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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
ひいさまは社へ帰る
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ひいさまは社へ帰る(8)

 あれ、ひいさまの姿が。先刻まで確かにこちらに……ひいさま、ひいさま?

 どこへ行かれたのだ、ひいさま。ひいさま、ひいさま?


 あれ、ここにあるのは何だろう。

 はて、何だろう。けれどここにあるということは、ひいさまの持ち物であるに違いない。

 先程までは無かったような気もするが、きっとそうなのだろう。ひいさまの物は大切に扱わなければ。あちらに片付けておこう。

 

 それにしても、ひいさまはどこへ行かれたのだろう。

 ひいさま、ひいさま、ひいさま。


 一体どれ位の時間泣いただろうか、咲月は涙を拭いながら、思う。

 何度もこすったまぶたはすっかり腫れて、指で触れると、それが拭った涙が沁みて痛い。きっと今鏡を見たら、とても酷いことになっているだろうと思ったらますます気分が沈んだ。

 ここへ連れてこられてからしばらくの間は泣いたり喚きたくなったりする衝動を理性で抑え、必死に我慢していたが、あの、几帳の奥から吹いてきた、不思議な風を体に受けた時に感じた恐怖や悲しみに涙を流して以来、ことあるごとに泣くようになってしまった。抑えが効かなくなってしまったのだ。みっともなく大声をあげ、暴れまわりながら泣くということは流石になかったが。


 本来彼女は泣き虫な性格などではない。どうしても辛い時は誰も見ていない所で泣くが、その数もさほど多くはない。彼女は余程のことでない限りはじっと耐え忍び、内に秘めた悲しみも苦しみもまず外へ吐き出そうとしない人であった。そんな性分の彼女を難儀な性格だと評した人がかつていたような気がした。その人は感情豊かでよく笑い、よく怒り、自分の気持ちをひた隠しにすることは殆ど無く、色々な点で自分とは正反対な人物だったような記憶が微かにある。だが、その人の顔や声、自分との関係性は全くといっていいほど思い出せず、ふとした瞬間に思い出しても、その名を口に出そうとした時にはもう忘れてしまっている。その人と同じような性格の人も自分の傍にいたような気がしたが、矢張りはっきりと思い出せない。


 泣けば楽になる……その言葉は時に嘘となることを、咲月は身を以って知ることとなる。泣いても泣いても、体内から湧き水の如く湧いてくる恐怖や不安等の負の感情が消えることはない。むしろその湧き方は激しくなるばかりで、心や体という名の堰を壊して滅茶苦茶にしてしまいそうになる。

 決して楽にはなれないが、それでも全く泣かなかった時に比べればまだましかもしれなかった。

 

(泣くことで私は確かめているのかもしれない。私と、ここに住む人達が違うことを。私には感情がある……亡霊のような彼等とは違うことを。自分が生きていること、咲月としての人生を放棄してなどいないことを)

 しかし一方で自分がまた一歩『ひいさま』へと近づいてしまったことも理解していた。

 

(理性などでは泣きたくなる衝動を抑えることが出来なくなるところまできてしまった。きっとこのままここに居続けたら、私は大声で喚くことも厭わなくなるだろう。それでも泣いたり、喚いたり出来ている内はまだ良い)

 咲月は自分の指を見つめる。それは自身の流した涙で濡れていた。


(これは私の内から湧いてきた感情が形になったもの。今は後から後からこれが湧いてきて、涙となって出続けている。けれどこれさえ出なくなったら。……それは私の内にある感情が枯れてしまった証拠。その時私は本当に駄目になってしまう)

 その日が来るのはそう遠い未来のことではない。その現実から目を背けたくても、背けられない。背けさせてくれるだけのものがここには存在しないのだ。

 つづらから出しっぱなしにしていたお手玉を何気なく手に取る。小さく可憐な花の模様の描かれた、青い布で作られたものと、赤と桃色の布を縫い合わせて作ったもの等。咲月が今着ている着物程でないが、とても鮮やかで、色彩と呼べるものが殆どないこの世界では本当に美しく見える。


 それをぽおん、ぽおんと投げては受け取り、また投げては受け取る。色鮮やかな線が円を描き、ぐる、ぐる、ぐる。

 童歌か何か歌いながらやろうかと思ったが、お手玉をやりながら歌うようなものが思い浮かばず、結局無言になる。ただぽさ、ぱさ、ぽた、ぽた、という音だけが響き渡る。


 それをしばらく続けてから咲月は眠りについた。眠くはなかったが、無理矢理目を閉じ、今いる世界を自分から遠ざけようと必死になりながら。


 咲月は夢を見た。誰かが歌いながらお手玉で遊んでいる夢だ。自分が身につけているものと同じ着物を着ているようだった。どう見てもかつらではない、美しい黒髪が畳みに広がっている。こちらに背を向けているから、顔までは見えない。

 美しい歌声が、お手玉を美しく、それでいて愉快に踊らせる。まるでお手玉が生きているかのように咲月には見えた。彼女はその女性の声に聞き覚えがあった。だがいつどこで聞いた、誰の声かまでは思い出せない。


 その美しい女性の周りには子供達が座っている。皆生き生きした表情をしていて、きゃっきゃと言いながらくるくる踊り続けるお手玉を見つめていた。

 幸せそうな光景だった。随分長い間見ていないものを見た気がして、胸が温かくなるのを感じる。だが一方で、その胸をちくちく突き刺す何かがあった。

 何故こんな痛みが。自分がそんな光景とはかけ離れた場所に今いるからか、それとももっと別の理由があるのか。


――ねえねえ、もっと早くやって――


――こら、そんな口きくんじゃないぞ――


――いいのよ。それじゃあ今度はもっと早くやってみせよう。ほら、ご覧――


 子供達と、その女性が楽しそうに喋っている。

 その声も、映像も段々と遠ざかっていって、消えてなくなった。


 それからまた時間が流れる。数時間か数日か、数年か、もう今の咲月には全く分からなかったが。

 気分は晴れず、重くなる一方だった。その重みが重みを呼び、徐々に感情が動かなくなっていくのを感じる。闇が、心を押し潰し自由を奪う。

 幾度か出される食事も喉を通らない。体が食物を必要としていない。闇が、沈んだ心が胃を潰しているのもあるが、この料理一つ一つがどこからか盗んだもので出来ているという事実を知った今、気持ちよく食べることが出来なかった。生きる為に食べねばならないと口に入れても味を感じないし、罪悪感で涙が出そうになる。


 住人達は相も変わらず死人のようであった。笑わないし、顔を真っ赤にして怒ることもないし、涙を流すことも無い。喋り方は淡々としていて、感情や生を感じない、抑揚のないもの。彼等の声を聞く度、魂ががりがりと削られる思いがした。


 全く動かずに過ごすのは辛いと、闇の中を歩くことがある。その行く先々で住人達が毎日を過ごす様子を見かけることがあった。その様子がまた狂気に満ち溢れていて、うっかり目にするとこちらまでおかしくなってしまうようなものであった。


 闇の中、数人の女がずらりと並んで座っている。彼女達自身は椅子か何かに座っている『つもり』らしい。両手をせわしなく動かしながら、何か歌っている。


 マバユクサクハ ヒメガハナ

 ハナトハナ ヨレバ ハナバナ

 イトシキヒメヘ ヒメガイト

 オレバ マンノ ハナガサク

 オリシハナガ オッテハナトナル

 

 まるで機械が歌っているかのようなものだ。その歌い方にぞくっとする。

 それでも勇気を出して何をしているのかと問えば、皆「何をおっしゃっているんだこの方は」という風な顔になり、矢張り抑揚の無い声で「織物を」とだけ言った。


「ひいさまに、新しい着物を献上いたしたく。泡沫(ほうまつ)()、螺旋草、銀鈴(ぎんれい)(ばな)、夕空、詩吟(しぎん)(ばな)等で作った糸で、まだほんの少ししか出来ておりませんが……」

 女の一人が、空を指差す。きっと彼女には美しい布が見えているのだろう。


「人の世で咲いている花で織ったものよりも、ひいさまがお咲かせになった花で織ったものの方がずっと美しいですわ」

 今度は、咲月が身につけている着物を指差す。どうやらこの着物は外の世界で咲いていた花を使って作られたものであるらしい。この着物が目に見えている意味がよく分かった。


「ひいさまの為、必ず素晴らしいものをお織りいたしましょう」

 そして彼女達は再び、織り始める。目に見えぬ機織機を用い、目に見えぬ花を使って作った目に見えぬ糸で。生気のない歌を歌いながら。

 聞こえぬはずの、織る音が聞こえてくるような気がした咲月は耳を塞ぎながらその場を後にする。幻の音が、心を乱していく。


 小さな子供が数人、手や足を忙しなく動かしている。彼等はどうやら鞠で遊んでいるらしかったが、肝心の鞠は見えない。見えぬ鞠を、反対側にいる子供に放り投げている子もいた。皆、顔が笑っていない。

 おかっぱの、きっと笑えば可愛らしいだろう少女が見えぬ鞠をついている。

 暗い、暗い地面をじいっと見つめ、抑揚のない声で歌いながら。ふとその子の動きが止まった。そして、自分の目の前にいた咲月の方を見た。


「鞠……転がっちゃった……ひいさま、とって、とって」

 どうやら鞠は咲月の方へ転がっていったらしい。しかし咲月には鞠が見えない。だが、少女は『ひいさま』が鞠を取ってくれるのを待っている。仕方なく咲月はその場に四苦八苦しながらしゃがみ込み、鞠を取るフリをした。


「ほ、ほら……鞠よ」

 少女は咲月を見る。それから首を傾げて、ぽつり呟く。少しだけ、悲しそうに。


「ひいさま、鞠はそこにないよ……鞠はそっちに転がったんだよ」

 

「ご、ごめんなさい、そうだったわね……」

 咲月はまた鞠を取るフリをする。けれど矢張りそこにも鞠はなかったようだ。

 見えない鞠を、見えるフリをして何度も何度もとろうとする内目頭が熱くなっていく。


 そんな彼女を少女はじっと見ている。他の子供達は咲月には目もくれず遊び続けている。彼等の歌う声が混ざり合う、見えない鞠をつき、見えない鞠を投げ、見えない鞠を追いかけっこをしながら取り合っている。笑い声一つあげずに。

 かくれんぼをしている子供達もいる。身を小さくし、息をひそめて座っている子供がいる。その姿は咲月には丸見えだったが、鬼であるらしい子供には見えていないらしい。


「ひいさま、鞠、とってくれないの?」

 少女の声が、今の咲月にはとても恐ろしく聞こえた。子供の皮を被った鬼が喋っている――そんな錯覚に襲われる。


「ご、ごめんなさいね」

 それだけ、たったそれだけしか彼女に言うことが出来なかった。声一つあげずに鬼ごっこをしている子供達の横を通り過ぎ、何一つ見えない道具を使っておままごとをしている少女達のいる部屋を通り過ぎ、何度もつまずきそうになりながら、走って走って、何度も闇に呑まれそうになりながらも、走って走って、走って、走った。


 その場からどうにか逃れた咲月だったが、彼等の狂気から逃げおおせたわけではない。

 一人の女が、咲月を庭へと誘う。咲月は仕方なく彼女の誘いに乗ったが、行き着いた先には矢張り何も無い。女は闇をぼんやり見つめながら、歌を詠んだ。

 きっとその歌は目の前に広がっている(少なくとも彼女には見えているのだろう)風景を詠んだものなのだろうと咲月は思った。美しい歌であった。だが、その風景を見ることが出来ない咲月が聞いてもむなしくなるだけで。


「さあさあ、今度はひいさまがお詠みくださいませ。久しぶりにひいさまの歌を聞きとうございます」

 そう言われてもと咲月は戸惑う。せめて目の前に何かがあれば、上手くなくても何かしら詠めただろうが……。


「ごめんなさい。今日は気分が優れないの」

 そう言うと女は微かに残念そうな表情を見せたが、文句を言うことはなかった。しばらくして近くにいた別の女達を呼び、交互に歌を詠んだり、広大な庭を満たしているらしい花々について話したりしている。そして時々、咲月に話しかけるのだった。


「ひいさま、(こい)知花(しりばな)が恋の色に染まっています。昨日までは真っ白でしたのに。恋を知って、桃色に染まりました」


「私、ひいさまが私の為に花冠を作ってくださったことを今でも覚えております。あの七色の冠は一生の宝でございます。ひいさまは覚えていらっしゃいますか?」


 咲月達の背後では、縁之助と彼と同じ年頃に見える老爺が、静かに将棋を指している。ただし将棋盤も駒も存在していない。時々女は二人の対戦の様子を眺め、咲月にも見るよう勧める。そしてどちらが勝ちそうですか、と問うのだった。問われても答えることなど出来ない咲月は、ただ曖昧に笑うばかり。勝負をしている当人達は、彼女達の声には耳も貸さない。興味がないのか、本当に聞こえていないのか判別はつかなかった。


 月見に誘われたこともあった。


「今宵は一段と月が美しいこと。きっと月もひいさまがこちらへお戻りになったことを喜んでいるのです」

 皆して同じ方向に目を向ける。そこにはきっと美しい銀色の、或いは金色の月が浮かんでいるのだろう。そしてその周りでは、金銀の星が瞬いているに違いない。咲月は何も浮かんでいない闇を見つめながら、元の世界で見ていただろう夜空のことを思い浮かべようとする。けれど、上手く浮かんでこない。あまりに濃すぎる闇は、想像の月さえ隠す。


 一人の女が咲月に杯を持たせる。彼女が手に持っているとっくりの中には恐らく酒が入っているらしい。


「花酒です、どうぞ」


「待って。私はお酒なんて」


「何をおっしゃっているのです。誰よりもひいさまはお強いでしょう? 私なんて、この酒など一杯飲んだら倒れてしまいます」

 女がとっくりを傾ける。だが、そこからは何も出てこなかった。目に見えぬ花等で作った酒は、矢張り咲月の目には映らない。女は無言でささ、どうぞと語ってくる。咲月は仕方なく杯に口をつける。矢張り杯には何も入っておらず、何の味もしなかったし、彼女の口を濡らすことはなかった。

 次から次へと女は咲月の杯に、花酒をついでいく。その度咲月はそれを飲むフリをしなくてはいけなかった。流石ひいさま、すばらしい飲みっぷりですと周りにいた者達が声をあげる。勿論、無表情で。

 静かな狂気に蝕まれていく、まるで地獄の様な月見という名の酒宴。殆ど声や音の聞こえない、宴という言葉とは程遠い、もの。


 そんな彼等に囲まれて過ごす日々が、咲月を狂わせていく。段々と泣くことさえ出来なくなっていき、闇に押し潰された体は言うことを聞かなくなっていく。

 何も無い日々、何も訪れない日々は、彼女から恐怖や不安に涙するだけの気力さえ奪っていく。少しずつ、じわじわと、だが、確実に。


 ここではない、自分の本当の居場所のことを思い出そうとしても、思い出せない。その度合いは段々と酷くなってきている。

 自分のいた世界のことが分からなくなっていくのと同時に、自分が何者であるかということも分からなくなってきていた。


(私はどんな人間だっただろう。どんな友達がいただろう。そもそも友達はいたのだろうか。両親はどんな人だった? 私を産んでくれた人は、私を育ててくれた人はどんな人だった? 私はいつもどんな風に過ごしていただろう、私が住んでいたのはどんな所だった? 分からない、嗚呼、どうして……それとも私は彼等が言う通り、ここのひいさまだったのかしら。私がそれを忘れているだけで、本当の居場所なんて……ここ以外には無かったのだろうか。ううん、そんなことはない、そんなはずは)


 自分はひいさまではない、自分はここの住人ではない。そのことさえ声を大にして言うことが出来なくなってきていた。

 それでもまだ、かろうじて「自分はひいさまなのでは?」という思いを否定するだけの余力は残っている。まだ、認めてはいない。だがいつまでも否定し続けることが出来るかといえば……。


 認めたら楽になる。認めるということは、狂うということ。狂えば何も苦しむことはない。彼等の狂気に恐怖を感じることもなくなる。それは今の咲月にとって、魅力的なことではあった。そちらの道へ足を踏み入れそうに幾度となくなりながらも、かろうじて踏みとどまる。それが出来るのはいつまでのことか。きっともう長くはもたない。その事実が咲月をより深い闇へと突き落としていくのだった。


(私はひいさまではない。それならば、本物のひいさまはどこへ行ってしまったのだろう。自分のことを慕っている人達を置いて出ていっていくような、心無い人であるとはどうしても思えない。それとも何か特別な事情があって……?)

 理由は分からない。だが、今本物のひいさまはこの場にいないということだけは事実であった。

 咲月はそんなひいさまのことを恨めしく思う。彼女が彼等の前から姿を消したせいで、自分はこんな目に遭っているのだと。


(きっとここにいる人達は、本物のひいさまが自分達の前から姿を消してしまったことを、認めたくないんだ。だから他の誰かをひいさまに仕立て上げて……私の前にも同じようにここへ連れてこられた人がきっといる。でもその人達は本当にどこへ)

 ここへ来てから何度もそのことを考えた。だが恐ろしい考えが浮かぶ度、それ以上考えることをやめるのだった。

 ふと背後から視線を感じ、咲月は心臓が凍りつくのを感じた。

 そこには几帳があり、青白い光がその隙間から漏れている。咲月は幾度となくその几帳をめくり、奥に広がる空間に何があるのか見たくなる衝動に駆られた。だがその度、思いとどまってきていた。


(見てはいけない、きっとあそこは見てはいけない……)

 生き物としての勘も何度もそう告げている。しかし見てはいけない、見てはいけないと思えば思うほど見たくなるのは人の性。開けるなと言われれば開け、見るなと言えば見る。その結果恐ろしい目に遭うという物語が数多く世の中には存在している。

 咲月の体が、几帳のある方へと吸い寄せられていく。もう色々な行動を自制するだけの力も今の彼女にはあまり残されていないのだ。


 ひやりとする几帳に手を静かにやり、そしてごくりと唾を飲み込む。


(この奥に、真実が隠されているような気がしてならない。その真実は見るべきものではないのかもしれない。それでも……もう我慢出来ない)

 意を決し、とうとう彼女は几帳をめくった。


 ここと同様、広がる闇がそこにある。だがその闇は青白い光によって照らされている。その光は奥に置かれている何かが発しているものらしかった。

 その周辺には沢山の何かが散らばっていた。思いの外眩しい光に、闇に慣れた咲月の目が悲鳴をあげ、始めの内はそれが何であるのか確認することさえ出来なかった。それでもしばらくしてようやく目が慣れ、青白い光に照らされていた何かの正体を判別するに至る。

 至っては、いけなかったのだが。


 それが何であるのか……理解した咲月は目を見開いた。心臓が、時が止まる。

 悲鳴さえあげられぬまま、救いを求めるように光を発する何かの方へ目を向けた。だがその何かもまた救いにはならなかった。周りに散らばっているものも、光を発しているものも、同じものであったから。『それ』が本来発するはずのない光を発している分、周りにあるものよりかえって恐ろしく見える始末。

 再び、あの強い風が吹いた。その風が小刻みに震えている咲月の華奢な体を激しく叩く。

 同時に、咲月の頭に様々な女性の声が響き渡る。


――助けて、助けて、帰りたいよう――


――暗いよ、ねえ、暗いよ……――


――私はひいさまじゃない、そんなものじゃない、それじゃあ私は誰? 誰だろう、誰でもないのかな、あは、あはは、ははっ……――


――ひいさまは私よ、お前は偽物だ、この偽物め死んでしまえ――


――可哀想に、貴方も私達と同じようになるんだ……――


――逃げて、ここから、逃げて――


――死んじゃえ、死んじゃえ、あんただけ救われるなんて絶対に許さない――


――ここはどこ、私は誰? どうして私はこんな所にいるの――


――怖いよ、怖いよ、怖いよ、怖いよ、こわ、こわい、こ、怖い、怖いよう!――


――助けてよ、助けてよ、ねえ、貴方、助けて!――


――死にたくない……こんな所で……――


 あの風は、几帳の奥にいた『彼女達』の思いだったのだ。強く激しい恨み、悲しみ、恐怖、怒り……。

 それらの感情を一身に受けた咲月は、今度こそ今まであげたことのない位大きな声で悲鳴をあげた。


 意識が途切れ、ばたりと倒れる。

 倒れる瞬間「貴方を絶対に『ひいさま』になどさせない……今度こそは」という声を聞いた気がした.。


 出雲と少年、そして紗久羅。三人は闇の中に、いた。不思議と自分達の姿は光を帯びていたからはっきりと目で見ることが出来るが、それ以外に見えるものはなく、本当に一切の闇が広がっていた。


 少年はこの空間に入るなり悲鳴をあげ、怖い怖いと言い出す。うるさいと出雲に言われてもなお怖い怖いと言い続け、終いに泣きだしそうになったので、紗久羅以上に短気である出雲に頬をつねられる羽目に。

 出雲につねられた頬をさする少年の体は震えっぱなしだ。


「うう、暗いよ何も見えないよ、怖いよ……」


「おや、お前の足元に蛇がいる」

 

「え!? う、嘘言わないでよお兄ちゃん。何にもいないよ俺の足元には」

 彼の言葉にびくつきながらも言い返した少年に、出雲は笑みを向けた。闇よりもなお暗く邪悪な笑みだった。

 出雲は少年の足元を静かに指差す。


「おや、お前には見えないのかい? とても大きな蛇で、お前の方をじいっと見つめているよ。ああきっと毒があるだろうねえ、とても毒々しい色の牙をもっているから。あ、お前の右足を今舐めた」

 あまりに本当らしく言うので、少年はとうとう耐えられなくなったのか、大声で叫んでしまった。右足をぶんぶん振って叫びながら泣いている。

 それを見た出雲は大喜び、鼻で笑い。


「冗談だよ。こんな嘘を信じてしまうなんて、馬鹿な奴」

 足をぶんぶん激しく振り続ける中、バランスを崩して尻餅をついてしまった少年は、酷いよお兄ちゃんと彼に抗議をしたが出雲は聞く耳持たず。彼にダメージを与えられるような言葉を知らない少年は、悔しいやら泣きたいやら。

 そんな少年の隣にいた紗久羅は静かにしゃがむと、ぽろぽろと涙を流している少年の頭を優しく撫でてやる。


「泣かないで。ほら立って、先へ進みましょう……ね?」

 お姉ちゃん、と見上げる少年に紗久羅は微笑みかけた。普段の彼女には絶対出来ないような、穏やかで柔らかなものであった。

 その笑みに勇気つけられ、立ち上がった少年を待ち受けていたのは出雲の手だった。出雲はその手で彼の頭をむんずと掴むと、無言でぎりぎりと彼の頭を締めつけた。再び少年の口から飛び出る悲鳴。


「痛い痛い痛い、何するのお兄ちゃん!」


「うるさい、チビ! 私だって紗久羅に頭撫でられたことなんてないのに、羨ましい!」


「ヤキモチ!? ちょっと、お兄ちゃん、痛いよ怖いよやめてよ!」

 泣き虫な少年よりある意味では子供っぽい出雲だった。そんな彼を止めたのは紗久羅で、彼女は少年の頭を掴んでいる出雲の右手に、自分の手をのせた。そして上目遣いで出雲を見ながら、ゆっくりと首を横に振る。


「暴力はいけない。そういうことをしては駄目」

 あくまで優しく静かに彼女は言った。その声に混じっている、自分の言葉に従わせる力と、普段の紗久羅とのあまりに大きすぎるギャップに出雲は押され、仕方なく少年の頭から手を離す。それを見た紗久羅は微かに笑むと、彼の頭を軽く撫でた。

 撫でられた出雲はどう反応していいのか分からなくなり、ああもう、と一言言うとその場にしゃがみ込む。


「どうにも調子が狂うよ、全く……私の為にも、早くこの事態を上手いこと収めて、紗久羅を『返して』もらわないと」

 それにしても、と出雲は改めて自分達がいまいる空間を見渡す。先へ進めばまだ色々あるのだろうが、現在地には呆れるほど何も無い。


「本当に真っ暗闇だねえ……」


「お兄ちゃんこういう処ものすごく好きっぽいよね」

 紗久羅に慰められて、出雲にいじめられたこともけろりと忘れた少年は何気なしに言い、再び出雲に睨まれる。嗚呼再び黙りこくり、ぶるぶる震えるその様はまさに蛇に睨まれた蛙。いやもう蛙よりもか弱き存在に見える。それこそ二人の間には鬼とたにし程の差が見受けられた。

 出雲はゆっくりと立ち上がる。


「ふん、幾ら私だってこんな何にも無い場所好きになれないよ。物も光も音も存在しない世界にずっといて、狂わずにいられる者なんてまずいない。ま、真っ白な世界よりはずっとましだけれどね。そんな世界に放りこまれたら、今頃私は死んでいたかもしれない」


「心が黒いから、真っ白な世界が嫌いなんだ……」


「お前は生きたいの、それとも逝きたいの、息絶えたいの?」

 静かに呟いたその言葉に少年は黙りこくる。出雲はこの少年はやた吉に似ているなと思った。何度痛い目をみても、余計な一言を何の考えもなしにぽろっと零してしまう辺りが。

 紗久羅――といっても今はいつもの紗久羅とは違う――が傍にいてじっとこちらを見ていなければ、今頃少年の髪の毛を全部燃やしてつるっぱげにしてしまうこと位はしていたかもしれないと出雲は思うのだった。


「ま、こんな所に長居していても仕方が無い。選択肢を誤り続けた愚かで哀れな者共からお姫様を救い出してさっさと帰るとしようか」

 その言葉を聞いた紗久羅が静かに頷き、歩き始める。彼女を先頭にして出雲と少年もまた歩き出した。


 道標一つろくにない暗闇の世界を、迷うことなく突き進む。

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