ひいさまは社へ帰る(10)
*
深い悲しみと静寂が、闇を包み込む。時々手を貸してもらいながらも自分がもと着ていた振袖に着替え終えた咲月は、ふらつきながら出雲や紗久羅の所まで歩いてきた。後は少年が咲月の『糸』を結び直し、ひいさまの力で元の世界へ帰るだけである。
咲月の姿を見て、紗久羅――紗久羅の中にいるひいさま――は微笑んだ。
「本当に良かった。貴方を助けることが出来て、とても私は安心している。この体の主もきっと喜んでいるわ」
咲月の手を、紗久羅がとる。咲月は彼女の顔を、声をとても懐かしく思った。
今はまだ繋がりを断ち切られている状態なので、目の前にいる人物のことをはっきりとは思い出せないが、彼女がとても大切な存在であることはなんとなく思い出した。
そんな彼女にとり憑いているらしいひいさまの魂を、自身の手をを通じて感じる。その魂を感じたのは、今が初めてのことではない。あの部屋で咲月は受け取り続けていたのだ、彼女の魂の波動を。そのことを意識したことは一度もなかったけれど。ひいさまはずっと咲月のことを見守っていた。
彼女の魂が直に自身に触れたこともあった。目覚める度にそのことは記憶の彼方へ追いやられたが、こうして手を通じて彼女の魂を感じ取ったことではっきりと思い出した。
「貴方は、眠っている私の頭を撫でたり、私に話しかけたりしていましたよね。今まで私はそのことを忘れていました。けれど、今、思い出しました」
「私は貴方のことを助けたかった。今まで私はここへ連れてこられた哀れな娘達を助けてやることが出来なくて、でも今度こそはと思っていた。けれど私にはどうしようも出来なくて……それでも、せめて、せめてああして貴方の悲しい気持ちを拭ってやりたいと思ったの。励ましてあげようと」
「ありがとうございます。私があそこにいて、すぐに駄目にならなかったのはもしかしたら……貴方が見守ってくださっていたからなのかもしれません」
咲月がそう言うと、紗久羅は微笑んだ。それは本来の彼女が浮かべるものとは全く違う。あくまでそれはひいさまの笑みなのだった。
出雲は二人の会話などどうでもいいらしく、暢気にあくびなどしている。少年は良かった良かったと何度も何度も繰り返し、涙も流し。
「さて咲月も無事連れ戻せたことだし、さっさと帰ろうじゃないか。紗久羅の体も返してもらおう」
紗久羅は神妙な顔で頷いた。出雲はそんな彼女と手を握っている咲月と、少年の顔を見比べる。
「……咲月は今回のことを忘れた方が良いかもしれないね。紗久羅もきっとそのことを望んでいるだろう。おい少年、彼女とこの空間やここに住んでいる奴等との間に結ばれた『糸』を解くことは出来るかい」
「多分出来ると思うよ。解けば、ここで起きたこともお姉ちゃんにとっては夢物語になっていって、それで最後は殆ど忘れると思う」
それはそうと、と少年は言った。
「あの人達、どうするの? こんな所に置いていくわけにも行かないでしょう?」
少年が指差したのは、咲月達のことを何も言わずに見つめ続けている縁之助達だった。出雲はそれを聞いて肩をすくめる。
「さあ? ここから出るか、それともここに居残って最期の時を迎えるかは彼等が決めることだ」
もっともらしい言葉であったが、結局の所彼等をどうするか考えるのが面倒なだけであるらしい。そもそも出雲にとっては彼等などどうでも良い存在、或いは自分を面倒事に巻き込んだ唾棄すべき輩なのである。そんな者達の進む道を考えてやる義理など彼にはなかった。
「もうこの空間は存在することが出来なくなるだろう。ここは元々女神の為に生まれた場所。彼女がいなくなれば存在する意味がなくなるから。今はかろうじて彼女の骸に残っている力がこの空間の存在を保っているが、もうそう長くはもたないだろう。ここに居れば空間の消滅ごと彼等は消える。だがかといって元の世界へ行ったところで彼等の居場所は無いし、向こう側の世界に全員を連れて行くのはかなり骨だし、絶対にそんな面倒なことしたくはないし」
紗久羅――ひいさまも、彼等をどうするべきか考えているらしい。人の世に最早彼等の居場所など無いことは彼女も察していた。だからといってここに残して消滅という道を辿らせてしまうことは、当然出来ないだろう。
「ひいさま」
ひいさまの思考を止めたのは、縁之助の声だった。彼と、他の者達は何かを決意したかのような表情で彼女を見つめていた。誰にも消すことは出来ないような、強い意思の炎が彼等の瞳の中で燃えている。
「ひいさま、我々はひいさまと共に参りたいと存じます」
ひいさまは目をぱちくりさせ、それから彼等の言いたいことを理解し悲鳴をあげた。彼女がその願いに対して何か言う前に、縁之助は再び口を開く。
「この空間の存在を保っているのは、あちらに御座すひいさまの……骸が持つ力。その力を浄化し、消し去れば主を失ったこの空間は消え……ここに残る我々の生も終わるでしょう。そうすれば、我々はひいさまと共に黄泉路を辿ることが出来ましょう」
つまり彼等は死を望んでいるのだ。全てを終らせ成仏する彼女と共に行く為に。ひいさまは震えながら辺りを見回す。縁之助の願いに異を唱える者は、少なくとも誰もいないようであった。
「何を馬鹿なことを……そんなこと、出来るわけがない。私はお前達の死など少しも望んではいない。その命尽きるまで、どこかで生きていて欲しいと願っている! 自ら死を望むなど」
「ですが、これが我々の願いなのです。ひいさまと離れ離れになって生き続けるよりも、ひいさまのお傍にいる為に逝く方が幸せなのです」
「私はお前達の心の中で永遠に生き続ける……どこにいてもお前達のことを見守っている、そう言ったはず。お前達の死は、私の本当の死に繋がる。お前達はそれを望むというの? 私の最期の望みを、私の死と向き合ってなお聞いてくれないというの?」
涙で潤む瞳で縁之助を睨みながらひいさまは訴える。だが心からの叫びも縁之助達の意思を変えるものにはならなかった。
「ひいさまのいらっしゃらない生に何の意味もございません。心の中で生き続けるなどという言葉は気休めにもなりません」
「……私の死を受け入れなかったがゆえに、多くの人間を不幸にしたことを後悔して……その償いの為、死を選ぶの?」
縁之助は全くそのようなことを言っていなかったが、それでもひいさまは聞いてみた。本当は罪の意識に苛まれ、その償いの為にこのような申し出をしているのなら、まだ説得しようがあると思ったのだろう。だが、彼の答えはひいさまの期待には応えてくれなかった。
「いえ。我々はそのことに対してはそれ程罪悪感を感じておりません。人間なんぞをひいさまにしようとし、彼女達をひいさまの聖域に置き、彼の場所を穢したことを、そしてひいさまの最期の願いを歪めてしまったことを後悔してはおりますが。ですが、そのことに対する後悔と我々の願いは全くの無関係であります」
紗久羅がひいさまに体を乗っ取られていなければ、今頃憤慨しふざけんなこの野郎と叫んでいたに違いない。彼等にとっては人間の死などどうでも良いのだ。価値観の違いゆえの、ずれ。ひいさまも何も言えなかった。怒り諭したところでその価値観を変えられるとは到底思えなかったからだろう。それに今は関係のないことなのだ……彼等が何に対して後悔しているかなどということは。
「ひいさま、どうか、どうか我々をお許しください。そして我々の我侭を受け入れてくださいませ。お願いいたします。思い出溢れるこの場所で死に、貴方様の下へ参ることをお許しくださいませ」
そのまま縁之助は平伏した。それに他の者達も続く。彼等の体から溢れ出ている、強い意志が咲月や他の者達の体を強く打つ。否、と相手に言わせぬものがそれにはあった。もう彼等を生ける屍などと呼ぶ事は出来なかった。
沈黙を先に破ったのは出雲だった。さっさとこの場を収めたいという気持ちもあったのだろう。
「最早、君が何を言っても無駄だね。自ら死を望むなど馬鹿のすることだと私は思うが」
そのことは、ひいさまも理解したらしい。手で顔を覆い、体を上下に揺らしながらすすり泣く。本当に悲しくなければ出ない涙が、指の間からすり抜け闇へ落ちていく。
「お前達は最後の最後まで……愚かな……私の思いなど考えてもくれずに……」
彼女は縁之助達を泣きながら罵り続ける。愛と悲しみの込められたそれは、聞いていた咲月や少年の涙を誘った。ひいさまの言葉に対して、縁之助達はひたすら感謝と謝罪の言葉を口にし続ける。
闇を、悲しみと喜びなど様々な感情が包み込み――見えぬ『生』と『心』の灯りが数百年振りに、沢山、灯った。
それから三人、咲月の『糸』が放置されている地点まで移動した。その間誰も喋ることはなかった。咲月は色々聞きたいことがあったが、とても聞ける空気ではなかったので、何も聞くことが出来なかった。よく分からないが、どの道自分は今回のことを忘れてしまうようだったし、それなら聞いてもあまり意味はないと思い、聞きたいという衝動を抑えることにした。
少年が、咲月の糸を結びなおしてやる。縁之助は困ったことに『断ち切る』力しか持っていなかった。つまり解くことは出来ても結ぶことは出来ないらしいのだ。それを知っていたからこそひいさまは、糸を結べる者の存在を求めていたのだ。糸はそう時間をかけずに結びなおされた。咲月はそれが結びなおされた瞬間、赤い糸を見た。ここへ連れてこられた時に見たものと同じ物を。しかし不思議とそれはすぐ見えなくなってしまった。本来これは目に見えるはずのないものであるようだ。見えたあの時が異常であったのだ。
これで、ここから去る準備は終わった。ひいさまはしばらく縁之助達がいる方向を見つめていた。ここで過ごした日々を思い返していたのかもしれない。
彼女の目から、再び涙が零れる。彼女はそれを拭うと、唇を噛み締め真っ直ぐと前を見た。その瞳からは、迷いが消えていた。
「……後悔はしないね?」
出雲が最後にそう言った。ひいさまが、こくりと頷く。
「もう、しない。彼等の願いを叶え、私も本来行くべき場所へ行く。……ここで無念の死を遂げた娘達も、共に。そして全てが終る。ようやく、終わる。本当にありがとう。感謝してもし尽くせない位」
「まあ、実際にあいつ等をどうにかしたのは君の魂の叫びだけれどね」
そう言いながら出雲は弓を手に取る。霊木で出来たそれは清浄な気を放っている。
「お兄ちゃん、随分似つかわしくないものを持っているんだね」
何気なしに言った少年に、出雲が弓を突きつける。
「今すぐお前を浄化してやろうか」
少年は全力で首を横に振る。出雲は弓で軽く彼の頭を小突くと、縁之助達がいる――ひいさまの骸がある方へ向けて、静かに弓を構えた。
美しき光の矢が、現われる。それは出雲の中に眠る桜の魂が生み出した浄化の光だ。ただそこにあるだけで、人々の中にある悪いもの全てを取り除くような、それどころか魂まで消し去ってしまうような、強くどこまでも清浄な光。
それを、彼はためらくことなく放った。その矢は真っ直ぐと飛んでいき……やがて遠くで、光の爆発が起きた。矢がひいさまの骸に当たったのだ。
目を思わず覆いたくなる程の光が、闇を包み込む。
その時、三人の目にある光景が映った。それは――この空間が幸せで満ち溢れていた頃のものであった。
まず、美しい屋敷が目の前に姿を現した。思いの外大きく、屋根は豪奢な飾りに彩られ、金銀きらきら輝いている。その輝きを受けるは黒い瓦。屋敷の中もまた豪勢で、夢の様な姿。
女達が機織機を動かして、反物を織っている。彼女達の顔に咲月は見覚えがあった。そう、見えぬ機織機で見えぬ布を織っていたあの女達だった。
その時とは大違いの、生き生きとした表情を彼女達は浮かべている。花の糸で花を折る女達の、花の顔。花、花、花。溢れる花が場を彩る。
眩く咲くは 姫が花
花と花 よれば 花々
愛しき姫へ 姫が糸
織れば 万の 花が咲く
折りし花が 織って花となる
嗚呼、女達が歌っている。花の声で、朗々と。織られていく『花』の何と美しいことか。流れる川、その中を泳ぎまわる魚、彼等と共に舞う花々や葉、生き生きと布の中を飛ぶ蝶は花の様な美しさ。降り注ぐ太陽の光――そんな美しい自然の風景が少しずつ、生まれていく。
映像は次々と切り替わっていった。
満月の下にある人の世にはない花で溢れた庭を、縁側から女達が眺めていた。中心にいるのは、豪奢な着物に身を包んだ美しいお姫様。月光の肌、艶々した烏の濡れ羽の髪――華やかな着物に決して負けていない、誰もが見惚れる容姿であった。間違いなく彼女がひいさまだろう。
ひいさまの周りにいる女達も、彼女程ではないにしても華やかで美しい。
ひいさまと女達は目の前の風景や、それを見ての自分達の心情などを歌に詠んだ。花が、花を詠んでいる。誰かが詠んだ歌を他の者達が評価する。彼女達はひいさまの歌に対しても正直な評価を下している様子だった。
歌を詠みながら、酒も飲んでいる。中にはべろべろに酔っている女もいて、彼女が変なことを言う度困った人、と他の者達が朗らかに笑う。ひいさまは他の誰よりも多く酒を飲んでいる様子だったが、酔っている様子は無い。
彼女達の後ろにある部屋で、縁之助と老爺が将棋を指している。それを子供や女達が見ていて、あれやこれやと言っている。
「あ、縁之助が負ける。負ける」
「縁之助、負けだねこれじゃあ。ああ、また負けているよ」
「これ、うるさいぞお前達」
今にも負けそうな自分を笑う子供達をたしなめる。怒っているような顔だったが、声を聞く限り本当に怒っているわけではないようだ。そうこうしている内に王手をかけられた彼は身を小さくしながら「参りました」と言う。それを聞いて子供達が縁之助を囃したて、ええいこのガキ共と彼は彼等を追い掛け回そうとするが長い間正座をしていたせいか、上手いこと動けない様子。それを見てますます大笑いする子供達だった。
子供の笑い声は屋敷中に響いている。追いかけっこをする子供達。一人の子供が盛大にこけ、声を張り上げて泣き出した。そんな子供を立たせたのはひいさまで、彼女が「ほら、泣かないで」と優しく言いながら頭を撫でてやると、その子はすぐ泣きやみ笑顔になって、再び鬼から逃げるべく駆けだした。
かくれんぼをしている子供達もいる。皆屋敷にある様々なものの中や隙間等に隠れ、息をひそめている。
その内の――大きなつづらの中に隠れていた少年が鬼に見つかった。
「ああ、もう見つかっちゃった」
「だってお前はいつもそこに隠れているんだもの」
鬼はそう言って笑った。見つかった少年は頬をまるで風船のように膨らませ、いじけながらつづらから出る。
ぽおん、ぽおん、屋敷を飛び交う鞠。空を飛び、跳ね回り、くるくる回る、鳥や花、蝶、草木、幾何学的な模様。世界の一部を閉じ込めた鞠の何と鮮やかで可憐なことか。そしてそれらで遊ぶ少年少女達の顔の何と楽しそうなことか。
一人の少女が、鞠をつき損ねて転がしてしまった。その少女は咲月に見えぬ鞠を取ってくれと言った子だった。鞠に描かれた椿がころころと音を立てながら床の上を転がっていく。赤い光が弧を描き、辿り着いた先にはひいさまが。
「ひいさま、その鞠とって、とって」
ひいさまはそれを屈んで取ると、少女の方へ放った。ふわりと放られたそれを少女が受け止め、ありがとうと満面の笑みでひいさまに礼を言う。
笑い声とわらべ歌、手毬歌。響いて鞠に『生』を与える。
物語を子供達に話して聞かせてやるひいさま、その体をますます美しく輝かせる為、池を泳ぐ魚達に花の蜜で作った餌をやる縁之助、特別な宴の為に久しぶりに作ったご馳走をつまみ食いした瞬間を見られ、怒られる女。舞う女達、彼女達を輪で囲みながら歌う人達――あらゆる光景が次々と、ほんの僅かな時間の間に現れては消え、消えては現われる。
もう二度と訪れない、美しい記憶。彼等が正気と引き換えてまでしがみついていたかったもの。きっとこれはひいさまの骸が抱いていたもので、それが浄化の瞬間外へと溢れ……こうして咲月達の目に映っているのだろう。
光と色と笑顔で満ち溢れていたこの空間も、もうすぐ消える。何百年もの間闇に侵されていたけれど、最後の一瞬、元の光をこの世界は取り戻した。
咲月は熱いものがこみ上げてくるのを感じる。熱くて、痛くて、とても切ないものが……やがて涙となって、外へと出た。
――ありがとう……さようなら――
この空間から去る瞬間、咲月は縁之助やひいさまのそんな声を聞いたような気がした。そして直後、少年が咲月とこの空間や縁之助達、そしてひいさまを繋げる『糸』を……解いた。
眩い光に少しの間意識を奪われていた咲月が目を覚ますと、そこは闇の中でも、素晴らしい屋敷の中でもなく木々に囲まれた社の前だった。その社に咲月は見覚えがなかった。しばらくして、ああここがひいさまの社なのかと理解した。してから、ひいさまとは果たして誰だろうと首を傾げる。
咲月のすぐ傍には見るも美しい男と、着物を来た可愛らしい少年――そして、自分と同い年位の少女がいた。
その少女は空を見上げながらぼうっとしており、咲月の存在にも気がついていないようだった。そんな彼女の姿を見た咲月の口から、自然とある名前が零れる。
「紗久羅……」
少女は気がつかない。だがもう一度咲月が、先程よりも大きな声で言うと少女は……紗久羅ははっとした顔になり、咲月の方を見た。彼女は最初驚いたような表情を浮かべていたが、やがてそれは喜びの笑みへと変わっていく。
「咲月! あたしのこと思い出したのか!」
紗久羅が咲月の手を取る。さっきもそんな風に彼女に手を握られたような気がしたが、何かが違うような気もした。
「ひいさまも紗久羅の体から無事抜けていったようだね。良かった良かった」
出雲が腕を組みながらうんうん頷く。紗久羅はああそうか、と呟く。
「そういえばあたし、ひいさまにとり憑かれていたんだっけ」
「その間に起きたことは話した方が良いかい?」
「いや、大丈夫だ。体の自由がきかなかっただけで、あそこで起きていたことの殆どは把握出来ている。お前がこの坊主をいじめまくっていたこともちゃんとな」
「そんなことしたっけ?」
「思いっきりしていただろうが! 何が頭撫でられて羨ましい、だよ気持ち悪い。この変態野郎め!」
頭を撫でられたいと思うだけで変態扱いされるなんて酷いなあ、と言いつつ彼の表情は満足気であった。
「いやあ、元に戻ってくれて良かったよ、本当に!」
そう言って彼は無防備だった紗久羅をぎゅうっと抱きしめる。抱きしめられた紗久羅は赤面し、この野郎放しやがれと暴れる。そして彼が離れた途端、強烈なキックをお見舞いするのだった。
「うん、やっぱり紗久羅はこうでなくちゃ」
そう言いつつ蹴られた所を押さえ悶絶している彼を咲月は心配し、それから紗久羅の方を見て。
「もう駄目でしょう、紗久羅。すぐ手や足が出るのは貴方の悪い癖ね」
紗久羅はそれを聞いて笑った。何で笑うのと言ったら「嬉しいから」とだけ言う。どうしてこんなこと言われて嬉しがるのかいまいち分からず、咲月は首を傾げる。分からなかったが、どういうわけか咲月も嬉しくなった。嬉しくなって、笑って、そして、泣いた。嬉しくて、嬉しくて、泣いた。そんな咲月の頭を紗久羅がよしよしと撫でてくれる。
そんな風に最近自分の頭を撫でてくれた人がいたような気がしたが、ついに思い出すことは出来なかった。それがまたどうしようもなく悲しくて、切なくて、涙が止まらない。
ただ、その人とは二度と会えないことだけは何となく分かった。
「さて、そろそろ帰ろう。こんな所にずっと居ても仕方無いし。私は早く家に帰ってのんびりしたいよ」
「あのう紗久羅、この方はどなた? もしかして紗久羅の……」
「恋人だよ」
「嘘をつくな、嘘をこのど阿呆が!」
紗久羅の叫び声が静謐に揺らぐ木々の葉を、やかましくざわつかせるのだった。
*
紗久羅達は社を後にし、電車へ乗る。少年とは社で別れた。彼は当分真実誰もいなくなった社でしばらく過ごすそうだ。出雲は気まぐれに「向こう側の世界へ帰してやろうか」と言ったが、彼はそれを断った。この世界はこの世界でなかなか面白いし、また偶然境界を飛び越える日が来るまではここで生きようと思うと言った。そんな少年に紗久羅は改めて今日はありがとうと礼を言い、別れた。
出雲は相変わらず電車内では死人同然で、心身共に疲れているらしい咲月もぐったりしていた。紗久羅だけは元気であったが、二人共まともに会話できる状態ではなかったから、あくびをしたり、うとうとしたりしながら、今回の出来事を思い返す。
初詣の最中姿を消した咲月、彼女のことを忘れてしまった自分達、糸を結ぶ力を持つ少年、自分にとり憑いた本物のひいさま、彼女の死を受け入れられず狂っていった眷属達、最後に見た彼等がかつて過ごした幸せの日々、思い出の詰まったあの空間ごと消えることを望んだ彼等――。
縁之助達のしたことは許されることではないと紗久羅は思う。一方で彼等を哀れに思う気持ちもあった。
そんな彼等が最期に望んだこと。その願いは果たして正しいものだったのか。
ひいさまの分までどこかで生き続けるべきではなかったのだろうか、後を追うことが幸せなんて、死ぬことが幸せであるなんて、そんなのおかしくはないだろうかという気持ちが紗久羅の中に残る。
(全く気持ちが分からないって訳じゃないけれど。ひいさまは結局彼等の意思を汲んで、その願いを叶えてやったけれど、でも本当は嫌だったろうなあ)
自分の手のひらをじっと見つめる。今度は手首をひねって手の甲をじいっと見つめた。今は自分の体は自分の意思で自由に動かせるし、自分の言いたいことを言いたい時に言える。だが、とり憑かれていた時はそうはいかなかった。
自分が自分で無くなる感覚は、思い出しただけでもぞっとするようなものであった。出来れば二度とあんな目には遭いたくないと思う。
その感覚を咲月も別の形で味わったのだ。あらゆる繋がりを断ち切られ、自分というものを見失い、少しずつ『ひいさま』になっていく――そんな恐怖を彼女はこの数日間味わい続けていたのだ。
そんな彼女を、何もかも手遅れになる前にどうにかすることが出来た。
(結局今回もあたしだけの力じゃどうしようもなかったけれど、それでも咲月を連れ戻すことが出来て、本当に良かった)
自分の肩に体を預け、すうすう寝息をたてている咲月を見やり、微笑む。縁之助達との、そしてあの空間との繋がりを断ち切った彼女は少しずつ今回の出来事を忘れていくだろう。念の為、出雲は咲月に暗示をかけた。彼女の記憶を奥底に沈める為のものを。自分の声、話し方などで人に暗示をかけることを彼は得意とするようだ。もっともまともに効くのは人間位であるようだが。その力を使って悪さも散々したんだろうと言っても出雲は笑うだけで、問いに答えようとしない。いや、その笑みこそ答えであったのかもしれない。
本当良い性格しているよと小声で悪態をつきながら、ため息。
それから電車の天井を見つめ、微笑んだ。
(まあ、何にせよ……本当に良かったよ。柚季にも後で今回のことを話そうかな。きっと柚季は咲月のことを忘れていたことさえ忘れているだろうけれど)
座りながらぐっと伸びをすると、何だか気分もすっきりした。こんな気分で今こうして帰路につけていることを本当に嬉しく思う。
若干後味は悪かったものの無事に咲月を取り戻せたことに喜びを感じていた紗久羅は、すっかり忘れていた。
『ひいさま』を探していた縁之助に「ひいさまならあそこにいる」と言って、咲月を指差した者がいたことを。
そのことを思い出すことの無いまま、三人は帰ってきた。駅の前には咲月を迎えに来た車があった。咲月の家の電話番号を知っていた紗久羅が連絡をして迎えに来させたのだ。今の咲月はどう考えても自力で家に帰ることなど出来ないから。咲月を迎えに来た男は、咲月を車に乗せると、紗久羅と出雲にも車に乗るよう言った。どうやら送ってくれるらしい。紗久羅は遠慮なく乗り、出雲は明らかに嫌そうな表情を浮かべつつ渋々乗った。
男は振袖を着た咲月とどこへ行ったのか紗久羅に尋ねてきた。
「初詣には確か一日に行かれましたよね? 本日はどうでしたっけ……いつもなら、咲月お嬢様がどこへどのような用事で外出していらっしゃるのか大体把握しているのですが、妙なことに今日のことはさっぱり……それに気のせいでしょうか……ここ数日お嬢様を家の中でお見かけした覚えがないのです」
紗久羅はどう説明しようか迷ったが、そんな彼女よりも出雲の方が余程行動を起こすのが早かった。彼は色々なことを言って上手いこと男を納得させてしまった。どんな言い訳をしたのかはあまり覚えていない。彼の声を聞いている最中、ずっと頭がぼうっとしていたのだ。出雲が何かしらの力を用いたのかもしれない。
男は紗久羅と出雲を商店街の近くで降ろし、軽く礼を言うと立ち去った。
出雲は紗久羅に、自分が弥助などよりもずっと頼りになる男であることを、紗久羅が「分かった分かった、分かったからもう黙れ、帰れ、今日は本当にありがとうございました!」と投げやり気味に言うまでしつこく主張し、それから「ああ疲れた」と言って満月館へと帰っていった。
紗久羅も家へと帰っていく。改めて今日のことを思い返しながら。