終と始のあわいにて(4)
*
「今年の九月、俺のクラスに転入生がきました。及川柚季という女の子でした」
「その娘は可愛い? 可愛い?」
興味津々に大元が聞いてきた。奈都貴はため息。
「気になるところはそこですか。……ま、まあ可愛いですよ」
「そうか。可愛いのか。可愛いことは良いことだ。それで?」
「……俺に不名誉なあだ名をつけた女子のことは覚えていますか?」
「ああ、確かお前の彼女だったな」
「誰がそんなこと言いましたか、誰が! あいつはただの友達です!」
むきになる奈都貴を見て、大元は声をたてて笑う。
「そうか、この先彼女になる予定の娘だった。失敬、失敬」
「だから彼女から離れてくださいよ、彼女って単語から! こほん……で、その井上と及川は、前日にある場所で顔を合わせていたらしく、あっという間に仲良くなったんです。性格とか全然違うのに。そんな及川なんですが……彼女は立て続けに妙な出来事に遭遇しました」
自分の目の前で、人が突然悲鳴をあげて倒れる。そんな出来事が立て続けに三回も。最初は喫茶店で。ここで柚季と紗久羅は出会った。そして残りの二回は学校のトイレで。
単純に倒れたというのなら、貧血とか暑さとかそういったものが原因であると説明がつく(それでも立て続けに目の前で倒れるのを見る、なんてことはまずないだろうが)が、悲鳴をあげてから、という部分を説明することは難しい。
奈都貴はすでに、この世には不思議な出来事があるということを理解している。柚季のその話を紗久羅から聞いた奈都貴は、何となく嫌な予感がした。放ってはおけない、もしかしたら人ならざる者が関わっているのではないかと彼は考えた。そして誰かが倒れる時いつも一緒にいたという柚季も何らかの形で関わっているのではと考えた。
「万が一ってこともありますから。心配になった俺は、ある人に相談することにしたんです。その人は俺の学校の図書室で司書をしている、九段坂英彦さんという人です。図書委員会に所属したことがきっかけでその人とよく話すようになって……で、それからあることが原因で俺が向こう側の世界――異界と関わりのある人間だということがばれたんです」
あること、というのは肌に触れることで人が秘めているものを、ある程度察知することの出来る力を持っている英彦の使鬼・美沙に抱きつかれたというものなのだが、言えば絶対彼女にからかわれると思ったので黙っておいた。
奈都貴は英彦が化け物使いであること、女性の使鬼を何人かいることなどを話してやる。その間大元は目をきらきらさせながら熱心に耳を傾けていた。
「その九段坂さんに相談したところ、彼は校内で妙な気配を感じていることを話してくれました。ただ、元々桜町に限らず学校のある三つ葉市も普通とは違う『異常』な土地でしたし、感じる気配もそれ程強いものではなかったので、あんまり強くその気配に対して警戒はしていなかったようです。それでも俺の話を聞いて、色々調べてくれました」
結果、鏡が何らかの形で関わっているらしいことを突き止めた。それから奈都貴は今回の件について自分なりに調べるようになった。これといった収穫はなかったが。
その間に、学校から感じる気配は強くなっていった。立て続けに人が目の前で倒れるところを見たという柚季の様子も段々おかしくなっていき、倒れる人の数も徐々に増えていった。
次々と奈都貴はあの時のことを色々話していく。たまたま図書室を訪れた柚季、そんな彼女と、彼女と行動を共にしている紗久羅の為に英彦が渡したもの、柚季の体内を渦巻いていた邪悪なもの……。
「九段坂さんは、及川という名前に注目しました。あることを生業にしている一族に、及川というものがいたような気がすると彼は言いました。そして調べたところ……及川柚季が、封術師の子孫の可能性が高いという結論に至りました。その時は確信にまでは至りませんでしたが、結局正解だったらしいです」
それからのことも話す。紗久羅が『柚季』に襲われたこと、英彦がそんな彼女を守った影響で倒れたこと、次の日柚季が休んだこと。
そして、一連の事件の犯人が鏡女という妖であったこと――その妖が封印されていた鏡を割ったことが原因で、柚季の体内に彼女が侵入したこと。
放っておけば、遠くない未来に柚季は鏡女に全てを奪われてしまうこと。
そのことなどについて、紗久羅や出雲、弥助と話をしたこと。
鏡女が、町を襲いだしたこと。
「井上も……俺と同じように、人ならざる者の存在を知っていました。最も彼女の場合は夏に知ったばかりだったそうですが。出雲がいなり寿司をいつも買っている弁当屋っていうのが、井上の家で。小さい頃から出雲とは顔見知りだったそうです。彼女は色々な点が普通の人間に見えない彼のことを、ずっと化け狐、化け狐と呼んでいたそうですが……彼が真実化け狐であったことを知ったのは、大分後だったようで」
そんな彼女に、奈都貴は自分が小学五年生の時に妖に襲われたこと、出雲に助けられたこと、紗久羅も出雲が化け狐であることをずっと前から知っていたのかと聞きたかったことなどを告白した。そのことをちゃんと話さなければならない状況だったから。そのことを告白した奈都貴は随分と心が軽くなったことを覚えている。
それから、鏡女と会い、彼女を退治するまでのことまで丁寧に話した。柚季が、本来目覚めさせるはずのなかった力を目覚めさせてしまったことまで、ちゃんと。
「井上は俺とは違って、向こう側の世界へもばんばん足を運んだようです。まるで友達の家へ遊びに行くかのように、何度も、何度も。俺が越えようとしなかった一線をあいつは躊躇なく越えやがったんです。……馬鹿だから」
「本当、馬鹿だなあ!」
「そんなあいつと、鏡女の件を機に以前よりもつるむようになって……結局あいつに引っ張られるようにして、俺も越えようとしなかった線を越える羽目に。あいつ程ではないですが、俺も何度か向こうの世界へ足を運ぶようになってしまいました」
向こう側の世界、及びそこに住む住人と深く関われば関わるほど、奈都貴は異形の者を引き寄せるようになっていった。もう、色々と手遅れなところまで来てしまっている。妖を嫌う柚季も、自らの力ゆえに毎日のように妖に絡まれることに。
「はっはっは。それで? 今はその二人と怪奇倶楽部を結成し、英彦とやらを顧問にして様々な場所で起きる妖絡みの事件を解決するようになったと!」
「誰がそんなこと言ったんですが、誰が!?」
「違うのか」
「そんなもの結成していません」
「していないのか」
何故か彼女はがっくりと肩を落とす。余程その事実を残念だと思っているらしい。一体何なんだと首を傾げれば、彼女が恨めしそうな目つきで彼を見やる。
「結成すればいいのに。怪奇倶楽部……」
「そんなことする気はありません。俺だって出来ることならあんまり首を突っ込みたくないですし、及川だって妖が嫌いでなるべくそういうものと関わりたくないと願っていますし。井上はどうだか知りませんが」
「つまらぬ! あることを目的にした集まりというのは素晴らしいものではないか。そういったものの生み出す物語は大好物だ。何かの同好会とか、部活とか、少年探偵団とか! 少年少女達が、それぞれの特技を駆使してあらゆる事件を解決する……行く先々で現われる謎の怪人、彼等を優しく見守る住人達、彼等に振り回されまくる警官達……ああ、素晴らしい!」
彼女のテンションはえらく高く、奈都貴のことも忘れて恍惚の表情を浮かべながら色々語っている。様々な物語を生み出すものは、彼女にとって好ましいものであるらしい。
(それもあるけれど、寂しいって部分がまあ大きいんだろうなあ)
誰かと一緒に何かするという機会がほぼない彼女だから、そういうものに憧れるのだろう。そう思うと、彼女がとても愛おしくなる。
「そうだ、お前は学校というものに通っているのだろう? ならば、部活とやらにも所属しているだろう。そこでの話を聞かせておくれ。部活動、青春、大小様々な物語!」
期待の眼差し。その視線がとても、痛い。何故なら……。
「すみません、俺高校は帰宅部なんです」
輝く瞳に絞められた喉から、どうにか声を絞り出す。体は暑いやら寒いやら、たらり流れる謎の汗。
それを聞いた彼女の顔、みるみるうちに浮かぶは絶望及び失望。
「あ、いや、でもほら中学の時は部活に入っていましたから! テニス部だったんですよ、俺! 大した成績は収められませんでしたけれど。顧問の先生が大柄で、顔いつも真っ赤で、つるっぱげで、タコ入道なんて呼ばれていましたっけ!」
どうにか彼女の機嫌を戻そうと、奈都貴は聞かれてもいないのにつらつらと中学時代の部活エピソードを述べていった。
サーブだけ異様に上手かった部員、後輩にぼろぼろに負けて次の日何故か坊主になった先輩、大会のこと、練習のきつさ、女子テニス部に皆のマドンナ的存在がいたこと……。
それを聞くうち、どうにか大元の機嫌も良くなったらしく、笑いながら奈都貴に色々質問をしてきた。それに答えると、彼女はまたとても嬉しそうに笑うのだ。単純というか、何というか。内心ほっとした奈都貴である。
「矢張りこういう話は良いな。他には何か知らぬか? 漫画や小説の話でも構わんが」
「ええと……ああ、そういえば東雲市という三つ葉市同様桜町に隣接した街の、とある高校には『うろうつつ倶楽部』なるものがあるということを聞いたことがあります。虚と現という意味があるようですね」
「何だ、それは。聞いたことのない倶楽部だな。どのようなことをするの?」
「数十年前からある、割と歴史ある倶楽部だそうですが……何か、全くの作り話を他のメンバーに聞かせてやるという集まりだそうです。真実なんて少しも含まれていない話を、それがさも本当に起きた出来事であるかのように語るのだそうです。茹でていない状態の蕎麦を、テーブルの上に立てる競技でギネス記録が出たとか、これこれこういうゲームが発売されるとか、架空の人物の生涯とか……。いかにそのでたらめ話を真実の話だと思い込ませるか、というところが肝だそうで。他のメンバーは話を聞きながら、色々質問をします。そして語り手は話に矛盾が出ないように心がけながらそれらの質問に答えていく。そんな倶楽部だそうです。何かその集まりに入るのも大変らしいですよ。厳しい審査をかいくぐった者だけがメンバー入りを許されるそうです」
その倶楽部の存在は、大元のテンションをあげたらしい。何だそれ面白そうだと身を乗り出している。普通なら「はしたない」と呼んでも差し支えないような格好をしているのだが、彼女の場合それさえさまになるので、はしたないという感じがあまりしない。
「最低限のルールとして、実在する人を出してもいいけれど、自分達とまず関わることのない芸能人など以外を出すのはNGとか。つまりクラスメイトとか、友人とか、そういった人は基本的に出してはいけないそうです。幾らでたらめ話であるとはいえ、そういった人達を使うのは良くないと考えたからでしょうけれど」
その倶楽部では四月一日、現役メンバーとOB、OGが集まって『四月馬鹿祭』なるものを行なうらしい。その内容は一切の謎に包まれている。ただの飲み会だとか、自分達が過去に作ったでたらめ話を真実にするべく色々活動するものであるとか、作り話リレーをするとかいった話があるが、どれも噂の域を出ない。この行事の情報は、情報通である吉田霧江さえ掴めていないという。
「それは面白い。どういう集まりであるのか色々想像が膨らむなあ! 馬鹿馬鹿しい集まりというものも私は好きだ。私が今まで聞いたものの中にも、色々そういった変てこな集まりがあった。下着を頭に被ったまま、誰に捕まることもなくどれだけの距離移動できるかというのを競うもの、その世界にいるある生き物になりきって延々と行動するという集まり、ある道具や生き物のもつ無限の可能性を妄想しまくるだけの謎の集まり、諸々だ。変てこではない集まりの話もよく聞いた。そういう話を聞くと、わくわくするんだ。きっとそういう活動をしている本人達もどきどきわくわくの日々を楽しんでいるのだろう。だからお前も怪奇倶楽部を、もしくは探偵団を」
「しつこいですよ」
「もう、けち」
ぷくうっと膨らむ頬はまるでお餅のようだ。思わずつついてやりたくなる。
「お前は帰宅部だそうだが、他二名はどうなんだ? まさか二人共所属していないということはあるまい」
「残念ながら、二人共帰宅部です。井上は中学の時陸上部でしたが、今はやっていません。及川は中学の時書道部だったらしいですが、高校は特に。二人の中学時代の部活エピソードは特に知りません」
「つまらんなあ! お前は本当につまらん男だ!」
「何でそうなるんですか! あ、でもほら……怪奇倶楽部とかは結成していませんけれど……妖が関係した騒動の話なら色々出来ますよ」
怪奇倶楽部など結成しなくても、自ずとそういったことに巻き込まれる性質にもうなってしまっている。大元は色々な集まりの話を聞きたいのに、と言いつつも彼の提案を受け入れたらしく、扇をふりふり、はよ話せと催促し始める。
奈都貴は紗久羅から聞いた、桜町連続神隠し事件のこと、文化祭準備の際に起きた騒動、柚季から聞いた話、クリスマスの騒動、今日のことなど色々話した。他にも自分が今日までに経験した諸々のことを話して聞かせた。その間自分は喋り通し喋っていた。喉を壊すのではないかと不安になったくらいだ。
「まあ、本当に色々なことがあったのだなあ。一生の思い出が沢山出来たな」
「一生の思い出にしたくないようなものばかりですがね。文化祭準備の時と、クリスマスの時は本当大騒ぎでしたよ」
「お前達の世界には本当様々なイベントがあるなあ。そういうイベントの話を聞くのも私は好きなんだぞ」
「結局の所、殆どの話が好みなんですね貴方は。まあ確かに色々ありますけれど。妙ちくりんなもの、ローカルなものを合わせるとかなりの数になると思いますよ。外国にはトマトを投げあいまくる祭もあります。もう終わる頃には町中が真っ赤になって、皆トマトまみれになって……すごいんですよ。TVで見ただけですけれど、かなり強烈な光景でした」
日本でやろうとすれば、食べ物を粗末にするなとか何とかうるさく言う人が現われること必至の行事である。だが、少しやってみたいなとは思った。
「泥まみれになる祭とかもあるらしいな。ああいうのはただ普段出来ないことを思う存分する為にあるのか、それとも五穀豊穣とかを祈る為にすることなのか。それとも意味など少しもないのか。でも私もやってみたいなあ!」
と言った途端、奈都貴はお尻が急速に冷たくなったのを感じた。何事かと思って下を向けば、先程まであった畳が消えており、泥でいっぱいのフィールドが広がっていた。ついていた手を見れば、泥んこだらけ。
「何をいきなり……へぶっ!」
奈都貴の口から、自分でもびっくりする位間抜けな声が出る。同時に顔を襲った冷たくて茶色いもの。大元が丸めた泥をこちらまで投げてきたのだ。その泥の塊が、ぺちゃっと下へと落ちる。太ももに泥が跳ねて、冷たい。
あっはっは、と大元は笑っていた。それを見た奈都貴は無性に腹が立ち、自身も泥を固めて彼女にぶつけてやった。笑っていた彼女はその攻撃をもろに浴びる。美しい顔が一瞬で台無しに。笑っていなければ避けられたかもしれないのに。いや、或いはわざと避けなかったのかもしれない。
それから二人は泥を投げあい、かけあいの大騒ぎ。体や服が汚れるのも構わずはしゃぐ。こういったものは最初こそ汚れるの嫌だとかなんとか思ってしまうのだが、一度泥まみれになったらもうそんなこと少しも気にならなくなる。
奈都貴は子供の時のことを思い出した。周りの目など少しも気にせず、泥だらけになるまで遊んだ日々を。……家に帰ってから母親にたっぷり叱られたことも含めて。大元の笑顔と、一緒にそうやって遊んだ陽菜やその他友人の笑顔が重なる。
天井は消え、真っ白な雲浮かぶ青空が広がっている。それを見ていると余計清清しくなった。
馬鹿みたいにしばらく二人ではしゃぎ、最後はぜえぜえ言いながらその場に座り、大声で笑った。それからすぐ元の部屋に戻った。もう泥は消えている。
「ああ、楽しかった。こういうのは面白いなあ。一人でやってもつまらないけれど。あ、何だか肌がつるつるになった気がする。幻の泥でも美容効果というものはあるのだろうか。これ以上美人になったら、世の男共が私の姿を見ただけで鼻血を出して死んでしまう!」
「はいはい、そりゃあ大変ですねー」
「気のない返事をしおってからに。私のような美人にそんなつれない態度を平気でとれるなんて。お前、本当に男か?」
「男ですよ。正真正銘の」
「お前から見て私は美人ではないの? だからそんな態度をとれるのか」
「いや、俺の目から見ても貴方は美人の部類だと思いますよ。多分十人中八人か九人は美人だと答えるでしょう」
「美人の基準は世界や国によって大きく変わるからな。十人中一人も私のことを美しいと答えないような所もあるだろう。実際いたぞ、私のことを『醜女だ』と評した者が。外へ放ってやろうかと思ったが、文化の違いゆえ仕方無いとぎりぎりのところで絶えたが」
機嫌が悪かったら、放っていたかもしれないという彼女の言葉に奈都貴はぞっとする。本当に彼女はやりかねなかったからだ。命拾いして良かったなあ、と名前も顔も知らないその人物に心の中でそう言った。
「お前の国の美人の基準はどんなものだ?」
そう改めて問われると、悩む。具体的にこれ、というものを自信をもって言うことは出来なかった。
「人によって基準が違うからはっきりとこう、というのは無いですけれど……やっぱり目がぱっちりしていて、二重目蓋で色白で……って感じですかね。昔はぷくっとしていて、細い目で、綺麗で長い黒髪の人とかが美人といわれたそうですが」
「矢張り色々違うな。私が聞いたものでは、顔が赤いのが美人とか、鼻がとがっているのが美人とか、目が青ければ青いほど美人とか、髪の毛がぼさぼさなのが美人とか。以前会った玉虫色の肌を持つ種族の間では、より多くの色をもった肌の女が美人といわれているそうだ。文化だけでなく、種族特有の特徴によっても色々変わるようだな。だから面白い」
そこから話はどんどん別の方向へ変わっていく。奈都貴の恋愛について話し(幼稚園の時ある一人の女の子が好きだったことを暴露させられた)、歌や踊りのことを話した後フォークダンスを一曲踊り、桜村奇譚集に載っていた話について語り、日本や世界の昔話を語ってやり(大元も、様々な世界に住む者から聞いたという話を沢山聞かせてくれた)、好きな食べ物について、TV番組のこと、家族のこと……。
その時間はとても充実した、楽しいものであった。一方その時間の終わりが刻々と近づいていることも理解していた。あわいの世界で過ごす時間も、もう少しで終わる。その時が来るまで沢山話そうと思った。この世界から出ることの出来ない、美しい姫君の為に。
色とりどりのビー玉、可憐な花々、宝石。そんなものたちがこの空間中に沢山浮かんでいるような気がした。話せば話すほど、それらの輝きが増す。
ずっと、ずっとここで話していたい。そんな気さえした。その気持ちはきっと幻ではないと思う。
奈都貴をまたからかって遊んでいた大元の笑みが、ふと消えた。それを見た時、彼は悟った。この時間の終わりを。
「……そろそろ、お別れの時間だ。これ以上ここにいると、良くないから」
「そう、ですか」
残念だ、本当に残念だと奈都貴は思った。大元は切ない笑みを浮かべ、そんな彼を見つめている。
「私ももっとお前と話していたいと思うけれど、それを願ってはいけない。私に沢山の話をしてくれたお前の為にならないから。ねえ、私は楽しかったよ。だからそんな残念そうな顔をしないで。笑って私と別れて」
「そう言う貴方だって……もっと楽しそうに笑ってください。そんな切ない笑み、やめてくださいよ。辛気臭くなりますから」
「お前に指示されるいわれはないよ」
そんなことを言って、彼女は苦笑い。それから元の、宝石の様な笑みを浮かべるのだった。
大元はこちらに歩み寄り、やがて奈都貴の目の前までやって来た。それから身を屈め、奈都貴の顔を両手で覆う。少し冷たいが、不快な冷たさではない。
輝く瞳が、奈都貴の瞳を捕らえる。捕らわれた瞳は少しも動かすことが出来なかった。ああ、何て強い輝きをもっているのだろうと改めて思う奈都貴だった。
静寂。聞こえるのは、己の心音のみ。
「ありがとう、奈都貴。さようなら、奈都貴。本当に今日は楽しかったよ。……本当にありがとう」
彼女の手が、離れる。その直後奈都貴の頬に何か温かなものが触れた。温かくて、柔らかくて。
それが何なのか、理解するより早く奈都貴の意識は底へ沈み、体はどこかへ引っ張り上げられていく。
ここへ来た時とは、正反対に……。
*
「ハッピーニューイヤー!」
気がつくと奈都貴はリビングに立っていた。TVの中で、芸能人達が新年の訪れを告げる言葉を、満面の笑みで述べているのが見える。同時に赤や黄色などの鮮やかな色で『HAPPY NEW YEAR!』という文字が映し出される。
あれ程長い間喋っていたのに、実際には一秒も経っていないのだった。突然切り替わった世界に呆然としながらも、奈都貴はそのことを把握する。
(そうか、あそこは終と始のあわいの世界だから……それだけの時間しかあそこには存在していないのか)
招かれた奈都貴達にとっては一瞬の時間。だが、そこに住む大元にとっては永遠の時間。
リビングに集まっていた両親と陽菜が口々に「明けましておめでとう」と言った。彼等は奈都貴が先程までどんな所にいたのか知らない。永遠にきっと知ることはないだろう。
あっという間の、あっけない別れ。色々話す間もないまま、奈都貴は元の世界へ帰された。貴方もお元気で、とか俺も楽しかったですとか、そんなこと一つも言えないまま別れてしまった。
せわしなかったなあ、とぼうっと彼は思った。
はしゃぐ芸能人達の声、家族達の談笑の声。うるさい位賑やかで明るい声に彩られた、来る年。きっと今頃全国の寺などは、新年の訪れに沸いていることだろう。その騒ぎは当分続くだろう。お賽銭を投げて、おみくじをして、お守りや破魔矢を買って。寺などだけではない。家の中だってしばらくの内はお祭り騒ぎだ。文面もデザインも人それぞれな年賀状が家に山程届いて、お雑煮を食べて、特別番組を見て大笑いして……。
毎年、当たり前のように迎えるその時間。奈都貴にとっては当たり前の、しかし大元にとっては永遠に手に入れることの出来ない時間だ。それを思ったらほんの少しだけセンチメンタルになった。
美しくそれでいてどこか子供っぽい彼女と再会することは、恐らく二度とないだろう。またあの世界へ引っ張り込まれることもあるかもしれないが。
まだその場で突っ立ったままの奈都貴に、陽菜が気がついた。ふんわりした笑みをこちらへ向ける。
「明けましておめでとう、奈都貴」
それに続いて両親も奈都貴に挨拶した。
――私の分まで存分に正月を楽しむが良い……――
大元の、そんな声が聞こえたような気がした。奈都貴は現か幻か分からぬその声に笑みを浮かべる。
「ああ。明けましておめでとう、今年も宜しく」