ひいさまは社へ帰る(9)
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それからどの程度の時間歩き続けただろうか。暗闇の中では距離や時間の感覚がいとも簡単に狂わされることを、出雲達は身をもって知ることとなる。
永遠とも呼べる時をひらすら歩き続けた気もするが、実際はそれほどの時間は経っていないかもしれない。
出雲の目には見えないが、咲月とあらゆるものを結んでいた『糸』が、三人の進む方向を指し示すかのように、闇に覆われた地面を這っているらしい。だがその糸はある地点で途切れたようだ。
「多分ここで咲月ってお姉ちゃんは糸を解かれたんだと思う。お姉ちゃんを本来の世界へ引き戻す為、異界の者にしない為にこの糸はお姉ちゃんの体を引きとめたんだ。けれど、糸は解かれてしまった。お姉ちゃんを元の世界に留める力は失われてしまった」
紗久羅にしがみつきながら、おっかなびっくり前へ進んでいた少年は、糸の終着点らしき場所を指差す。出雲は目をこらしてみたが、矢張りそれを視認することは出来なかった。
こんな少年に出来て私に出来ないなんて、こんな屈辱的なことはないと歯軋りする。少年はその音にびくりとしながらも話を続ける。
「まだとりあえず糸は残っているけれど、大分薄くなっている。完全に消えてなくなっちゃったらもうどうしようもなくなっちゃう」
「そうかい。それじゃあさっさと済ませよう。何言っても聞かなかったら、燃やしてでも連れ戻してやる」
「燃やすって何を」
「決まっているじゃないか。ここに住んでいる馬鹿共だよ」
けろっとした顔で彼は言う。紗久羅がそんな彼に抗議するかのようにむっとした表情を向ける。出雲はくつくつ笑い「冗談だよ」と言ったが、その声には誠意も真実も含まれていない。
やがて、闇の先に光が見えた。その光はここに住む者達の体が放っているものだった。出雲達が姿を見せると、普段は死人の様な顔をしている彼等も流石に驚きと困惑の表情を浮かべ、その場で凍りついた。小さな悲鳴をあげる子供も中にはいた。
だが、いつまでもそうして黙っている彼等ではなかった。一人の男が出雲達の前に立ちふさがる。
「おのれ物の怪、どこから入ってきたは知らぬが早々に立ち去れい」
「立ち去れと言われて、ああはい分かりましたと立ち去る阿呆がどこにいる。少なくともここにはいないよ」
「何をしに来た」
「まさかひいさまを」
「ひいさまに何かするつもりでは」
「恐ろしや、恐ろしや」
「ひいさまをお守りしなくては」
口々に言い出した彼等は一斉に襲いかかってきた。出雲は面倒臭いと言いつつ、いつの間にか手に持っていた桜の花が描かれた金の扇を紗久羅と少年の頭上にやり、すうっと動かす。すると二人の周りに攻撃から身を守る為の結界が張られた。
今度は、自分達に向かってくる者達の方を向いてさっと扇を振る。すると目に見えない力が、彼等を軽く吹き飛ばした。
彼等は、そして騒ぎを聞いて駆けつけた者達は何度も何度も出雲達の足を止めようと攻撃を仕掛けてくる。その度出雲は扇を動かし、彼等を退ける。
その動きはまるで舞を舞っているように優雅で、人を攻撃しているものとは到底思えないものであった。風に吹かれて舞い散る花びらのように手首を動かし、花畑の中を飛び交う蝶の様に扇がひらひらと彼の手中で踊る。彼が今の姿ではなく普段の着物姿であったなら、もっと美しく艶やかなものに見えたであろう。
華麗な足さばきで描かれた円が力を生み、自身に向かってくる者を弾き返す。
手を返せば風が生まれ、髪がなびけば力の塊が彼らの体を打ち、軽く飛びながらくるりと回れば甘い香りが漂い、戦う意思をくじく。
暗闇に突如開いた美しき悪の花、他の花々を散らしながら、世界を侵す。
咲き染む花さえ恥らう舞姫の如き動きで、出雲は進む。彼等が気の塊を飛ばしてきても、体当たりしてきても、実体を持っている調度品の一つである包丁を手に向かってきても顔色一つ変えはしない。紗久羅に「必要以上に傷つけてはいけない」と念を押されている為、相手には大してダメージを与えていない。
出雲の力で吹き飛ばされたり、弾かれたりし何度倒れても、彼等はしつこく向かってくる。紗久羅の言うことを無視して、彼等を二度と起き上がれなくしてしまおうかとも思ったが、今の彼女の言うことを無視することは出来なかった。気まぐれで人の言うことなどまず聞かない出雲も、今の彼女に抗うことは出来ないのだった。それ程までに強い何かを彼女はもっている。
彼等は、結界で守られている二人も執拗に狙った。だが何度その結界を破ろうとしても無駄で、それはびくともしない。彼等は紗久羅ではなく、少年の方に向かって重点的に攻撃をした。もしかしたら本能的に感じ取っているのかもしれなかった。……紗久羅の中にいる者を。
「全く、どいつもこいつも死人の様じゃないか。まあこんな所にいれば誰だってそうなるか」
ひいさまを守ろうという気持ちは強かったが、そんな気持ちだけでは出雲のことをどうにかすることは出来ない。出雲と彼等の間には圧倒的な力の差があった。出雲が少しだけ本気を出さないと退けられない者もいたが、それでも矢張り脅威とは呼べぬ位のものではあった。
そうして進む内、あっという間に出雲達は『ひいさま』の部屋まで辿り着いた。
青白い光に包まれた、畳。その周りを覆う薄布、背後に置かれている几帳。
その小さな『部屋』には一人の少女がいた。その少女は畳の上に体を横たえていた。眠っているのか、気絶しているのか、それとも死んでいるのか。遠目で判断することは困難であった。
さて、さっさと助けるとしようかと歩を進めた出雲達を、後から追ってきたここの住人達がさっと取り囲んだ。皆息を切らし、髪を振り乱し、出雲を睨んでいる。中には血を流している者もいた。あっという間にこの場に恐らくここに住む者達全員が集合した。ぱっと見百人前後はいる。
出雲の行く手を阻む集団、その先頭に立ち、出雲達を睨んでいる老爺が一人。
上品な顔つきの、いかにも育ちの良さそうなその男。
「縁之助……」
紗久羅が小声で呟く。彼女の言う通り、その男は縁之助という名前であった。
「一体どうやってこの聖域に入ってきた。汚らわしい物の怪共」
彼は多分、怒っている。だがその瞳にも声にもまるで感情らしいものがこもっていない。人形がぱくぱくと口を開け閉めし、与えられた言葉を何も考えず、ただ口にしているだけのように見えた。
「ふん、私なんかより今のお前達の方が余程汚らわしいような気がするがね。血と怨嗟と罪に塗れた哀れな者達。元は精霊だったようだが、今じゃ影も形もありはしない。……で、ああそうか。どうやってここに来たかと聞いたね確か。はは、答えは簡単だよ。私達はここに招かれたんだ。そうでもしなければ今の私達ではここに入ることなど出来ない」
縁之助が戸惑いの表情を浮かべる。
「まさか……そんなこと、あるはずがない。貴様らなんぞを招き入れるような者などいるはずがない」
「いるんだな、これが。いるから私達は今ここにいるんだ」
「誰だ、誰がそのような愚かな真似を……」
「お前達のひいさまだよ」
勝ち誇ったかのような笑みを浮かべて出雲は言った。彼等はどよめきながら一斉に咲月のいる場所へと目を向けた。それを見て出雲は笑う。彼等を嘲る笑い声が闇に響き、溶けて消えていく。
「そっちじゃないよ。そこにいる少女にはそんなことなど逆立ちしても出来やしない。だって、そこにいる娘はただの人間なのだから。彼女はひいさまなどでは決してない」
そんなことがあるはずはない、我々が人間とひいさまを間違えることなどない、あそこに御座すのはひいさま本人だと彼等は口々に言った。
縁之助が彼等の言葉を制し、それから出雲を睨めつける。
「戯けたことを。ひいさまを侮辱することは我々が許さん!」
「侮辱? はは、お前達に言われたくはないな。ひいさまの願いを踏みにじり、数々の間違いを犯し続けているお前達には」
「間違い? 何を言っているのだ貴様は。我々がいつ、一体どのような過ちを犯したというのか」
とりあえず縁之助は出雲の言い分を聞くことにしたらしい。今にも出雲に飛び掛っていきそうな者達をなだめ、少し待つように目で訴えた。その瞳にはやや『生』『感情』と呼ばれるものが戻っていた。
「……お前達は一人の女神の眷属。かつては人の世を、彼女と共に旅していた。何故そのような旅を始めたのか、そもそも自分は何者であるのか女神自身ももう覚えてはいないようだが。兎に角長い間延々と旅を続けていた」
そのことを縁之助は否定しなかった。むしろ何故その様なことを知っているのかと微かに驚きの入り混じった表情さえ浮かべていた。
直後、畳に体を横たえていた咲月が目を覚まし、体をゆっくりと起こした。
彼女は大勢の人がここに集合していることに驚いたのか「きゃっ」という声をあげる。一体何事かと出雲や縁之助に向かって問うてきたが、それに答える者は誰もいなかった。仕方なく彼女もまた出雲の話を聞くことにしたらしく、体を震わせながらも大人しくした。
「長い旅の末、女神とお前達はある土地へとやって来た。その土地では大変困った事態が起きていた。どこからか鬼の大群がやって来て、邪悪な力を用いあらゆる災いを振りまいた。それを見た女神は自身の力を以って鬼達を浄化し、そして彼等のまいた災いを出来るだけ取り払った。そこに住んでいた者達は女神に感謝し、どうかこの地に腰を下ろし、これからも我々を見守っていてくださいとお願いした。女神は旅で疲れていることもあり、彼等の願いを受け入れた。村人達は真心を込めて、女神達の為に社を作った。……ここまでは間違いないだろう?」
縁之助は歯軋りしながらも頷いた。出雲は勝ち誇ったように笑い、また話を続ける。
「彼等がこの地に女神の住居となる社を建てたことで、その社に重なった場所に空間が生まれた。それは女神とその眷属であるお前達の為のもの。女神はここに大きく立派な屋敷を作り、生活に必要なあらゆる物を生み出した。勿論旅をしている時に持ち歩いていた調度品諸々も屋敷へ置いた」
その他に女神――すなわち『ひいさま』は人の世にはない花が咲き乱れる庭や、魚の泳ぎまわる池も作り上げ、元いた世界にあった空や月、太陽などもその場に再現した。
「女神に与えられた、女神の為の場所だからこそ意のままに色々と作り変えることが出来た。そしてこの空間は女神やお前達にとっての楽園となり、日々幸せに過ごした」
「過ごした、ではない。過ごしているのだ」
そう言った彼の声には覇気がまるで無い。自信のなさが現れているのか、はたまたそういった声を出す程のものがもう彼の体には残されていないからなのか。出雲は彼の言葉を無視して更に口を開く。
「ところが数百年前。主である女神――ひいさまが倒れてしまった。この土地にいた鬼と対峙した際に彼女の体内に入り込んだ邪悪な気が少しずつ、本人も気がつかないまま肉体を侵食していた。そして倒れた時には何もかもが手遅れだった。彼女は強い力をもっていたが、不死身ではなかった。そしてとうとうひいさまは……」
「違う! ひいさまは死んでなどいない! ひいさまは、ひいさまはそちらにいらっしゃるではないか。ひいさまは死なない。死ぬはずがない。ひいさま自身がそうおっしゃったのだ」
出雲の言葉の続きを縁之助が遮る。周りにいた者達もそうだ、そうだと縁之助に同意する。心からそう思っているのだろうが、生気が感じられないせいか矢張りどこか嘘くさく感じられた。
「そう、確かにひいさまはそう言った。私は死なない、と。だがその言葉には続きがあった。その続きこそ、彼女が本当にお前達に伝えたいことであった。……だがお前達は女神が……ひいさまが死んだことを認めたくなかった。その現実を受け入れることが出来なかった」
彼女は外の世界へ行き、縁之助達の前から姿を消したわけではない。この空間、この屋敷の中で皆に看取られて亡くなったのだ。
縁之助が何か言うのを遮るように、出雲はまくしたてる。
「だからお前達は、私は死なないという言葉だけを受け止めた。しかも本当の意味を捻じ曲げた上で。ひいさまは死なない、彼女は死ぬことがない。だから、だからお前達の目の前にあったひいさまの『骸』は最早『ひいさま』ではなくなった。そして『ひいさま』はお前達の前から『姿を消し』た!」
あれ、ひいさまの姿が。先刻まで確かにこちらに……ひいさま、ひいさま?
どこへ行かれたのだ、ひいさま。ひいさま、ひいさま?
あれ、ここにあるのは何だろう。
はて、何だろう。けれどここにあるということは、ひいさまの持ち物であるに違いない。
先程までは無かったような気もするが、きっとそうなのだろう。ひいさまの物は大切に扱わなければ。あちらに片付けておこう。
それにしても、ひいさまはどこへ行かれたのだろう。
ひいさま、ひいさま、ひいさま。
「死んだひいさまはひいさまではなくなった。ひいさまは死なない、死んだ者はひいさまではない。生きているひいさまは、死なないひいさまはお前達の前から姿を消した。ひいさまはどこだ、どこだ、お前達はひいさまの姿を求め、外の世界へと出て行った。そして手頃な人間の娘を『ひいさま』と無理矢理思い込み、この空間へと無理矢理連れて行った。黒髪の、着物を着た美しく若い女性をお前達は次々と『ひいさま』に仕立て上げた」
咲月もまた、そういう経緯で連れてこられたのだ。
「お前達は着物を着ている、いかにもお姫様らしい者しか眼中になかったようだね。最近じゃなかなか着物を着て歩く人にはお目にかかれない。だが正月や成人式、卒業式のある時期は別だ。……恐らくそういう時期に連れて行かれた娘は多かっただろう。しかし人間はいずれ死ぬ。こんな所に連れてこられたら余計その死期は早まるだろう」
この空間にあった屋敷や庭はひいさまの力によって作られたもの。それらはひいさまの死をキッカケに徐々に消えていき、やがてここは生まれた時の状態に戻ってしまった。ここに今あるのは、旅をしている時代に持ち歩いていたもの、ひいさまの死後外の世界の材料を使って作られたもの、そしてひいさまの部屋の一部のみ。
「お前達の目には昔と変わらぬ風景が広がっているのだろうがね。お前達は過去の思い出にしがみつき、ありもしないものをあると思い込み続けた。だが連れ去られた娘達には当然そのようなものは見えない。彼女達の目の前には闇が広がるばかり。そんな所に連れてこられ、ひいさまの死を認めたくないがばかりに狂っていったお前達と共に過ごす羽目になり、しかも元の世界との繋がりを断ち切られ、自分が誰なのか分からなくなっていく。……きっと彼女達はあっという間に狂い、そして闇に全て飲み込まれたまま逝っただろう。死んだ娘は『ひいさま』ではなくなる。ああまたひいさまがいなくなった、探さなければとお前達はまた新たな娘を探し出し、連れ去る。それを延々と繰り返したんだ」
真実を突きつけられた縁之助は明らかに動揺していた。だが彼は出雲が突きつけた真実を受け入れようとしない。
「違う、違う、ひいさまは死なない、ひいさまは生きている……いい加減なことを言うな、ここには以前と変わらぬ風景が広がっている。我々はひいさまと共に今日まで生きているのだ、そうだ、ひいさまは死なない、死なない……」
「まだそんなことを言っているのか、頑固な奴等だ」
出雲はそう言うと、縁之助の方へ向かって歩き出した。出雲は縁之助の横を通り過ぎ、人々の輪を押しのけ、ひたすら前へ進む。目指すは咲月のいる、畳と薄布、几帳で構成された場所。縁之助達はそれを阻止しようとするが、出雲の放つ「動くな」オーラに気圧され、動くことが出来ない。
すたすた歩いた出雲はあっという間に咲月が座っている畳に足をつけた。
だが彼は咲月には目もくれず、部屋の奥にある几帳に手をかける。それを見た瞬間咲月が悲鳴をあげた。
「駄目、そこを開けては駄目です、駄目……!」
出雲は咲月を見る。彼女は真っ青な顔を出雲へと向けていた。その体は可哀想に、ぶるぶると震えていた。それを見て出雲は察する。
「ああ、君、ここの奥に何があるのか見てしまったのか。そりゃあ可哀想に。しかしここを開けて、あいつらに現実を突きつけてやらなくちゃ話が進まないものだからね、見たくなければ目を瞑っていればいい。まあ、見せてもあの馬鹿共はすぐには受け入れようとしないだろうがね」
淡々と、業務連絡でもするかのようにそう言うと出雲は几帳を持つ手に力を込める。直後、几帳が――消えた。開けたのではなく、消えた。
咲月は思わず目を逸らした。逆に縁之助達は、消えた几帳の奥にあったものを、見た。
そこには多くの人骨があった。一つや二つではない。百とまではいかないが、それなりの数はある。綺麗に置かれた人骨……その更に奥に、青白い光を放つ何かが鎮座していた。
それもまた、骨であった。とても古い骨だ。
「……ひいさまの骨だ」
「違う、それはひいさまではない、ひいさまは死んでなどいない……それはひいさまの持ち物だ、何かの遊びにお使いになっていたのだ、きっと……」
「骨を? ひいさまが? お前達、辻褄を合わせたいが為になかなか失礼なことをいうね。骨を玩具にするなんて、本当にひいさまがすると思っているのだとしたら、かなり酷いね。彼女を侮辱している。これはひいさまだ、邪気に体を蝕まれていった哀れなひいさまの成れの果てだ。この骨が放ち続けている力をお前達も感じるだろう? この力が誰のものであるか、お前達はよく知っているはずだ。よもや知らぬとは言わせないよ」
一斉に呻き声があがりだす。崩れいく幻想になおしがみつこうと醜く足掻く者達の哀れな声が、闇を震わせる。
「ひいさまは死なない、死なないのだ……そうひいさまはおっしゃった」
「ああ、確かにおっしゃっていた」
「ひいさまは死なないわ」
「ひいさまは死なない。死ぬはずがない」
「ひいさま」
「ひいさま」
「ひいさまがそうおっしゃっていたのだから、間違いない。ひいさまは死なないんだ」
口々に彼等は言う。死人同然の彼等が徐々に生気を、そして戸惑いという感情を取り戻し始めている。彼等は口にすることで「ひいさまは死なない」という虚偽の真実を確かなものにしようとしていた。
「違う!」
そんな彼等を黙らせたのは、ある者の叫ぶ声だった。皆してその声のした方を向く。
そこには両手を握りしめ、震えている紗久羅がいた。
「私は確かに死なないと言った。でもその後に私はその言葉が意味していることをちゃんと、言った。その言葉こそが、本当にお前達に伝えたかった言葉」
「私、だと……何を言っているのだ小娘」
縁之助が尋ねる。その声は気のせいか震えていた。紗久羅もまた体の震えが止まらないらしい。
しばし両者向き合い、無言になる。その静寂を打ち破ったのは出雲である。
「そこにいる少女……紗久羅の体に今憑いている者こそが、本物のひいさまだ。私は彼女から真実を聞いた」
悲鳴が、あがる。皆俄かには信じられないといった風な表情を見せた。
紗久羅は震えを止めようと深呼吸し、それから自身の周りを取り囲んでいる者達の顔を眺め、最後に縁之助を見た。そして彼の顔を正面から見据えながら、語る。
「私は死なないとお前達に言った。そしてその後」
「言うな、違う、そうじゃない……言うな……!」
「私は言った……」
死なない……私は死なないよ。私はお前達の前からいなくなりなどしない。
だって、だって私は……私は。
「お前達の心の中で、思い出の中でずっと生き続けるのだから……と」
縁之助が目を大きく見開き、それから絶叫し、その場にしゃがみ込む。他の者達も、その言葉に反応を示した。中には泣き出す者もいた。
「私はお前達の中で生き続ける。だからお前達は、私の分までどうか、生きてと。お前達の生は私の生であると。この空間は私の死後、元の姿に戻ってしまう。それどころか、私が死ねばここは存在価値を失い消滅するだろう。だから再び旅をするなりなんなりして、新たな居場所を探してくれと。私はお前達がどこにいても見守り続けるよと……そしてそれを伝えた直後、私は死んだ」
だが縁之助達はその願いを受け入れなかった。そればかりか彼女の言葉を捻じ曲げて受け取り、ひいさまの骸を彼女の部屋の奥に片付けると、いなくなった『ひいさま』を探しに外の世界へ行ってしまった。そして哀れな娘を一人連れてきて、ひいさまに仕立てあげようとした。
「人々が幽霊と呼ぶような存在になった私は、ここへ連れてこられた娘達をどうにかして救おうとした。けれど、出来なかった。連れ去られた娘を、元の世界に帰すことはかろうじて出来た。……けれど、連れ去られた娘の殆どは縁之助に糸を切られていたから……元いた世界との繋がりを失っていた。そんな彼女達にとっては元の世界も、この空間も同じようなものだった。でも私には糸を結ぶ力も、解く力も無い。元の世界に帰しても、繋がりを全て失った娘は幸せにはならなかった。皆狂って……哀れな最期を皆迎えた。私はお前達にこのようなことはもうやめるよう、必死に訴えた。けれど、私の死から目を背けていたお前達は誰一人として私の声を聞いてはくれなかった」
縁之助達に自分の死を認めさせなければ、悲劇はいつまでも繰り返される。
ひいさまは時に自分の声を聞き、更に彼等を止めることが出来るだけの力を持つ人間を探すこともあったようだ(といっても社周辺のごく限られた範囲しか動けなかったようだが)。だが、そんな都合の良い人間はいつになっても現れなかった。
「そうこうしている間にも、犠牲者はどんどん増えていった。もうこれ以上犠牲者を増やしたくはなかった。それに……今この空間は、私の骸に残っている力でかろうじて存在を保っている。けれど、その力だっていつまでも残っているわけではない。あれが消えればこの空間も消える。私はお前達が過ちを犯し続けたまま……私の言葉を捻じ曲げて受け取ったまま死ぬことを何としてでも避けたかった。そんな時、そちらにいる咲月という娘を探しにやってきた者達が社の前に姿を現した。強い力を持った我々と同じ人ならざる者と、糸を結ぶ力を持つ少年の妖。私はこれはまたとない好機であり、これを逃したら次は無いと思った」
ひいさまは出雲と確実に会話をする為に紗久羅にとり憑いた。向こう側の世界と深い関わりをもち、また咲月を助けたいというひいさまと同じ思いを抱いていた紗久羅には簡単にとり憑けたという。
縁之助が頭を抱えて唸る。
「そんな、違う、ひいさまは……ひいさまは……それに、あの人間も言っていた。ひいさまならそこにいるじゃないかと言って、彼女を、ひいさまを、指差した」
そう言って縁之助は体の向きを変え、咲月をちらりと見る。
「何だ、それは」
「ここの近くにある大きな社でひいさまを探していた私に、一人の人間が言ったのだ。その者が女であったか男であったか、どんな容貌をしていたかはちゃんと見ていないから分からないが。兎に角その者は、彼女を、指差して」
「……その者が何を意図してそのようなことをお前に言ったのかは分からない。けれどお願い、私の心からの言葉を聞いて。私を、見て。私に気づいて……もう私は一人寂しく彷徨う者ではいたくないの」
縁之助を始めとした女神の眷属達は幻想と現実の狭間で揺れていた。
彼等は紗久羅の中にいる、ひいさまの魂を感じ取っているらしかった。その魂から、彼等は目を背けることができなかった。だがその魂と正面から向き合うということは、彼女の死を受け入れるということだった。
呻き声が、悲痛な声が、溢れる。
「……私は死んだ。受け入れて、どうか。思い出して、お願い。私の最期を、どうか。私の大切な者達よ、私の事を本当に大切に思うなら……目を背けないで」
その心からの言葉が、魂の叫びが、とうとう……何百年もの間彼等の世界を侵していた幻想を、打ち壊した。
彼等は七転八倒しながらも、ついに受け入れたのだ。現実を。そして思い出したのだ、本物のひいさまの最期を。
長い戦いだった。だが終わりは悲しい程あっけないものであった。