですよ」
「冗談には聞こえなかったんですがね」
「あら、弥助さんたら。私の言うことが信じられませんの?」
わざと傷ついたような表情を浮かべ。鞍馬はそんな彼女の表情に内心ときめきつつ、弥助を横目で睨みつけた。
「そうだ。柳さんの言う事が信じられないのか。流石阿呆狸だな」
「私の妻のいう事が信じられないというのかい。そんな失礼な狸君にはもうたぬき蕎麦を食べさせてやらないよ」
三人から集中攻撃をうけ、弥助は拗ねる。
「なんであっしだけ、あっしだけ! ああ、もう皆して酷いっすよお」
そう弥助が抗議すると皆楽しそうに笑った。鞍馬の笑い声が一番、圧倒的に大きい。自分が笑われると烈火のごとく怒るくせに。鞍馬は柳から酒のおかわりをもらう。弥助は頬を膨らませながら主人からもつの味噌煮込みを受け取った。
「全くもう、本当に意地の悪い人達っすねえ」
弥助はそう言いながら、もつ煮込みを口にいれる。少し濃い目の、甘辛い味噌がもつの臭みを気にならなくさせ、一緒に煮込まれたごぼうやにんじん、葱はとろとろで柔らかく、それでいて形は崩れておらずほど良く食感も残っている。糸こんにゃくにも味が染み渡っている。一口食べると、味噌の香りともつの独特な香りが口の中に広がり、続いて舌にぴりっとした刺激がくる。続いて酒を飲み干せば、もうなんともいえない幸せな気持ちになる。
鞍馬は柳によそってもらったおでんの具の中から、だし汁に染められて日焼けしたようになっているに卵を箸で器用につかむと、豪快に丸呑み。まるで鵜のようである。
「うむ、相変わらずよく味が染みているな。いつ食べても美味い」
「お褒めに預かり光栄だよ」
主人は嬉しそうだ。今度は味のよく染みた大根に箸をのばす。雪のように白かった大根は冬の道路にパラパラと散っている落ち葉のような色に変わっている。箸を入れると簡単に割れた。その割れた大根の中から、だし汁がこぼれ出る。柔らかく、口の中に入れるとだし汁がじゅわっと溢れる。だしの味とダイコン本来の味が美味く交じり合う。
とても熱い。だが不快な熱さでは無い。
口の中が極楽に変わっていると目を細めながら鞍馬は言った。
「こういう寒い日に食うおでんは格別だな。兎角今日は寒い。骨まで凍りつくようであったぞ。夏の暑さも好きではないが、冬の寒さはもっと嫌いだ」
「あっしも冬は苦手っすねぇ。冬になって喜ぶなんて、雪んこと雪女、それと雪男位のものっすよ。雪女といえば、この前『向こう』で雪女の小雪と会ったんだが……ものすごく機嫌が良かったっけ。元気いっぱいだったし……寒さが余程心地良かったんだろうなあ、本当水を得た魚って感じだったっすよ。しかもこれでもまだ暑い位だ、もっと寒くならないかなとか恐ろしいことを言いやがった。全く、そんなに寒い所が好きなら来なけりゃいいのに。あの町はあいつが住んでいる所程寒くは無いのだから。夏になりゃ地獄だしな」
「辛い思いをしてでも会いたい奴がいるのだろう。この鈍感狸めが」
「何か言ったっすか?」
「いや? しかし我にはどうにも理解出来ぬな。寒いのが良い、など。雪男にでもなれば少しはあ奴等の気持ちも分かるのかもしれんが」
そうして、酒を一口。ちょろっと一口飲んだという意味ではない、一口で一気に全部飲み干した、という意味である。
酒はちびちび飲むのではなく、一気に飲むのが美味い、一気に飲まねばならぬのだというのが彼の信条であるらしかった。
「ははは、でもあっしは雪男にはなりたくないっすねぇ。暖房のきいた部屋の中で、ミカンを食べながらのんびりぬくぬくやるのが一番だ」
「暖房? ああ、人間共の使う摩訶不思議な術か。その術を使うと暖かくなるのか?」
「術じゃなくって、機械っすよ。き・か・い。よくあっしがお話するでしょう。ええと、昔でいえばカラクリっすかね。それを使うと、家の中がとても暖かくなる。寒い日も、それさえあればぬくぬくぽかぽか。……ただこれを使いだすと外出が億劫になっちまって、どうにもいけない。それに冷房だ、暖房だっていうのは自然にダメージを与えるらしいから、そうぽんぽん使うと、ね」
苦笑いしつつ、ぷにぷにした食感のもつを口の中に放り込んだ。
鞍馬は、暖房が一体どういうものかを一生懸命考えているらしい。もともといかつい顔が、ますますいかつくなる。その顔を見れば大人だって泣きだすだろう。暖房がどういうものか考えている顔なんですよ、と言ったって誰も信じないような、本当にすさまじい形相である。
そんな顔をしながら考えても殆ど山を下りず、人間と関わることも無い彼には暖房の姿を想像することは出来ず。彼の頭の中では何か良く分からない物体がぐねぐねうねうねしている。
「うん、何というか……長方形の箱だと思えばいいっすかね。白いものが多いっすかねぇ。……ああ、それよりも。この前あげたクッキーはどうでしたか?あれ、朝比奈さんが作ってくれたんですけれど」
朝比奈さんというのは弥助のハートを射止めてしまった娘のことである。
人間との馴れ合いを、というか人間そのものを嫌っているくせに彼等の文化には興味を示している鞍馬の為に、弥助は人間世界の食べ物をちょくちょく彼に渡しているのだ。朝比奈さんに作ってもらうこともある(ついでに、自分の分も作ってもらっている)。彼女は弥助の依頼をいつも快く受けてくれている。とても優しい娘なのだ。
「ああ、食う気か。せんべいのようなものかと思ったが、全く違う味で驚いたわ。随分甘い食い物だったな。堅いものかと思ったらさくさくとしているし。摩訶不思議な食べ物が次々と増えていく。興味深い世界だな」
興味は抱いている。だが、好きではない。複雑な思いなのだ。
「そうっすね。外国の文化がどんどん流れて食文化も大きく変わったっすね。勿論昔だって外国から色々なものが流れてきたっすが……今は昔の比ではなく。食だけじゃなくて他の文化も変わってきて。あれよあれよという間に変わっていったっす」
「うむ。まあ、変化すること自体は決して悪いことではない。とはいえ、寂しいものよ。我は昔の方が好きだったからな。まあ、人間の世界がどうなろうと我には関係ない。我は山奥でひっそりと静かに暮らすのみ」
だが、と鞍馬が難しい顔をする。
「人間共の方は山に住む者達のことを放っておいてくれないようだ。動物共が嘆いているよ、とても住みにくい世になった、と」
その言葉に反論することは出来ないのか、弥助は困ったように笑った。
「まあ人間は貪欲っすからね。TVで、狸や猿が悪さをして困っているというのを良く見るが……原因は動物ではなく、人間にある。住む場所を奪われ、食べるものに困り、それでいて山に下りれば有害動物だ、迷惑だなんだと言われて殺されて。あっしみたいに妖になっちまえば、まだどうにかなるんだがなあ」
妖はとても丈夫だ。少し位食べなくたって死にはしない(食べないと死んでしまう者も勿論いるが)。食事をほぼ必要としない者も多い。だが、そういう者達も食べるという行為を楽しむ為(娯楽の一つとして)、より力を発揮する為に食事を摂ることが多い。
「まあ、暗い話はこれ位にしておきましょう、折角の飯が不味くなっちまう」
弥助はもつ煮込みがまだ少し入っている皿に、あつあつの白米を豪快に放り込む。かき混ぜ、一気にかきこむ。野菜の旨みと味噌の甘辛さが混ざった汁と、噛めば噛むほど甘くなる白米との相性は良い。最強と言っても過言ではない。
「まあ、確かにその通りだ。ところで弥助、次はどんな食べ物を持ってきてくれるのだ」
「ん、ああ、そうっすねえ……何にしようかな。いやあそれにしても鞍馬の旦那は食べることが好きっすねえ。あっしも人のことは言えないっすが」
弥助や鞍馬に限らず、この世界の住人は兎に角飲み食いが好きであった。
食べなければ死んでしまう人間以上に好きである。食べなくても生きていけるはずなのに「食べなければ死んでしまう!」と言う者もいる。
頬についた米粒をとりながら(勿論とったそれは美味しくいただいた)次に持ってくるものを考える。一方の鞍馬は彼の返答を待ちつつ、卵雑炊をすすっている。勿論これで締め、というわけでは無い。彼にとって雑炊一杯など、コップ一杯分の水にも満たない。
宴はまだ始まったばかりだ。